遊びでよくやったのは、「メンコ打ち」、僕らの言葉で、「バッタ打ち」でしたね。私はあんまり得意じゃなかったんですが。
小さいバッタが大きいバッタをひっくり返すんだから、どういう物理的現象で風がいくかわかんないけど、何人か、そういう上手な人いましたね。
僕の得意は、座金(ざがね)の丸っこい奴をね、どこから購入したのか、友だちからもらったのか、みな持ってんですよね。その丸い座金を離れた場所から投げて、メンコに当たってひっくり返ればいいという遊びでした。僕もミカン箱いっぱいになるくらいメンコが溜まったし、石油一斗缶半分くらい持ってた人もいましたね。あまり夢中になると、パチンコなんかと同じでね、もう何も考えませんから、勉強のこともね。
もうひとつ、忘れられないのは酒蔵。酒屋さんが1軒あって、友だち3人ぐらいと、そこの高い蔵にね、スズメがいろんなものを運んで来て巣をつくっているところに、はしごを架けて登って、スズメの子を、赤ちゃんを捕るんですよ。
高さは2階の屋根の下あたりです。雨どいの所とかに巣がありました。子どもというのは、みんな、それは自然なことなんですが、高さに対する恐怖がないんですよ。「このはしごが倒れたらどうしよう」とか、「屋根から落っこちたらどうしよう」とか考えないんですねえ。
なんで捕るのかって、その鳥を焼いたり煮たりするわけじゃなくて、自分の手で取り上げて、それだけで満足なんだね。持って帰らないですよ。そこに、自然にほったらかして。僕だけじゃなく、多くの友だちがやりました。それは昭和の初めあたりでしょうね。小学校低学年くらいです。
小学校に入ってから、夏休み近くなると、海水浴場を青年会が世話してくれて、海岸から40メートルぐらい離れた場所に、海中に、木でやぐらを組んでくれました。それが楽しみでね(笑)。「あ、夏が来た」と思ったものです。磯の潮が引いてから10~15メートル、それらしく泳いだら、やぐらの家に行って休んだりして過ごしました。
この季節はもちろん母親などが、夏用の白と黒の合わさったような着物を出してくれました。僕が6年生のときは、洋服着たのは2人ぐらいしかいないものね。主流は着物でしたよ。
「歌津 塞翁が一代記」山内正一さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]大正12(1923)年生まれ
投稿日:2012.01.04
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