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私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、暖だけはとれたからね。
女の人たちはかまどを作って、カマとかを拾い集めて、米は応援してもらってきて、そこでご飯を炊いたり、おつゆを作ったり、畑に行って、白菜とか野菜とってきて食べたりしたから、あそこでは良かったんだ。大きいカマがあるからそれにお湯をくんで、顔を洗うとか、なんかほら、寒い時だから、水じゃ大変だからお湯を沸かしたり。いろんなことをやったね。湯飲み茶わんとか探せばいっぱいあるから。洗えば、済むものだから。つつじ苑で助かったのさ。
でもやっぱりあそこに避難しても様々ね。朝ご飯つくらないで、自分の家に何かないかと思って、探しに行ったり、避難先ではろくな手伝いもしないで、ご飯出ればご飯食べて、また自分のものを探しに行って。そういう自分のことしか考えない人たちが何組もあったの。「かばねやみ(※宮城の方言で、本当はできるにもかかわらず、なんのかんのと理由をこじつけてなにもしないこと、またそういう人)」だね。私たちは箸(はし)もなにもないから、竹を切って、竹で箸つくって、そういう応援ばかりしてました。韮(にら)の浜の人たちにも何十本も箸を作ったら、「記念だから、しまっておく」って語った人もいたね。米だって隠しておいたの、すぐには背負ってこれないからって置いといたら、3日もたてば横から穴開けてかっぱらって食べた人もあったし。でもだいたい盗んだ人わかるのね。500円玉入れておいた貯金箱も4個流されて、1個あった~!と思ったら中身抜かれてね、他は拾われて見つかんない。
支援は医療関係の人たちは早かったね。そして3日目か、4日目か、長野からトラックで第1便来て、炊き出しやってもらった。その人たちが今度、炊き出しをしているうちに話し合って、話がすすんで、材料全部長野からもってきて、山に小屋を作ってもらった。
津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
3月11日当日は、お昼食べて、家内と2人でいたんですよ。3月の中旬ですから、寒かったですね。揺れもでかかったし、長かったですが、家のなかは何も倒れなかったですね。玄関に出ると、孫が大事に飼ってた金魚鉢が倒れそうになってました。「これは津波が来るぞ、絶対来るから、逃げろよ」と家内に言い置いて、自分は車を流されてはだめだと思い、すぐ出して、歌津中学校まで持っていきました。一回車を置きに行って、「まだ津波は来ねえな。もうちょっと時間があるべ」と思って、自宅に戻って、寒いなと思ったから、ジャンバーだけ着て戻ったんです。何か持ちだそうと思えば、いっぱい持ちだせる余裕があったのよ。もう、だから、自分自身も甘く見ていましたね。こんな大きい津波が来ると思ったら、いろんなもの持ちだして、車に積んで逃げたと思うんですよ。いやあ、あとの祭りだ。
それでも、一番最初の町の防災無線の放送で、津波の高さが6mと聞いてたから「6mだったら1階の高さくらいまで来るんだろうな」と思って、ただ車のことだけ考えて、他に何も持たないで逃げたんです。「また帰ってくればいい、ここまで来ないだろう」って思ったの。家内も「まあ、また帰るわ」と家の中はそのままで伊里前小学校まで逃げたんです。だから2人でお互いに小学校に逃げたことは校庭で確認できました。だけど、そこも埋立地だから、前のほうが、地割れしていたんです。「地割れしたから前の方に行くと危険だよ」と言われたけれど、かなり裂けていましたね。
公民館のほうに家があったもんで、気になってね。
その校庭まで津波が上がったんですからね。ここまで水が上がったの。すごかったですよ。あっと思ったら一発でドシャーン。家は波がグワーーンと来て、瓦礫がバシャーンと来て、自宅の前までちょっと止まって、それからブワーッと一気に流されていきました。それはもう、水の量がどんどん、どんどん増えて行ってね。小学校の後ろにまた道路がありますが、みんなそこに避難した車を停めてたんですよね。最後の方は渋滞して、大変だったと思うんですが、それがみんな流されちゃったんです。それを見ながら、さらに高い所、小学校の上の中学校に逃げたんです。大変でした。ずっと見てたら私も流されているところでした。
伊里前小学校は、地域の避難所になっていたので、常に避難する訓練していたんですよ。私が思うのにはね、志津川もそうなんだけども、「避難所ですよ」と指定して、しかも訓練までさせて、そこに逃げたのに亡くなった人もずいぶんいるんですよね。この伊里前小学校だって、夜暗くて道がわかんなければ、ここに避難して来られなかった人もあったとおもうんですよ。だから、避難所の指定の仕方も甘かったのかな、想定外ですむのかな、と考えてしまいますよね。
その後、6月15日はうちの父親の命日だから、14日にここの仮設住宅(平成の森仮設住宅)に入ったの。そしたら何も知らないでいたんだけど、いつまでもここに入居しないでいるとカギを取り替えられて入れなくなってしまうんだって。何も勝手がわからないまま、周りにどんな人が住んでいるのかも知らないままだった。私は志津川の人間だからねえ。ここまで来て落ち着いて、みんなにここへ来たのはこういう訳だと話したら、ほっとしたよ。
でも、ここは夜になると波の音が聞こえるの。だからいくら早く床に就いても、その音が気になって寝られなくて、夜中の2時3時になってしまうんだ。そんなことが続いたから、体も心も、頭もみんなまるっきり、言うことをきかなくなってしまったよ。だからね、お世話になってきた人にお手紙を送ろうと思っても、そんなの全然書く気がしなかったの。そうこうするうち、あっという間に1カ月も経ってしまって、いまさら手紙を送るのも恥ずかしくなって、送れずじまい。
そんなある日、お酒を2本いただいて、1本はみんなで分けて飲んで、1本はお世話になった旅館に送ったの。そのお酒は、名足の高台にあって流されずに残った家が3〜4軒あって、そこから呼ばれて「何だろう」と思って行ったら、「お酒があるから」ってもらったものなの。旅館の方からはお礼を言って来ませんでしたが、私も同じようにお礼できずにいたからね。そんな風にいつも悪いことばかり起こるわけではないから、なにかしてもらったときには海藻でも何でも送ってお返ししようと思ってるの。今は旬のサンマでもあれば送ってあげたいけど、今年は無理だね。物資をいただいたときも嬉しくて、こっちで揃えた物は壊れてしまったし、新聞もテレビもなかったから。「ご飯です」って呼ばれて、あの階段に下りて行くと、私は歩けないから、周りの人が行ってくれて。隣のお兄さんに声をかけてもらったけど、あちらも忙しそうなので、お礼も言えないままだ。真面目な人だった。その人のお母さんは具合が悪くて、目も見えなくなってどこか遠くに運ばれてしまった。
津波のときは、自宅から車で5分くらいの場所で仕事をしていました。大工道具のほとんどは家にありましたが、持って逃げることができませんでした。
地震があってすぐに自宅に戻り、津波まで1時間くらいありましたから、部落の役をしていたこともあって、工場の倒れた材料の様子などを一回りして見に行って自宅に戻りました。「親父、そろそろ逃げっぺ。津波がくるかもしらん」と行って、軽トラックに親父を乗せて、丸ノコを積んで高台に逃げました。その時には、隣のおばちゃんとは「来ないべっちゃない。大丈夫だよねー」なんて話をしていたのです。
助かったからいいようなものですが、おばちゃんは波に追いかけられながら逃げることになりました。お袋は高野会館で踊りの発表会をやっていて、400人くらいの人と一緒に逃げて避難所で一晩過ごしました。私たちは大雄寺さんに避難していて、そこでは中瀬町の区長さんも一緒でした。歩くのが困難なお年寄りが30人ほどいて、その人たちを老人ホームにお世話するよう頼まれて一緒に連れて行きました。
気仙沼に姉夫婦がいますが、電話ももちろん通じませんので、「どうしようかなあ、歩いていこうかなあ」と思っていたらメールが一瞬入って、「あっ大丈夫だ」と思って安心しました。自分はいろいろ家族の状況を把握して安心しても、自分から連絡しないもんですから、後でみんなから「何で連絡しない」って怒られました。そういえば、こっちは大丈夫って言ってないなって後で気がつきました。
次の日の昼ごろ、避難する動きも少し落ちついてきて、自宅の近くまで行った時ですよ。初めてああっ、うちもないかなあって思ってね。それまで自分の家がどうなっているかなんて考えもしなかった。大きな建物があれだけ流されているんだから、ウチもあるわけ無いな、とそのとき気づいたんです。
自宅は親父が建てたものでしたが、建替えかリフォームを考えていたところでした。仕事関係の道具が流されたことについては、モノへの執着はありませんが、長年蓄積してきた自分なりの資料がなくなってしまったことがほんとうに残念です。
小学校から20歳位の時のアルバムだけは拾うことができました。皆に「髪の毛がある時代の写真見つかってよかったな」って言われました(笑)。仕事関係の写真はなかったけれど、幼稚園入園、小学校入学から20歳頃迄の写真が残っているのは、思い出があるだけに、嬉しいもんです。
実は私たちが避難所に行ったのは、3月11日から3日間だけでした。あまり長くいられなかったんです。
震災後に、避難所では困っている人たちがいるからと、自主的にウチから毛布なんかを避難所へ持って行ってたんです。自分たちの分も出しました。けど、自分がいざ避難所の中へ入ってお世話になろうとすると、「自分の毛布くらいは自分で持って来い」と言う人もいました。だって全部出してしまって、自分たちの分なんかもう無いのに。誤解なんです。でも、そういう風に言われているのを回りの人が聞いて、「だったらこれを使ってください」って分けてくれた。それでも、長くはいられなかったね。
いま避難所にいる人たちも大変だと思いますよ、いろんなプレッシャーや人間関係のストレスなどで。何が辛いって、これが一番辛いんじゃないですかね。トイレだって夜遅くなっても戸外の寂しい場所に行かなきゃいけない。ウチの奴なんか、もう年だから誰も襲うような奴はいないと思うけど、でも、怖いから、懐中電灯ともしながらついて行ってやらないと。そういう思いをしながら、あの避難所に長くはいられないですね。
ボランティアさんが支援物資を持って来るでしょう、そうすると、物資の奪い合いじゃないけど、「あれを持って行っちゃった」とか「みんなにあれを渡さなかった」とかいう話になる。ボランティア的なことをやろうとすると、「なんで余計なことするの?」と言われるし、炊き出しをすると、かえって非難されたりして。やろうとする方は親身になってやっても、それがあだになってしまう場合があるわけ。信じられませんでした。
最初に来たボランティアさんに対しても「あとでお金を取られるんじゃないか」って、そういう相談を受けたことがありました。「そんなことないんだから、もし心配だったら、来た時に聞いて、有償だったら受け取らなければいいんじゃないか」って言ったんですよ。それでその人は持ってきてくれた人と笑いながら話をして、結局貰うことができたんだけど、それに慣れてきてしまうと、貰うことが当たり前になってしまうのね。要らないものまで貰う、なんでも貰うの。
それってちょっと違うんじゃないの?と思いましたね。もっと困っている人がいっぱいいるから、そういう人たちに分けなくちゃいけないんですよ。だから、ウチでいったん貰って、ほかの人にも渡そうっていうことになって、ボランティアさんを中継して、そこが直接持っていけないところの人に、ウチに取りに来てもらうようにして渡していたのね。ウチから持って行ってもらうのであれば問題ないということで。今もしているんだけどね。
そういうのを見られると、結局、全部ウチがもらっているんだろとひがむ人がいたりする。普段、そんなことはないのにね。直接文句を言われることもあるし、間接的に態度で示してくることもある。昨日、あんなにコミュニケーションうまくいっていたのに、次の日顔を合わせたら顔をフンっとされて。こっちは下町育ちだから、挨拶ぐらいすれば良いじゃないかって思ったこともありました。
普通の時は、本当によくしてくれるんだけど、震災がきっかけで、ガラッと変わっちゃう人も中にはいるのね。そういうのが本当に辛かったね。
気仙沼線が通っていたんだけど、津波でその陸橋も砕け散っちゃったし、道路も寸断されて、家も基礎だけ残して、何から何までみんな流していっちゃった。見てみるとわかると思うけれど、本当にあそこまでなっちゃうのかなと。
残ったところは、砂が20~30センチも溜まっちゃって全然使えないし、ガレキがものすごいんで、片づけて、歩けるようになるまでに2~3カ月かかったんです。だから、みんな避難所に避難していたんです。
私たちは家は津波ではやられなかったけれど、2回目の4月7日の地震の時に、揺れが少し強くて、古い家だからちょっとずれてしまった。大規模半壊ってやつ。役場の人が4人くらい見に来てくれて、罹災証明書もいただいて、色々とお世話になったんだけれどね。
そのときに、ウチの奴がこのままじゃダメになるから、おかしくなるからって避難所に行きました。支援物資も避難所には来るのだけれど、ウチみたいに家が残ったところにはなかなか来ないんです。だから、避難所にもらいに来ていたんだけれど、いい顔されないんですよ。炊き出しを食べに来るのは良いけど、物資をもらいに来ると、「避難所が優先だ」と言われて、そういったことが厳しかった。
そんなときにあるボランティア団体が、避難所では物資が行き届いたんで、今度はウチみたいに家が残っているところで困っている人がいるのではないか、ということで来てくれた。そして、水だとか支援物資を持ってきてくれて、定期的に電話をくれて、また様子を見に来てくれたりして助かったんです。
それまでは水が本当に不便で、20リットルのポリ容器を5つくらい買って、消防署やはまなす(老人養護施設「はまなすの丘」)の方にある自衛隊の給水場所に車で行って運んでいたのね。それが終わると、蕨野(わらびの。気仙沼市本吉町)に自然の山からの湧水が流れる水道管がある、とそこを紹介されて、今度はそこに汲みに行って。もう1日おきなので重労働でした。重い容器を家の中に入れるのも大変。肩、腕、腰と、おかしくしちゃってね。でも、やんなきゃいけないからね。重すぎて持てないから、ウチの奴にやれとも言えないし、大変な思いをしました。
ついこの間、やっと水が通りました。電話が一番最後で、1カ月前くらい前に通りましたが、その2週間前くらいが水だったの。
それから避難所で生活して、ここの仮設が当たったんです。6人家族で食料も何も持たずに逃げたからね。
私は戦争中と戦後の物のない時代を知っているから、今、このように不自由になっても、そんなに苦には感じません。当時のやり方も覚えているからだと思います。それでも、仮設に入る前の晩だけは眠れなかった。だって、避難所で、夜の8時過ぎに「話があります」って呼ばれて、「仮設が当たった人は、明日の10時から、ここの集会所で説明会があります。説明会が終わったら鍵を渡されるので、荷物を運び出してください。夜からの食事はストップです」って言われたの。
米も無い、味噌も醤油もない。あるのは自分たちが食べないで残しておいたパンが10個くらいです。カップラーメンが配布になっても、家族1人の人も1箱、ウチのように6人家族でも1箱。パンだって、ラーメンだって、6人で食べたら2日持たないでしょ。1人の人は12日も食べられるんだよ。本当にあの時は「どうしよう〜」って眠れなかったね。
次の日「避難所に来てください」って呼ばれて行ったら、米2キロ入った袋を2つずつ渡されて、それでおしまい。この時も、世帯の人数が1人でも6人でも2つずつでした。
避難所にいろいろな団体さんが来て、給食支援があるよね? そういう時、私たちもいただきに行くっちゃ。そうすると、何も悪いことしてないのに「仮設来るなー」って言われました。悲しいよね。
欲しい時に欲しい物がもらえなかったからね。暖かくなってから冬物をもらったり。
春休み前で、学校の荷物を家に持って帰って来ていたから、高校生の孫娘は電卓を2台とも流されてしまって、ビジネス科に通っていて電卓試験を取りたいんだけど、電卓がないからそのまま受験できずにいます。試験用の電卓って普通のと違うんだってね。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
2番目の高校生の孫は、志津川で、いつもは地震になると学校は子どもを直ぐに帰すんだけど、あの時は学校が子どもを出さなかったから助かりました。
帰るつもりで駅へ行っていたら・・・。志津川駅も津波で流されたからね。
あの日は寒いからカーテンを体に巻いて寝たそうです。志津川からここまで歩いて帰ってきたの。地震の後3日目の朝から歩き始めて、山伝いに来て、後ろから来たトラックに途中まで乗せてもらって、前を見たら剣道の先生の車がいたから、今度は先生に声をかけて歌津まで送ってもらって、ようやく帰って来ました。大きな男の孫もその女の孫も、2晩帰って来なかったから、もうこれはダメだから、「行方不明」と書けって、避難所で責められたんです。本当にその時は辛かった。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
一番大きい孫は、気仙沼の船のエンジンを直す会社で働いていました。気仙沼の鹿折(ししおり)という所です。津波が来て夜に火事になった所です。いや〜私、死んだと思ったんだー。だって、海と道路一本隔てただけの会社です。後は堤防があるだけ。
「津波が来るから早く逃げろ〜」って会社の上の人に言われたんだけど、パソコンで、ここに何千万円っていう会計があって、自分には責任があるから「これ、どうするんですか?」って。「そんな物いいから、逃げろ!」って言われて車で逃げて、まだ2年目で気仙沼の市内はそんなに詳しくないから渋滞に巻き込まれて、空いてる方へ行ったらお魚市場に出て、そこの屋上も津波の避難場所に指定されていたから、車を降りて駆け込んで・・・。危機一髪で助かったそうです。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
私の妹は歌津に嫁いでいて、なんとも無かったんです。それで、妹の家からバッテリーだ、車だ、って借りてきて、下の避難所に貸していました。それに、ウチは歌津のお客さんが多かったから、いろいろな情報が入ってくるんです。聞くと、歌津と小泉では様子が違う。あっちは支援物資が来たのはみんなで分けて、食べる物も支援があって、ご馳走になって・・・って聞くんです。
ところが、ここは、私たちが入った時点で200人の食事を私たちが作って食べて、いろんな物資は来るけど「ありがとうございます」って頭を下げてもらって、そのまま上の体育館に上げさせられるんです。水も上。ペットボトルに入った水じゃなくて、四角い箱に入った下で開けるタイプの水も全部。だから、水を飲む時は自衛隊が持ってきてくれたタンクの水を飲むんです。凄い塩素臭くて、コーヒーの味も「変だよね?」って言うくらい。公民館の館長さんがリーダーっていうか、その人の指示で避難所は動いていました。
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。