佐藤尚衛さんから語られるふるさと鱒淵(ますぶち)の土地と人にまつわる物語は、どれも生まれ育った美しい里山への、のびやかで、おおらかな愛情にあふれています。
尚衛さんは林業にかかわる仕事を通して、何十年も山を上り下りしてきたため、身体の鍛え方が根本から違うのです。私たちはそこから放たれるエネルギー、豪快な話ぶりに圧倒され、魅力的な話に引き込まれていました。真剣に山の仕事の話をされていたかと思うと、ときどきどこまでが冗談でどこまでが本気なのかわからないような話を大真面目に語られ、最後にワッと笑ってしまって「やられた」と思うことも。これをお読みのみなさんに、尚衛さんと尚衛さんにつながる里山の人々のつながりの温かさ、鱒淵での昔からの産業史、暮らしの諸相そしてふるさとへの熱い思い入れを詠んだ川柳などを知っていただければ幸いです。
2013年8月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
この自分史作成にあたっては、小野寺寛一さんご自宅の一室をお借りして聞き取りが行われました。
場所をご提供いただきました小野寺さんに厚く御礼申し上げます。
尚衛さんは議員になる前の12年間、自作の川柳を描いた茶碗300個を毎年年初めに造られたという。ご本人は落書きと話されるがどれもご自身の人生を振り返られた味わい深いものばかりである。
一、初恋の馬喰(ばくろう)稼業 縁切れず
嘘もつけずに十と八年
一、後継者(あととり)が有るや無しやにかかわらず
馬喰一代今を生き抜く
一、山水で四十八年育まれ
牛馬相手の人生峠
一、竹峯山 花見もせずに野良姿
今年こそとの願いをこめて
一、負債(マイナス)を背負うて生きる牛飼や
寒さ苦にせず牛小屋に立つ
俺のあだ名は「尚(なお)ちゃん」っていって、世間がちゃんをつけて呼ぶんだね。やっぱり総理大臣とか何とかさ、うんと目上の人には普通「ちゃん」ってつけねえから、「ちゃん」をつけるっつうことは、子どもの頃、近所で名前を呼ばれてたやつをそのまま大人になっても呼んでんだ。この辺はそういうのがあるね。
鱒淵には「5ちゃん」って、「ちゃん」付けで呼ばれたこの地区で名の通った人が5人、いるんです。俺も「尚ちゃん」でその中に入ったんだねえ。もう亡くなった人が多いんだけども、年の順から、こういう人たちでした。
「飲兵衛まんちゃん」は、私が若い時、同じ馬を引いて山仕事をした正直な先輩で、大の酒好き。
次は「助平(すけべい)喜ちゃん」。この地区に喜ちゃんと言われた人が5人いたから、誰を指したかは不明です。
3人目は「法螺(ほら)吹きカズちゃん」。県議2期、町長2期の大政治家だが、町有林にグリーンシャワーを計画したが実現できず法螺吹きカズちゃんと言われた。
4人目は何事にも(議員、農業委員)恐れず挑戦した明ちゃん。
俺が5番目で、山奥からに住んでいるが、年若いのに「礼儀正しい峠(とうげ=屋号)の尚ちゃん」ってね。
ほれ、5人の中で一番年若えわけだ。だからちゃん付けは、周りの人が考えて付けてくれるんだね。
その後、同じ議員(登米市との合併前の旧東和町町議会)したマサヨシさん、もう亡くなったんだけっどね。その方が「いやあ、俺んとこもなんとかその名さ入れてけっしゃろ(そういう名前を持ってる人の仲間に入れてくれよ)」っていうわけさ。今まで誰も「まっちゃん」なんて呼ばない、「マサヨシさん、マサヨシさん」って「さん」付けしてやったからねえ。しょうがねえから、(何の名前付けたらいいべかな?)って考えてさ、本人さ、「『金持ちのまっちゃん』で良いがすべか(でしょうか)?」って訊いたら、「いい」って言われて。「ちゃん」付けされた人の仲間に入りてかったって、なかなか入れなかったけども、最後にその人『金持ちのまっちゃん』って名がついたね。それでも、その人は「5ちゃん」には入ってないの。6番目だね。
それから「5さん」と言って、
1番は長年東和町長を務められた及哲さん。
2番目は木材会社を興した岩渕幸夫さん。
炭焼きから林業を興し、多くの人を雇った藤原東蔵さん、稲毛静吾さん、小山力夫さん。
この5人は、誰にもちゃん付けでは呼ばれず、みんな敬称のさん付けで呼んでいました。
ウチはきょうだいは、全部で6人。1番目が沖縄で戦死した兄貴ね。あと2カ月もすれば戦争も終わるって時だったけれど、兵隊さんだからしょうがないんだね。赤紙1枚でそっちへこっちへって左右された時代でしょうから。俺が昭和14(1939)年6月11日生まれ、兄貴が大正6(1917)年生まれだから、26歳違い。それから2、3、4、5番目と4人女。それから俺で全部で6人。末っ子です。だから甘えん坊でね。
父親はずっと百姓でした。何代になるべな、俺たちは記録にないし、ちょっと分かんないね。ずんちゃん(祖父)も百姓だったかどうかわかんねえけど、なんか子どもの頃、ずんちゃんが杖をついて歩くのを、イタズラで取っ返して、転ばしたわけだ。覚えてないんだ、自分は(笑)。
戦後すぐは、今みたいに米だけのご飯なんてのはなくて、麦だけとか、米に麦あるいは豆とか入れたりなんかしたんだ。それを食べてこういう体格になったんだから(笑)。
それでも家の田畑で作るものだけでは、食べ物が足りなかったんだね。戦争中に、みんな田舎に疎開してきたから。2世帯も3世帯も帰って来たからね。今も9人家族だけど、当時の11人とはわけが違う。ちょうど食料難の時代にそういう大家族になったから、大変だったんだね。
両親、カナダに行ってきた叔父と叔母、あと俺たちが6人きょうだいだったからね。だけども、2番目の姉っていうのが、米谷(まいや)(宮城県登米(とめ)市)に嫁に行ったんだけど、だんながフィリピンで戦死して、俺より5歳下の長男つれて実家さ帰って来たわけだ。親父の顔もみないで、生まれたんだね。
そういうことで11人、いたからね。みんな一生懸命働いてもらったんだけど、それでもね、なかなか大変な時代だったんだね。
子どもの頃は、俺たちが学校から帰って見たら、今ホタル出る川(鱒淵川)がすっかり凍ってたのさ。下駄さ鎹打(かすがいぶ)って、スケートにして遊んだのさ。それから、あそこで木馬(キンマ)(身近な木材を作って手作りした子ども用のそり)走りだ、あとは竹で作ったスキーさ。
下駄スケートの作り方出典:オリオンの311の星
今も寒い寒いっていうけど、川の水がさっぱり凍らないね。んだら俺、凍る温度が昔と違うのかなと思って (笑)。
昭和21(1946)年、終戦ちょっとしてから、小学校入学で、その事件が起きたのは7歳のときだ。自分ではわかんないし、たぶん先生も悪いんだけっども、ただ、先生が一生語り続けた(そのことについて尚衛さんにずっと言い続けた)わけだ。
入学して2~3カ月のときに、家庭訪問ってあるわけだね。ここから小学校まで7kmぐらいあんだっけども、一応通ったんだ。女の先生で、ワタリミキコ先生って言ったんだけっども、一緒に歌っこ歌いながら俺の家の方まで歩いて行ったんだ。うちが一番山奥だったんだね。
その隣、200m離れたところに別の家があんだ。俺、突然先生を置いて、先に走って行って、この隣の家さ入ったんだね。そして隣の家の小麦畑なんかあるところをずっと通り抜けて、自分の家に走って行ったんだね。
それで先生が、尚衛がこっちへ入ったからこの家だろうと思って、隣の家に「ごめん下さい」って入って行って、コートをちゃんと畳んで縁側さ置いてさ、そしてほら、おひざをついてね、「私、ワタリミキコと言いますが、こちらの尚衛さんの担任を・・・」と、こう、名乗って出たわけだ。そしたら、そこの家のお婆さんはキョトンとしてやったっつうんだな。先生は、「耳が遠くて聞こえねえのかな?」と思って、もう1回いい直したんだと。そしたら、「あらあ~、尚衛の家、隣でがす(ですよ)」って。
それでね、俺は先生に「一生一代の大恥をかかせられた!」ってね、亡くなるまで言われた。未成年者どころか、わけわかんねえ歳にぜんぜん罪の意識が無くてやったんだけど、小学校1年生の時から『学校の先生を騙した男』だっていうことを、背負ってるわけさ(笑)。
ワタリ先生が年取って、調子が悪くなった時にお見舞いに行ったって、そんな話をまた言われてさ(笑)。その時、先生から「もらいもんだけっども」ってさ、印鑑ケースをもらったんだ。それを大切に取ってあるけどね。そんなことを小学校時代はやってしまったんだね。
中学校に来てからは、いじめっつうのがあったね。俺がいじめられました。というのは、米川中学校ができる前は、中学校2年生まで鱒渕小学校に通っておりました。米川中が出て(できて)、2年生の2学期からそこに行って野球部で野球やってたのね。
今こそ大人しいが、当時の俺は『鱒淵の山ん中から来た横着者』に見られたんでねえかな。たぶん放課後だったと思うんだけど、米川中の先輩たちに「ちょっと来い」って呼び出されて、八幡様のある裏山に連れて行かれてね。4人だか5人だかに殴られたか蹴られたか、やられてね。そして泣いて・・。
人っつうものは、泣くまでが大変なんだね。泣いてしまうと、「怖いもんなし」っていう気になってしまうんだね。それで、野球やってピッチャーだったから、その先輩めがけて、道端の石を投げてはぶっつけ、投げてはぶっつけで、泣きながら追いかけたんだね。そして、いじめた人たち(したあづ)が「綱木(つなぎ)の沢」って西さ行くほうに逃げてって、石が当たったかなんだか分かんねえけどね、それから後は絶対、俺には手も足もつけなかったね。
だから今よく、「先生になんかされて自殺した」とかなんとか、新聞紙上にぎわせてるけどね、俺の経験から言うとね、そこで死ぬ気になってやり合えば、もう後は無いんだけどな、っていう、ひとつの教訓があるわけね。
中学の野球部では、レギュラー9人中5人が俺たちの同級生、鱒淵の人だったからね。逆に勉強の方は、宿題なんか無論、出るんだけっど、やったことないのっさ(笑)。不登校というんではなくて、学校には行くの。だけど、授業が始まる前や放課後には、「8番教室」って大きな教室で相撲ばり(ばかり)やってたのね。8番教室っていうのは、工作室なんだね。大きなテーブルがあって、それを隅の方にやって広くして、チョークで土俵を描いて。「授業いかねえで相撲やっべな」って相撲やって、あと弁当は持ってくからね。2時間ぐらいはやってんのさ、大体。まあ大体1週間に2日は授業に出ないで、相撲取りでそこのクラスで済ますわけ。親も家を出たと思ってるから(笑)。電話もねえ時代だ。「学校さ来ねえ」なんて電話も寄こされねえ(笑)。
威張って言うことではないけどずいぶん悪いことしたんだね。たとえばオノデラウタコ先生って、習字の先生がいたのさ。真面目な人たちは、先生が来る前に墨を磨(す)るわけだ。ところが私たちは先生が来てから磨る訳だ。そうすると無論みんな字もしっかり書くわけだ。ところが俺たちは相撲だの山学校だのしてっから、字もろくに書けないし、先生に叱られる訳わけだ、「こうやれ、ああやれ」って。で、みんなで筆洗うでしょ? 今みたいに手洗い場みたいなところでなく、バケツに水を汲んで来て、そこで筆洗ったりなんかすんだ。そのバケツになんか引っ掛けたふりして倒すと、ザーッと水がかかるわけだ。いまの作りと違って、床が板張りの木造校舎だから、その板さ通じて、水が下さ流れるわけ。その下が職員室になってるんだ。そういう仕返しをしたんだね(笑)。先生も迷惑だったろうと思うよ。それがだいたい1回だけじゃねえんだもん。けど1人だけじゃだめさ。「今週自分やったら来週はおめえだぞ」とか交替でやったね。だから字も覚えないしね(笑)。
今だから話せる思い出
英語のオイカワショウスケ先生って、亡くなったけど、怖い先生だったね。中学校2年、分校で鱒淵小学校の教室を借りてる時だね、英語を習わせられる訳だ。ところがこの通り声が高いからね。「英語なんか、百姓するのに習わんでいい」って語ったのが先生の耳に入ったんだね。2時間廊下に立たせられてさ(笑)。ただ立ってる。姿勢を崩すと怒られっからねえ。
それから、フジワラ先生ってまだ健在なんだけど、女の先生だから、みんな何言われても言うこときかねえわけさ。そうすっと「おとっつあんに語ってやっからな(父親に言いつけるからね)」って言われると、みんなやっぱり黙ったのね。なんかね、親父ってのは中学校へ行っても怖かったんだべね。
制服は、俺たちはどっちかっていうとホントの学生服でなくって、なんていうかな、近所の人のお下がり、着たったと思うよ。
俺たち「うるし柿道路」って言ってたんだけど、その道路が米川に通じてんのさ。片道12キロあった、その道を通って自転車で米川に通学したんだね。パンクしたら押して帰る。迎えに来るったって、今みたいな自動車もないしね。冬になっと、この道路が雪で大変だった。自転車もなにも通れなかったから、みな歩いていくんだ。ゴムの長靴買ってあるからね。家を出されたったね。
大きな雪の時は、休むんだけどね。ただ近所に同級生の女の子がいたのさ。その人がまた、まじめすぎて、どんな雪でも学校に行くんだね。「なんだ、キヨコちゃんが行くのに、お前がいかねえつうことあんのか」って親に言われて、まず、こっちは辛かったね(笑)。ほんとその人のことば恨んでね(笑)。
北上川が溢れて、この辺が水害になったことあったんだ。飯土井(いいどい)あたりの、今登米市の庁舎がある近辺の人たちは、水害で長靴もらったのね。長靴なんてのはなかなか買ってもらえない時代に、配給になったんだ。俺たちは山の中だから貰えないわけっさ。あのときはホントになんていうかなあ、欲しいと思ったね。
行き帰り友だちと話したのは、たぶん、先生の悪口とかなんかそんなでなかったかねえ。今日はあの先生だから授業に行かないべとか(笑)。
当時、俺たちは大きなアルミの弁当箱にいっぱいご飯詰めて、梅干1こぐらいで暮らした時代だからね。キケガワ君っていうのが野球部のマネージャーだったのさ。奴が、俺たちが一生懸命練習してる時に俺の弁当食べた後の空に、石を入れたのね。そして俺がそいつを知らねえから、ほれ、片道12キロもカタカタ、カタカタ自転車で帰って来て、家に帰ると石のおかげですっかり穴が開いて弁当箱が使い物にならなくなったのさ。冗談がすぎたようなイタズラだっんだけどね。そういうことあったね。今でも同級会なんか出るとその話になるんだ。
ヤマ学校で何か学ぶべかねえ? 体力がついたかも知んねえね(笑)。相撲取りだの山を上り下りしたんだから。
俺は高校は行かなかったからね。みんなが高校さいくときに、農業の傍らに、馬を引いて山さ丸太出し行ったのよ。山から、切った材木をそのままソリに積んで馬にひかせて。「地駄引(じだび)き」って言うんだけどね。それを中学校終わってから、足掛け11年やったのかな。
農業の方は季節的にある時とない時があるんだけっども、その合間に地駄引きをしたんだね。
馬は自分の家の馬で、この地域には当時は十数頭いたった、その中の1匹だったのよ。北海道から来た馬で。品種はヨーロッパ産の「アングロ・ノルマン」っていう、そういう引き馬に適したので、馬そのものには名前もなにも言わないこったね。ペットではないんだね。
馬の世話は俺だけでなく、あと家のみんなで、草を刈ったりなんかして世話やったの。そういう生活を昭和30何年までやったんだね。
運搬する木材は、杉だの松だの、いろんなもの。いまみたいに雑木林っていうと杉と松。杉と松の比率は昔とそんなに変わってねえと思うね。松の場合はある程度、自分で植えなくてもほれ、自然に生えるし、杉の場合はほとんど植林してるからね。
前の町長さんが青空工場を推進してね。今みたいに木材の価格が安くなるって誰しも思わないから、とにかく山野率が80何パーセントの東和町、切ったら植えてと政治的にもそういう政策だったんじゃないですか? 例えば補助金出したりね。そんなで、植林やったから、今いたるところに杉が生えてるわけさ。杉なんてのは切ってしまえばちょこっとは生えてくるけれども、きちんとした林にはならないわけだ。松の場合は種を鳥が持っていくか、何が持っていくか自然に生えるけどね。
材木を運ぶ馬橇(ばそり)は、丸太を積むぐれえの丈夫なもんだから、ボルトを留めてしっかり作って、滑りやすいようにソリの鼻を削ってさ。松じゃなく、加工しやすい杉で作るの。
1日山4往復、午前中2回、午後2回って歩くんだもの、岩の上、石の上ガラガラ歩くし、重い物積んでるから、馬橇が疲弊するわけだ。それが1週間続くと使えなくなるから、また作って。毎週毎週、そういうふうにやるわけ。
尚衛さんが描いてくださったイラストをもとに再現しました
材木の置き方
馬橇の材木を積む面には、鉄の鋲が打たれてんだ。ここに丸太の前側を積むわけだ。その上をチェーン掛けて、ジャッキでガッチャガッチャ締めてね。鋲で止まってるから、材木が抜けない。
丸太の後ろっ側は引きずんの。引きずる木は下の皮のところだけが減るけども、他の木は大丈夫。
引く材木の長さは、13尺=393.9cmは安定感があるけど、6尺=181.8cmだと不安定だね。
馬を進ませるときには、叩かなくてもね、声かけただけでこう、動いてくね叩くぐらい積まないから。毎日ね。
運賃
1尺(3.03cm)×10尺(30.3cm)=91.8cm2が1石っていったから、それを3石積むわけね。
1石800円だったら、地駄引き1回につき、3石×800円/石=2400円ですか。そいつを4回やると言うとだいたい10,000円になるんだ。
普通の鱒淵で働く人の平均日給は、250~300円だからね。だから相当の働きはしたわけさ。
ただ、むろん、馬さもほれ飼育にお金がかかるからね。
馬の手入れはね、蹄(ひづめ)を守るのに、蹄鉄(ていてつ)ってやつ掛けんのさ。蹄鉄やってる「金靴(かなぐつ)屋」は米川(よねかわ)か津谷(つや:気仙沼市)にあんのさ。こいつだけは自分たちではできないから、米川の「三浦」っていう金靴屋まで行ったのね。そこに行って馬の爪を削る、そして鉄を赤く焼いてて、こいつを馬の蹄さ、おっつけるわけだ。すると形ができっから。固定するのに、端の部分さ長い釘3本ずつ打つわけ。だいたいそれで半日かかんだね。行って、1時間ぐらいかかって。そういう時は山越したんだね。
金靴屋は馬専門だよ。それくらい馬がいたってことだね。地駄引きだけでなく、薪(まき)だ、炭だと馬が背負って、駅まで、どこまでって馬車で行ったんだ。
蹄鉄を焼き形を整える職人
蹄鉄屋の看板
蹄鉄屋の店内
*掲載ページの閉鎖により、上記3点の写真の管理者様と現在連絡がとれなくなっております。
掲載についてお気づきの方はご連絡ください。
木挽(こび)きって山で木を切る人は別にいる。木を切るときは、のこぎりを手で引くんだ。例えば、1つの会社の製材所があって、4~5人の木挽きがいる。それから山から切った材木を出す人。あとは車に積んで工場に持ってく人。だから当時は1つの会社に何組もの仕事がこの地域にできたわけだね。
当時の林業の流れ
まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
地駄引きを11年続けて、ちょっとそれを休んでね。昭和36(1951)年、日本鋼管(※現在は2003年に、川崎製鉄(川鉄)と日本鋼管 (NKK) が統合して発足した「JFEスチール」)に行ったのさ。職業安定所に行って採用になってね。1人年上の奴と2人で行ったの。今はもう日本鋼管でなくなったからね。合併してしまって。
なんかね、自分でも原因はよくわからないけど、ここでは自分の立場っていうのを、他で稼がなきゃわかんね(ダメだ)って考えもあったのかもしれないね。末っ子だし、姉貴の子どもがいるっていうことでその子がこの家を継ぐんだっつう思いでいたと思うんだね、当時は。あの時の思い出っていうのはここのバスさ乗り込んで家からみんな送ってってくれてね。飯土井っていうとこ。俺が行くっていうことでほら、・・ひとによってはだれも内容わかんねえからね。なんか尚衛失恋したんだべって(笑)。
ときにしみじみと語る
そして、川崎(神奈川県)に行って、給料を貰いながら、機械とか仕事の内容を勉強させられてね。
パイプ作りでは、帯丸めたような奴、持ってきて溶鉱炉さ入れてやるわけさ。そいつが丸くなって出てくるんだけどね。ある日、クレーンの運転やってやんだけど、治具(ジグ)クレーンの輪っかが落ちそうになったのを見つけてね、そいつを班長さんに言ったっけ、それで工場の部長賞だかなんかもらって、金一封を頂きました。
中身は1000円だったけど、日給が300円のときの1000円だからね。いまもそいつ賞状あるんだけど、「たったの半年でこんな賞状貰ってや、たちまち班長になるわ」ってほだされてね。
貰った賞金は仕送りも、豪遊もしない。それを持って、川崎の大井の競馬場さ行くの。投資をしたんですね。大井なんていうのは直(じき)、頭の上を飛行機が通るね。向こうが海っていうか、川っていうか。ほんとにね。やっぱり田舎太郎だから、女の子とかなんとかそんなことぜんぜん関係なしに競馬とかなんとかさ走ったんだね。
今まで住んでたのが田舎だったから、工場でみんな講習みたいなのあるわけだ。そこで、「掘野内とか、行くなよ」って言われんのね。ところが「行くなよ」って言われれば行きたくなんのね。で、寮を抜けだして行ってさ、あと暴力団みたいなのに取り囲まれて、いろんな「あんちゃん」たちにやられて。逃げて、ねえ(笑)ということで、やっぱり怖かったね。ええ。
ところが、半年たたないうちに親父が迎えさ来てさ。あと、しぶしぶ帰って来たけどね。
やっぱりウチには土地が多かったから、とても、家に残された人だけではやりかねるわけだ。あと女の人たちだけだから。そんで、「お前(めえ)でねえとわかんね(ダメだ)」ってことで、家族で調べたか親戚にきいたか知らねえけど、川崎まで迎えに来たったんだね。それからは鱒淵を動かねえけどね。だからここの土地を6カ月だけは、空けたわけだ。
戻って来てからは、いろんな人と遊んだけど、野球でひとつのまとまりがあったね。鱒渕野球クラブを作って。登米市では他に、仙北鉄道とか4チームしかなかったのさ。その4つで軟式野球の登米郡の予選なんかやってね。
地元にある建設会社があったのね、そこでバッテリー組んでた奴がそこで働いてて、俺は勤めてないんだけども、「現場課長」だかなんだかいう名前を貰って(笑)野球部に入りました。その時、国体のB級、仙台での県大会まで行きましたよ。だから仙台の宮城球場の土は踏んだのさ。いまは「クリスタみやぎ」とかいってるけど。
そこで一回飛島(とびしま)建設に勝って、2回戦だったか、準々決勝だったか、大林組とだったかな、当たってね。当時やっぱり建設業界はね、野球強かったから。一回延長戦になって、15回までいったことあるからね。最後は敗れてしまったけどね。
日本鋼管から鱒淵に戻ってからは、林業には戻らず、畜産農家に変身したんだね。今度は乳牛なんだね。昭和41(1966)年あたりは乳牛プラス家畜商の免許を取ったね。
家畜商っていうのは、3日ぐらい講習受けて、供託金2万だか3万だか納めて、そしてあと免許証貰って、あとは、かたいこと書いてある冊子読めって貰う訳だ。(一定の講習を受講し、法務局に供託金を納めて営業開始許可が下りれば、すべての家畜の売買等の業務に携わる家畜商としての営業をすることができる)
これからはやっぱりこういう畜産関係でなければわかんねえかな、っつうことを自分では思ったので、こういうふうな道に踏み込んだのさ。
市場出した牛もあったのさ。ウチの屋号は「峠(とうげ)」っていうんだけども、当時ほれ、この辺は「三井、三菱、峠畜産」って儲かった儲かんねえ別として、他に事業がなかったのさ(笑)。
そのときまだ親父が生きてやったからね。親父っていうのは真面目に、カラカラと馬車を引いて歩いた人だから、そういう馬喰好きとか山師好きとかいうのがなかったんだね。
だけど、俺(おら)のずんちゃん(祖父)って人は炭窯の指導して歩いた人で、子どもの頃は鉄砲打ったりして、どっちかっていうと俺の性格に近かったんでねえべか。そのずんちゃんが縁故の関係の人からの借金で、家だの土地が抵当に入れられてたの。親父はコツコツと働いて借金かえして、抵当を解除してもらったような人だからね。その親父が言ったのは、自分に回って来た借金のこともあったんだけっども、「何をやってもいいけど、人様からだけはうしろ指さされるなよ」っていうのが、一言、まだ心に残ってるんだけどね。
それでその道に入って、あとは近辺歩いたのさ。今の三陸とか、本吉とかね。家畜車。したら、ところどころでお世話する人がいるから、そこに行ってお茶飲みをなんかしたりしてね。そしてまあ、暮らしたんだね。
他人様(ひとさま)に
後呂指(うしろゆび)などさゝれるな
横座(おや)の遺言 今も忘れず
尚衛
乳牛もやってたから、朝は乳搾りをして。朝の4時半か5時ごろまでに牛乳を業者が取りに来たったからね。それまでに出しておかなければいけないから。夜絞った奴を500リッターくらいのクーラーで冷やしておいて、朝のと混ぜて、ある程度冷えたのを集乳所が車で集めさ来るから。この辺の集乳所は全酪だね。あと明治と。
それから、牛に食事を与えた後に出張(では)って(出かけて)いくわけだ。夕方帰って来るんだね。あるいは、昼間出張っていない人のとこさ「また夜来っからね」って夜に行ったりなんかして。そういう生活してたね。
牛乳は小さい頃から飲んでたね。オイカワさんって学校からちょっと行ったところに、酪農やってやんのね。そこと遠縁にあたるもんだから、そこから今の4合瓶に牛乳入れて、あてがって(分けて)くるわけさ。けっこう大きいね。そいつを学校帰りに、オイカワさんちを回って取ってくるわけだ。その頃、お袋が病気で休んでやったから、そのお袋に飲ませるために貰ってたわけだけども、やっぱり自転車漕いでると喉乾くから、ちょっと頂いてね(笑)。あと、沢っこの水入れて(笑)。そういうわけで小さい頃から牛乳は好きで飲んでた。
家畜商の免許はまだ返してない。今はもう自分の家の牛でたくさんだからやってないけど。
今は乳牛でなく、和牛になったんだ。
平成15(2003)年に手術した時に、家に帰ってきたっけ、白(乳牛)はいなくて黒(和牛)ばり(だけ)になってたんだから。というのはね、その年に議会議員で、青森に行ってね、刺身食ったのさ。酒飲まれないもんだから、ウーロン茶に刺身合わせて人のもんまで食ったわけさ。飲む人たちは「刺身は俺はいらねえから、食ってけろ」なんて寄こすからね。そうしたらね。とにかく次の日、腹病(はらや)みしてね、お岩木山(いわきさん)登っても腹痛かったりさ、バスんなかでも病んだりなんかして、病院さ来てやったんだけども、とにかく診断は刺身から虫が入って、腸に穴があいてるって。それからあと手術した訳だ。そして20くらい入院して、家さ帰ってみたら、乳絞る牛がいなくなって、黒い牛が入ってるのね(笑)。和牛は手かかんないからね。だから今和牛の繁殖ってやってるんだけどね。子牛とりだからね。
議員になったのは、自分でもわかんないんだけっど、自分で好(す)き好(この)んでやったわけでなくって、とにかく鱒淵の先輩議員の後継者に推されるままになってしまったんだね。
平成5(1993)~17(2005)年まで、3期12年やったね。そんな大変じゃないよ。議員だからってなにも真剣にあれするわけでねえし、資金があるわけでねえし。
ただね、弥惣峠(やそうとうげ)から入谷(いりや)の道路(志津川入谷から弥惣峠を越えて東和鱒渕・米川方面にぬけるルート)が通行止めのままなのは、歌人じゃねえけど、頭来たからさ、市長さぶつけてやろうと思ってさ、歌にして。
尽くせども 尽くし足りぬか
弥惣峠(やそうとうげ)
雪かきされずに行き来できぬとは
昭和25年1月
登米市長様
尚衛
弥惣峠と雪で覆われた山道
写真提供:南三陸&気仙沼を体感!“来て見て浜ライン”
というのはね、平成19(2007)年に鱒淵の地域振興協議会ってのを発足させたんだけどね、区長さんとか肩書に「長」の付く人たち16人でひとつの会を作って、裏観音様の道路づくり(華足寺の参道の整備事業)から始まったのさ。
それでそいつでまあまあの成果が出たんだね。当時登米市から出た補助金が39万1000円ですか、その中でいろんな資材を調達したけど、そのお金では飲み食いなんかできないわけさ。それをわれわれ声かけた者が出し合ってやりました。250円弁当だけどね。奉仕だから。無報酬だからね。
そういう風にうまくいったもんだから、平成23(2011)~24(2012)年に今度は弥忽峠と入谷を結ぶ3.5kmの整備に立ち向かってやったのさ。土日だけっても、みなさんが協力してくれてねえ。2年間で約200人が入谷への道路をきれいにする奉仕作業したのさ。土日の朝8時なら8時に集会所に寄ってそして4時半まで働いて貰ってね。2年間で約200人が、道幅さ覆いかぶさってる杉の板さ、それから道路を砕石したりとかいろいろ奉仕活動をやったんだね。だけっど、そこは登米市の道路なんだ。開通の時は布施市長も来て、記念写真撮ったりなんかしてやるのに、なんか今は通行止めみたいな形になってるのさ。ぜんぜん除雪しないから、登れねえわけだ。そして、「除雪の対象にはこの道路は入っていない」って、こう蹴られたから、すっかり頭さ来てね。さっきみたいなことが自然とでてくるわけね。あれだけ尽くしても尽くしたりねえのかな、と。ガクンと来るんだねえ。
ほんとに必要な道路なのさ。ここのね、鱒淵っていうところは250~60軒あるんだけども、70何軒のひとがまだ行き来しなけりゃならねえほどの縁組なのさ。
その人たちのここ行った場合と、ちょうどね、ここの道路から弥惣の頂上まで3.5kmしかねえのさ。して、あっちも3.5km。林際のさんさん館にたどり着くんだけどね。そいつがこっち「ぐるーっと回ってくると言うと、27.7kmあるのさ。米谷(まいや)回って行くと。約4倍でしょ? だから、それだけ短縮なんだけっども、そういうことを市長にも言ってやったんだけっども、除雪する道路さ入ってねえんだ。弥惣(やそう)線が、わずか3.5kmが。その人たちがなんぼ苦労してるかわかんねえからね。
自分から立候補っつうことは一回もないのさ。とにかく知らないうちにそうされてしまうんだね。選挙活動はぜんぜん大変じゃない。マイク持って街頭演説になんてことは、鱒淵ではないの。
まず、39歳で農協の理事やれってことになったのね。組合員がひとり1票で、111票のいわゆるトップ当選させていただいた。そんときは選挙は農協だから、酒っこ飲んでも何しても構わないっつうようなことだったのね。それで知り合いに事務所お借りして、選対事務所を開いたんですけれど、いっぱい味方の人たちに私の面倒、全部見てもらったようなもんだわね。ところが、飲む方たちだし、馬を繋いでね、飲み会が始まるわけだ。事務所ですから、まあごちそう出す。雨が降れば寄る、仕事からの帰りに寄るで、いろんな人が寄って飲み食いした訳だ。そして半月で70何万、飲み食い含めて銭かかったんだね。役員報酬が、25万円さ(笑)。3年分(笑)。そんなんで、農協理事を3期9年やりました。大合併になったから辞めたけれどもね。
東和町議会議員の選挙のほうは、自分の家のほうは山奥だし、誰でも飲んでも送り迎えなんかしたから、交通事故もなかった。だいたい、新人の時は18人の当選議員のうち、7番目の得票で当選して、2回目が4番で、3回目が2番。あと、譲ったんだ。
なんていうか、公職にあってもなくてもそうだけども、どうしても議員ってのは欲が先に来て全て自分の懐に入れたがるけど、それさえきちんと分ければ、誰も悪いって語る人は無(ね)えんでねえの。
俺は自信があったっつうより、選挙のことがわかんなかったもんだから、選挙の時に、ウグイス嬢の人たちにむっつけられた(怒られた)。というのは、俺としては知り合いの人のところに5~6人のご婦人がたがいてさ、応援しててくれるわけだ。最初の日だから、ほんとはぐるぐる歩くんだけど、10時ごろだったか、止まって握手して話すうちに卑猥な冗談が過ぎて、ウグイス嬢の人たちに「選挙のときはみんな冗談なんか言わねえで票を獲ったの獲らないのって騒いで、オラたち涙流して真剣にやってんのにね、候補者がこれではとってもついていけねえ」って、夜しこたま怒られたのさ。
議員最後の年に、湯布院へ行った時にね、議会のM先輩が居るのさ。この人はビールうんと飲む人なんだけどね。俺がウーロン茶ばりのんで、みなさんに注ぎまわってるもんだから、悪酔いしたか何だか、「人の飲むもの飲めねえことねえんだから、飲めや」と言われて、俺もカーッと来てしまって、イモ焼酎っていうんですか、九州の。あいつを普通は割ったりして飲むのを、原液でグーッと飲んだわけ。それでダウンしてしまってね。
それからは他の議員さんが俺のことおんぶして、階段を上ったっうんだよね。俺のこと置いてみんなして飲み屋行ったって10何年になって、まだ言われる。だからみなさんそれからは「飲ますなよ、飲ますなよ」って(笑)。もう全然酒は飲めねえんだから。
観音様(華足寺(けそくじ))の総代も、議員してるときに先輩議員のIさんに、米川(よねかわ)森林組合の理事と、華足寺の総代と2つやれって言われて、米川森林組合の理事ならば報酬いくらかあるわけだけど、観音様の総代やらせてもらうからってことで、やったのね。そしてやったっけ、総代会で知らないうちにすぐ総代長にされたのさ。「どこの先輩だってなってないのを俺、右も左もわかんねえもの」って抵抗しても駄目だ。総代会って6人か7人だから、若いときにはやらねえから。議員終わってから役職やるんだからね。
総代長になって、4月のお祭り(春の大祭)のときに、みんな、前にしてしゃべんなきゃいけないわけだ。総代長としてね。その時の挨拶がほれ、最初は真面目に言っててさ。そして「実は私が総代になったのは」ていいわけを語ったのね。その時も真面目に語ったんではうまくねえと思って、『イナキさんに観音様の総代になればちんちんが馬っこみたいに大きくなるって言われた』って語ってみんなを笑わせて(笑)。で、おもしれえ人だなあって言われるようになったんだけどね。
総代の仕事っていうのは、華足寺には秋、春のお祭りがあるんだけど、どんな風にしたらいいか、経理や、ポスターを何枚作る、新聞広告に出す、あるいは文書で直接個人に配る、とか、それから今回みたいに震災で文化的なものが壊れた時に、どのような方法で修理するかとか、そういう華足寺に関するいろんな相談ごとだね。
ただ、同じ華足寺でもご住職が個人でやることがあんのさ。例えば、節分会とか、総代に関係なく、和尚さんの個人的な考えでもってやると。
表面は同じようだから、「なんでその時は来なかったんだ」とみんなによく言われるんだけど、それは総代に関係なく、ご住職が独自にやるって格好になってるわけだ。だから収支、なんぼ入って、なんぼ出てったとか総代にもわかんねえわけだ。
年2回やる華足寺のお祭り(大祭)のことに関しては総代がタッチできんだね。あとのことは例えば元旦とか、どんと祭とかってのは、ぜんぜんわかんねえっしゃ。
大祭にはご住職以外に近隣のお坊さんと互いに行き来するんだね。ここは真言宗だけど、登米市の神社仏閣が42、その中で曹洞宗が24だべか。真言なんかは少ないんだよね。
昔は馬をみんな飼ってたから、馬を祀っているこのお寺には方々からみんな来たんで、鱒淵地区は昔は春のお祭りで1年の生活を賄うことができるってね。
有料で参詣に来る人の自転車預かりをしたり、山にある笹に和尚さんの書いたお札をつけて手作りの飾りものに仕立てて売ったり、「追い馬」といって画用紙に馬を書いて、それを黒とか赤とかのいろんな色にして、くるくる巻いてひとつ300円位でいろんなところで売ってるわけだ。1軒ばり(だけ)でなく、何軒もやってたね。
それから、喧嘩もよくあったね。今の消防団ってのは非公務員だけれども、昔は公務員で、酒飲むと喧嘩だったのね。茶店(ちゃみせ)あるでしょ。いまみたいにご近所がやかましくないから、茶店を出して、茶碗さ豆腐を出してね、肉を挟んで、そしてそこに酒っこを出す。そこで飲んでだんだん喧嘩になって。
馬が少なくなって、先代住職の苦労ってこともあったんだね。ぜんぜん採算がとれなくてね。採石場で働いたりね、マイクロバスの朝晩の送り迎えにいったりね。そうしながらね。競馬がこれからの時代はあれだからって競馬場の厩舎周りをしたりね。そういう時代もあったのね。
華足寺のお供えは伊勢の神宮の流れを汲んでお膳を捧げるんだねえ。総代の中に「献膳係」っていうのがいてね。お祭の形式的なことを守り伝えている人がいるんだね。
春の大祭で献膳を前に読経するご住職と華足寺総代のみなさん
オイカワエイシさんって今度総代になって貰ったんだけどね、献膳長でやってもらってる人がいるんだね。3人いるのね、献膳ってひとが。そのうちの総代になって貰ったんだから。昭和13年生まれのかただね。私より1つ上。
献膳の内容は、全部写真におさまってあるんだけども、非公開ってなてんだね。なるべく写真撮らせねえんだ。例えば大根の太さがなんぼで、長さがなんぼでって全部それを測って記録したんだね。お膳が17あんだけども、1の御膳さ何付ける、2の御膳さ何つけるって、白菜とかいろんなもの買ったりとかね、米を分けておいたりする。
それから、我々献膳の係はお膳を捧げる時は、紙っこを三角に折って口に咥えるんだね。お話をしたり、神さん居るんだからお膳に不浄な息もふきかけんな、っていうことなんです。
ところがそんなこと最初から指導してないもんだから、人が足りないからってにわかに頼んだ若い者がちゃんとしてなくて、去年の秋には雷落としたけどね。やっぱりこういう言い伝えというものは、大切だね。
本堂へとお膳を捧げ持つ。総代の先頭に立つのは尚衛さん
華足寺の山門が10年ほど前に壊れてしまって何千万もけて直したのさ。
やっぱり文化財だから、予算が県から来たり、町から来たりして、作ったんだけど、今は山門がこの地震でやられて、山門のほうに力入れてんだけっども、これがまたなかなか大変なのね。
最初に俺たちは素人考えで、「なに、崩れててるとこさコンクリでもやって、あと壊れた瓦が治ればいいんだべ」っていうような気持ちでいたんだけど、県の方では文化財的なもんだから、実質調査やったのね。それの経費が720万っていわれてさ。今度それができあがったとき、なんぼかかるかわかんねえってお手上げなのさ。
結局25%は地元負担になるから。例えば上限が2,000万で終わりで。あと例えば4,000万のあとは市が50%持つから、地元も50%持てっていう折半だから。ほんでも、最初から実質調査で720万とか書かれるとさ、その上がなんぼ金がかかるかわかんねんだからさ。
今現在、お恥ずかしいが、華足寺にある使える金が150万しかないんだから。ましてやね、春はみなさんのおかげでいくらかの剰余金がでるのさ。ところが秋は逆に赤字です。
今語った和尚さんにも自分たちが貰って来るからっていうと3万なら3万ずつお世話になりましたってことで返してやるからね。そうすると地元からの上がりが少ないもんだから、
神仏と 部族のために
尽くせども
聞こえてくるは悪口ばかり
尚衛
これなんだな(笑)。
華足寺は本当にみなさんに見てもらいたいの。
私たち子どもの頃には、お祭りがあるっていうと、授業は午前中だけで、あとはお山(華足寺)さ登ってええってことになってたからね。それだけ学校っていうのは、地方のお祭りってことで、私たちは行事に参加させられてたんだね。学校帰って山さ登って、あと、馬に蹴っ飛ばされないように注意されてね。そういう時代でした。
演芸会はね。ここ何年だよな。5年ぐらい前からこの地元の人たちがやるようになった。というのは、前は踊る人たちを、他から頼んで来て貰ってたのね。そして、こちらで舞台をかけてやって、踊り終わった時に御礼として10万円だかをやったわけだ。そういう催しをなんとか鱒淵でやんねえかってことになって、部落で3人だか5人だか寄って後援会を組織して、その人たちの手によって演芸会が始まったわけさ。
演芸会に出る人は、歌とか踊りとか、自分たちで練習して。そして謝礼として、半分の5万円を貰うわけ。だから経費が半分になったわけだ。私も後援会の顧問だかにされてるようだけっども。
お祭りが第4日曜日になったっていうのは、平成24(2012)年度から、去年からだね。今までは4月の19日と決まってたの。何曜日だろうと動かせなかったわけ。ところが、やっぱり若い人たちがなんとか日曜日にしてけろ、という声が多かったもんで、「お参りに来るのは鱒淵だけじゃないから、1年くらい余裕けろ」と。一関だの伊豆沼からだのお参りに来てる人たちに今年からお祭りがいつになりますよ、ってのを案内出してやらないとね。
そんなこんなあったから、1年間だけ延びかして、平成24年から春の大祭は4月の第4日曜日、秋の大祭は10月の第4日曜になったわけだ。4月の第3日曜日っていうと、まだお山の桜が咲かねえのさ。それで桜が咲く時期がいいんでねえか、ってことで、第4にしたわけ。第4日曜日でも1週間ぐらい違う時あっから、必ずしも桜がその時期に咲く訳ではなかっど、今までの調査で第4のほうが桜の花が見られるということで。
華足寺では33年に一回御開帳ってあるんだって。それがいつかは私も定かではありませんけども。で、これは言い伝えなんだけどもね。親父から聞いた話では、坂上田村麻呂将軍のしゃれこうべがあるってことなんですよね。ご開帳の時には、私みたいな総代の人が、いっぱい外から見に来た人に説明するわけだ。
その当時、ある人が説明して、「これが坂上田村麻呂のしゃれこうべです」となったわけだ。したら、ある人が、「田村麻呂って人は、おっきな人だと思ったけど、ちっちゃな人だったんだね」って言ったっていうんだね。そしたらその人が、とたんにね、「これは幼き時のしゃれこうべです」って冗談で言ったんだって。そしたらその人も「ああ、そうすかね」って引きさがったっていうんだね(笑)。今の人たちはすぐに「だれ~」って反感こめて言うっちゃ。昔の時代は良かったなって、ね(笑)。
今、鱒淵地域振興協会ってのと、それから華足寺の総代と、あと、竹朋(ちくほう)会っていういわゆる年寄りたちの会の会長の3つの役をやってんだけどね。やっぱり、70も過ぎたんだから、あまりあだりほどり(周囲)さ気ぃ使わねえで、何言ってもいいんだってな開き直った考えなんだ。
俺の場合、さっきも言ったように、米川中学校しか出ていないような人間が、議員を12年間もやらせられた。その社会に対する恩義があるわけだ。それを何で返すかっていうと、ひとが亡くなった時に、火葬とお葬式には必ず出るようにしてるのさ。ベコ飼いしたり地駄引きしたりしてた者が今なんぼが議員してた関係で年金も入ってきちゃっちゃ。そいつをいくらかでも還元してあると。別に火葬場行っておにぎり喰いたいわけじゃないんだよ(笑)。何を言われようと、そういう開き直った気持ちで行ってるね。
学校行ってないって、同級会あっても別に劣等感を感じることもないし、逆に、議会当時も、間違ってる数字とか検討付くんだね。ほんですぐ、大学出てきた人さ質問して「ここだら間違ってねえか」ってことで、何回も指摘したことあったけどね。なんていうか、経験っていうか、そういうものが入りこんでしまっているんだね。
とにかく俺の場合は口で語るなって言われても言ってしまうし、それはおっかなくも怖くもないね。自分の判断だからね。(談)
この本は、2013年2月16日に、
宮城県登米市東和町・鱒淵地区の佐藤尚衛さんから伺ったお話を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
織笠英二
久村美穂
[取材協力]
小野寺寛一
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2013年8月31日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト