南三陸の歌津町に行ったことのある人なら「ささよ」のことを耳にしたことがあるだろう。郷土色豊かな響きを持つこの催しは、歌津町の漁村・寄木浜(よりきはま)に250年の伝統を持つ小正月の行事で、大漁と航海の安全を祈願して行われる伝統の子どものお祭りだ。現在は新暦の1月15日に行われるが、昔は旧暦の正月の満月の日に合わせて行われていた。そこで子どもたちによって歌われる「大漁唄い込み」の囃(はやし)ことばから「ささよ」という名称が付けられた。
子どもたちは揃いの青い法被(はっぴ)を身にまとい、大漁旗を持った一番年長の子ども(大将)を先頭に部落へと繰り出し、各戸の庭先で大漁を祈願して唄い込む。家々では神棚に供えておいたご祝儀が振舞われ、お神酒が旗竿の根元に注がれると歌いこみの声は一段と高くなる。頂いたご祝儀は、大将が最後に皆に分配する。この分配は船頭が船子に漁獲高を分けるまねごとで、こうした習慣を身につけながら大人への仲間入りをしていく。
畠山吉雄さんはこの「ささよ」の保存に長年力を尽くしてこられた。寄木の歩く歴史教科書といっても過言ではない。海に生きる生活が産湯を浴びた時から肌身にしみて知っている。海に生き、海に生かされる一生だ。だから海の子どもを育てる「ささよ」の行事は子どもの数が少なくなろうと、その灯を消すことはできない。吉雄さんは時に謡(うたい)で、時に筆を取り、有形無形の形で寄木の伝統文化を私たちに伝えてくださる。その素朴な人柄ににじむ寄木のあたたかな文化を、この自分史を読む方すべてに知っていただければ幸いである。
2013年6月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私は昭和2(1927)年11月20日に、ここ寄木(よりき)に生まれました。おんなじ日に、誕生日に結婚したんです。50年も60年も、一生忘れないでね。誕生日には、ばあちゃんにプレゼントすんのさ。結婚記念日だから。
鳴子温泉に行って手をつないで帰ってきたり、
相合傘をしながら歩くこともあるというおしどり夫婦。
男5人に女5人、10人きょうだいの長男です。うまくつくったもんだな(笑)。きょうだいで新年会、未だにやってんだけども、小さい頃に5歳と3歳で2人亡くなって。一昨年までは8人健在でいたんだけども、次の弟が亡くなって、現在は7人。
10人きょうだいって驚くけど、その頃にはね、6人ぐらいが一番少ないほうで、8人、10人、13人ぐらいまで産んだ人もいる。だから「ささよ」にも、ひとつの家でも小学校から中学までの子どもが、4人(よったり)、5人(ごにん)とあったとこもあるから、最低でも20人ぐらいはあったんだね(子どもの祭である「ささよ」は後述される通り、寄木部落に住む小学生と中学生の子どもに参加資格がある)。今ぜんぶの家合わせても、子どもが5人しかいないけっども。私の家で、弟と4人くらいで「ささよ」さ参加したことがある。
長男だから下のきょうだいの面倒は見たし、漁師だった親父は私が35歳の時に亡くなったから、あと私が親代わりに、きょうだいをよそさ嫁にやったり、嫁さんを取ってやったりしたの。だから、半分、5人ぐらいは兄であっても私のことを親というような気持ちを持ってんだね。「いつまでも長生きしてくれろ」って。
私も大きくなる前は、このへんでは「小漁(こりょう)」っていうんだけども、沿岸でアワビ獲ったりウニ獲ったり、あといろんな漁、延縄(はえなわ)やったり、ある程度成人してから、カツオ船さ、乗ったんだわ。カツオ釣り。神奈川県のむこう、最初は三崎、あと静岡の焼津(やいず)まで行きましたね。
なにかね、家が貧しくなければ、なんとか別な方に向いたんだけども、なんか親が子だくさんの貧乏家庭だから、「学校卒業したら、早く船さ乗せなくてはワカンねえ(だめだ)」っていうような、そんな恰好で、尋常小学校を卒業したらすぐ、15歳でカツオ船に乗ったんだね。やっぱり家が貧しい、今だら(だったら)いろんな制度もあるから、生活が苦しくたって、自分の進みたいところさ、進めばいいんだどけっども、その頃は生活すんのにやっとだから、親たちも「なに、早く学校卒業して、船さやればすぐにお金入ってくる」というような恰好だからね。私たちも自分なりに、「学校卒業したら海さ出るんだ、男は」と、そういう頭だったから。
だから、卒業してすぐ漁に行った子が学校の先生さ、「先生、このぐらい(給料)取って来たぞ」という額が、先生の1年間の月給より高かった。そういう時代だから。
ま、その頃の親たちはいくら子どもを産んでもいいんだ。男の子さえ生めば、最初はボロ着せたって、ただ学校さやっても、卒業さえすれば、金が後でいっぱい入ってくるっていうことだからね。私と兄弟3人、サケ・マス漁さ行ってた頃には、家さ帰ってくると、銀行さんが入れ代わり立ち代わり来て、「まだ(漁で稼いだ金は)入んねえべか、入んねえべか」って(預金を取りに)来たことがあったのね。
私たちの時は先生にね、長い竹の鞭でなんか悪いことすると、叩かれたりビンタやられてたりして勉強教えられて、雨降っと字も読めない暗いところで勉強して、それでもなんとか覚えたんだ。働いてても勉強して資格取ったり。私言うのに、今の子どもたち、すごく頭進んでねえのかなあって(笑)。親のすねかじって、高校さ入って、大学さ入っててさ、それで就職にもつけねえ。今の教育制度っていうのも悪いんだかなんだか。いじめだの、自殺だの、そういうのテレビで出てねえ。
ここでは今こそ護岸の下は海になって干潮になって水が引かないけっども、もとは干潮になって潮引くと、ずっとむこうまで砂場になったのね。ここ見事だったんだもの。
だから馬持ってる人たちはここで乗って、走ったもんなんですよ。そして夏場になっと、麦さ運んだ後に、馬を洗って冷やすのに、乗ったまま、海さ、すっかりこの腹まで入れて、泳ぐんだね。そうやって何回もはねたあとに、今度は(こんだあ)海さ深いとこさ入れて、泳がせて乗せてから。
時化の時は道路に波が上がるから、波の合間みて、学校さ通うのに飛び跳ねて通ったね。昔は靴なんかあんまり無かったからね。夏場なんか裸足だもの。釘の上のなんかふんでも、足刺さんねんだ。
やっぱりなんだね、小学校高等科になると、「今日は馬糞拾いですよ」なんて、2人で桶持って、馬糞拾いに行ってそれを肥料にする。そのような時もあったね。何個拾ったらば、帰っていいから、なんて。その頃、馬多いから。けっこういっぱい。ここでもね、馬捨て場、何も墓場とかないんだけども、ほとんど外さ持っていって、埋めた場所は今でもわかるよ。ここの部落でもね3頭ぐらい死んでるんだな。みんなであの棒で担いでね。狭い道路、山さ持っていって埋めたんだ。足4本を太い棒を長くしたのに結んで、6人だの8人ぐらいで担いでね。ほとんどただの畑やっている人みんな、ほとんど牛だの馬だのあったからね。
漁に出始めたのは昭和17~8(1942~3)年だけど、戦争の影響は別になかったね。戦争は南方だべ。行くのはあんまり南方の方さ行かねえから。
でもね、最後、ここで終戦の前の日に、ここが空襲くったのね。そしてね、伊里前(いさとまえ:寄木の隣の部落)の港に、定置網を引く小さな2トン位の漁船2、3艘があったの。弟と2人で、庭先に出てから、小さい桑の木の下で見てたら、米軍の飛行機が飛んできて、一番先頭にあった飛行機が羽ゆすったのね。そしたら、いっせいに急降下してきて、バンバン撃ち始まった。その前の船、ばらばらに沈んだ。牡蠣イカダなども船だと思ったでねえか。弾が当たってね。自分たちの傍に薬莢(やっきょう)が何個も落ったんだ。
そんなことで、その日から「だめだから、防空壕掘れ」って。何も、今考えてみっと、山さ逃げれればなんともないんで、バカみたいな話だけど、防空壕堀りが始まった。だってその時は次の日、終戦になるとはわかんねんだもの。その頃ラジオだってどこの家にもないから。たまたま1軒ね、あったのね。そしたら、「今日なんだか天皇陛下の玉音があるそうだから、みんな来て、聞いてけろ」って言われて、みんなその家に集まったら、終戦の放送だったの。その頃、なに、山中さ逃げてて、艦載機(かんさいき)って、船さ積んできた飛行機だから、「しゃべんな、しゃべんな、敵の飛行機まで聞こえる機械あんだ」っつうから(笑)。今考えてみっとね、バカな話だなあ、と思って。そういう山だなんかあるから、隠れんのに良いんだけども。防空壕、半分掘って、次の日、終戦だった。
私たちも、戦争に召集されれば「奉公袋」って用意したの。写真、爪、髪、こう入れて、戦争行って戦死しても、誰それだってわかるように「奉公袋(遺言状や遺髪などを入れて、戦死の際に家族に届くように準備した)」ってちゃんと名前書いてね。こう用意して、もう1カ月も戦争が延びていれば、私も兵隊に引っ張られてらね。周囲の人たちは結構兵隊にとられて行ったんだべ。私も爪から髪から全部用意していつでも行けるような、準備したところで、行かないで終わりだった。その頃に「奉公袋を入れて町に」なんて軍歌なんかあんだけっども。
漁に関しては戦争中も戦後も、ほとんどかわりないね。
カツオ船には、7年ぐらい乗ったね。カツオ船は年中ではないんだね。春から夏に近い時から南の方さ行って、だんだん日本に近づいて来て10月末までやって、そのままの格好でサンマ漁に行ったね。
カツオは群れで、獲れるときは船で10艘も20艘も満船に積むくらい。かと思うと、群れがいてもエサのイワシを食わないのは1匹も食わないからね。食い気のないのはもう、カツオが何万匹いても食わないのね。全然獲れない。色が紫色か赤みを帯びて見えるのは飛びついてくる。青くなって普通のカツオみたいに泳いでるのは食い気ない。
ああいうとこで実際にカツオを見ると、腹に何も入ってないカツオはエサ食わないんだね。妙なもんで。腹、解剖してみるとね、胃袋にエサなんか入ってないんです。我々人間が考えると、胃袋にモノがないといっぱい食いたいようなもんだけど、逆なんだね。だから釣ったカツオ見ると、もう胃袋破裂するくらい食ってんだ。私たちがカツオ釣りやってる時は、1本づつ手で掴んだんです。釣れるカツオは口からよだれダラダラ流してるんだ。トロロ流したときみたいに。そういう魚は胃袋に破裂するくらいイワシ食ってんだ。そういう時は、50人で5回もやったら、もう5000貫も6000貫も釣ったよ(1貫は約4㎏)。だけど、餌がなくなれば、漁が半分でも帰ってこねば。イワシを船漕に水張って入れてるから、餌がなくなると帰って来る。カツオ船はでも長くて10日くらい。徐々に、ここの魚は食いつきがいいとか偵察しながら漁をするんだ。
サンマは今のように電気でおびきよせる前は、人力で「刺し網」やったの。そっち側とこっち側で6人くらいこう、並んでて、「イチニノサン」って掛け声かけて、息を合わせて手で網に掛かったサンマを網から落とすのね。水面に浮く方の「浮き球」を「アバ」っていうんだけど、そこにロープ通してね、船のスクリューの後方に、水面にふわっと落とすんだ。沈む方には錘が着いてて「脚」っていうのね。そこから網がカーテンみたいに降りて行く。
網がカーテンみたいに降りて行く
「アバ」とよばれる浮き球。
刺し網漁の図。網1反の長さは50mほどになる。「アバ」の間隔は3mほど。
網の目に刺さったサンマ
サンマは刺し網の目に頭のほう刺さるから、刺さると取れねえんだ。だから刺し網というんだね。このやり方だと頭の方がもげたり、頭から顔から皆ハラワタが出たりして、商品価値が落ちて、それは売り物になんねえんだ。自分の顔にもウロコやら、もげたもんがくっついてね。
そのうちに電気で照らすようなやり方に変わっていった。
ようになって、刺し網は無くなった。あの船見たことあっぺ? いっぱい電気つけてね。
サンマ棒受け網・上から見た図
今のような「棒受け網」になってから、50年にはなってないね。私たちが乗ってから2年で「刺し網」から「棒受け網」に変わったからね。サンマがいっぱいかかり過ぎてね、網が沈んだこともあるの。網が上がらないくらい。網を切って揚げたことがある。
サケ・マスは深いところにいるから、海底スレスレに来てるのもいる。網をただ海底まで下げるから別な魚もいくらかとれる可能性がある。
昔のサケ刺し網
船員は3つに分かれるのね。若い人たちはご飯組。船首の方にいるのね。魚を捌いたりだの、いろんなことやるから。船首側に寝室があるの。あとは、漁労長や船長さんたちがいる舵取る機関場、年寄りのいる船尾(トモ)と3つね。船尾の人たちの役目は、竿出してカツオを釣るだけ。
カツオ船。横から見た図
ご飯炊きはね、学校上がりの見習いみたいな人3人位でやんの。ご飯組ね。釜大きいから、学校上がりの若い船員では、その頃鉄の釜だから重いんだ。その上にコック長がいて、今日は何作るとか言って。何も大したもんは作んないよ。人数が多いから野菜だってそんなに入らない。私たちがカツオ船乗った頃にはアルミの食器でね、それにおつゆが入ってくると、おつゆの身がじゃがいも1個さ、玉ねぎ2つ位入って終わり。魚はつゆには入れないで、刺身に作る。ご飯はみんな、船上。
船首の方にいる人たちは、表船頭が箸取らないうちは誰も食べない。ご飯炊きから上がった(役目から解放された)人も、「胴回り」と言ってまだ水夫の見習いのようもんなんだ。「胴回り」が、お鉢に入れて表船頭のところに持ってきて、「ご飯用意できました」といって表船頭が箸取って、初めて食べる。カツオ船では、厳しい規律のない船なんかないのっさ。団体生活だから規律が無いとやってけないのさ。
カツオ船。上から見た図
無線長と船長と漁労長と3人くらいで操舵室にいる。一番偉いのが船頭(漁労長)。船頭は、号令掛けて、こっちさ行けって、魚を獲る分の総支配人だから。次が船長。船長っていうのは位置を把握したり、船を操るのが全部ね。機関士は機関場で、機関長入れて5人くらいでやるんだね。機関長の下に2番機関士。機関員の一番の頭。あと機関員がその船によって3人か5人か。
表船頭、表にも船頭さんがいて、こっちの若い人たちを仕切ってる。表船頭が1番舳先(へさき)で竿をだして釣る。その他に二番口っつうのがあって、この人たちが舳先の方にいる。その下で釣るのが二番口がね。2~3人。三番口ていうのもある。水夫のことを俗称でカゴって呼ぶんだね。今は双眼鏡とかで見るんだけど、私たちの時はマストの上にカゴがあって、海の魚をほら見てね、二番口、三番口の人が舳先さ上がって魚を探索するだよ。船尾の方には船頭はいないの。
ここさ上がって、まっすぐ行く時は「ようそろ~っ」って言うんだ。誰よりも先に見つけて、その見つけた魚がいっぱい釣れた場合に、そのカゴは「はいっ」と船頭から報償を貰えたものなのさ。若い頃は自分も目が最高にいい頃だったから、他の人間に負けないくらい見つけて報償を貰ったんだ。鳥がいてその下に群れが居るのがわかることもあるし、鳥はいなくても、さざ波たてて群れだけでわかることもある。鳥は遠くの方からもざっと見えるから、一方方向に飛んでる鳥は駄目で、こう行ったり来たり回ってるところの下には群れがいる。群れそのものはあまり遠くからだと見えないから。その時の天候によって、さざ波たてているのでわかる。群れっていうのは、先頭に向かって波を立てて動くから。
月給よりも、カツオ船なんかは水揚げの歩合制になっているから、そういうのひっくるめて「あたり金」って呼ぶんだけど、給料の他に、漁の終わりの時に別個にそれが貰える。
寝る場所は押入れみたいに2段になってて、船の幅だけある。水槽(魚槽)や、機関室があって。さらにエサのイワシの入った船倉が4個か5個くらいある。上から見ると真ん中に大きい餌を入れる船倉があって、脇の方に氷全部。氷を一番の底に入れて、そいつの上さ魚入れて。その時は全部角の氷をデッキの上さ砕いてね。
カツオ船さ乗ったか乗らないかっていうのはすぐわかる。こういう船さ乗らないで、別なトロール船とかいろんな船乗ったら、こういう規律なんてほとんどない。ほらカツオ船を3年も乗った子どもだと規律はしっかりわきまえてるし、言葉つきもいい。どこの船さいっても心配ないだろうと思う。50人も乗っているんだから、5人か7人位の乗ってるような船でするような勝手気まましたら、統制取れないから。でも今は、変わってから、どうなんだろうね。
漁で一番南に行ったのは、マグロを獲りに行ったオーストラリアの脇のニュージーランド。木の船で80トンくらいだから大きな船だった。ニュージーランドはだいたい日本と同じ緯度だから、四季があるわけさ。夏場はいいけっど、冬場だったら結構時化(しけ)るとこいっぱいあるわけさ。やっぱり船の中で生活して、陸(おか)さ上がるまでには「もうダメだな」と思う時、3回ぐらいあったね。
良く覚えてるのはね、32歳の時、1回、ニュージーランドで沖に時化になって、横波を受けて船が横向きになったら、あんとき、沈没して終わりだった。マグロが獲れに獲れて、揚げ縄しているうちに大きな波来るようになったんだ。船首の方から波にのまれてね。ハッチ(魚槽)に木のふたをして、しっかりバンドかけておいたから(荷が崩れないで、船が横向きにならならず)助かったのね。まあ、デッキに積んだらダメだからっていうと、みんな、魚槽のマグロさ捨ててっさ。そうやって船を浮かべたときもあるし。
あと、33歳でサケ・マス漁で「たかや丸」で北洋の方さ行ったときのこと。よく時化になると、潮が早くなって、拡げた網が巻きついて1本の棒のようになってしまうさ。それこそ、網が百反以上も棒になってしまって、置き場がないから、船のデッキの上さ、山にして積んだんだね。もう一反ぐらいで船に積み終わりだ、というところで、波に向けて進んでた船をストップしたら、船が横になった(傾いた)から、積んでた棒状の網が船の片側さよって、すっかり半分が落ちてしまって。それに、傾いたせいで操舵室の中までみんな水入って。母船にSOS打(ぶ)ったの。
5時間以上も連絡ないから、母船のほうでは「たかや丸沈没したな」と思ってたんだ。その頃、こっちでは、夢中になって水温が一度とか2度の水さ、腰まで浸かりながら、「こんなとこで死んでいられないから」って必死だ。船の外に投げた網がすぐ船の中に入ってくるのさ。船の片方が無いから、網がガバっと入ってきて。今度は、ナタだの出刃で切ろうとしたって、泡食って(慌てて)っから、網切んねえで、船の中のものをやったり(笑)。「こんでダメだ、同じことやってては埒(らち)が明かねえ」って、みんなずぶぬれになりながら、最後の手段として詰まってる水が抜けるように脇にある「水抜き」を何カ所も抜いたところ、詰まってた水がどうっと抜けて、やっと船が起き出したんだ(傾いていたのが元に戻った)。
しかし、ああいう時にわかんだよね。その、早く亡くなる人と、そうでない人が。腰抜かしてね、「だめだ」って諦めて、座ってる。みんな水に浸かって「死んでいられないから」ってやってる時に。そんとき、怒って、「このばかもの」なんて、怒りすぎたことあったんだ。船なんかで生き延びる人は、ほらそういう気力の強い人だけ。遭難したとき、「生きんだ」と思うんだね。そういうことなんだよ。
それからもう1回、兄弟2人、北洋で海へ飛ばされて落(お)ったことがあるんのさ。
投網(ともう)って、船尾(トモ)の方の籠2つあるのね。そこに弟と相手がひとりずつ入って、ローラーから流れて来る網の向きがずれないように、中心に網を置く作業してるときに、相手が弟にずれた網を振った(投げてやった)わけさ。その網で弟は手を引っ掛けられて、網ごと籠から引っ張り落とされて。弟は、やっぱり同じ兄弟でもそれだけ気力がなかったんだかなんだか、「あっ」と思ったんだべね。そういう時は作業してる網を切ってはダメだから、全速でびんと網を張って落ちた人が浮かび易いようにやるのが建前なんです。離してしまうと網は下に錘(おもり)があるから、沈んでしまって危ないんだ。だから、網を決して切ってはだめだぞって言ったんだども、船の方で切ったんだっちゃ。
落ちた所まで行って様子を見たら、そしたらもう、弟にはすがる気力無かったもんな。みんなに自分の足つかんでもらって、船上からぶら下がるようにして弟を引きあげて、手で捕まえて揚げて、その後弟は3日ぐらい寝たんでねえかな。
私が海に落ちた時は、網を別の網に繋ぐ作業をしてたんだね。何かの拍子に網がひとまとめになって海さ行くような恰好になって、網の目で脚をさらわれて、海の中飛んだのさ。
ハッと思って浮かんだら、網を上から被ってなかったら、みんなに「大丈夫だ、大丈夫だ。ええから心配すんな、心配すんな」と言って。さっき言ったように、網さ切んないで、船からその網をピンと引っ張って、落ちた奴を浮かばせとくような方法とんねえと、泳ぐもなにもできねえ。長い間の経験だからね。そのとき、カッパも着て長靴も履いてたんだけど、何も脱がないで泳いでみたのさ。船はストップしてたから、そのまま泳いで戻って、あとすぐ着替えて働いたけども。
だからあういうところでね、気力の差っていうのはわかる、生き延びるのと早く亡くなるのと、そういうので差があるんだな。
船が傾いても、よっぽどのことで沈むなんてこと、まずない。あれほどまで、ひどいことになっても私の乗った船は沈没しなかったんだから、簡単に沈没しないもんだと思ったね。よく、帰る途中で沈んだとかなんとかっちゅうのは、「なに、大丈夫だ」なんて、無造作にあんまり考えないでやってて沈没するんだ。最近の自動操舵なんて自分で舵とってねえで、自動で任せてっから衝突したりなんかするの多いの。
その頃はひとつの母船で40艘ぐらいの船で行ったんだ。だから、10船団で集まれば、350、60から400艘ぐらいいた。全部、各地から出て函館で集結して函館から出ていくわけ。函館は大歓迎だったんです。どこさ行っても、「船員さんご苦労さまです」。風呂も半額、電車賃もほとんど半額、映画も半額。飲み屋は・・・違うな(笑)。函館はあれで昭和34〜35(1960~61)年あたりは栄えたんだね。
函館から北洋向けて出港する時は、岸壁にはいっぱいの人がいた。あれで、函館が栄えたんだもの。
親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。
海苔を始めるのに、最初は天然の海苔のタネつけといえば、垂下式だったのね。元の歌津町でも浜の漁協とこっちの漁協と2つに分かれてんだ、漁協が。で、こっちの漁協だけで、研究会っつうのをつくって、指導員さんには県の漁協の方が来て、あとはこの辺の水平の高さと干潮時の高さ、いろんなの測って、このへんさ網をはれば、この水位さえあれば、ここの部落では海苔が付着しますつう格好で。
一番最初は海苔の胞子をとって、貝殻につけて、それを生育させて、温度と日光の具合をみながら熟成させてる。それから張った網さつけるんだけども、その時期になったらば、海苔のタネ付いてる貝殻は、最初真っ黒くなってるんだけど、紫色になるんですよ。それが、胞子を出せるようになってる海苔の色。3日目ぐらいなると、波で揺られるうちに、その胞子が消えてもとの貝殻のように白くなるんです。顕微鏡で見ると、胞子がみんな、その海苔網さ付着してる。
海苔もしばらく良かったんだけども、だんだんね、松島の方におされて、ダメになってきて、それに代わってワカメに切り替わりました。
ワカメ養殖を始めたのは私たち一番早いのね。その頃私たちの漁協の、いま青年部っていうけども、その頃は研究会というような名前で、私たち年代から下のほうの人たちで会をつくって、ワカメの養殖の始まりをつくって今に至っている。もとはワカメも今のように水平式でやんないで、垂下式っていう、これで3つだから、15尺=5mぐらいの長めの縄にワカメの種さはさんで、下げるやり方でした。
そう、今の牡蠣みたい。だけど垂下式は上のほうは良いけんども、下のほうが老化が早くて、製品が悪くなるんだね。それで、今のような水平式に変わったの。当時は、津波なんかもないから、縄で撚ったのを、窯作って、長持ちするようにコールタールで煮て染めて、3年も4年も使ったんだね。
そういうのは誰からの教育もなかったんだけっども、われわれ生産者が、みんなで寄って研究して、良いものを採るには、やっぱりそういう風に変えたほうがいいんでねえかって、自然にそうなって行ったんだね。
ワカメのタネのはさみこみは10月過ぎから11月。ワカメの出荷が早い人だと、2月末にはワカメは終わってもう漁に出る。ワカメは4月の終わりまで残ると原草が良くても、製品にすると、色が悪くて赤く変色する率が高いんだ。まず遅くても4月の20日までには刈り取って終了しろと、いうようなことだね。生産者だから全部売りたいのはヤマヤマだけんど、売れるからっていつまでもやってると、自分の首くくるんだよっつうこと。
今年やって、来年やめるんだらば、それでもいいんだけっども、毎年やる漁業だから、毎年お金が入るようなことも考えなくてはならねえ。値段と比べて量をいっぱい出すと次の年から在庫残ってたなんだってほら、値段を叩かれるのもある。そうすると売りたいからって、最後まで、投げるようなワカメまで売るようになる。するとその次の年が果たしてどのようになるかね。
だからやっぱり漁協あたりでも、がつっと各漁協と組んでね、何月何日以降のは絶対市場に出させない、違反したら、漁業権まで没収するぐらいの覚悟で規制しなかったらだめだで。漁協によっては、5月までワカメを買い上げたところもあるから、それじゃダメだっていうのね。誰でも水揚げできればいいかと思って、先々まで考えてんだかなんだか。ここのワカメはブランド品だからね。歯ごたえがあって。軟いどろどろのワカメは、私ら食べても美味しくねえもんね。
震災後はボランティアの人たちがワカメの養殖の手伝いに来たけど、一番遠くからここさ来たのは、神戸か大阪で、中学校の先生だっていうの。ワカメって袋さ入っているのしか見たことないっていうから、3m以上のワカメあったのを見せたの。メカブのところから付いてるワカメ。船さ乗せてって、実際に伸びてるところ、何回も連れてって見せると、へーと驚くんだ。ワカメはこう上さ、伸びてるもんだと思ってたって。お土産にやったら、味がいいんで、送ってほしいと電話やら手紙やらくる。
スーパーで買うときはどういうワカメ買ってますか? ボランティアに来るような人に話してやったんだけども、スーパーなどでボイル加工した塩蔵ワカメ買う時は、塩まぶさってないのを買いなさいっていうの教えてやったんです。塩いっぱいからまっているのは、塩の目方が勝って、ワカメそのものの重量が少ない。私たち生産者が出すときは、しっかり乾燥させて、水が1滴も出ない、かんなくずみたいな状態で出してやるんですよ。それを今度は庶民の人が出すときは、塩水をまぶして出す。
今は養殖の中心はワカメだ。ホタテの場合は、大きい船ないとできない。重いものぶら下げてるから、大きくないと網を巻き上げた時船が横向いてしまう。ほんとは今年の5月ごろできるって言ってたんだけど、今造船中なんだ。1月に三重のヤマハで作った船体がこっちに来て、それを唐桑でいろんな機械や、網揚げる道具をつけたり、さまざまな準備をすんの。そのことを「艤装(ぎそう)」っていうの。なんで唐桑って? 志津川の造船所で作れば、そのままやってもらっていいんだけど。いっぱいでなかなか、やれないから(船はその後、無事完成し、進水式を終えた)。
船を作るときには、先ず申請する。漁協の方さ直接やってもいいし、志津川の造船所さ先に申し込んで「作りますよ」となったら、あと、漁協に申請する。ただ今度の場合、志津川の造船所が壊れてしまったから、漁協の方で動力船を作るは申請順だって言われて、うちの孫が一番先に申し込んだんだ。去年のホタテに間に合うようにできる予定だったんだけど、今年になってやっと。だから去年のホタテやるのに、となり部落の船を借りたのね。だからいっぱいやれる予定で組んだんだけど、3分の2ぐらいになってしまった。
ホタテ養殖のタネは、こんな稚貝から採ってんだ。手数ばり(ばかり)くらってはわかんないから、まあ、半数は北海道からこのぐらいの買うんだね、高いけっども。半生貝だね。
タネばもらって、網さ中さ入れて、その時期来(く)っと、水温と比べて海さ入れて、そいつが付着して、最初はあの、ほんとの泡が付くぐらいになる。それがみるみるうちに、大きくなって。それを一回夏場に獲って、小さい目の「ネット」っていう網さ入れて育てて、大きめのを選んで別なネットさ入れて、大きく成長さすんだけども。だからいっぱい材料もいるし、ある程度大きくなんねえと、耳吊りすんのに繋がれねえから。
うちの屋号は「いかざ」というんだ。平仮名で「いかざ」。漢字で書いてもいいんだよ。烏賊(いか)という字、漢字で書くの大変だ。イカ釣り船が、そこさ来て、船(ふね)繋(つな)でおいだ場所だから、「いかつりざ(烏賊釣座)」と最初言ったんだな。「つり」が長いうちになくなって、「いかざ」となった。こんな屋号というものは、日本のどこにもそういうものはないんだね。屋号は家の名前。だから、新築するとき、私のうちの屋号はこれですよってご披露する。こっちでは何と(いう屋号に)決めてんだ。
こっちの下のほうの家は、日(太陽)が向かいから上がっから、「陽向」と書いて「ひむかい」です。太陽の陽さ向かえいれる字。大きい財産家の家っていうのは「おおいえ」とか、伊里前だと町を仕切ったんで、ナニ町切(ちょうぎり)とか、山の根元にあったうちは、「やまね」って屋号ついてたり。向かい側のほうにあったうちは「むかい」ってついてるところもあればね。海岸の近くに瓦の近くにあるのは「かわら」とかね、一番下手にあった家が明治の津波で400mぐらいずっと奥さ流さたんだけど、上(かみ)に新しい家建てても、昔あった屋号で下(しも)という屋号なんだ。こういう風に、ぜんぶ屋号あっからね。
ここではね、津波で流されたっていうのは、明治の末あたりで。だけんど、ほとんど家流されたという被害はないのね。昭和の津波なんかもちろん、私たち昭和8(1933)年の津波は実際に見てっけっども、ほとんど、家流されたっていうのはここ少ないんだべ。
ただ、明治の津波とは、もとの私の家の、あのくさや(草葺きの家)の家で、玄関はいって、土間になってる中を、波が来て大きな石がごろごろ行ったり。それでも家は流されねえで。被害はほとんど無いんだけっども、歴史的には、先祖が昔からここに住んでいた「元屋敷(もとやしき)」がこんな海岸にあった、とかという話はあるね。ここ寄木は昔から、家の戸数は増えなかったけんども、天然の漁港としては歌津町としては昔から一番良い。
そのために、こういう「ささよ」も残っているんだと思うんだ。漁師としては、他の部落より、みな秀でた漁師たちが多かった。それが、こういうので伝わったんでないかと私なりには感じてんだけどもね。
この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいということで、ぐるっと諸国巡ったらしいんだね。そんでたまたま通りかかったら、ここの浜さいっぱい、木材が寄り上がって、それを使って、大きいお寺を建てたんだね。ぐるっとその、木を使ってお寺を建築したっていうそれで、寄木いうような地名が。だから家の流されてない、半分ぐらいまで奥はもと海だったんだ。長い年月にだんだん陸(おか)になって、家が建つようになったから、また今後の津波でさらわれてんだ。
この部落でさえ、今度高台さ、移転するんですけども、そこの少し手前の山に、ここの寄木部落で一番先に、住んだ侍、落ち武者なそうですけど、その敷地があるのね。平らになっていて、土台にした石だなんかが残ってる。だんだんに時代が変わって、海で生活するようになってきたんで、山の方から浜まで通うとひどい(体が辛い)というような恰好(かっこう)で、そこからちょこっと行くところから、神さんあるんだけっどね。そこへ引っ越してきて生活したんだ。高いところだから「上(うえ)」ていう屋号がついてるんだ。昔(いにしえ)の人たちもさすが、津波ということには頭を入れて、高台に住んだんだね。今度の津波でも、本宅までは行かなかったけども、蔵のあたりまで波が来たって。昔からの家訓として守って、今度の震災にも助かって。
こういう話は、わりあい、なんとなくだね。うちのおやじさんでも、あんまり知らないから、よそのうちのおじいさんだの、そういうのからいろいろ聞いて。うちのお祖母(ばあ)さんは岩手県の陸前高田から嫁に来たんですけども、慶応生まれのお祖母さんだったから、いろいろ、「うちの屋号はこうなんだよ」とか、「ほんとはここは海でイカ釣り船が入っていたよ、そのために『いかつりざ』というふうになったんだ」とか聞いたね。
いまだこう私、86年ここに生まれてから住んでても、ここの部落のひとたちは、割合に働くことは一所懸命働くんだけども、そういう子孫に伝えることなんつうのは、あんまり(歴史を後世に)伝えるような部分がないような気がするんだね。今考えてみっと。
私たちの年代になれば、子どもたちさ、「前にはこういう時代があって、こうだ」って話す機会も多いんだけんども、明治生まれの人はわりあいに早く亡くなっているんだよね。60代、早いと50代。うちの親父も63歳、私が35の年に働き盛りの年で亡くなった。なんせその頃、自分の生活いっぱいでそういうゆとりも何もなかったのかなと半分思うんだけっども。
ここは家族団らんは、囲炉裏(いろり)囲んで食事をしながら、会話をすんのが関の山で、年寄りが昔話をして聞かせる、そういう面もあっけっども、「後世にこの話を残せねくてはわかんねえ(ダメだ)なあ」という気を持つ人と、なんもそういうことに無関心の人との差もあるかと思う。私は、頭はバカですけども、こんな風に、なんとか次の時代の人に、少しでも伝えてやりてえなという気持ち持ってるから、ほら、そういうのの差もあるんでないべか。今の私らの年代に近い人も、昔のことを知ってても、ほら、しゃべんねえ人もいるしね。
「南三陸バーチャルミュージアム」歌津寄木の湾に浮かぶ松島(2006年)
私は松島の由来も、少し、長さ、色をつけて書いて、公民館さ、出したこともあるんだけども。部落の何か昔からの遺産はないかな、っていう動機で、こっちのほうに実際にあった出来事を、この島の名勝地を紹介しながら書いて出したこともあったんだ。いい島だったんですけどもね。津波ですっかりやられて。アサリも何も掘れなくなったもんね。この島まで粛々と渡って行けば獲れたのに。今度(今では)地盤沈下して、干潮になっても全然出なくなっちゃったんだ。
ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、昔やってた頃は、えらい盛んな形でね。いま人数が5~6人しかいなくなっちゃったですけど。
「ささよ」を残すのに、ほら、言葉ばり(だけでは)伝わんないからと、どのように書いたらいいか、苦心したのにね。これ作ったところ、津波でさらわれてしまって。ほんでも知り合いのところに写しがあったから、それを今度コピーしてもらったのが残ったんです。
残すって、歌津町史も、復刻してもらいたい。今回作んねえと、これから先、歌津町史っつうものが、いま、流されねえでもってる人たちしかねえわけさ。これから先、たとえばまた町村合併があれば、歌津そのものの町史っつうものがおそらく作られねえべかな(作られないだろうな)。だから、今回がいいチャンスでねえかな。コピーとるったって何千もページがあるもの。
漁師の暮らしの流れが「ささよ」の中にあるね。中学校3年生の男の子が大将になって、もらったご祝儀をあとの子どもだちに分け与えるしきたりだね。親たちは絶対タッチしないって、昔からそういうしきたりで何百年もやってきた。1回公民館から来た人が、「お金を分配してるとこさ写真撮る」って入ったら追い出されたってこともあったんです。子どもたちが大きくなって船さ乗って、一人前の船員さんになった場合には、50人でも、30人でも一艘の船さ乗ってる水夫に分け与えるんだというような習慣が、そういうところから、培われてきている。
私がこの「ささよ」に参加した一番最初は、学校さ入ってすぐだね。そのころに大将から一銭銅貨を2個ぐらいもらったのを覚えてるね。それを分けるのが一番の大将ですよ、年配者だ。そして1年生はいくら、2年生はいくら、っていうふうに分配して。それで大きくなって、船頭が、使ってる水夫のこと船子と書いて「カゴ」って俗称で呼ぶんだけど、カゴたちに漁獲高を分配する意味合いが、あるんだね。だから一番の年配者が多く分け前を貰って、今年は仮にご祝儀を10万円もらった、子どもは何人いるから、年下の子どもたちにいくら分けて与えて、残りのいくらを私が取るんだ、って言っても後の子どもたちは文句も言えねえし、あとわかんねえべ。なんぼもらえたか、っていうのも。それは大将なればわかるだろうけれども。ご祝儀は何に使ったって、私たちは、ノート、鉛筆。その時代は貧しいからなかなか鉛筆なんかも、貴重なものだから、みんな、竹のわっかを着けて長くして、ほんとに短くなるまで使ったものだから。
そして今はね、お金を封筒に入れて出すからね。封筒に入れると、いくら包まっているのか分からないっていうのがあるから、「本当は裸で渡すんだよ」って、私はこういうことも部落の人たちに語って言い聞かすんです。
つまり、「自分の家の神棚に、『今年も大漁しますように』と願って、お神酒とお金を添えて拝んだのを置くんだよ。子どもたちが来ると思うから封筒に入れんだべっけど、それではダメなんだ」って言うんです。子どもに「お小遣いをあげている」んじゃなくって、「神様のお下がりを自分たちが貰ってる」ということを分からせるんです。私の家ではいまだかつて、封筒に入れて出したことない。神棚の前に、お神酒とお札そのままにして拝んでおいて、それを子どもたちに与えているんですよね。そういう昔からの習わしがあるんだから、例え1000円でもいいから自分の神棚に供えて、今年も安全で大漁しますように、って拝んだやつを上げるんだっていうことで、お札そのままで、現物で出すんだよ、って伝えてるんだけど。なかなか、ほとんどの人たちは封筒に入れて出すね。
それから、子どもたちに飲ませるつもりでお金にお神酒の入った杯を添えて出す人がいるから、それはないことにする。その年の大漁を祈願するんだから、なにも杯(さかずき)なくたっていいんだから。これがね、一回ね、県の指定を超えて、国の文化財になるかもしれない、っていうことで県の方から「ささよ」の視察に来たことあったのね。だから教育委員会から連絡あったから、今度の場合に杯を添えてはだめだよ、ってよく説明したんだけれども、その杯に酒をついでやったら一番の大将が飲んでしまったわけだ。それで、「子どもさ酒を飲ませるんでは、文化財の指定には向かない」ってお流れになった。国の文化財に指定されればそれなりの助成金をもらえる。書類を出さなければならないことはわかっているけども、いいな、と思って町の人と喜んで語っていた先ね、子どもたちに酒飲ませる行事では文化財指定には向かないからって一回で終わりです。
これも時代の移り変わりで、ご祝儀の出し方も変わってきて、いろいろ変わっているけれども、まず船に大漁旗揚げて来て、家々に大漁唄いこみを歌って、旗竿に酒を注いで大漁祈願する、これだけはずっと前から変わらない。
寄木の子どもは、小学校にあがったら「ささよ」に入れるってことは、みんな知ってるから。だいたいお正月の15日にやる行事ですから、そのお正月入ってから、3日、4日あたりから稽古やるのね。「ささよ」に初めて出る1年生なんて、勝手がわかんないから、一番上の年長が紙さ書いて教えてやるわけ。
「ささよ」の詳しい紹介や美しい写真が掲載された地元紙「南三陸」がダウンロードできます。
子どもたちに「ささよ」の歌を教える時には、もっと「民謡的に」教えたんだけれど。本当はこの区切りにもね、もっとお囃子が2回くらい入るんです。「おめでたい、あらよ」だったら、ここに「コーリヤ」とか「ヤーイヤイ」って入るんです。「おめでたい」「ヤーイヤイ」とはいる。その掛け声でほら、威勢がつくわけね。本当はそのように入れて歌わせると、とても40回やそこらで終わらないから9つで区切って、それらを抜いて作ったの。子どもは4時間かけて全戸回って、途中で1回休憩させても、大変なのね。
子どもたちがご祝儀もらいに、船を持ってる家のところにくると、船名を言う。「おらがヒデキ丸、あらよ よのある ふなだまだ」そのように歌うようになってるの。船のない家にも行くから、船のないときは「おらがヨリキハマ」とこのように歌うわけさ。船の神様のことを「ふなだま」と言うんだね。大将が家の入口で「今度の家は、こんな風に歌うんだぞ」って言うから、それにならって歌う。
実際には、子どもたちだけではダメだから、私もついて一緒に歩いてね、いろんな新聞記者だの放送局なんか来るから、いろんな説明しながら、ぐるっとついて歩いたもんです。
1. おめでたい あらよう 三めでたい かさなるとえー
2. お船玉 あらよう とらせるさかな さづけたまえやー
3. 雨がふる あらよう 船戸にかさを わすれてきたどえー
4. 呼べば来る あらよう 呼べねば来ない せきの水どえー
5. あれを見ろや あらよう しまかめ山の ゆりの花とえー
6. けせんざか あらよう 七坂八坂 九坂とえー
7. 十坂めには あらよう かんなをかけて 平らめるとえー
8. おらが寄木浜 あらよう 漁のある浜だ おめでたいやなー
9. みなといり あらよう
ろかいのちょうしいりちこむとえー
ささよー よいとこーら よいとなーえー
へんややー へんややー へんややー
子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないからって言って、発足になったんです。昭和55(1970)年8月21日だ。「ささよ」を子どもたちに50年以上教えてきているけれども、保存会ができてからまだ20何年なんです。今は小中学生合わせて6人か5人か。
歌津町の文化財登録のことで役場に行った折に、「寄木さん、なにか「ささよ」の保存について考えていることはないですか」って言うから、「祭に使う太鼓のような物でもあって、他町村の伝統行事との交流を深めて子どもたちの健全育成につながればいいかと考えてる」と私なりに語ったわけだったのさ。「ささよ太鼓」と名付けて、残していこうと思ったんです。そして、役場の生涯学習課から、県の方に補助の書類を出したんだが、いっぱいでその年はダメだった。
次の年、ダメもとでもう一回出してみたら、採択になったのが、日本生命財団(現ニッセイ財団)。その当時の助成金額で私たち一番多くもらったんです。あくまでも太鼓の購入にあてるということで、1個買って20万円でした。けれど、「貧乏家で馬を一頭持っても、どうにもならない」っていう喩(たと)えがある通り、太鼓一個もらったってどうにもなんないから、部落でなんとか、その太鼓作ってくれないかって、話し合いが賛否を呼んで、「大金かけて、太鼓を作るもんじゃない」とか、いろいろ文句は出たけれども、最後は私に押し切られて大きな太鼓2個を買ってもらって、私が法被15着とのぼり旗なんか寄贈して、基を作っておいたんです。それから、長く伝えていたおかげで、気仙沼でも地域文化賞っていうのを頂いて、私が頂きに行ったり、地域貢献賞っていうのもらいました。
ところが、今回の津波で、部落のセンター(集会所)が海岸にあって、そこに表彰されたものも、法被やら何百万もする太鼓やら、全部置いていたから、津波で全部流してしまった。バック幕って、この辺のどの文化財の人たちでも演じる後ろさ幕入れてっから、「おらほでもこれ作っか。俺とあんだで寄付して作ったらええか」って寄付したのもあったけど、こいつだけ津波のあと、見つかったのさ。
付近の人たちね、「大きくなったら学校さ入って太鼓を教えてもらえると思ったのに、流されてしまって」って嘆いてる。もともと、70%の確率で津波来るよ、って言われていたから、センターを海岸に置くのは反対だったんだけども、宝くじの支援金だったから、期限があることで、急いだんだね。高台に山を崩して平らにすれば、いくらでもあったのに、時間がなくて、現状のところに、ということでつくってしまった。「あくまでも集会所なんだから、いいだろう」ということで。その頃私たちも、部落から引退してるから、「年よりがなに、余計なこと」って言われるから強くは言えなかったね。
それでも、震災後、JR(東日本鉄道文化財団の「歌津寄木ささよ整備事業」支援)から100万円寄贈されたんです。
法被は太鼓と歌とどうやら20着ずつ作ったし、今度の保存会の会長さんも、いろんなところ回ってなんとか寄贈されて、太鼓を準備できたようだし。
だから私のところにまた、「子どもにささよ太鼓を教えてほしい」って、1週間だか10日ばりしか期間がなかったから、津波前は楽譜みたいなの作ってたけど、それも流したから、3分の1の時間で何とか終わるように全体を切り詰めて、変わらかして(変更して)、なんとか恰好だけつけたんだね。ささよ太鼓の譜は、最初は「かわらや(屋号)」さんの息子さんに作ってもらったんだけっども、叩きよう(叩き方)が3種類しかないんだ。それをいかに組み合わせて格好よく、またみんながその音を聴いて「あっ!」と思うようにやるのが譜面の作り方なんだ。あとは、叩く格好をいかにも「太鼓叩いてるんだよ」っていうような格好に見せるにはある程度の練習がいるんだな。けどもとは真ん中さ「ささよの歌」を入れて30分以上かかったのが、今年は15分ぐらいに短い。練習時間も短くてやむを得ないから、それでもいいんでないかと。
奥様のお話 お正月になっと、(吉雄さんは)5日から15日にかけて毎晩(ささよの練習に)行くんだもの。今でも、会長さんが代わったけんども、「来い、来い」って。「今も行ぐのか。やめねえで」って語って(笑)。まず行くんだっけね。子どもたちにだまされて。アハハハハ。
謡(うたい)は、幾つぐらいからかな・・さて、歳はね・・・教えられたのは、3年間やっただけだな。3年間。今から62年か63年前だな。だから、22〜23歳の時、覚えたんだ。
結婚式なんか今のように、ホテルだの結婚式場だのでやらないで、家のなかでやるっちゃ。その式をとりもつ世話人が、どこの結婚式でも必ずあるわけ。その先生に、この本で教えられたのね。3年間教えられたから、私もそのお世話役もけっこう、やったんだ。だから、今でもこの歌、謡ってくれないかっていうと、最初謡いだすと忘れないで、後の謡が続いて出てくるだね。
流派は、ここらはほとんど「喜多(きた)流」。文句はほとんど同じだが、伸ばしたりするところが違うんだね。気仙沼の方は大谷、小泉は「大蔵流」。一番多いのは舞台に合わせて謡うようなのは、「観世(かんぜ)流」。
吉雄さんの謡の教本「喜多流」
この教本で、この脇にある符号でね、伸ばしたり、声を上げて下げたりします。点々のあるのは普通に、高砂や。「たーかーさーごーや~」、「や」で伸びてっから、「や~」でこう伸ばしたりして。今度孫の、結婚式にこないだ謡ってくれってことで謡いました。結婚式ではあと、「玉の井」。
伴奏はなしなんだ。「できるだけ、腹さ力を入れて、腹の底から声を出せ」とこういう風に先生に教えられてるのね。だから、腹から声出して、3日稽古したら、普通の歌、歌えねえの。声でないの。声かすれてしまって。腹の中から出さねえかで、喉からしか声出さねえとそんなことにはならねえ。黒豆、砂糖入れて、ぴっちり煮てもらって、それで食べっと、喉がなめらかになって、声が出る。むしろの上さ、膝ついて。あぐらもなんもダメなんだもの。正座でしかだめ。正座しないと腹さ力入れて、声が出ないと。差し向かいで座って、先生が謡ったあと区切りのとこまで謡って、だいたい覚えたなと思うと、こんどは2人で一緒に謡わせられて、そして、これで1人でも大丈夫だなと思うと、今度は1人で、謡うんです。
内々で結婚式やった時には、お世話する人は、先方のお客さん来てっから、「私なりの流儀でやりますから、ひとつよろしくお願いします」という口上を述べるわけさ。そうすっとお客さんが、その謡を謡う人に文句言えないことになるの。それから謡い出すの。すると、何謡っても結局いいわけだ。「私流にやりますからその点ご了承していただきます」というふうな口上を述べておけば、えばって謡えばいいんですよ。私たちもいくらか結婚式のお手伝いさせてもらったから、そのようにやってきましたね。だから、今の若い人たちさもそのように、謡をやりあえっていうの。
この漁船の進水式には、「四海波(しかいなみ)」をまずやりました。これは、渚でも、家を立てる時でも、結婚式、披露宴でも、おめでたい時に「四海波」は必ず最初に謡います。
謡を披露した、漁船の進水式
次に「高砂(たかさご)」を謡いました。よくテレビでなんか見ると、結婚式で「高砂や~」がすぐ出るようだけど。このへんでは進水式の時、九分九厘、「高砂」。結婚式だとかなんかの時には「入り船」。3つ謡わなくてわかんない(いけない)から、あと喜びの歌をひとつ。最後に「さあ、めでたい」ってことで、めでたい端唄と。
昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んでもいいならいいけど」って言って、行かないで、そのまま車で逃げたから、助かった。取りに戻った人で助かった人いないって。
津波来るまでに何十分も時間あっても、このように人が亡くなっている。家に戻った人はみんな亡くなった。そして海岸でいろんな海の道具やなんか、確保なんかして送り出したひとは亡くなったし。船を沖に出すなら出す、置くなら置く、っていう決断を早くしないと。
私の孫もね、「船で逃げる」って言うから「船なんかつくればあるんだから、いらないから、船は沈めてもいいから車で逃げろ」って。
船に乗って、沖に出るのが遅くなって、その辺で津波をまともにくらって、沈没したら船ごと終わりでしょう。船で逃げたって、ここから沖合まで、30分も40分もかかるし、その間に、ホタテからワカメから一杯筏(いかだ)があるから。逃げてもあの島のあたりまで行ったころに波がきて、それで終わりです。津波が来たときに、船を出して逃げるということは、今後考えない方がいいから。たまたま助かった人たちの話は自慢話にならないから。それで万が一船で出た人がみんな津波にやられたらどうするの、って。
私は、震災当日、家から逃げたの。家内のばあさんは、高野会館(志津川の集会所。当日老人会が開かれていたが、帰宅できない多数のお年寄りが屋上で津波を被りながら一夜を耐えた)にいたんだな。
家で、私と息子夫婦と、女の孫と4人で、ワカメの芯をぬく作業をしていた。そしたら、大きな地震が揺れたのね。3人は地震と同時に作業場から田んぼに飛び出ていったの。ちょうどおやつの時間がくるから、3時だから作業場にヤカンかけたの。それがひっくり返ったり。私は地震の時はいつでもね、急に飛び出したりなんかすると、屋根からなにから、いろんなものが落ちてきて、けがする可能性が大きいから、作業場に最後までいた。そのうちに今度は電気が消える。そして地震がおさまってから外にでたら、そしたらほら、3人で田んぼに立ってた。そのうちに有線で「6m以上の大津波が予想される」って始まった。からって。近所の人に、「6m以上の津波がくるとそこまでいくから、ダメだから、車で逃げた方がいいぞ」って声をかけて、向かいの人に「なに洗濯物なんか干して、有線聞かないのか、6m以上の津波がきたらやられてしまうから、じいさん車に乗せて、早く逃げろ」って。そこ、寝たっきりのおじいさんがいるのね。その一声で洗濯物なげて、それで助かったの。
だけど、また一段高いところの奥に、私より2つ先輩の人たちが住んでたのね。ここまでは来ない、大丈夫だと思って庭で見てたの。1回の波で私の家なんかものすごい音がしてバリバリっと音がして壊れたので、驚いて見たときはもう、家はこれまでだった。そのおじいさんを隣の家の息子さんと後ろの山に引っ張り上げて、なんとかその時は助かったんだけれども、常に体が弱かったから。避難先の病院にかかって、こっちの仮設に帰ってきて、とうとう亡くなった。
今回の津波では、まさか流されるとは思わなかったけっども、近所の人の中には位牌を背負って逃げたり、お米もちゃんと高いところさ上げて逃げた人もあったんだ。チリ地震津波も経験しているような人、海岸の一番、川口にある人はいつでもすぐ津波来っと流されっから、いつでも逃げるように準備したたんだ。用心して、お金でも車でも持ってね、逃げたんだ。おらたちはちょっと離れてっから、なに、ちょっと大きな地震が来たと語ったって、流されっと思わない。戸倉のほうなんか奥手(海岸から離れたところ)の人は一家みんな流されたりしてんだ。「地震おさまったから、なに、お茶でも飲みな」ってお茶飲んでて一家みんな亡くなったというところもある。
ここから少し行くと大学の人が碑を建てた「波来の碑」って、ここまで波が来ましたよって、石が建ってっから。
私、いつも枕元に重要書類、土地の所有権とか、なんだかんだおいて、風呂敷に包んで準備してたんです。けど、なにも、逃げることで頭いっぱいで、それ持って、お金などは持たないで出たんです。逃げてくるとき、まさか家が流されると思わないから、また戻ってくるって思っていて、位牌も何も持って来ないで。一回サンダルで出たんだけど、これ履いてはどこにも逃げられないと思って、長靴に履き替えました。サンダルで逃げた人は大変ですよ。ああいうときは気持ちの方は急ぐから。運転できる人が3人も4人もいるのに、大きなトラックもあったのに、自分の車乗んないで、よその車1台にみんなで乗って、自分ちの車ほとんど流してしまったしね。それから小さいトラック買ったから、今は何するったって載らないからしんどいんだ。
近所の知り合いなんかは落ち着いていた。位牌なんか全部背負って来たからね。家の娘も、自分のお金はさておいても、部落の書類は流せない、って2階に駆け上がって、親父が部落の会計役でつけてる一切の書類を全部持って、来たからね。今銀行でも郵便局でも、通帳なくても、連絡すれば全部手続きできる時代だから。何千万のお金だから。部落のお金だから。保険に入って1年しか経ってなかったし。
私は「ささよ」が青少年の健全育成に貢献しているということで、旧歌津町長さんから感謝状をもらったこともあったし、旧歌津町で2番目の防犯実動隊って私たちの部落で作ったのさ。その副隊長までやって、防犯活動に尽くしたってことで、県警と山本知事さんと連名で感謝状を貰ったり、精神薄弱者関係の会長を3期やって、それを後の人さ譲って、今度は相談員になってから、車がないからバイクで町内をグルっとあるいた(出かけた)。今までいっぱいいろんなことやって、みんな感謝状あったけれども、なに、全部みな流した。そっくりね。
そういうのを並べて書いておいたら記念になるんだけど、そういう記録も残ってないからね。
私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、暖だけはとれたからね。
女の人たちはかまどを作って、カマとかを拾い集めて、米は応援してもらってきて、そこでご飯を炊いたり、おつゆを作ったり、畑に行って、白菜とか野菜とってきて食べたりしたから、あそこでは良かったんだ。大きいカマがあるからそれにお湯をくんで、顔を洗うとか、なんかほら、寒い時だから、水じゃ大変だからお湯を沸かしたり。いろんなことをやったね。湯飲み茶わんとか探せばいっぱいあるから。洗えば、済むものだから。つつじ苑で助かったのさ。
でもやっぱりあそこに避難しても様々ね。朝ご飯つくらないで、自分の家に何かないかと思って、探しに行ったり、避難先ではろくな手伝いもしないで、ご飯出ればご飯食べて、また自分のものを探しに行って。そういう自分のことしか考えない人たちが何組もあったの。「かばねやみ(※宮城の方言で、本当はできるにもかかわらず、なんのかんのと理由をこじつけてなにもしないこと、またそういう人)」だね。私たちは箸(はし)もなにもないから、竹を切って、竹で箸つくって、そういう応援ばかりしてました。韮(にら)の浜の人たちにも何十本も箸を作ったら、「記念だから、しまっておく」って語った人もいたね。米だって隠しておいたの、すぐには背負ってこれないからって置いといたら、3日もたてば横から穴開けてかっぱらって食べた人もあったし。でもだいたい盗んだ人わかるのね。500円玉入れておいた貯金箱も4個流されて、1個あった~!と思ったら中身抜かれてね、他は拾われて見つかんない。
支援は医療関係の人たちは早かったね。そして3日目か、4日目か、長野からトラックで第1便来て、炊き出しやってもらった。その人たちが今度、炊き出しをしているうちに話し合って、話がすすんで、材料全部長野からもってきて、山に小屋を作ってもらった。
孫が「犬、貰ってもいいんじゃないか、私が育てるんだから」っていうから、生まれて30日くらいでわざわざ、長野から持ってきてもらって、名前マックとつけて。私はいらないって言ったんだけど。ワカメの時は、小さいからこの犬が大人気だったのね。海岸に連れてくると、みんなボランティアの人たちに好かれて、「マックの家に、みんなワカメのアルバイトしに行く」と言い出して。だけど今でかくなってね。まだ10カ月なんだけど。2匹一緒にもらったんだけど、片方はその半分しかないからなあ。
トイレは使っちゃダメですよって言われたって、年とった人情けないから、いっぱいやるんだっちゃ。つつじ苑には避難してる人が何十人も人がいたから、満杯になっちゃう。だから、山に3カ所トイレ作ったんです。足腰の悪い人が、座って用を足すように作ったの。最初は穴掘ってみたものの、しゃがむのに大変だから、今度は桶を高くて、その上にカゴをかぶせて、真ん中に用を足すように切って、その上にスチロール箱を置いて、しゃがんでも痛くないように穴をあけてやって・・。桶がいっぱいになれば、若い人たちが山の向こうの方に穴を掘って、投げてきて。
今、長野の人たちが支援してくれてるのを見て、向こうの人たちがこうなった場合は、果たして自分たちにこのようなお礼ができるかって話しているのね。いつ何時こういうことがあっても、率先して応えなければわかんないんだってことは、若い人たちなんかに伝えたいね。是非やらなくちゃだめだぞ、って言ってる。1人でも多くかけつけるような心構えでなくてはダメだぞ、って。
一番感激したのは、大分から来た、まだ若い女のお医者さんだったんだろうな。2人で来て、仮設の小さいテントの中で泊りながら、2日くらい、いろいろな診察したり、そういうことしてもらった。あれには感激したね。あの年代の女の子で、あの前にテントを張って。みんなの、身体を診てもらったっていうのは・・。だから、ああいうのを忘れてはだめだぞ、っていうようなことを常日頃私言っているんです。
私は薬ひとつ飲んだことないから、先生来ても来なくてもいいんだ。保険証汚したことないから。それでもね、みんな、血圧測って、薬もらったりして、避難所にいっぱい、先生が入れ代わり、立ち代りきたから、常には医者にかかっていない人たちまで診察で、血圧測ってもらって。そういう時だから測ってもらって血圧上がっている人が多いんだ。
鳴子に避難した時も、市長さん始め、向こうの人たちは大変お世話になった。入れ替わり、立ち代りくるんだもの。毎日。物資は大事にしている中で来てもらって、その他に物資持ってきたいろんな、園芸やる人たちも、かわるがわる3日に1回とか1週間に1回とかきて、初めてああいうふうにしてもらって、常日頃なんともなくピリピリしていた人たちも、いくらか心変わりしたんじゃないかな。こういうことあったんだから、お前たちは向こうで何かあったときには、この何分の一でも恩返しする気持ち持たなければって、はっぱみたいにかけて言うのさ。私はこういう性分だから、このとおりだからビシビシ言うわけさ。
今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だから私もいつでも来るから、あなたたちも来てお茶のめ、って言ったの。引っ越しした人は来なくたっていいっていうことはいうなってね、今朝も語ってね、笑ってきたけれども。だけど、家を建てるのは最初孫たちも私も反対だったけれども、そのうちに寄木と韮の浜の両部落の人たちが40戸も、歩いて5分もかからない近くの高台に移転するようになったから、それならばいいんじゃないかってことで、私たちも納得して入るようになったんです。でなければ私も最後まで反対したのだけれど。
今どこでもね、坪単価が急に値上がりして、一坪70万。高いね。高台に建てる人もね、来年の年度末になれば整地始まるんだから、ちゃんと整地始まる前に大工さんを予約しないと、大工さんたちは、もう予約でいっぱいでね。ある大工さんなんて150戸も予約受けてる。だから高台だの、整地ができて家を建てるようになったから大工さんに頼むべ、というようなことでは遅くて、そういうことも頭にいれていて、誰かがどこそこに建てるとか言ってたら、「大工さんがっちり確保して、それから整地するようなことじゃないと、だめだぞ」ってね。そういう風にしないと、3年も4年も今度いつまでも狭い仮設に入っているようになるからって。
すぐに家を建ててすごいと思うかもしれないけど、私たちは海が相手の仕事だから、漁業さえ確定すれば、銀行から借りても払うくらいの金がとれるっていう自信があるからね。
この辺りでは「契約講」が2つあるんです。昔から伝わっている契約講は、昔からいる財産持ってる人たちで、入るには何十万ですよ何百万ですよってお金が必要なのね。そんな大金を出すには、自分の生活するのさえ大変な時代だから、加入しないで過ごした人たちがいて、その人たちがあとから新契約っていうのつくって。あくまでも古い契約のほうから部落の会長をだす。そして新しい方から副会長。そして、会長になった人は部落の一切を仕切るわけだ。
志津川のほうでは、なんでも行政区長さんが代表だっていう。区長っていったって、行政のこともやるし、部落のことも一切のことやったら大変だべ、っていうから。そういう風にやってきているから。なんだか区長になる人は大変なんだろうな。町の方のことも精いっぱいなのに、部落の一切のやることまで頭にいれていたら大変。
だけど、昔の歌津町は行政区長さんの方は町の方の行政を担当して、あとのことは、契約会が仕切るんだっていう感じ。会長やっていた時分には、年に一回ずつ会長会があり、役場のほうからも人が来て、会ったんだけれども、今はどうなっているのか。私が辞めてから何十年になるから。
震災後に入った寄木仮設って9世帯で部落の人たちだけだから、たとえ魚一匹取ってきても、自分の家で食べきれないと、さらってきたから、って分けてやったり、梨送られてきた、食べきれないからって一個ずつやったり、畑もやっていればきゅうり持ってきてやったり、そういう、普段からのいたわり合う気持ちは、津波の後でも、まず変わりないんだね。仮設に住んでるのが部落の人たちだけで、ここで良かったなって。
だから、仮設でも豆送られてきたって豆分けてよこす者もあれば、リンゴ来たからやってやったり、米なんかも一杯送られてきたから、食いきれないからわけてやったりして。ここの海岸でワカメ作業しても、震災でばらばらになっているから、今は難しいけれども、自分の仕事、ワカメの切断から、メカブを切断したりの作業でも自分の家の分が終わっても、よその家が終わらないと、手伝ってね。寄木はそういうことについては、歌津町の時代から、模範部落として何回も表彰受けているんです。こっちの言葉で「結(ゆ)いっこ」って言うんだ。ここは仕事なんか遅れると、他の仕事でも畑の仕事でもみんな手伝ったから。沖に作業にでても、早く私たちなんか海に出ると、一人で出てる人の船によく乗り移って、手伝いした時もあったのね。一人でかわいそうだから、遅くなるからって。みんな、結っこをやったんだ。
だから共同精神はこの辺は、この部落は一番ね。お母さんの教育がいいから。親の背中を見て育つっていう喩えがあるんだもの。親がこうやってるから、自然にみて。教えるのではなく、覚えるんだよ。それにやっぱり体惜しまず動く人と、動かない人とは全然違ってくるよ。(談)
この本は、2012年10月から11月にかけ、
宮城県南三陸町歌津寄木にて、
畠山吉雄さんにお話しいただいた内容を忠実にまとめたものです。
聞き取りにあたっては、寄木の丸七水産の高橋七男さん、和子さんご夫婦はじめ
高橋家の皆様の多大なご協力をいただきました。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
[取材・写真]
土田照美
織笠英二
五十公野実和
久村秀樹
久村美穂
[イラスト]
土田照美
[編集協力]
土田照美
五十公野実和
牧 れい花
大橋弘幸
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2013年6月吉日