ひとはどこを故郷と呼ぶのでしょうか。両親の生まれ故郷に里帰りするうちにそこをふるさとと呼ぶようになる人もいれば、自分の長く生まれ育った場所をそう呼ぶ人もあるでしょう。
村上幸雄さんは仙台が本籍ですが、その地で暮らしたことはありません。志津川でお生まれですが、志津川の記憶はほとんどありません。歌津にずっといままで暮らしてこられましたが、自分を育んだのは、友だちであり仕事や社会活動を通じてつながった地勢的な境界線を越えた人々だったとおっしゃいます。
小さな海辺の町のつながりは、ビルの乱立する都会からみればいかにもすべてのテンポがゆったりとして、その後を追っているように誤解しがちですが、その力強さ、そこにある知識と経験の蓄積、生き抜く知恵は、ひ弱な都会暮らしの人間など足元にも及ばないものです。村上さんの昔がたり、今がたり、そしてもっと先を見越してのお話に、自分をとりまく社会にひとはどうかかわっていけばよいのか、そのヒントを発見することができると信じて疑いません。
村上さんの人生に触れ、私たちも得難い追体験をさせていただきました。この場を借りて深く御礼申し上げます。
2013年1月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
村上幸男さん
私は歌津にずっと暮らしてきましたがね、生まれは違うんですよ。生まれはね、志津川。本籍は、仙台なんですよ。仙台市小田原宮町30番地(現仙台市青葉区)っていうのは今でも覚えてますね。そして、県庁の裏あたりに父の実家があったのを覚えてます。大きな門のある武家屋敷でね。明治の頃は役人をしていたという大きな家だったんですよ。親父の兄が弁護士で、大きな体をしていましたね。小学校ころときどき連れて行かれましたが、昭和20(1945)年の空襲で仙台がすっかり焼かれましたので、今は無いんです。おふくろの実家は、南三陸町の入谷ってとこです。自分が結婚してから初めて行ったんですが、農家です。きょうだいは多かったようですね。今でもそのうちの2軒くらいは知っていますよ。
うちの親父ってのが、仙台で写真屋をやってたんです。太平洋戦争の前あたりで、戦争に行く人は皆、写真館で写真を撮って戦地に行ったんですが、志津川のほうに写真屋がないっていうんで、ここに来て。その後、昭和9(1934)年に私が生まれたんです。きょうだいは、兄弟は弟が1人。妹が1人おりましたが、妹はちっちゃいとき亡くなって、弟と2人だけになりました。
終戦までは写真屋はこの辺にはウチしかなかったから、まあ、いいボンボンだったんだ(笑)。手伝いは、特に何もしませんね。
ところが、昭和12(1937)年、この年は、志津川でね、大火があったんですよ。志津川に五日町ってあるでしょ、あの一帯。店も焼けて、そして一家は歌津に来たんですよ。私が5つか6つの頃だね。そんな小さなころだから、志津川のときの記憶もほとんどないね。
志津川の大火 昭和12(1937)年
出典:南三陸バーチャルミュージアム
それで歌津に写真屋を出したんですね。まあ、掘立小屋みたいなものですけどね。場所は今の伊里前小学校の下、公民館の隣のところでしたね。そこで終戦まで、写真屋をやってたんだね。新しく建てた、なんてそんないいものじゃねえ。そりゃ昔だもの。戦争中だもの。現像を自分のところでやってたのは覚えてますよ、暗室なんかあってね。
小学校1年生の頃は、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年、そのころは鮮明に覚えてますよ。家の隣が小学校だから、ほんと、一歩出れば学校の脇だから遅刻しないし、弁当なんて持っていかないのよ、家に帰って食べてたんだよね。弁当の味っていうのは全然わかんないね(笑)。
終戦になったときは小学校5年生。戦争が終わると、写真屋なんて、贅沢商売。戦争までは、歌津の結婚式だの、いろんな行事で写真を撮ったりした人もいたけど、終戦になってみんな喰うに困る時代になって、もう写真撮る人もなく、食うに困って・・困るよね。商売が一気にバタっと行ったわけよ。うちの親父は明治29(1896)年生まれだったから、だんだん年をとっていたし、終戦と同時に写真屋を辞めてしまったの。
もう、それからは、飯も食えねぇような状態。もう写真屋もねぇしね。うちの親父なんか、行商と言って、歌津から干したワカメや、磯草ね、いろんなヒジキだとか、マツボだとか、フノリだとか、貝を剥いたものだの持っていって佐沼方面に馬車だので行って、米と交換してくるわけ。昭和24、5年頃はね、この辺もみんなそうやってたんですよ。その当時、田んぼが200ヘクタールほどあったかな。でも米もそんなに穫れねえんだ。一反150キロくらいしかとれない。そしてそのころ、田んぼ持ってると供出ってのがあって、出さされたんですよ。配給制度のためにね。そういう状態で歌津の方々は大変苦しかったのね。
私は中学校を卒業して、高校にも入れない。うちらは80人ほどの同級生がいたんだが、高校に入ったのは3人か4人ぐらいですよ。相当、裕福な人でないと入られなかったんだね。私も食べ盛りで、家にいると食べるんですよね(笑)。ホントに食料難だもん、その頃は。それでも家族も私も飯を食わなきゃならないんで、口を減らすために、今の登米市迫町佐沼の大店に奉公に出されたんです。百貨店、雑貨店、もう何でも売ってるお店で、近辺の商店に商品を卸していたと思いますね。
住み込みで、給料はなく、食べさしてもらうだけですが、そのうち佐沼の高等学校の定時制に入れてもらえる、という条件で行ったわけなんだ。中学を出て志津川高校の入試は受けて、合格はしていたし、高校に入りたかったの。それで定時制に入ろうと思って・・。ところが入れてもらえなかったんですよ。私の勤めが悪かったんだな(笑)。ほんで、こんではだめだなあと。んで、怒られるのをわかった上で、12月頃逃げて帰ってきた。実は2回逃げてるんですが、1回捕まってね。逃げる途中、当時はバスなんてのもねえんだから、米谷の橋のところで番兵がいて、捕まって、もどされたこともあったの。2回目はどこでも番兵してなかったからそのまま逃げました(笑)。結局、何もかっぱらったわけでもないしね。何もおとがめはなかったですね。
そして歌津の吉野沢に当時、楠原・三浦という2つの瓦工場(こうば)があったんですね。そこに1日百円で働き始めました。12月に佐沼から帰ってきてすぐでした。
その当時日給百円は、まあ、普通だったんじゃないですかね。弁当持ってね。働くことで、夜は定時制高校に通うことができたんですよ。そこは親しい友だちなんか行ってたもんで、つないでもらったんですね。当時は仕事をさがすのでも、職業安定所なんていうのもなかったような気がします。人を通して仕事に行ったような記憶がありますね。
工場には家から、学校の隣のね、バラックみたいなとこから通いましたね(笑)。1年くらい勤めたかなあ。昭和25~6年頃のことです。
その次は「小野寺医院」っていうとこに勤めたんですよね。今は「小野寺歯科」と言って、若先生が歯科やってるけど、そのお父さんが病院を経営していたんです。そこの事務やってくれないかって、そこに6カ月ぐらい、勤めたってのもおかしいがね、そのころの病院の事務だから、まあ、いろんなことを勉強しました。勤めてるうちに今度は、友だちから、農業共済組合ってとこ、勤めないかっていう誘いがあったんです。病院で事務の経験もあったんで、当時の組合長からも、職員として勤めないかと声がかかって、そこでお世話になることになったわけ。正式に職員として、採用していただくことになったのが、昭和27(1952)年の4月1日。私の給料取りの正式な始まりです(笑)。ほんで、そこから今度は定時制に通いながら、農協にも渉外の資格試験だのがあったんで、その勉強をし、仙台に行って資格の試験を受け、正式な職員となって、そこで42年間、退職するまで勤めたんです。それから、高等学校の定時制を、4年かかって卒業させていただいて、履歴書にも高校卒って書けるようになりました(笑)。
当時の月給は3,000円ですから、日給にするとやっぱり100円くらいなんですよ(笑)。でも瓦工場は月に25日くらいしか働かないから、すこし得ですね。これで家計を助けたわけです。弟もそのころお菓子屋の奉公に出されて、そのまま菓子職人になりました。
仕事してるうちに、いっぱい友だちもできて、当時盛んだった、地域の青年団活動にも参加するようになりました。だんだんに長くいればリーダーになって、いろんな関係で本吉郡という大きな地域をまとめたり、組織に行ったり、いろんな活動をさせていただきました。終戦後だから、何にも無いとこから始まった活動だったんで、素人でも勉強すれば指導者にもなれたんですよ。
私は体育関係の活動もよくしていて、主に陸上と野球でしたが、特に個人的にも陸上では100メートルの地域の記録はしばらく持っていましたね。野球だの、卓球だのはしましたが、今のラグビーだのサッカーなんていうのはその頃ほとんどやってないんです。われわれの年代は。で、仕事と両立しながらそういうものの振興もしていたんです。地域のみんなから協力もらいながら、やってました。
農業共済組合に入った頃は、「農共済ってなんだ?」って状態で、ぜんぜんもうね、メリットが理解されない時代でした。「共済ってそんなの入らねえし、貰わねえす」というのを納得させんのに、まあ相当の年月食ったよね。
農業共済ってのは「農業災害補償法」っていう法律で運用されて、防災掛け金っていう、一反歩あたりのもと掛けで、冷害だの被害にあった時は、共済金というのが支払われる、農家の保険みたいなものです。保険の対象の中に家畜も入ってるんです。当時はほとんどの家で牛、馬を持ってたんです。昭和27~8年ごろはね、交通も、トラックも船もないとなると、馬車だったんです。後ろに荷台があって、ガラガラと引く、あれですね。馬は農耕にも使ったの。そうすると馬が病気だのになったら農家が困るし、その時には獣医さんが必要になりますよね。農業共済組合では家畜保険っていうので、馬が死んだ時は保険金払うし、病気になった時は人間の健康保険と同じように獣医さんを世話して、ほんと保険掛けておけば、安心なんですよ。その当時はね、家畜保険ていうのは進歩していたんだね。これを例にして、農家を納得させるわけ。農家でなくても、馬は飼ってましたよ。トラックみたいな感覚で持ってたんだね。
そんなわけで、私は農家や、馬を飼ってる家々だの、田んぼを持ってる人だのとは、常に接触しているようになったんです。それに小野寺医院に勤めていた経験が役に立って、健康保険事務の関係もやれて、だんだんにいろいろな業務に馴れてきました。
このあたりの農家というのは、その当時は、稲作でも麦でも作ってるし、農業だけやってるわけじゃない、ここは漁業もやる、いろんなことをする、だから忙しい。毎年同じことしてるんだがつい、忘れるんです。一方、私は農共済に5年も10年もいて、事務をしていると、今が何の時期だ、何をやって、とかわかってくるわけで、農家に助言もできるようになるんです。農業改良試験場と仲良くしていると、いろんな勉強もできるので、多くの知識を頭に入れられました。そうすると今度は稲だって、「この稲はすこしおかしいぞ」など、見ても分かるわけだ。そういう時はどういう薬がいいとか、こっちも長年勉強して。それを今度は指導してやる。そういう風にだんだんと農家とも近しくなっていったんです。
苗作りだって進歩していったんですよ。当時は、水苗代って5月に田んぼに苗代を作っていましたが、だんだんに進歩して、田苗代だの、畑苗代だの作るようになりました。「苗代半作」(苗を上手に作れば半分できたようなものだ)って、苗を上手に作らないといいものができないわけ。それを長い期間勉強して習得し、それを今度は他人に教えながら、やってきたんです。
まあ、ずっと勉強なんですよ。いろんなことを学ばなければね。家畜保険もやる、稲もやる、青年団もやる、それから体育関係もやる、いろんなことをしながら、町のみなさんのことが、だいだいわかってくるんです。どこの田んぼがどこにあるか、どこの住宅がどこにあるか、全部わかってくるんです。そうして年を重ねてきたんです。仕事をしながら人のためにも働く。
この手ぬぐい、「本吉地区冷害基金」って書いてありますよね。昭和55年。勤めてかなり時間が経っている頃です。このころ、この地域で一粒のコメもとれない年があった。それが昭和55年だったんです。これを見つけてね、思い出しました。ほんとに苦労したのをね。
*リンク先に、この年の冷害を受けた農家の様子などの写真があります。
手ぬぐいはそのときの、農協さんと一緒に作ったものです。このとき、一粒の米も収穫できなかったこの地域に、農共済から共済金を払ったんです。そのとき初めてこの地帯も「ああ、ほんとに入ってて良かったな」っていうのを感じたわけです。農家の役に立ったと思いますよ。これ、仕事上のひとつの記念碑的な出来事ですね。
農共済ではいろんな折衝もありますが、そういう観点で仕事をしながら県の担当者など、仕事を通した人脈というものができていったわけです。
人というのはそれぞれ宝ですよ。出会いと、人とを大切にして、まずもって嘘をついたりしないで信用を大切にすること。悪いことをすれば誰でも人は離れていきますよね。人と、とにかくまじめに付き合うこと。そして人と交わっていくこと。そして他人に尽くすことです。
冷害に立ち向かった記念の手ぬぐい
家畜共済の分野では、NOSAI獣医師の診療へのコンピューター導入に加え、家畜診療巡回車を整備して、診療業務に加え、損害防止の観点から血液検査や飼料給与診断などに基づき、飼養管理などの指導を行っています。また、地域の青年や女性の交流の場作りや、パソコン教室、各種イベントの開催などのサービス活動も「幅広い損害防止活動」の一環として位置づけて積極的な取り組みを進めています。(農業共済 NOSAIホームページより)
私は昔から釣り大好きなんです。釣り船に乗せて連れて行って仲良くなった人の中には、県の農政課の職員だの、いろんな農政課の課長もいましたよ。釣りしたお蔭で、話が通じやすくなったりしました。そのうち、みなさんの助けがあって、船も船大工さんに頼んで作って貰って持つことができたし、退職後は漁協の正組合員になって、アワビ獲りだの、ウニ獲りだの、そういうこともさせてもらえるようになったんです。きっと腕がいいんだな、ハハハ。
思えば、私は志津川で大火にあって、移り住んだ歌津では戦争で何もなくなって、そしてようやく「いいな」と思ったときに津波でこんなに辛くなって、ずいぶん良くない巡り合わせの生涯だなあって気がしています。
まあ、そのうちに、伊里前契約会の小野寺弘司君に出会って、歌津の三嶋神社の祭典に関わるようになり、ついには神社の氏子総代にさせられてしまって(笑)。50代40代後半からかな。事務局長みたいなことさせられてね。三嶋神社に行くとわかりますが、表の急な階段がありますね、参道はあれしかなかったの。でもそれでは神社が壊れた時困るから、裏参道つくりましょうということで、みんなから募金を集めて、3月にやっとできたとたんにこの災害です。裏参道はこの神社の再興には役に立つと思います。
三嶋神社の表参道
そのうち、農業共済組合が広域合併を迎えることになりました。小さな町ごとに分散していたのを、本吉郡に、唐桑、本吉、歌津、志津川、津山と、気仙沼除いて5つ町があったんです。これを昭和57(1982年)に合併したの。小さな町の共済では、昭和55年の冷害で支払い金の額が大きすぎて、なにもなくなってしまって、脆弱になったんですね。財務基盤を強くするために合併してはとの話がでて、昭和57年にそこが合併したわけです。気仙沼市はその時は合併しなかったんですが、これも昭和60年に合併して、気仙沼・本吉地方農業共済組合となりました。私はというと、昭和60年から、「参事」にさせられてしまったんです。参事というのは職員の一番親分(笑)。それで平成7(1995)年3月、60歳の定年まで参事をしました。
伊里前商店街から三嶋神社の鳥居を望む
2010年「東日本大震災写真保存プロジェクト」
津波前の歌津の街並み(以下同)
写真提供:STAGEAと走れ!
家内とは、昭和33~4(1958~9)年頃に結婚しました。そのころは恋愛結婚なんかできなかったものですが、友だちが一杯いたおかげで、友だちのなかだちで結婚することができたんです。子どもは3人の娘がいて、1番目と2番目は結婚して県外に。3番目が家にいて、保母をしています。3番目の娘の婿さんが、つまり息子が、現在JAに勤めてるんです。
大正3(1914)年5月生まれのおふくろは、平成4(1992)年に78歳で亡くなりました。大正3年5月生まれだったから、明治28(1895)年11月生まれの父はもっと早く、農業共済組合にいたときに亡くなったんです。昭和45(1970)年頃だったと思います。
定年を迎える時、農共済に、今度は登米郡との広域合併の話が出て「残ってほしい」とも言われたんですが、規則なのでそういうわけにもいかない。そのうち、「歌津地区の町議会議員に立て」というお話があったんです。で、3月いっぱいで農共済を退職し、4月の選挙に出馬して当選しました。16人の定員で、17人が立候補、1人が落ちる選挙でした。この地方は大体4000人ぐらいの有権者がいて、200人の票がとれれば当選するんですよ。その時は256~7票頂いて、5位あたりで当選したように思います。そのようにして議会議員にしていただきました。議員はそこから3期目で、平成17(2005)年に南三陸町が合併で誕生するまで勤めました。
歌津の町には、先ほども言いましたが、よその土地から来た身です。親父は仙台から来た。縁故を頼もうにも親戚というのがありません。だから、当選はここでの人のつながりのおかげなんですね。ありがたいことです。だから津波で辛い目に遭おうが、どこか他の町に行ってなんて、そんなことはできない。この町の人々に支えてもらったんだから、やはりこの町は離れることはできません。
3期目で、市町村合併の話が出て、合併協議会の委員に就任しました。
当初は合併するにあたって、気仙沼含めてもっと広域でするのがいいなと考えていたんですが、最終的には、志津川と合併することになりました。
農共済で経験しましたが、合併というのは、規模の小さい方が大きい方に吸収されてしまうものでした。志津川と歌津は、人口などの規模からいくと、3対1。歌津は志津川の3分の1しかありませんでした。経験上分かるんですが、志津川はそのころ財政状態があまり良くなかったので、私は合併協議会では歌津が不利になると主張していました。ああ言えばこういうで、やりあいましたが、とにかく最後はいうこともなくなってきました。
けれど、農共済にいたときから津波の文書への影響を見ていましたが、本吉支所が志津川にあって、津波で壊滅的な被害を受けたんですよ。農共済でも、その時は「津波で流されて資料がない、いろんな何がない」となって「何をしているんだ」と感じたこともあって、町役場はあの場所では駄目だよ、と。志津川の役所も昭和35年のチリ津波の頃をみているはずだから、町役場の場所はこれでいいのか、役場は高台に建てないと駄目だよと、合併協議会があるたびに、そう言ってたんですよ。最後はその役場問題になったわけですよ。「役場は高台に移転されなくては合併しないぞ」と主張しました。
議会は当初、15人いた議員のうち、合併賛成は4人しかいなかったんです。ところが、歌津町民のほうから、合併賛成の7000人にも上る署名を集めてきたんです。この署名を突きつけられたときは、ガクッと来ましたね。「ああ、町民は合併を望んでるんだ」と。つまり歌津町議会は反対、地域の方は合併に大賛成だった。地域の方に恩義のある議員が、ほとんどの方が合併賛成と言っているのに、折れざるを得ないでしょう。
「ああ、それではもう仕方ないな」と。ただし、高台移転の意見は捨てなかった。そして今のベイサイドアリーナ、あそこに立てろと主張したんです。そんな話も今更ですよね。
とにかく平成17年(2005年)に、歌津町と志津川町は合併して南三陸町になりました。合併してもまた議員になれといって推してくれる人もいましたが、そのころから、体調を崩して、肝臓の手術をしました。見てください、ここがすごい傷なんだ、ほら。そんなわけで議員は辞めました。
その後、バラックみたいな家だったのをようやく建て替えました。家も平成17(2005)年に完成して、そしてもうあと悠々自適だな、と思っていたら流されてしまったんですよ。忙しかった議員生活も辞めて、今まで人のことも一杯やって来たし、年金をもらえる身分になり、ババと2人、その年金で温泉なんかに行ったりしようと考えていました。お寺のご住職から頼まれて、お寺の世話人をしていたのと、神様のほうと、そういうお世話だけ続けていたんです。
3月11日当日は、お昼食べて、家内と2人でいたんですよ。3月の中旬ですから、寒かったですね。揺れもでかかったし、長かったですが、家のなかは何も倒れなかったですね。玄関に出ると、孫が大事に飼ってた金魚鉢が倒れそうになってました。「これは津波が来るぞ、絶対来るから、逃げろよ」と家内に言い置いて、自分は車を流されてはだめだと思い、すぐ出して、歌津中学校まで持っていきました。一回車を置きに行って、「まだ津波は来ねえな。もうちょっと時間があるべ」と思って、自宅に戻って、寒いなと思ったから、ジャンバーだけ着て戻ったんです。何か持ちだそうと思えば、いっぱい持ちだせる余裕があったのよ。もう、だから、自分自身も甘く見ていましたね。こんな大きい津波が来ると思ったら、いろんなもの持ちだして、車に積んで逃げたと思うんですよ。いやあ、あとの祭りだ。
それでも、一番最初の町の防災無線の放送で、津波の高さが6mと聞いてたから「6mだったら1階の高さくらいまで来るんだろうな」と思って、ただ車のことだけ考えて、他に何も持たないで逃げたんです。「また帰ってくればいい、ここまで来ないだろう」って思ったの。家内も「まあ、また帰るわ」と家の中はそのままで伊里前小学校まで逃げたんです。だから2人でお互いに小学校に逃げたことは校庭で確認できました。だけど、そこも埋立地だから、前のほうが、地割れしていたんです。「地割れしたから前の方に行くと危険だよ」と言われたけれど、かなり裂けていましたね。
公民館のほうに家があったもんで、気になってね。
自宅の位置を説明して下さる村上さん
その校庭まで津波が上がったんですからね。ここまで水が上がったの。すごかったですよ。あっと思ったら一発でドシャーン。家は波がグワーーンと来て、瓦礫がバシャーンと来て、自宅の前までちょっと止まって、それからブワーッと一気に流されていきました。それはもう、水の量がどんどん、どんどん増えて行ってね。小学校の後ろにまた道路がありますが、みんなそこに避難した車を停めてたんですよね。最後の方は渋滞して、大変だったと思うんですが、それがみんな流されちゃったんです。それを見ながら、さらに高い所、小学校の上の中学校に逃げたんです。大変でした。ずっと見てたら私も流されているところでした。
伊里前小学校は、地域の避難所になっていたので、常に避難する訓練していたんですよ。私が思うのにはね、志津川もそうなんだけども、「避難所ですよ」と指定して、しかも訓練までさせて、そこに逃げたのに亡くなった人もずいぶんいるんですよね。この伊里前小学校だって、夜暗くて道がわかんなければ、ここに避難して来られなかった人もあったとおもうんですよ。だから、避難所の指定の仕方も甘かったのかな、想定外ですむのかな、と考えてしまいますよね。
この地域の護岸については、水門、防波堤と、税金を投じて、水門なんかも相当高いのを作ったんですよ。岩手県の田老町で、明治の津波で壊滅的な被害をうけてね、作れば津波は入ってこないよ、という11mのすごく高い堤防を作ったんですよ。
議員してた頃に、それも見て来て、伊里前もこの前のチリ地震津波(昭和35(1960)年)が来た時よりも1mかさ上げして、だいたい4m位にしたんです。だから、6mの津波が来ると聞いて、家から何も持ちださないで逃げたのは、「2m超えるくらい大したことねえ」って思ったからなんですね。
税金を投じて護岸しても、ほんの一瞬、一発で終わりでしたよ。「おお、来たな。ドッカーン、バリバリバリ」って、異様な音をたてて、一瞬にして町が粉々になったので、これはどんな堤防を作っても、お金をかけて作っても、津波には勝てない、津波の来ない高台に移転すべきだと、そのとき思いました。
そのお金を新しく作る宅地の方に投じてもらって、ここで被災にあった方々が、手の届く値段で住めるように提供してもらいたいって思うんです。
それがかなわない限りは、海岸地帯には住みたくないですね。まあ、釣りだの、海の近くでないと不便なことはたくさんあるし、せっかくみんなとコミュニケーションもとれているしね、なによりこの地域に自分が育てて貰ったんだから、この町は離れたくないんです。高台に、みんなで住めるような場所を、格安に、インフラ整備、電気設備だの、道路だのっていうのはそっちの方に作って、住める所を用意してもらえればいいなと思います。いろんな意見がありますが、町そのものを形成するのを進める場所と、それから、浜作業をするところとは別々の場所でいいと思うんですよ。
明治の津波では、ここの集落が全部流されてなくなったんだ、ってことを、みんながだんだんに忘れて、浜作業のしやすい浜の方に下りて来て、家建ててるんですよ。そういうことが今度は無いように、災難に遭った我々の代できっちりと、「浜は作業をするところだよ、ここは仕事場だよ、ここは、住宅を建てては駄目な地域だ」と線引きして、行政でもそのようにやってもらうことです。我々の経験を活かしてもらって、きれいにしたいよね。みんなで希望をとってやればいいんじゃないかと思います。土地は、個人のものは大変だと思いますが、買い上げるか交換するかできると思うんですよね。そうして実現してほしいと思います。
南三陸町の出した復興後の市街地イメージ
ただ、私は海岸の海の見えるところで死にたいわね。山の方よりもね。こういう海の見える所で育った方は確かにそうだと思います。これから議論していくわけですから、まだ決まったってわけではないと思いますよ。将来に悔い残さないように、大切なことなんだもん、これはね。もう老人ですから、77歳ですから(笑)、あなたたちのような若い力でやってほしいなと思います。
とりとめのない話をしてきましたが、そんなわけで、人様にはお世話なったお返しをするというのは、常に忘れてはおりませんね。(談)
取材中、にこやかにお話くださる村上さん
取材スタッフの武藤寛和、刈田唯可、岡田唯樹
この本は、2011年9月、宮城県南三陸町の平成の森仮設住宅にて、
村上幸雄さんにお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
武藤寛和
刈田唯可
岡田唯樹
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2013年1月吉日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト