私も大きくなる前は、このへんでは「小漁(こりょう)」っていうんだけども、沿岸でアワビ獲ったりウニ獲ったり、あといろんな漁、延縄(はえなわ)やったり、ある程度成人してから、カツオ船さ、乗ったんだわ。カツオ釣り。神奈川県のむこう、最初は三崎、あと静岡の焼津(やいず)まで行きましたね。
なにかね、家が貧しくなければ、なんとか別な方に向いたんだけども、なんか親が子だくさんの貧乏家庭だから、「学校卒業したら、早く船さ乗せなくてはワカンねえ(だめだ)」っていうような、そんな恰好で、尋常小学校を卒業したらすぐ、15歳でカツオ船に乗ったんだね。やっぱり家が貧しい、今だら(だったら)いろんな制度もあるから、生活が苦しくたって、自分の進みたいところさ、進めばいいんだどけっども、その頃は生活すんのにやっとだから、親たちも「なに、早く学校卒業して、船さやればすぐにお金入ってくる」というような恰好だからね。私たちも自分なりに、「学校卒業したら海さ出るんだ、男は」と、そういう頭だったから。
だから、卒業してすぐ漁に行った子が学校の先生さ、「先生、このぐらい(給料)取って来たぞ」という額が、先生の1年間の月給より高かった。そういう時代だから。
「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ
投稿日:2012.01.06
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