文字サイズ |
今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だから私もいつでも来るから、あなたたちも来てお茶のめ、って言ったの。引っ越しした人は来なくたっていいっていうことはいうなってね、今朝も語ってね、笑ってきたけれども。だけど、家を建てるのは最初孫たちも私も反対だったけれども、そのうちに寄木と韮の浜の両部落の人たちが40戸も、歩いて5分もかからない近くの高台に移転するようになったから、それならばいいんじゃないかってことで、私たちも納得して入るようになったんです。でなければ私も最後まで反対したのだけれど。
今どこでもね、坪単価が急に値上がりして、一坪70万。高いね。高台に建てる人もね、来年の年度末になれば整地始まるんだから、ちゃんと整地始まる前に大工さんを予約しないと、大工さんたちは、もう予約でいっぱいでね。ある大工さんなんて150戸も予約受けてる。だから高台だの、整地ができて家を建てるようになったから大工さんに頼むべ、というようなことでは遅くて、そういうことも頭にいれていて、誰かがどこそこに建てるとか言ってたら、「大工さんがっちり確保して、それから整地するようなことじゃないと、だめだぞ」ってね。そういう風にしないと、3年も4年も今度いつまでも狭い仮設に入っているようになるからって。
すぐに家を建ててすごいと思うかもしれないけど、私たちは海が相手の仕事だから、漁業さえ確定すれば、銀行から借りても払うくらいの金がとれるっていう自信があるからね。
相澤さんは、NHKの政治部の人で、3月25日から10日間密着取材ということでご一緒しました。この頃、仮設住宅について、県のほうは公共用地にしか建設しないという方針でした。3500世帯分の内、1080世帯分しか建たないということだったんです。
自分としては地元を離れたくないので民有地の活用を願っていたのですが、県に話しても取り付く島もない状況でした。その時に相澤さんに電話して状況を話したら、すぐに国交省の大臣(2011年3月当時は大畠章宏大臣)に「被災地の生の声はこうです」ということを話してくれて、国のほうから県に話があって、今の民有地を使えるようになったんです。
相澤さんがいなかったらどうなっていたか、と思います。後で町長から「あんたが突っ走るのだけが心配だった」と言われました。相澤さんは「私は何もしてない。ただ大臣に繋いだだけです」と言っていたけれど、相澤さんが動いてくれなければ、仮設の建設はもっと遅れ、こんなに早くは実現できなかったでしょう。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
それから避難所で生活して、ここの仮設が当たったんです。6人家族で食料も何も持たずに逃げたからね。
私は戦争中と戦後の物のない時代を知っているから、今、このように不自由になっても、そんなに苦には感じません。当時のやり方も覚えているからだと思います。それでも、仮設に入る前の晩だけは眠れなかった。だって、避難所で、夜の8時過ぎに「話があります」って呼ばれて、「仮設が当たった人は、明日の10時から、ここの集会所で説明会があります。説明会が終わったら鍵を渡されるので、荷物を運び出してください。夜からの食事はストップです」って言われたの。
米も無い、味噌も醤油もない。あるのは自分たちが食べないで残しておいたパンが10個くらいです。カップラーメンが配布になっても、家族1人の人も1箱、ウチのように6人家族でも1箱。パンだって、ラーメンだって、6人で食べたら2日持たないでしょ。1人の人は12日も食べられるんだよ。本当にあの時は「どうしよう〜」って眠れなかったね。
次の日「避難所に来てください」って呼ばれて行ったら、米2キロ入った袋を2つずつ渡されて、それでおしまい。この時も、世帯の人数が1人でも6人でも2つずつでした。
避難所にいろいろな団体さんが来て、給食支援があるよね? そういう時、私たちもいただきに行くっちゃ。そうすると、何も悪いことしてないのに「仮設来るなー」って言われました。悲しいよね。
欲しい時に欲しい物がもらえなかったからね。暖かくなってから冬物をもらったり。
春休み前で、学校の荷物を家に持って帰って来ていたから、高校生の孫娘は電卓を2台とも流されてしまって、ビジネス科に通っていて電卓試験を取りたいんだけど、電卓がないからそのまま受験できずにいます。試験用の電卓って普通のと違うんだってね。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
今は仮設住宅に入っています。5月の17日に鍵をいただきました。15日くらいに「入れるようになった」って電話があって、みんなに「あんたたちばかりズルいよねー」とか言われながら2日間過ごして、17日に母が説明を聞きに行ったら「明日、鍵を渡されたら、その人は自立とみなしますから」って言われたそうです。
米も無いんですよ。何号室って鍵をもらって、妹から軽トラック借りてきて荷物を運んで、とりあえず荷物は詰め込んで、家の中を見たんです。女だから見ますよね? 釜も包丁もある、一応プラスチックの食器もある。スプーンでもなんでも、とりあえず「有る」。大丈夫だなって思いました。「でも、米無いよね」って。水と電気はあるけど、「何を食べるの?」って。おかずも無い。
避難所で物資というか食事で缶詰を配る時、ウチは6人家族だからそのうちの3個くらいを開けて、3個は残すようにしていたんです。だから、そうやって取り置いた物を食べるしかないねって。
やっぱりいつ何が起きるかわかんないから、少しは水とか、食べ物なんかも買いおきしといた方がいいですよね、そう思いますよ。やっぱりお米でもなんでも、「今日食べ終わった、明日買いに行って来る」ではだめですよね。食べ物なんかでも余裕持ってと思いましたよ。
うちのお姑さんは、「ご飯てのはな、キツキツ炊くんじゃないんだぞ、少し余計炊くもんだ」ばり言いました。それは2回も津波にあったからでねえかなって今思うんだけど。ご飯はきちっとたいて食べ終わって炊くもんでねえ、少しずつ多めに炊くもんだって、こう教わりました。今みたいに冷やご飯もチーンってやればすぐ温っかくなるもんでもねえしね。朝冷たいご飯、食べられないよね。だから一杯炊きたくなかったんだけど(笑)。
味噌でも醤油でも少しは余裕持ってないと寂しいんですよ。仮設に行ったって避難したって、そういう目に合えば、誰がそういうのを料理して持ってくるだっていうんですよね。だからみんな駆け足で買いにいったんじゃないですかね。1日も2日も何も食べない人、あったんでないかね。たぶん。命を繋ぐには自分が確保しないといけない。食べねば結局は人のためには働けない。なにかに自分の身を守ることを優先にしないと、助ける人がいなくなってしまうものね。ほんとに。
震災から1年が経って、大分落ち着いて来ましたが、今度は自分の年齢のことなどをいろいろと考えてしまいます。国の対応も遅れていますし、移転希望や個別相談会もこれからで、復興には今から何年かかるかわからないですね。
前に住んでいた志津川にはもう住めないんです。本当は前の所に戻りたい。志津川ってのは、都会とは全然違って、みんな付き合いがあるからです。町内みんな顔を知ってる者同士ですし、銀行にいた関係上、近隣を2年ぐらい歩いたから、どこに誰が住んで、どういう人かってことが全部わかっているんです。
次住む場所は大体決まりましたが、これから必要な面積の希望をとってから買うことになるので、土地を手に入れるのがいつになるかわからない。しかも造成したらすぐに住めるわけじゃない。冗談でお寺の高台を分譲してくんないかとか言ったりします。被災者ってのは多くが70歳以上の人間ですからね。
家は、入谷の駅前、戸倉と湾サイドと3か所に分かれて移転するんです。私たちが住んでいたのは市街地だから、志津川高校の裏側と志津川小学校の裏側、それと湾サイドと同じ地区の人を、次も同じ地区に入れたいということなんですね。
もとの家の敷地は屋敷だけで400坪近くあって貸家もあるから、全体で500坪くらいあるのです。坪8万円とみているんですが、そうすると4000万が入ることになる。
しかし買い取りの代金がすぐに貰えないんですよ。替地する人たちが先になっちゃうんです。町にもそういう駆け引きがあるんですよ。被災地を買い取りするにも移転する人たちが優先になる。戻らない人は後勘定です。4年か5年後です。そうすると、先立つものがないから、家が建てられないんですよ。食べて行くだけの賃金を払う職場もないので、みんな志津川の外に出てしまいます。男はパートの680円や750円を貰ってもどうにもならないんですよ。
仮設住宅は今は無料で住めますが、3年目以降は賃料を払わなきゃならない。今、登米の仮設に来ている人も、志津川の方の仮設に入りたいと言って問題になっています。仮設が空いてればいいけど、空いてなければ志津川に移り住むことになり、補助金が出なくなることになります。自分で家賃を払って住むことになるんです。
私たちの今住んでいる佐沼の家は、小さい家だから認められましたが、2階建ての大きい家を借りた人は、登米市がみなし仮設住宅・賃貸住宅と認めなかったんです。書類に正直に書いたほうが悪いんです。2階はない物件を借りたことにすれば良かったんです。だれもそんなこと教えないから。
登米市は地元での死者が少なかったから、なるだけ余分な金銭を出さないように出さないようにしているのでしょう。私たちのようなよそから来た人には義理や、人情とかはないんです。
5人だから仮設住宅を2つ借りたんですが、狭くてね、いるところがなかったんです。そこから佐沼のこの家に移ったあとにね、テレビなどを借りることにしたんです。ある人に、6人で住むのなら、みなし住宅が仮設住宅として認められるということだったので、役場に行ったんですが、首を縦に振らないんです。仕方なく、自分で調べて、書類を一晩で書いてぎりぎりに出しました。おかげさんでテレビが借りられました。
それから市の人も家に廻ってくるようになりました。私はその人たちにいつも言うんですが、「70代の人にね、土地計画法第何条とか難しい専門用語を言ってもだめ、専用用語は使わないで話せ」って。銀行にいた私には、ある程度はわかりますよ。法律用語など、専門用語があまりに多すぎます。訳のわからないことを言う。「あんたたち自分のおやじさんに話すように話せ」っていうの。私にだってわからない法律がいっぱいあるんですから。
死ぬまでには家を建てなきゃいけないと思っています。だから、早くお金を貰えればいい。政府や国で早く土地を買い上げてくれ、代金を先に頂戴と言いたい。今高台移転で土地交換して家を建てたって1年はかかるんです。それが今から買収でしょ? まだ山で造成もしていないし、1年で収まらないでしょう。これから商店街や工場を形成することになるのですが、問題はそこです。高台移転したとしてもそこに雇用の場がないのです。もしこれを進めるなら自動車工場を引っ張ってくるとかすれば高台移転もスムーズに行く。
実は、私たちには売掛金で貸してあるのが台帳がないために取り戻せないでいるんです。地代や家賃が入ってこないところもあるし、そういう被害が大きいんです。自販機だって5台くらい持っていましたが。たくさん入ってたんだよ。売上げが少ないから毎日開けなかったけど。小金溜めてね(笑)。
酒屋の免許はありますが、再開しようという気はありません。息子はもう商売では食べていけないと分かっています。酒屋というのは、飲食店あっての商売で、ビールとか樽とか重いものを売って成り立つんです。一般個人の売り上げだけではだめなんです。復興市は観光客が来るので飲食店とおみやげは売り上げがいいらしいですが。
今、一番困っているのはね、水産加工業の人たちです。どこも人手が足りないのですが、復興需要で、建設業に携わる人は高騰し、農家の人たちは1万3千円、下水や側溝掃除に1万円が支払われますが、それより時給が低いんです。今から家を建てていくんだから、この傾向は5年は続くでしょう。また高台の土地は高くなり始めています。今、1人暮らしが20%くらいいるのではないかと思います。それに対しまともに働ける人がいる家庭なんてのは5割ないでしょう。食べていける給料を支払う職場なんてないのです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないから、説明会もやっていません。だから皆不安なんです。将来のことも考えられないし、宙ぶらりんなんです。この平成の森仮設は、大き過ぎます。知らない連中でまとまらないです。「住めば都」と言いますが、3カ月経ちますが、慣れないねぇ。狭いよねぇ。
私は、避難所には入らなかったんです。親類の家に1カ月近く。爺ちゃんの弟が歌津の名足浜にいるから、そこにお世話になりました。
それから、気仙沼の兄弟の家に半月位。その後ここの仮設住宅が当たったんです。息子夫婦は、細浦の親戚の家を借りていて、私と爺さんで、爺さんの弟の家へ、名足と気仙沼にお世話になりました。それで、ここの仮設が当たったから、1週間の間に入居しなさいっていうので、6日にここに入りました。
避難所と言われても、私は暮らすのは無理でした。腰が悪くて、骨粗鬆症で入院してたこともあるから、若い人と一緒の生活はできないと思いました。兄弟のところでは、毎晩湯たんぽを入れてもらって暖かくしてもらいました。
お嫁さんのお話 食べ物も避難所は1日2食です。やっぱり3食ねぇ。ここの仮設は、いくら兄弟の所と言っても、長くなると疲れが出るから「まあ、どこでもいいや」って申し込みました。1日も早くと思っていました。
地元にも仮設は建ったんですが、もう、こちらが当たったのでね。
Please use the navigation to move within this section.