八幡川
写真提供:hiderin「南三陸 海 山 川!」
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)ににほひける
紀貫之(35番)『古今集』春・42
わたしの昔なじみのこの里では、梅の花だけが、昔に変わることなく、かぐわしい香りを漂わせています。みなさんはどうでしょう。わたしたちのこと、わたしたちのふるさとを、思い出してくださることはあるのかしら。
この本は、志津川で生まれ育った手塚和子さんが語ってくださった人生の物語です。笑うとうんと細く優しくなる大きな瞳、あたたかい語り口、そこからは、誰もが息を呑んでしまうような過酷な体験をされていることなど、うかがい知ることはできません。
和子さんからは、安易な言葉で人を励ますという行為がいかにむなしく、思い上がったことであるか、見ず知らずのわたしたちボランティアに気づかせてくださいました。体験を口にすることは、もう一度それを体験することです。その苦しさを乗り越えて語ってくださった、その勇気に、今私たちは心を強く揺さぶられています。
いま、私たちはこの和子さんの贈り物を、1人でも多くの方に読んでほしいのです。そして、忘れません。この町のすみずみまで、こういう思いを人知れず背負った、名もない普通の人々がいることを。そして、どれほど津波がいろいろなものを押し流してもその自然と人の心の美しさにはいつまでも変わりがないことを。
末筆ながら、貴重なお話をいただいた和子さんと、この企画をご支援頂きました、志津川中瀬町区長の佐藤徳郎さんに心より御礼申しあげます。
2012年3月31日
RQ聞き書きプロジェクト チーム一同
62歳です。7月で62歳になりました。生まれたのは、昭和24年7月29日、そうです、生まれてからずっと志津川で、この中瀬町地区で育ってきて、今もこうして暮しています。仮設に来る前は、前の中瀬町文化センターのところに住んでいました。実家もすぐ近くです。
両親は共働きですね。農家ではなかったです。
父は山で、母は製糸工場で働いていました。製糸って繭から糸をつくるあの製糸です。
兄弟は3人です。ひとり兄がいましたけど、小さい時なんで(よく事情は)わかりませんけどね、兄は小さい時亡くなってしまいました。なので、私が一番上で、弟と妹、年は3つずつ離れています。現在、弟は漁師です。私たちが鱒淵(小学校体育館)に避難してた最中(さなか)の7月に船に乗って行ったけど、1年以上は帰って来ないね。来年の7月、8月くらいですね、帰ってくるのは。妹は結婚して、今は仙台に住んでます。
兄弟ではよく外で遊んだりしましたね。おままごととかしましたねぇ。昔の遊びですからね。このへんは夏になれば沢で泳いだり、魚を捕ったりしましたね。このあたりはウナギ多かったのよ。私のいとこが近所にいたんですけどね、小さい時ナマズも毎日捕ったって。そんな風で、自然が豊かなとこですね。どうやってナマズを捕ったかって? わからない!男の仕事ですよ(笑)。海の近くですし、アサリや貝などを捕りに行きましたけどね。ウニ、アワビもよく捕れましたねぇ。
小学校のころの遊びねぇ、縄跳びしたとか、かくれんぼしたとかでしょうか。みんな、暗くなるまで家の外で遊んだのがありますからね。初恋? エヘヘヘヘ。アハハハハ。(秘密!)
小学校は志津川小学校ですね。給食は高学年になってから始まったと思います。それまではお弁当。その頃は(おかずと言っても)何もないの。今みたいなデコレーションなんてなかったの。給食はコッペパンとかなんかだったような記憶がありますね。あんまり記憶が定かでないの。メニューは毎日違っていて、同じではなかったと思いますよ。
好きな科目? 何もないよねぇ(笑)。スポーツも何も、ぜんぜんなかったですね。
父親の兄と、母親の姉が夫婦で、志津川のすぐ近くに住んでいたのですが、子どもがいなかったので、私が養女に行ったんです。小学生のときですね。
養父は遠洋行業の船乗りでした。ずっとね、マグロ船に乗って、北洋とかに行ってましたね。若い時は、カレイやカニも獲ってたみたいですけど、私が覚えてるのはマグロですね。一度船ででると、3カ月から半年ぐらい帰ってこないんです。たくさん魚が獲れれば帰ってくるのは早いけど。そういう生活ですよね、船乗りはね。
志津川湾と荒島
写真提供:rakumaru「楽兎庵便り」
子どものころ食べた、お母さんの料理はなんでも美味しかったですね。一番好きなのは煮ものです。
小さい頃の食べ物って、大してどこでも変わらない、同じようなものじゃないでしょうか。豊かな生活ではないものね。魚なんかは海が近いから、ありましたね。
志津川の郷土料理ですか? そうねぇ、鱒淵だったら「はっと汁」、いわゆる「すいとん」を作ったけど、そう言われると、なにあるんだろ(笑)?
得意料理ですか? もう作ることなんて忘れてしまった、津波で(笑)。ほんとにアタマの中が真っ白でね、まだわかんない、忘れてしまって。流されてしまって。「え、どうしちゃったんだろう」って思うときが、いつもありますよ。
私たちが小学5年生の時も、チリ地震津波(昭和35(1960)年5月24日)っていうのがあったんですよ。そのときも(津波の怖さが)わかりませんからね、見に行ったんですよ、近くですから。
図書館のところ、今なんにもなくなってるけど、昔はそこ裁判所だったのね、松原ってとこ。そのあとは、図書館になったんだけど、そこの裁判所のとこに防波堤っていうのがあって、そこんとこで見てたの(笑い)、チリのときはね。それでずっと沖の荒島のところまで、ずっと水が引いて、無くなったのを見てたんです。とにかくぜんぜん海の水がないんです。大人の人たちもいっぱいいたんですね。不思議な感じでした。魚を獲りに行った人たちもいました。水が、こう少しずつ来て津波が来るんですよね、それを、防波堤の上からだから、そんなに高くはないところから、ずっと見てたんですよ。津波が来るまでずうっと。(次に何が起こるかなんて子どもには)わからないからね。
写真:志津川町「チリ地震津波災害30周年記念誌」(平成2年発行)
大人の人が「逃げろーっ!!」て叫んでいて、いま仮設住宅の建ってる橋のところまで行けば、山のほうに逃げられたんですよ。私たちはみんなと一緒になってそこに逃げたのね。遠かったんです。そのとき、弟と、それこそ波に追いかけられながら逃げたのね。それでどこ行ったのかな・・山を越えてとにかく家まで帰って来たんです。家はチリ地震津波の時でも、水をかなり高く被ったんですね。だから家の人たちは私たちが帰ってこないから、津波で亡くなったと思ったらしいです。家に帰って玄関を入ると、津波に乗って来た魚が入ってたりしていました(笑)。家は大丈夫だったんです、水は乗りましたけどね。まだ小さかった妹は家にいて、2階に逃げて無事だったんでしょうね。
チリ地震津波は5月で、次の日に田植えする予定だったから、用意をしていたんだけど(だめになりました)ね。それでも、次の年は植えたのかな、ちょっとそれは記憶にないけど、今度のようには被害がひどくなかったですからね。
そのまま地元の、志津川中学校に進みました。で、部活はあったんだっけ?というくらいです。制服は今のと同じようなのかな? 冬はセーラー服、夏は白いブラウスで、ボックスプリーツのスカートでした。お布団の下にスカートを置いて寝押しするんですよ(笑)。
1学年6クラスで、1クラス40何人くらいで、結構生徒数が多かったんですよ。荒砥小学校と、志津川小学校、清水小学校の3つから子どもが来てたからなんですね。その頃は、どこでも人数が多かったんじゃないかと思います。ちょうど団塊の世代といわれる頃ですよね。今はすんごく少ないですからね。先生もそんなに厳しくありませんでした。
志津川中の当時のセーラー服のイメージ
イラスト提供:「高校制服図鑑」
私たちのときはビートルズの時代ですね。友達がみんな好きでしたね。
>(聞き書きチーム)当時のテレビ番組を一覧にしてみました。覚えていらっしゃるのはありますか?
テレビは、うちでは見始めたのは早かったですね。そうです、最初は白黒で見てましたね。
テレビに出てたのは、山城新伍、大村昆とか前田なんだっけ(おそらく前田武彦)とか・・。ドリフターズなんてもっと後! 私の子どもの時代だよ。私年60だよ(笑)。おばあさんの代。
子ども向け番組 |
一般の番組 |
||
チロリン村とくるみの木 | バックスバニー | 私の秘密 | アンタッチャブル |
名犬リンチンチン | 少年ケニア | お笑い三人組 | 刑事物語 |
赤胴鈴之助 | 少年探偵団 | ヒッチコック劇場 | 夢であいましょう |
アニーよ銃をとれ | ちびっこギャング | 眠狂四郎無頼控 | ローンレンジャー |
珍犬ハックル | ナガシマくん | 鞍馬天狗 | ローハイド |
月光仮面 | 崑ちゃん捕物帳 | 日真名氏飛び出す | 若いやつ |
ポパイ | 琴姫七変化 | バス通り裏 | 七人の刑事 |
怪人二十面相 | てなもんや三度笠 | ハイウェイパトロール | ライフルマン |
あんみつ姫 | 白鳥の騎士 | 私だけが知っている | 特別機動捜査隊 |
エプロンおばさん | ごきげんチンパン君 | ジェスチャー | 鉄道公安36号 |
番頭はんとでっちどん | ディックトレーシー | 事件記者 | ベンケーシー |
七色仮面 | ウッドペッカー | 億万長者と結婚する法 | ルート66 |
少年ジェット | 隠密剣士 | スター千一夜 | 法善寺横町 |
鉄腕アトム | ミスターエド | 銭形平次捕物控 | 図々しい奴 |
ディズニーランド | ブーフーウー | パパは何でも知っている | 拳銃無宿 |
海底人8823 | キャプテンドレーク | アイラブルーシー | じゃじゃ馬億万長者 |
わんぱくデニス | うちのママは世界一 | ペリーメイスン | コンバット |
冒険ダン吉 | 柔道一代 | キャノンボール | ミステリーゾーン |
アラーの使者 | 宇宙家族 | おトラさん | ハワイアンアイ |
怪傑ハリマオ | 少年忍者風のフジ丸 | 未知の世界 | ルーシーショー |
白馬童子 | 狼少年ケン | 旗本退屈男 | ズバリ当てましょう |
名犬ラッシー | ブラボー火星人 | 世にも不思議な物語 | 雲に向って起つ |
ポンポン大将 | 白馬の剣士 | ララミー牧場 | 七人の孫 |
怪傑ゾロ | 0戦はやと | 若い季節 | ただいま11人 |
早撃ちマック | ひょっこりひょうたん島 | 夕焼け天使 | パティーデュークショー |
宇宙船シリカ | トムとジェリー | シャボン玉ホリデー | 天下の若者 |
不思議な少年 | 鉄人28号 | サンセット77 | 逃亡者 |
恐怖のミイラ | エイトマン | 検事 | のれん太平記 |
魔法のじゅうたん | 忍者部隊月光 | タイトロープ | 三匹の侍 |
映画で覚えてるのは、舟木一夫が出てるのを、友達と見たんですよ。「高校三年生」とか。
学校では映画なんか行ってはだめだったから、学校を卒業してからだったかなぁ。映画館はみなと座というのが志津川にあって 、誰でも入れたんです、ちっちゃい子どもでも。昔は3本立てでしたね。
中学校を卒業して、洋裁、和裁、編み物を習いに行ったり、家のことをしてました。松原にそういう学校があって、結構生徒も人数いました。私、どうしようか迷ったんだけど、高校3年行かなかったの。今にして思えば行けばよかったと思うけど。行かなかったのは学年の3分の1くらいかな。都会の方に出稼ぎに行った人もいるし、実家(うち)の仕事をしたひともいるしね。
その頃は母の働いていた製糸工場はなくなっていて、働いている人はいなかったです。お小遣いはもらってました。何に使ったって? エヘヘヘ。映画見に行ったり、友達と仙台なんかに出かけたりするのに使いました。仙台まではバスですから、不便でした。電車もあんまりないし。気仙沼線は昭和40(1965)年あたりですよ、通ったのは。
*気仙沼(柳津)線は昭和43(1968)年開業と新しい路線でした。貨物扱い駅が無く、2~3両編成の気動車のみが走っていました。電車ではありません。志津川駅は気仙沼線の主要駅。2面3線の有人駅。線路、ホームは築堤上にあり、駅舎は地平にあって地下通路がありました。
*同席された志津川ご出身の高橋登美子さんによると、「みなと座というのが映画館の名前。昔は3本立て、2日ずつやって3日目には違うのが来ていました。「君の名は」など。コマーシャルが入らないから、6時くらいに始まると9時くらいまでに3本の映画が見られました。3本立ては、もうけた感じがしましたね。志津川座というのもあったけれど、そちらは映画ではなく、芝居が多かった。地元の人がお芝居したりして」とのことでした。
気仙沼線と志津川駅
写真提供:nasurio「童話/ペルガリッサ市奇談」
写真提供:ザエモン「暇人ザエモンの鉄道ブログ」
*震災前の気仙沼線の写真はほかに「南三陸シーサイドライン」(快速南三陸・気仙沼線 最新情報)などがあります。写真をお借りして掲載したいと思っております。お気づきの際はぜひご連絡をお願いいたします。
結婚は20歳になった頃です。
夫とはお見合いで、何回か会ったあと、結婚しました。知り合いの人が夫のお兄さんで、その世話で紹介されたんです。
結婚してから2年後に、最初の女の子が、その後男の子と、ふたり生まれました。息子と娘は7つ、離れています。子育ては、みんなに助けてもらったから、そんなに大変ではなかったんですよ。ええ、舅と一緒に同居していたし、おばあさんも近くにいたし、みんなに助けてもらってね。
私自身は厳しいお母さんだったかな。教育方針は、ひとりめの子どもは手を抜くことはできない、そんな感じでした。私の方がいろいろうるさく言いましたね、主人は漁師で、家にいませんでしたからね。
子育ての中で思い出に残ってることですか? 小さい時は私の絵を描いて帰ってきたりはよくありましたね。魚釣りが好きでね、おっきい魚を釣ってきたり・・。海にいって魚拓なんかとって置いてたんですけどね、みんな流されてしまって。50なんセンチくらいのアイナメ、そう。あとマガレイとか、とにかく魚釣りが好きでしたね。自然の豊かなところで育ったんですね。
今は、息子は仙台に引っ越してしまいました。震災前は、ここから仙台まで、電車で通ってたんです。朝に、始発で行って、帰りも電車で。でも通勤できなくなり、津波の後、しばらく鉄道の復旧を待ってたんですけど、いつになるかわからないから、現在は仙台に住んでいます。会いにはなかなか行けませんね。遠いですからね。柳津(やないづ)というところまで電車は来てますし、登米市役所まで仙台から高速バスが来てますから、そこまで迎えにいくとか、そんなふうですね。
息子は漁師ではないです。専門学校の講師をしながら、資格を取るために勉強しています。津波の後も試験があったんだけど、ぜんぜん勉強できなくて。息子もここで育ったので、私と同じ小学校中学校、そして志津川高校へと進みました。志津川高校は、今仮設住宅敷地内に建ってるとこですけど、高台ですから津波は大丈夫でした。
主人は父親と同じ、船乗りでした。獲ってたものも、おんなじです。マグロとサンマ、サケ、マス。サケ、マスは儲かった人は儲かったんだろうねぇ。一度出てって長い時で(帰ってくるまで)6カ月くらいでしたかね。家に居ても何日でしたね。それが普通の生活でしたから。帰って一緒にいると喧嘩するから(笑)。デートなんか、なかなかそれはできません。旅行もできない。
旦那さんとも家族とも出掛けるなんてことはないです。一緒に居られるようなまとまった日にちがないですよ。結婚する前から船乗りでしたからね。漁師というのは、魚を港に揚げたら、何日かしてまた海に出て行くものです。1カ月家にいるとか、お盆にいるとか、お正月にいるとかそういうのはないんですね。お正月を目の前にして、12月の28日位に船が出てくからね。
おじいさん、おばあさんと暮らしていたから、子どもと5人でずっと生活する感じでした。子どもを連れて遊びに行くといっても、あんまり遠くにへも行けないしね。誰かか来た時、一緒に行くとかしかありません。だから「うちではどこにも連れて行かない」って子どもによく文句を言われてました(笑)。主人は今はもう年ですから漁師は引退です。年金生活です(笑)。
子どもが大きくなっても、今は90になるおばあさん(養母)がいて、そのお世話があるから、そんなには出られないですね。おじいさん(養父)は平成の4年に亡くなりましたが、その前は体が弱くて、ずっと入退院を繰り返してたから、そのお世話をしていました。
娘は結婚して仙台にいますよ。孫もいて、仙台にこちらから出掛けていくから、日曜日によく会いますね。いま、小学生の女の子と幼稚園の男の子です。多語期でおしゃべりだから、一番いいときですね。アハハハ。避難所、鱒淵だったんですけど、娘の嫁ぎ先(のご実家)が近くだったもんですから、土日は毎週必ず来てくました。何にもないんですが、編み物とか、片付したりして孫と遊びましたね。子どもは子どもの教育方針があると思うので、娘の子育てには何も言いません。私たちはね、ただ、悪いことしたら謝んなさい、とか、ありがとう言いなさい、とか、そういう礼儀作法ですよね。挨拶をしなさいなどのほかは、あとはあんまり言いませんね。
震災の時は、私はスーパーで買い物をしていたんです。車で買い物をしに来て、最初1軒のスーパーに行って欲しいものが売ってなかったから、違うスーパー、サンポートっていうとこに行って、そこで地震にあったんです。カゴを持ってレジに並んでいたとき、地震になったんですね。それでもすごい地震でしたので、怖くて動けなかったです。レジ台のところにいって、こうやってずっと掴まってたの(笑)。掴まってたのは私だけじゃなく、何人も一緒でした。上から何か落ちてくるんじゃないかという心配もあったけど、とにかくその場から動けなかったんです。いくらか揺れが収まって、外に出てすぐに大津波警報がでたっていう状態で、すぐ車で家まで戻りました。信号は止まってしまったしね、車の渋滞があったし、大変でした。
その頃、家には、おばあさん(養母)と実家の母と、あと息子とおんちゃん(おじさん)もいたと思います。みんなでお茶飲みしてたとき、地震があったみたいです。それでおんちゃんたちはこの下の自分の家にすぐ帰ったらしい。私が家に戻ってみると、おばあさんは、家にいて、うろうろしながら何か言ってたのね。とにかく、家の上が集会所になってて、そこが避難所だから、そこに逃げなさいと言うんだけど、おばあさんが動かなくて、「ダメだな」と思いましたね。
とにかく買い物してきたものが車の中にあって、地震があったのが午後ですから、夜になったら寒くなって大変だと思って、下の家にあった毛布3枚ぐらい、とにかくそこにあったものを入れました。トイレットペーパー、ティッシュペーパーとか、老人用のものがあったから、そういうものもいるだろうなと思ったし、おばあさんがお腹すくからって、そのへんのせんべいやらチョコレートやらもそういうものも車に全部入れました。さらに、2階から、何か持って出ようかなと思って2階に上がったんだけど、あれだけ揺れたのにタンスなど家具が倒れるとかとういうのはなかったですね。でもまた地震が来ていたからここに居てはダメだなと思って、着の身着のままで外に出ました。で、トイレの戸が開いてたんです。だから、津波来たら水入るな、と思って。でトイレの窓を閉めたり・・(笑)
そして車で中瀬町文化センター(以下、センター)の避難場所に行ってみたら、じいさん(ご主人)が軽トラックだけ先に高い場所に上げに行ったのね。それで私が同じように車を高い場所に上げに行って、避難した家族はセンターにみんないました。
車を高いところに上げたとき、川からいっぱい水が流れてきたのが見えたのね。水の来るのは早かったですね、一瞬にして来て、「ええっ!」って感じでした。避難所のところは、このままじゃ水が来るので危険でだめだぁってなって、その上に逃げようということになりました。外は雪が降って寒かったんですけど、センターの中にみんな入ってなかったから、周囲の状況が良く見えて、かえって良かったんですね。寒かったんですけど、地震も怖いし、だからみんな様子をよく見ようと外に出てたんです。「ここにいたら危なくてダメだから、みんな上さ、上がって!」それでみんな高いとこと、高いところ、って動いたんです。
それで、私も車を避難所場所のセンターのところから一段上へ上げたのですが、じいさん(ご主人)が軽トラをそのまた一段高いところに上げたのが見えたんです。だから自分の車も同じ高さまで上げようと思って、車を取りに行きました。そのときは、自分のそばに水が来る気配も何も見えてなかったの。川を瓦礫が流れて来てたのは見えていましたよ。家の前にあった大きなイチゴのハウスが家の上に覆い被さってきたのが見えて、「ええーっ!」とビックリして、これはダメだと思って、自分も車をもう一段上に上げようと思ったのね。
車を上に持っていこうと駐車場に降りて来たときに、私には、迫ってくる津波が見えなかったんですよね。一瞬にして水が来たの。両方から来たんだねぇ。足元にピシャピシャっという音をたてて水が来た、そのあと覚えてないの。気がついた時には呑み込まれて、水の中に沈んでたんだね。意識が戻って水の上に顔を出したら、瓦礫と一緒に自分が回ってたんです。息子が上の避難所から見てたんですが、車は端に置いてあったので一瞬にして流れたんだそうです。私は車のすぐそばにいたんですが、乗ってなかったから良かったんです。水が渦を巻いたんですね。だから飲み込まれて、ずっと抜け出せなかったんですね。どのくらい沈んでたんだか、それはわかんないけど、すんごく苦しくなって。水も飲んだし、苦しくなって何度も顔を出したりまた沈んだりしました。どのくらい下に沈んでたんだか私もわかんない。
そのとき黒いジャンパー着てたんだけど、周りから見てもそれがわかんないんですよね。見えないんですよね。色の濃いものだから見えそうなものだけど、うちの息子が上から何回も目で探したんだけど、見つけられなくて。そして何回目かに頭が浮かんだ時にやっと息子が見つけたんだね、私が流されているとこを。でも私の体はだんだん土手のほうに押されて、寄っていったんですよね。土手は削れてなくなってきていました。
そこに消防団の人が通りかかったので、その人とじいさん(ご主人)もいたし、息子と3人で、上から引っ張ってあげてもらったんです。危険な場所だったんで、あの人たちも危なかったと思うんですが、助けてくれて。
津波に飲まれて、泥水も飲んだし、いろんな瓦礫やクギで怪我もしましたし、とにかく頭のてっぺんから爪の先まで、全身ずぶぬれになってしまいましたから、体がおかしくなってしまいました。泥水を飲んでいたから心配でしたが、しばらくしてから病院に行って検査したら、大丈夫だということで、それでいくらか安心しました。それまでは、何とも言いようのない、本当に不安な気持ちそのものでいっぱいでしたね。
いまようやくお話できますが、本当に一時は鬱の一歩手前みたいになってね。今でも、なんで私は助かったんだろう、って思うことがあるんです。助けてくれた消防団の人は、奥さんとお母さんがいないから、探して歩いてたのに、その途中で私が水に入っているのに偶然出くわして助けてくれたんです。その方の奥さんとお母さん2人は流されて亡くなった、と後で聞いて、自分だけ助けてもらったんだ、という複雑な思いがあったんです。
動かしに行った車のところには、私だけでなく何人か他の方もいたの。だれだか記憶が定かじゃないんだけど、3、4人はいたんじゃないかなと思います。その人たちもどうなったかな、って今は思いますよね。
自分なんか助からなければよかった、と思ったこともありました。ええ、「助かってよかったですね」なんて言われますが、命があったことに対する思いは人それぞれで、そんな簡単なことではないんです。
旭ケ丘ってところにおばさんがいて、そこは高台で大丈夫だったから、じいさん(ご主人)が着替えを借りてきてくれて、雪の降る寒い中、トラックの中で着替えました。それから今度はまた旭ケ丘のおばさんのとこまで、だいぶかかって歩いて行きましたね。道路もないところを、草の中、雪の降る中、暗くもなって、坂を上りお墓を越えて、何時間かかったんだか思い出せないくらいです。
辿りつけば何とかなる、という思いだけで歩きました。90になるおばあさんも歩いたんですよ! じいさん(ご主人)と息子と、着いた頃には夕方の6時半か7時になったと思いますね。山の中ですごく寒かったんです。おばさんの家は、電気も水道も止まっていましたが、ストーブなどの暖房器具があったし、温かいものを飲ませてもらったし、着替えもみんな借りてたから、そこでは寒さは大丈夫でした。4月3日に鱒淵小学校に行く(中瀬町の集団二次避難)まで、そこで家族みんなでずっとお世話になってたんです。おばさんの家があったので本当にみんな助けられました。
この2点間を電気も道もない中を何時間もかけて逃げた
中瀬町の近隣の方は、入谷小学校の避難所に行ったんですが、私は旭ケ丘のおばさんのところにずっとお世話になっていたんで、鱒淵小学校に行ってから一緒になったんですね。同じ部落の人たちが、今ここ中瀬町仮設にいる人たちです。
佐藤区長さんがみんな、まとめてくれて、同じ部落の人たち全員、連れて行ってもらったから良かったんです。知らない人のところにいったらまた、大変でした。みんな一緒だったから助けられました。うちは、おばあさんが徘徊といって、とにかく辺りを歩きたくて、外に出るんですね。それで同じ部落の人たちだったから(事情を心得ていてくれて)みんなで見てもらえたと思います。他に知り合いのない、別の避難所に行っても私ひとりだったらとても出来ないことでした。助けられました。区長さんとは前から知り合いです。行政はまとめてくれないですから、区長さんは大変だったと思う。こんなにしてくれる人は居ないからね。区長さんのおかげですね。
多くのマスメディアが押しかけ、迎える南三陸町長と送る登米市長の涙と激励の中、仮設住宅へ
鱒淵小学校にいたのは8月4日までですかね。登米市にはお世話になりました。息子は鱒淵に一緒にいましたが、娘は仙台でした。
仮設に移ってからの生活で大変だったのは、やっぱり暑かったことです。ここは暑い盛りにエアコンが壊れて大変でした。すごい熱帯夜を扇風機だけで凌いだんです。エアコンは、なんだか修理依頼が一杯で、混んでるみたいで直してもらえなかったんですね、そのときは。いまは大丈夫です。防寒対策はのんびりやだから、まだ何もしていないです。コタツやカーペットが用意して頂けるような話があるもんですから。ストーブもいいけどストーブは危ないなと思って。狭いですからね。こないだ気仙沼の仮設でも、ストーブが原因の火事がありましたからね。仮設は全部つながってるから、それが一番危ないですからね。
仮設住宅はウナギの寝床みたいに狭いですね。自宅はそんなに大きくなかったんだけど、それでもこの仮設住宅の中に暮らしていると、柱にぶつかったりすることもあり、狭く感じますね。6畳とお風呂ですから。いまは3人(お母様、ご夫婦)暮らしです。アパートなんかと同じですね。片付けといってもほんと狭いとこですからね、なかなかほんとに片付けが片付けにもならなくて。家族5人からは二部屋借りられるんですけど。
今は趣味のようなことはあまり落ち着いてできないです。もうちょっと自由な時間が欲しいな、ひとりでぼーっとしたいな、って思うときもあるんだけど、部屋もないしね。もうひと部屋あればと思うけど、贅沢は言えないよね。ここには、同じような境遇で住んでいる人が大ぜいだからね。ここの部屋割は役場の方で決めたようです。
このあたりはバスは出てて、買い物にいくのも、スーパーの送迎車も1日2回くらい出てますね。自力での買い物は佐沼とか、飯野川まで行かなくてはなりませんので、とにかく足がないとダメだからって今度は軽乗用車を買いました。おばあさんがデイサービスに週2回行ってるんですが、その間に用を片付けるようにしています。買い物に行くのも大変です。ひとりだと自由が利きますが、90になるおばあさんを連れていくのも大変ですからね。だから自由時間はあまりありませんね。
集会所はよく来てますよ。ボランティアの人はじめ、みなさんにお茶を出てもらっています。
この辺りに、流された家があったんです。そこで畑でいろいろ作ってたものですから、仮設(の一角)でも畑で作ってるんです。この間、家のあったあたりを見に行って来たっていう人がいたから、「家あったろ?」ってきいたら「家ない」って(笑)。
*集団移転を報じる記事が、河北新報社 KoL netにあります。
「地元に仮設 95人が集団帰郷 南三陸・中瀬町区住民」(2011年8月5日)
津波で残ったものですか? 流された写真のうち、スナップ写真ですが娘の結婚式の写真など、小さいのだけは見つけてもらったりしました。
それと、なんか帯が千切れてあったのが「ああ、これ、私の帯だぁ」って分かったというのがありました。写真も、帯も、ずっと遠くのほうへ流れて行って、あっちのほうにはあったんですけどね。帯なんて、30何万で買ったのに、1回も締められなかったんです。それが木に絡まって、これそうかなぁ、ってやっと分かるくらいに千切れて。そのあとは何にもないね、見事に。どこに行ったんだろうって思いますね。
どこの家だって布団とか、そういう大きなものも無かったんですよ。ちょっと歩いて探してみたんですけど、ほんと何もないの。ビニールハウスとか、建物とか、形あるものが粉々で何もないですしね。瓦礫の山はこれでもだいぶ片付きましたけど、津波直後はすんごかったですから。あの時流された車もずっと奥の方の川で、ぺしゃんこになってありました。「まさか、まさかここまで!?」と思うぐらい来たんですね。チリ地震津波の時とは全然違います。
津波の後は、物忘れがすごく、ひどくなりました。前からひどいんですけどね、ほんとに、もう大変。頭にいいとこがちょっとあったんだけど、そこが津波で流されてしまった(笑)。
家が欲しいと思うけど、この年になって、何千万も借金して家建てても、息子だってここに帰ってくるかどうかわかりませんし・・・。仕事も(ここには)ないですからね。それに借金なんか残されたらどうしようか(笑)って、そういうのはありますよね。しかも、土地も使っちゃだめですからね。田んぼだって、みんな海水に浸かってしまったし、高台がないですからね。あるとしても、この上の山しかないです。まさか山に家なんか建てられませんものね。もっと若い時なら、もう少しいろいろな選択肢があるんでしょうけど。この2年は仮設にいられるけど、どうしようかなと思ってますね。もとの住宅街がすぐには家も建てられないし、今までいた土地がどうなるのか、そういうのがわかんないと動きようがないですよね。(談)
10月15日、手塚和子さんを囲んで、聞き書きメンバーと
志津川郵便局
モアイをかたどったモニュメント
写真提供:nasurio 「童話/ペルガリッサ市奇談」
市街地のようす
写真提供:M35-FLO「STAGEAと走れ!」
[取材・写真]
2011年10月15日
▼
深大基
善田真理子
山井沙耶
伊神巨樹
林翔
2012年2月18日
▼
河相ともみ
織笠英二
久村美穂
中村道代
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年3月31日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net