東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

自分史

歌津に生きる
小野寺弘司さん[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]

マツモの石鍋

はじめに ~担当者からのお手紙~

小野寺弘司さんと初めてお会いしたのは、2011年の秋のRQシンポジウムの時でした。

遅れていった私は、たまたま空いていた主賓席の後ろの席に座り、落ち着かない感じで次の部の公演を待っていました。そんな私に声をかけて下さったのが小野寺弘司さんでした。ひまわりの会であることを教えて頂き、私も今年は種を蒔きに行きたいと名刺を交換しました。

その時から「聞き書き」に参加しようと決めていました。その「聞き書き」のリストの中に、お名前があり、少し嬉しくなり、また私が行かねばと思い、2回目からお話しを聞きに伺い今に至った次第です。

歌津でお会いした小野寺さんは、東京でお会いした時よりも、もっと大きくて、暖かいオーラを感じました。何だろう? これは? 自然と向き合って生きていらした方だからだろうか? 
お話を聞いていくうちにだんだん解っていきました。

歌津で生まれ、豊かな自然にいだかれて育ったわんぱくな少年時代。その頃の子供たちは知っていました。既製の玩具はないけれど、実は想像力を働かせれば、遊べる道具は自然の中にいっぱいあることを。
山の木だって、石ころだって面白い遊びが出来るってことを。

青年時代、漁船漁業の仕事を始め、自分の力と知恵で、自立した人生を歩み始めます。精一杯働いて、思い切り遊んでいた、生き生きとした小野寺弘司さんが感じられます。

そんな中、奥様と出会われ、結婚されてお子さんもできて、家族を守る家長として、これからの生活を考えワカメの養殖を始めます。
そして家族を守ると共に伊里前契約会に入り、地域の為にも活躍されます。時を追って小野寺弘司さんの人生には、大きな責任が課せられます。しかし、それを果たすことによって大きな自信が蓄積されていったのではないかと想像しました。

そして震災の時、饒舌ではないけれど、機転の効いた判断力と実行力に、地域のみなさんがどれだけ助けられ、そしてどれだけ励まされたか計り知れません。
暖房もなかった避難先で焚き火をして、みんなを暖めたお話を聞きながらその情景が目に浮かびました。
小野寺弘司さんの焚き火をしている後ろ姿と、あたっているみんなが、焚き火の火で顔が明るくうつし出され、少しの温もりを感じている様子です。

この自分史に、そんな小野寺弘司さんの後ろ姿を描くことができていたら、うれしく思います。
長い時間にわたり、お話くださった小野寺さんに、この場を借りて御礼申し上げます。

2012年4月吉日

RQ聞き書きプロジェクト 一同

1 戦後すぐ歌津に生まれる

私は終戦の1年後の昭和21年3月25日、伊里前で生まれました。

歌津駅から見える三嶋神社の鳥居がありますね、あそこから2番目くらいのところに本宅がありました。実家とは言いません。本宅です。

親父は農業をやっていたのかなぁ。年とってからなんぼか漁にもいくようになりました。まだ私たちが小さい頃だったね。養殖事業が盛んになって、それをやるようになりました。親父はいろんな仕事をやっていました。農協で、今で言う20トンか30トン位の船かな、その船の荷揚げもやってました。それは今で言うアルバイトですね。時期的なものなので。木炭の炭の時季や米の時季にやっていました。トラックがない時代ですから。船しか運ぶ手段が無かったです。その仕事はいったん船から荷物を揚げて、馬車で農協の倉庫に運んで、馬車から荷物下ろして積み荷して行くんです。そういう仕事をしている人は何人もいなかったよね。そういう人は若いうちに亡くなりました。うちの親父も62歳ごろに亡くなりました。

母は畑だの手伝いをやっていました。母にはずいぶん叱られました。悪い子供でしたからなぁ。いつも悪いことをしてたよ(笑)。今みたいに食べ物がなかったですから。昼でも夜でも集まって遊んでましたから。

母は去年の8月10日くらいに亡くなりました。91歳でした。それも私が遊びに行ってる途中に電話貰って、今からつつじ苑から志津川洪竜寺に運びますから、って言われて終わりでした。2人の生まれた年は覚えていません。

わたしの兄弟は4人ですね。私は次男坊です。男ばっかりです。昭和19年生まれ兄とは年子でした。

だけど兄は東京で26歳で亡くなりました。刑事をやっていたんです。昭和39年の私が就職したばっかしの頃かなぁ、秋には東京オリンピックがあったから。

すぐその下の弟は3つ違いですが、千葉に行って、今年の2月に亡くなりました。その下は気仙沼の小池消防署員です。正義感が強い兄弟って? そうでもないですね(笑)。私みたいなものもいるもの。

一番下は7つ違いです。7歳も差があると可愛いって? 男兄弟ですから(笑)。弟を海藻採りに連れて行ったりしました。兄弟はみんな腕白でした。兄弟だけでなく海に行って遊ぶような連中は、みんな腕白なんですよ。私が家を継いだのは兄が亡くなってからです。


2 みんな自給自足の暮らしだった

私が子供の頃、うちでは米、大麦、大根、白菜を作ってました。家で食べる分を採って、残りを農協に売って。私が生まれたこの辺の人たちは、食べる分は自分とこで採ってたんじゃないかと思います。

海のものも豊富でしたからね。自給自足できる感じですね。海藻、アワビ、ウニ、あとはタコ。そういうのがいっぱい、獲れたんですよ。ええ、ごちそうです。


3 腕白だった子供の頃

私も海に獲りに行ったんですよ。小学3年生ぐらいのときには素潜りをして、冬場には、夕方潮が下がりますから、みんなで焚き火して。焚き火の大きなかまどを作った上に石をドンと置いてあっためて、そこにマツモを乗っけて食べたんです。マツモの黄色い色が青々として。物が少なくて、煮て食べる鍋なんかないものですからね。それが鍋代わりだったんだね。

<石鍋のつくりかた>周りに石を立てて、こっちをくいで、ここにちょこっと穴開けるようにして、したらこっちから木をくべて。そんな風にマツモを食べるのは結構ふつうにやっていました。

私が小さい頃、子供同士集まるメンバーはいつも同じで、年上の子がリーダーになって、そういうことをやっていましたね。

海に行かない時は、山に行って。藤の蔓を割って、つないで、長くして。それを大きな木に結わえつけて、ブランコにしたり、そうして遊んだんです。小学3年生ぐらいから中学ころまでやってたのかな。

小さい頃から、昼でも夜でも子供同士が集まる場所があったんです。今の子はそういう場所がなくて

ホントかわいそうです。

私は、遊びに行ってもいちばん小さい方でした。みんな私より4つも5つも上の連中でしたから。

実は、左の手をみんなと遊んでいるうちに神社の上の杉の木の根っこにぶつけて2回も折ってるんです。曲がってるんです、これ。遊びで。昔は海苔の養殖に使うロープを干したんです。そこに石を付けて長く延ばしたんですね。そのロープを木に結わえて、ロープにあがってみんなでブランコをするんですね。私は小さいですから何回も落ちるんです。

みんなで乗っているんだけど大きい連中は先に降りるんです。そしてまたゆするんです。20分、30分最後まですがってるんだ、足掛けて。そしたらもたないから落ちるんです。自然には治らないんで、段ボールを両方にあてて、その上に包帯を巻いて。ギブスにする。

家族には「自分が悪い、遊んでたたき落ったんだ」って。そうしないと一緒に遊んでもらえないんだもの。

それでも楽しかったですよ。毎日学校から帰ると誰か彼か神社の上でおっきな声出して、呼ばるんです。そうすると、みんな神社に登って行くんです。そういうとこしか遊び場がなかったから。国道から行った神社の松の木、あれにも何回も登りました。みんな。そういうのが遊びだったんです。


11月から2月の頃、夜になると大人たちが拍子木もって『火の用心』やるんです。そうやって火まわりしだんだね。そこに行って遊ぶんです。一緒に回ったり。そうやって火まわりしたんだね。一番の焚き火する頃だしね。その時代は火をおこしていたのは薪しかないからね。私も大きくなって家にいた時は拍子木持ってやりました。今はそういうことしないけど。

また冬場の遊びで思い出すのは、ケンケンで戦ったりするのがあったな。

何人かで組んで「殴り込みだ!」ってケンケンをして(相手を)転ばせたら、自分の陣地の中に戻ってきて、最後に何人残ったから勝ちだというような遊びをしました。ジャンケンするような余裕はないんです。殴り込みといっても、本当に殴ったりはしません。

また、そのころはサッカーもやりました。5、6年になってくるとね。野球をやりたくてもバットもない、杉の木だの栗の木だのの枝をバットにするような時代でしたから。最近です。バットだのグローブだのあるのは。サッカーのボールは、今みたいなサッカーボールじゃなくて、ただの赤いゴムのボールです。その空気がなくなると自転車屋の空気入れで入れたんです。今みたいなサッカーボールなんてないですから。


4 漁師としての一歩を踏み出す

小学校は6年、中学は3年までで、高等学校には行っていません。兄貴は行ったけど。中学を卒業して家の手伝いをしても、お金は稼げませんから。漁船漁業に行きました。気仙沼です。その頃で、高校に進学するのは、全学年98名のうち20人位いたか、いないかくらいでした。あとはその頃は東京に就職してたね。

ちょうど集団就職が、金のたまごとして、もてはやされていた時代でしたから。

最初の1年はマグロ漁に行っていました。よく獲れました。釣り方は、延縄って、針と針の間、25メートルくらいあるんなぁ。針をつけて冷凍したスルメをかけたり、サバをかけたり、サンマをかけたりして釣るんです。餌は冷凍庫に入っているものを買ってくるんです。それをその冷凍のまま餌として付けるんです。マグロを獲っていたのは1年くらいだったかなぁ。マグロをやってるとお金にならなくて遊びに行けないもので・・・(笑)。


5 よく働きよく遊んだ独身時代

それで今度は、サケマス漁に行ったんです。当時この辺では、家族から3人位漁へ行くと、家が1軒建ったんです。サケ・マスに4月から行って7月の中頃帰ってくるんです。3カ月くらいです。漁に1回行くだけで結構大金が貰えるんです。この辺は漁船漁業で偉くなったとこですから。歌津海岸地区は。

それこそ御殿みたいな家が建っていました。みんな津波で流されてしまったけれどね。

1年のうちに4月から7月にサケマス漁、そのあとサンマ漁に8月から11月まで行くとその年の漁船漁業は終わりですから、そのあと家に帰ってきて、海苔やらワカメやらを自分で採って、ふたたび漁船に乗る4月までやります。それを昭和53年頃までやってたんです。その間に家を建てました。

サンマを獲るのはあっちまで行くんです。千島列島。四国の香川の漁船会社に11年くらいいたのかなぁ。

23、4歳のときかな。どうだったか、証拠も何も流されてわからないんです(笑)。

香川に行くのは年に2回ぐらいです。4月に港から船に乗って香川に行って1回行って帰ってきて、あと、行っても行かなくてもよかったんです。そういう契約ですから。そのころはお金に困るということはなかったからね。高松から鳴門のあたりまで、ずいぶん、漁船仲間と遊びに行きました。おいしいものを食べに行ったり、見に行ったりさまざまなところに遊びに行きました。女の人と遊ぶ、ですか? そういうことも(笑)。今電話よこしたのはそんな(遊び仲間の)メンバーです(笑)。


6 海苔・ワカメの養殖を始める

海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。

海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうすると海の中で育つんです。そのころ結構このへんに海苔を作ってる人がいました。漁協組合ができたときに作った、何千トンっていう大きな共同の冷凍庫がありましたから、みんなその冷凍庫に置くようになりました。冷凍網が3000箱~4000箱入るような冷凍庫でした。

海苔の方は、塩釜で種をつけて直接もってきて、あと冷凍庫に入れるんです。冷凍海苔ってその頃は主流なんです。いま、宮城県の海苔も半分は冷凍の海苔です。 秋、芽をだして、そのままほかしてやるのと、 その収穫が終わると、今度は冷凍したものを出して網の張替えするんです。1年中、ヒマないんです。松島のへんでやってますね。松島の海苔や明石、千葉だって今はどこでも冷凍網じゃないですか。

私も自動乾燥機を買ってみたり様々なことやってみたけど、今は海苔を一切やっていません。

銀鮭をやったこともあります。みんなこの辺の人は銀鮭でおっきな穴(赤字)をあけたんです。財産売った方もおるし。私は、なんとか努力して、財産に手をつけないでやめて良かったです(笑)。