これは、志津川に生まれ育ち、地元の家を建ててきた三代続く大工さんのお話です。笑顔の絶えないひょうきんな感じの芳賀さんですが、丹精こめて建てた家や神棚が津波に流されて「一時はやる気が失せて」とおっしゃいます。でもお話が盛り上がるのは、やはり仕事の話でした。
大工さんとしての自負、執念、東北の職人魂が、お話の隅々から伝わってきます。
誰かのために自然に手を貸している、そんなやさしさの反面、節々に気骨が感じられるお話でした。
復興の真っ只中に身を置かれて、休みもままならない中、貴重な時間を割いてお話を聞かせていただき、ありがとうございました。この地方独特の神棚ができるのを楽しみにしています。ぜひ見せてくださいね。
2012年9月吉日
RQ聞き書きプロジェクトメンバー一同
私は昭和35年12月25日、志津川で生まれました。日本の高度経済成長期といえば、そういう時代ですか。
親父が大工で、私も大工。普通の大工です。うちの家は分家して独立した新しい家なんですが、本家のお爺さんはすでに大工だったから三代目ということになりますね。
お爺さんには息子が3人いて、つまり、親父とおじになりますが、全員大工になりました。独立してみんな近所に住んでいますよ。お爺さんのご先祖までは大工だったかどうかはわかりません。お爺さんは私が生まれる前に亡くなっていました。
その息子の父もおじも全員、一人仕事と言いますか、工務店という形で会社組織にしてはいないんです。4~5人のフリーの大工が組んで、自分の仕事のあるときは人を呼んだり、また、よその建築現場に呼ばれて手伝いに行ったり、という具合に自由に動いていますね。工務店の看板は掲げてませんけれど、そういう働き方は多いです。
地元で純然たる工務店は何軒も無いですね。仕事はお蔭様でほとんど地元です。何年か前から、不景気になってからは志津川の外に出ての仕事もするようになりましたが、通いが基本ですので、遠くても仙台です。
お爺さんは岩手の出身と聞いているけど、明治の末か大正の始めあたりに移り住んだようで、私が生まれた頃は、うちはこの辺に住み始めて50年位だったので、まだまだ新参者だったんです。ここでは100年、150年住んで初めて地元の人になれるんですよ。新参者というのは、「疎外されていたわけではないが、混じれない」って感覚です。私の代ではそんな風には感じないけど、親父の頃は感じてたみたいですね。
やかましい子供だったと思いますよ。「おしゃべり」っていうより、よくいるでしょ。集会なんかの時ひとりでワーワー騒いでいる子。そのタイプ。中学校頃まで、いらないことヘラヘラヘラヘラ、こちらでは「おだずもっこ」っていうんだけれど、お調子者って意味かな。水戸黄門でいえば「うっかり八兵衛さん」。
歩いている先生の前に足出してひっかけたりはしたけれど、やんちゃな方ではなかったですね。みんなで騒いで正座させられたり・・・我々の年代、ビンタや拳骨を喰らうっていうのはまだありました。
ガキの頃から「ヤマ学校」って、学校に行かないで山に行ってサボっていました。陰でタバコ吸ったりの悪さをするんじゃなく、本当に山に入り込んで過ごすんです。おおらかな時代でした。我々よりもっと前の年代だと、サボって山や海に行って遊んでもいたでしょうが、我々の頃にはホームルームの時間などに何人かグループで授業を抜けて、広っぱや山で日向ぼっこしたり、うろうろして時間つぶし。その程度のさぼりです。中学校までそんな風に過ごしました。
イラスト:土田照美
私は花が本当に好きだったんですよ。近所に、1~2歳年上の山歩きとか花とか好きな先輩方が居ましてね。その人たちにくっついて歩いているうちにその影響で花が好きになったのかな。山から木を持ってきて庭に植えたり、珍しい花を採ってきて植えたり、その人たちと遊ぶ時は山行って花のことだけ。
愛読していたのが「趣味の園芸」です。学校でも、教科書でなく「趣味の園芸」読んで。漢字も「趣味の園芸」で覚えました。「授業のことをしないでお前は」って言われていました。そういうことに興味があったんですね。植木職人になろうと思ったんです。
家は共稼ぎでね。おふくろは地元の海苔工場に勤めていたから、本家のお婆さんに育てられたようなもんです。
そのお婆さんは、103歳で亡くなったんですけどね、中学校に上がる頃だったと思いますが、「お前これからどうすんだ?」って言うんです。「ウチは大工だし、いろいろと大型機械があるよな。花の世界は趣味でもできるんじゃないか。大工になって、好きな花をいじればいいじゃないか」と言われて、「そうかなあ、大工になるかな」と思い、大工の道に進みました。
大工の一家に生まれたので、親としては後を継いでほしいという気持ちはあったかもしれませんが、直接そういう教育はありませんでしたね。中学校を出て、建築関係の専門学校に行ったんです。古川の高等技術専門学校建築科というところです。3年間ありましたが、そこは1年でマスターしたもんで、勝手に飛び級しまして(笑)。1年通えば十分でしたね。
それでそこを辞めて、志津川の知り合いの大工さんに「登米に自分の弟子がいるから、その人に付いて修行したらどうか」と紹介され、登米の大工さんに「見習い」に入ったんです。「徒弟制度」って今でもありますが、まるっきり他人の家に弟子入りして4年間修行させてもらうんですよ。職人の世界では、一度は地元や親から離れて修行する、つまり、まずは他人様の家に住み込んで、そこでご飯を頂いて、技術を身につけるのが基本なんですよ。何の世界でも同じでしょうけれどね。
一人前の大工になるのには、個人差がありますね。修行は4年間の「見習い」が基本ですが、そこから何年もかかって一人前になるんです。でも、30歳前に一人前の大工として出来あがらないと駄目ですね。40歳50歳になっても駄目な人は駄目なんです。
4年間の修行時代は、やはり人生の中では一番大変な時期でした。今思い返しても、そう思いますね。修行ですから「タダ働き」ですよ。小遣いはあの当時で、1カ月5000円だったかな。仕事は頑張りましたよ。
この年代の同級生に珍しがられるかもしれませんが、朝、起床は3時4時は常でした。何をしていたかって、犬の世話なんですよ。2匹くらい飼っていたかな。まぁ犬が吠える(笑)。「近所に迷惑だから、散歩に連れて行け」っていうわけです。無駄吠えがひどい犬で、やかましくてね。「犬が吠えたらお前のせいだ」って、こっちが悪いんじゃないんですけどね。その吠える時間帯が、日に日に早くなっていくんです。4年間で4時、3時は当たり前になっていくわけだ(笑)。それでも散歩に連れていかなくちゃならない。仕事自体はそんなには辛くなかったんですが、それが辛かったですね。帰ってきて15キロ増えてこの体になりました。
見習いは、まずは掃除からです。犬の散歩の後は車の掃除でした。
実は、私は16歳のときに、オートバイで2度続けて事故を起こしてしまったんです。「お前は危ないからバイクの運転をしてはだめだ、車の免許も取らせることはまかりならん」ということになり、先生が現場まで毎日、私を車に乗せて移動することになりました。毎日ご飯を食べたら車を掃除しながら先生を待って、7時になると現場に一緒に出勤し、5時半に帰る、その繰り返しです。犬の散歩と共にその時間が一番苦痛でした。
現場に着くと、清掃や道具の手入れから始まりますが、先生が仕事を教えてくれるわけではありません。一緒にいる周りの職人さんを見て盗んで覚えるのが修行です。今でも手仕事の世界というのは、そういうものなんだと思いますよ。もちろん、最初から大工の道具は持たせてもらえません。
先生は、元々機械を使うのが嫌いな人でした。そのため、20歳過ぎまで機械は一切触らせてもらえませんでしたし、「丸のこ」なんかも、危険な道具で一瞬で指が無くなってしまうので、「責任をとれないから」と、触ることを許されませんでした。同年代の大工に聞けば、「入門して次の日にはもう機械を使ったよ」という人もいます。
しかし、その厳しさがかえって自分にとって良かったんだと思います。基本から教わったというのは、本当に今では助かっています。手で覚えて、基礎があって、機械に触ればうまく加減ができるようになるのですが、今の人たちは教えてもそういう部分がわからないですね。手でやってみたことのない人にはわからない。口で言っても理解できないのがこの世界なんです。
今にして思えば、よくやったなと思いますね。今は手でやるというのは殆ど最初からありません。こっちとしても若い人に教えられたらいいのですが、時間がないですね。もう機械から覚えて貰わないと。現場に入っても後輩しかいませんからね。この辺りの大工は20代で5、6人。30代でもそんなもの。40代も10人ちょっとしかいません。
先生は忙しい人で、一般の注文住宅だけで1週間に3つ家を建てたこともありました。昭和52~6(1977~83)年ごろは、そういう時代だったんですね。
たまに他の職人さんが入ってくることもありますが、基本的にその先生の仕事だけを見て修行しましたから、決まった技術しか身に付かなかったけれど、先生は厳しかったから、そこで学んだことは、自信になっていますね。大工の技術の基礎をそこで学んだことで、実家に帰ってからは楽でした。
一人前っていわれるのが「墨付け」からかな。柱、梁に墨で刻みを入れる、それをやらされた時。3年目位でやらされましたね。やはり一つ一つこなすことから始めますが、一つ失敗するとしばらくやらせてもらえないんです。さすがにペナルティはありますね。なんとか寝ないでやったというところはありますね。
そして、最初は人目に付かない所の仕事、たとえば押入れ、トイレって順番で進んだね。押入れの中は狭い場所での作業になるので、実は結構難しいんですけどね。大きい部屋のように、材料が長い場所のほうが調整がきいて楽なんですが、短いところはピタッと切んないと後できつい、ゆるいが出て来るので、難しいんです。
その後は、表に見える、和室の長押とか廻り縁とかを担当します。最後は床の間かな、一番の見せどころは。
あるとき、ちょっとした細工のところを「一本付けてみろや」と言われて、初めてやりました。最初に付けたのは覚えていますよ。柱と柱の間に鴨居が渡っていますが、それを柱に入れ込むんですね。ピタッと髪の毛一本の隙も無いように、綺麗に収めないとだめなんです。で、さすがにそれは失敗しました。怒られましたよ、「このザマ何だ」って。汚いものはやり直さなければならない。けれど、そういう、ちょっとした、難しいところを一歩ずつ、進んでいくんです。
初めてやる仕事は、それは緊張しますよ。そうやって色々な場所に挑戦しながら、覚えていくんです。うん、この経験は人生において大きいものでしたね。
いくら先生が「責任を取るから」と言っても、初めは100万や200万の材料を目の前にして触れないわけです。それ一つ経験しておくと、自信になって、「これは300万円の木だぞ」と言われて、「これを削れ」だの「切れ」などと言われたら嬉しいし、やりがいもあるというものです。
大工をしていて一番難しいのは、全体を見る、総合力のようなものです。後々隙間が出来ないように、とか、頑丈に作るための頭の使い方の問題かなと思います。どこの現場でもそういった点で、仕事の本質はみな同じです。
鴨居をキチッと入れ込むとか、化粧板の留め先などの角をピタッと付けるとか、さらに、その時は付いていても、それが何年後何十年後、隙間が空かないだけの技術、何十年後も全然狂わない細工、それがわれわれ大工の技術です。そうする為に日々精進するのであって、やることは同じなんです。難しいっていう感覚ではないですね。基礎をしっかりと覚えれば、穴を彫ったり、ノミを使ったり、新しいものが出てきても基礎さえわかれば対応できるんです。
「建前(たてまえ、上棟式のこと)」というのは、墨付けに失敗無く家の骨組みをピシッと建てて、皆さんの前での、家の最初のお披露目です。今では建材も機械によるプレカットが多いですよね。震災前は自分は一度しか使ったことがなかったんですが、その後は多いです。ツーバイフォー(2×4)は、逆に分かりませんね。最後の最後の段階で手伝いに行ったことはありますが。やはり在来工法の、柱梁から始まって、総てがきちっと収まって終わる、それが一番気持よいですね。
「建前」といえば我々は、土台に柱を立てる時、土台のホゾ穴に柱のホゾを入れ込むんですが、きつくきつく、叩いて叩いて、入れ込むんです。それに比べてプレカットはスッと入るんです。それはそれでいいんですが、我々在来の大工の考え方とちょっと違うんです。木って直角、水平に切っても全て微妙に曲がっているんですね。歪みってのは取れない。その歪みを計算に入れて使う場所や方向や組み合わせを考え、きれいにまっすぐに見せるのが我々大工の技術なんです。歪みを知って取り付ければ後々狂いが来ないわけです。「全て真っ直ぐ」では家はできないんです。
建前にあたって「番付」ってあるんです。柱1本ずつヘの1番ロの2番・・・とういうように全部番号を付けていくんです。柱を全部並べて。こう曲がってる木、ああ曲がってる木、木のいろいろな「くせ」を見ながら適材適所、割り当てていく訳です。
先日若い大工さんから「それやったことない」って言われて「えっ」。彼は墨付けられるんですよ。ただ「木」の目や性質を見て墨付けをしたことが無い。木は隠れて見えなくなるからどの木も一緒なんですね。正面だから節のない木を持ってきましょ、節があるから陰の見えない所に使いましょ、曲がっているからこれとこれを組み合わせてお互い突っ張り合わせて使いましょ、っていう全ての「木」の質をみながら墨付ける時代は終わったんでしょうかね。
木というものは東西南北の斜面ごとに違う性質をもつので北に生えた木は北側に南に育った木は南側に使うのが理にかなっているのですが、今は製板から持ってくる時代だから木の所番地がわからない。地元で切った木ならどこの山から来たからこの部分にこれは向かいの山で採ったからあちら、というように昔は建てたから建物の持ちが違ったんでしょうね。
家具の勉強もしたから、家具も作れますが、最近は作ることも無くなりましたね。欄間ですか。彫刻には興味あります。だけど宮大工さんのところに行って勉強はしたけれど、絵心がないからね。隣に置いて真似て彫ることはできるけど、彫刻は彫刻屋、格子は建具屋の専門分野になります。
この辺りでは、今でも大工が工事全体を取りまとめて家が建つことが多いですが、法律的にいろんなしばりが出てきたので、建設会社、設計士さんが注文を取って、大工はその下請けって形で入って、分業してやる機会も増えてきました。
昔は大工といえば、木を鉋(かんな)で薄い紙みたいに削り出すのを思い浮かべる人もいますが、さすがに今は機械の時代になりました。製品で出来るので自分で作ることが少なくなって、それはそれで楽になったとも言えます。
今でも大工仕事が基本ですが、こだわりは言っていられません。鉄でもコンクリでもさわります。コンクリートの中の造作、中の木工事の部分です。
17歳から登米の先生に「弟子」っていう形でお世話になり、4年間修行しました。
見習い時代に登米で建てた家は、サラリーマンの一般家庭の家が多かったですね。坪数の大きな家はありましたけれど、「母屋造り」と言って、屋根の垂木を化粧で見せたり、外壁に、桁、柱をみせる化粧造りのような手の込んだ家ってのは一度もありませんでした。シンプルな家です。基礎の基礎をそれなりに学びました。
その後、この辺のしきたりで普通は1年間の「お礼奉公」っていうのがあるのですが、登米は隣町ですから、志津川の実家でも早く帰ってきて仕事を手伝ってほしいという希望もあり、「何かあったらすぐお手伝いに来ますから」ということで、お礼奉公はせずに実家に戻りました。
そして、親父が大工仕事をいろいろ手広くやってましたから、それからは親父の下で働きました。自分のところの仕事だけでなく、「手伝ってくれ」と声がかかれば余所のいろいろな現場をこなし、その中で繋がりのある、いろいろな大工さんに交じって仕事をしました。
この辺の大工の建て方の特色について、自分でも情報収集してみたんです。いわゆる「気仙大工」って分野がありますよね。この辺りはその流れは確かにあるんですよ。「気仙大工」の繋がりのあるのは泊浜位まででしょうか。南三陸町の独特の建築の文化ってのを考えてみたのですが、いろいろな所から良いとこどりに技術を吸収した大工が育つ土地柄なのかな、と思います。
私の先生の、そのまた先生は、「気仙大工」の勉強をして、その流れを汲む人だったですし、実家も「気仙大工」の流れを汲むらしいです。それがこれだ、とはっきりとは言えませんが。
親父には弟子がいましたんで、一人前になった大工2人くらいに来て貰って家を一緒に建てるんですね。志津川には、「指物大工」と言って細かい仕事をする大工がいて、押入れ下に引き出しを造ったり、茶箪笥のような大きいものなどを造る人がいました。また、こっちでは、昔ながらの「隅々まで、木で全部収める」っていう仕事の仕方をしていました。
登米の修行時代は、トタン葺やスレート葺の屋根や、洋風の外壁で隠す建物が多く、見えるところまで釘を打って収めてきたのですが、こっちは釘を見せないんです。それにはこっちに帰ってきて、びっくりしましたね。一つの部分を収めるにも「ホゾ」を彫るなど、今まで習ったのとは違う技術を眼にすることが多くありました。「いろんなやり方があるな」と思ったものです。
先生自身は志津川で見習いをしたから、大工の血としては同じ血筋なんですが、ここを出てから自分なりに変えて行ったのでしょう。登米では、表面から打ち付ける仕事をしてきました。先生は、床だって、今流行の新建材フロアーでも、釘で上から打つタイプの人だったんです。
志津川に帰ってきて手がけた家は、和室が多かったです。柱は3尺、1間おきにあるんですが、真壁では、木はみんな見えるんです。その木全てに、手で鉋をかけなきゃいけません。それから、柱と柱の間に渡す建具上の鴨居ってあるんですが柱の両側を彫って埋め込むんです。ホゾを切って入れるのは、確かに手間の掛かる仕事です。でも私たちはそういう仕事に対して「大変」という言葉は使いません。
あと四隅のいろいろな扱いも違いがあります。「留め」ってありますよね。「長押」などの四隅を納める技術ですが、早い人は45度にさっと切ってのりでくっつければ終わりですが、我々は表に見えないように、「ホゾ」を入れて、あとでこの部分が動かないようにガチッと嵌め込むようにするんです。この技術はなかなか難しいんですが。機械でストーンと45度に切って、その部分をのりで合わせてパチンとくっつけたようなものは、やはり数年後にパクッて分かれてしまう。そういうことなんです。
そういう「ホゾ」を入れるような手間の掛かる作業が、今では予算的にも、工期的にも、合わなくなってきて許されないのが残念ですね。技術はあっても、できない。もう継承することはできないかもしれません。志津川でこの技術を守ろうと頑張ってくださっている人はいますが。
イラスト:田辺和子
モデルハウスなんかに行くと、「同業者お断り」と書いてあっても入るんで、嫌な顔をされますが、同業者は入ってくると目線でわかるんですね。普通の人は入った瞬間、みんな「わあ、きれい」だとか「広いー」だとか言っていますが、我々大工は見るとこが決まってるんです。四隅です。「どう納めてるのかな?」「あ、ここきれいに納まっている」とか言いながら、やっぱりそこを見てしまいますね。
見習い修行から志津川に戻って以後、いろいろな大工の人たちと関わるようになりました。何年もしないうち、25~30歳くらいの頃だったと思いますが、宮大工の方と関わるようになりました。
上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)や大雄寺(だいおうじ)など、あれだけの地震があったのにビクともしなかったのですが、そこの建築に関わった先生に、一応何年か社寺建築の現場にいさせてもらって、手伝ったことがあります。応援ですね。興味はもちろんありましたからね。
社寺建築でも、普通の部屋を造る大工は重宝がられるんです。宮大工は彫刻とか斗組(とぐみ)とかを作業して、それが終わると中の造作は我々一般建築の大工で十分対応できるんです。
その流れで、私は神棚を作るのが好きなんですよ。宮大工の手伝いに行って神棚を見て、「こういうの、いいな」と思って、そのミニチュア版を造ってみたわけなんです。小さい、細かい細工に自信がありました。どこ行っても「神棚はやらせてくれ」って言う位好きだったんです。手伝いに行っていたところの棟梁に「造らせてほしい」と頼んだら「いいよ、やっても」と言われて造ったのが最初です。現場で10日位、座布団の上に座って作るんです。
神棚は神様の本体を納めるためのお部屋を造るんです。この辺のは巾が6尺(1800㎜)とか9尺(2700㎜)大きいんです。細い垂木をいっぱいかけたり、神社のように斗を小さく拵えたり、大好きな作業でした。家は1軒1軒間取りも違いますから、そのたびに図面も自分で書いて造っていました。
書き溜めた図面も、いろんな角度から撮影した写真もありました。ようやくこの頃、自分の基本の寸法を完成させたと思っていた矢先、図面も、写真も津波に全部流されてしまったんです。そして、自信を持って「見せたい」と思うような神棚を作った家は全て流されました。お客さんを連れて行って、神棚を見せて「こんな神棚がいいなあ」と言ってもらうのが楽しみだったんです。だから、一時期は本当にやる気が失せてしまって。簡易的に造ったのは何軒か残ってはいます。仮設住宅の例祭堂、役場、工事現場の事務所などですが、人に見せるほどのものではありません。
今は、仮設住宅や事務所で「神棚がほしい」と言われていますので、こういう状況であっても、何とかしようと努力はしています。ここ(芳賀さんの仮設住宅集会所)のも造ろうかと思っています。資料は無くなってしまったけれど思い出し、忘れた所は神社に行って見てくりゃ思い出すから小さいの造ってみますか。
南三陸独特の神棚
登米と比較すると、登米にいる時は瓦葺きの家は少なかったんです。トタン葺きとかセメント葺き、コロニアルなどのスレート葺などの屋根でした。でも、ここはやはり海が近いから瓦ですね。昔そんなに良いトタンが無かったのか、すぐ錆びるってことで、基本的にすべて瓦だったから、重厚になってしまうのかな。瓦は地元メーカーのを使っています。昔は瓦屋も3~4軒ありましたが、今では1軒しかないですね。
木材、自分で山を持っている人がそこの木を切り出して家を建てるということもかつてはありましたが、今は却ってそのほうがお金がかかってしまうので、それもできません。一方、昭和50年代にはすでに安い外材が入ってきていましたが、今はそれも値段が上がってきて「安かろう」でもなくなってきましたね。今、「地元産の木を使いましょう」ってここでも一所懸命がんばっているんです。山をつくるというのも私たちの仕事ですね。
志津川には漁業で儲けて建てたいわゆる「御殿」というのは無いですよ。アワビの事業で成功されて建てたアワビ御殿というのはありますけれども、気仙沼・唐桑で聞くような「サンマ御殿」のようなものは聞かないですね。志津川のお客さんは、漁業や農家の人ではなく、勤め人、サラリーマンが多いです。
家の注文を受けるのに、大工同士の縄張りのようなものはあります。縁故関係であれば、どこの大工に注文するのもありですが、やはり基本は地元なんです。それぞれの地元には強い大工さんがいますから、ツテで広がっていき、それがエリアを形作ります。だから知らない人の仕事は来ません。もちろんおかしな仕事はできませんし、後のメンテナンスももちろん行かなきゃならない。ここでは、手抜きの仕事だけは絶対しない、出来ないんです。それは良いと思いますよ。
思い出に残っている家といえば、やはり、初めて最初から最後まで自分で手がけた同級生の家ですね。
小学校時代から、その友だちに冗談で、「お前、大工なったら家を建ててくれ」と言われていたんですが、本当にありがたいことに、初めての大仕事がその同級生の家だったんです。隣に大先輩の大工がいるし、親戚にもいる、でも「お前なら言いたいことがなんでも言えっから。言いやすいから」と言って頼んでくれた。「ああ、いいよ」と言ってね。それが一番最初に、まるまるゼロから受けた家作りの仕事でした。そうなると力も入れるし、非常に頑張った仕事でしたね。
親父は、今まで30何年間かな、一緒に仕事をしてきて、私には仕事を一切教えもしないし、そのことで話したりもしませんでした。こちらから訊いたこともなかったんですが、昨日、初めて仕事のことで親父に訊きましたよ。今日こうやって話を聞かれるのに何を話したらいいのか、伝統的な建物のことなんか聞かれたら、そりゃ俺は無理だな、と思って訊いてみたんです。
「親父、大工のこと、何かないか」って。
ここに曲尺ってあるんです。その曲尺に8つ、字が書かれているんです。「財」から始まって「病」「離」「義」「官」「劫」「害」「吉」。私は私なりの使い方をしていたんですが、親父に「これ何だ」ってきいたんです。そしたら「これは方位を表すんだ。東西南北、さらにその間に4つ入れて、8つの方位。その年によってその家の方向に合わせると、ここに何を、例えば玄関を、あるいは門を持ってきては駄目だというのが出る」っていうんです。風水っていうのかな。「アレッ私の使い方と全然違う」って思ったんです。
私はこの8文字の意味を勝手に解釈してこの「財」の付近の寸法を使えばお金たまるかな、ここのお施主さんは公務員だからこの辺の「官」の寸法を使ってみるか、というような使い方をしてたんです。
「明日皆に講釈でも語ってやっかな」と思ってたのに、親父と使い方が全然違うんであわててしまったわけです。
これが曲尺です。マガリガネ、尺ガネともいうかな。我々大工はこれと墨つぼがあれば仕事が出来たんです。
4箇所全て、使い方が違います。寸法も違います。
ここ(短い方の内側)は丸目っていうんですが、丸太の径にあてると丸太の周が出るんです。[丸目=表目の1/π倍]
ここ(長い方の外側)は裏目っていって、角材の対角線が出てるんです。「大工さんはルート(√)解かる」っていわれるのはこのことなんです。[裏目=表目のルート2倍]
曲尺の裏曲尺の表
曲尺が2本あれば、計算尺になるんです。屋根の勾配も自由自在に作れるしこの曲尺の使い方が完全にわかれば家一軒建てることができるんです。
我々はやっぱ尺でないと仕事できません。中学校まではセンチで勉強してきているのですが、センチの方がかえって計算出来ませんね。
自分史を作るという話があったお蔭で、親父と仕事の話が初めてできました。本当はいろいろ訊こうと思うこともあったんですが、こっちも意地っ張りだったんでしょうね。親父はもう86歳になります。さすがに仕事からは遠ざかっています。職人の世界には定年て無いけれど60過ぎて徐々に遠のいていきましたね。
子供の頃からずっとこの辺の山を一人でブラブラ歩くのが好きでね。登山道とはもちろん違う所。
ある日何歳頃かな。40になってからかな。結構深い山に入ってたら急に背中にザーッて悪寒を感じてね。後向いたらただ猫が、野良猫が、シャム猫だったかな。アレッ何で俺この猫一匹のために悪寒を感じたのかと思って。そういうおかしな体験をしてからは山に一人では入れなくなった。それまでは山の奥だろうが暗かろうが全然平気だったのに。でも山は今でも好きだから道からそう遠くない所を散策したり、土手を見て花咲いているなとか、写真を撮ってみたりはしてます。
イラスト:土田照美
子供の頃は騒がしい子だったけれど20歳過ぎた頃かな。人とはあんまり話さなくなったんです。悪口も陰口も「ここだけの話」ってのもいやで。そのころからかな。休みの時は釣りです。毎週この辺の湾で磯釣り。隣の石巻、気仙沼辺りまで。おにぎり2個こさえて途中でジュース買って一日楽しんできます。なんにも考えないで時間を過ごすんです。
夕方になって釣れない時でも家ではおかずを待っているので手ぶらでは帰れない。魚屋のごやっかいになりました。釣りに行く前の晩はしかけを楽しんで、夜は夜釣りを楽しんで。
震災後は「(亡くなられた方々が)海におられる」と思うと申し訳なくていけないんです。漁師さんが海に漁で行くのは構わないがレジャーとして海に行くのはまだ気持ちとしてできません。
津波のときは、自宅から車で5分くらいの場所で仕事をしていました。大工道具のほとんどは家にありましたが、持って逃げることができませんでした。
地震があってすぐに自宅に戻り、津波まで1時間くらいありましたから、部落の役をしていたこともあって、工場の倒れた材料の様子などを一回りして見に行って自宅に戻りました。「親父、そろそろ逃げっぺ。津波がくるかもしらん」と行って、軽トラックに親父を乗せて、丸ノコを積んで高台に逃げました。その時には、隣のおばちゃんとは「来ないべっちゃない。大丈夫だよねー」なんて話をしていたのです。
助かったからいいようなものですが、おばちゃんは波に追いかけられながら逃げることになりました。お袋は高野会館で踊りの発表会をやっていて、400人くらいの人と一緒に逃げて避難所で一晩過ごしました。私たちは大雄寺さんに避難していて、そこでは中瀬町の区長さんも一緒でした。歩くのが困難なお年寄りが30人ほどいて、その人たちを老人ホームにお世話するよう頼まれて一緒に連れて行きました。
気仙沼に姉夫婦がいますが、電話ももちろん通じませんので、「どうしようかなあ、歩いていこうかなあ」と思っていたらメールが一瞬入って、「あっ大丈夫だ」と思って安心しました。自分はいろいろ家族の状況を把握して安心しても、自分から連絡しないもんですから、後でみんなから「何で連絡しない」って怒られました。そういえば、こっちは大丈夫って言ってないなって後で気がつきました。
次の日の昼ごろ、避難する動きも少し落ちついてきて、自宅の近くまで行った時ですよ。初めてああっ、うちもないかなあって思ってね。それまで自分の家がどうなっているかなんて考えもしなかった。大きな建物があれだけ流されているんだから、ウチもあるわけ無いな、とそのとき気づいたんです。
自宅は親父が建てたものでしたが、建替えかリフォームを考えていたところでした。仕事関係の道具が流されたことについては、モノへの執着はありませんが、長年蓄積してきた自分なりの資料がなくなってしまったことがほんとうに残念です。
小学校から20歳位の時のアルバムだけは拾うことができました。皆に「髪の毛がある時代の写真見つかってよかったな」って言われました(笑)。仕事関係の写真はなかったけれど、幼稚園入園、小学校入学から20歳頃迄の写真が残っているのは、思い出があるだけに、嬉しいもんです。
津波を被ってしまった木を切り出しているのは、建築には使えないです。私たちもそれらをどう処理するのか聞いてません。製材所に聞いた話では、まず塩分で鋸がだめになる、切れなくなるんだそうです。錆びるより切れなくなる。
塩水を吸った木はだめだというのは昔から分かっていますから、たぶん建物には使えないのかなと思います。燃料位にはなるかな・・。木というものは、枯れた木はだめですから、生きてる木を切って初めて営業材になるわけです。立ち枯れた木が相当ありますが、あれを切り出すチェーンソーが駄目になるかもしれないですね。
大雄寺さんの樹齢300年からの木が何十本も倒されて、今回それで幼稚園を作ってるんですよね。お正月にちょっと行ったとき、こういう計画があるってお寺さんから聞いて関われないのかなあ、と思ってました。そういう木に触ってみたいなあと思ってたんですが、九州のどこかが施工して、既に外観が立派に建ったようですね。
今回の被災後、ありがたい事に、いろんな所から支援がありました。引退した人たちから手道具の支援があったんですね。使い古した立派な道具が届きました。鑿(ノミ)だって鉋(カンナ)だってある。「懐かしいなあ。まるで昔の時代に戻ったみたいだなぁ」って、みんなで笑いながら話しました。見たこともないような古いようなのもありました。「どうやって使うの?」っていうほど古いものもあったりしました。だから今基本に戻ったような状態でやっていますよ。
刃ものはやはり研いでないと駄目です。鑿などは、今は殆ど使う場所がないわけで、しばらく使わないとサビが出てきますので、ちょっと磨いての手入れが必要です。鉋は、昔のは、刃が良いんですよね。今売ってるものと違って、研いだって硬くて良い。この道具はみんな送られてきたものです。これ助かるんですよ。中にはサビてぼろぼろで、ふざけるなって言いたくなるものもあるんです。これまで大事に使った道具かどうか、見ればわかります。
刃物だけはサビを出さしてはいけません。鉋の刃が削られて短くなっても、捨てられないんですよ。新しいのと古いのどちか選べといわれたら、古い方を取ります。永年叩いてたたいていると、鉄が締まってくるんです。最初は欠けたりなんかしますが、年々鉄が締まってきて、良い塩梅になってくるんです。使い込めば込む程、味がでて来ます。
今、建築関係の職人は数が足りません。最近の仕事は、ほとんど仮設住宅や、仮設店舗、仮設加工場に携わっています。加工場は大きな鉄骨の中での造作、間仕切りやドア設置などです。私が受けるのは許容範囲での仕事だけですが、50人も100人も人を使うような大きな現場だと大変ですよね。
今は、一生懸命復興のために頑張っている人のお役に立ちたい思いで携わっています。先日冗談で、「私が1日休んだら復興が1日遅れますよ」って言ったら「休んでも大して変わらないよ」って言われましたが(笑)。ほぼ全て仮設対応みたいな仕事で、いずれは壊されてしまう仕事ですので、それはそれでお役に立っているとは思うのですが、いずれは末代住むような、大事に使ってもらえる仕事をやりたいですねえ。技術を持っていてもそれを思う存分発揮できない、今はそういう感じがありますね。
これから家を建てる人が来てくれるようになったら、喜んでもらえるような家を造るように、今が考え時かなあって思います。夢は夢で、何にもなくなった現実とは別にあるんです。
家作りは、施主さんのご希望に沿って、専門家として「ここの柱が邪魔になりますよ」とか「そこを切ると家が持ちませんよ」などは申し上げますが、普通の家で、ちょっとした部分にちょこちょこっとこだわりを見せる程度で。本当は、在来工法の木だけで作る家をやりたいんです。鉋もかけたい。精神的に疲れる仕事はしたくないけど、質の良い仕事はしたいんです。年とともに段々楽はしたくなってくるでしょうけど、昔ながらの道具を使っての仕事はやりたいですね。
(談)
このお話は、2012年6月30日、
芳賀義人さんに、志津川中瀬町仮設住宅集会所にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
中村道代
土田照美
久村美穂
田辺和子
[イラスト]
土田照美
田辺和子
[文・編集]
田辺和子
久村美穂
[発行日]
2012年7月10日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト