協同組合は中学卒業の前からずっと父が入っていました。親父の代に協同組合法ができてから、組合が3回名前が変わったんですね、最初が『歌津全町漁業協同組合』合併してから『歌津漁業協同組合』今度が、『宮城漁業組合歌津支所』とね。組合組織作るのに、頭数が100人なら100人集まらないと組合が成立しない。そんで最初の歌津全町漁業協同組合の時は、120~30人集まって作ったのかなぁ。その時におやじが組合に入ったんです。
私が組合に入ったのは親父が亡くなってから。昭和53年です。相続をして。それから父親のあとを継いで海の仕事をやりました。そのあと農家はスパっと辞めました。海の方に専念しました。農業でなく、海の仕事を継いだのは、自分の努力でなんとか食べて行くのに良いと思ったからです。どこに行っても仕事がない時代でしたから。そして、自分でワカメ採りを始めたんです。畑はそのまま荒らしておきました。もったいなくもないです。
「歌津に生きる」小野寺弘司さん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和21(1946)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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