子曰參乎吾道一以貫之
曾子曰唯子出
門人問曰何謂也
曾子曰夫子之道忠恕而已矣
子曰く、参(しん)や、わが道は一もってこれを貫く。
曾子曰く、唯(い)。子出(い)ず。
門人、問うて曰く、なんの謂いぞや。
曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
孔子が弟子の曾子に対して「自分の道は終始一つの道で貫いている」といった。
曾子は「はい」とだけ、答えた。孔子は、黙って部屋を出られた。
門人たちは、理解できず「なにの話をされたのか」と質問した。
曾子は、「先生は、わが道は、まごころと思いやりの心、忠恕のみである」
と説明された。
出典:「論語」里仁第四
小野寺さんのいつに変わらぬ明るく、おおらかな人柄と、故郷のために「何ができるか、何が必要か」と常に考える姿が、この自分史のすみずみに描かれています。経験とは、受け身の姿勢で起きた事実の羅列ではなく、積極的に、誠実に関わり努力した履歴。論語の一節は、そんな小野寺さんにぴったりのエピソードではないかと思います。
地域のリーダーとして働かれるということは、いかばかりのご苦労がおありだったか、言うまでもありませんが、その陰にそれを支える奥さまの愛情があってこそだったと思います。その姿もインタビューの間に感じることができました。
貴重な資料を多くご提供いただき、また長時間にわたりエネルギッシュにお話をいただいた小野寺さん、温かく迎えて下さる奥さまに心より御礼申し上げます。二人三脚で歩まれている人生に、これからも幸多かれと心から願っています。
2012年4月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私は昭和17年、宮城県登米市、ここ鱒淵の農家に、4人兄弟の長男として生まれました。
私の生家は350年前から14代続く農家です。名字が無いのが当たり前の、名前だけの時代からありました。鱒淵という地域は、今は300軒くらい家がありますが、古文書の上では18屋敷から始まったとされ、我が家はその18軒のうちのひとつなのです。家が続く、ということは実は大変なことです。
350年の歴史の中で、栄えたり廃れたりがそれぞれの家にありますが、我が家は中庸で、「高望みをせず、借金をするな、保証人にもなるな」を家訓としていて、儲けて山を買うこともないし、跡継ぎの子供がないということもありませんでした。それで長く続くことができたのです。
東和町ゲンジボタル生息地
写真提供:宮城県教育庁文化財保護課
子供の頃は、家業である農業の手伝いも一生懸命にやっていましたが、その一方で、この地から及川甚三郎(後述)がカナダに行ったという歴史もあって、小学校4、5年生の頃から、将来は外国に行きたい、という夢を持つようになりました。
中学校のときに、ある忘れられない出来事がありました。中学校から英語学習がスタートしたんですが、当時の英語の先生は解らないと、解るまで立たせる、という方でした。私が立たされたとき、わきにいた女の子が教えてくれて座ることができたのです。その子は、実は私の初恋(ファーストラブ)の相手で、実に優秀ないい子だったのですが、そのことがどうにもショックでした。悔しかったから、そこから猛烈に英語の勉強を始めたのです。英単語を必死で覚えたり、ラジオの短波放送でも英会話のヒアリングを独学で学んだり、英語漬けの生活を送りました。そして高校に進学、ゆくゆくは外交官になりたい、と思っていたのです。
しかし、農家の長男は家督を継がなければならない時代でした。親の命令で農業高校へ進学したのです。当時は、中学を卒業すると4割が進学、6割が家業を継ぐか、就職していました。その4割の進路も、普通科、工業高校、農業高校と分かれて行きました。農業高校というのは農家として働くため、さまざまなことを学びますが、英語教育には力をいれていなかったので、私には物足りないレベルでした。それで高校では英語学習に力が入らず、畜産を学びながら、生徒会やクラブ活動に打ち込むようになりました。
高校を卒業して、青年団活動に打ち込み、地域の活動を一生懸命行なっていましたが、そんな中、昭和43年(1968年)、26歳の時、地域での活動が認められて、総理府派遣で海外に行けることになりました。背景には、明治百年記念で、開国以来の国際化を推進するため、もっと外国と交流しよう、青少年をもっと海外に派遣しようという流れがありました。
この派遣前には試験があって、一次試験は世界史があってその準備が大変だったのですが、さらに二次試験は英語の面接がありました。語学力が試されるわけです。そこで、中学時代の英語の勉強が役に立ったんです。英単語を覚えているということが強かったですね。真面目な文法などよりも単語を知っているおかげで、相手が何を言っているかがニュアンスとしてわかったのです。しかし、現在うちの子供は国語の先生をしていて、たまに外国人がうちに来たりするんですが、「お父さんの英語は、ぜんぜん相手に通じてないよ」って言われますね(笑)。
そのようにして私は、第1回「青年の船」に乗ったのです。県から数人選抜されて団体推薦の人などと合わせ、総勢300人が乗り込んだのです。船は、東南アジア8カ国(タイ、マレーシア、シンガポール、スリランカ、台湾、インド、フィリピン、沖縄)を巡るというものでした。船の中では、大学の教授なども同行しており、青年たちはその講義を受けて勉強しながら各地を回り、各国の青年との親善交流に努めました。
青年の船
内閣府の行う青年の国際交流事業は、昭和34年度に「青年海外派遣」事業が開始されたことが発端となり開始された。昭和42年度には明治百年記念事業の1つである「青年の船」事業が開始された。「青年海外派遣」事業と「青年の船」事業はいずれも当時、日本の若い青年が自力で海外に行くことが非常に困難であった時代に、政府が実施主体となって日本青年を海外に派遣するという、正に日本国中の青年に大きな夢と希望を与えた事業だった。
写真は第1回青年の船出港式(1968年)。小野寺さんもこの列の中に。
そのとき、「青年の船」の副団長だった、日本赤十字社の橋本祐子(さちこ)さんという方が、船の中でおっしゃった言葉は忘れられないものでした。
出典:内閣府 共生社会政策「青少年の国際交流」歴史と沿革
「皆さん、青春は書かれざるノートであります。そのノートいっぱいに書き綴る青春は素晴らしい。開けばいっぱいの思い出があることでしょう。そのノートを紐解くうちに良いことがあるでしょう。そのためには感動と感激がなければなりません」
「書かれざるノート」「白いノート」というのは、すなわちわれわれ青年の頭いっぱいに書くことで、若い時には、自分の頭に見たこと、感じたこと、考えたことすべてをインプットして、刺激を与えて、思いを持ち続けることが大切だということです。だから、青春時代の恋愛も大切な部分だと思います。今は「未恋女子(みれんじょし)」などという言葉がラジオでささやかれるように、恋も愛もいらない、仕事だけという人もいるようですが、恋愛は人生において大切なことだと思いますね。
橋本祐子(さちこ)さん
当初「青年の船」といいながら、「男子のみ」という政府決定が下ったのに対し、敢然と首相官邸に乗り込み、佐藤栄作首相に直接、「総理、青年ってなあに? 男と女で青年でしょう?!」と迫り、同首相を凹ませたという。
出典:吹浦忠正の新・徒然草「恩師の第1回青年の船乗船記」
「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、若いうちにそういう自分を鍛える経験を沢山積むというのは大事なことなんじゃないかと思います。
私は青年団の活動も一生懸命にやりましたし、農業も、いろいろと取り組みましたよ。米作りでは自分のところだけでなく、他人から田を借りて5~6ヘクタールもの請負耕作をしました。その当時トラクターはなく、テーラーという耕運機で畑を耕したものです。牛も5頭飼って乳搾りをしたり、「上台ファーム」の自動車を買って、木を伐って炭を作り、それを車に乗せて仙台へ売りに行ったり、タバコの栽培もしましたし、養蚕もしました。ドジョウの養殖がいいと言ってやっていた時期もあります。いろいろ挑戦して、ほとんど失敗ですよ(笑)。
でも、失敗したら立ちあがれないようなことではなかったんです。自分のできる範囲で多くの経験を積んだということです。
余談ですが、私は多趣味で、いろんなものに興味や関心があって、あれやこれやと手を出してきましたが、コンピュータもツイッターもフェイスブックもやってるんですよ。覚えるのには環境が大事なんですよ。
親子関係ではなかなか難しい。親が子に教えてっていっても、子供はパッパと手際よくやって、2度も3度も「教えて」と言えば、うちの息子だって嫌になるんだよね(笑)。親もプライドがあるから、うまくいかないんですよ。だから職場で、長のつくような立場にあっても、周囲の若い子たちはコンピュータにかけては自分たちよりはるかにすごい、プロです。使い方を聞くんだけど、歳を取ると1回聞いてもすぐ忘れてしまう。その時に、同じことを嫌がらずにまた教えてくれるような環境を築いておかないと、「いや、それ私たちでやっておきますよ」って言われるようになってしまうと、ひとに任せっきりになって、いつまで経っても、自分では覚えないんです。
私の叔父は85歳、宇都宮在住で、旋盤工として80まで会社勤めをした人ですが、コンピュータを使いこなして、スカイプ(インターネット回線を利用してパソコン上でビデオ通話ができるサービス。無料で利用できる)を始めたんです。そのきょうだいで、みんなでスカイプを始めてるんですよ。私にとっては、海外の友人にお金を使わず電話することができ、英会話の勉強にもなっています。
このように、スカイプでは離れ離れになった息子や孫とどこにいてもすぐ話もできるし、顔も見える時代なんです。農村で、高齢化、少子化、過疎化、子供がどんどん居なくなる中で、これからは、こういうスカイプのようなものを利用して、寝たきりだって話せる、ヘルパーとも、医者ともつながる、そんな時代になるべきだし、なっていってほしいと思います。
人間は本来、何かのしがらみにとらわれることなく、自分のやりたいことを誰が何と言おうとやるということが大事だと思います。家族とか経済とか生活もあるから、しがらみ無しでやることは中々難しいけれど。
思えば、私の前にはいろんな道がいっぱいあって、自分のやれる範囲で何にでも挑戦して来ました。自分の人生にキーワードをつけるとしたら、「道拓く」だと思います。
昭和43年(1968年)、被選挙権を得た25歳の時には、政治の道を志したこともありました。この地域をどういう風にしていくかに興味があったからです。当時の町長が頻繁に役場や公民館に来ていて、青少年教育の非常勤職員として働いてほしいと依頼があり、週3日の契約で働き始めました。昭和46年(1971年)、28歳の時でした。数年後、正職員より活発に活動していましたから、議会で問題になって正職員として採用されました。もちろん家業の農業もしながらの兼業です。機械化が進んでいた時代ということもあって、忙しい時は朝早く起きて、畑を耕してから出勤し、17時に終わってからまた農作業をしたりしていました。
その頃、公務員の給与は安くて人気がなく、役場には誰も入らない状況でした。しかし、昭和40年代から高度成長期を背景に、公務員の給料がどんどん上がっていくようになりました。
役場に勤務してまず担当したのが、教育委員会での社会教育の仕事でした。青少年の育成、成人教育、公務員活動、海外交流などを行うのです。青少年の育成というのは子供会や、ジュニアリーダー(中学生・高校生)の育成のことです。町で最初のジュニアリーダーサークルを作り、指導していました。
これはボランティア団体が主催する子供キャンプなどでも言えることですが、青少年、小学生の育成をするためには、世代のギャップがある大人たちがやるよりも、ジュニアリーダーがやったほうがいいと思いますね。子供には子供たちの世界があるので、(大人は一歩引いたところにいて)子供は子供を中心にしたほうが効果があると思います。活動や指導をする世代間は近いほうがいいのではないでしょうか。
写真はRQの子供キャンプ
その後もさまざまな課で仕事をしました。産業経済課に配属になって、農業振興計画の作成を担当した際には、『山村農業はどうあるべきか』というテーマで、東北6県の大会で発表したりもしました。その次は商工観光課というところで、「みやぎ北上連邦」づくり。それから企画課に入り、カナダ・バーノン市との姉妹都市提携で国際交流を推進、四東和町サミットを実現させました。また、町史編纂室長として東和町史作りをし、教育次長として青少年海外派遣、カナダ移民調査、1カ月にわたるカナダロケのレポートを担当し、国体推進室長となって東和町のアーチェリー競技大会を成功させました。
宮城国体のアーチェリーの様子
ちなみにオリンピックでも活躍した山本博さんが成人男子の部で優勝している。
登米市は1999年より毎年、アーチェリーの全国規模の大会を主催するなど、アーチェリーが盛んである。震災後は開催が危ぶまれたが、無事開催されたことで話題になった。小野寺さんは、平成13年には宮城県アーチェリー協会会長に就任した。
60歳で役所は定年となりました。その後、土木事務所に入って用地係(公共用地の取得及び補償、用地交渉及び調査、積算などにあたる)をしていました。用地をなんとかもっと有効に活用したかったのです。家の前に通っている道も私が用地交渉をしているときに作ったものです。その後、市議会議員にトップ当選して1期務めました。
私は今まで、カナダを13回訪問してきました。何回か妻と家族をカナダへ連れて行ったこともあります。私は役場の職員で町史編纂の仕事をしていましたので、昭和60年に宮城テレビの依頼で約1カ月カナダへ行き、「宮城からのカナダ移民」をテーマに、カナダ全土を渡り歩いて、その結果を本にしました。
この時の映像は、宮城テレビの正月特別番組「海を渡った宮城村」という1時間半のドキュメンタリーとなった。小野寺さんはレポーターとして出演している。
また、この時に執筆した著作は「カナダへ渡った東北の村」で総ページ数500の大作である。
なぜ、カナダなのかというと、及川甚三郎(通称おいじん)という人にまつわる話があるからなのです。
日露戦争が終わった明治38年、田舎は過疎化して農村は疲弊しており、この地域一帯は貧しかったのです。というのも、戦争中に国益を上げることを重視し、都市化が進行して子供も戦争にとられたからでした。
ここでリーダーとして立ち上がったのが及川甚三郎なのです。及川姓を名乗っていますが、実は小野寺家から養子にいった人(小野寺重郎治の三男として米川字軽米に生誕)でした。小野寺家は当時、北上川を船で渡って、石巻、仙台、東京へと生糸や薪を売りさばいていた豪商でした。つまり、及川甚三郎もその商人の血を色濃く受け継いでいたのです。
甚三郎は、カナダのバンクーバーを流れるフレーザー川へ、大量のサケが遡ぼる、しかし白人は卵を食べないからそれが捨てられる、ということを噂で聞きつけました。彼はこれを塩漬けに加工して商売できないかと思い、実際に明治31年にカナダに噂を確かめに行きました。それは本当のことだったのです。
甚三郎は、サケの卵の塩漬けの加工をカナダで行い、成功しました。成功した要因のひとつは、東北地方からカナダへの、大規模な日本人移民が来てくれたことでした。当時は、移民法により大人数で移民することが許されませんでした。そこで、彼は石巻から密航させて人々をカナダに移動させたということです。このことは、新田次郎の著書「密航船水安丸」にも書いてありますが、私もその取材の協力をしました。
平成18年4月29日(土) 河北新報の記事
新田次郎文学碑の前で
新田次郎「密航船水安丸」
宮城県北部米川村の及川甚三郎が、移民した先のカナダ・バンクーバーで、排斥運動を避けながら、島1つを開発するために、地元の村から移民希望者を募り、確信犯的に、実力行使で密航移民をした。1906年、凶作などにより困窮にあった村人を救うため、及川甚三郎ら83名は渡航をねらうが、すでに北米地域では、アジア系移民が厳しく制限されており、島を丸ごと開発する人員の移民を正規ルートで通すことはできなくなっていた。そこで、密航を画策。いったんはカナダ当局に拘束されるが、コネも利かせ居留許可を取ってしまう。彼らはフレーザー川でサケ漁に従事し、郷里に仕送りを続けました。現在でも、現地には県人会が組織されています。
太平洋戦争が起こると、カナダにいた当時の移民の人たちは強制送還されるか、あるいはカナダの山奥の仮設住宅みたいなところに強制収容されるかのどちらかになりました。今いる移民の人たちは強制収容された(辛い時代を耐えて)残った人たちで、今はその子孫がカナダで生活しているのです。
登米市はこの縁で、カナダのバーノン(=写真、ブリティッシュ・コロンビア州)と姉妹都市になっていますが、我が家にもカナダ人の生徒や親を受け入れたこともあります。ALT(Assistant Language Teacher 英語を母語とする大学卒業者で日本に招聘された外国語指導助手)は東和町が最初で、カナダから英語の先生を呼んできて、小・中学校で英語を教えてもらったこともありました。
それがきっかけでその先生方とは今でもお付き合いがあります。先生方は現在、ダラス(米)、ヴィクトリア(加)、バンクーバー(加)にいて、震災の時には驚かれて、メールを頂いたりもしました。東和町に最初に来日したデビット・ソルツ先生は、大阪に英語教室を開いていて、震災後、大阪の外国語ボランティアのメンバーとして石巻まで支援物資を届けに来てくれました。私も石巻の専修大学支援物資の引き受けで彼に会いました。彼はリーダーとして関わっていて、頼もしく感じました。
カナダにはカナダの良さがあります。移民国家で人種差別をしない。人種差別をなくして、皆が平等で、助け合って1つの国を作っているのがカナダです。
一方で、我が家にはフランスの国旗がありますが、パリ大学のミッシェル先生とお付き合いがあって、先生からいただいたものです。フランスの国旗が好きな理由は、自由・平等・愛があるという国家精神が好きだからです。フランスの国家精神、カナダの平等精神。そういうのが大事なのだと思います。そういうのが人生も楽しくなるのではないでしょうか。
昭和45年、(この頃は若者が皆)鱒淵の外に出ていく時代でした。そこで、残った地域の若者で「ふるさと会」を結成したんです。ここでは3つの提案をしたんですよ。
1つ目は、「今、地域に何が必要か」というのをみんなで考え、情報を交換する場が必要なのでは、ということに思い至りました。盆と正月には、鱒淵の外に出て行った仲間も帰って来ます。幼馴染み、中学校や高校の同級生・同窓生も、みんなここに帰って来るから、集まって一杯飲んだりするのです。(里帰りした)そういう人達から、鱒淵に残っている人は「お袋や親父を頼んだぞ」と言われることがよくあります。そこで、帰って来たら、みんなで集まって飲むだけではなく、交流して話し合えるような場を作ろうと決めたのです。このようにして、ただ集まって飲むだけだと芸がないので、昼間にスポーツして汗を流そうじゃないか、という交流会が始まりました。
2つ目は、お祭りです。祭りを皆で盛り上げるために私たちで出来ることは何かを考えています。
3つめは、ゲンジボタルの保存活動です。この辺りでは、昭和30年には開田政策により、もともと煙草地帯だったのを水田に切り替えるため、PCB系の猛毒の除草剤をばらまき、水が汚染されてホタルの数が激減しました。やがて作った米が余る時代になり、昭和45年には減反政策が打ち出されました。稲作をやめればお金が出ることから、みんなが稲作をやめ、田んぼは使われないまま休耕田となりました。除草剤が使われなくなり、それによって数万のホタルが爆発的に発生したのです。そこで、話し合いの中で、「昔からここにはホタルがいる。都市化が進んでいく中で、希少なホタルがいる環境は重要だ!ホタルを保全しよう!」と考えたのです。
そのためにまず、私たちはホタルついて勉強することから始めました。ホタルの種類、生態、ここでのホタルの位置づけ、価値とはなんなのかなどです。ゲンジボタルはもともと関西にいて、(当時は)ここが北限だったのです。春に草刈りをしたり、川の清掃をしたり、ホタルの幼虫のエサになるニナガイ(巻貝)の保護をしました。
ホタルが見られるのが6月末から7月初めがピークです。東北大の生物学者で国の文化財保護委員の加藤陸奥雄(元東北大学学長、平成9年没)さんを鱒淵にホタルのシーズンに実際にお呼びしたところ、「ここはすごいよ!こんなに環境があって、餌のニナガイがたくさんいて、きれいな清流があって、しかも荒らされていないというのは、宝物を守るというのとおなじだよ」と言われましたので、それで我々も自分たちの活動に自信を持つことができました。加藤さんはその後、東京の会議で、鱒淵のゲンジボタルは国の天然記念物に指定すべきだと発表されたのです。地元が天然記念物に指定していないものをいきなり国が指定するという提案が上がって、町と県が相次いで天然記念物に指定し、昭和54年、最終的に国の指定を受けるに至りました。そこで、「ふるさと会」だけでは保存活動はできないので、昭和51年、地域のみんなで守ろうという「鱒淵ゲンジボタル保存会」が結成されました。
それをマスコミが取り上げて、ちょうどホタルの時期に取り上げられたから、いちどに大勢の人が押しかけて来たのです。舗装してない道路に人が集まって、駐車場もない、泊るところもない、てんやわんやです。今ではこんなことはありませんが、当時はゲンジボタルを販売目的でこっそり捕獲しにくる者、ゴミを捨てていく者、便所がないからそのへんにする者、といった具合で、環境公害が問題になりました。地域にその噂が広まってしまって、「なぜこんなことやっているんだ!」と当時、私は宣伝をしたバカ者という扱いをされましたが、このことがあってから後、ホタルを捕られないように防犯したり、ゴミを除去したり、排水を川に直接捨てずに浸透層を使って処理することで、川を汚染しないように尽力したので、今ではみんながその努力を認めてくれるようになりました。
先日、南三陸の人にも「鱒淵ホタルの会を再活動するので、メンバーになってください」とお願いしました。今回避難してきた南三陸町の人たちがホタルを見て、「すごい光だね!」と言ってくれました。
ただ、観光地で見たいものが始終、好きなときにいつでも見られるというのはおかしい、ナンセンスだと思います。見に来る人がホタルを見られるか、見られないかは偶然の出来事なのです。だからよそからホタルを連れて来て繁殖させるとか、人工的にコントロールしてコンスタントにホタルを発生させるようなことはしません。自然にまかせることが重要です。そのホタルが清流に卵を産みつけたとしても、自然災害で濁流が流れることもあって、卵が流されちゃうこともあるし、いっぱいホタルが発生して産卵が過多になれば餌がなくなってホタルが減ります。そのように自然にまかせるのがよいのです。
「ふるさと会」はホタルの保存活動の忙しさで中止になっていますが。今後ぜひ再び発足させたいと思っています。ボランティアに来た人にも登録して欲しいと思っています。鱒淵でこういう動きがあるということも外に向かって伝えて欲しい。東日本大震災のことと一緒に、鱒淵のホタルのことを思い出して欲しいのです。
多くのみなさんとの出会いで、特に全国から集ってこられるRQのボランティアのみなさんとのつながりをもって、「いい人、いい村、いい出会い」の鱒淵であり続けたい。「鱒淵ふるさと会」を自然学校とともに育てたいと思っています。
鱒淵源氏ホタル保存会について
東和町のゲンジボタルの保護は、昭和46年鱒淵地区の青年たちが、ホタルの大発生を契機に、人もホタルも住み良い地域を作ろうと「ふるさと会」を結成し活動に取り組んだことに始まり、この取組が多くのマスコミ等から注目されたことにより、地域全体でホタルを保護しようとする意識の高まりとともに「鱒淵源氏ホタル保存会」を設立した。また、同地区の小学校の児童が「ほたる少年団」を結成するなど保護活動が盛んに行われている。同保存会による保護活動は、地域住民が一体となりホタル発生数や発生状況調査、発生時期の保護パトロール、及び生育ステージに合わせた除草作業等の環境整備などを行っている。また、「ほたる少年団」はホタル生育の研究、ふ化、放流を行っている。なお、全国的に有数のホタル発生町が一堂に会し実施している「ホタルサミット」にも毎年参加している。
昭和30年代からホタルをとりまく環境は急激に変化しましたが、その間に山は広葉樹林から針葉樹林に変わってしまい、この辺りの生態系も変化してしまいました。
昔はこの辺の森林は広葉樹で、ナラ・クヌギなどの林があって、薪や炭として使うために、2~30年の間隔でのこぎりで伐採していました。のこぎりでの手作業ですから、時間もそれなりにかかり、それは森林の再生のスピードと合っていて循環型社会を形成していました。ところが、チェーンソーの導入によって、短時間に一山すべてを伐採してしまい、山が裸になるということも起き、さらには昭和30年代の経済成長によって、住宅用の杉・松が将来的に貴重な財源になるという見込みで、その植林が始まりました。国策で東和地区80%増を目指して杉・松の造林が行われたのです。
結果的に70%以上増の植林が達成されました。そのために生態系が変化して、生物全体が変わってしまいました。山に入って手入れをする人が減ると動物が増えます。広葉樹の実などを食物とする野山の生物(タヌキ・キツネ・シカ)は、山にあるべき餌がなくなってしまい、秋口に民家に降りてきて、トウモロコシや枝豆を食べてしまったり、放し飼いしているニワトリや卵を食べてしまったりします。実は、私の家でも秋になったころ、白昼堂々とキツネにニワトリを襲われたのです。
また、人間は海に近付きすぎました。仙台から亘理に延びている「海の道」というのがありますが、高度経済成長以前には海側には家を建てないという鉄則がありました。それが、経済が成長するにつれ、空港が造られ、東北自動車道が通り、新幹線ができて、海側に家やいろいろな建物がどんどん建っていったのです。
鱒淵の道路は、南三陸とは山1つ越えたところでつながっています。藤原文化の栄えた時代、この道を通り、北上川の船運を介して、平泉に海産物が運ばれた「交易の道」なのです。今は海沿いをぐるっと回る国道45号線ができていますが、海側と内陸とを結んではいません。
もしその前にこの「交易の道」のような海から内陸を結ぶ道路ができていれば、津波にあっても住民は逃げることができました。今回の復興は、昔の歴史をしっかり復習して、昔あった道をしっかりと復旧して、海から内陸を結ぶ道路を整備すれば、震災の時も逃げる道ができます。
三陸道を釜石まで通るように造った道が背骨だとしたら、肋骨のようにして海から内陸を結ぶ道路を早く作ったほうがいいのです。今回も海沿いの国道を造るのを後回しにして、三陸道の早期完成を願うのはもちろん、昔の街道をもう一度再現した歴史の道を南三陸に造ればいいのではと思っています。
自然界の循環はいろんなところに関わりがあります。今回の震災は千年に一度の大震災と言われていますが、自然災害はいつ私たちの身に起こるかわからないのです。南三陸のような海の人は「地震が来たら山の方にすぐに逃げろ」。鱒淵の人たちは「地震が来たら外に逃げずに窓だけ開けておけ。」と言われています。
今回の震災の出来事を歴史の教訓として残してほしいとも思っています。
みなさんに、地域のことにも目を向けてほしいと言いましたが、このあたりは歴史的にも興味深いことがあります。たとえば、「隠れキリシタン」がいたことで有名なのです。「東北の長崎」と呼ばれるくらいの弾圧があったのです。
伊達政宗は(交易を)世界に開く目的で、サン・ファン・バウテスタ号を造営、支倉常長をリーダーとしてローマに派遣し、政宗の親書を持って交易を願い出ましたが、徳川の時代になって鎖国が始まっており、常長がローマから帰ってきたときには、交易の交渉をしに行ったのに、輸出入ができなくなっていました。
徳川の時代に入って、製鉄が盛んになりました。たたら焼、銅や製鉄といったものが、朝鮮から山口に入っていました。製鉄の技術者が、千松大八郎・小八郎兄弟を備中国(岡山県)から呼んで来ました。彼らは「たたら式」と呼ばれる西洋式の製鉄の技術者であると同時にキリシタンだったのです。製鉄という厳しい労働を始める前には心を安らかにする祈りをささげなければなりません。それで、製鉄の広がりと同時に一気にキリシタンが増えました。
今度は伊達政宗が治山・治水を行った際には、長崎の五島列島からつれてきた後藤寿庵を技術者として、福原地方の開発(灌漑事業)をさせました。伊達藩が開発をすると、その力を恐れる幕府がキリシタンの弾圧をします。後藤寿庵は山を逃れて来て、この地で捕えられて、処刑されたといわれています。
一方、米川では製鉄(労働者)のキリシタンが山の中で隠れて祈りを捧げていました。
この地では、改宗を迫られて、それでも信仰を捨てなかった120人もの信者が張り付けにされて処刑されたり、踏み絵した姿で会葬されたりしたのです。それでも(信仰を捨てずに)生きのびるには、裏にひそかに十字架を彫った仏像を持つことしかありませんでした。そういう遺品は、1600年ぐらいからのものが残っています。
地域の人たちはキリシタンを良からぬものと思うようになりました。この辺りは地域連帯で、良くない家だと噂が立てば、結婚もできない社会です。ですので、キリスト教信者であったり、その立場を擁護したりすることは地域からの孤立を意味しました。教会もない、仲間もいない、そんな中で改宗してしまって信者が誰もいなくなったから、キリスト教のことなどみんな忘れかけて、すっかり廃れてしまっていました。
戦後、昭和27~8年、米川地区の歴史をかたちにしようとしました。その時に東北大の歴史研究者が、「後藤寿庵がこの地の灌漑を行ったのち(宗教)弾圧された」という仮説を立て、検証した結果、(それを裏付ける)古文書が民家から見つかり、寿庵がここで亡くなっているという話になり、米川が一躍有名になりました。
そして、キリスト教を布教していた人が一気に米川に入ってきて、昭和30年には、300人以上の人が集団で洗礼を行いました。それで教会(カトリック米川教会)を作ったのです。
東北管区の司教が、みずから米川に来ていろんな布教活動を行っていましたが、なかでも小林有方司教はバティカンのローマ法王に謁見までした高名な方でしたが、鱒淵にしばらく暮らして、その間にカナダからの浄財を得て米川教会と聖マリア保育園を創設されました。
鱒淵には、華足寺(けそくじ)があって、そこには馬の神様が祭られています。
昔はここは蝦夷地で(武士の勢力)争いが絶えない場所でした。この地に伝わる伝説があります。坂上田村麻呂が乗ってきたのが郷黒(きょうごく)という名馬で、新幹線なみに速いと言われていました。この地で馬が死に、村人たちが丁寧に葬ったのですが、夜になると異様な光が村人たちを照らしました。穴を掘ると、馬の亡骸は一寸八分の馬頭観音に化身していたのです。それが馬頭観音様、という言い伝えです。
ほかにも、地名にまつわる伝説は多く、1200年前の絵日記があって、坂上田村麻呂将軍がこの地を制定するときに悪童がいてその場所が悪童ヶ原という場所になりました。坂上田村麻呂一族が敵を追って、次々と3本の矢を放った場所が「一の矢」、「二の矢」、「三の矢」などという地名に残っていたり、悪童が這い上がる坂を「這坂」、郷黒が岩にひずめの足跡を残した岩があり、その地域を「馬の足」と呼んだりするのです。
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=P86KyHV-RcE&feature=player_embedded[/youtube]
華足寺の春の大祭、総代の先頭に立つ小野寺さんと鱒淵のみなさん 2012年4月
華足寺馬頭観音堂
延暦21年(802)坂上田村麻呂が東征の際、戦没者の霊を慰める為、死んだ愛馬をこの地に葬るため堂を建てて本尊に馬頭明王を安置したのが始まりといわれています。開山は坂上田村麻呂の霊を弔う為大同2年(807)建立されたとあります。ご本尊が鱒淵馬頭観音大菩薩という動物憐憫の観音さまということで全国の馬、牛などを扱う人びとから信仰されています。本堂庫裡には古い絵馬や奉納された競馬や共進会での牛馬の写真などが数多くかけられています。
こんなふうに、地名というのは興味深いものなのですが、鱒淵という地名が死語になりつつあるの(が心配)です。華足寺は「鱒淵さん」とも呼ばれ、ここでの祭典には、三陸の方や岩手県の水沢方面から農耕馬や畜産繁盛に多くの参詣があるなど、大いに賑わっていました。しかし時代の変遷とともに農耕馬は農機具や自動車などに代わり、今は訪れる人が少なくなりました。そんなこともあり、鱒淵という言葉を残したいのです。「鱒淵」ふるさと会という言葉をあえて残しているのもそのためです。古い人は鱒淵と言うとどのあたりのことかはわかっているから、知らない人達が「鱒淵」ふるさと会の名前を通して、その知名度を広げてくれればと思っています。また、華の山寺として、またペット霊園として今後が楽しみでもあります。
みんなが歴史の授業で教えられている時代は「殿様の歴史」ですが、これからは「庶民の歴史」の時代だと思っています。その意味で、聞き書きの活動は民族史として大切です。だから、学生やボランティアの目線で、庶民の目線で伝えることが大事なのだと思います。
震災直後、私は、(避難所になっていた)鱒淵小学校の夜のミーティングに毎日出ていました。向こうから「来て下さい」と言われたわけではありませんでしたが、地域の情報をどうしても交換したくて、毎日7時からの夜ミーティングに行ってお邪魔していました。そこにRQも出席していました。
RQに対しては、ここを拠点としていくならば、救援側対被災者・対避難者の関係だけに目が向いて、拠点とする地域の人たちとの関わりを大事にしないというのは間違いだと思っていました。事実、最初は地域の中には「RQって何だ? 早く出ていって欲しい」と思っている人もいたのです。だからこそ、私はRQの様子や避難民の様子が知りたくて、ミーティングに参加し、その様子を正しい情報として地域に伝えたかったのです。
震災後、4月3日に鱒淵に被災者が避難して来ました。鱒淵の住民は、「私たちは何をしてあげればいいのか」と浮足立ちました。この地域は行政頼みで、「言われれば動く」という慣習がありました。なので、被災者が避難して来た時も、私を含む近隣の4人の区長で話し合いをした時には、区長同志でも支援に対する姿勢に温度差がありました。私は「他の行政区に働きかけてみんなで協力して支援しよう」と言ったのですが、他の区長の中には「私は行政に従う。任せましょう。」という方や、「役場からお願いされたことをやればいいのでは」と言われる方もいました。そこで、私は自分でできる範囲でできることをやろうと決めました。先ほどお話した鱒淵小の夜7時のミーティングにも、そういった思いから通ったのです。
たとえば、私は「被災された方々が、ずっと何もしないで手持無沙汰でいるのはもったいないし、もともと農家の人たちが多いから、この鱒淵で共同でできる作業をしたほうがいいのでは」と思って、一緒に農作業をする提案をしました。トラクターで畑を耕す、肥料や種、ネギなどの苗木を一部もらったり、買ったりして、被災者のかたに農作業をしていただきました。
我が家では、長屋を片付けてミーティングルームを作り、そこには、私のささやかな小遣いで買い求めたジュースやビール焼酎、などを置いて「ご自由にいらして、お飲み下さい」としました。鱒淵小学校からミーティングルームまでは、いい散歩コースになっていて、ミーティングルームで一休みして帰っていただくのです。その中には避難民の方々の姿もありました。こんなふうに、今までやったことは私のできる範囲でやったことです。
RQとは時間が経つにつれ、「もらい湯」などのRQに対する支援活動が始まって、関わりが徐々に増えていきました。
RQが鱒淵に拠点を構えたばかりの頃。地域の方の支えがなければボランティアは継続できなかった。
また、(よその土地から来た人は)1パーセントでもいいから、地域のことを見て感じたことを地域に提言してほしいと感じます。90パーセントは震災のことを話すのでもいいけど、1パーセントは地域の文化をつかむのが大事です。
また、お互いオープンに相互の関係がうまくいけばいいのです。互恵関係のようになればいいのです。自分だけがいいというのでなく、皆を集めて団体活動をするのがいいと思います。
これからの時代は互いにもっと交流をして共存共有していくことが大事です。そのためには、挨拶をして、心を開き合うことが必要だと思います。「ありがとう、さようなら」は被災者の方々だけが言うのではありません。鱒淵の人達も「使わせてあげたんだ」というのではなくて、「使ってもらってありがとう」と、お互いに「ありがとう」と言うような関係であるべきだと思います。「ありがとう、さようなら」のこの関係が上手く結ばれたらいいと思います。
そういう意味で、今RQが使っている鱒淵小学校は、人々が交流できる場所としての宝物だったと思います。宝物とは「いざというときに活用する、とっておきのもの」です。こんな風に活用できる小学校は、私たちの宝物です。もし、どこかの企業などに貸していたら、今回のこのような機会は無かったと思います。
私は、自分で編集したかわら版「新しい村づくりNEWS」の発行をしており、今までに1~8号までを発行しました。特に最近は、鱒淵に避難民の方々も来て、RQもいて、地域民と新しい交流の村ができると信じて発行してきました。
河北新報社 KoL net「登米市旧鱒淵小(宮城)/地区の情報集め瓦版に」(2011年4月23日)
地域社会もいろんな人がいて、考え方が一人ひとり違います。だから、私は会議を開いていろんなことやってる時間もないから、自分ができる範囲で看板を出すなど、自主的にやってきました。しかし、そんな私のことを「何だあいつ」と後ろ指を差してくる人もいます。
けれど、そういう中で自分は生きてきました。今、70歳、自分の人生の仕舞支度が始まっている中で、人生を振り返っていろいろ考えてみると、今までいろんなものを発見したり聞いたり、体験したりしてきたから、外に向かって出せるものは出したい、見せられるものは見せたい、自分が訴えたいことはわかってもらいたい、という気持ちです。たとえ何を言われようと、皆がオープンに自己を開いていった方がいいと思うのです。相手から提言を受け、私たちも意見をいうように、いろんな人たちといろんな付き合いをしたほうがいいのです。
私はいい人と巡り合えていい人生を歩んできました。生きるということは生かされるという相手のある部分と、みずから道を拓いて生きるという自立の部分があると思うのです。(談)
この本は、2011年8月11日、
小野寺寛一さんが宮城県登米市のご自宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
藤本磨臣
時川拓也
白木隆司
菊田祥子
山内圭子
上杉麻衣子
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年3月17日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net