慶長という年号を背負った時代というのは激動の時代であった。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉がこの世を去り、4年余りの混乱を経て徳川家康が江戸幕府を開いた。そして慶長20年、豊臣氏の滅亡をもってこの時代は終わりを告げる。
その間、山河を荒らしたのは戦火だけではなかった。実は慶長への改元の理由は、文禄末期の相次ぐ巨大地震であったが、改元後も浅間山の噴火、今まさに恐れられている南海トラフ地震が起こり、さらに7年後には会津や三陸でも大地震が立て続けに起きている。
地震は大津波を呼び、当時の伊達藩領内でも多くの死者を出す惨事となったことが『駿府記』などの資料に記されており、地名にその津波に由来する名称を残している場所が宮城県沿岸部各地に残されている。本書は特に、宮城県本吉郡南三陸町志津川戸倉地区に残された、慶長三陸地震津波のある伝承とそれに関わる人々の物語をまとめたものである。
私は昭和7(1932)年11月23日、志津川町(現宮城県本吉郡南三陸町)戸倉(とぐら)に生まれました。実家は祖父母、両親と姉の6人家族でした。生まれてから今回の津波に遭うまで、ずっとその家で暮らしてきたのです。
戸倉は半農半漁の家が多く、漁業だけで生計を立てている家はだいたい3分の1、4割にもならなかったですね。
うちは農家で、お蚕(養蚕業)をやってたんですが、漁業権もありました。祖父は1メートルほどの長さのナラの木を砂浜に立てて、そこに付いた海苔を採っていたんです。私も志津川でタコが大釣りしていた頃は、アワビの開口にも行ったりしたんですが、昭和20年から30年代にかけて、漁業の進歩で定置網や船を使うようになってからは道具も揃えなくてはワガンねえ(できない)からってことで辞めましたね。
そんなふうで、戸倉地区は海に面した方(かた)でなければ、木炭や養蚕が仕事の主体でしたね。うちは蚕より他になかったですが、私は中学校に入った頃に木炭の仕事をやったこともありました。
父の名前は知(さとる)、母はかほるといいます。2人とも戸倉の出身で、母は、父よりひとつ年下で、横津(よこつ)商店という酒屋から嫁ぎましたが、昭和48(1973)年、412の年で子宮がんでこの世を去りました。祖父は名前を吉治(きちじ)といい、自慢のようなんですが、戸倉村で村会議員を3期12年務め、71歳で亡くなりました。祖母はなおといい、その頃では長命な方だと思いますが76歳まで生き長らえました。姉は知子と言いました。
父は、祖父の「これからは頭が良くなければだめだ」との方針で小牛田(こごた)農林を卒業しましたが、20歳になってすぐ、海南島に出征しました。すでに母と結婚しており、私が生れる昭和7(1932)年に戻ってきたんです。
私は昭和13(1938)年、戸倉村尋常小学校に入学しました。そして、小学校4年生になった昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争勃発の日にスマトラ島に向け、再び戦場へと旅立ちました。
父は戦地に赴く前に、それが遺言のようになったのですが、こんなことを言っていました。
「俺のいう事をよく聞け。今度スマトラから帰ってきたら、向こうには安いバナナやマンゴーもあるし、小さな家でもみんなで暮らせるようにするから。お爺さん、お婆さんそれと姉ちゃんのことをお前に頼むよりほかにないからな」「うん、いいよ、父ちゃん。こんど帰ってきたら必ずスマトラ島(あっち)さ行くべな」。そんな話をしながら父は旅立って行きました。
私は昭和19(1944)年、尋常小学校を卒業し、尋常高等科に入学しました。しかし、父は昭和20(1945)年、終戦の年の4月5日にスマトラで戦死してしまったんですね。
祖父は跡取りが戦死したことで、がくんと肩を落としてしまったようでした。
昭和20(1945)年も8月になると、艦載機という小型の飛行機が20機ぐらい、うちの屋根の上を飛んでいたのを覚えています。仙台空襲が8日だから、多分その頃だと思います。牡蠣のいかだを爆撃していました。祖父はその時も私に風呂敷包みのありかを教え、「もし敵機がきたら、これを持って、お前は八幡様のご神体を祀ってる下に隠れろ」と言うのです。そして敵機が「来たな」と思うとその通りに隠れました。
戦争中は誰に頼ることもできない、だから爺さんのことばを信じましたね。戦後、一段落して、落ち着いてその風呂敷包みの中を見たら、登記書類一式が入っていたんですね。つまり、財産がどこにあるか明記したものがびっしり詰まっている。今考えて見ると感無量です。八幡様の下に隠れた思い出とか、飛行機が20機も飛んだとか、そういう戦時の思い出は絶対に頭から離れませんね。
終戦の日、祖父は私に向かって「いいか。これから俺のいう事をよく聞いて、忘れないように。日本は戦争に負けた。俺もいつ死ぬかわかんない。俺が書き残したものを、今度はお前に託すぞ」と言うのです。
