昔は、小学校を6年卒業すると、尋常高等1年、2年とあって、それから女学校です。今の高校です。部落から、同じ学年に約20人にいて6人かな? 進学しました。学校までは、歩いていきます。片道2時間、往復4時間です。今の志津川小学校前までです。
(中略)女学校では、お裁縫とか料理とか家庭科で、縫って染める絞り染めも習いました。編み物も基礎から編み方の種類も、1つ編み、2つ編み、かぎ針もね。洋裁も習いました。自分で裁って、子どもの服もセーターも作りました。染物は、染め粉を買ってきて、白い反物を、絹物でも、模様をつけるのにギューッと絞って、手で縫ってキューっと糸を巻いて、花模様や葉っぱとか、そういうこともやりました。着物の布を裂いて、ずーっと長く裂いて編み物もしました。今みたいな毛糸がなかったからね。かぎ針も棒針編みもやりました。
私たちは、1枚のお母さんの着物をもったいないって、ちゃんと型をとって、羽織1枚から洋服1枚。自分でちゃんとやって学校へ着て歩きました。
「細浦の海と山と」阿部琴女さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]大正15(1926)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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女学校, 志津川, 志津川実科高等女学校, 志津川小学校, 料理, 編み物, 裁縫
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