東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト
文字サイズ
 [キーワード]戦時中

故郷で教員の道を進む

昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。

1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。

教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。

教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。

「歌津 塞翁が一代記」山内正一さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]大正12(1923)年生まれ

戦時を生き抜く

家に帰って来たところで、戦時中だったから、男の人は戦争や工場に取られていなくて、家に残された女性は一生懸命戦争に協力しなければ、って言ってたよ。女の人は山に行って、松の根っこを掘って、そこから飛行機の部品に使う油を採るって言ってたんだ。そして家に来て不満を言ってばかりだったな。

そのうちに今度は「みんな、軍隊に協力しなければいけなくなったので、気仙沼の鹿折(ししおり)の缶詰工場に行って応援してください」って動員ですよ。勤労奉仕、つまり無料で仕事をするの。でも、だんだん戦争が激しくなってきて、その缶詰工場は艦砲射撃でやられてしまった。爆撃されたときに私は偶然家にいて無事だったの。

命というものは不思議なものだよ。見にいってみると、爆弾が落ちた場所に、4間(けん:1間=約1.8m)ほどの大きな穴が開いてたんだよ。それはもう、たくさんの爆撃があったんだから。そして働く場所を失って志津川の家にいる間に大東亜戦争は終わったんです。

今この仮設住宅にも泊浜(とまりはま)の人たちがいると思うけど、艦砲射撃で泊崎荘(とまりさきそう)のあたりに爆弾が落ちたりして、事故に遭った人もいたよ。でも、今回の津波のような広い範囲の被害でなく、2、3カ所のことで済んだけどね。

「いつも明るく朗らかに!」佐藤はぎのさん[宮城県南三陸町志津川]昭和2(1927)年生まれ

徴兵

私が兵隊へ行ったのが、1942年の12月1日です。最初は仙台です。20歳になると兵隊に行くんです。
まず、徴兵検査があります。20歳になると、検査を受けて、甲種合格→第一乙種→第二乙種・・・って言ってね、それで召集されます。私はその頃から、耳がちょっと悪かったから、第一乙種でした。

私たちは、徴兵検査が終わるとすぐに連れて行かれました。陸軍です。仙台の歩兵第四連隊。その時は、大何連隊なんて言わなくて、「橘」(たちばな)と呼ばれていました。何人くらいの連隊か?とか、どこから船に乗ったとか?覚えていませんね。わかりっこないです。赤紙で連れて行かれる二等兵に、わかるわけがないです。
昔は、田舎でも「歓呼の声に送られて」って歌があるでしょう?神社で祈願祭をして、そうして送られました。仙台から出て、船に乗って中国へ渡りました。上陸してからは汽車で移動しました。終戦まで中国にいました。
終戦は、昭和20年の8月15日だね。その時私は、関東軍咸陽(かんとんぐんかんよう)部署にいました。
そこから今度は日本へ還されるために、ぶよう(武陽)ってところに渡りました。そこから、がくよう(岳陽)まで揚子江を下りました。

渡るのは夜でした。ちょうど私たちがね、一緒に渡っていた人がね、川へ落ちたんです。他所の部隊の人です。それで、私はその時ね、一緒に船で渡る人が揚子江に落ちた。私は、背嚢(はいのう)ってリュックを背負っていたんだけど、そいつだけを脱いでね、川へ飛び込んで、その人を助けたんです。助けた人の名前は別の部隊だからわからないです。一人を助け上げたら、もう一人流れてきたから、その時二人助けたんです。後の一人は同じ部隊の人でした。その人は「いながきまさみ」という陸軍将兵でした。陸軍少尉だから、私より年齢が上の人だと思います。泳ぐのが得意だったとかそういうんではなくて、偶然と奇跡が一致したわけだ!ま、偶然助けたってわけです。

それで、そうしたら、後から表彰されたんです。派遣軍総司令官陸軍大将中三尉勲一等功二級岡部直三郎(おかべなおざぶろう、陸軍大将。1887–1946)という方から表彰状をいただきました。部隊長から頂いた表彰状もあったんです。全部津波で流されてしまいました。

私たちは、中国へ行っていたために、3年半でも、軍人恩給なんてつかないんです。なぜか?というとね、中国は加算の対象にならないの。ソ連や南方へ行った人は加算がついたんだけどね。私たちはつかないんです。
戦争中、中国で貯金をしたんですが、その通帳の番号だけは覚えていてね、通帳はないんですよ、でも番号だけ「熊本貯金千丸六七六」っていう番号だけね、それで、全部ではないけれど、帰ってきてからお金を下ろしたこともあります。70年経っても覚えているんですね。

「細浦の海と山と」田辺喜一郎さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川細浦]大正11(1922)年生まれ

学徒動員

昭和19年のことです。学徒動員で、みんな日立製作所に行って、軍需物資を作っていたんですが、そこが米軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)にあって、工場が壊滅したので、そこにいられなくなったんです。
そのあと、昭和20年4月に現役として入隊して千葉に行ったんです。この部隊は、硫黄島に逆上陸する部隊、つまり硫黄島奪還作戦のための、死を覚悟したものでした。なので、「認識票」っていう小判型の金属片に番号を書いたものを持たされたんです。戦争に行って、たとえ爆死して体がなくなっても、その認識票で誰だかって確認できるようにです。だから、前線に行くのと同じだったんです。入隊後、最後の家族面談が許されたときに、親父が面会に来て、激戦地に行くので生還は難しい、と言うと「みんな死ぬんだな。捕虜にだけはなるなよ」と言って寂しげに帰っていったのを覚えています。
けれど、船もなにもなくなって、硫黄島に行くにもいけない状態になったので、作戦は中止になりました。それで本土防衛部隊に編成されたけれど、幹部候補生だったから当地活動をしていても、ほんとの兵隊の訓練ばかりやっていましたね。
結局、8月に終戦になって、9月の4日に帰ってきた。除隊です。

「伊里前 海と山が育む宝もの」高橋静男さん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]大正15(1926)年生まれ

地域のキーワード:, ,

開口日は漁業も

海の仕事は農作業の合間にするんです。8月今頃はちょうど、ワカメの開口も終わるころ。5月6月から8月にかけては天然ワカメの開口、ウニの開口で忙しくなってくるんですよ。
開口は、漁業組合が決めるんですよ。採るものの育ち方もみて、海が平らな日を選んでから、「あしたは天候がいいから、ワカメの開口」って、毎年のように連絡をするんです。そうすると、地元のみんな、朝早く、3時ごろから起き出して、船に乗ってワカメ刈りに行くんです。採る場所が家によって決まってるとかはありません。「あのへんはいいワカメいるんじゃないか」と狙いをつける場所は、その人によって違うんです。
私はおじいちゃんにつれて行ってもらってやったんですよ。上手でした。ワカメは草刈りガマでなくて、竹の先にカギをつけたものです。
海面下3メートルか、深いとこで5メートルぐらいのところでワカメを刈るんです。学校は開口になればお休みします。「明日は開口だから休みます」って届けて。学校の方でもそのことをわかってるからね。小学校6年生くらいから開口の日には手伝いに行きましたね。開口のためにしょっちゅう学校を休んでるじゃないかって?戦争当時はね、食料もなく、食べるのが大変だから(問題にならない)。開口の前の日に、明日はアワビの開口だからということで、名前を書いてくるんですよ。開口に行かない人は休めないですよ。開口に行く人だけです。行かない人は学校に行くんです。

「煙草ふかして目を閉じりゃ」丸山敬一郎さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和5(1930)年生まれ

地域のキーワード:, , , , ,

食糧難の思い出

私の子ども時代は、食糧難だから、食べ物がないとき。今食べている梨もない。畑へ行って大根を盗んで食う・・そんなのが遊びだった時代です。大根は生もなにも、なんでも生で食べたね。

きちよさん それは、本当だよ。私は貞雄さんより5つ違うけども、私たちもそういう経験はみんなしてるよ。盗んだ大根は急いで食べるから、そこらへんの川で洗ってきて自分の前掛けで拭いて、大根の皮は、口先でとって、そして食べたの。辛くてのどが渇くんだね。

サツマイモを食べてるのは良い方。大根の葉っぱだの、そこらにある草っぱ、葉っぱがあるものを採ってきて食べたり、今の人たちは食べれないだろうね。肉もないから、山にいるウサギを捕って食べたりね。

「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ

地域のキーワード:, , , ,

田んぼ

戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。

「わたしの志津川」高橋登美子さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和13(1938)年生まれ

地域のキーワード:, , , ,

気仙沼の天然昆布

戦争当時はまだ良くて、精米でも食べていけたんだけど、だんだんほら、(業績が)落ちて。私が小学校に入る頃から、だんだんダメになって、精米の仕事がなくなってきました。
それでも、海が近いから、精米やりながら、昆布は採ってたの。昆布でけっこう、稼いでいました。気仙沼の天然昆布って有名ですよ。天然だから、夏になって、流れてきたのを仲間と拾って、あと干して、丸めて、お盆に売るんです。くるくるっと丸めて、このぐらいの丸さにして、それをお盆のお供えに飾ります。それは気仙沼では有名なんです。その後は漁協に出して売る。昆布は乾燥させて、後で食べる。そのうち精米やめて、父親が海仕事に切り替えたんだね。

昆布の時期は、昔は、だいたい6月末頃から、8月のお盆までに採って、その後は、10キロだの10何キロだのと、くるくる丸めて、丸く大きくしていくんですが、実際は、9月頃まで拾ってたんだよ。うちの収入はほとんどそれでした。気仙沼で海苔や牡蠣をやってる人は、それでの収入もありました。海苔と牡蠣の養殖が有名なんですよ。

私が中学校終わってすぐくらいに、昆布から切り替えて、ワカメの養殖になりました。家で養殖ワカメを干していたのは、じっちゃん(育子さんの父)が病気で倒れるまでだから、6~7年になるかな。年寄り2人でしてました。
弟たちは、都会で仕事持ったから出ていって、家に残ったのはじっちゃんとばっちゃん(育子さんの母)と、あと面倒はじいちゃん(育子さんの夫)つまりうちのだんなが見ててくれてました。それでも、2人とも丈夫だったから、あまり手かけなくても、何とか元気で養殖してたんです。ワカメの「挟み方」(ワカメの種を切って、ロープに挟み込んでいく作業)の時なんかは行って手伝うけど、収穫は2人してしてました。ある年、この辺で最初にワカメを刈りに行ったんですよ。そうしたら気仙沼で初ものだって、テレビに映りました(笑)。
だからうちの父親は昆布とワカメで生涯終ったの。それで亡くなってしまったの。どんな父親? んー、子どもには厳しいかな。子供たちはみんな怒られるんです。女の子に甘いとか無かったね。

「はまなす咲く浜をもう一度。」及川育子さん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津]昭和23(1948)年生まれ

尋常小学校から青年学校へ

唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。

中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。

尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。

希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。

青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。

「新屋のみっちゃん、昔がたり」丘 美津江さん(仮名)
[宮城県気仙沼市唐桑]大正15(1925)年生まれ

半農半漁

父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。

お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。

2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。

「新屋のみっちゃん、昔がたり」丘 美津江さん(仮名)
[宮城県気仙沼市唐桑]大正15(1925)年生まれ

戦中戦後の食糧難を生きる

その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。

この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。

昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。

「新屋のみっちゃん、昔がたり」丘 美津江さん(仮名)
[宮城県気仙沼市唐桑]大正15(1925)年生まれ

大地主の農家に生誕

私が生まれたのは昭和7(1932)年3月16日。もう80歳です。私は、銀行に一番長く勤めていたのだけどもね、百姓から、酒屋から、商売から、いろいろやったんです。何でもやってきたから。何でも聞いてください(笑)。
生まれた家は南方(みなみかた。宮城県登米市東部の穀倉地帯)の百姓でした。今住んでいる佐沼から2キロメートルくらいの所です。南方の小学校に6年、佐沼(宮城県登米市、南方の西北に隣接する)で中学校を4年、高校を2年と、この近くの学校に通ったからね、このあたりのことは全部、わかるわけ。その間に戦争もありましたよ。その間、中学校ではほとんど勉強しないで、田の草取りだの、農家の仕事、つまり農作業をやってきたの。戦時中の学徒動員と同(おんな)じように、学校で勉強しないで、勤労奉仕をするんです。そういうのが中学校の1~2年ごろずっと続きました。中学校2年生の時に終戦を迎えました。
実家の農家は、お袋がやってたんです。この辺りはみんな農家だったんですよ。親父は私が生まれてすぐ死んでしまったので、お袋が働いたんです。
私は5人兄弟の末っ子なんです。一番上は軍隊に入り戦死しました。2番目は学校の先生でしたが、去年亡くなりました。あとの2人の兄は、百姓をしていましたね。

「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ

地域のキーワード:, , , , , , ,

Navigation

Please use the navigation to move within this section.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 今朝磯 仙北鉄道 仙台 仙台84連隊第12中隊 仙台味噌 仙台市苦竹 仙台軍需工場 仙台銀行 仙石線 代掻き 代用教員 代用食 仮設住宅 仮設校舎 仲人 伊勢 伊勢神宮 伊達家 伊達政宗 伊達藩 伊里前 伊里前の市 伊里前契約会 伊里前小学校 伝統食 伝説 伽藍 低体温症 佐沼 佐藤正信 佐藤正助 体育大会 作並街道 作業小屋 作男 例祭 保健センター 保存食 信用組合 信用金庫 修学旅行 備え 傾城 阿波の鳴門~巡礼歌の段 元旦 元朝参り 兎汁 入谷 入谷小学校 全日本少年武道錬成大会 八幡様 八幡神社 八百万の神 公務員 公民館結婚式 六丸 兼六園 兼業 再建資金 冒険 冠婚葬祭 冬の遊び 冷凍網 出征 出稼ぎ 出笹沢 切り子 刈払い 刈掃い 初任給 刺し網 刺身 剣道 加工団地 加工場 助教 動力船 勤労奉仕 北上川 北洋船団 十三浜 十五夜 千島列島 千歯こき 千葉正海 半農半漁 南三陸町 南三陸町民族無形文化財 南三陸町町議 南寧 南方 南満州鉄道 南部神楽 南郷 参詣 及川甚三郎 友好町 古代装束 古文書 召集令状 可美村 台湾 右もらい、左もらい、カギ持ち 合併 合併協議会 合祀餅 吉三郎沢 吉野沢 名足 名足小学校 名足浜 向洋高校 味噌 味噌汁 品陀和氣命 哈爾濱 唐桑 唐桑尋常小学校 唐桑小学校 商工会 喜多流 喧嘩 四海波 回遊魚 囲炉裏 囲炉裏端 国民学校 国立海上技術短期大学校 国立清水海員学校 国際交流 国際交流協会 国際魚竜化石サミット 土俵作り 土葬 地主 地域振興協議会 地場産業 地方銀行 地鎮祭 地震 地駄引き 坂上田村麻呂 垂下式 堤防 塩入 塩水選 塩蔵ワカメ 塩釜 塩釜神社 増産隊 壇ノ浦 壊邑館 夏休み 外国人留学生 外材 多賀城歴史資料館 多賀城資料館 大害沢 大工 大工見習い 大日如来 大東亜戦争 大根 大根おろし 大根の葉 大漁旗 大漁祈願 大畠章宏国交省大臣 大盤峠 大祭 大網 大胴太鼓 大蔵流 大規模半壊 大謀網漁 大谷 大谷地区 大谷小学校 大谷海岸 大谷金山 大谷鉱山 大豆 大連 大連鉄道学院 大雄寺 大麦 天保年間の津波 天宇受売尊 天岩戸開き 天津児屋根尊 天然ワカメの干し場 天然記念物 天照大神 天照皇大神宮 天狗の面 天皇 天皇陛下バンザイ 天草 天草つき 天草の開口 太平洋戦争 太鼓 奉公 奉公袋 奉天 契約会館 契約講 奥尻 奥州藤原氏 奥浄瑠璃 女の沢 女学校 女川防備隊 妙音寺 嫁入り 子どもの遊び 子供キャンプ 孝子お筆重次郎 学制発布 学徒動員 学頭 宇佐八幡宮 宇佐神宮 安倍貞任 安東 安波トンネル 定置網 実習操業 実習航海 実習船 宮司 宮城丸 宮城球場 宮城県教育委員会 宮城県本吉響高等学校 宮城県水産高校 宮城県津谷農林学校 宮城県津谷農林高等学校 宮城県津谷高等学校 宮城県社会福祉課 宮城県神社庁 宮城県青年団連絡協議会 宮城農学寮 宮城野原総合運動場 宮城野青年学校 宮大工 宵月 家畜保険 家畜商 家畜車 家督 寂光寺 寄木 寄木仮設 密漁 密航船水安丸 寺子屋 将棋クラブ 尋常小学校 尋常高等小学校 小作人 小名浜港 小型船舶免許 小学校 小屋の沢 小林司教 小正月 小泉 小泉の歴史 小泉の祭り 小泉の花火 小泉中学校 小泉八幡様 小泉八幡神社 小泉城 小泉小学校 小泉幼稚園 小泉進次郎 小漁 小豆餅 小野寺弘司 小鯖 小鯖神止まり七福神舞 少年兵 少年剣道会 就職列車 屋号 屋島合戦 山の幸 山伏 山伏神楽 山内家 山内盛 山学校 山師 山林 山背 山菜 山菜採り 岩戸開き 川魚 巡礼おつる 巡視員 工業団地 巨人、大鵬、卵焼き 巨釜半造 差網 市町村合併 布刀玉尊 幌羽山 幣価切り下げ 幣束 干しアワビ 干し柿 干し芋 干し蛸 平成の大合併 平成の森 平成の森仮設 平泉中尊寺金色堂 平磯 平磯虎舞 広瀬高校 広葉樹 庄内市 庄内町 庄屋 床屋 座敷まわり 延縄 建前 廻館 弁当 弁慶 弁慶に刺す 弟家督 弥惣峠 弥惣峠~入谷ルート 彌勒寺 後藤寿庵 御天王山 御天皇山 御崎さん 御崎神社 御幣束 御神入れ 御薬師 御開帳 復旧 復興 復興への想い 復興市 復興庁 復興担当大臣 復興需要 徳恵 徳陽シティ銀行 徴兵 徴兵検査 徴用工 徴用船 德陽無尽 德陽銀行 志津川 志津川の大火 志津川の蛸 志津川中学校 志津川会 志津川実科女子高等学校 志津川実科高等女学校 志津川小学校 志津川湾 志津川町 志津川病院 志津川駅 志津川高校 志津川高等学校 愛宕神社 慈恵園 慶長地震津波 慶長地震津波伝承地 戦中 戦争 戦後 戦後の給料取り 戦後の食糧難 戦時下 戦時中 戦時徴用 戦死 戸倉 戸倉村 戸倉村尋常小学校 手仕事 手力男尊 手漕ぎ船 指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 飴餅 餅まき 養殖 養殖ワカメ 養蚕 養蚕の神様 館城 館崎 香林寺 馬っこ 馬の足 馬喰 馬捨て場 馬橇 馬糞拾い 馬車 馬追 馬鍬 馬頭観音 高台 高台移転 高射砲 高島田 高度成長 高度経済成長 高砂や 高等小学校 高野会館 髪結い 魚屋 魚竜 魚竜化石 魚竜太鼓 魚竜舞 魚竜館 魚艙 魚釣り 鮎釣り 鮪立 鱒淵 鱒淵の5さん 鱒淵の5ちゃん 鱒淵小学校 鱒淵源氏ホタル保存会 鱒渕野球クラブ 鳥越沢 鳴子中山ラドン温泉 鳴子温泉 鴇波神楽 鹿折 麦ごはん 黄金郷 黒毛和牛 黒豆 黒部の太陽 鼎が浦高等学校