祖父はこう続けました。
「これは慶長16(1611)年の慶長津波のことを書き残したものだ。お前が20歳になった年にかならずこれを町役場に提出するんだ」と。私が「20歳にならなければだめなのか」と聞くと、祖父は「20歳にならなければ認められない」と答えました。
それこそが祖父から私が託された約束だったのです。その言葉通り、私は何度も何度も見て、書いてあることは全部私の頭の中に入れてありました。
しかし、まもなくその祖父も亡くなってしまい、西條家の男手は自分1人となって、祖母と母親、自分の連れ合い、そして姉が残され、親父が生前「女手で生計を立てていくには、人を頼んだのでは自分たちの食べる分も無くなってしまうから、少しぐらい借金しても、どんなぼろの機械でもいいから畑を耕して、そして俺の帰りを待ってろ」、と言い残したとおりに、親父の残した養蚕業を守りました。
そんなわけで、生活に追われてとてもじゃないが、約束を果たせる状況ではなくなってしまったのです。そのまんま今回の大震災を迎えてしまいました。
今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。
震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言ってくれ、私は鳴子中山ラドン温泉に行き、安閑としてお湯につかってたんです。ところが11日にあの大地震があり、温泉宿も行ったり来たりになったんです。10日の晩には58人の宿泊客があったんだけれども、もうみんなちりぢり、ばらばらに帰ってしまって、残ったのは私も含めて4人だけになりました。テレビで津波の様子を見たのですが、まさか家族が亡くなっているとは思わなかった。
当時戸倉の部落には98戸の家がありましたが、今回の津波で残ったのは高いところにあった1軒だけで、52人の方が亡くなったのです。一家で5人も亡くなった家もありました。うちでも、前日の10日、小さい(ちゃっこい)方の孫が岩手県一関市の昭和病院から、母親の顔が見たいからと戻って来ていたのですが、2人とも津波で流されてしまったのです。また、姉は同じ戸倉の西戸(さいど)というところに嫁いでいましたが、今回の津波で、姪と一緒に亡くなりました。そして祖父が書き残した記録は流失してしまったのです。
私も、迂闊だったなあと今さらながら後悔していますが、「ここまではどんなことしたって津波来ないよ」ということを孫に言っていたのです。「来たらば逃げろ」ということは言わなかったのです。これは私の一番の後悔です。
亡くなった孫たちのためにも、私はこの祖父から受け継いだ慶長津波の伝承をなんとしても町役場に届けなければ、死んでも死にきれない思いなのです。
慶長三陸地震津波の当時の被害について、私の祖父から伝承している地名とその謂れは次の通りです。なお、地名は、祖父が戸倉村役場に在職中に、青森営林署、地方の方々と立ち合いの上確認したものです。
大津波は水戸辺川を上って、流域各地に大きな被害をもたらした。その結果、もともと無名であったと思われる沢にその被害にちなんだ名前が付いています。
南三陸町戸倉 水戸辺川流域の地形図
地図データ©2014 国土地理院
西條實氏の手書き地図 2013.6.15
Photo©2014 Norikazu Tanaka
笹が群生しており波で多数の笹が押し寄せられていた出笹沢(でさささわ)、山の窪に穂がついたままの藁が積み上がっていた藁穂沢(わらぼざわ)、そして女の人が沢の奥地で亡くなっていたという女(おんな)の沢、そして鳥越沢(とりごえさわ)。
鳥越沢には伝説があります。高台移転の場所になる西戸(さいど)に繋がる沢ですが、村人たちが避難しながら、1羽の鳥が波の中から飛び立った。自分たちが命からがら逃げたのに、その鳥の助かった事を手を叩いてみんなで喜びつけた名前ということなんです。そして牛殺し沢。祖父にその名を聞いた時、「なんで爺(ズン)ちゃん、牛がそのころいたの」と尋ねると、当時の牛はその乳がタンパク源として欠かすことができず、農作業もさせたのだということでした。何十頭という牛が、戸倉地区にいたがこの牛殺し沢というところに、重なり合って死んでいたそうなんです。
その奥に吉三郎さんという名前の方が亡くなっていた、津波前は牡蠣の殻の処理場になっていた付近の吉三郎沢(きちさぶろうざわ)、それから上流に150メートル先の水戸辺川が2011年の東日本大震災の津波の最終到達点になります。そして遠の木沢(とおのきざわ)があり、津波はここにも達しました。遠の木沢の名前の由来は、木炭を入れた萱を背負った人がここから奥地を見たら色とりどりの雑木林があって心が癒される、ということからだそうです。最も津波の被害があった大害沢(たがいざわ)、舟が寄っていたという舟沢、家が寄っていた小屋の沢を経て、いよいよタタカイ沢が慶長三陸地震津波の最終到達点ということです。以上が私の継承した津波伝承になります。
南三陸町水戸辺川流域の「慶長大津波」伝承地踏査
─『戸倉路のつたえ-語り継ぐ津波の道標-』に寄せて
2013年6月15日、西條さんと東北大学・田中則和氏が慶長大津波の伝承地をくまなく歩き、
地点ごとに写真におさめたものが、
田中則和さんのブログ「縁果翁記」に収録されています。
西條實さんとは、南三陸町の高台移転に伴う新井田館跡の発掘調査が縁で出会いました。1年を通した山の過酷な発掘作業をこなす現場の男子最高齢の西條さんは、皆さんから「語り部さん」と呼ばれる抜群の記憶力の持ち主で、南三陸の歴史・風土・伝承を語り続けておられます。
中でも「慶長地震津波伝承地」を伝えていることには驚きました。その水戸辺川上流を案内していただきましたが、山林を疾駆するような82歳とは思えぬ強靭な体力についていくことはできず、わが身を恥じた思い出が蘇ります。そして、その伝承の貴重さを実感し、東北大学災害科学国際研究所などに西條さんを紹介させていただきました。
西條さんは、東日本大震災津波により、お身内の方を4人亡くされて、さぞや、沈痛の日々だったと思います。そして昨年から思い出の故郷と人々を詠まれた短歌を次々と作られるようになりました。そこには、南三陸の神仏が息づく風土を大事にする氏の生き方をうかがうことができます。そこで、詠まれた地の現状の写真と重ねることにより、より、南三陸に住み、大津波の災禍を越えて生き抜いた氏の人生を表現できるのではないかと思い立ち、この短歌集を編みました。
西條さんに辛い思い出を含むゆかりの地を案内していただきながら、復興に励む人々と出会い、美しい海と山の間に生きる南三陸の人々のたくましい生きざまをも実感することができた得難い体験となりましたことを心から感謝いたします。
大震災発生から三年を目前の日に、西條さんの新たな旅立ちの平安を祈念して献呈いたしますとともに、皆様に「大震災を越えた」一つの生き様をお知らせいたします。
田中則和
西條さん(写真右端)は「語り部さん」と呼ばれる
抜群の記憶力の持ち主である
Photo©2014 Norikazu Tanaka
まず、私が新井田館跡発掘作業でお会いした田中則和先生に御礼の言葉を申し上げたいと思います。
先生には、私の慶長三陸津波の話を聞いて「力になりたい」と言ってくださり、私と共に自宅のありました戸倉在郷地区の海岸より歩いて2時間45分かけて、水戸辺川上流の津波最終到達点まで歩いていただきました。
南三陸町入谷ご出身の大正大学の山内明美先生にも、発掘の作業現場まで私に会いに来られた上に、私の話を聞いていただきました。感謝申し上げます。
山内先生をタタカイ沢にご案内したとき、何の説明もしていないのに、「西條さん、この奥にかつてなにかありませんでしたか?人が住んでいませんでしたか?」と訊かれた時は、確かに戦後の食糧不足の時代に入植者が一時居て全員が去った歴史があり、言い当てられてびっくりしてしまいました。今まで誰もそんな質問をする方はなかったので、さすがの洞察力だと感じ入りました。
2013年11月6日、東北大学災害科学研究所助教の佐藤翔輔先生、蝦名裕一先生、その他2名の先生方にも、私と一緒にタタカイ沢まで行っていただきました。
その際に、佐藤先生のお持ちになった機械により、現在の水戸辺仮設住宅より約60メートルの場所にある「長の森寺(慶長大津波時に寺から逃げず赤い法衣を纏って一心に経文を唱え、膝まで波が来ながらも助かった住職の言い伝えがある)」とタタカイ沢が同じ高さであるとの答えが出て驚き、やはりここまで津波が来る可能性はあるということを改めて知ることができました。
皆様には遠方より来ていただき、これほどまでに82歳の私に尽くされた御厚意に感謝を申し上げ、お礼の言葉と致します。
2014年3月
西條 實
かつてこの地方の名産であった絹は、西條家の家業でもあった。
その絹を使ったシルクフラワーに囲まれて微笑む西條さん。
この本は、前半は、南三陸町志津川戸倉地区出身の西條實さんよりうかがった津波伝承を忠実にまとめたものです。後半は西條さんの詠まれた歌を、津波の記憶と、故郷にまつわる伝説や心に残っている美しい風景などを田中則和さんが西條さんの自筆を活かしつつ美しい写真と共にまとめてくださいました。
*自分史WEB版では後半部分は割愛しています。
田中則和さんのブログをご覧ください。
お忙しい中、何度もお話いただき、また細やかにご支援いただいた西條さんに心より感謝申し上げます。西條さんをご紹介いただいた南三陸ご出身の大正大学の山内明美さん、編集にあたり多大なご協力と温かいご支援をいただきました東北大学の田中則和さんにも心より御礼申し上げます。
西條さんの津波に対する強い思いが、すべての南三陸に心を寄せる方の道しるべとなることを願ってやみません。
RQ聞き書きプロジェクト 久村美穂
[取材・編集]
久村美穂
[発行日]
2014年3月31日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト