文字サイズ |
私たちの当時の結婚式は、公民館結婚式というのが流行しました。
公民館で人前結婚式をして、そのまま披露宴をするんです、結構広いので。披露宴の料理は仕出し屋さんが来て用意するのがセットになっていたと思います。高島田でお色直しは1回ぐらいしたかな。
後は各家にほんとに近い人とか、親しい人がそこ終わってから家に読んでドンチャン騒ぎ(笑)。今と同じですよ。
相手は二つ年下でした。年中いないから(都合がいい)って、船に乗ってる人をすすめてくれて。マグロの遠洋漁業をしてる人で、6カ月帰ってこなかったから、非常に自分としては暮らしやすい人でした。給料だけは送ってくるしね(笑)。
結婚した人は漁師だね。支那事変(日中戦争の勃発)があって、昭和12(1937)年から戦争が始まったの。その頃は召集令状なんて、そんなに来なかったのね。昭和18~19(1943~4)年の頃は、男の人はみな召集令で戦争に行ったんだよね。私が昭和18(1943)年の春に嫁に行ってからすぐだけど、おじいさん(ご主人)も招集されて中国に渡りました。
おじいさん(ご主人)とはお見合いも、どうもこうもないの。結婚が決まった時には、どんな人だかもわかんないの。この人は船に乗って沖に行って、いなかったんたんだな。結婚が決まってから、結婚式まで、相手に会ったことなかったの。本当だよ、あんたたち笑うけど。親が決めんだもの。そんで、「いらね(いやだ)」って言ったらば怒られるしさ(笑)。親は怖いし、「どこさ出やれ(どこかへ出て行け)」と言われても行くとこもないし(笑)。
結婚式で会った時にはどうもこうも思わないね。前から顔だけは知ってたの。家が遠くでないからね。その前にちょっとは見かけたことはあったけど。話はしたことないよ。話は全然しないよ(爆笑)。好きも嫌いもなんとも思わない。仕方ないからねぇ。年が10も違ったのよ。だからさ、時代だのなんだのも違うしさ、合わないの。そんなに違うのを知らないで、嫁に行ったのよ。結婚前は相手が若く見えたんだ。あれ、そんなに違うなんてわかんねかったんだね。
結婚式は、着物で、つのかくしもして、支度はみんな家でやったの。黒い紋つきの着物でね、その頃は記念写真も何もないの。
今思えばね、ほんとに、子どもだったのね。あんたがただって、こういう方と結婚したいっていろいろあるわけでしょう。今のように公務員のところにお嫁に行きたいとか、こういう職業を持った人と結婚したいとか、そんなことはわからなかったの。私は、こんな風に思って暮らしたの。私、牡蠣、大好きでね。いっぱい食べられる舞根(もうね)にお嫁に行きたい、ってそんなこと思ったのね。舞根に行ったら牡蠣いっぱい食べられるな、舞根にお嫁に行きたいな、って思ったのね。
で、あるときに「ワカメの芯抜き」って、ワカメをいっぱい重ねて、芯を抜く作業があったんですよ。10人くらい並んで作業するんです。舞根から来たお嫁さんが来てて、その人とお話したいと思ってたんです。でも、なかなかできなくて、その日ついに隣に来たんです。
いろんな話をしていると、「今頃なあ、おらの母ちゃん、牡蠣剥きにいったべなあ。朝、お婆さんに『いつまで寝てるんだ! みんな船乗って牡蠣剥きにいったんでねえか。早く起きろ!』って2時に起こされるんだ」「ええ~。夜中の2時に?」「うん、2時に。起こされて牡蠣剥きに行くんだ」「この寒いのに?」「んん、この寒いのに2時に行くんだ」それ聞いたとたん「ああ、舞根に行かなくてよかったぁ」って(笑)。とても2時に起こされても勤まんなかった。
お嫁に行ったのは戦後、21歳の時でしたが、その頃も食べ物はあんまりなかったね。でも実家では田んぼもあったから、親はよそに嫁に行った私を案じたって。「私らはこうして食べるべなあ、小鯖さ嫁に行った娘は、何食べさせられっぺなあ、心配したぞう」って。親だもんね。でも、私は「ここでは、こういうもんだ」と思って暮らしたのね。「実家さ行って食べたい」なんて思わないよね。あきらめたのね。
「かてごはん」を食べるからすぐお腹がすくのね。もうすこし食べたいと思ったってざくざく、ざくざくというご飯だものさ、10人で食べるんだもの。もっと食べたいと思ったってもう、鍋にない。
あんなの食べれば、今頃スマートなのさな(笑)。今は気ままして食べ放題。息子が来るたびね、「あんた、また太って。ここ(急な坂)上がったり下がったりできなくなったら、わがんねよ(仕方ないよ)」「なんにも、そんなに太んねえ」「なに? その姿見らい(見てみなさい)。でぐでぐでぐでぐ・・また太ったか」なんて(笑)。怒られっぱなしです。手伝ってもらうから「はいはい」って言うのさ。アハハハ。
Please use the navigation to move within this section.