ここから始まるのは、志津川中瀬町に生きる佐藤徳郎さんの半生を綴った物語です。佐藤さんは農業家として「緑の手を持つ人」であり、区長として「中瀬町を力強くけん引するリーダー」であり、家庭人として「家族思いの父親」でもあります。
穏やかな語り口や、笑うとほんとうに優しいまなざしからは想像できないほど、目標に向かって熱くひた走る佐藤さん。時として厳しく己の信ずるところを貫き通します。でも、孤独に走っていたのではなかったのです。佐藤さんの傍には多くの人々が、笑顔の時も、涙の時も、さながら地上に大輪の美しい菊が咲くように、そして天上に星が瞬くように寄り添っていました。そんな物語を感じていただければ幸せに思います。
多忙な時間を割いて、貴重なお話を聞かせてくださった佐藤さん、そしてご家族のみなさまに、この場を借りて心よりお礼申し上げます。
ここで結ばれた多くの信頼が変わることなく、明日を紡いでいけますように。
RQ聞き書きプロジェクト チーム一同
私は、昭和26(1951)年7月18日、志津川町竹川原の自宅で、産婆の鈴木さんに取り上げられて生まれました。私の名前は、初代が八次郎(はちじろう)、親父が徳男(とくお)だったので、ただ単純に2人の名前を合わせて徳郎(とくろう)にしたようです。
きょうだいは6人で、私は4番目なんですが、上から女、女、女、男、女、男の順。長女が昭和17(1942)年生まれで、そこから3年ずつ年が離れて、全部3つ違いなんです。
私のお袋ってね、料理が下手だったんですよ。おばあさんがいろんなものを作ってくれて、自分はおばあさんに育てられたようなもんです。
おばあさんは、ものすごく暗算の得意な人でした。昔はうちが貧乏だったろうし、学校もろくに行ってなかったんだけど、暗算が得意だったんです。
親父が、たとえば土地を買うとか、山を買うとかいう時に、「こういう売り物があるんだけど」って最初に相談するのは、おばあさんだったんです。それから家族に相談するんです。
そうなるとおじいさんは反対するんです。おじいさんは気の小さい人でした。そこで親父が算盤を出す。その時、私たちは「いいから子どもはそっちへ行ってろ」って隣の部屋へ追い出されてしまうので、大人たちだけでやってるのを、ふすまの傍でじっと聞いているんですね。親父は「これをいくらで買って・・云々」と算盤はじいてやっているわけです。親父の算盤だってそんなに遅くないんですよ? それなのにおばあさんは黙って聞いてて、親父が計算終わる前に、「何ぼだ」って言うんです。それが合ってるの。
この間の津波で流された家は、おじいさんおばあさんが結構苦労して、初めて自分の土地に建てたもの。親父の家でした。昭和16(1941)年にその家が建つまでは借家暮らしでした。それから、そこに70年ほどずっと住み続けて、3回ぐらい改築したんです。
中瀬町の中心は志津川の駅のあたりなんです。中瀬、竹川原、廻館、塩入地番の4つで一つの中瀬町という行政区を作ってきました。住所と集落の名前は一致はしないんです。こういう例はこの辺りでも少ない。林、大久保、とか地番が部落の名前になっているのがほとんどです。中瀬町は含まれる範囲が広いんですね。私らが子どものころは30世帯ぐらいしかなく、廻館には5~6軒、それ含めて40世帯ぐらいしかなかったの。その内の8割は農家でした。流される前は197世帯ありました。
うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。
今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋がリヤカーで売り歩いていたんです。だから毎日現金収入がありました。1日売れば少ないときでも5~6千円入ってきました。そのお金は日々の生活に使いました。タバコと米は年に1回の清算でした。
そのほか酪農をしていました。酪農は親父と長女と2人で牛を4~5頭飼っていたんです。昔の乳価は高くて、月1回の清算で、そのお金で物置を立てたり土地を買ったりしていました。
昔は野菜と酪農を同時に営む人は多かったんです。養蚕やってた人もいました。しかし、中瀬町では海で生計を立てている人はいませんでしたね。
米は作って売るためのものでした。いいお米は売って、家では、普段はふるいにかけられた後の屑の米を食べるんです。10人家族で米の量も半端でないわけさ。お正月とか、祝い事のときだけはいい米を食べました。麦は、(売る為のもので)少ししか作っていませんでした。
おかずは味噌汁と野菜の漬物、そして魚。魚は川も海もあるから、たくさん食べましたよ。お袋が野菜を売って、その帰りに何か買ってきたもんです。
テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買ったのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックのあった年、小学校6年の時でした。1月の売り出しで買ったんです。
お袋は次の日の(野菜売りの)準備をやって時代劇を見ていたな。子どもたちも引きずられて一緒に見てました。
当時は「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代で、野球は巨人、相撲は大鵬、おかずのいいのは卵焼きってね。
学校での遊びは小学校4年生ぐらいまでは相撲しかありませんでした。当時は柏鳳(はくほう)時代で大鵬(たいほう)、柏戸(かしわど)など自分の好きな人の名前を勝手に名乗ったんです。私は大関の北葉山。うっちゃりが得意な力士でね(笑)。幼馴染の佐藤仁町長は初代豊山だったんですよ。昔の話をすると、今でもその話が出てきますね。
学校の先生も「怪我すると危ないから」って砂場を作ってくれ、家から藁を持ってきて土俵を作って、そこで相撲を取りました。
野球だってグローブもバットもない時代です。お金持ちの家にはありましたよ。
スケートだって下駄スケートです。下駄の歯をとって鎹(かすがい)をやすりで研いて、それを下駄に打ちつけて下駄を履いてスケートしたんです。同級生で靴のスケートを持っている人は2~3人しかいず、金持ちしか買えない時代だったんです。スケート場は田んぼ。昔は寒くって30センチぐらいの厚さの氷が張ったんです。12月から2月ぐらいまではスケートできました。アイスホッケーもやりましたね。
後は竹スキーです。スキーなんて売っていないから、自分で作ったんです。ほかの家の竹やぶで竹伐って、竹の節に長靴を合わせて割って、後ろのほうに裂け目を入れて、雪に刺さんないように前をちょっと上げて。それだけでは飽き足らなくて、竹を長い状態で自分の背丈に合わせて竹を切って節を落として、そこだけくりぬいて長靴が入るように工夫したんです。開くよりも丸い分、スピードが出ました。中学校辺りは丸い竹スキー。わざわざ斜面があるとこに行くわけ。アイスバーンだからすごく滑って、怒られましたよ。
子どものころはカレーが好きでしたよ。カレー粉溶いて作るヤツですよ。肉なんてないから、魚肉ソーセージを入れてました。今は寿司が好きだけど。初めて寿司を食ったのは16か17歳ぐらいでした。そのころ、志津川に1軒あったんです。学校給食が始まったのはチリ地震津波以降で、私が小学校3年の時でした。
志津川小学校から、志津川中、宮城農学寮(農業の専門学校)へと進学しましたが、農学寮は全寮制の2年制、1学年120名の学校でした。農学寮時代は軍隊上がりの寮長がいて、1年目はもう、スパルタですよ。来年上級生になったら下級生をしごいてやろうと思ってたら、その寮長が1年の終わりにいなくなってしまったので、「あれっ」って(笑)。
当時は、親父ぐらいの年代の人が校風に憧れて子どもを入れたんです。当時は人気があって倍率も高かったんですが、農業が様変わりして、入る人が少なくなってきて閉校になりました。その跡地に広瀬高校が建ったんです。
農学寮では1年目は果樹から何から(農業に関する実技を全部)やったんです。2年目は専攻に分かれるので、私はそこで園芸を専攻しました。
宮城農学寮
宮城農学寮は宮城県農業大学校の前身で、昭和10(1935)年に農業の実習教育のための全寮制教育機関として設けられ、昭和52(1977)年の移転まで仙台市青葉区落合にあった。後に宮城県宮城広瀬高等学校や宮城県立こども病院が建てられた場所である。国道457号から宮城県宮城広瀬高等学校に向かう市道にかかる仙山線の踏切名が「農学寮前踏切」でその名残がある。
宮城農学寮。多くの農業家を育てた学び舎。
宮城農学寮「藁ぶき」。これは“スパルタ時代”のもの。
宮城農学寮「乾布摩擦」。凍るような朝もこれから始まる。
酒井寮長。「作物を作らんとする者は、根を作れ。根を作らんとする者は、土を作れ」
私自身は、昭和48(1973)年から農業を始めました。宮城農学寮を出た後に、栃木の野木町(栃木県都賀郡野木町)の折原さんという方の所で2年間研修させてもらいました。
キュウリの勉強をしに行ったんですが、そこはトマト専業だったんですね。最後少しだけキュウリを作らせてもらいました。折原さんは頭の切れる人で、4H(フォーエイチ)クラブの全国の会長をやった人だったの。4Hクラブというのは農家をやっている人の青年団みたいな組織です。松下電器の創設者松下幸之助に会わせてもらったことがありますが、折原さんが全国の会長だった時に、「家電製品を売るなら農家だ」と言うことで松下さんが4Hクラブに寄付をしてくれた、その時からの付き合いだったらしいです。農学寮というのは全県にあったんですが、折原さんは栃木の農学寮でもたまに講師を頼まれていましたね。
4Hクラブ
4Hとは、Head(頭)、Heart(心)、Hands(手)、Health(健康)の4つの頭文字で、四つ葉のクローバーをシンボルとするよりよい農村、農業を創るために活動している組織。GHQの指導で、農業の再建と農村の民主化をめざして導入された。アメリカ合衆国農務省の管轄下にあり、日本では「青少年クラブ」と名付けているところも多い。
結婚は昭和51年でした。女房が21歳、私が23歳のときのことです。子どもは3人生まれました。
昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。
それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。
菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊儲かっから一緒に作んない?」って言われたのがきっかけです。彼は頭の回転も速く、きっちりと物事を考える人で、農協の組合長をやって、42歳の若さで亡くなるまで、私とは兄弟のように接していました。
本格的に菊一本にしたのは平成3~4(1991~2)年のことです。それまではトマトと掛け持ちで栽培していました。菊専用にしてからまだ15~6年しかたってないんです。ホウレンソウは一時やめたこともありますが、菊の単価が下がってきたので、また作るようになりました。
ビニールハウスは3か所あって、12百坪の広さがありました。平成13(2001)年に息子が短大を卒業して農家をやるって言って建てたハウスでした。
これが10年足らずで、あの津波によって、2千万の土地がパーですからね。家を流されてもいいですが、仕事場を失うというのは辛い。確かに生まれ育った家だから未練がないと言えばうそになるけど、建て替える気持ちを持っていたので、勿体なさは無い。しかし昭和47(1972)年からコツコツと投資してきた40年間のハウスの蓄積ってやっぱり大きいんですよ。試行錯誤してやってきたから。ここで本格的に野菜から菊に切り替えたのは私が最初だから、なおさらです。
*河北新報社 KoL netに佐藤さんの記事があります。「農業続ける意欲失わず/宮城県南三陸町中瀬町行政区長・佐藤徳郎さん」(2011年06月05日日曜日)
親父が亡くなったのが平成5(1993)年。病気が見つかったのは平成3(1991)年。前立腺がんでした。
平成3(1991)年、親父は「腰が痛い」と訴えて外科に行っていたのですが、原因が分からなくて内科に行ったんです。そこで「こんな虫栗(栗の実を虫が食った後みたいだ、の意)みたいなのを見たのは初めてだ」と言われました。余命3カ月と聞いたときはショックでした。親父と一緒に住んでいて気付いてやれなかった、っていうものすごい後悔がありました。
仙台厚生病院という肺がんに強い病院を紹介してもらってそこへ連れて行ったら、「泌尿器科はここにはないから、東北大学病院に行ってください」と言われたんです。そこは東北大学の分院になっていました。親父は何回も移るのはいやだと言うので、普通はありえないのだけど、副院長の好意で仙台厚生病院から東北大学病院の泌尿器科に通院させてもらったんです。そこへは一週間に2回、女房が連れて行きました。親父は60日目で退院しました。前立腺がんの治療薬は一つしかなく、当時は女性ホルモンの投与だけでした。しかしこの治療薬を飲むことによって、最終的には血管がぼろぼろになるから、脳梗塞には気を付けたほうがいいと言われていました。そのとおり、親父は最後は脳梗塞で亡くなったのです。78歳でした。
親父が亡くなったのは、お袋が大学病院で腹部動脈溜の手術をした時だったんです。親父の亡くなったことをお袋に悟られないように、病院に行くときには線香の匂いを落として行きました。親父が死んだっていうことはなかなか自分からは言い出せないで、多賀城にいるお袋の弟に話してもらいました。その当時としては珍しく葬儀の様子をビデオや写真に撮って、「こういうような状況で葬儀終わったから」って言ってもらったんです。
平成8(1996)年、お袋も親父と同じ78歳でこの世を去りました。
この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。
私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。
震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かったのね。あれだけの地震があれば津波がくるという予感がしました。
車で避難し始めましたが、米谷(まいや)大橋まで来たときに通行止めに会い、三陸道も通行止め、そこから4~5km下流にある登米(とよま)大橋は幸い通れたので、戻るようにして米谷大橋まで来て、国道398号線を志津川に向かっていきましたが、今度は合同庁舎から300mから500mも行かないうちに交通規制がかかっていました。
ふと川のほうを見たら、そこは右カーブで、私の車がハイエースだったのでよく見えたのですが、瓦礫が流れていたのです。私の後ろに30台ぐらいの車がつながっていたから窓を開けながら「津波だから逃げろ」と叫びました。
本当はそこから200mぐらいを左折して、旭ヶ丘団地に上りたかったのですが、そっちから1台向かってくる車があって、私がその車をやり過ごして高台に上がろうとすれば、後ろの人たちが波に追いつかれる。だから、そこに入らないで、そこから1キロメートルぐらい上流に来て、山道を迂回して八幡川の上流に入って地元に帰ろうと考えたわけです。
けれども、頂上近くで1台の乗用車とすれ違ったの。30代ぐらいの女性がそこから、「波来てるから行っちゃダメ」って言う。自分としては、この辺りの地形はすべて承知していて、無茶はしないからそのまま行けると思ったけれども、次の津波が押し寄せてきていたので、そこでUターンして頂上あたりの土建屋さんの資材置き場に車を停め、山道を歩いて自分の地域に帰ってきたんです。その光景はきっちりと覚えていますね。認識はしているのですが、現実味が乏しい心持(こころもち)がしました。
大雄寺(だいおうじ)さんの駐車場には、車が3~40台上がっていて、部落の人たちも20数人いました。女房は家の近くの別の高台に避難していましたが、息子の姿は見えません。息子は消防団に入っていて、水門の警備にあたっていたので、地震の後水門の警備に行っただろうから、たぶんダメだろうと思っていました。
だけど、もう一か所の避難所に消防自動車が1台止まっているのが見えました。それを見て直感的に、もしかしたら息子は大丈夫かもしれないと感じました。なぜなら、息子は消防車を運転する方だったからです。消防車がそこにあるということは、息子がそこまで運転して上がって来たかもしれない。女房が心配していたので「大丈夫だ。消防車が上がっているということはあの子が運転して来たのだから」と言いました。
息子は津波の晩から1週間ほど捜索活動をやっていたんです。いくら消防団といえども、当時まだ氷点下の気温の中、詰所もないですから、志津川高校の自転車置き場を事務所代わりにしてたそうです。焚火をたいて暖を取ってたらしいのだけども、毛布も何にもないんです。かわいそうでしたよ。息子と会ったのは、津波から1週間経ってからでした。避難所に班長と2人で訪ねてきたときにやっと会えました。
警察車両が、波に追われながらも高台に逃げていて、警察無線が生きていたのと、高台だったので波が引いていくのがわかったのはかなり幸運でした。夜の間にも繰り返し、6~7回津波が来ていたんです。少しでも高いとこへ行こうとしたんだけども、年配者の人たちは疲れていて、「若い人たちだけで逃げろ」と言うんです。「(自分たちは一緒に行かなくて)いい」って言われても、その人たちを高いところに上げないわけにいかない。仕方なく若い人たちに「波の様子を見てきてくれ、本当に危ないようだったら逃げる」と声をかけました。
その晩に地震で火事になったところがあって、その光でどこまで波が来たのがわかるようになったんです。ここなら大丈夫そうだと考えられたので、焚火を焚いて多くの人はハウスの中で一晩過ごしました。本当に早く夜が明けてくれないかなと思っていましたね。そこに避難した人たちと大雄寺さんに避難した人すべての名前は把握しています。
震災当日、70名の方が夜を明かしたビニールハウス
次の日大雄寺(だいおうじ)さんに炊き出しをお願いしました。臼で玄米を撞いて、焚いてもらったり、1軒流されてないところがあって、その奥さんから3合ぐらいの白米をもらって、炊き出ししてもらいました。ひとりに1個しか行き渡らなかったけれど、そのひとつのおにぎりが貴重でした。
お昼頃県警の救助隊が10人来てくれました。大雄寺さんで年配者とその家族は預かるということで24人がそこに残って、後の50人ぐらいは500~600メートル歩いて入谷(いりや)小学校に避難しました。後は県警が乗用車やパトカーでピストン輸送してくれたんです。私が小学校に着いたのは12日の2時過ぎのことでした。
避難所にきた時点で、まだ次女の消息は分からなくて、心配でした。スーパーに勤めていたのですが、そこの社長があまり普段避難をしない人で、私は心配して、震災の少し前に次女に向かって「社長がどうしようと自分の命なんだから自分で判断しろ」という話をしていたんです。その言葉を次女が受け止めていればたぶん生きてくれている、という感じは持っていました。長女には、次女から無事だというメールは届いていたんですが会えてはいませんでした。実家の兄貴と甥っ子が娘を探しに来てくれました。
こういう時って、情報が錯綜するもんです。情報が全然あてにならないから、顔見知りの奥さん方に、避難所回って部落の人の消息を確かめるのに付き合ってもらえないかと頼んで、次の日3人で避難所を回って部落の人ひとりひとりの消息の確認作業をしました。その次の日にも出かけようとしたら、女房に「自分の娘の消息も分からないのに部落の人がそんなに大事なの?」って言われました。でも、「大事なのは娘も同じだし、娘のことはあんたと実家の兄貴もいるし、私はとにかく部落のことをやる」と言って町に出ました。入谷のコンビニのところの橋を渡って、3人で歩き出した時です。背後から突然、「お父さ~ん」と声がしたんですよ。振り向いたら次女が同僚と一緒にいるじゃないですか。あの時は、本当に、初めて次女を抱きしめましたよ。次女は人に道を訊きながら、山道を2日かけて帰ってきたんです。
避難所では、役場職員がひとり待機していて、小さい電気1つだけを点けていました。誰が訪ねてきてもいいように、私も一緒に2人で一晩寝ずに待機していました。
家族や知り合いは名前だけでなく、顔をちゃんと見て、確認したいと思ってたんですよね。津波の晩、この晩、二晩寝ませんでしたね。
津波の晩ラジオの情報では、南三陸町1万人と連絡が取れないということでした。町長とも、震災から3日たっても連絡が取れなかったんですが、ベイサイドアリーナの避難所に行ったときに、やっと再会してお互い抱き合って無事を確認しました。それが3月14日のことです。最終的には、603人中28人が地域での津波の犠牲者となりました。その中には、「チリ地震の時は大丈夫だったから」と忘れ物を取りに行って犠牲になった方もいました。津波は怖い災害だけども、高いところにさえ登れば絶対怖くない。このことをボランティアに来ている人たちにも話しているんです。
入谷では23日間お世話になりました。
3月26日には役場から、「電気も水道もない状況では生活が大変なので、登米市、栗原市、大崎市に2次避難をしてもらえないか」という話がありました。コミュニティ単位でまとまったところから優先的に移動するということだったんです。世帯主の人に入谷小学校まで来てもらって話をしました。登米の鱒淵(ますぶち)小学校(廃校になった校舎)を指定していたが、そこが当たるかどうか確信は持てなかったから、平行して独自に、登米市津山町にある旧老人ホームの跡地を借りるという話を理事長ともしていたのですが、結果的には登米市東和町の鱒淵小学校に決まり、4月3日に移りました。
それから4か月間鱒淵小学校にお世話になりました。23日目に初めて白い茶碗で白いご飯を食べましたが、あの時の御飯の味は忘れられないですよね。町の人たちに対しては「感謝」の2文字しかありません。いずれ恩返しをしたいと思っています。助かった命は大事にしないといけないし、お世話になった人たちに対する気持ちも大事にしていかないと、人間としての価値はないと思います。
私たちはいろんな避難所の中で一番恵まれた避難所だったと思います。
RQの皆さんが朝と夕にやっている班長会議に必ず出てきてくれて、"相談する人もなく即断する"ということをずっとやっていた私にとっては、常に"聞き役になってアドバイスしてもらった"ということが、大きな支えになってきたんです。
皆さんがいなかったら、自分もうまくコミュニティの人々をまとめることができなかったのではないかなと思います。愚痴を聞いてもらって、自分の息子ほどの年齢の人たちに支えられて、乗り切れたんです。お茶っこや足湯で息抜きの場もできました。
100人以上の人が共同生活を送れば当然面白くないことがあるもんですが、息抜きの場があって、そういうことにも耐えていくことができました。ずっと以前から付き合いがあったように思えたし、今こうやってまとまって仮設住宅に来ることができたのは皆さんのおかげ。本当に苦しい中、助けられました。
相澤さんは、NHKの政治部の人で、3月25日から10日間密着取材ということでご一緒しました。この頃、仮設住宅について、県のほうは公共用地にしか建設しないという方針でした。3500世帯分の内、1080世帯分しか建たないということだったんです。
自分としては地元を離れたくないので民有地の活用を願っていたのですが、県に話しても取り付く島もない状況でした。その時に相澤さんに電話して状況を話したら、すぐに国交省の大臣(2011年3月当時は大畠章宏大臣)に「被災地の生の声はこうです」ということを話してくれて、国のほうから県に話があって、今の民有地を使えるようになったんです。
相澤さんがいなかったらどうなっていたか、と思います。後で町長から「あんたが突っ走るのだけが心配だった」と言われました。相澤さんは「私は何もしてない。ただ大臣に繋いだだけです」と言っていたけれど、相澤さんが動いてくれなければ、仮設の建設はもっと遅れ、こんなに早くは実現できなかったでしょう。
多くのマスメディアが押しかけ、迎える南三陸町長と送る登米市長の涙と激励の中、仮設住宅へ
*集団移転を報じる記事が、河北新報社 KoL netにあります。
「地元に仮設 95人が集団帰郷 南三陸・中瀬町区住民」(2011年8月5日)
「高台移転重ねて議論を/宮城県南三陸町中瀬町行政区長・佐藤徳郎さん」(2012年01月29日)
自分は周りの人に恵まれていましたし、区長をやっていて、普通の人たちよりは多くの人と接することができました。
新しい人間関係の構築って大事だなと思います。
すべてを失いましたが、新しい人間関係の構築のほうが失った財産よりも多くのものを得られた気がします。津波がなければ会うこともない人たち、兄弟でもない、親戚でもない人と付き合えるのですから。大変だけれども、そういう人間関係って一つの財産でないかと思っています。私も気は長いほうではないんですが、それでも大きい声を出さずに(ここまで)できたというのは、人間関係に支えられたということだと感じています。(談)
志津川にサクラサク
写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」
南三陸 志津川中学校登校坂から 右下に偶然佐藤さんのビニールハウスが
写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」
写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」
この本は、2011年11月20日、
佐藤徳郎さんが中瀬町仮設住宅集会所にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
新垣亜美
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[編集協力]
跡部喜美子
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年5月5日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net