東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

自分史

波静か ~われは海の子~
畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]

「ささよ」と畠山吉雄さん ~まえがきにかえて~

南三陸の歌津町に行ったことのある人なら「ささよ」のことを耳にしたことがあるだろう。郷土色豊かな響きを持つこの催しは、歌津町の漁村・寄木浜(よりきはま)に250年の伝統を持つ小正月の行事で、大漁と航海の安全を祈願して行われる伝統の子どものお祭りだ。現在は新暦の1月15日に行われるが、昔は旧暦の正月の満月の日に合わせて行われていた。そこで子どもたちによって歌われる「大漁唄い込み」の囃(はやし)ことばから「ささよ」という名称が付けられた。

子どもたちは揃いの青い法被(はっぴ)を身にまとい、大漁旗を持った一番年長の子ども(大将)を先頭に部落へと繰り出し、各戸の庭先で大漁を祈願して唄い込む。家々では神棚に供えておいたご祝儀が振舞われ、お神酒が旗竿の根元に注がれると歌いこみの声は一段と高くなる。頂いたご祝儀は、大将が最後に皆に分配する。この分配は船頭が船子に漁獲高を分けるまねごとで、こうした習慣を身につけながら大人への仲間入りをしていく。

畠山吉雄さんはこの「ささよ」の保存に長年力を尽くしてこられた。寄木の歩く歴史教科書といっても過言ではない。海に生きる生活が産湯を浴びた時から肌身にしみて知っている。海に生き、海に生かされる一生だ。だから海の子どもを育てる「ささよ」の行事は子どもの数が少なくなろうと、その灯を消すことはできない。吉雄さんは時に謡(うたい)で、時に筆を取り、有形無形の形で寄木の伝統文化を私たちに伝えてくださる。その素朴な人柄ににじむ寄木のあたたかな文化を、この自分史を読む方すべてに知っていただければ幸いである。

2013年6月吉日

RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同

畠山吉雄

[第1章]海を一生の仕事として寄木生まれ

私は昭和2(1927)年11月20日に、ここ寄木(よりき)に生まれました。おんなじ日に、誕生日に結婚したんです。50年も60年も、一生忘れないでね。誕生日には、ばあちゃんにプレゼントすんのさ。結婚記念日だから。

畠山吉雄

鳴子温泉に行って手をつないで帰ってきたり、
相合傘をしながら歩くこともあるというおしどり夫婦。

男5人に女5人、10人きょうだいの長男です。うまくつくったもんだな(笑)。きょうだいで新年会、未だにやってんだけども、小さい頃に5歳と3歳で2人亡くなって。一昨年までは8人健在でいたんだけども、次の弟が亡くなって、現在は7人。

10人きょうだいって驚くけど、その頃にはね、6人ぐらいが一番少ないほうで、8人、10人、13人ぐらいまで産んだ人もいる。だから「ささよ」にも、ひとつの家でも小学校から中学までの子どもが、4人(よったり)、5人(ごにん)とあったとこもあるから、最低でも20人ぐらいはあったんだね(子どもの祭である「ささよ」は後述される通り、寄木部落に住む小学生と中学生の子どもに参加資格がある)。今ぜんぶの家合わせても、子どもが5人しかいないけっども。私の家で、弟と4人くらいで「ささよ」さ参加したことがある。

長男だから下のきょうだいの面倒は見たし、漁師だった親父は私が35歳の時に亡くなったから、あと私が親代わりに、きょうだいをよそさ嫁にやったり、嫁さんを取ってやったりしたの。だから、半分、5人ぐらいは兄であっても私のことを親というような気持ちを持ってんだね。「いつまでも長生きしてくれろ」って。

私も大きくなる前は、このへんでは「小漁(こりょう)」っていうんだけども、沿岸でアワビ獲ったりウニ獲ったり、あといろんな漁、延縄(はえなわ)やったり、ある程度成人してから、カツオ船さ、乗ったんだわ。カツオ釣り。神奈川県のむこう、最初は三崎、あと静岡の焼津(やいず)まで行きましたね。

なにかね、家が貧しくなければ、なんとか別な方に向いたんだけども、なんか親が子だくさんの貧乏家庭だから、「学校卒業したら、早く船さ乗せなくてはワカンねえ(だめだ)」っていうような、そんな恰好で、尋常小学校を卒業したらすぐ、15歳でカツオ船に乗ったんだね。やっぱり家が貧しい、今だら(だったら)いろんな制度もあるから、生活が苦しくたって、自分の進みたいところさ、進めばいいんだどけっども、その頃は生活すんのにやっとだから、親たちも「なに、早く学校卒業して、船さやればすぐにお金入ってくる」というような恰好だからね。私たちも自分なりに、「学校卒業したら海さ出るんだ、男は」と、そういう頭だったから。

この辺りは昭和30年代に生まれた世代まで、進学と就職が半分半分の割合だったという。進学する子どもはやがて役場職員や教師など地元で就職した。高度経済成長期を背景にした、都会への集団就職のほか、サケ・マスなどの北洋船に乗る漁師になる子どもも多かった。そういう子どもたちは、卒業式に出ないで漁に出た者、卒業式に出てもすぐ次の日に出た者など大人社会への旅立ちが早かった。そのかわり、夏に北洋船で漁から帰ってきた子どもは家が1軒建つほどの収入を得て戻ってきた。

だから、卒業してすぐ漁に行った子が学校の先生さ、「先生、このぐらい(給料)取って来たぞ」という額が、先生の1年間の月給より高かった。そういう時代だから。

ま、その頃の親たちはいくら子どもを産んでもいいんだ。男の子さえ生めば、最初はボロ着せたって、ただ学校さやっても、卒業さえすれば、金が後でいっぱい入ってくるっていうことだからね。私と兄弟3人、サケ・マス漁さ行ってた頃には、家さ帰ってくると、銀行さんが入れ代わり立ち代わり来て、「まだ(漁で稼いだ金は)入んねえべか、入んねえべか」って(預金を取りに)来たことがあったのね。

私たちの時は先生にね、長い竹の鞭でなんか悪いことすると、叩かれたりビンタやられてたりして勉強教えられて、雨降っと字も読めない暗いところで勉強して、それでもなんとか覚えたんだ。働いてても勉強して資格取ったり。私言うのに、今の子どもたち、すごく頭進んでねえのかなあって(笑)。親のすねかじって、高校さ入って、大学さ入っててさ、それで就職にもつけねえ。今の教育制度っていうのも悪いんだかなんだか。いじめだの、自殺だの、そういうのテレビで出てねえ。

ここでは今こそ護岸の下は海になって干潮になって水が引かないけっども、もとは干潮になって潮引くと、ずっとむこうまで砂場になったのね。ここ見事だったんだもの。

だから馬持ってる人たちはここで乗って、走ったもんなんですよ。そして夏場になっと、麦さ運んだ後に、馬を洗って冷やすのに、乗ったまま、海さ、すっかりこの腹まで入れて、泳ぐんだね。そうやって何回もはねたあとに、今度は(こんだあ)海さ深いとこさ入れて、泳がせて乗せてから。

時化の時は道路に波が上がるから、波の合間みて、学校さ通うのに飛び跳ねて通ったね。昔は靴なんかあんまり無かったからね。夏場なんか裸足だもの。釘の上のなんかふんでも、足刺さんねんだ。

やっぱりなんだね、小学校高等科になると、「今日は馬糞拾いですよ」なんて、2人で桶持って、馬糞拾いに行ってそれを肥料にする。そのような時もあったね。何個拾ったらば、帰っていいから、なんて。その頃、馬多いから。けっこういっぱい。ここでもね、馬捨て場、何も墓場とかないんだけども、ほとんど外さ持っていって、埋めた場所は今でもわかるよ。ここの部落でもね3頭ぐらい死んでるんだな。みんなであの棒で担いでね。狭い道路、山さ持っていって埋めたんだ。足4本を太い棒を長くしたのに結んで、6人だの8人ぐらいで担いでね。ほとんどただの畑やっている人みんな、ほとんど牛だの馬だのあったからね。

終戦の前日に防空壕を掘る

漁に出始めたのは昭和17~8(1942~3)年だけど、戦争の影響は別になかったね。戦争は南方だべ。行くのはあんまり南方の方さ行かねえから。

でもね、最後、ここで終戦の前の日に、ここが空襲くったのね。そしてね、伊里前(いさとまえ:寄木の隣の部落)の港に、定置網を引く小さな2トン位の漁船2、3艘があったの。弟と2人で、庭先に出てから、小さい桑の木の下で見てたら、米軍の飛行機が飛んできて、一番先頭にあった飛行機が羽ゆすったのね。そしたら、いっせいに急降下してきて、バンバン撃ち始まった。その前の船、ばらばらに沈んだ。牡蠣イカダなども船だと思ったでねえか。弾が当たってね。自分たちの傍に薬莢(やっきょう)が何個も落ったんだ。

そんなことで、その日から「だめだから、防空壕掘れ」って。何も、今考えてみっと、山さ逃げれればなんともないんで、バカみたいな話だけど、防空壕堀りが始まった。だってその時は次の日、終戦になるとはわかんねんだもの。その頃ラジオだってどこの家にもないから。たまたま1軒ね、あったのね。そしたら、「今日なんだか天皇陛下の玉音があるそうだから、みんな来て、聞いてけろ」って言われて、みんなその家に集まったら、終戦の放送だったの。その頃、なに、山中さ逃げてて、艦載機(かんさいき)って、船さ積んできた飛行機だから、「しゃべんな、しゃべんな、敵の飛行機まで聞こえる機械あんだ」っつうから(笑)。今考えてみっとね、バカな話だなあ、と思って。そういう山だなんかあるから、隠れんのに良いんだけども。防空壕、半分掘って、次の日、終戦だった。

私たちも、戦争に召集されれば「奉公袋」って用意したの。写真、爪、髪、こう入れて、戦争行って戦死しても、誰それだってわかるように「奉公袋(遺言状や遺髪などを入れて、戦死の際に家族に届くように準備した)」ってちゃんと名前書いてね。こう用意して、もう1カ月も戦争が延びていれば、私も兵隊に引っ張られてらね。周囲の人たちは結構兵隊にとられて行ったんだべ。私も爪から髪から全部用意していつでも行けるような、準備したところで、行かないで終わりだった。その頃に「奉公袋を入れて町に」なんて軍歌なんかあんだけっども。

漁に関しては戦争中も戦後も、ほとんどかわりないね。

そのころは汽車もバスもなく、出征する時は歩いていった。馬は軍馬に出すので乗ることはできず、大事にしながら引いて行ったという。

カツオ漁、サンマ漁

カツオ船には、7年ぐらい乗ったね。カツオ船は年中ではないんだね。春から夏に近い時から南の方さ行って、だんだん日本に近づいて来て10月末までやって、そのままの格好でサンマ漁に行ったね。

カツオは群れで、獲れるときは船で10艘も20艘も満船に積むくらい。かと思うと、群れがいてもエサのイワシを食わないのは1匹も食わないからね。食い気のないのはもう、カツオが何万匹いても食わないのね。全然獲れない。色が紫色か赤みを帯びて見えるのは飛びついてくる。青くなって普通のカツオみたいに泳いでるのは食い気ない。

ああいうとこで実際にカツオを見ると、腹に何も入ってないカツオはエサ食わないんだね。妙なもんで。腹、解剖してみるとね、胃袋にエサなんか入ってないんです。我々人間が考えると、胃袋にモノがないといっぱい食いたいようなもんだけど、逆なんだね。だから釣ったカツオ見ると、もう胃袋破裂するくらい食ってんだ。私たちがカツオ釣りやってる時は、1本づつ手で掴んだんです。釣れるカツオは口からよだれダラダラ流してるんだ。トロロ流したときみたいに。そういう魚は胃袋に破裂するくらいイワシ食ってんだ。そういう時は、50人で5回もやったら、もう5000貫も6000貫も釣ったよ(1貫は約4㎏)。だけど、餌がなくなれば、漁が半分でも帰ってこねば。イワシを船漕に水張って入れてるから、餌がなくなると帰って来る。カツオ船はでも長くて10日くらい。徐々に、ここの魚は食いつきがいいとか偵察しながら漁をするんだ。

サンマは今のように電気でおびきよせる前は、人力で「刺し網」やったの。そっち側とこっち側で6人くらいこう、並んでて、「イチニノサン」って掛け声かけて、息を合わせて手で網に掛かったサンマを網から落とすのね。水面に浮く方の「浮き球」を「アバ」っていうんだけど、そこにロープ通してね、船のスクリューの後方に、水面にふわっと落とすんだ。沈む方には錘が着いてて「脚」っていうのね。そこから網がカーテンみたいに降りて行く。

ill01

網がカーテンみたいに降りて行く

ill02

「アバ」とよばれる浮き球。
刺し網漁の図。網1反の長さは50mほどになる。「アバ」の間隔は3mほど。

ill04

網の目に刺さったサンマ

サンマは刺し網の目に頭のほう刺さるから、刺さると取れねえんだ。だから刺し網というんだね。このやり方だと頭の方がもげたり、頭から顔から皆ハラワタが出たりして、商品価値が落ちて、それは売り物になんねえんだ。自分の顔にもウロコやら、もげたもんがくっついてね。

そのうちに電気で照らすようなやり方に変わっていった。

ようになって、刺し網は無くなった。あの船見たことあっぺ? いっぱい電気つけてね。

ill05

棒受け網
サンマは、明るい所に集まる習性を持っている。夜、集魚灯の強力な光を海に照すと、船の周りにサンマが集まる。片方の集魚灯を消すと、灯っているほうに魚が集まる。消灯したほうから棒にとりつけた1枚の網を入れて、すくいとる様に、魚を獲る。

ill06

サンマ棒受け網・上から見た図

今のような「棒受け網」になってから、50年にはなってないね。私たちが乗ってから2年で「刺し網」から「棒受け網」に変わったからね。サンマがいっぱいかかり過ぎてね、網が沈んだこともあるの。網が上がらないくらい。網を切って揚げたことがある。

サケ・マスは深いところにいるから、海底スレスレに来てるのもいる。網をただ海底まで下げるから別な魚もいくらかとれる可能性がある。

ill07

昔のサケ刺し網

カツオ船内の規律の厳しい生活

船員は3つに分かれるのね。若い人たちはご飯組。船首の方にいるのね。魚を捌いたりだの、いろんなことやるから。船首側に寝室があるの。あとは、漁労長や船長さんたちがいる舵取る機関場、年寄りのいる船尾(トモ)と3つね。船尾の人たちの役目は、竿出してカツオを釣るだけ。

ill08

カツオ船。横から見た図

ご飯炊きはね、学校上がりの見習いみたいな人3人位でやんの。ご飯組ね。釜大きいから、学校上がりの若い船員では、その頃鉄の釜だから重いんだ。その上にコック長がいて、今日は何作るとか言って。何も大したもんは作んないよ。人数が多いから野菜だってそんなに入らない。私たちがカツオ船乗った頃にはアルミの食器でね、それにおつゆが入ってくると、おつゆの身がじゃがいも1個さ、玉ねぎ2つ位入って終わり。魚はつゆには入れないで、刺身に作る。ご飯はみんな、船上。

船首の方にいる人たちは、表船頭が箸取らないうちは誰も食べない。ご飯炊きから上がった(役目から解放された)人も、「胴回り」と言ってまだ水夫の見習いのようもんなんだ。「胴回り」が、お鉢に入れて表船頭のところに持ってきて、「ご飯用意できました」といって表船頭が箸取って、初めて食べる。カツオ船では、厳しい規律のない船なんかないのっさ。団体生活だから規律が無いとやってけないのさ。

ill09

カツオ船。上から見た図

無線長と船長と漁労長と3人くらいで操舵室にいる。一番偉いのが船頭(漁労長)。船頭は、号令掛けて、こっちさ行けって、魚を獲る分の総支配人だから。次が船長。船長っていうのは位置を把握したり、船を操るのが全部ね。機関士は機関場で、機関長入れて5人くらいでやるんだね。機関長の下に2番機関士。機関員の一番の頭。あと機関員がその船によって3人か5人か。

表船頭、表にも船頭さんがいて、こっちの若い人たちを仕切ってる。表船頭が1番舳先(へさき)で竿をだして釣る。その他に二番口っつうのがあって、この人たちが舳先の方にいる。その下で釣るのが二番口がね。2~3人。三番口ていうのもある。水夫のことを俗称でカゴって呼ぶんだね。今は双眼鏡とかで見るんだけど、私たちの時はマストの上にカゴがあって、海の魚をほら見てね、二番口、三番口の人が舳先さ上がって魚を探索するだよ。船尾の方には船頭はいないの。

ここさ上がって、まっすぐ行く時は「ようそろ~っ」って言うんだ。誰よりも先に見つけて、その見つけた魚がいっぱい釣れた場合に、そのカゴは「はいっ」と船頭から報償を貰えたものなのさ。若い頃は自分も目が最高にいい頃だったから、他の人間に負けないくらい見つけて報償を貰ったんだ。鳥がいてその下に群れが居るのがわかることもあるし、鳥はいなくても、さざ波たてて群れだけでわかることもある。鳥は遠くの方からもざっと見えるから、一方方向に飛んでる鳥は駄目で、こう行ったり来たり回ってるところの下には群れがいる。群れそのものはあまり遠くからだと見えないから。その時の天候によって、さざ波たてているのでわかる。群れっていうのは、先頭に向かって波を立てて動くから。

月給よりも、カツオ船なんかは水揚げの歩合制になっているから、そういうのひっくるめて「あたり金」って呼ぶんだけど、給料の他に、漁の終わりの時に別個にそれが貰える。

寝る場所は押入れみたいに2段になってて、船の幅だけある。水槽(魚槽)や、機関室があって。さらにエサのイワシの入った船倉が4個か5個くらいある。上から見ると真ん中に大きい餌を入れる船倉があって、脇の方に氷全部。氷を一番の底に入れて、そいつの上さ魚入れて。その時は全部角の氷をデッキの上さ砕いてね。

カツオ船さ乗ったか乗らないかっていうのはすぐわかる。こういう船さ乗らないで、別なトロール船とかいろんな船乗ったら、こういう規律なんてほとんどない。ほらカツオ船を3年も乗った子どもだと規律はしっかりわきまえてるし、言葉つきもいい。どこの船さいっても心配ないだろうと思う。50人も乗っているんだから、5人か7人位の乗ってるような船でするような勝手気まましたら、統制取れないから。でも今は、変わってから、どうなんだろうね。

漁船での命を守る知恵と気力

漁で一番南に行ったのは、マグロを獲りに行ったオーストラリアの脇のニュージーランド。木の船で80トンくらいだから大きな船だった。ニュージーランドはだいたい日本と同じ緯度だから、四季があるわけさ。夏場はいいけっど、冬場だったら結構時化(しけ)るとこいっぱいあるわけさ。やっぱり船の中で生活して、陸(おか)さ上がるまでには「もうダメだな」と思う時、3回ぐらいあったね。

良く覚えてるのはね、32歳の時、1回、ニュージーランドで沖に時化になって、横波を受けて船が横向きになったら、あんとき、沈没して終わりだった。マグロが獲れに獲れて、揚げ縄しているうちに大きな波来るようになったんだ。船首の方から波にのまれてね。ハッチ(魚槽)に木のふたをして、しっかりバンドかけておいたから(荷が崩れないで、船が横向きにならならず)助かったのね。まあ、デッキに積んだらダメだからっていうと、みんな、魚槽のマグロさ捨ててっさ。そうやって船を浮かべたときもあるし。

横波を受けて魚槽に積み上げたマグロが荷崩れをおこし、船が傾くと、さらに波に襲われれば船が転覆してしまう。それを回避するためにマグロを捨てるのである。

あと、33歳でサケ・マス漁で「たかや丸」で北洋の方さ行ったときのこと。よく時化になると、潮が早くなって、拡げた網が巻きついて1本の棒のようになってしまうさ。それこそ、網が百反以上も棒になってしまって、置き場がないから、船のデッキの上さ、山にして積んだんだね。もう一反ぐらいで船に積み終わりだ、というところで、波に向けて進んでた船をストップしたら、船が横になった(傾いた)から、積んでた棒状の網が船の片側さよって、すっかり半分が落ちてしまって。それに、傾いたせいで操舵室の中までみんな水入って。母船にSOS打(ぶ)ったの。

5時間以上も連絡ないから、母船のほうでは「たかや丸沈没したな」と思ってたんだ。その頃、こっちでは、夢中になって水温が一度とか2度の水さ、腰まで浸かりながら、「こんなとこで死んでいられないから」って必死だ。船の外に投げた網がすぐ船の中に入ってくるのさ。船の片方が無いから、網がガバっと入ってきて。今度は、ナタだの出刃で切ろうとしたって、泡食って(慌てて)っから、網切んねえで、船の中のものをやったり(笑)。「こんでダメだ、同じことやってては埒(らち)が明かねえ」って、みんなずぶぬれになりながら、最後の手段として詰まってる水が抜けるように脇にある「水抜き」を何カ所も抜いたところ、詰まってた水がどうっと抜けて、やっと船が起き出したんだ(傾いていたのが元に戻った)。

しかし、ああいう時にわかんだよね。その、早く亡くなる人と、そうでない人が。腰抜かしてね、「だめだ」って諦めて、座ってる。みんな水に浸かって「死んでいられないから」ってやってる時に。そんとき、怒って、「このばかもの」なんて、怒りすぎたことあったんだ。船なんかで生き延びる人は、ほらそういう気力の強い人だけ。遭難したとき、「生きんだ」と思うんだね。そういうことなんだよ。

それからもう1回、兄弟2人、北洋で海へ飛ばされて落(お)ったことがあるんのさ。

投網(ともう)って、船尾(トモ)の方の籠2つあるのね。そこに弟と相手がひとりずつ入って、ローラーから流れて来る網の向きがずれないように、中心に網を置く作業してるときに、相手が弟にずれた網を振った(投げてやった)わけさ。その網で弟は手を引っ掛けられて、網ごと籠から引っ張り落とされて。弟は、やっぱり同じ兄弟でもそれだけ気力がなかったんだかなんだか、「あっ」と思ったんだべね。そういう時は作業してる網を切ってはダメだから、全速でびんと網を張って落ちた人が浮かび易いようにやるのが建前なんです。離してしまうと網は下に錘(おもり)があるから、沈んでしまって危ないんだ。だから、網を決して切ってはだめだぞって言ったんだども、船の方で切ったんだっちゃ。

落ちた所まで行って様子を見たら、そしたらもう、弟にはすがる気力無かったもんな。みんなに自分の足つかんでもらって、船上からぶら下がるようにして弟を引きあげて、手で捕まえて揚げて、その後弟は3日ぐらい寝たんでねえかな。

私が海に落ちた時は、網を別の網に繋ぐ作業をしてたんだね。何かの拍子に網がひとまとめになって海さ行くような恰好になって、網の目で脚をさらわれて、海の中飛んだのさ。

ハッと思って浮かんだら、網を上から被ってなかったら、みんなに「大丈夫だ、大丈夫だ。ええから心配すんな、心配すんな」と言って。さっき言ったように、網さ切んないで、船からその網をピンと引っ張って、落ちた奴を浮かばせとくような方法とんねえと、泳ぐもなにもできねえ。長い間の経験だからね。そのとき、カッパも着て長靴も履いてたんだけど、何も脱がないで泳いでみたのさ。船はストップしてたから、そのまま泳いで戻って、あとすぐ着替えて働いたけども。

だからあういうところでね、気力の差っていうのはわかる、生き延びるのと早く亡くなるのと、そういうので差があるんだな。

船が傾いても、よっぽどのことで沈むなんてこと、まずない。あれほどまで、ひどいことになっても私の乗った船は沈没しなかったんだから、簡単に沈没しないもんだと思ったね。よく、帰る途中で沈んだとかなんとかっちゅうのは、「なに、大丈夫だ」なんて、無造作にあんまり考えないでやってて沈没するんだ。最近の自動操舵なんて自分で舵とってねえで、自動で任せてっから衝突したりなんかするの多いの。

その頃はひとつの母船で40艘ぐらいの船で行ったんだ。だから、10船団で集まれば、350、60から400艘ぐらいいた。全部、各地から出て函館で集結して函館から出ていくわけ。函館は大歓迎だったんです。どこさ行っても、「船員さんご苦労さまです」。風呂も半額、電車賃もほとんど半額、映画も半額。飲み屋は・・・違うな(笑)。函館はあれで昭和34〜35(1960~61)年あたりは栄えたんだね。

函館から北洋向けて出港する時は、岸壁にはいっぱいの人がいた。あれで、函館が栄えたんだもの。

その頃は「北洋さまさま」の扱いで、当時の小学生は、自分の家族が漁船員であるなしに関わらず、誰でもいいから、「船員の皆さんへ」って北洋漁船の乗組員あての手紙を書かされたという。

海苔養殖を研究する

親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。

海苔を始めるのに、最初は天然の海苔のタネつけといえば、垂下式だったのね。元の歌津町でも浜の漁協とこっちの漁協と2つに分かれてんだ、漁協が。で、こっちの漁協だけで、研究会っつうのをつくって、指導員さんには県の漁協の方が来て、あとはこの辺の水平の高さと干潮時の高さ、いろんなの測って、このへんさ網をはれば、この水位さえあれば、ここの部落では海苔が付着しますつう格好で。

一番最初は海苔の胞子をとって、貝殻につけて、それを生育させて、温度と日光の具合をみながら熟成させてる。それから張った網さつけるんだけども、その時期になったらば、海苔のタネ付いてる貝殻は、最初真っ黒くなってるんだけど、紫色になるんですよ。それが、胞子を出せるようになってる海苔の色。3日目ぐらいなると、波で揺られるうちに、その胞子が消えてもとの貝殻のように白くなるんです。顕微鏡で見ると、胞子がみんな、その海苔網さ付着してる。

海苔もしばらく良かったんだけども、だんだんね、松島の方におされて、ダメになってきて、それに代わってワカメに切り替わりました。

ワカメ養殖のこと

ワカメ養殖を始めたのは私たち一番早いのね。その頃私たちの漁協の、いま青年部っていうけども、その頃は研究会というような名前で、私たち年代から下のほうの人たちで会をつくって、ワカメの養殖の始まりをつくって今に至っている。もとはワカメも今のように水平式でやんないで、垂下式っていう、これで3つだから、15尺=5mぐらいの長めの縄にワカメの種さはさんで、下げるやり方でした。

そう、今の牡蠣みたい。だけど垂下式は上のほうは良いけんども、下のほうが老化が早くて、製品が悪くなるんだね。それで、今のような水平式に変わったの。当時は、津波なんかもないから、縄で撚ったのを、窯作って、長持ちするようにコールタールで煮て染めて、3年も4年も使ったんだね。

そういうのは誰からの教育もなかったんだけっども、われわれ生産者が、みんなで寄って研究して、良いものを採るには、やっぱりそういう風に変えたほうがいいんでねえかって、自然にそうなって行ったんだね。

引き際が肝心なワカメの刈り入れ

ワカメのタネのはさみこみは10月過ぎから11月。ワカメの出荷が早い人だと、2月末にはワカメは終わってもう漁に出る。ワカメは4月の終わりまで残ると原草が良くても、製品にすると、色が悪くて赤く変色する率が高いんだ。まず遅くても4月の20日までには刈り取って終了しろと、いうようなことだね。生産者だから全部売りたいのはヤマヤマだけんど、売れるからっていつまでもやってると、自分の首くくるんだよっつうこと。

今年やって、来年やめるんだらば、それでもいいんだけっども、毎年やる漁業だから、毎年お金が入るようなことも考えなくてはならねえ。値段と比べて量をいっぱい出すと次の年から在庫残ってたなんだってほら、値段を叩かれるのもある。そうすると売りたいからって、最後まで、投げるようなワカメまで売るようになる。するとその次の年が果たしてどのようになるかね。

だからやっぱり漁協あたりでも、がつっと各漁協と組んでね、何月何日以降のは絶対市場に出させない、違反したら、漁業権まで没収するぐらいの覚悟で規制しなかったらだめだで。漁協によっては、5月までワカメを買い上げたところもあるから、それじゃダメだっていうのね。誰でも水揚げできればいいかと思って、先々まで考えてんだかなんだか。ここのワカメはブランド品だからね。歯ごたえがあって。軟いどろどろのワカメは、私ら食べても美味しくねえもんね。

震災後はボランティアの人たちがワカメの養殖の手伝いに来たけど、一番遠くからここさ来たのは、神戸か大阪で、中学校の先生だっていうの。ワカメって袋さ入っているのしか見たことないっていうから、3m以上のワカメあったのを見せたの。メカブのところから付いてるワカメ。船さ乗せてって、実際に伸びてるところ、何回も連れてって見せると、へーと驚くんだ。ワカメはこう上さ、伸びてるもんだと思ってたって。お土産にやったら、味がいいんで、送ってほしいと電話やら手紙やらくる。

スーパーで買うときはどういうワカメ買ってますか? ボランティアに来るような人に話してやったんだけども、スーパーなどでボイル加工した塩蔵ワカメ買う時は、塩まぶさってないのを買いなさいっていうの教えてやったんです。塩いっぱいからまっているのは、塩の目方が勝って、ワカメそのものの重量が少ない。私たち生産者が出すときは、しっかり乾燥させて、水が1滴も出ない、かんなくずみたいな状態で出してやるんですよ。それを今度は庶民の人が出すときは、塩水をまぶして出す。

ホタテ養殖にも進出したい

今は養殖の中心はワカメだ。ホタテの場合は、大きい船ないとできない。重いものぶら下げてるから、大きくないと網を巻き上げた時船が横向いてしまう。ほんとは今年の5月ごろできるって言ってたんだけど、今造船中なんだ。1月に三重のヤマハで作った船体がこっちに来て、それを唐桑でいろんな機械や、網揚げる道具をつけたり、さまざまな準備をすんの。そのことを「艤装(ぎそう)」っていうの。なんで唐桑って? 志津川の造船所で作れば、そのままやってもらっていいんだけど。いっぱいでなかなか、やれないから(船はその後、無事完成し、進水式を終えた)。

船を作るときには、先ず申請する。漁協の方さ直接やってもいいし、志津川の造船所さ先に申し込んで「作りますよ」となったら、あと、漁協に申請する。ただ今度の場合、志津川の造船所が壊れてしまったから、漁協の方で動力船を作るは申請順だって言われて、うちの孫が一番先に申し込んだんだ。去年のホタテに間に合うようにできる予定だったんだけど、今年になってやっと。だから去年のホタテやるのに、となり部落の船を借りたのね。だからいっぱいやれる予定で組んだんだけど、3分の2ぐらいになってしまった。

進水したばかりの船は、いわば、棟上式を終えたばかりの家であり、各機器(艤装品)の工事がまだ残っている。これらを取付・据付するのが艤装(ぎそう)である。進水後に岸壁艤装が引き続き行われる。工期短縮や工程削減を目的に、進水前の内業(組立・ブロック組立)や外業(ブロック搭載)の段階で先行艤装も行われ、船内配管や居住設備の多くがあらかじめブロックに作り付けられるようになっている。 (Wikipediaより)

ホタテ養殖のタネは、こんな稚貝から採ってんだ。手数ばり(ばかり)くらってはわかんないから、まあ、半数は北海道からこのぐらいの買うんだね、高いけっども。半生貝だね。

タネばもらって、網さ中さ入れて、その時期来(く)っと、水温と比べて海さ入れて、そいつが付着して、最初はあの、ほんとの泡が付くぐらいになる。それがみるみるうちに、大きくなって。それを一回夏場に獲って、小さい目の「ネット」っていう網さ入れて育てて、大きめのを選んで別なネットさ入れて、大きく成長さすんだけども。だからいっぱい材料もいるし、ある程度大きくなんねえと、耳吊りすんのに繋がれねえから。

[第2章]寄木の歴史と伝統を後世に
屋号

うちの屋号は「いかざ」というんだ。平仮名で「いかざ」。漢字で書いてもいいんだよ。烏賊(いか)という字、漢字で書くの大変だ。イカ釣り船が、そこさ来て、船(ふね)繋(つな)でおいだ場所だから、「いかつりざ(烏賊釣座)」と最初言ったんだな。「つり」が長いうちになくなって、「いかざ」となった。こんな屋号というものは、日本のどこにもそういうものはないんだね。屋号は家の名前。だから、新築するとき、私のうちの屋号はこれですよってご披露する。こっちでは何と(いう屋号に)決めてんだ。

こっちの下のほうの家は、日(太陽)が向かいから上がっから、「陽向」と書いて「ひむかい」です。太陽の陽さ向かえいれる字。大きい財産家の家っていうのは「おおいえ」とか、伊里前だと町を仕切ったんで、ナニ町切(ちょうぎり)とか、山の根元にあったうちは、「やまね」って屋号ついてたり。向かい側のほうにあったうちは「むかい」ってついてるところもあればね。海岸の近くに瓦の近くにあるのは「かわら」とかね、一番下手にあった家が明治の津波で400mぐらいずっと奥さ流さたんだけど、上(かみ)に新しい家建てても、昔あった屋号で下(しも)という屋号なんだ。こういう風に、ぜんぶ屋号あっからね。

ここではね、津波で流されたっていうのは、明治の末あたりで。だけんど、ほとんど家流されたという被害はないのね。昭和の津波なんかもちろん、私たち昭和8(1933)年の津波は実際に見てっけっども、ほとんど、家流されたっていうのはここ少ないんだべ。

ただ、明治の津波とは、もとの私の家の、あのくさや(草葺きの家)の家で、玄関はいって、土間になってる中を、波が来て大きな石がごろごろ行ったり。それでも家は流されねえで。被害はほとんど無いんだけっども、歴史的には、先祖が昔からここに住んでいた「元屋敷(もとやしき)」がこんな海岸にあった、とかという話はあるね。ここ寄木は昔から、家の戸数は増えなかったけんども、天然の漁港としては歌津町としては昔から一番良い。

そのために、こういう「ささよ」も残っているんだと思うんだ。漁師としては、他の部落より、みな秀でた漁師たちが多かった。それが、こういうので伝わったんでないかと私なりには感じてんだけどもね。

寄木の地名の言われ

この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいということで、ぐるっと諸国巡ったらしいんだね。そんでたまたま通りかかったら、ここの浜さいっぱい、木材が寄り上がって、それを使って、大きいお寺を建てたんだね。ぐるっとその、木を使ってお寺を建築したっていうそれで、寄木いうような地名が。だから家の流されてない、半分ぐらいまで奥はもと海だったんだ。長い年月にだんだん陸(おか)になって、家が建つようになったから、また今後の津波でさらわれてんだ。

この部落でさえ、今度高台さ、移転するんですけども、そこの少し手前の山に、ここの寄木部落で一番先に、住んだ侍、落ち武者なそうですけど、その敷地があるのね。平らになっていて、土台にした石だなんかが残ってる。だんだんに時代が変わって、海で生活するようになってきたんで、山の方から浜まで通うとひどい(体が辛い)というような恰好(かっこう)で、そこからちょこっと行くところから、神さんあるんだけっどね。そこへ引っ越してきて生活したんだ。高いところだから「上(うえ)」ていう屋号がついてるんだ。昔(いにしえ)の人たちもさすが、津波ということには頭を入れて、高台に住んだんだね。今度の津波でも、本宅までは行かなかったけども、蔵のあたりまで波が来たって。昔からの家訓として守って、今度の震災にも助かって。

昔話の伝承は年寄りの心がけひとつ

こういう話は、わりあい、なんとなくだね。うちのおやじさんでも、あんまり知らないから、よそのうちのおじいさんだの、そういうのからいろいろ聞いて。うちのお祖母(ばあ)さんは岩手県の陸前高田から嫁に来たんですけども、慶応生まれのお祖母さんだったから、いろいろ、「うちの屋号はこうなんだよ」とか、「ほんとはここは海でイカ釣り船が入っていたよ、そのために『いかつりざ』というふうになったんだ」とか聞いたね。

いまだこう私、86年ここに生まれてから住んでても、ここの部落のひとたちは、割合に働くことは一所懸命働くんだけども、そういう子孫に伝えることなんつうのは、あんまり(歴史を後世に)伝えるような部分がないような気がするんだね。今考えてみっと。

私たちの年代になれば、子どもたちさ、「前にはこういう時代があって、こうだ」って話す機会も多いんだけんども、明治生まれの人はわりあいに早く亡くなっているんだよね。60代、早いと50代。うちの親父も63歳、私が35の年に働き盛りの年で亡くなった。なんせその頃、自分の生活いっぱいでそういうゆとりも何もなかったのかなと半分思うんだけっども。

ここは家族団らんは、囲炉裏(いろり)囲んで食事をしながら、会話をすんのが関の山で、年寄りが昔話をして聞かせる、そういう面もあっけっども、「後世にこの話を残せねくてはわかんねえ(ダメだ)なあ」という気を持つ人と、なんもそういうことに無関心の人との差もあるかと思う。私は、頭はバカですけども、こんな風に、なんとか次の時代の人に、少しでも伝えてやりてえなという気持ち持ってるから、ほら、そういうのの差もあるんでないべか。今の私らの年代に近い人も、昔のことを知ってても、ほら、しゃべんねえ人もいるしね。

03

「南三陸バーチャルミュージアム」歌津寄木の湾に浮かぶ松島(2006年)

私は松島の由来も、少し、長さ、色をつけて書いて、公民館さ、出したこともあるんだけども。部落の何か昔からの遺産はないかな、っていう動機で、こっちのほうに実際にあった出来事を、この島の名勝地を紹介しながら書いて出したこともあったんだ。いい島だったんですけどもね。津波ですっかりやられて。アサリも何も掘れなくなったもんね。この島まで粛々と渡って行けば獲れたのに。今度(今では)地盤沈下して、干潮になっても全然出なくなっちゃったんだ。

後世に歴史を書き残す

ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、昔やってた頃は、えらい盛んな形でね。いま人数が5~6人しかいなくなっちゃったですけど。

「ささよ」を残すのに、ほら、言葉ばり(だけでは)伝わんないからと、どのように書いたらいいか、苦心したのにね。これ作ったところ、津波でさらわれてしまって。ほんでも知り合いのところに写しがあったから、それを今度コピーしてもらったのが残ったんです。

残すって、歌津町史も、復刻してもらいたい。今回作んねえと、これから先、歌津町史っつうものが、いま、流されねえでもってる人たちしかねえわけさ。これから先、たとえばまた町村合併があれば、歌津そのものの町史っつうものがおそらく作られねえべかな(作られないだろうな)。だから、今回がいいチャンスでねえかな。コピーとるったって何千もページがあるもの。

印刷元の活版は流されて原本がない状態で、復刻はかなり厳しい状況におかれたが、2013年現在、現在南三陸町役場でデジタル版と並行して復刻の動きがある。

ささよの中に漁師の暮らしが反映

漁師の暮らしの流れが「ささよ」の中にあるね。中学校3年生の男の子が大将になって、もらったご祝儀をあとの子どもだちに分け与えるしきたりだね。親たちは絶対タッチしないって、昔からそういうしきたりで何百年もやってきた。1回公民館から来た人が、「お金を分配してるとこさ写真撮る」って入ったら追い出されたってこともあったんです。子どもたちが大きくなって船さ乗って、一人前の船員さんになった場合には、50人でも、30人でも一艘の船さ乗ってる水夫に分け与えるんだというような習慣が、そういうところから、培われてきている。

吉雄さんと「ささよ」の出会い

私がこの「ささよ」に参加した一番最初は、学校さ入ってすぐだね。そのころに大将から一銭銅貨を2個ぐらいもらったのを覚えてるね。それを分けるのが一番の大将ですよ、年配者だ。そして1年生はいくら、2年生はいくら、っていうふうに分配して。それで大きくなって、船頭が、使ってる水夫のこと船子と書いて「カゴ」って俗称で呼ぶんだけど、カゴたちに漁獲高を分配する意味合いが、あるんだね。だから一番の年配者が多く分け前を貰って、今年は仮にご祝儀を10万円もらった、子どもは何人いるから、年下の子どもたちにいくら分けて与えて、残りのいくらを私が取るんだ、って言っても後の子どもたちは文句も言えねえし、あとわかんねえべ。なんぼもらえたか、っていうのも。それは大将なればわかるだろうけれども。ご祝儀は何に使ったって、私たちは、ノート、鉛筆。その時代は貧しいからなかなか鉛筆なんかも、貴重なものだから、みんな、竹のわっかを着けて長くして、ほんとに短くなるまで使ったものだから。

そして今はね、お金を封筒に入れて出すからね。封筒に入れると、いくら包まっているのか分からないっていうのがあるから、「本当は裸で渡すんだよ」って、私はこういうことも部落の人たちに語って言い聞かすんです。

つまり、「自分の家の神棚に、『今年も大漁しますように』と願って、お神酒とお金を添えて拝んだのを置くんだよ。子どもたちが来ると思うから封筒に入れんだべっけど、それではダメなんだ」って言うんです。子どもに「お小遣いをあげている」んじゃなくって、「神様のお下がりを自分たちが貰ってる」ということを分からせるんです。私の家ではいまだかつて、封筒に入れて出したことない。神棚の前に、お神酒とお札そのままにして拝んでおいて、それを子どもたちに与えているんですよね。そういう昔からの習わしがあるんだから、例え1000円でもいいから自分の神棚に供えて、今年も安全で大漁しますように、って拝んだやつを上げるんだっていうことで、お札そのままで、現物で出すんだよ、って伝えてるんだけど。なかなか、ほとんどの人たちは封筒に入れて出すね。

それから、子どもたちに飲ませるつもりでお金にお神酒の入った杯を添えて出す人がいるから、それはないことにする。その年の大漁を祈願するんだから、なにも杯(さかずき)なくたっていいんだから。これがね、一回ね、県の指定を超えて、国の文化財になるかもしれない、っていうことで県の方から「ささよ」の視察に来たことあったのね。だから教育委員会から連絡あったから、今度の場合に杯を添えてはだめだよ、ってよく説明したんだけれども、その杯に酒をついでやったら一番の大将が飲んでしまったわけだ。それで、「子どもさ酒を飲ませるんでは、文化財の指定には向かない」ってお流れになった。国の文化財に指定されればそれなりの助成金をもらえる。書類を出さなければならないことはわかっているけども、いいな、と思って町の人と喜んで語っていた先ね、子どもたちに酒飲ませる行事では文化財指定には向かないからって一回で終わりです。

これも時代の移り変わりで、ご祝儀の出し方も変わってきて、いろいろ変わっているけれども、まず船に大漁旗揚げて来て、家々に大漁唄いこみを歌って、旗竿に酒を注いで大漁祈願する、これだけはずっと前から変わらない。

寄木の子どもは、小学校にあがったら「ささよ」に入れるってことは、みんな知ってるから。だいたいお正月の15日にやる行事ですから、そのお正月入ってから、3日、4日あたりから稽古やるのね。「ささよ」に初めて出る1年生なんて、勝手がわかんないから、一番上の年長が紙さ書いて教えてやるわけ。

04

「ささよ」の詳しい紹介や美しい写真が掲載された地元紙「南三陸」がダウンロードできます。

子どもたちに「ささよ」の歌を教える時には、もっと「民謡的に」教えたんだけれど。本当はこの区切りにもね、もっとお囃子が2回くらい入るんです。「おめでたい、あらよ」だったら、ここに「コーリヤ」とか「ヤーイヤイ」って入るんです。「おめでたい」「ヤーイヤイ」とはいる。その掛け声でほら、威勢がつくわけね。本当はそのように入れて歌わせると、とても40回やそこらで終わらないから9つで区切って、それらを抜いて作ったの。子どもは4時間かけて全戸回って、途中で1回休憩させても、大変なのね。

子どもたちがご祝儀もらいに、船を持ってる家のところにくると、船名を言う。「おらがヒデキ丸、あらよ よのある ふなだまだ」そのように歌うようになってるの。船のない家にも行くから、船のないときは「おらがヨリキハマ」とこのように歌うわけさ。船の神様のことを「ふなだま」と言うんだね。大将が家の入口で「今度の家は、こんな風に歌うんだぞ」って言うから、それにならって歌う。

実際には、子どもたちだけではダメだから、私もついて一緒に歩いてね、いろんな新聞記者だの放送局なんか来るから、いろんな説明しながら、ぐるっとついて歩いたもんです。

「ささよ」の唄 作詞・作曲 畠山吉雄(昭和23年)

1. おめでたい あらよう 三めでたい かさなるとえー
2. お船玉 あらよう とらせるさかな さづけたまえやー
3. 雨がふる あらよう 船戸にかさを わすれてきたどえー
4. 呼べば来る あらよう 呼べねば来ない せきの水どえー
5. あれを見ろや あらよう しまかめ山の ゆりの花とえー
6. けせんざか あらよう 七坂八坂 九坂とえー
7. 十坂めには あらよう かんなをかけて 平らめるとえー
8. おらが寄木浜 あらよう 漁のある浜だ おめでたいやなー
9. みなといり あらよう 
ろかいのちょうしいりちこむとえー
ささよー よいとこーら よいとなーえー
へんややー へんややー へんややー

伝統文化「ささよ」の保存への取組みと被災

子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないからって言って、発足になったんです。昭和55(1970)年8月21日だ。「ささよ」を子どもたちに50年以上教えてきているけれども、保存会ができてからまだ20何年なんです。今は小中学生合わせて6人か5人か。

歌津町の文化財登録のことで役場に行った折に、「寄木さん、なにか「ささよ」の保存について考えていることはないですか」って言うから、「祭に使う太鼓のような物でもあって、他町村の伝統行事との交流を深めて子どもたちの健全育成につながればいいかと考えてる」と私なりに語ったわけだったのさ。「ささよ太鼓」と名付けて、残していこうと思ったんです。そして、役場の生涯学習課から、県の方に補助の書類を出したんだが、いっぱいでその年はダメだった。

次の年、ダメもとでもう一回出してみたら、採択になったのが、日本生命財団(現ニッセイ財団)。その当時の助成金額で私たち一番多くもらったんです。あくまでも太鼓の購入にあてるということで、1個買って20万円でした。けれど、「貧乏家で馬を一頭持っても、どうにもならない」っていう喩(たと)えがある通り、太鼓一個もらったってどうにもなんないから、部落でなんとか、その太鼓作ってくれないかって、話し合いが賛否を呼んで、「大金かけて、太鼓を作るもんじゃない」とか、いろいろ文句は出たけれども、最後は私に押し切られて大きな太鼓2個を買ってもらって、私が法被15着とのぼり旗なんか寄贈して、基を作っておいたんです。それから、長く伝えていたおかげで、気仙沼でも地域文化賞っていうのを頂いて、私が頂きに行ったり、地域貢献賞っていうのもらいました。

ところが、今回の津波で、部落のセンター(集会所)が海岸にあって、そこに表彰されたものも、法被やら何百万もする太鼓やら、全部置いていたから、津波で全部流してしまった。バック幕って、この辺のどの文化財の人たちでも演じる後ろさ幕入れてっから、「おらほでもこれ作っか。俺とあんだで寄付して作ったらええか」って寄付したのもあったけど、こいつだけ津波のあと、見つかったのさ。

付近の人たちね、「大きくなったら学校さ入って太鼓を教えてもらえると思ったのに、流されてしまって」って嘆いてる。もともと、70%の確率で津波来るよ、って言われていたから、センターを海岸に置くのは反対だったんだけども、宝くじの支援金だったから、期限があることで、急いだんだね。高台に山を崩して平らにすれば、いくらでもあったのに、時間がなくて、現状のところに、ということでつくってしまった。「あくまでも集会所なんだから、いいだろう」ということで。その頃私たちも、部落から引退してるから、「年よりがなに、余計なこと」って言われるから強くは言えなかったね。

それでも、震災後、JR(東日本鉄道文化財団の「歌津寄木ささよ整備事業」支援)から100万円寄贈されたんです。

法被は太鼓と歌とどうやら20着ずつ作ったし、今度の保存会の会長さんも、いろんなところ回ってなんとか寄贈されて、太鼓を準備できたようだし。

ささよ太鼓の伝承

だから私のところにまた、「子どもにささよ太鼓を教えてほしい」って、1週間だか10日ばりしか期間がなかったから、津波前は楽譜みたいなの作ってたけど、それも流したから、3分の1の時間で何とか終わるように全体を切り詰めて、変わらかして(変更して)、なんとか恰好だけつけたんだね。ささよ太鼓の譜は、最初は「かわらや(屋号)」さんの息子さんに作ってもらったんだけっども、叩きよう(叩き方)が3種類しかないんだ。それをいかに組み合わせて格好よく、またみんながその音を聴いて「あっ!」と思うようにやるのが譜面の作り方なんだ。あとは、叩く格好をいかにも「太鼓叩いてるんだよ」っていうような格好に見せるにはある程度の練習がいるんだな。けどもとは真ん中さ「ささよの歌」を入れて30分以上かかったのが、今年は15分ぐらいに短い。練習時間も短くてやむを得ないから、それでもいいんでないかと。

奥様のお話 お正月になっと、(吉雄さんは)5日から15日にかけて毎晩(ささよの練習に)行くんだもの。今でも、会長さんが代わったけんども、「来い、来い」って。「今も行ぐのか。やめねえで」って語って(笑)。まず行くんだっけね。子どもたちにだまされて。アハハハハ。

謡を趣味に

謡(うたい)は、幾つぐらいからかな・・さて、歳はね・・・教えられたのは、3年間やっただけだな。3年間。今から62年か63年前だな。だから、22〜23歳の時、覚えたんだ。

結婚式なんか今のように、ホテルだの結婚式場だのでやらないで、家のなかでやるっちゃ。その式をとりもつ世話人が、どこの結婚式でも必ずあるわけ。その先生に、この本で教えられたのね。3年間教えられたから、私もそのお世話役もけっこう、やったんだ。だから、今でもこの歌、謡ってくれないかっていうと、最初謡いだすと忘れないで、後の謡が続いて出てくるだね。

流派は、ここらはほとんど「喜多(きた)流」。文句はほとんど同じだが、伸ばしたりするところが違うんだね。気仙沼の方は大谷、小泉は「大蔵流」。一番多いのは舞台に合わせて謡うようなのは、「観世(かんぜ)流」。

05
06

吉雄さんの謡の教本「喜多流」

この教本で、この脇にある符号でね、伸ばしたり、声を上げて下げたりします。点々のあるのは普通に、高砂や。「たーかーさーごーや~」、「や」で伸びてっから、「や~」でこう伸ばしたりして。今度孫の、結婚式にこないだ謡ってくれってことで謡いました。結婚式ではあと、「玉の井」。

伴奏はなしなんだ。「できるだけ、腹さ力を入れて、腹の底から声を出せ」とこういう風に先生に教えられてるのね。だから、腹から声出して、3日稽古したら、普通の歌、歌えねえの。声でないの。声かすれてしまって。腹の中から出さねえかで、喉からしか声出さねえとそんなことにはならねえ。黒豆、砂糖入れて、ぴっちり煮てもらって、それで食べっと、喉がなめらかになって、声が出る。むしろの上さ、膝ついて。あぐらもなんもダメなんだもの。正座でしかだめ。正座しないと腹さ力入れて、声が出ないと。差し向かいで座って、先生が謡ったあと区切りのとこまで謡って、だいたい覚えたなと思うと、こんどは2人で一緒に謡わせられて、そして、これで1人でも大丈夫だなと思うと、今度は1人で、謡うんです。

内々で結婚式やった時には、お世話する人は、先方のお客さん来てっから、「私なりの流儀でやりますから、ひとつよろしくお願いします」という口上を述べるわけさ。そうすっとお客さんが、その謡を謡う人に文句言えないことになるの。それから謡い出すの。すると、何謡っても結局いいわけだ。「私流にやりますからその点ご了承していただきます」というふうな口上を述べておけば、えばって謡えばいいんですよ。私たちもいくらか結婚式のお手伝いさせてもらったから、そのようにやってきましたね。だから、今の若い人たちさもそのように、謡をやりあえっていうの。

この漁船の進水式には、「四海波(しかいなみ)」をまずやりました。これは、渚でも、家を立てる時でも、結婚式、披露宴でも、おめでたい時に「四海波」は必ず最初に謡います。

07

謡を披露した、漁船の進水式

次に「高砂(たかさご)」を謡いました。よくテレビでなんか見ると、結婚式で「高砂や~」がすぐ出るようだけど。このへんでは進水式の時、九分九厘、「高砂」。結婚式だとかなんかの時には「入り船」。3つ謡わなくてわかんない(いけない)から、あと喜びの歌をひとつ。最後に「さあ、めでたい」ってことで、めでたい端唄と。

[第3章]寄木の「結いっこ」の力
津波からの避難

昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んでもいいならいいけど」って言って、行かないで、そのまま車で逃げたから、助かった。取りに戻った人で助かった人いないって。

津波来るまでに何十分も時間あっても、このように人が亡くなっている。家に戻った人はみんな亡くなった。そして海岸でいろんな海の道具やなんか、確保なんかして送り出したひとは亡くなったし。船を沖に出すなら出す、置くなら置く、っていう決断を早くしないと。

私の孫もね、「船で逃げる」って言うから「船なんかつくればあるんだから、いらないから、船は沈めてもいいから車で逃げろ」って。

船に乗って、沖に出るのが遅くなって、その辺で津波をまともにくらって、沈没したら船ごと終わりでしょう。船で逃げたって、ここから沖合まで、30分も40分もかかるし、その間に、ホタテからワカメから一杯筏(いかだ)があるから。逃げてもあの島のあたりまで行ったころに波がきて、それで終わりです。津波が来たときに、船を出して逃げるということは、今後考えない方がいいから。たまたま助かった人たちの話は自慢話にならないから。それで万が一船で出た人がみんな津波にやられたらどうするの、って。

私は、震災当日、家から逃げたの。家内のばあさんは、高野会館(志津川の集会所。当日老人会が開かれていたが、帰宅できない多数のお年寄りが屋上で津波を被りながら一夜を耐えた)にいたんだな。

08

家で、私と息子夫婦と、女の孫と4人で、ワカメの芯をぬく作業をしていた。そしたら、大きな地震が揺れたのね。3人は地震と同時に作業場から田んぼに飛び出ていったの。ちょうどおやつの時間がくるから、3時だから作業場にヤカンかけたの。それがひっくり返ったり。私は地震の時はいつでもね、急に飛び出したりなんかすると、屋根からなにから、いろんなものが落ちてきて、けがする可能性が大きいから、作業場に最後までいた。そのうちに今度は電気が消える。そして地震がおさまってから外にでたら、そしたらほら、3人で田んぼに立ってた。そのうちに有線で「6m以上の大津波が予想される」って始まった。からって。近所の人に、「6m以上の津波がくるとそこまでいくから、ダメだから、車で逃げた方がいいぞ」って声をかけて、向かいの人に「なに洗濯物なんか干して、有線聞かないのか、6m以上の津波がきたらやられてしまうから、じいさん車に乗せて、早く逃げろ」って。そこ、寝たっきりのおじいさんがいるのね。その一声で洗濯物なげて、それで助かったの。

だけど、また一段高いところの奥に、私より2つ先輩の人たちが住んでたのね。ここまでは来ない、大丈夫だと思って庭で見てたの。1回の波で私の家なんかものすごい音がしてバリバリっと音がして壊れたので、驚いて見たときはもう、家はこれまでだった。そのおじいさんを隣の家の息子さんと後ろの山に引っ張り上げて、なんとかその時は助かったんだけれども、常に体が弱かったから。避難先の病院にかかって、こっちの仮設に帰ってきて、とうとう亡くなった。

今回の津波では、まさか流されるとは思わなかったけっども、近所の人の中には位牌を背負って逃げたり、お米もちゃんと高いところさ上げて逃げた人もあったんだ。チリ地震津波も経験しているような人、海岸の一番、川口にある人はいつでもすぐ津波来っと流されっから、いつでも逃げるように準備したたんだ。用心して、お金でも車でも持ってね、逃げたんだ。おらたちはちょっと離れてっから、なに、ちょっと大きな地震が来たと語ったって、流されっと思わない。戸倉のほうなんか奥手(海岸から離れたところ)の人は一家みんな流されたりしてんだ。「地震おさまったから、なに、お茶でも飲みな」ってお茶飲んでて一家みんな亡くなったというところもある。

ここから少し行くと大学の人が碑を建てた「波来の碑」って、ここまで波が来ましたよって、石が建ってっから。

09

私、いつも枕元に重要書類、土地の所有権とか、なんだかんだおいて、風呂敷に包んで準備してたんです。けど、なにも、逃げることで頭いっぱいで、それ持って、お金などは持たないで出たんです。逃げてくるとき、まさか家が流されると思わないから、また戻ってくるって思っていて、位牌も何も持って来ないで。一回サンダルで出たんだけど、これ履いてはどこにも逃げられないと思って、長靴に履き替えました。サンダルで逃げた人は大変ですよ。ああいうときは気持ちの方は急ぐから。運転できる人が3人も4人もいるのに、大きなトラックもあったのに、自分の車乗んないで、よその車1台にみんなで乗って、自分ちの車ほとんど流してしまったしね。それから小さいトラック買ったから、今は何するったって載らないからしんどいんだ。

近所の知り合いなんかは落ち着いていた。位牌なんか全部背負って来たからね。家の娘も、自分のお金はさておいても、部落の書類は流せない、って2階に駆け上がって、親父が部落の会計役でつけてる一切の書類を全部持って、来たからね。今銀行でも郵便局でも、通帳なくても、連絡すれば全部手続きできる時代だから。何千万のお金だから。部落のお金だから。保険に入って1年しか経ってなかったし。

私は「ささよ」が青少年の健全育成に貢献しているということで、旧歌津町長さんから感謝状をもらったこともあったし、旧歌津町で2番目の防犯実動隊って私たちの部落で作ったのさ。その副隊長までやって、防犯活動に尽くしたってことで、県警と山本知事さんと連名で感謝状を貰ったり、精神薄弱者関係の会長を3期やって、それを後の人さ譲って、今度は相談員になってから、車がないからバイクで町内をグルっとあるいた(出かけた)。今までいっぱいいろんなことやって、みんな感謝状あったけれども、なに、全部みな流した。そっくりね。

そういうのを並べて書いておいたら記念になるんだけど、そういう記録も残ってないからね。

知恵を絞って乗り越えた被災直後

私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、暖だけはとれたからね。

女の人たちはかまどを作って、カマとかを拾い集めて、米は応援してもらってきて、そこでご飯を炊いたり、おつゆを作ったり、畑に行って、白菜とか野菜とってきて食べたりしたから、あそこでは良かったんだ。大きいカマがあるからそれにお湯をくんで、顔を洗うとか、なんかほら、寒い時だから、水じゃ大変だからお湯を沸かしたり。いろんなことをやったね。湯飲み茶わんとか探せばいっぱいあるから。洗えば、済むものだから。つつじ苑で助かったのさ。

でもやっぱりあそこに避難しても様々ね。朝ご飯つくらないで、自分の家に何かないかと思って、探しに行ったり、避難先ではろくな手伝いもしないで、ご飯出ればご飯食べて、また自分のものを探しに行って。そういう自分のことしか考えない人たちが何組もあったの。「かばねやみ(※宮城の方言で、本当はできるにもかかわらず、なんのかんのと理由をこじつけてなにもしないこと、またそういう人)」だね。私たちは箸(はし)もなにもないから、竹を切って、竹で箸つくって、そういう応援ばかりしてました。韮(にら)の浜の人たちにも何十本も箸を作ったら、「記念だから、しまっておく」って語った人もいたね。米だって隠しておいたの、すぐには背負ってこれないからって置いといたら、3日もたてば横から穴開けてかっぱらって食べた人もあったし。でもだいたい盗んだ人わかるのね。500円玉入れておいた貯金箱も4個流されて、1個あった~!と思ったら中身抜かれてね、他は拾われて見つかんない。

支援は医療関係の人たちは早かったね。そして3日目か、4日目か、長野からトラックで第1便来て、炊き出しやってもらった。その人たちが今度、炊き出しをしているうちに話し合って、話がすすんで、材料全部長野からもってきて、山に小屋を作ってもらった。

10

孫が「犬、貰ってもいいんじゃないか、私が育てるんだから」っていうから、生まれて30日くらいでわざわざ、長野から持ってきてもらって、名前マックとつけて。私はいらないって言ったんだけど。ワカメの時は、小さいからこの犬が大人気だったのね。海岸に連れてくると、みんなボランティアの人たちに好かれて、「マックの家に、みんなワカメのアルバイトしに行く」と言い出して。だけど今でかくなってね。まだ10カ月なんだけど。2匹一緒にもらったんだけど、片方はその半分しかないからなあ。

トイレは使っちゃダメですよって言われたって、年とった人情けないから、いっぱいやるんだっちゃ。つつじ苑には避難してる人が何十人も人がいたから、満杯になっちゃう。だから、山に3カ所トイレ作ったんです。足腰の悪い人が、座って用を足すように作ったの。最初は穴掘ってみたものの、しゃがむのに大変だから、今度は桶を高くて、その上にカゴをかぶせて、真ん中に用を足すように切って、その上にスチロール箱を置いて、しゃがんでも痛くないように穴をあけてやって・・。桶がいっぱいになれば、若い人たちが山の向こうの方に穴を掘って、投げてきて。

逆の立場でも惜しみない支援を

今、長野の人たちが支援してくれてるのを見て、向こうの人たちがこうなった場合は、果たして自分たちにこのようなお礼ができるかって話しているのね。いつ何時こういうことがあっても、率先して応えなければわかんないんだってことは、若い人たちなんかに伝えたいね。是非やらなくちゃだめだぞ、って言ってる。1人でも多くかけつけるような心構えでなくてはダメだぞ、って。

一番感激したのは、大分から来た、まだ若い女のお医者さんだったんだろうな。2人で来て、仮設の小さいテントの中で泊りながら、2日くらい、いろいろな診察したり、そういうことしてもらった。あれには感激したね。あの年代の女の子で、あの前にテントを張って。みんなの、身体を診てもらったっていうのは・・。だから、ああいうのを忘れてはだめだぞ、っていうようなことを常日頃私言っているんです。

私は薬ひとつ飲んだことないから、先生来ても来なくてもいいんだ。保険証汚したことないから。それでもね、みんな、血圧測って、薬もらったりして、避難所にいっぱい、先生が入れ代わり、立ち代りきたから、常には医者にかかっていない人たちまで診察で、血圧測ってもらって。そういう時だから測ってもらって血圧上がっている人が多いんだ。

鳴子に避難した時も、市長さん始め、向こうの人たちは大変お世話になった。入れ替わり、立ち代りくるんだもの。毎日。物資は大事にしている中で来てもらって、その他に物資持ってきたいろんな、園芸やる人たちも、かわるがわる3日に1回とか1週間に1回とかきて、初めてああいうふうにしてもらって、常日頃なんともなくピリピリしていた人たちも、いくらか心変わりしたんじゃないかな。こういうことあったんだから、お前たちは向こうで何かあったときには、この何分の一でも恩返しする気持ち持たなければって、はっぱみたいにかけて言うのさ。私はこういう性分だから、このとおりだからビシビシ言うわけさ。

高台移転と自宅の再建も待ったなし

今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だから私もいつでも来るから、あなたたちも来てお茶のめ、って言ったの。引っ越しした人は来なくたっていいっていうことはいうなってね、今朝も語ってね、笑ってきたけれども。だけど、家を建てるのは最初孫たちも私も反対だったけれども、そのうちに寄木と韮の浜の両部落の人たちが40戸も、歩いて5分もかからない近くの高台に移転するようになったから、それならばいいんじゃないかってことで、私たちも納得して入るようになったんです。でなければ私も最後まで反対したのだけれど。

今どこでもね、坪単価が急に値上がりして、一坪70万。高いね。高台に建てる人もね、来年の年度末になれば整地始まるんだから、ちゃんと整地始まる前に大工さんを予約しないと、大工さんたちは、もう予約でいっぱいでね。ある大工さんなんて150戸も予約受けてる。だから高台だの、整地ができて家を建てるようになったから大工さんに頼むべ、というようなことでは遅くて、そういうことも頭にいれていて、誰かがどこそこに建てるとか言ってたら、「大工さんがっちり確保して、それから整地するようなことじゃないと、だめだぞ」ってね。そういう風にしないと、3年も4年も今度いつまでも狭い仮設に入っているようになるからって。

すぐに家を建ててすごいと思うかもしれないけど、私たちは海が相手の仕事だから、漁業さえ確定すれば、銀行から借りても払うくらいの金がとれるっていう自信があるからね。

11

寄木部落の心

この辺りでは「契約講」が2つあるんです。昔から伝わっている契約講は、昔からいる財産持ってる人たちで、入るには何十万ですよ何百万ですよってお金が必要なのね。そんな大金を出すには、自分の生活するのさえ大変な時代だから、加入しないで過ごした人たちがいて、その人たちがあとから新契約っていうのつくって。あくまでも古い契約のほうから部落の会長をだす。そして新しい方から副会長。そして、会長になった人は部落の一切を仕切るわけだ。

志津川のほうでは、なんでも行政区長さんが代表だっていう。区長っていったって、行政のこともやるし、部落のことも一切のことやったら大変だべ、っていうから。そういう風にやってきているから。なんだか区長になる人は大変なんだろうな。町の方のことも精いっぱいなのに、部落の一切のやることまで頭にいれていたら大変。

だけど、昔の歌津町は行政区長さんの方は町の方の行政を担当して、あとのことは、契約会が仕切るんだっていう感じ。会長やっていた時分には、年に一回ずつ会長会があり、役場のほうからも人が来て、会ったんだけれども、今はどうなっているのか。私が辞めてから何十年になるから。

震災後に入った寄木仮設って9世帯で部落の人たちだけだから、たとえ魚一匹取ってきても、自分の家で食べきれないと、さらってきたから、って分けてやったり、梨送られてきた、食べきれないからって一個ずつやったり、畑もやっていればきゅうり持ってきてやったり、そういう、普段からのいたわり合う気持ちは、津波の後でも、まず変わりないんだね。仮設に住んでるのが部落の人たちだけで、ここで良かったなって。

だから、仮設でも豆送られてきたって豆分けてよこす者もあれば、リンゴ来たからやってやったり、米なんかも一杯送られてきたから、食いきれないからわけてやったりして。ここの海岸でワカメ作業しても、震災でばらばらになっているから、今は難しいけれども、自分の仕事、ワカメの切断から、メカブを切断したりの作業でも自分の家の分が終わっても、よその家が終わらないと、手伝ってね。寄木はそういうことについては、歌津町の時代から、模範部落として何回も表彰受けているんです。こっちの言葉で「結(ゆ)いっこ」って言うんだ。ここは仕事なんか遅れると、他の仕事でも畑の仕事でもみんな手伝ったから。沖に作業にでても、早く私たちなんか海に出ると、一人で出てる人の船によく乗り移って、手伝いした時もあったのね。一人でかわいそうだから、遅くなるからって。みんな、結っこをやったんだ。

だから共同精神はこの辺は、この部落は一番ね。お母さんの教育がいいから。親の背中を見て育つっていう喩えがあるんだもの。親がこうやってるから、自然にみて。教えるのではなく、覚えるんだよ。それにやっぱり体惜しまず動く人と、動かない人とは全然違ってくるよ。(談)

12

この本は、2012年10月から11月にかけ、
宮城県南三陸町歌津寄木にて、
畠山吉雄さんにお話しいただいた内容を忠実にまとめたものです。

聞き取りにあたっては、寄木の丸七水産の高橋七男さん、和子さんご夫婦はじめ
高橋家の皆様の多大なご協力をいただきました。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。

[取材・写真]
土田照美
織笠英二
五十公野実和
久村秀樹
久村美穂

[イラスト]
土田照美

[編集協力]
土田照美
五十公野実和
牧 れい花
大橋弘幸

[文・編集]
久村美穂

[発行日]
2013年6月吉日

コメントは受け付けていません。

Information

投稿日:2014.05.21
カテゴリー:自分史.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 今朝磯 仙北鉄道 仙台 仙台84連隊第12中隊 仙台味噌 仙台市苦竹 仙台軍需工場 仙台銀行 仙石線 代掻き 代用教員 代用食 仮設住宅 仮設校舎 仲人 伊勢 伊勢神宮 伊達家 伊達政宗 伊達藩 伊里前 伊里前の市 伊里前契約会 伊里前小学校 伝統食 伝説 伽藍 低体温症 佐沼 佐藤正信 佐藤正助 体育大会 作並街道 作業小屋 作男 例祭 保健センター 保存食 信用組合 信用金庫 修学旅行 備え 傾城 阿波の鳴門~巡礼歌の段 元旦 元朝参り 兎汁 入谷 入谷小学校 全日本少年武道錬成大会 八幡様 八幡神社 八百万の神 公務員 公民館結婚式 六丸 兼六園 兼業 再建資金 冒険 冠婚葬祭 冬の遊び 冷凍網 出征 出稼ぎ 出笹沢 切り子 刈払い 刈掃い 初任給 刺し網 刺身 剣道 加工団地 加工場 助教 動力船 勤労奉仕 北上川 北洋船団 十三浜 十五夜 千島列島 千歯こき 千葉正海 半農半漁 南三陸町 南三陸町民族無形文化財 南三陸町町議 南寧 南方 南満州鉄道 南部神楽 南郷 参詣 及川甚三郎 友好町 古代装束 古文書 召集令状 可美村 台湾 右もらい、左もらい、カギ持ち 合併 合併協議会 合祀餅 吉三郎沢 吉野沢 名足 名足小学校 名足浜 向洋高校 味噌 味噌汁 品陀和氣命 哈爾濱 唐桑 唐桑尋常小学校 唐桑小学校 商工会 喜多流 喧嘩 四海波 回遊魚 囲炉裏 囲炉裏端 国民学校 国立海上技術短期大学校 国立清水海員学校 国際交流 国際交流協会 国際魚竜化石サミット 土俵作り 土葬 地主 地域振興協議会 地場産業 地方銀行 地鎮祭 地震 地駄引き 坂上田村麻呂 垂下式 堤防 塩入 塩水選 塩蔵ワカメ 塩釜 塩釜神社 増産隊 壇ノ浦 壊邑館 夏休み 外国人留学生 外材 多賀城歴史資料館 多賀城資料館 大害沢 大工 大工見習い 大日如来 大東亜戦争 大根 大根おろし 大根の葉 大漁旗 大漁祈願 大畠章宏国交省大臣 大盤峠 大祭 大網 大胴太鼓 大蔵流 大規模半壊 大謀網漁 大谷 大谷地区 大谷小学校 大谷海岸 大谷金山 大谷鉱山 大豆 大連 大連鉄道学院 大雄寺 大麦 天保年間の津波 天宇受売尊 天岩戸開き 天津児屋根尊 天然ワカメの干し場 天然記念物 天照大神 天照皇大神宮 天狗の面 天皇 天皇陛下バンザイ 天草 天草つき 天草の開口 太平洋戦争 太鼓 奉公 奉公袋 奉天 契約会館 契約講 奥尻 奥州藤原氏 奥浄瑠璃 女の沢 女学校 女川防備隊 妙音寺 嫁入り 子どもの遊び 子供キャンプ 孝子お筆重次郎 学制発布 学徒動員 学頭 宇佐八幡宮 宇佐神宮 安倍貞任 安東 安波トンネル 定置網 実習操業 実習航海 実習船 宮司 宮城丸 宮城球場 宮城県教育委員会 宮城県本吉響高等学校 宮城県水産高校 宮城県津谷農林学校 宮城県津谷農林高等学校 宮城県津谷高等学校 宮城県社会福祉課 宮城県神社庁 宮城県青年団連絡協議会 宮城農学寮 宮城野原総合運動場 宮城野青年学校 宮大工 宵月 家畜保険 家畜商 家畜車 家督 寂光寺 寄木 寄木仮設 密漁 密航船水安丸 寺子屋 将棋クラブ 尋常小学校 尋常高等小学校 小作人 小名浜港 小型船舶免許 小学校 小屋の沢 小林司教 小正月 小泉 小泉の歴史 小泉の祭り 小泉の花火 小泉中学校 小泉八幡様 小泉八幡神社 小泉城 小泉小学校 小泉幼稚園 小泉進次郎 小漁 小豆餅 小野寺弘司 小鯖 小鯖神止まり七福神舞 少年兵 少年剣道会 就職列車 屋号 屋島合戦 山の幸 山伏 山伏神楽 山内家 山内盛 山学校 山師 山林 山背 山菜 山菜採り 岩戸開き 川魚 巡礼おつる 巡視員 工業団地 巨人、大鵬、卵焼き 巨釜半造 差網 市町村合併 布刀玉尊 幌羽山 幣価切り下げ 幣束 干しアワビ 干し柿 干し芋 干し蛸 平成の大合併 平成の森 平成の森仮設 平泉中尊寺金色堂 平磯 平磯虎舞 広瀬高校 広葉樹 庄内市 庄内町 庄屋 床屋 座敷まわり 延縄 建前 廻館 弁当 弁慶 弁慶に刺す 弟家督 弥惣峠 弥惣峠~入谷ルート 彌勒寺 後藤寿庵 御天王山 御天皇山 御崎さん 御崎神社 御幣束 御神入れ 御薬師 御開帳 復旧 復興 復興への想い 復興市 復興庁 復興担当大臣 復興需要 徳恵 徳陽シティ銀行 徴兵 徴兵検査 徴用工 徴用船 德陽無尽 德陽銀行 志津川 志津川の大火 志津川の蛸 志津川中学校 志津川会 志津川実科女子高等学校 志津川実科高等女学校 志津川小学校 志津川湾 志津川町 志津川病院 志津川駅 志津川高校 志津川高等学校 愛宕神社 慈恵園 慶長地震津波 慶長地震津波伝承地 戦中 戦争 戦後 戦後の給料取り 戦後の食糧難 戦時下 戦時中 戦時徴用 戦死 戸倉 戸倉村 戸倉村尋常小学校 手仕事 手力男尊 手漕ぎ船 指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 飴餅 餅まき 養殖 養殖ワカメ 養蚕 養蚕の神様 館城 館崎 香林寺 馬っこ 馬の足 馬喰 馬捨て場 馬橇 馬糞拾い 馬車 馬追 馬鍬 馬頭観音 高台 高台移転 高射砲 高島田 高度成長 高度経済成長 高砂や 高等小学校 高野会館 髪結い 魚屋 魚竜 魚竜化石 魚竜太鼓 魚竜舞 魚竜館 魚艙 魚釣り 鮎釣り 鮪立 鱒淵 鱒淵の5さん 鱒淵の5ちゃん 鱒淵小学校 鱒淵源氏ホタル保存会 鱒渕野球クラブ 鳥越沢 鳴子中山ラドン温泉 鳴子温泉 鴇波神楽 鹿折 麦ごはん 黄金郷 黒毛和牛 黒豆 黒部の太陽 鼎が浦高等学校

地域の歴史や文化