じいちゃんの船が出港すると、参詣(さんけい)っていうのをやったの。テープを引きながら、サイレン鳴らして出航したら、奥さん方がその足ですぐに御崎さん(御崎神社)のほうに行くんです。船頭さんの家から、なにかおいしいものを持ってって、神様のなかでごちそうになって、それから、唐桑の神様っていう神様を全部、足で、ぐるーっとお参りに回ったの。私は小さい子どもをおぶって出船の見送りに行くから、少し早めに走って家に帰って、子どもを置いて参詣に行ったもんです。
まず、鮪立(しびたち)っていうところの八幡様を拝んで、そして今度は松圃(まつばたけ)の大日如来さま、それから白山さまへ寄って、御崎さんにいって、今度は中沢っていう、お店に寄って、そこのお店のおばあさんが、うどん作っておくわけ。10人でも15人分でも。そして漬物つけてあって、そこでお茶をごちそうになって、それからあと帰りは早馬さんと、そこの上の方の神様拝んで来るんです。1日で全部回るんです。今のように、タクシー使ったり、自家用で走るんでなく、いろんな話しながら歩いて。それがまた楽しくてね。覚えているのは、まずね、まだ御崎さんを回んないうちに、「早く父ちゃん帰ってこないかな」って(笑)。そんな話したわけよ。奥さん方も若いものね、みんな。テープ引いて、船が港を離れるときには、「必ずこの港に帰って来いよ」と願うわけさ。そして、帰ってきてもらいました。お魚をいっぱいごちそうになって(笑)。牡蠣でなくても美味しかった(笑)。
鮪立の船が解散してから、うちのお爺さんは、今度は静岡の焼津の船に乗ったったのさ。その船主さんが、「船が何日に入港する」って、奥さんたちの汽車の切符、それから宿をとってくれて、呼んでくれて、こっちから焼津まで迎えに行ったの。それが何年も続きました。迎えに行くと、日本平のイチゴ狩りとか、三崎のマリンパークに招待されたり、いろんなところを見物させてもらいました。宿料からなにから、船主さん持ちでね。宿なんかお土産物なんかもう付いてたったね。旦那さんと一緒に行くこともあるけど、船に仕事があれば出られないから、その時は奥さん同士でね。帳場の方がついて、見物させられたのさ。イチゴ狩りは5~6回あったね。みかん狩りもあったね。
機関士の仕事は58〜9まででしたかね。それも近所の同級生が結構早く亡くなったんです、同じ船乗りで、50超えた頃に病気になって亡くなったのね。あんまり長く船に乗っても、台風なんか来れば1回に何十人も亡くなったりするし、早く辞めろ辞めろって私が騒いだのね。「子どもはいないし、2人だけの生活になるんだが、あんたまで災難にあったりしたら、私1人いるようになるから辞めろ辞めろ」って。でも「まだ辞めたくない」って頑張ったんだけどね。
私の方も頑張ったの。そして焼津の船だったから、焼津まで行って船主さんに挨拶してそして帰ってきたんです。船主さんの建てたばっかりの2億の家を見に行ってね。水洗トイレが初めて出たんだって。それで船主さんが奥さんさ「お前先にやれよ」「お父さんあんたが先ですよ」ってそんなやりとりをしたってね(笑)。そこさ「そんなことあるんだ~、どんなんだべ」って2人で見に行ったの。あの船主さんには大事にしてもらいました。今どうしているのかねえ。
それで帰ってきて、小さい船から乗らないかって頼まれたのを、私が「小さい船はダメ」って断った。私は乗せたくなかったのね。やっぱり小さい船だと、この辺だと、何十人も亡くなったんだよね。だからあと、すっかり辞めてもらって、自分が好きなことをやった。道路作って土を運んでその辺さ、石を持ってきたり。
「新屋のみっちゃん、昔がたり」丘 美津江さん(仮名)
[宮城県気仙沼市唐桑]大正15(1925)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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