振り返れば平成23(2011)年3月、津波被害の片付けだけでもなんとかお力になりたい、そんな思いでこの土地のことを何も知らずに飛び込んできた私たちが、いつしか地域のみなさんのお話を伺えるようになりました。去年のように元気であれば何かしらのお役に立てたという状況は去り、各自が自分の持てるだけの能力と人脈で、この地域により深い支援をするべき時が迫る中、私たち「メモっこ」は、この土地を愛する人々の小さな歴史をまとめて地域の魅力を掘り起こし、この土地を知らない方に向けて発信するという目的のもと、人生の物語をうかがい始めました。
牧野さんの物語をまとめることは私たちに与えられた最大の課題のようでした。厳しい研鑽を経て農業家として、また地域の長として努力を重ねてこられた方の人生には、ものすごい厚みと重みがありました。それをわずかな時間だけ聞かせていただいて、果たしてちゃんと本にまとめることができるのか・・・不安な思いに何度もとらわれながらの編集作業でした。汲めども尽きぬ泉のごときエピソードはすべてが味わい深く、何度も何度も読み返すうちに、牧野さんの人と人の縁を「結う人」としての生き方が、私たちの心に刻まれていきました。
生みの苦しみを経て、今、多くのメンバーの力により、一冊の本としてまとめることができたことで、心から安堵感を噛みしめています。この本が、牧野さんにとっても、大切なご家族にとっても思い出の一冊になり、読み返していただけるような存在になればこれほどうれしいことはありません。
貴重なお時間を割いてお話くださった牧野さん、そしていつも快くお迎えくださった奥様に心から御礼申し上げます。
2011年5月10日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
「感動の玉手箱・歌津」パンフレットより
私も、もう72歳になりました。こうして、改めて私の人生を聞いてもらって、記録に残してもらえたことは良いねぇと思っています。自分でやろうとしても、なかなかできないものですよ。
私が町長を辞めたときに、最初に何をしようかと考えて思いついたのが、町長になった時からの挨拶文、たとえば、福祉大会とか体育会での祝辞、それをまとめて本にすることでした。全部とってあったんです。福祉課や公民課が書いてくれた原稿の棒読みはしたくなかったから、自分でちゃんと推敲していたんですよ。自分の言葉も入れて書いていたので、残しておきたかったんです。そうすれば、後に続く人がそれを見て、挨拶の時にこういうのはいいなと参考にしてもらえるかもしれないでしょう。しかし、今回の津波で、それも全部流されてしまいました。それから、私の家の歴史。これも、きちんと残しておきたいと思っていました。そこまでやれたら、あとは震災を境に、その後の記録を残していけばいいと思うんです。
いま、私は写真を撮っているんですよ。津波の後の歌津の写真をね。
*神戸新聞に記事があります。花を咲かせた「はるかのひまわり」と牧野駿さん=7月30日、宮城県南三陸町
私は、昭和13(1938)年8月23日に、歌津で生まれました。親父は私が生まれてすぐ、19歳で出兵し、シベリアで抑留されました。ウラジオストックの近くの強制労働施設で働かされ、そこで病気になって、昭和22(1947)年に28歳の若さで亡くなりました。たぶん、病院にも入れてもらえなかったんでしょう。その年のうちに死亡通知の広報だけが家に届きました。お骨も何もなかったそうです。だから、私は親父の顔は覚えていないんです。物心がついた頃には、すでに戦地に行っていましたから。
私の祖父(じい)さんは、自分がこうと決めたら決して妥協しない人で、歌津の町長を2期務めました。その昔、牧野家は牧之内城の城主だったんです。私で22代目。普通は、家系は3代で滅びるといいますから、まあ、よっぽどうまくやって来たのでしょう。私はそんな意識はありませんが、祖父さんの時代は少しはあったかもしれない。刀もあるんですよ。それは、流されないように持ってきました。当時から代々引き継がれてきた大事な刀なんです。
私が結婚したのは、昭和38(1963)年、東京オリンピックの前の年。お見合い結婚ですね。お母ちゃん(奥さま)の実家が本吉町で、お母ちゃんのお姉さんの紹介です。お見合いもお姉さんの家でやりました。嫁は、それまで百姓とは縁がない人でね、高校を出て東京の洋裁学校を卒業して、気仙沼の縫製の店に勤めていたんですよ。これは、本当に助かりました。ズボンの裾直しなんかは全部やってくれたしね。子どもたちの洋服も全部、作ってくれました。私も町長時代のワイシャツがたくさんあったから、袖をとって働きやすく仕立て直してもらって、今でも着ています。孫たちの洋服も一生懸命に縫ってやっていましたね。子どもは2人。役所に勤めていた長男が昭和40(1965)年、長女が昭和43(1968)年生まれです。
私の出た小学校は、伊里前小学校。そこから新制の歌津中学校に進んで、卒業後、昭和28(1953)年から2年間は県立の宮城農学寮(のうがくりょう。現・宮城県農業大学校)という、農家の長男を育てる仙台の全寮制の学校に入学しました。
当時、歌津近辺には県立の宮城農学寮と、栗原農業高校の2つがあって、最初、私は栗原郡(現・栗原市)の築館(つきだて)に住む叔父を頼って、栗原農業高校に進むつもりでした。しかし、当時は父も戦地に行っていたし、叔父の家では養蚕をやる人手が足りなかったものだから、住み込みで人を1人雇っていたんです。そこで、私が代わりの即戦力に狙われたんですよ。栗原農業高校は卒業まで3年かかるから、その間、養蚕を手伝わせようと考えたらしい。私は、それは嫌なので宮城農学寮に行くことにしたというわけです。でも、よっぽど人手が欲しかったらしく、農学寮の卒業と同時に叔父の家に連れて来られてしまいました。
宮城農学寮は、経営伝承農業に力を入れていました。当時は似たような学校が全国にたくさんあったんです。なかでも宮城農学寮は、徹底したスパルタ教育で全国的に有名で、まるで軍隊のようでした。
とくに、当時の寮長は厳しくて、近所ではその寮長の名前をとって“酒井農寮”と呼んでいたほどです。寮長は、当時60歳ぐらい。愛知出身で安城農林高等学校という、やはり同じような農業学校を卒業した方です。
定期的に講演会などで学校を空けることがあったんですが、寮長がいる時といない時では、学校の雰囲気もまったく違う。寮長がいないと、「今日は、いないぞ、いないぞ」と、すっかりたるんでしまうんですが、それくらい厳しかったんですよ。
当時の寮長:酒井 馨さんについて
明治38(1905)年7月7日愛知県生まれ。盛岡高農(現岩手大)卒。昭和8(1933)年埼玉県で農民講道館の創設にかかわり、副館長をつとめる。農業指導者。21年宮城農学寮長となって後継者を育成し、農業の多角化を研究・実践した。昭和52(1977)年11月7日死去、72歳。著作に『東北の農業経営』など。
◆格言など
「本で覚えたスキーでは滑れない」(信条)
「作物を作らんとする者は、根を作れ。根を作らんとする者は、土を作れ」
寮の生徒数は200人以上いましたね。そのうち女子は100人。部屋は10人ひと部屋で、1年生と2年生が5人ずつ。そして、誰か1人でも悪いことをすると、連帯責任で10人全員が朝礼で前に呼び出され、全校生徒の前で“ご紹介”という、寮長直々のお説教を受けるんです。上下関係も厳しかった。自分の部屋に入るにも、まず隣の部屋の扉をトントンと2回叩いて「入りまーす」と、でかい声で言う。中から「おう、なんだ!」と2年生の声がしたら「ごめんください」と言って扉を開け、膝をついて「お晩でございます」と挨拶をして戸を閉めて、それから自分の部屋に行くんです。2年生から呼び出されることもありましたね。たいがいが悪いことをやった場合で、1年生にとっては先生だけでなく、先輩たちも厳しい教育係だった。
こんな調子だから、1年生の頃は気を緩めることもできず、「屯墾(トンコン)病(1930年代の満蒙開拓団の時代、親元を離れて大陸に渡った少年たちがホームシックとノイローゼが同時に来たような症状に悩まされた症候群から)」になって、寮から逃げ出す生徒もずいぶんいました。
私も、ここでかなり鍛えられました。中学を卒業したばかりだというのに、20リットルの桶に人糞を入れて担いで運ぶわけです。昔はプラスチックなんかないから、大きな木の桶です。肩は上がらなくなるわ、足の筋肉は張るわ、おまけに上級生から「ほら、この野郎!」と叩かれる。だから、1年生は誰もが「早く夜来いば、いいなぁ~」と、思ってました。夜だけは2年生に何も言われませんからね。しかし、夜は夜で、就寝まで膝をついて教科書で勉強です。それでも「1年間耐えたら2年生だ」、そう思って頑張りました。
寮の一日は、5時55分の起床5分前の号令で始まります。当番の1年生が「起床ー! 5分前ー!」と叫ぶと、それを聞いて全員パンツ一丁で「ワッショー、ワッショー」と乾布摩擦を行う。真冬でも、厳しい先生なんかは、わざと窓をガラガラッと全開にしてやるんです。冬場は寒くてね。そこで少しでも弛んでいると、また喝を入れられるわけです。1年生は真面目にやんですが、2年生になると、やっぱりずるいのは押入れに入って、起床時間に押入れから出てね、乾布摩擦をやらないんです。それを分かっている先生は、押入れをばーっと開けてね(笑)。
起床すると、すぐ箒を持って掃除です。学内は何十町歩ありますから、それを全部班ごとに割り当てています。7時に朝ご飯と言っても掃除が終わるまでですから、7時ちょうどに朝ご飯とはならないんです。寮長が集合というまで掃除です。
集合は生徒が伝令になって、1キロくらい離れた所でも走って「集合、集合」って言って回るので、校庭に集合して、そこから食堂に移動です。生徒も先生も全員並んだところで、寮長が「姿勢をただせー!」って言うんです。みんな背筋がピーンとなります。つぎに黙祷。「直れ」、それから寮長が「いただきます」と言ったら、全員で「いただきます」と復唱して、やっとご飯です。
これがまあ毎朝。お昼も「姿勢をただせ」「ごちそうさん」「いただきます」。夜もですから、毎度毎度3回です。これを2年間やるんですから。ちなみに、食事は自給自足、料理は当番制で、自分たちで作って食べていました。
授業は基本的にすべて実習で、講義は雨が降った時くらい。卒業したら、すぐに実践ですからね。寮長のほか、畜産から野菜栽培まで、それぞれの分野の教師が揃っていて、ほとんど休みなしで学びました。ある時、近くの小学校の運動会に寮生が招待されるという話がありました。私は中学で陸上をやっていたから、スパイクを取り寄せて、寮生で足の早い仲間とチームを組んで「やるべ!」と張り切ったんですが、それも寮長の「ダメ!」の一声でかなわなかった。本当に厳しかったです。
寮長はとにかく厳しいんです。たとえば夕方、作業が終わると、集合がかけられて班ごとに皆集まるんです。寮長がみんなの前に立って、1室の誰がひとりが悪いことするとその部屋の全員が連帯で前に並ばせられるんです。「前に出ろ」と。何百人いるところで前に出て説教を食らうんです。軍隊と同じですよ。体罰はなくて説教です。その説教が寮長の生徒に対する訓示など、色々な話があるんです。そういうのが勉強になりましたね。
一日の最後は、必ず全員が“精神棒”を持って講堂に集まります。“精神棒”は、30㎝ほどの藁を縄できつく縛って作ったもので、それを持って全員膝をつき、宮城県民歌を歌いながら床を棒で磨くんです。「平和の春の〜♪」って、3回も繰り返せばピカピカになります。一種の精神統一ですね。
全員で汗をかきながら、先生が「やめーっ!」というまで磨く。それが済んだら、男子寮の生徒も女子寮の生徒も、全員が部屋ごとに並んで点呼をとります。「1室、異常ありません」、「2室、病気就寝2名、異常なし」という具合に部屋長が確認をとるんです。その後、先生の話があって、最後に「各自、故郷に向きを変え」という号令に従って、全員が自分の故郷の方向を向き「おやすみなさい」と言って点呼が終わります。寝る前に、故郷の両親にあいさつを、ということですね。私も北の方角に向かって挨拶をしましたよ。あとは、各自、寮に戻って、1〜2時間、自習をして、9時半には消灯しました。
4月、5月になると、夜の7時半ごろまで外で働きました。農学寮の敷地を仙山線の汽車が走っているんですが、ちょうどそのくらいの時間になると、ボーッと汽笛を鳴らしていく。それを聞いては「高校に行った同級生たちは、今ごろ家にいるんだろうなあ。俺は畑にいるんだよなあ」と、思いましたね。
在学中に、4カ月ほど牛乳当番もやりましたね。毎朝、4時半から5時には起きて、昔の魚屋さんのような自転車の前に荷台のついた運搬車で、農家に牛乳を買いに行くんです。
農学寮でも乳牛は飼っていましたが、足りない分は農家から買っていました。農学寮にはミルクプラントがあったので、農家から牛乳を買ってきて瓶詰め作業をするんです。瓶に詰めたら、20リットル入りの牛乳缶を荷台に3本、前輪の脇に2本、後輪の後ろに1本、計6本120キロの牛乳を農家まで運びます。
道は舗装もされておらず、道端には砂利がたまっていて、タイヤをとられて転んだら1人で自転車を起こすこともできません。とにかく慎重に、できるだけ砂利の少ない道路の真ん中を走りました。めったに車も来ませんし、トラックが来ても避けてくれてましたね。牛乳は集めてきて、農学寮のミルクプラントで処理し、それを瓶詰めにして、農家に1軒1軒配るんです。私は70軒くらい担当しました。ちょうどあの頃は作並街道というのがあって、熊ヶ根橋がちょうど完成する頃でした。
寮長が「農業は土日はないんだぞ」とおっしゃっていたように、私たちには土日がないんです。日曜も働くんです。
適地適作ってあんですよ、たとえばナスビが5月25日と植える時期が決まっていれは、絶対にこの時期を外してはなりません。それが土日に当たっていれば休みはなしです。一貫作業で、苗から全部作りますからね。
そんな風に、お正月休みが3日くらいで夏休みはなしです。冬休みに帰省するにも、宮床(宮城県内の地名)ではトマトやキュウリの支柱にする竹が沢山取れるというので、トラックで切りに行って、それから帰ってくるんですよ。
その他の仕事では、仙台の大学病院の周辺、丸金という大きな店があったのですが、そこから国分町まで、馬車引っ張って回って、色んなもらい物をするんです。何を貰うかというと、台所の生ごみですね。魚屋や八百屋の前通ると怒られるんですよ。生ごみだから、かすや汚水が落ちるんで、臭くてハエがいっぱいですから。集めた生ごみを豚の餌にするんです。
大学病院の脇の「木町通り」の交番を入って行ったあたりで、リヤカーに積んでいった野菜を販売していました。
そして、三越にも廃品を貰いに行きました。当時の三越っていうのはごみの捨て場がなかったんです。3日に1度の割合で、農学寮のトラックで行ってダンボールや色んな物を全部積んできて、そのごみを全部ボイラーで焚いて風呂を沸かして入るんです。
そういう仕事は、全て、生徒が、養鶏係り、豚舎の係り、牛の係りが順繰りで1カ月交代でやるんですよ。
一番厳しく感じたのは、潅水です。これは厳しいんですよ。20リッターの水が入る桶を2つ、40リッター担ぐんですよナスビとかトマトに水やりをするんです。これにはもう参る。先輩が後ろから「このやろー、このやろー」と気合を入れるんで休めないんです。中学校を終わったばかりの体力があまりない頃だから、夜は足が張ってね。早く夜がくればいいなって思っていましたね。夜が来るのが楽しみだったね。1年生は体力的な厳しさと、ホームシックで、辞めていく人もいましたね。
それでも、今考えると、普通の高校に行くよりは農学寮に行って良かったと思います
宮城農学寮
私の実家は伊里前にありました。前町切(まえちょうぎり:昔の区画の名前)の場所よりも下。敷地は380坪ほどあったでしょうか。お祖父ちゃんの代から農業一本の家系で、今も、山林40町、水田1町、畑5反歩はあります。馬2頭、牛2頭を飼って、昭和60(1985)年ごろまでは桑畑も2、3反歩ありました。蚕を飼って生糸も取っていたんですよ。でも、平成4(1992)年、私が町長になる直前に、桑は全部抜いて、銀杏を植えたりもしました。その後は、30反くらいを使ってハウス栽培でイチゴやホウレンソウを作りました。
最初はお母ちゃんと2人でイチゴを始めたんですが、だんだん腰が痛くなったので、最後はホウレンソウをやりました。大きな農家ではありませんが、昭和30年ごろには8反歩の農地があったので、歌津駅から自宅まで他人の土地を通らずに帰って来ることができたんです。その土地に、やがて鉄道が走り、役場や商工会、仙台銀行、駐在所などができた。鉄道のトンネルを掘って出た土なども、全部田んぼに埋めました。敷地の中に何でも揃っていて、それは便利でした。ちなみに、漁業権はお祖父ちゃんが亡くなったときに使うこともないだろうと手放したそうです。
私が中学生の頃は、稲作も機械を使わずにやっていました。1反くらいの田んぼで田植えとなると、まず、牛にバコ(鋤すき)を牽かせて、土を返して田を起こします。
次に、田んぼに水をはって、牛に鉄の馬鍬(まぐわ)を縦横に2回か3回牽かせて、土を砕いてドロドロにする。そうしたら、代掻き(しろかき)をして、泥を平らにならして苗を植える準備をする。
その後、竹を挿した板で田んぼに線を引き、それに沿って女の人たちが横に30間くらい並んで、苗を植えていきます。そして、秋になったら稲刈り。これもコンバインではなく、鎌で手刈りです。刈り取った稲は束ねて、1間くらいの間隔で立てた杭に竹を渡し、そこにかけて自然乾燥させます。
今は、乾燥にも機械を使うけれど、自然乾燥の方がおいしいね。こういう手作業は、中学生の頃に実家を手伝って覚えました。家ごとにやり方も違うんです。農学寮では畑も畜産も全部機械。昔は鍬(くわ)で作ったうねも、寮では牛や馬にカルチベーターという機械を牽かせて作りました。そのカルチベーターも今じゃ使われなくなりましたから、子どもが農業を継ぐといっても、昔のやり方は全然分からない。やっぱり、自然と闘い、実践のなかで学んでいくしかないんですよ。机上の計画ではなく、実際に働いて体験しながらでないと農業はできません。
農学寮を卒業してからは、家の手伝いを始めました。私を待っていたのは養蚕と和牛です。私のいちばんの青春時代なわけですが、毎日5時起床の生活ですよ。帰ってくるのも夕方5時。養蚕も、春、夏、秋、晩秋と4回取るので、なかなか忙しい。年に4回、種苗業者から蚕の種、つまり小さな幼虫を1回40〜50グラム仕入れて育てます。私の頃は旧式だから、桑の葉っぱだけを摘んで蚕に食べさせていました。だけど近年は、桑を畑に植えて剪定して、葉の付いた枝ごと切って蚕棚に並べて食べさせる条桑(じょうそう)育なんです。蚕がいるところに枝を並べて、蚕が桑の葉を全部食べたら、枝ごと換える。それを1日2回くらいやるんです。昔に比べると、ずいぶん楽になりました。
牛は2頭飼っていました。うちは肥育といって食肉牛、メスの黒毛和牛です。これは、仔は産ませませんから、仔牛は馬喰(ばくろう。馬や牛専門に売り買いする人)さんから買うんです。当時は、農協も牛の売買はやっていませんでしたからね。馬喰が車に仔牛を3頭ぐらい載せてくるので、そこから買うんです。牛の産地とか、そんなことは分からないれど、「ああ、この牛なら良いなあ」というのを選んで買うわけです。エサは生の草を刈ってやる。土手の草は全部牛にやってました。1尋(ひろ。手を広げたぐらいの長さ)くらいの藁で、刈った草を丸く束ねて「六丸(むまる)」を作る。六丸を1段と呼ぶんですが、それで牛2頭を1日食べさせられる。毎朝5時に起きて1段刈って、一度には運べないから、背中に背負って3往復する。途中から、一輪車が出て少しは楽になりましたけれど、これを、草のある時期は毎日ですから、若いだけに辛かったですよ。
でも、そのうちに草刈り機を使うようになりました。そして、草を運んで朝ごはんを食べたら、今度は養蚕の作業です。だから、私は碁とか麻雀、将棋なんかは覚えませんでした。友だちは夜中の12時、1時まで遊んでいたけれど、そんなことをしていたら寝る時間がなくなってしまいます。私は、夜は9時、遅くとも10時には寝ていました。
イチゴ栽培も、今はずいぶん楽になったけど、当時は手がかかりました。温度の管理は換気扇で、暑くなったら開けて、涼しくなったら閉めてと、しっかり見張って面倒を見なければいけません。今は自動でやってくれる機械がありますけれど、昔はそんなもの、ありませんからね。生き物を飼うのと同じなんです。だから、イチゴの時期はほとんど出かけることができませんでした。
三陸ホウレンソウは、海から吹く冷たく湿った三陸特有の季節風、山背(やませ)を上手く利用して作ります。ホウレンソウは暑いとうまくできないんです。だけど、三陸は夏でも山背が吹くので、ビニールハウスの天井だけビニールをかけて、両サイドは開放してやれば、うまく育つんです。ビニールは日光も80%くらいしか通さないので、屋根だけ張ってやると夏でも冷たい風が吹き込んで暑くならない。夏物のホウレンソウは、なかなか出ないんですよ。品物も、仙台の山元町のように暖かいところで作るものとは違うんです。葉が肉厚で、いいホウレンソウができる。自然をうまく利用しているんです。
農業研修では、宮城県の青年の国内研修の第1回目に参加しました。農業部門と教育部門に分かれて1カ月の研修です。私は農業部門で、富山県に1週間くらいホームステイをして稲刈りなどの研修をしました。静岡県の御殿場にある「国立青年の家」にも行きましたし、千葉県の鋸山で有名な鋸南町にも行きましたね。各地の農家に1週間くらい滞在して一緒に働くんです。全部で20人くらい参加していたと思います。行った先では分宿で、1週間たったら集まってまた移動する。その頃は、まだ宮城県には「青年の家」もありませんでした。私たちが研修に行ってから、ああいう施設も必要だという話になったのではないかと思います。
歌津では半農半漁の家が多く、商店は少ないですね。とくに最近は、郊外に大型スーパーなどができたため商店街は苦労したことと思います。この先も、伊里前に新しい商店街ができることはないと思います。漁師よりは農家の方が多く、だいたい6、7割は農家だと思います。お互い、もめごともなく仲良く付き合っていますよ。
ちなみに、昭和30(1955)年以降は、国が予算を出して全国的に麦作りを推奨しました。このあたりの畑は、みんなハマの方、海岸寄りにあります。山の方は“タカ”、海の方は“ハマ”って言うんです。畑を区画整理して、トラクターの購入にも補助金が出ました。当時は、漁業が上手くいっていなかったので、みんな政府の補助金事業に乗って、畑を大きくし、機械を買って麦を作ったんです。しかしその後、麦の値段が安くなって、畑では食べられなくなりました。そこで、再び海に戻りましょうと、ワカメの養殖やホタテ漁をやるようになったんです。漁業で、収入が得られるようになると、畑はどんどん荒れてしまいました。
契約会は、江戸時代から続くこの地方の相互扶助のような組織です。伊里前契約会は、元禄6(1693)年に歌津の伊里前で先祖が町割をしたときに組織されたといわれます。伊里前は、私の先祖が兄弟3人で作ったんです。牧野家は、志津川の朝日館(あさひたて)と中舘(なかだて)の中間に、牧之内城という城を構えた戦国時代の陸奥領主の武士、葛西家の一族の末裔なんです。兄弟は3人で町を区分し、切り出した山の斜面の山側を上町切(かみちょうぎり)、海側を下町切(しもちょうぎり)としました。ちなみに、牧野家の山から降りてくると役場がありますね。その役場の脇にあった蔵も牧野家のもので、資料置き場としてずっと役場に貸していました。こうした記録は「検立書」に保存されています。
契約会ができた当時は33世帯の組織だったそうです。一時は80世帯までになりましたが、跡継ぎがなかったり移転したりで世帯が抜けて、現在、77世帯になっています。農業より漁業が多く、約7割は漁業ですね。
そのうち74戸が津波で流され、今、残っているのは全部高台の家です。ちなみに、牧野家の本家はうちなんですが、たとえば、私が嫁をもらったら代理で下町切が本家になります。下町切に何かがあれば、今度はうちが本家です。そうして上町切と下町切の家が入れ替わりながら、その役割を果たしてきました。
契約会会員の権利は、家の長男が嫁をもらうと親から引き継ぎます。息子に引き継いだら親は引退で契約会には参加できません。いくら祭りが好きでも、だめ。年寄りは去るんです。こうして代々、新陳代謝を繰り返し、受け継がれてきました。息子がいなかった場合、嫁をもらわなかった場合は、引退せずに、いつまでも会員として参加することができます。しかし、最近は長女の婿も会に入れるようになりました。私の場合は、父親が早くに亡くなったので、一緒に住んでいた叔父が会員になり、私が働くようになってから、別家に出しました。
契約会では10人1組で「期(ごう)」を作り、一期組、二期組…と呼ぶのが習わしです。みんなで旅行に行ったりすると、「おう、組長!」なんて呼び合うものだから、仲居さんが驚いていました(笑)。私も2年くらい、組長を務めました。その時に、魚竜太鼓を作ったり、旅館に泊まったり。県の商工部と交渉してなるべく予算をかけないように工夫もして、宮古や東京ドームへも行きました。
契約会の役職は、会長、副会長、会計の3つで、普通は会計、副会長と経験を積んでから会長になるわけですが、私は特例で、いきなり会長を務めました。会長といっても、契約会の結束力がありますから大きな権力があるわけではありません。春と秋には、会員全員が集まって総会を開きます。大きな話し合いはこの2回だけです。
そこで、山の刈掃いの時期や回数、会計報告、そして会員が嫁さんをもらったりして新会員が増えれば、その紹介なども行って、食事会で団結を高めます。昔は会員が支度をして餅をつき、期単位の持ち回りで手料理を振る舞うのが決まりでした。8つの期のうち2期が食事を作り、残りの期がご馳走になるんです。しかし、今はお膳も使わずビニールを広げて済ませるし、食事も総菜を買うことが増えたようで、簡単になってきたみたいです。昔の形はなくなりましたね。総会は、いつも契約会館で行っていましたが、津波で流されてしまったので、現在は適当な場所を見つけてやっているようです。
契約会の会費はありませんが、総会の時に1人千円を必ず出していただくことになっています。80人いれば、それなりの金額になります。あとは祭りで太鼓を叩いたり、山車を出したりして寄付をいただいたり、山の木を売ったり土地を売ったりして運営をしてきました。それから、昔は定置網の漁業権も持っていました。毎年春には契約会を代表して20人が、岩沼市の竹駒神社(承和9(842)年、小倉百人一首で有名な参議小野篁(おののたかむら)卿が陸奥守として着任した際に、奥州鎮護を祈願して創建された)と、塩竃市の塩釜神社(国土開発・海上守護・安産守護・武徳の神として全国に知られている)に代参します。そこで、ご祈祷をしてもらい、商売繁盛・家内安全の札を会員分もらってきて総会で配ります。そして、総会が終わったら、今度は組ごとに分かれて、組長のところでお茶を飲みながら話をするんです。
土葬が行われていた頃は、会員が亡くなると会員たちで埋葬のための穴を掘ったものです。そうすると、ご遺族が「これで飲んでください」と1万円ぐらいくださるわけです。そのお金を使って、弔いの酒席をつくる。そうやって交流の場を増やしていました。近くの食堂あたりで飲みながらね。今はそういうこともしなくなりましたが、契約会館で卒塔婆(そとば)をあげたりしてね。火葬となった現在でも、納骨堂の掃除などは会員が行っています。
契約会以外の地域との絆も強いですよ。誰かが亡くなれば、必ずお悔やみにも行きます。昔は必ず亡くなった方の家に行って、3千円とか5千円とか包んでお線香を上げてきたものです。そして、香典のお返しは近いところは直接、持っていきました。でも、最近はお悔やみに行くと受付でお返しをくれるから、便利になりました。その場で全部、済んでしまうんですね。
三嶋神社
写真提供:風待ち研究会「時を紡ぐ旅のすすめ:気仙沼街道を行く・歌津
契約会では冠婚葬祭のほかに、植林や刈掃い(かりはらい)など山の管理をする山林部があります。契約会の山は40町歩くらいあって、会の帳簿上では40人共同の財産になっています。昔、みんなで話をして、あの山も、この山も、契約会のものにしましょうと決めたんだと思いますが、これは登記が難しいんです。固定資産税の請求があるので、役場には契約会の土地として登記されています。区分ごとに持ち主はいるのですが、あくまで契約会の共同の山として、個人が勝手に使ってはいけない決まりです。
山の手入れは、毎年、春の総会で「今年は5反分間伐しましょう」などと決め、山林部長を中心に行っています。刈掃いや植林は自分たちでやりますし、間伐も森林組合に頼んでやってもらいますから山はきれいですよ。刈掃いに出られない人は5千円を払うことになっています。昔は、こうして育てた木を売って収入にしていました。RQの前にあるヒノキの山も契約会の山です。今回の津波で、その向かい側の10町歩ほどは浸水しました。
それから土地も少しあります。今回の震災でも建設会社に土地を貸しているはずです。津波で流された契約会館も契約会の所有でした。その土地は“牧野”の名義の土地ですが、土地も建物も契約会のものとして役場に有料で貸していたわけです。
一歩・一畝・一町歩・一反歩(いちぶ・いっせ・いっちょうぶ・いったんぶ)
一歩 | = | 1坪 | = | 約3.3平方メートル | ||||
一畝 | = | 30歩 | = | 30坪 | = | 約99平方メートル(約1アール) | ||
一反歩 | = | 300歩 | = | 300坪 | = | 十畝 | = | 約992平方メートル(約10アール) |
一町歩 | = | 3000歩 | = | 3000坪 | = | 十反歩 | = | 約9917平方メートル(約1ヘクタール) |
*一歩(ぶ)は歩幅2歩分から生まれた。
ただ、神社には神社の祭典がきちんとあって、それは太鼓を叩いて拝むんです。そして、祭りとなったら神輿を出して、村の若者が担ぎます。この神輿は、120年くらい前からの山伏の山岳信仰に由来するもので、田束山の神輿でもあるのです。山形の羽黒山とも関係があり、樋ノ口という地名も羽黒山と縁のある地名だそうです。田束山は奥州藤原氏が信仰したといわれる霊峰で、田束山を尾根続きに1キロほど南に行った満海山は、出羽三山の修行僧がミイラとなるために入定したといわれています。 祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。 私は、平成4(1992)年4月から平成17(2005)年まで、職務代行を含めると12年と7カ月、歌津町長を務めました。70歳までは目いっぱい頑張ろうと心に決めていたので、3期目の最後、67歳で退職しました。私は、ホウレンソウやイチゴを作ってきただけの百姓で、行政の知識は何もありません。だから、54歳の時に出馬を乞われた時は迷いましたよ。なにしろ、町会議員だってやったことがない。農業一本でしたから。
「町長なんかやらないよ」と、ずっと断り続けていたんです。決して、私の意思で立候補したわけではありません。私の前任の町長は4期続けて務めた方で、私はその方の神輿を担いでずっと支持してきたんです。しかし、その町長が体調を崩して引退することになった。そこで、代わりに役場の職員が立候補したのですが、まだ若かったこともあり「あれじゃぁ、ダメだ」という話になったらしい。それで結局、私のところに立候補の要請が来たんです。あまり何度もお願いに来るものだから、終いには夜中の12時ごろまで家から抜け出して、身を隠すことまでしました。そうしたら、今度は新聞に「牧野氏が立候補する」という記事を書かれてしまった。そんなこと、言ってもいないのにね。それからというもの、医者や弁護士までが自宅に来て立候補しろと言う。新聞記事が出た平成3(1991)年の12月ごろからは噂がどんどん広がって、本当に困りました。
そういうわけで、仕方なく選挙に出ることになったんです。対立候補は若い役場の職員でしたが、町内では有名な屋号の家で血縁関係は多かった。私は農協の理事を務めていたときの人脈と経験を活かしました。当時は、公民館の運営審議員だとか、農協共済組合の理事だとか、それから契約会の会長もやっていたので、会の77人の結束も力になってくれました。選挙はわずか50票差で決まりました。このあたりで選挙となると、いとこやはとこまで駆り出して、血縁関係が当選を左右しますから、誰が相手でも同じだったと思います。
町長の任期中は、子どもミュージカルや友好町の締結など、さまざまな活動を行いました。そうはいっても、最初は行政の知識もないし、何をやっていいのか分かりませんでした。ただ失敗は、怖くなかった。もし私が、役場職員だったらプライドもあって失敗を恐れたでしょう。「何十年も行政をやってきて、あんなことしかやれないのか」などと言われたくないですからね。しかし、私は百姓でしたから、素直に「この町で何をやればいいのか」と考えることができました。
平成11(1999)年には、イタリアのベザーノ(Besano)という町と友好町になりました。この町はスイスの国境付近にある町で、歌津と同じ魚竜化石の町。歌津では2億4千200万年前の魚竜化石が出土しているんです。ベザーノの化石は、歌津とは違って海が隆起した山から見つかったそうです。ベザーノのほかに、魚竜化石が出土した町としてはドイツのホルツマーデンがあります。
じつは、最初に友好町の話を持ちかけたのは、このホルツマーデンでした。しかし、ドイツという国はお金持ちの子どもしかホームステイができないというんです。ホルツマーデンの隣のキルヒハイムという音楽家の多い町にも話をしましたが交渉は難航しました。そこで、候補国をイタリアに切り替えたんです。イタリア人は陽気で面白く、話を持ちかけると「OK! OK!」と、二つ返事で応えてくれました。ベザーノのコロンボ町長も面白い人で、歌津で開催した「国際魚竜化石サミット」で締結を結んだ際には、わざわざ歌津まで28人の親子を連れて来てくれて、お互いにホームステイをして交流も行いました。
町長時代には、宮城町村議会主催の研修で、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギーなどに行きました。1カ月くらいの研修ですが、3、4回は行きました。しかし、研修に行ったらレポートを書かなくてはなりません。みんな、それが嫌で止めてしまうんです。私も書くのは得意ではありませんが、小さなカセットレコーダと45分テープを15本持って行って、いろいろな場所で録音し、そのテープを起こしてレポートを提出しました。行った先では通訳さんが日本語で説明をしてくれますから、全部録音しておくんです。
歌津の津波被害を伝えるベザーノの地元新聞、2011年3月 歌津と志津川との合併は対等合併で進めようということで、合併協議会の会長に志津川の町長、副会長は私という体制で進めました。
町長を辞任した10月1日の次の日から、次の町長が決まる11月4日まで、私は職務代行を務め、職場を去る最後の日、11日に志津川の役場に職員全員を集めてお別れの挨拶を行いました。「私は今日で南三陸町役場を去りますが、皆さんにお願いがあります。南三陸町は職員の皆さんがつくる町ではなく、住民の皆さんがつくる町です。だから職員の皆さんが現場に出て町民の声を聞きながら、町民がどのような町をつくりたいのか聞きながら、新しい町をつくってください」と最後のお願いをし、完全に行政から手を引いたわけです。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。第3章 歌津の町を治める
1.町長時代
そして、最初に考えたのは町づくりです。「歌津はよいところです」と言えるような感動のある町づくり、「私は歌津の人間です」と誇れるような町づくりをしたいと考えました。それには、子どもが大事です。しかも、今の教育はひとつの型にはまっている。子どもの教育をしっかりやるために、何かいい方法はないかと模索して、思いついたのが子どもミュージカルでした。これは、平成6(1994)年から合併前年の平成16(2004)年まで11年の間、毎年、公演を行う大きな事業に育ちました。2.イタリアの化石の町と友好を結ぶ
町には国際交流協会も作り、町の予算で子どもたちを国内外に送り出しました。小学生は国内の、海のある町と山のある町に行きます。山の町は山形の立川町(今の庄内町)。ここは風力発電を進めている風車のある風の町です。研修に行った先の町の子どもたちは歌津へ招待し、10月にワカメの種はさみ、2月はワカメ刈りの体験をしてもらいました。これは、立川が合併して庄内町になっても続いています。中学生以上は海外へ研修に行かせました。そして、大人たちもグランドゴルフで交流を行いました。
これを帰ってきてから自分で起こすのが、ずいぶん勉強になりました。行っただけでは忘れてしまうけど、テープを聞くと思い出すでしょう。1回目は分からない言葉は平仮名のままとにかく書いて、2回目は漢字や言葉を調べて直す。3回目で清書です。つまり、テープを3回は聞き直します。消費税から歴史まで、現地で聞いた細かな数字も全部レポートに入っていますから、どうやって書いたのかと驚かれましたよ。「バスの中では寝ていたくせに何で書けたのか」とみんなに笑われました。私が寝ていても、テープはしっかり回っていますからね(笑)。だから、みんなが必死でメモしている時も、自分は何も書く必要はなかったんです。ただ、そうした記録も津波で全部流されてしまいました。それは本当に残念です。3.志津川町と歌津町の合併
平成17(2005)年10月1日、歌津と志津川は正式に合併して南三陸町が誕生し、私は、その前の月、9月21日に平成の森で記者会見を行いました。歌津町の最後の大きな行事となった老人クラブの大会も無事終わり、町の行事がすべて終わったのを見計らって行ったのです。そこで私は、「南三陸町町長選挙には出馬しません」、そして「町長選に誰が出馬しても、応援は一切いたしません」と宣言をしました。そして、「新しい南三陸町町長には、ひとつお願いがあります。海や山を活かした、第一次産業を中心とした町づくりをしていただきたい」と申し上げたんです。歌津も志津川も海で生きる町だからです。
私が町長になる少し前の話です。親しくしていた仙台の東北放送の子会社(TBC開発)のAさんに呼び出されて、海外向けの観光PRのビデオを作りたいから協力してくれと言われたことがあります。
彼は、当時「わが町ど真ん中」という番組担当の部長さんでしたが、私が伊里前契約会の芸能部で魚竜化石をモチーフにした創作太鼓「魚竜太鼓」をやっていたので相談にきたのです。「魚竜太鼓」は、起承転結をつけた独特の創作太鼓で、昭和62(1987)年に仙台で東北博覧会が開催されたときに創ったものです。博覧会のために宮城県の各町で創作太鼓をやろうという話になり、ちょうど私が伊里前契約会の芸能部で祭りを担当していたので、創作太鼓も担当していたのです。
魚竜太鼓
写真提供・宮城県人会東京事務所
部長さんに、観光のPRには何がいいかと相談されたので、「仙台七夕か、すずめ踊りのようなものがいいんでないか」と言ったら、それでは宮城県を代表する観光PRにはならないと言われました。
そこで、「それなら、魚竜化石はどうだ。これなら誰もが認める天然記念物だし、世界最高のものと誇れるんじゃないか」と言ったんです。すると彼は1週間後に再びやって来て、魚竜太鼓をモチーフにした「魚竜舞(竜の舞)」というミュージカルはどうだろうと言うので、それじゃあ、やるかと協力したわけです。
後で分かったことですが、この話が歌津に来たのには、もうひとつ理由がありました。昔、仙台空港に日本で初めてシンガポール航空が就航したときの宮城県知事、本間知事は、中新田の町長を務めた方でした。非常に発想力のある方で、町長になってすぐに「中新田バッハホール」という素晴らしい音響の音楽ホールを作って、中新田を一躍、全国的に有名にしました。そして、シンガポール航空就航のときにも、宮城の観光PRとして中新田の伝統芸能「火伏せの虎舞(とらまい)」という屋根の上で踊る舞踊と、古川の「陸前太鼓」をシンガポールで披露したのです。その時、陸前太鼓は評判が良かったのに、虎舞はまったく受けなかったらしい。
そこで、知事は海外向けのPRに新しい目玉を作れと言ったようなのです。それで、創作太鼓の経験がある歌津に話が回ってきたというわけです。
魚竜舞の準備金として、県からは何千万円もの支援がありました。それを使って、さっそく歌津の若者を中心に、役場の職員や一般の方も入れて練習が始まりました。その時のリーダーが、今回の地震直後に防災センターでマイクを握り、住民に避難を呼びかけたことで有名になった三浦毅さんです。演出は、仙台出身で劇団四季の元団員、浅利慶太(あさりけいた)さんの下で日生劇場の子どもミュージカルも指揮していた梶賀(かじか)千鶴子さん。彼女の代表作「ユタと不思議な仲間たち」は、梶賀さんが20代の頃の作品で、青森の八戸か三戸が舞台だそうです。
梶賀さんは劇団四季を辞めてから、仙台で「SCSミュージカル研究所」を立ち上げ、ミュージカルを上演しておられたんです。そこで、東北放送の部長が頼んで、歌津に来ていただきました。
梶賀さんは、仙台から毎週やって来て、役場近くの保健センターで練習を見てくださいました。役場の職員、消防署の人や歌津市民、合わせて総勢約15人の大人が参加しました。
◇魚竜太鼓秘話についてうかがいました
魚竜太鼓
写真提供・宮城県人会東京事務所
この魚竜太鼓を作るには、いろいろありました。東北博覧会の後に、歌津でも創作太鼓を作りたいということで、佐藤正信さん(民族歌舞団ほうねん座代表)という方にお願いしました。
太古の海に泳いだ魚竜がモチーフだから、私たちにとって母なる海だ、海はふるさとなんだと、ということで頼んだら、正信さんは最初、魚竜の2億7500万年前のイメージが浮かばず、「魚竜は海にいるもんだ、なんとか漁師と結びつけられないものか」と思って、定置網やってる親戚の船に乗せてもらって漁師が網を下ろすのを実際に見て、イメージを描いたんです。
創作太鼓でも歌津魚竜太鼓の特徴は、起承転結で1つの物語を作って、その物語にそって太鼓を叩く、「見せる」太鼓。でも正信さんは「聞かせる」太鼓を作った。そこに、漁師の太鼓なので、「どや節」という歌が入るんです。「おーおーよいところ」って歌うんです。そして最後の太鼓の叩きあげでダッダダダッダダ・・と盛り上がって行く。
物語は、最初は漁師が海へ漁に行く。そして沖で魚と戦い、そして魚を獲って大漁で帰って来るわけです。陸(おか)ではみんなが帰りを待っている。「魚竜太鼓」と「田束の夜明け(作詞は牧野さん)」その頃は創作太鼓自体が珍しく、魚竜太鼓が有名だったので、あちこちから出演依頼が来ていました。だからトラックに積んでどこへでも運んだんです。
これは初代の太鼓、地味な太鼓、地味なはっぴですね。今の魚竜太鼓はこんなふうではありません。白い派手なはっぴでですね。
私が町長時代に行った一番大きな仕事は、何といっても「歌津町小学生ミュージカル」です。平成6(1994)年から合併前年の平成16(2004)年まで11年の間、毎年、公演しました。伊里前小学校と名足(なたり)小学校という2つの小学校による子どもミュージカルです。
これは、魚竜舞でお世話になった梶賀さんとの出会いから生まれた事業です。魚竜舞の練習をしていた時に、梶賀さんが休憩を入れるときに「はい、休んでや、休んでや」と手を叩くと、練習で汗だらだらになった参加者は「あぁ〜、こえこえ。ちゃごまっぺや、ちゃごまっぺや」としゃがみこんでしまう。歌津弁で「こえ」は疲れた、「ちゃごまっぺ」は座るという意味です。その光景を珍しいと思ったのか、梶賀さんは「歌津にも、方言がだいぶ残ってるんですね」と言ったんです。
じつは、私も魚竜舞を進めるうちに、歌津の方言でやってみたらと考え始めていたので、そう言ったら、何かアイデアはあるのかと問われたんです。そこで、「保育所の子どもから中学生まで、歌津の子どもたちを全部、ミュージカルに出したい」と言いました。梶賀さんも、さすがにそれは無理でしょうと言ったのですが、私はとにかく全員の出演が可能か、各方面に聞いてみるからと、まず教育施設に話を持ちかけました。保育園では父兄が心配するから難しいと断られました。中学校でも部活動を理由に断られました。しかし、伊里前小学校と名足小学校は二つ返事で賛同してくれたんです。そこで、小学校で話を進めることに決めました。
小学生の生徒数は、2つの小学校を合わせて450人くらい。その生徒たち全員で、年に1回、秋にミュージカルを発表します。各学校1時間ずつ、合計2時間の発表会です。練習は春から始め、勉強に支障が出ないように、放課後を使って行いました。指導はすべて梶賀さんにお願いして、仙台から通っていただいた。予算は、県の予算から1千万円が出ました。2校とも発表会は同じ日で、舞台は歌津中学校。普通の舞台だと全員はあがれないから、仙台から舞台装置のプロを呼んで、当日の照明、音響、舞台装置を作らせたけど、それだけで5百万円はかかりましたね。
「感動の玉手箱 歌津」パンフレットにも子どもミュージカルが
ただ、県の予算が出なくなってからは大変でした。一番の問題はやはり議会です。1千万の予算が、かかるんですからね。町の予算委員会には、町長部局と教育部局があって、学校予算案は教育部局、町長部局は、それ以外の土木などの予算を取るんです。そこでミュージカルの予算が議題に上がると、「こんなことに1千万も使うなら、海に使う方がいい」、「海に使えば、すぐに回収できるじゃないか」と、毎日、毎日、批判ばかりでした。私から教育委員長には子どもミュージカルの話を通しておいたんですが、議員から連日、激しく責められて、ついには教育委員長も反論できなくなってしまった。
このときに、私が学んだのが「意思の伝達の大切さ」です。脚本家のジェームス三木も「自分で書いた脚本でも、それを演出家や監督に渡してしまうと、自分が考えた通りにはならない」と言っています。演出家と脚本家では考えていることは違うということですね。実際、私も教育長に「予算を取るぞ」と言ったものの、きちんと自分の考えを話しておかなかったんです。だから、教育長は予算委員会で責められると「私も、その話にはびっくりしている。いま町長から聞いたばかりなんです」などと言って、さらに批判を浴びてしまった。
そこで、私自ら手を挙げて「確かに、海に投資すれば経済的には助かります。しかし、戦後、日本は経済を優先して発達してきましたが、その結果文化は停滞してしまった。歌津町も同じです。経済活動もいいけれど、私はまず、文化が経済と同じくらい発展するような町づくりをしたいんです。子どもたちには今、感動がない。この町には感動がない。やっぱり、感動を、夢を与えたい。そのためのミュージカルなんです」とその意図を語りました。それで、ようやく予算を通しました。それでも、毎年、議会の予算は揉めるんです(笑)。「なぜ、毎年、SCSに演出を頼むのか」とかね。変えるとうまくいかないから、お願いしているんですけどね。
そういうわけで、梶賀さんは、11年間ずっと子どもミュージカルに協力してくれました。何とか続けたいという、私の願いに応えてくださったんです。ミュージカルの内容は毎年違います。さらに、梶賀さんは2つの小学校のために2つの劇を用意して、伊里前は山の自然、名足は海の自然をモチーフにするなど、工夫をこらしてくれました。たとえば平成14(2002)年には、歌津に訪れたアザラシの「ウタちゃん」を題材にして、先生たちが生徒全員をウタちゃんに変装させました。保護者の方々はそれを見て、すごく感動していましたね。歌津のワカメ生産を題材にしたものもありました。昔、歌津ではワカメの良さが分かっていなかった。それを四国の阿波の商人が買い取って売ったのが鳴門ワカメで、三陸のワカメを鳴門ワカメとして売っていた、というお話です。そういう話を、歌津弁をたくさん取り入れてミュージカルにするんです。
そしてこの夏、8月10日に歌津中学校体育館で、劇団四季による東北特別招待公演がありました。演目は「ユタと不思議な仲間たち」です。7月23、24日には、仙台の電力ホールで梶賀千鶴子さんのSCSミュージカル研究所による復興ミュージカルも行われました。これは、これまで何十年の間にやった子どもミュージカルの集大成で、伊里前小学校や名足小学校が以前公演した海と山の伝えの演目も再演されました。約40人の生徒も出演しましたが、上演中、涙が止まりませんでした。これは、町長として、一番嬉しかったことですね。
山形県の立川町(現・庄内町)にいる造形作家に、町づくりの相談をしたこともあります。その方と出会ったのは、歌津にアザラシが迷い込んだ時のことです。タテゴトアザラシの赤ちゃんで、「ウタちゃん」と名前までつけて大騒ぎになった。かわいいアザラシを見ようと、毎日、5千人くらいの人が来たんですよ。東京はもちろん、わざわざ九州から来た人もいました。テレビ局もNHK以外は全部取材を受けました。私も「いやあ、こんなところに迷い込んできたのは初めてです」などと、いろいろ話をしました。でも、アザラシは3日でいなくなってしまったんです。そこで、川にアザラシの像でも作ってやれば、観光客を呼べるのではないかと考えました。
すると、子どもたちとの交流事業をしていた立川町に、仙台大観音を作った東京の美術大学を出た人がいるという。早速、出かけていって、本物そっくりのアザラシを3頭くらい浮かべたらいいんじゃないかと相談したんです。そうしたら、彫像には70万円もかかるというんですよ。それで、諦めました。そうでなくても、議会にはいろいろと叱られていますからね(笑)。
その作家の人には、アザラシの像の代わりに、田束山に涅槃像を造ることを提案されました。仙台大観音くらい大きなものを作れば、観光の目玉になるに違いないというんです。中国や韓国では儒教が盛んなので、日本に観光に来たら、宗派にこだわらず立ち寄ってくれるはずだと、今から17、8年前に、既にそういう時代が来ると読んでいたんですね。しかし、その涅槃像を造るには、何億と費用がかかるというんです。東京の代議士さんにも相談をしてスポンサーを探しましたが結局見つからず、その話も頓挫しました。
アザラシの像を相談した時に、模型を作ったはずなんです。せめて、それだけでも記念にもらっておこうと思ったのですが、震災が来てしまいましたから、もう無理でしょう。
震災から2日後、長男が死んだと噂で聞きました。
私の長男は、役場に勤めていたので、震災当日も産業課の課長に同行して田束山で樹木の調査をしていたそうです。
地震の直後、すぐにジープで山を降りて志津川の役場へ向かいました。その後、近くの防潮堤の水門を締めに行って防災庁舎に登り、そこで津波に流されて亡くなったんです。
後日、防災庁舎で生き残った歌津町出身の2人の職員が私の家にやって来て、涙を流しながら「私もあの日、屋上にいました。典孝君もいらっしゃいました」と報告をしてくれました。
この避難所となっている家は、平成22(2010)年の8月に建設したものです。その年の2月28日に起きたチリ津波のときに、歌津でも初めて大津波警報が出ました。そのとき、また大きな津波が来ると直感的に思ったんです。大津波警報が出るなんて72年の人生で初めてのことでした。町長の任期の間も、注意報の経験しかありません。あのときに、この家を建設しておいて本当によかったと、今になって思います。しかし、生活環境はガラッと変わってしまいました。
ここには、新聞さえ当日には届きません。気仙沼の地方新聞が、1日遅れで郵便で配達されるんです。津波で新聞配達をする人がいなくなったんでしょう。いろいろと、不便になりました。買い物も、昔はどこへ行くのも歩いて5分だったのに、今では10kmもあります。
震災直後は、私の家族、近所の方も含めて12人で生活をしていました。3月は、まだ寒かったので、他の人に毛布を分けて、自分はビニール袋をまとって寒さをしのいでいました。車の暖房も利用しましたが、ガソリンがなくなったあとは、それもできなくなりましたね。部屋には何もなかったけれど、一緒に生活していた隣のおじさん、おばさんのために、真っ先にソファーだけは買いました。
近ごろは、ようやく日用品も揃ったし、家族だけで生活できるようになって気持ちも楽になりました。震災後に犬も飼い始めたんです。3月1日生まれだから、今5カ月くらいですね。柴犬で名前は「のん」。うちの息子が「典孝(のりたか)」だから、まぁ、息子の代わりです。
いま気がかりなのは、こつこつと揃えていた家や町の資料のほとんどを流されてしまったことです。町長時代の議会やイベントの挨拶などの資料も、すべて保存してあったんですよ。でも、すべて流されてしまいました。ゆくゆくは、原稿を集めて本にしたいと思っていたんです。海外研修のレポートも、若い頃からの新聞の切り抜きも流されてしまいました。行政や農業、経済などの気になる情報を集めていたんです。本当に残念です。被災して3カ月は、流された町に降りる気にもならなかった。毎日、あれも流された、これもダメだったと思い出すと、やりきれないし、誰のせいにもできませんからね。相手が自然では八つ当たりのしようもないですから。
とくに家系図は残しておきたかった。私の祖父は、自分が知っている家の歴史などをあまり教えてくれませんでした。だから、自分で少しずつ資料を集めていたんです。
牧野家の家系図は、昔、宮城県の県史の編纂委員をやっていた仙台の旧制第二高等学校の校長先生に貸していました。たぶん、巻物だったと思います。それを校長室に保管しておいたために、仙台の空襲で焼失してしまった。いつも、祖父ちゃんは「あれば、あったらなあ、伊里前の町の歴史も、もっと解明ができたのになあ」と言っていました。
戦国時代には、歌津町のなかでも戦いがあったんです。魚竜化石のある館崎、あそこには昔、館城(たてじょう)という城があって、それと牧野家が戦って、勝ったらしいんです。そして、その勝利の日を三嶋神社のご縁日にしたのだそうです。魚竜館のところにある管の浜(くだのはま)の前の山際の道路のあたりは、昔は全部湖でした。だから沼深(ぬまぶかい)という屋号になったとか。そういう、いろいろな歴史が書かれてあったんだと、私の祖父ちゃんは残念がっていました。
牧野家の先祖に当たる葛西家は、伊達家に迫害されて逃げていたので、そのいわれを書いた巻物も、そのままでは読めないようになっていました。明るいお天道様にかざしてやると字が浮き出て読めるようにしてあるんです。その巻物を、福島の役場の職員が2巻譲り受けた。その巻物の一つがうちにあって、仙台の空襲でやられたというわけです。そこで及川さんにそのことを尋ねたら、やはり、同じ家でも歴史好きな人、好きでない人がいるんですね。その人は代々歴史が好きでなかったようで、巻物はふすま紙に使ってしまったらしく「そんなものは残っていない」と言うんです。だから、牧野家の系図はひとつも残っていないんですよ。
ただ、同じ家系の人が本吉にもいて、そこに、あの巻物より少し前のあまり詳しくないものなら伝わっているんです。
本吉は元朝日城の城主で、中舘兵法の発祥の地なんですが、その本吉の人は、家を継がずに系図書きを持ったまま北海道の北見に移り住んでしまったんです。以前、北海道に牧野家の系図があるというので、内地から大学の先生や郷土史の先生が訪ねていったのですが、書写はさせてくれたけれど実物は貸してもらえなかったんです。
しかし、牧野家の別家の叔父が歌津から訪ねていったら、借してくれたんですね。そこで、借りたものをコピーして巻物にして、筒に入れて家宝にしたんです。その巻物は、私が孫と思って信頼していた公民館長さんが町史の編纂をした時に貸してあげました。それで、貸しっぱなしで忘れてしまった。そのうちに、その人も亡くなって、村も合併して、公民館は取り壊しになりました。だから、その巻物があるとしたら、館長さんの自宅しかないと思って、この間、その人の家を全部、探したんですが、出てこなかった。どこへやったんでしょうね。
地震で本棚や書籍は全部バラバラになっていたから、紛れてしまったのかもしれません。もし、その巻物が出てくれば、少しは分かることもあると思うんですがね。
契約会では、今回の震災で住む場所を失った方々に、所有している山の一部を譲渡することを考えています。RQ市民災害救援センターの歌津センターも、契約会が貸した土地です。その、ちょうど向かいの平らな山の、10町歩ほどの土地の譲渡も準備が進んでいます。来年の秋ごろには整備が始まるのではないでしょうか。
じつは震災翌日、契約会現会長の千葉正海さんに会いに避難所から出かけていったんです。朝5時ごろでしたが、いませんでした。7時ごろになって、ようやく歌津中学校で会うことができました。
大将(千葉さん)は震災直後、動力船で海へ逃げたんです。津波が来ると分かっていたから。大将は震災の前から、「もし大地震が来たら、俺は船で沖へ逃げる、お前たちはどこそこへ逃げろ」と、家族でマニュアルのようなものを用意していたんです。だから、千葉さんは沖へ出て、そこで一晩泊まって次の朝に陸に戻ってきたんです。
私は千葉さんに、「会長、もうだめだ。伊里前の町は住めない。契約山は全部ただで、みんなにやっぺ」と言いました。千葉さんも、「77世帯分、整地して、もし土地が100でも150でも余ったなら、それは、みんなにやっぺや」と言いました。そこで初めて、契約会の土地譲渡の話が浮上したんです。
大きな事業は町が主体になるだろうからと、その1週間くらい後には会長や副会長が役場に行って、土地の譲渡の提案を行いました。役場に話を通しておけば、あとで勝手にやったと文句を言われることもないと思ったのです。「契約会に入っていない人にも土地ができるわけだから、よろしくお願いしますよ」と、きちんと仁義を切ってきた。
ちなみに、千葉さんは息子が結婚したので、本来なら、もう引退の時期なんです。だけど、今回の震災で大きな事業が動き出したので、来年まで引退はできないと言っていました。
千葉さんは、高台に移転したら、この伊里前の町をちゃんと引き継ごうと言っていたんです。上町切とか下町切とか横橋といった屋号も残して、昔はこういう町だったんだと分かるようにしたいと。そのあと、どうしていくかは分かりませんが、何しろ320年も続いてきた町ですから。私も、最初に町割りをした家の子孫だからとか、そんな意識はないけれど、やはりそうしたいと思います。写真だって、昔のものは全部とってありますから。
ところが、ここ最近、少し話が変わってきています。ご存じの通り、復興は行政主導で行う必要があります。町も国や県とのつながりがあって、そこから資金も来る。だから、奥尻や阪神の復興事例ばかりを参考にして、私たちの考えたようにやってくれないんです。だいたい、県と国が町に話を聞きに来たのは6月2日ですよ。私たちが3月の震災直後から役場に話を通していたにもかかわらず、3カ月も経って初めてやって来た。さらに、県で3人のコンサルタントを雇って、いきなり新しい町づくりの計画を提案してきました。計画は、譲渡した土地に300から350世帯の団地を建てるというものです。伊里前では264世帯が流されましたから、350あれば入居には十分です。そして、国が伊里前の土地をすべて買い取って登記するというんですが、それで、350世帯、本当に移転するんですかと聞いたら、なんだか自信がないんですね。
歌津住民にアンケートをとって高台へ移住したい人を集計すれば結果が出ますと言うんだけど、まだそんな状態です。
土地の譲渡を提案して3カ月も話を保留していた上に、突然、勝手な提案を持ってくる。「これが行政主導か、なんで今ごろ来るのか!」と思いましたね。
今朝も、気仙沼の鹿折(ししおり)まで行ってきましたが、まあ、驚きますよ。工場は焼けてメチャメチャだし、水も来ているし、あれでは寝ることもできません。半年経ってもあの状態とは、酷いものです。1回行ってみたらよく分かると思います。それでは、歌津の復興はどうするのか、という話です。
歌津は海と山の町です。とくに漁業は盛んなので、まず第一次産業を早く立て直したい。
でも、船を揃えるにも、ホタテや貝の動力船だと9トン級の漁船が必要です。そうなると、少なくとも5、6千万円はかかりますから、家を建てるより高くつく。しかも、それは船を揃えるだけの金額で、漁を始めるにも5、6千万はかかります。この地域で考えたら、ワカメや海藻、アワビなどを採る24尺くらいの強化プラスチックの船でも一隻何百万円。それにワカメの資材なんかを揃えると5、6百万円はかかるでしょう。それから、資材を置く土地も必要です。それなのに、土地はない、家もない。土地だけでもあればいいけれど、仮設住宅に入っている人はそれもないんです。しかも、2年の期限が過ぎたら、出て行かなきゃなりません。だから、早い段階で資金が必要です。神戸などの震災とは状況が違うんです。
しかし、「自然にはかなわない」。農業をやるにしても、今回の震災にしても、相手が自然では、どうしようもないですね。これは、吉川英治が書いた『宮本武蔵』を読んで改めて悟りました。武蔵は精神統一のために山にこもり、畑を開墾して自給自足の生活をしたんですね。そして、畑や田んぼは、自然から幾度となく被害を受けました。そのうえで、自然には勝てない、自然を利用しなくてはだめだと悟った。だから、佐々木小次郎との巌流島の対決でも武蔵は朝日を背負って立つ。そこで構えたときに、小次郎の目を朝日がくらますんです。私も、武蔵ではないんだけれど、やはり自然には勝てない、うまく利用することだと、つくづく思います。
今は、仕事のない人がたくさんいます。その人たちが何とか稼げるような方法を考えなくてはなりません。歌津だけでも畑が400町歩はありますから、そういう財産を有効活用して、仮設住宅にいる人たちを起用して、自給自足で頑張ればいいのではないかと思うんですが、町としてはそういう考えはないようです。
志津川の「さかなのみうら」の三浦(保志)さんという人は、自分のポケットマネーで町の支援の届かないところに物資を届けたり、フリーマーケットをやったりしてきました(「ふんばろう東日本支援プロジェクト」現地窓口として、避難所や仮設住宅など60カ所以上の各所に物資を運ぶ活動をされた)。早稲田大学の先生ともつながりがあって、一生懸命にやっているんですが、町にしたら邪魔をされているようで面白くないんですよ。でも、三浦さんは大学の先生たちからも指導を受けながら事業をいろいろ立ち上げて、NPOも作りました(南三陸町漁業再生支援協会)。私も、それに参加します。三浦さんは魚屋だから、これまで自分は漁民の方たちに助けられてきた、今度は私が皆さんを応援する番だと頑張っているんです。
いま、志津川には同じような気持ちで仙台や東京から集まってきた人がたくさんいます。だから、それに参加して、私は百姓だから畑、遊休農地の活用を考えたいと思っています。そうは言っても、私たちも歌津の井の中の蛙ですから、いろいろな人の知恵を借りて全国展開をしていこうと考えているんですよ。
それから、歌津は味噌が美味しいんですよ。というのも、宮城には特産のミヤギシロメという大豆があって、昔は歌津の豆の値段が決まらないと市場の値段がつかないと言われるくらいでした。
とにかく、歌津は土が粘土質だから、どんな作物も美味しくできるんです。大豆も上質で大粒の豆が穫れます。それが、最近は漁業ばかりやって豆は作らなくなった。昔は、歌津の韮(にら)の浜から志津川の袖浜あたりの海岸線は、ずーっと大豆の産地だったんですよ。だからね、それを蘇らせたい。歌津には、昔、麦を作っていた畑が、ハマの方、海岸寄りにあって、草ぼうぼうに荒れた状態でそのままになっています。今でも3反歩か4反歩は残っているはずです。そこに、トラクターさえ入れればすぐに使えるようになります。土地の所有権の問題もあって、機械を通す道を作っておかなかったので、それができないでいるんですが、何とかならないかと考えています。
そして、ただ大豆を売るのではなく、味噌を作るんです。これは絶対にいいと思いますよ。美味しいし、雇用も生む。私も震災前には、黒豆を作って大きな桶で味噌も作っていました。その味噌がおいしいと評判で、以前は神奈川県の茅ヶ崎に住む親戚にもよく送っていました。その味噌で味噌汁を作っていたら、香りをかぎつけた近所の人に「どこの味噌か」と質問されたこともあるそうです。しかし、津波で私の家にあった2つの味噌樽は流されてしまいました。でも、おそらくどこかに種は残っているはずです。もし、この味噌を復活させることができたら、必ず歌津の名産品になるでしょう。
そのほかには、馬鈴薯もいいものが穫れます。私の祖父は馬鈴薯作りでは『キング』という農業の月刊誌で日本一に輝いたことがあるんです。いまでも原稿はとってありますよ。ちょうど吉野沢住宅の少し先、ひまわりが咲く畑の上、そこで日本一の馬鈴薯が穫れたんです。今は、避難所の方たちがダイコンや野菜を植えていますが、来年は私たちも作れるかなと思っています。そして、馬鈴薯も加工するんです。北海道のポテトチップスのようにね。私は加工技術はないから、物産協会の人たちの知恵を借りて、新たな歌津の名産品を作れればと思います。
牧野駿さんが、ご自身の畑を開放した吉野沢の様子
写真提供:Author:n_c「南三陸町と周辺地域への祈り」
よその人から見れば、江戸時代から続く契約会が、もう一度町を復興するということは歴史的なことで、すごいと思うかもしれません。でも、私たちはそれほど意識はしていないんです。契約会の会員も、自分たちの祖先が、この町を興したんだということを、どれほど自負しているか分からないし、歌津の人々が自分たちの地域にどれほど誇りをもっているか、どれほど自分たちの先祖のことを知っているか、私にはよく分かりません。ただ、350年、続いてきた町がなくなってから気づくことはとても多いですね。
いま契約会は、次の町づくりでは屋号を意識した町づくりをしたいと考えています。屋号は町にとって大事な意味を持っています。伊里前には上町切、下町切以外にも、さまざまな屋号が残っているんです。伊里前はもう住めなくなってしまいましたが、後世に「伊里前はこんな町だったんだよ!」ときちんと伝えたい。「そういう屋号を残すべなぁ」と、みんなで考えたんです。それが、将来、この町にどんな意味を持つかは、まだ定かではありません。けれども、やっぱりそれを残して、伝えていきたいという思いは、とても強いのです。
(談)
聞き書きのメンバーと。後列左から村山絵美、河相ともみ、織笠英二
この本は、2011年8月17日、23日、
南三陸町歌津のご自宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
2011年8月17日
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高田研(都留文科大学教授)
藤本麿臣
河本真吾
2011年8月23日
▼
中平朗美
刈田唯可
藤本麿臣
河本真吾
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[編集協力]
織笠英二
松浦身和
河相ともみ
久村美穂
村山絵美
[文・編集]
山崎玲子
[発行日]
2012年5月5日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net