山内さんは、神様と市井に生きる人々の仲立ちをする神主さま。歴史ある小泉八幡神社の儀式のおりには、近寄りがたい厳かな雰囲気をたたえつつも、同時に小中学生にとっての先生の顔を持つ山内さんの人柄を映して、その場の空気も緑深い森の朝のように、澄んで温かいものになるようです。
生涯の大半をおおぜいの子どもたちと過ごしてきた山内さんにとって、子どもへの愛情は特別なもの。育ててきた子どもたち、その思い出の話になると温かい雰囲気が流れます。子どもがまっすぐに育つために大人はどうあるべきなのか、マニュアルや指南本に翻弄され、本質を見失いがちな現代の大人に山内さんが語りかける言葉は、重みがあります。
また、これをお読みになるみなさんに、山内さんの故郷小泉への想いがなぜこれほどまでに強くなっていったのか、お父様、お母様との思い出、小泉で経験した子ども時代の沢山の思い出から感じとって頂ければ幸いです。
貴重なお話を長時間に渡り聞かせてくださった山内さん、そして奥さまにこころから厚く御礼申し上げます。
2012年11月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
山内義夫さんと奥様、仲睦まじく
写真を撮らせてください、とお願いすると
「写真を撮るんですか? 心臓弱いもんですから、
すぐ血圧が上がってしまうんですよ。ハッハッハ」
と笑っておられた、シャイな山内さん。
私は昭和2(1927)年8月5日、ここ小泉に生まれました。
私の父親も教員で、本吉町大谷の小学校中学校に勤めていました。自宅は小泉でしたけども、その当時は、教員が転勤していくと家族が全部移動して、そこの大谷の学校の校舎のすぐ隣の住宅に住まったんですね。私はそこで生まれたんです。母親は、ミシンかけ、昔は裁縫と言いましたが、そういうのを近くのお母さんに教えていました。
学校のすぐ向かいにお爺さんがいて、良く可愛がられました。大谷の海岸にお爺さんの船があって、アワビや、ウニを獲る漁をしてたんです。ときたまその船に乗せて遊びに連れて行ってもらいました。
そのうちにお爺さんがずいぶん年配で亡くなって、だいぶ年月経ってから、その家の息子さんのところに、「あの、山内っていうんですが、お爺さんにお世話になったんです」って言ったら、覚えててくれましてね。「ああ、よく来てくれました。ほんとにめんこがった(可愛がった)親父は亡くなりましたけど、何かあったら私も親父のように船に乗せて行きますからね」って言ってくれたんです。そんなわけで大谷は一番、印象深かったです。
昔は兄弟多かったんですが、うちも5人兄弟でした。長男、次男、長女、三男が私、5人目は次女。一番上の兄は、戦時中、21歳でニューギニアで戦死したんです。日本の国がだんだん悪くなって来たころで、死んだんだけど骨もなにも還って来ないんですよ。母親が嘆いたんですよね。「お国のために死んだのになぜ何も来ないのか」ってね。それで2番目の兄は50歳で病気で亡くなりました。長女は病気で亡くなりましたので、今残ってるのは私と妹ですね。
小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病気になって、夏休みには小泉に帰って来たんですね。
そのころ、前から夏休みになると、母親に連れられてこの小泉で遊んで行ったものです。そのころの小泉のイメージは、自分で画用紙にクレヨンで描いた海水浴場のものなんです。夏休みなるとしょっちゅう遊びに来た、思い出の多い赤崎海岸の絵です。
たぶん、小学校1年生頃に描いたと思うんですが。その海水浴場は水平線があって、下の方に松があって、すぐ近くに矢倉みたいな飛び込み台があって、そこに人が1人立ってて、1人が中間で逆さになって飛び込んでる姿、もうひとりは飛び込み台の真下に居て万歳している。子どもの絵ですから遠近法って言うのはないんですね、物理的に不可能な絵です。
写真提供:ブログ「bigtree」大谷海岸、2008年
津波の前ですが、その絵を子どもたちに見せたんですよ。「何でこんな絵描いてるの?」って言われました。この絵は、小泉の家の蔵の2階の方に包んでしまってあったんです。
思い出の海岸は、綺麗な海水浴場があったんだけども、今はもう、津波で松林もありませんし。白砂青松ってことばがあるんですけどね、その海岸もいまなくなってだいぶ海が深くなってきてますよね。小泉の人間として非常に情けない、そういう気持ちですね。
もう一つ、画用紙にお祭りの絵を描いたものがあったんです。地面を描いて、神社を描いて、そこに打ち上げ花火が描いてあるんですね。ああ、これは神社のところに花火があったんだ、小さい頃は八幡神社のお祭りのときには花火が上がったんだなあと思いだしましたね。子どもにも「お父さんが小さい頃にはこう言う風な花火があったんだよ」ということを教えてやったりしたんです。
神社の花火を上げた筒は、今は鉄なんですが、その当時は金属は無かったもんですから杉の木を割って、くりぬいて空洞にして、それを竹のダガ、桶なんか作るときに竹を細く切って編んでグルグル回すあれで、合わせて作ったんです。
それが、神社の縁の下にあったのを、だいぶ物心がついたときに見つけましてね。3本ぐらいありましたが、だいぶ年月が経っていて、竹は割れてしまって、合わせた奴が離れてしまっていました。
大人になってから、大工さんに、「古い奴はもう駄目だから、模造品をつくってくれねえか、昔小泉のお祭りの時に花火を上げた、そのひとつの名残としてひとつつくってくれねえか」ということでお願いして、2本ばかり作って貰ったんですね。それと、古くなってどうしようもなくなったのにはシートかけて、神社の拝殿の中に置いてあります。小さいころに小泉の神社の花火を上げたんだな、という思い出が大事にとってあるんですね。
小泉の花火って言うのは当時有名だったそうなんですね。岩手県の方まで応援に行って花火をしたそうなんですけど、その時に昔の家は今のような瓦じゃなくて草ぶきの家が多かったもんで、近くでどんどん花火を上げたら落ちて行って火事になってしまう。そして小泉の花火師がつかまったりしてね。そしてその後小泉の花火も駄目になってしまったんですね。
火薬の配合法など、いろんな記録はあったって聞いていました。たとえば火薬には炭の粉と魁皇の粉とか赤リンとか3種類くらい擦って粉にして、合わせるといい綺麗な花火になるからとか、他の人に読まれると他の人に秘伝が盗まれるから、暗号で書かれていたようですね。今の人たち見たって分かんないんですね。
ある家でその記録を持ってるって聞いたんですが、行ってみたら「ありませんね」って言う事だったんです。そういう記録がここ小泉の大事な大事な財産だったんでしょうけど、今は記録は無いんですよね。花火を上げた筒はあるんですから、それだけでも誰でも見れば分かるってことですね。文面がないんですね。
小泉地区にはそういう文章っていうのが今ほとんどないんですよね。先日も地元の小学校の子どもたちが学校から「郷土探検」っていう授業で来た時に、「昔小泉で花火を上げたんだよ」と筒を見せて話してやってるんです。
私も津波の前には、小泉の地区の歴史についていろいろ調べていたんです。東北の葛西家っていう偉い殿様がおったんですけど、『葛西四百年』っていう資料を書いた学者で佐藤正助(ショウスケ)さんという方がおられます。志津川南三陸町の歴史の非常に詳しい方で、津波でも無事だってことは聞いていました。
地域を丹念にあるいて、見つかった墓石の上に書いてある字を読んでいくことが大事だとおっしゃってるんですね。見ていくと、いろんなところに石があるんですね。昔の石ですから、綺麗に字が見えない場合が多いんです、それを読むのが大変だったそうです。山に行くのに、ぶつけたあとのいっぱいあるようなオンボロ車に乗って各地を歩いてるんですよ。
津波のはるか前にですけど、その佐藤正助さんに、「小泉の歴史は何も無いからおれが行って応援するから調べろや」と言っていただいたこともあります。ですから、そう言う小泉地区の歴史を読み返していかないと、ここは津波でいろんな貴重な資料がだいぶ流されていると思うのでね、なんとかしなければとおもってんですけどね。私の家にも沢山あったんですけど、何にもなくなってしまって残念の極みです。
私は小学校3年生の夏休み、父親が病気になって、小泉に帰ってきたのですが、父親はその年、42歳で亡くなったんですね。
8月の暑いさなか、母親が、父親の枕元にみんな集まれって言いました。母親は、「父ちゃんは間もなく死ぬんだ。死ぬっていうことはあと、この世の中に生きてこられないんだよ。お前たちはこの家をしっかりやっていかなくちゃだめなんだよ」と言いながら、ガーゼを割り箸でつまみ、水を浸して「末期の水」で、父親の唇を濡らしてやったんですね。私たちはおんおん泣きました。そして母親がやったように、こうして脱脂綿で唇をこうして濡らしてやって。その時でさえ、母親は涙を流さないんです。気丈な女性だったんですね。
仙台に戻れなくなったって言うんで、2学期からは小泉小学校に転校しました。
小泉小っていうのは私が小さい頃は公民館のところに建物があったんです。その頃、仙台なんて都会、小泉は田舎なんですよ。仙台の学校では入学や卒業の時は、白い襟のついた紺の制服着用だったんです。
転校した初日ときに、「今日は転校式だからちゃんとしなさい」って言うから、その制服を着て、ランドセルをしょって小泉小学校に行ったんですよ。そしたら小泉小の子どもたちがみんなジロジロ、ジロジロ見ているんですよ。「なんだこの人たち、なんで俺のことばり見てるんだ」って思ってね。見ると、小泉の子どもたちはみんな、着物を着て、靴もなくて、藁草履を履いているんです。服を着てるのは誰もいない。「なんだその服は」って指さしされてみんなにやじられて、嫌になってね。泣きながら家に帰ってね「こんなの着ない」ってその服を投げつけてね。そしたら母親が「どうしたんだ」と。「こんな服は誰も着てないから、みんなと同じ着物ねえのか」と言ったら「着物がないんだ」「いやだいやだ」。とうとう別のを着ていったんですけどね。
母親はすぐ隣の南三陸町歌津の医者の長女で、裕福な家庭の生まれでしたが、親父に嫁いだんですね。その当時の教員って給料いいほうでしたからね。わりと生活は裕福だったと思うんですが、小泉戻って間もなく、給料取りだった親父が亡くなってしまって、うちはとたんに生活に困って来たんですよ。
そのころの、小泉地区っていうのは非常に貧しかったんですね。中学校卒業したあとの集団就職なんてねそういうことにもつながってくわけです。そのあと母親は母親は和裁を教えていたんですが、子どもを5人抱えて、苦労したようです。
子どもを抱えてどうして暮らしていったらいいか、考えたと思います。やったことのない畑を耕して、ストーブだとか電気だとかそういうものが無い時代でしたからね。山に行って枯れた木を切ってきて、それを燃やして熱源にして、鍋をかけたりしてものを煮たりして食べたりしたんですね。
私もそんな生活していましたから、「なんとかしなきゃなんねんだ、子どもも働かなきゃなんねんだ」ということで、山から木を切ってきて燃料に使ったんですが、その時に地区の友だちと山にいったりした記憶がありますね。
その時に、友だちはみんな上手なんですよ、小さいころからやってますからね。私は木を切る経験なんてないもんですからね、カマが滑って大けがをしてしまいました。
まだそのあとがありますよ。「あ、切った」って思った時に骨がベロンってみえたんです。山に行く時に持っていった手拭いでグルグル巻いてね。そしてなんとか木を持って家に帰って来たんですが、母親は気丈なはっきりした叱りつける母親でしたから、「これを母親に見せると叱られる」と思って、母に見せないようにしたり、わざと平気な風にふるまったりしていました(笑)。そしたら夕飯の時に、どうしてもお椀をつかむのに見せなきゃなんない。とうとう見つかってしまってね。「なんだ、義夫。怪我して来たな!」と叱られたんですね。
そんときの言葉が忘れられません。「今日カマで手を傷つけたってことは体の一部分なんだ。その体はお父さんお母さんから貰った体の一部なんだぞ。それを傷つけたって何事だ」と。「自分の体って言うのは、父ちゃん母ちゃんからもらったんだ、これは大事にしなきゃなあ」って、母親に教えられたんですね。そんなことで母親は気丈だったもんですから、オキシドールを塗って貰って、ギリギリと包帯で巻いてもらいました。
お祭りの時に、小泉の川の方でサケ漁の祈祷をやっていたのを覚えていますね。小学校の低学年くらいの頃でしょうか。サケ漁は昔から小泉地方でやってたんですね。
それで祖父が、朝、サケを獲る漁師が寝泊まりしてた川沿いに行って、「今日も大漁になるように」と祈祷するわけです。孫である私の役目は、小さい太鼓を背負って「さあ、行く行く行く」って祖父と一緒に行って、ご祈祷の間はいて、太鼓を背負って、サケを1本もらって家に戻るんです。祖父は、帰らないで、そこでお酒を飲んだり、ごちそうになります。
私は身体が小さかったから、家まで持ってくるのが重くて大変だったんですよ。祖父が帰ってくると「あ、今朝な、ごくろうさん」って、お小遣いをもらいました。そんな祖父の思い出が、ありますね。
この八幡神社の宮司は私で17代目。それを書き残した文献も全部流して手元にはありません。どこかにあるはずだと思って宮城県神社庁に連絡して、もし文献があったらば欲しいとお願いはしているのですが。記憶にあっても、文献が全部ない、それが一番残念ですね。小泉小学校の子どもたちが、年に一度の「郷土探検」で、担任に引率されてこの八幡神社に来るのですが、そのときに神社の由来なんかをわかりやすく説明するんです。
歌津伊里前(うたついさとまえ)の母親の実家に、母親の妹がいて、医者をしていました。ある日、母親に呼ばれて「おばちゃんとこに行くと、小さい子ども用の自転車を買ってもらえるそうだから、伊里前に行ってみろ」って言われたんです。その頃、子ども用の小さな自転車っていうのは、小泉に滅多になくて、2人か3人の子どもが乗っているだけでした。私は自転車が欲しくて母親にもそういうことを言ったのかもしれません。母親には買ってやる財力はないもんだから、あまり言わなかったんですけど。
それで学校が休みの日曜日に、バスに乗っておばの家に行ってみたんですよね。おばは、「おお、よく来たな、いい自転車買ってやっからな。今晩泊まっていきな」と言う。だけど、次の日には自転車は来ないんですよね(笑)。「おばちゃん自転車どうなったの」「自転車屋さんに注文してあっから来るよ」。
それで次の日の朝は月曜日ですよね。「学校あっけども、小泉の学校にいかなくていいんだよ、ここの伊里前の学校にいったらいいんだよ」っておばがいうもんですから、おばに連れられて行ったんです。そしたら「新しい生徒が入りましたから」って、みなさんに紹介されたりして、なんかへんな感覚なんだね。「あんたの席はここですよ」って授業みたいなこともやらしてもらった。
その日おばの家に帰って、「おばちゃん、自転車まだこないね」「ああ、そうか、自転車屋さんには注文してあるんだけど、ちょっと遅くなるかもしんないな」という返事です。子どもでしたから、騙されるなんてことはぜんぜん考えてもみなかったんです。思えば、母親がわりと経済的に恵まれませんでしたので、おばが結婚しても子どもができなかったので、母に私のことを継子にくれと話をしていたらしいんですよ。内々に話が決まっていたんですね。
そして、そんなことしているうちに1週間経ってしまったんです。そして土曜日になって、午前中で学校は終わり。そのころになると、おばのいうことがおかしいなと子ども心に、わかってきたんだよね。そして本当に自転車を注文したんだかどうか、確かめに行ってみようと思ったんです。
自転車屋さんに行って、子ども用の自転車あるのかないのか聞いたら、それらしきものがなにもない。「あら、これ、だまされたな」と思った。ちょうどそのときにお金をいくらかもらってたから、バスの停留所に行ったら、ちょうど小泉方面に行くバスが来たんですよ。「よし、では帰る」ってバスに乗って、小泉に帰ったんです。
そしたら母親にね、もう、こてんしゃんに叱られましてね。「義夫、来い!」って言われましてね。離れに連れて行かれました。「座れ!」って言われましたね。母親に。母親も正座しまして、「なんでお前帰ってきたのや」って。「おばちゃんのところに、さっぱり自転車が来ないんだもの」。
そしたら母親がですね、初めて言ったんですね。「義夫や、お前がおばちゃんのところに行けば、うちで食べられないような、おいしいものを食べられるし、いろんないい服も着せられるし、学校に行くときだって、いい道具も買ってもらえるから、いい思いをするんだよ。だからおばちゃんところに行ったほうがいいんでねえか」
そんなことを言われたって、今更この母親を離れていくなんて、3年生の子どもはどう考えていいかわからない。「なんで母ちゃん、おれ伊里前さ行かなければならないの?」と。「なんで小泉にいられねえの?」と言ったら、母親はなんにも言わなかったんですが、やっぱり最後には「お前が小泉にいたんでは、おいしいものは食べられないから、伊里前に行け」ってそう言われましてね。その時に初めてわかったんだね。真相がね。
「母ちゃん、俺、食べられるもの、食べなくてもいいから、着るものがなくてもいから、おら、小泉にいてえ。母ちゃんのそばにいてえ」とそういうことを言って母親に抱きついて泣きました。母親は私のことを抱いてくれて、父親が死んだときにさえも涙を流さなかった気丈な母親からぽたぽたっと冷たいものが落ちてきました。そのときに母親の涙っていうのはあったかい涙だったと、今にして思います。
そして小泉小を卒業し、経済力に恵まれなかったですから、就職をしなければならなくなりました。最初は、担任の先生が「山内は三男坊だし、小泉にいなくていい人間だから、満州に行け」ってすすめられたんです。
昔の満州っていうところには、満州義勇和軍なんてのがありましたから。それで、小泉小の友だちと3人で満州に行こうかと相談したんです。そのことを言ったら、母親に叱られましてね。
「お前は丈夫でないから、行ったら病気になって死んでしまうぞ」と言われました。「でも友だちも行くって言うし」と言っても母親に反対されました。伊里前の医者をしているおばも「やめろ。行くな」と言って、学校にまで来て、直談判でやめさせたんですね。
そんなわけで私は小学校を卒業して、宮城工業高校に入りました。学費は、医者をしていた母方の祖父から借りて納めたんです。あとで母親に「お前が卒業した時、このくらいお金をおじいちゃんから借りてたんだよ」と言われました。「ああ、母ちゃんそいつは俺が働いて返すから」。私はそう言って、一番給料がいいと思ったところに就職しました。当時は日本とアメリカの戦争の最中でしたらから、多賀城でゼロ戦に搭載する20ミリの機関砲の設計の仕事でした。工業高校出身だったので設計ができたこともあり、ほかの人より少し給料が良かったようです。
終戦になって小泉に戻るとき、退職金がたんまり入ったものですから、学費を借りていたおじいさんに「大変ありがとうございました。お借りしたのはお返しします。」と言って返してきました。祖父は「返してもらった金はあとで持たしてやるからな」と言われましたが、「いや、おじいちゃんそれでいい。いらねえよ。俺が働いたんだから、俺の金だ。だから手元に置いといて下さい」と言って置いてきました。
終戦後、登米郡の南方に日立の疎開工場がいろんな機械を持ってきて農機具を造り始めたんですね。そこがいいからって紹介してくれた人がいて、そこで仕事を始め、2年くらい働きました。そのうち、小泉小時代の恩師の千葉ツトムさんが、「学校の先生になってみねえか、試験受けてみねえか」と勧めてくれたんです。「うん、悪くもねえな」と思って(笑)。そして試験受けたら、運よくパスしました。21~2歳ごろでした。当時は、小泉に学制発布で新しく中学校ができたころで、そこへ行きなさい、というわけで中学校の教員になったと。それから40年も経ってます(笑)。
教員になったときの辞令や、履歴書、等級の辞令には給料まで書いてあったんですが、そういうのもみんな津波に流されてしまったので、あまり覚えていないです。初任給はたしか、300円だったかな。
教科は理科でした。それがね、ある方に、「ひとつの教科でしか教員免許状もってないのは『かばねやみ』だ」。つまり、あんまり勉強してねえやつだと言われたんですよ。「バカなこと言うな」って言ったんですよ。「よし、その頑張って他の免許をとる」と心に決めました。そして技術家庭と美術で免許を取りました。その後は主に理科を教えながら、その学校によって人員が足りない時などに技術や美術を担当したりしていました。
最初に配属になった小泉中学校に10何年と一番長く勤めましたが、その当時教え子だった人はほとんどいい年配になっています。その次がお隣の本吉町の津谷中学校に9年ほど勤めました。本吉町の気仙沼市の支所に行くと、教え子が役所についていたりします。で、そこに行くとお茶しようと語られる(誘われる)もんだから、「なんだおめ、仕事しないで駄目じゃねえか」って言うのに、「いいからお茶っこしよう」と言う(笑)。教え子と居るのが一番楽しいですね。
戦後の経済成長の頃、昭和34〜5年から、40年後半ですね。あの当時ですと、中学を卒業する子どもの40%ぐらいは家を離れて出ていきました。あとの40%くらいは進学し、20%は専門学校的なものへ行きました。地元には仕事が無くて、各家庭はあの頃は生活が苦しかったんですね。
それを見ている15~6歳の子どもたちが「このままでは家の人たちがかわいそうだから、俺が出てって、就職をして、働いてお金をとって、それを親に送ってやる」。そういう気持ちで40%の子どもたちは出てったんです。
そういう子どもたちは「金の卵」と呼ばれて、東北から上野に向かう蒸気機関車にいっぱいに乗せられていくんですよ。煙を吐きながら走る、夜行の汽車です。暑くなると窓開けますから、トンネルくぐると、顔見るとみんな煤だらけで、黒くなるんですよ。
私も同じ汽車に乗って子どものお世話をするのに付いて行きましたが、その時の就職列車の中は、いま思い出しても、子どもたちはよく生きて出て行ったなと思うほどでした。東北から夕方に出発して、夜明けに上野に到着するんですが、次々に駅に停まると何十人もそういう就職していく子どもたちが乗って満杯になっていくんですね。椅子は満杯で、すし詰めです。子どもたちは家から持たされた小さいボストンバッグを膝において、うたたねをしていました。
汽車が途中で何十分か停まるわけですよ。ここは駅かと思って見ると、駅じゃないんです。別の列車の通過待ちです。急行列車だのが行ってしまってから就職列車が通る。つまり暗い、駅でもないところで何十分か停まるんです。私もそうでしたけど、一睡もできないんですよね。
到着すると、汽車ん中までは仲間同士で「なあ、友だちで仲良くすっぺな」と、お話しながら来るんですよ。で、上野にでて、西郷さんのあの銅像まで行く間は、もう無言なんです。上野の西郷さんの銅像のまえに、県単位でみんな集められて、「あなたはどの会社」って分けられるんです。一緒に来た友だちは会社が違えばそこで別れるわけです。「じゃね、バイバイ」とか、そんなもんじゃないわけですよ。知らない土地に来たためか、かわいそうになってしまうような顔をしてるんです。
「誰それさん」って呼ばれて「はい」なんて出て行って、それきりで、別れてしまうだけなんですね。別れの言葉も簡単には言えないような気持ちだったろうと思うんです。そんな風に、上野に着いたとたんにもう、子どもたちはばらばらになるんです。誰がどこに行った、ということも考える余裕もないんです。「今から自分が行くのは、どこなのかな」「どういう会社に入るのかな」という不安があったんでないかなと思いますね。
その後、私は1週間くらいかけて、遠くの方に就職した子どもたちから順に会って、様子を見ながら声をかけてくるわけなんです。「がんばれよ、がんばれよ」「何か家にいい残すことは無かったか」って。「おばあちゃんがいるんだけどおばあちゃんが元気になるように言っててね」などの伝言を、帰ってきてから各家庭に行って「誰それさんはこういうふうにして、こういう会社に勤め、てこういう仕事をして、元気にやってるようですから」って報告をするんです。
その時の心情を新聞に投稿したものが残っています。「教え子に乾杯」っていう題で、集団就職をした子どもたちの境遇を書いたものです。中学校卒業して、すぐ集団就職をせざるを得なかった子どもたちがね、非常にけなげな気持ちを持って行ったんだ、ということを、今のほんとに贅沢な子どもたちに教えたいんですよ。今の子どもたちはなかなか理解できないですね。
ある1人の男の子は、アイロンを作る電気会社に行ったんですが、入社して間もなく、身体の調子が悪くなって会社で亡くなったんです。引率して行って送って帰ってきたころは元気だったんですよ。
私が入社後間もなく訪ねて行ったときに、とってもいい子どもでね、食堂で食べる時に出入り口にかかってる縄のれんを、脇のほうに引っ掛けてくれたんです。そうすると私は、縄のれんに邪魔されないで、行き帰りできたんです。そういう子どもがそういうことをやってね。あ、これはいい子どもだなあってね、思いました。会社の指導する人にもそのことを話して、「会社にいい力になる子どもだから、目をかけてください」って言ってきたんですが、間もなく亡くなったんですね。
その子どものお墓を見るとね、涙出るんですよねえ。家族のために、お金をもらって送るんだ、という気持ちで行った子どもなんだけども、それが果たせないまま死んでしまったっていうことで、だからかわいそうだなって思いますね。
集団就職した中に、今では兵庫県加古川市に生活をしている教え子がいるんですが、その子から手紙が来たんです。「家が貧しいから、私が中学校卒業したらすぐ静岡の方に行って、働きながら家に仕送りをする」と言って富士宮に行った女の子でした。その子は、集団就職のときに会社から評価されて、入所式の時に、何百人か、大勢の前で謝辞をやったんですよ。
しかも「私は高校や、大学にも入りたい」という希望があって、そういうルートがある会社を選んだんですね。そして短大まで出て、働きながら頑張ってやったんですね。いい旦那さんと一緒になりました。
今兵庫にいると、その子どもが手紙を書いてよこしたんですよ。「先生は、こういう方でしたよねえ。私が良い人間になったのは先生のおかげです」、というようなことを書いてくれた。手紙と一緒に、「先生これから寒くなるから風邪をひかないように」って、靴下を段ボールに入れて、これと一緒に贈ってくれたんです。
電話してみたら、私が元気だったって喜んで、電話の向こうで涙声は語ってました。彼女に津波で流された新聞記事「教え子に乾杯」のコピーを送ってあったので、その写しをもらうことができました。
真剣に聞き入る聞き書きメンバーたち
この八幡神社はヨダワケノミコトをお祀りした神社で、天文12(1584)年に建立されました。桃山時代ですね。当時小泉地区には小泉城があって、殿様の三条小太夫近春(さんじょうこだゆうちかはる)が中舘平五郎信常(なかだてへいごろうのぶつね)を宇佐八幡宮にやって、そのころは交通機関も何もないもんですから、1年かけて歩いて行ってね。九州・大分の宇佐八幡宮が日本全国の八幡様の総本宮なんですよ。格が高くなってくると、八幡「神社」ではなくて、八幡「宮」になるんです。そこから分霊してもらったのが始まりなんですね。小泉城の跡は、今朝磯(けさいそ)の仮設住宅のところにあるんです。
この三条小太夫近春は実は謀反をしてるんですよね。別の殿様についていて、少し勢いが強くなったもんだから、伊達政宗が邪魔だからやっつけようということで、船なんかで来たんだそうです。その時に今朝磯や蔵内の高いところに城を作っておいて、そこから伊達の軍船を弓で射たそうです。上から攻撃するのは簡単。それでああいう城をつくってたらしいんです。
お殿様が住んでるお城は小泉城で、海の近くは敵が来たときに抑えておくものです。近春は伊達に口実をつけて呼び出され、家来を4~5人連れて仙台に向かいましたが、途中の桃生(ももう)で、伊達の家来が弓か、槍なんかを持って待ち伏せしてたんですね。近春側は小人数ですから、家来はやられてしまった。近春は近くの沼に身を隠して、しばらく浮き上がってこなかったそうですよ。
なぜそんなことができたかという、おかしな話があってね。近春が小泉の川に馬に乗って入って馬を洗っていると、河童がいたんだそうです。河童が馬に悪さをしていたので、近春が河童を「お前、そんなことしちゃだめじゃねか」っていきなり押さえて、えらく説教したんだそうですよ。「いや殿様、助けてくれたから大事なことを教えてあげます」と、水遁(スイトン)の術っていって、水に長時間潜っていられる術を授けたんだそうです。それで、沼に身を隠したんですね。
伊達の家来は、「近春は死んだ、もう万歳だから帰ろう」と言って去って行った。伊達の家来が帰った時に、近春はこそこそ上がってきて、小泉に帰ってきたんです。次の年になっても、伊達家からまた、「来い」と命令があって、近春も今年はダメだって覚悟したんですよ。「今度行ってまた水の中に隠れても見つかってしまうだろう」と。それで、もう八幡神社のお祭りは見納めだからと、早めにお祭りをやって、そして覚悟して出て行ったんですね。
それで、一般には八幡神社っていうのは、全部旧暦の8月15日に祭典をするのに、8月13日が小泉八幡神社の祭典日になっています。だから、小泉の八幡神社っていうのは、早生(わせ)八幡って近所から言われています。
震災後復活した小泉八幡の例祭
さて、近春はやっぱり、沼に逃げたけども、今度は伊達の家来は魚を獲る網を持ってきて、沼をですね、全部さらってしまって、見つかったんですね。そして、その場で打ち首になった。
首をどこに埋めたかよくわかんないんです。昔、小泉の山のあたりを、何かを建てるためか掘ったら、頭蓋骨がひとつ、出てきたんだそうです。近春の頭かどうかはわかりませんが。沼だったところも、もう平地になって、田んぼになってます。だから、この場所ってしかわかんない。石巻の近くです。
こういう歴史的な話を、毎年神社に来る子どもたちに教えたいと思っても、いつもまとまった時間がないんですよね。ちょっとだけお話したら、あとは、「これは何ですか」と子どもから質問を受けたり、子どもが鈴を鳴らしてみたり、それから梵鐘をごーんってやってみたり、遊んで帰るもんだから。いつかはこういうことを教えたいと思っているんですよ。
こういう話は私の記憶にはあるんだけれども、それが果たしてみなさんにお話ししてやれるくらいの根拠があるのかっていうと、私自身ちょっと、自信がないんです。だから漫談みたいなもんかも知らんですけどね。近いうちに多賀城の資料館に行って文献に照らしてみたい、小泉の話をもっと見つけたいと思ってるんですが。
小泉八幡神社 例祭で子どもたちに語りかける山内さん
小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。
3月11日2時46分、あのときから、津波のことは、ずっと脳裏に刻まれてるんですよ。
私の家はちょっと高いところにあったんで、「津波が来たって家までは来ないから大丈夫だ」ってことで、安心してたんですよ。
地震が起きて、妻は車で外出して家に戻ってきましたが、その途中、ゴオーっと言う音や、ビシビシビシっていう雑音が聞こえてきたんだそうです。それで「これはただごとじゃねえ」ってことで、私たちがサンダル履いて外へ出てみたらですね、すぐとなり50mくらいの距離にある公民館や民家の屋根の方が盛り上がって来たんですよ。津波が来ていたんだね。
「あれ、津波だ、こりゃ大変だ」すぐそこまで来てるってことで、座布団1枚頭に被って、着のみ着のまま、そこの崖を上がっていったんですよ。ちょうど雪が降ってまして、足元が滑るんですよ。ベロベロ、ベロベロ。妻が先に上の方まで逃げて行ったんですが、私はサンダルがずるずるずるずる滑って、しまいに無くなってしまって、探そうとしているところに水が来たんです。
「ややや、こりゃ大変だ」ってことで妻が、上の方から「掴まれ」と手を伸ばしてくれて、私掴まったんですよ。瀬戸際で力が出たんですね。上に上がったところに水がわんわん、わんわん来た。命拾いしたんです。もしあの時一緒にふたりでズルズル滑っていたら、2人とも津波にのまれてさよならだったなって、笑い話にしてるんです。
その後、最初はここの「はまなす」っていうところに1カ月ぐらい避難しました。それからここは事業所で公的な建物ではないということで、あと、ここから車で15分くらいの距離の岩手県津谷川の、閉校した学校の建物に集団で移りました。避難した時には、電話もなにも、通信手段がなく、自分の携帯も津波で流してしまっていました。
また、小泉八幡神社や、私自身の歴史についての記録が自宅にあったのですが、着のみ着のままで逃げたものですから、流されてしまって無いんです。そのことがいつも頭にあるんです。多賀城の資料館にいくらか神社の資料があるんではないかと思っているんですが・・。流された資料は誰が書いたかわかりませんが、漢文で、小泉八幡神社の神職を務める山内家と言うのは、明治5~6年より前は藤原姓を名乗っていた、それで明治何年かに山内姓を名乗ったって、と書かれていたんです。私もそれを見つけて何枚もコピーはしてたんです。それをそっくり一緒にしてたもんですから、全部流してしまいました。
神事を執り行う山内さん
娘が2人いるんですが、次女が神職の資格を持っています。高校の先生をしているもんだから、平日は動けませんが。孫は今度中学校の1年生。長女は仙台に住んでいますが、時たま来て、この仮設に、4畳半に3人で寝る場合もあります。小泉で育った娘たちですからね。上の娘は、大学時代は音楽家でピアノをやっていたんですよ。浜松のヤマハまで行って、自分で見て、弾いてみて、これならいいと言って買ってきたピアノがあったんですが、それも流されて、うちから少し山手の方のお寺さんの近くで潰れて見つかりました。学生は免税になるので、免税の判がぱっと押されていました。それが見えたので、ああ、間違いないな、と。
震災の日は、長女は仙台におりましたけども、次女の方が気仙沼の、南郷って、一番水が来る場所に家があって、そこにいる孫は当時小学校の6年生だったんです。小学校の校長が偉かったんですね。子どもは全部校舎に入れろと指示を出して、校庭を出てった小さい学年の子どもも全部校舎の中に入れて、3階に上がらせたんですね。学校は3階建てて、その上は屋上でした。
その近くが、すぐ気仙沼湾。火出た、その近くなんですよ。子どもたちは暗くはなるし、火は出てくるし、真っ暗になるし、泣き喚いたんでしょうね。次女は、娘が小学校にいるってわかってるわけです。自分は高台の高校にいて、娘は狭くて、低い危険な場所にいるので、連れていきたい、呼びに行きたいと思っても、津波が来てるから行けないんです。夕方から朝まで泣きどおしだったそうです。
娘の方も、母親のいる場所はわかっているけれど、行きたくっても行けないんだね。次の日の朝は水が引けていたので、自衛隊が来て、孫は自衛隊におんぶしてもらって母親のいる高校に連れて行ってもらい、再会できたんです。
この八幡神社の祭典のときには、いろいろなお祭りの道具がありますが、八幡神社に置いておくと人があまり出入りしないので、盗難などの危険があるんです。ですから、神輿のいろんな飾りも全部外して、獅子頭ですとか、天狗のお面だとか、そう言った貴重なものは全部、家に持ち帰っていました。
その中に木の観音像があったんですよ。これは私の家の家宝だって言うことで、お祀りしてあったんですよ。これは大事なものだからって毎日寝るところの神棚に乗せて。別の棟には、八幡様まで行くのが大変だから、私のうちに八幡神社の分霊で、参拝できる場所を作っておいたのです。そこにも観音像を納めてあったんです。それも津波で無くなってしまいましたね。
お正月には、みなさんが神様参りされるときに、いろんな神飾りを作って差し上げておったわけなんです。年寄りたちに聞かれるんですよ、「全部流されて仮設生活している、今年のお正月はいったいどうすんの?」って。
この海岸地帯の神社は、気仙沼市の十三浜や、石巻の方とか、大分流された神社があります。大谷も、奥にも神社あったんですが、流されまして、道路の近くに赤い鳥居だけが残っています。
そういうところにその、伊勢神宮から、天照皇大神宮っていうお札が配られました。お正月どうすんのって言われるんですけど、なんとか、例年並みに神飾りは作ろうと思ってますと。先祖に申し訳ないという気持ちと、地域の方々の心のよりどころがないと気の毒だという気持ちで、例年の通りのお正月をしようと、そんなふうに考えてます。
小泉にお住まいのかたの神棚のお飾り
私は、本吉町の国際交流事業にも関わっているんです。「本吉町国際交流協会」は、平成3(1991)年に組織されて、今も続いているんですけどね、国際交流ですから、特定の国だけでなく、どこの国でも交流していきます。
私の考えでは、「子どもたちに道徳教育を」と同じように、「子どもたちの視野を広くさせ、大きな目で日本と地球を考える大人に」そういう思いで、幼稚園、小学校、中学校の子どもたちと、外国人とを交流させているんですよ。この辺りには外国人は住んでいません。ですので、学校から仙台の国際交流協会に頼んで、そこに登録している外国人留学生のかた中心に、子どもをかけてもらって、年に1~2回、6人くらい小泉に招いています。小学校だと6年生まであるので、外国の方6人呼んで来ると、ちょうど1学年ずつ交流できるんです。
津波の後は県の国際交流との連絡も途絶えてしまったんですが、9月半ばごろ、所用で仙台に行った折、国際交流協会に寄ることができたんです。そしたら職員の方に「ああ、会長さん、生きてましたか」って言われんですよ。その時はすでに会長ではなかったのですが、かつて国際交流協会の会長を勤めていたので、そう呼ばれるんですね。
「いや、会長さんが連絡がぜんぜんとれなかったので、仙台の協会のほうに外国からどんどん電話やメールで問い合わせが来たんですよ」と言う。本吉の小学生中学生と交流してた留学生あたりから来てたんですよね。たった1日、2時間くらいしか交流する時間はなかったのに、母国に帰ってって子どもと交流をしたことを覚えていて、津波があったと聞くと、「本吉の子どもたちだいじょうぶですか?」とか「会長の山内さん、お元気でしょうか」と言ってくれる。
外国の方々も日本を、しかも2時間だけの交流をした子どもたちもですね、心配してるってことを身にしみて感じたんです。そのことでも、国際交流って事業はこれからも続けていかなくちゃならないなと、思ったんですね。
ここ小泉地区には、昔から小さな集落があって、私は宮司として、八幡神社が本務、それから蔵内(くらうち)という浜の地区の祇園神社も兼務しています。
八幡神社の神職は最初、長男がやっぱりやっておったんですよ。長男が戦死しましたので2番目の兄貴が神職を継いだんです。これも病気で亡くなったんで、地区の方々が、「3番目のお前がやれ。地区に神社の神主がいないと、地区にまとまりがないと大変だから、お前やってくれ」ということで、三男ながら神職をしています。
神社のことをお話ししておくと、お寺さんであれば、何宗派、本山がありますが、日本の神社の総本(そうもと)が伊勢の天照皇大神宮、そこが日本の神社の唯一無二の総本山なんですよ。事務関係は東京の代々木にある、神社本庁が執り行います。会議はわざわざ伊勢まで行くんじゃなくって、神社本庁でやる訳です。つまり、伊勢そのものはお祀り、事務的なこと、日本中の神社に何か連絡をするとか、全員で集まって何かやろうっていう時には、代々木でやるんです。全国の神社は所在地によって東北、関東、近畿、九州などというおおきな9つのブロックに分かれ、さらに都道府県ごとに支所のようなものがあります。
今はもう退職していますが、宮城県教育委員会の要請を受けて、中学校の子どもたちに道徳を指導しています。私の担当するのは、宮城県全体ですね。ここ本吉町には、小学校中学校合わせて7校ありますが、そこにはしばしばお邪魔しています。もう20年以上になりますね。どうしてそうなったのか記憶にないんですが、最近の子どもたちは、道徳的でない親の影響で、小学校のうちから悪さをするわけですね。このままいったら日本の道徳は無くなってしまうのではないかと思って、道徳に力を入れているんです。
しかし、一方で「子どもに道徳を教える側の、若い先生自身が道徳について考えているのか?」という疑問があったわけなのです。なので、お話する学校の校長先生にお会いして「子どもたちに指導するより、まず、先生がたに道徳性を教えなきゃ、子どもたちはいい道徳的な人間にならないのでは」というお話をしに、ときたま学校には行っているんですよ。
悪さをするのが低年齢化しているなどと報道されていますが、最終的には子どもを産んだ親が子どもの責任をも持たなきゃいけないと言います。しかし、子どものことで学校に乗りこんできて、「なんで子どもがこうなったんですか、先生が悪いんだ、学校が悪いんだ」そういうことを言う親がよく居るんです。
今の子どもたちは、道徳性がないっていうか、家庭で生活をしていても、親に叱られるってことがあまりなくなりましたね。それで子どもは、特に低学年は、授業中でも走りまわったりしますからね。授業の価値は無いと思うんですけどね。何のために来てるのか。そのかわり教員が、親も子どもも両方面倒みなきゃいけない、そういう時代だと思うんですよ。
私の現職中もよく親から電話が来たんですよ。「今日子どもが帰って来たら、『頭が痛い、先生に頭をゴツンとやられた』って言ってる。なんでうちの子は先生に殴られたのか。その子どもを殴った先生はやめさせてけろ」とかね。「お母さん、先生をやめさせろとか言ってますけどね、甘やかして育てていくと子どもが親を何とも思わなくなって、やっつけてしまうんです。お母さんは大きくなってから子どもにやられますよ」とやんわりとお話していたんです。親に気付かせるということなんですね。
しかし教育の現場にいる人は、年配、若いは関係なく、ある程度自分で信念もってると思うんで、父兄にはビシッと言っていいと思うんです。「このクラスはこういう風にしたい、こういう方法で指導して言って良い学級を作りたい」そういうイメージ信念は持ってると思うんです。それを達成するためには、こういう親御さんがいたんでは難しい、そういう局面で親に、「こういう信念でやってますので、こう言う風にしてください」ときっちり言わないと学校教育っていうのは成り立たないと思うんですよね。
子どもたちをもっと厳しく育てていかないと将来日本の国はどうなるのかな、ていう気持ちがあるんです。やっぱり親って言う立場は子どもの手本になんないといけない。
よく「後ろ姿で子は育つ」と言いますよね。自分がヘンなことやっといて、子どもに正しくやれ、というのはおかしいですから。やっぱり自分は子どもにいつでも見られているし、子どもも親に見守られている、そういう考え方が一番大事なんじゃないかと思うんですよね。
(談)
ご祭神 品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)*別名:応神天皇(おうじんてんのう)他10柱
ご利益 出世開運、武運長久 他
参拝形式 二拝二拍一拝
由緒 天文12年(1543年)に、本吉郡の小泉城主である三条小太夫近春が、家臣の中舘平五郎信常という者に命じ、豊前宇佐八幡宮(宇佐神宮)よりご分霊を勧請し、一村の鎮守として崇敬したことに始まると伝えられる。
当社創建主となる三条小太夫近春が、葛西家滅亡後、伊達家の配下になるが、旧恩に感じ伊達に心服しなかったため伊達に呼び出され、途中、広渕沼にて討伐を受けるがその時は難を逃れることが出来たという。しかし、翌年、再び呼び出しを受けた近春は、今回はばかりは悟を決め、たまたま、その日が神社の例祭日(8月15日)にあたるため、8月12日に例祭を繰り上げ斎行し出発したという。しかし、結局、途中で再び伊達の伏兵に出合い、打ち果されてしまったため、以来、村人たちは、近春の威徳(原文ママ)をしのび、例祭日を8月12日としたという。
出典:神社データベース
聞き書きメンバーとともに
この本は、2011年10月12日、山内義夫さんに気仙沼市本吉町・
はまなすの丘仮設住宅談話室にてお話いただいた内容を
忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
福原立也
深 大基
善田真理子
山井沙耶
渡辺舟人
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[編集協力]
湯田美明
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年5月26日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト