この物語は、今や町の宝、無形民族文化財となった「石浜神楽」を歌津に根付かせた方の物語です。
歌津に生まれ、戦中戦後の激動期にも、いつも心に歌と踊りがあった良美さん。語り口は飄々としていて、茶目っ気もあって、聞いている私たちが思わずクスッと笑ってしまうような温かさがあります。
奥様の合いの手も絶妙。家の内と外でそれぞれの役割を存分に果たしてこられたご夫婦の強さというものを感じずにはいられませんでした。それと同時に、表立って何かをおっしゃるわけではないのですが、そこはかとなく相手の言うことを受け入れたり、さりげなく体を気遣われたり、とても素敵なご夫婦でした。
ここにこうしてお話いただいたことをまとめてみますと、神楽の発祥から伺える機会などそうあるものではなく、改めてお話を伺って本当に良かったとしみじみ感じています。貴重なお時間を割いてご協力いただき本当にありがとうございました。お2人のご健康と、石浜神楽の復活を私たちも心から願っております。
2012年5月19日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
佐藤良美さん(左)・文子さんご夫妻
夫唱婦随、奥様の絶妙の合いの手を受けながら
良美さんにユーモアたっぷりの口調でお話いただきました。
編集にあたってはお2人の人柄の温かさを、
そのままの形でみなさんにお伝えしたいと願い、
方言をできるだけ残した形とさせていただきました。
歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きてたら100歳超えてますよ。
寺子屋のあった場所は、今の歌津町の漁業協同組合のあったところで、組合が寺子屋の土地を買ったの。あそこで勉強したんですね。
小学校は後からできたんです。最初は雄飛小学校というのがありましたが、それが無くなって名足小学校っていうのができた。だれも名足を「ナタリ」とは読めねえべ。初めでの人は「メエソグ」「ナアシ」と読んで「ナタリ」とは読めねぇべさ(笑)。
私は昭和2(1927)年生まれ。誕生日は2月5日。私の名前は良美って女子(おなご)みてぇだけっども、なして良美と名づけたかっていうのは、こんな「言われ」があんの。
私の家は7人きょうだい、母親は子どもを生んで33歳のとき、父親(おやんつぁん)が39歳で亡くなったんです。それでねぇ、4人(よったり)の男兄弟は、私以外、兄貴たちはみんな、兵隊だ何だって行って亡くなったのもあるからさ。中でも、一番上の兄さんは、検察事務官やってから裁判官をしていたりしたんだ。だけど、私だけ残ったの。うちのおばあさん(お母様)が「男ばかりだから、今度は女子(おなご)が生まれないとワカンネ(だめだ)」って言って、今度の子が出たらば「良美(よしみ)」と名づけると決めていて、男の私が生まれでしまったけど、そのまま「良美」の名前でつけだの。それこそ、もう男は要らなかったの。なんして私がこんな名前にねぇ。いやいや、後からその通り、妹が2人出た(生まれた)けんども、そういう時もあったね。
私のお父さんは昭和5(1930)年に亡くなりました。私が5つの時です。今の子どもたちはテレビ見たりして良く知ってるから、人が亡くなるということがどういうことか、すぐわかる。私は本当の子どもだったんだね、わかんねぇんだね。
父親が死んだ時に、まさか死んだ人でねえっぺね、と思ったから、ふすま開けて、父親の頭にハチマキさせてさ、盥(たらい)みてぇなのに腰掛させたのを見てたんだね。立棺(ご遺体を座らせてお棺に収めること)で土葬だがらね。ただそれ見てたんだけど、死んだなんてわかんないもんだから。すっと、部屋の向こう側から来たお婆さんが、入棺してるのを子どもに見せたくないから、ふすまをバチッと閉めたんだ。
お父さんという人は脱腸(ヘルニアのこと)だったの。ここの医者は気仙沼から来てたから、交通の便が悪くて、来るのにも時間がかかって、手当てが行き届かなかったんだね。そのせいでお父さんは39歳の若さで亡くなったの。誰が今、脱腸なんかで死にますか。
その時お母さんは33歳でした。お父さんと6つ違いだったんだね。
お袋はそれから、7人の子どもを育てだんだ。今の人たちなら「子ども手当て」が出るでしょうが、その頃は、手当てなんか何にもなかった時だ。今はせいぜい1人か2人子どもを産んだくらいで、「手当て、手当て」って騒いでいるご時世なのにねぇ。
うちの家に、町から、「補助のお金をもらって食べていったほうがいんでねぇか」って言ってきたらしい。私(おらい)のおばあさん(お母様)は、あの通り元気がいい人だがら、「いらね」って、最後までお金を貰わないでいてしまった。津波の後も家財を流されてしまった人がお米や金のお箸を貰っていましたが、うちは貰わないでしまったよ。うちは麦ご飯だべ。私も米っこ食いてえなと思ったけど。
小学校は8年通いました。昭和8(1933)年、津波の年に小学校に入ったの。子どもの頃は、いつでも「陣取り」したの。
「陣取り」ってわかる? 隣の家と隣の家で、じゃんけんして、隣の家さ、相手よりも早く「陣取って」攻めていくんです。「陣取る」っつうのは、柱でもなんでも良いから、とんとんって跳ねて行ってね、相手よりも早く行って、端にすがりついた人が勝ち。
あとは、野球。野(の)野球(草野球)だけどね。今のような活発な服装でやったんでねえげっと。私は、ピッチャーでなくキャッチャーのほうでした。
実家は百姓でした。それから、海仕事もしていました。アワビを獲ったり、ウニを獲ったり、あとは、歌津の海藻を一生懸命採ったんだっけねぇ。おらいの(うちの)お袋は、歌津の中でも海藻をたくさん、採ったほうだ。みんながカゴ1つぐれえと採る時は、2つぐれえ獲ったもんです。自慢でねえけど、それ位だから、腕では他の誰にも負げねんだ。「磯の博士」だ。
私は、お袋に「こういうふうにやるんだ」と教えられたんだね。「海藻を採るのに良い所はここだから、ここで獲れ」って、教えられたの。それが、やっぱり、勉強になったんでねえの。ちゃんと獲らねえど、お袋に怒られたから。海藻を採る時は、ざるのようなものを持って行ってね、それが一杯になると、それを袋に入れて持って帰るんです。
マツモは採って来ても、根っこを取らないとワガンネ(いけない)。根っこをとったのを干すのに、四角な「ます」(写真下)がある。そこに入れる。これを型で打(ぶ)つ、というんです。打(ぶ)つ夜には、一晩中、時間が4時間くらい、朝の2時3時まで掛かるんで、眠られねえんだ。
お袋は厳しかったんだがら。7人の子どもを、33歳の若さで育てたから、やはり厳しい育て方したねぇ。頭は叩(はだ)かれなかったけれど、説教(はなし)が厳しがったね。
お袋は70歳まで薬も飲んだことないくらい元気だったけど、血圧が高くなって亡くなったんです。急に血圧が240に上がったんです。
一番先に「めまいがする〜、障子の組ッコ(格子)が回る〜」と言ってたんです。10年後に再発して、病院にも入院したけど、先生に呼ばれて、「申し訳ないけど、これ以上は良くならないから、家に帰って休ませてください」と言われて、家に連れて帰ってそのまんま。亡くなる直前まで何にも苦しまないでね。
私は昭和2(1927)年生まれで、大正15(1926)の人と学年は同じだ。その年に大正っていう年号が無くなったべっちゃ。そん時ね、昭和元年と2年と、1週間で年号が2年になったんだ(大正15(1926)年12月25日大正天皇が崩御、昭和に改元され、さらにその1週間後に年が明けました)。
だから、私たち同級生が3組いるの。どういうことかというと、戦争には、同級生なのに、大正15(1926)年生まれの人、その次は昭和元(1926)年生まれの人の順に早く行ったの。昭和2(1927)年生まれの私が兵隊に行かないで、戦争は終わったの。
私は予備士官学校を志していました。高射砲(こうしゃほう)を志望してたの。「飛行機を撃ち落とすべぇ」って、それを勉強したの。歩兵でなく、高射砲(写真)だ。
陸軍歩兵みたいな方法(かっこう)でなく、高射砲だがら、撃(ぶ)つことだけ練習。だけっども、歩(ある)くんでなく、1箇所(ひととごろ)でやるから一番狙われやすいし、すぐ見(め)っけられるんだ。終戦前、昭和19(1944)年あだりから、20(1945)年8月の終戦まで、高射砲の勉強ができたのも一時(いっとき)のことだったね。
終戦になってしまったから、戦艦に乗る志願はしてたけど、軍服もらっただけで帰(けえ)って来たよ。そのとき私は18歳でした。
あの時、教員採用の募集があって、自分は先生になったからやめたの。陸軍少尉だったか中尉だったか、女川の部隊長でいた人のことを思い出すんだが何て言ったべなぁ、あの部隊の名前は忘(わせー)ですまったなぁ。戦争が終わって、60年にもなるものねぇ。
戦争が終わってからは、家に帰って農業をしました。
周りはみんな農家で、いっぱい畑があって、人手がない。昼間も働いて、月夜の時は月の明かりで働いたんだ。月の明かりだけでやったの。私だけでなく、みんながそうでした。
それに、今こそ、機械でやるけっども、昔は耕運機なんてながったから、手だけで作業したの。
この辺は火山灰みたいなとこでないから、柔(やわ)い土やサラサラの土でなくて、粘土ども違って、固いし砂利だし、崩れやすいような土ではないんです。機械なら1時間や2時間すれば終わるのを、幾らも耕せないわけ。だから、ほんとうに重労働だからね。
戦争に負げたからね、暴力団なんかが、横暴(デタラメ)になってきたべっちゃ。ほんではワガンネ(いけない)ということで、私たちは、こういう時こそ神様への信仰でひとつになることが大事だと思って、私は先頭になって、南部神楽を始めたんです。終戦後、私が20〜22歳ぐらいのときです。そのあたりに南部神楽が始まったの。私は青年団長でしたから、若い人たちに教育みたいなことをしたんです。つまり、自分が教えられたことを伝えたんだね。
私たちのお神楽は、本吉の法印(ほういん。旧修験系の宗教者のこと)神楽とは違うの。うちは南部神楽だから。岩手県が本場。山伏神楽とも言うんだ。
神楽って言っても種類がたくさんあるんですよ。楽器は、10センチくらいの鐘を叩(はた)く人と太鼓(写真)とがあって、大胴太鼓は細いバチを使って横から叩くんだ。着物と面コがあって、そういうのを身に着けて踊るの。笛は鳴らさねぇ。南部神楽は笛使わねぇから。
こないだの津波でも、面からなにがら、道具は流されなかったから、今も全部あるし、今でも頼まれればできます。私が入院して太鼓の演奏会に出られなかったときも、おばあさんが衣装の管理や洗濯をしてくれたんだね。
私は小せえ時は神楽が好きで、ドラム缶やバケツを鳴り物にしてやったんだもん。戦後の何も無い頃だから。若い人たちにはね、お面はね、ほおの木、かぶきの葉で、大きな葉っぱに穴ッコを開けて、口に噛むようにしてやらせたの。
神楽は33番あるんだ。「岩戸(いわと)開き」が始まり。「岩戸開き」(天岩戸伝説が元になっている)というのは、あんたたちも習ったでしょう。
天照大神(あまてらすおおみかみ)がね、天(あま)の岩戸さ隠れて、この世が暗くなった。ほんで、「とってもワガンネ(困る)」となって、娘たちが、岩戸の前で踊ったの。そしたっけ、岩戸の中までその音は聞こえた。天照大神がそんどぎ少しだけ、岩戸を開けた。世の中が少し明るくなったんだと。
その時と思って、力持ちの手力男尊(たぢからおのみこと)が、ガラガラと岩戸を開けた。そしたら、この世がまた明るくなった。そして、娘たちが踊っているうちに、この世が明るくなったという話を、翁(おきな:老人)が出て来て語って聞かせて、「この世で何も起こらないようにすべ(しよう)」とおしめ(注連縄(しめなわ))を作った。
今でもお正月に注連縄作るのはね、悪魔を祓うためです。注連縄をどこの家でも、お正月に飾っぺっちゃ。そういう謂れ(いわれ)を神楽でやるわけです。それが「天岩戸開き」。
天照大神は女(おなご)の神様だからね、だがら女っつうのは強いんだねぇ。長生きすんだ、男より。家でも女が強いから、天照大神だ、ははは。だがら、お金もなんでも女に預けるのが本当さ。「はいはい」ってなるべく、お金を男の方より女の方に持たせれば、身上(しんしょう)が持てるって。男でだめなんだ、使ってしまうから。お金は女(おなご)が持ってたほうがいいんだって。
そのほか「壇ノ浦(だんのうら)」とかもやるんだ。「屋島(やしま)合戦」(源平の戦いの話)なんかはすさまじいんだ。屋島神社ってあるんだ、そこに。水戸黄門のおじさんって人が壇ノ浦の屋島神社を作ったって、見に行ったこともあるんだ。大したもんだ。
こういう神楽のときに歌うのも、話をするのも私1人なんだ。踊る人たちが言うには、1人でないと調子が合わないそうです。話しながら太鼓を叩くんで、息を合わせないといけない。話すと手が動かなくなってしまう、だから難しいんだ。踊るのはまずもって、3人くらいだけど、5人で踊るときもある。神楽33番、一幕、ひとつの演題を全部やるとだいたい、2時間〜4時間掛かんでねえか。
私は踊りが好きなんだ(奥さま曰く、「好きなの、この人は。歌って良し、踊って良し。ヤクザでも、マドロスでもなんでもいいんだ。好きでなければだめ(笑)」)。今は年取ったからあれだけど。
神楽を披露しに、仙台の東北博覧会にも行ったことがあるし、藤崎(百貨店)にも、歌津会(各地にいる歌津出身の人の会)の人たちを呼んでやったんだ。その時は、唐桑(気仙沼市)の「七福神踊り」(小鯖神止まり七福神舞)の人たちも一緒でした。そういえば、博覧会では、ステージの前で見ていた外国の人たちが、「殺陣」を見て逃げ出したこともあったね(笑)。文化の日なんかに、学生に神楽を教えたこともあります。
この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年団です。青年団というのは、たくさんやる仕事があって、一生懸命やりました。
主に体育関係だね。毎年9月あたりに、青年団で仙台まで行って、体育大会をするんです。私はリレーに出ていたのですが、青年団に入る前、学校にいたときから1番走者でした。スタートは大変だからね。1番走者ばかりやらされました。
自分たちが練習していたグラウンドが狭かったの。校庭が1周200mしかなかったんです。だから、コーナーがすぐに回ってくる。だけど、仙台の競技場は1周400m。200mのコースばかりでやってきたから、どこでハネて(一生懸命やって)いいかわかんなくて、勝手が違って、呼吸(ペース配分)が分からなかったから、やっぱり負けてしまった。直線コースだけは一生懸命やっていたんですが先頭になった人は追い越せないんですね。
あとは、算盤(そろばん)をしたり。
私は若い人に算盤も教えました。免許は何級も持たねえけども、読み上げ算、掛け算、割り算、暗証でね2桁までやった。中央でそろばんの競技会があって、集まってみんなでやったんです。競技会に出ると、先生に「お前なぁ、そろばんが上手いから、上海(しゃんはい)銀行さ行け」って言われたこともある。だげっともお袋1人残して上海に行かれねぇから、行かないでしまったのさ。
私が結婚したのは30歳になってから。「何時(いつ)までなにしてんだ、お前。その年になるまで何してる」と叱られる、そういう時代でした。でも、私は家取る人(家督、後継ぎ)でなかったけれど、私の兄貴たちが戦争で留守にしている間、お袋を助けて、家を守っていましたし、長く青年団長もしたので遅くなったのです。私(おらい)のばんつぁん(奥さま)が20歳のときに結婚したんです。見合いはなし。仲人がついたから。学校の先生だった人にお世話されたんです。仕事してる畑まで毎日1週間通って来たんで、仕事の邪魔になるってお袋も私も怒ってました(笑)。
(ここで、近くで朗々と船乗りのおじいさんの歌が始まったらしく、聞こえてくる。手拍子も起き、素晴らしい)
あの人は船さ乗ってっから、海でやるんでねぇの?
子どもの年は、上から52歳、2番目が49歳、2番目の息子は、大和(宮城県大和町(たいわちょう))の学校出て、仙台で測量設計の事務所開いて、仕事してっから。その次は娘で46歳。飲食店をやっていて、東京にもいたことがありますが、今は福島さ帰ってきてやるようになったの。みんな3つ違い。産まれた子が大きくなってから次の子が産まれたから、上手な産み方をしたんだねぇ。3年に1回子どもが産まれる、ということは、子どもが全員授かるまで9年掛かったわけだ。
早くに結婚したから、ばんつぁん(奥さま)は、割合と早く、40代で孫ができたんだ。内孫は3人。ひとりは、男で、仙台に希望した学校ながったんで、横浜の大学に行ったんだ。今2年生だげっとも、他に、高校終わったのが1人、女の孫がバッチ(末っ子)が中学3年生。
この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで波が来たことを示すんだね。
<解説>1835年7月20日(天保6年6月25日)14時頃、北緯38.5度、東経142.5度付近を震源とするM7.0前後の地震が発生し、死者は多数、仙台城が損壊し、津波も起きたという記録があります。
明治29(1896)年の津波(明治三陸津波)のことは、親から直に教えられたの。
その津波ではね、私(おらい)のお爺さんが1人生き残ったの。それはなして(どうして)かというとね、そのお爺さんは、夜のうちに沈めておいた網(「流し」漁という)を、魚がかかるころに櫓をこいで船で捕りにいったの。昔はイワシでもなんでも夜のうちに網を流して置いたの。となりのお爺さんと2人で行ったんだって。
魚を獲って、今度は家の方へ漕いで帰ってきたら、とっても良い物ばかりが流れて来たんで、最初は珍しいから、それを船にみんな積んだんだって。だんだんに漕いで帰って行くと、渚あたりで人の泣く声が聞こえた。「ああ、こりゃ津波が来たんだ!」となって、拾ってきた物を船がら全部投げ捨てて、その人を乗せたんだって。みんな津波で死んでしまって、「流し」に行ったお爺さん、隣のお爺さん1人、うちでも1人生き残ったと、お袋から教えられたの。津波のとき、沖は津波が来たのが分からなかったっていうんだから。
明治三陸津波ではたくさんの人が亡くなったんだねぇ。葬るのに、火葬になったのは最近だから、墓を掘るのにあんまり沢山の人が亡くなったんで、避(よ)け避(よ)け掘ったんでねぇかなあ。
私たちの先祖つうのは侍だという伝説があります。負け戦だか何かで、へんぴな所に逃げできたんでねえの。その侍の鎧も兜も、槍も全部、明治の津波で流されたの。
昭和8(1933)年3月3日、地震の日はまだ寒くて、雪が降っていたの。津波の上がったところだけは黒くなって、上がんないところは白い雪が残ってね。
津波が来たときは、私はまだ小学校に上がる前で、夜、お爺さんと一緒に寝てたけっども、お爺さんが私をおぶって逃げてたんだね。お爺さんは60歳ぐらいだったね。
家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後述)」までしたが、津波に流されてしまった。
明治の津波で家が流されて、みんな家を高いところに建てていましたが、昭和に入りまた下に降ろしたんだね。それがこの昭和三陸津波で流されてしまった。
(このお話の時、周りでは「大漁節」の大合唱が起きていて、みなさんの楽しそうな声とともに、とてもよい雰囲気になっていました)
この津波の後、みんなが来て、津波の観測をするようになった。
私の所は津波の石碑だらけですよ。
3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。
地震が起きたのは退院してから1カ月も経たないあたりだったね。茶の間にいたところで地震が来た。家の瓦がガラガラって音立てて落ちてきて、たまげた(驚いた)でば。外に出られなくなった。
家は本格的な母屋づくりで、阿部井組という腕のいい大工に頼んで、44年前に建てた、良い材料で建てた家だったんです。普通、瓦は7〜9段で作るけっども、化粧瓦を12段で作ってたんです。赤瓦で、みんなが真似たんだ。柱には松やひのきなど自分の山の木も使っていて、あんまりたくさん材木を集めてたんで、材木屋と間違われたりしました。どこも手を入れる必要もなくて、しっかりとした造りの家だった。家の中には中廊下があり、どこの部屋も通らずに行き来ができました。ずっと綺麗なままで、伝統的なつくりの家をわざわざ見に来る人もいたんだね。そこを4年前に、トイレやお風呂などの水回りや襖などにお金をかけて、バリアフリーに直したばかりだったんです。
ばんつぁん(奥さま)は兄の家に手伝いに行っていて、帰って家を見たとき、潰れてしまったと思ったって。
津波の来る少し前から雪が降ってきました。ドーンという鳴り物が2回起こり、20分ぐらいして津波が来たんです。知り合いの若いお姉さん2人が足の悪い私を迎えに来て、家から高いよその畑まで連れて行ってくれた。
この津波で、石浜神楽の踊りでずっとお姫様(娘役)をしていた人は、隣のお爺さんだったの。ところが、今回の津波で流されて亡くなったの。お姫様っていうのはユルくねぇ(簡単じゃない)からね。ちゃんと稽古するからね。振袖を着て女役をやるんで、普段も股を開かず歩く人でした。
今まで、農業をしながら、青年団長やPTA会長、44歳あたりから石浜の契約会の会長にもなった。防波堤を整備したり、道路を作ったりしたんだ社会教育委員も務めので、教育委員会から感謝状ももらったもん。なんでもみんなより長くやって尽くしたからね。
いつもみんなまるく納まるようにしてきましたね。このあたりの同年輩の人はみんな知ってるくらい。好きでそういうことをしてきたんです。
自分が勉強してきて分かっていることで、みんな教えられるものを、後から入ってきた人たちに教えてきたし、もらって働いてきたお金も、「年が上だから」とか「私が世話したから」って多く貰ったりせず、みんな平等に分けて、周りの人たちとは本当の友だち付き合いでやってきました。
これからですか。私たちの希望は、元の場所に家は建てられないけっども、石浜の避難所の近くに畑があるから、その場所に子どもたちが泊まれる家を建てたいねえ。小さくてもいいから。(談)
奥様の文子さんも加わって楽しく伺いました
聞き書きチーム。左から河本真吾、文子さん、刈田唯可、良美さん、四之宮牧子
左から牧野昇、文子さん、刈田唯可、良美さん、四之宮牧子
この本は、2011年8月30日、2011年11月20日の両日、
佐藤良美さん、文子さんご夫妻に歌津の平成の森仮設住宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
河本真吾
牧野昇
四之宮牧子
刈田唯可
(以上2011年8月30日)
八木和美
大井田和恵
(以上2011年11月20日)
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[方言聞き取り]
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年5月19日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト