この物語は、私たちが今まで被災地域で聞いたどのお話にも似ていません。際立って特別な物語になっているのは、主人公である語り手が「風の人」だからなのです。
人には2種類があって、その土地に根を下ろして生活し、強い結束を持って伝統や文化を育み伝えていく「土の人」と、いろんな土地をめぐりながらその優れた順応性でその地になじみつつ、新しい風を吹き込んでいつのまにか去っていく「風の人」がいると言われます。
須藤寿郎さんは、この自分史の中で、最初は東京・浅草に「土の人」として生まれ、そこから「風の人」になったご自身の人生を振り返っていらっしゃいます。変幻自在でありながら、行く場所行く場所がまさに「風通しの良い場所」になるようにしてこられた、そんな人生の軌跡でもあります。根底にはいつも「口は少々悪いが(笑)、裏表なく、気持ちはいつも綺麗な江戸っ子気質(かたぎ)」があって、それがみんなをさわやかな気持ちにしていたに違いありません。
現在は宮城を離れて暮らすことになった須藤さんではありますが、きっと心の中の風景には、気仙沼本吉の美しさ、理屈だけではやっていけない「土の人」の素朴な暮らしのよいところが思い出されているに違いありません。「過去の方で僕等に余計な思いをさせない」(小林秀雄)と言いますが、震災でみんなが何らかの形で傷ついた、あの苦難の日々がやがて良い思い出に包まれることを祈っています。
2012年6月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
人には2つあり。
風の人と土の人、2つの人調和して、風土を織りなす。
須藤寿郎さん
奥さまと本吉長窪のご自宅前で
私の名前は、須藤寿郎、67歳です。昭和19(1944)年4月、浅草の猿若町というところで生まれました。
実家は父が営む床屋でした。もう父は死にましたけれども、父の兄弟は今でも浅草で床屋をやっています。小学校卒業した頃から、父にはずっと「床屋になれ」と言われていましたが、私は高校に行きたかったので「高校に行かしてくれ」と父に言ったところ、「床屋の免許を取ってから行け」と言われて、「免許を取って高校に行こう」と思っていたんだけど、いざその通りに床屋の免許を取ってみると、そんなことやっていられなくて、結局床屋になったんですよ。
24歳のとき結婚して川口の方に自分のお店を持ったんです。そして、40くらいまでそこでやっていたのですが、「このままじゃ行き詰まってしまう、このままで終わりたくない」と思い始めました。
そこで、41歳の時、ある会社に、店を閉めて「1年間だけ行こう」と思って入社しました。41で入社していく人なんて、なかなかいなかったの。で、まわりの床屋さんでもみんなびっくりしちゃった。
「なんで40も過ぎて、店まで捨ててそんなことになるんだ」って。
でも、自分はこのままじゃ終わりたくなくし、なんか違う道があるだろうと思っていました。もっと羽ばたきたいというか、会社員としてある商品の勉強をして、それに関連する仕事をしようと思っていたけど、入ってみたら面白くなっちゃって、どんどん出世しちゃったんですよ。
2年で主任、課長になって、次の3年目で栃木県の責任者になり、宇都宮のほうに拠点が移りました。当時、埼玉に家を買って宇都宮まで新幹線で通ってたんです。そして、会社は転勤が多くて、宇都宮には7年位いたかな? そして今度は群馬県の前橋へ県の責任者ということで赴任したんです。そこに5年位いて、その時は50歳を過ぎていました。
年齢から言えば、本来はもう、平社員に戻されちゃうんですが、本社の方に戻されて、大宮のお客様サービスセンター室長を、定年の1年前、59歳だったかな、そこまでやったんです。だから、お金がある企業ってわかってるから、ヤクザなんかからの脅し、足元を見たクレームの処理でいろんな所に行ったんです。企業ということで、わざわざ低姿勢でね。
そのうち、一関(いちのせき)(岩手県)の方に店長がいなくなっちゃって、どうしても店を閉めるわけにいかないから、行ってくれないかと打診がありました。こちらから出した条件を受け入れてもらったので、「じゃ、行きます」ということで、一関店の店長として赴任して、そこで1年間働きました。すると、会社の方からもう1年いてくれと言われて、そして、そこで定年を迎え、「もうこれ以上はいい」と見切りをつけて、退職したんです。
須藤さんが転勤で移り住んだ各地
会社づとめをしているときは、最初の2~3年は職人として働いて、そのあとは指導する立場になり、売上をどのようにあげるかを考えるようになりました。
一関の店舗は辺鄙なところにあるんだけれど、ノルマがあっても毎月クリアしていたんです。いつかの週は日本一になったほど、私が行くところは結構売上が上がったんです。
扱っていた商品のひとつひとつが安い買い物ではないんで、私はお客さんに押し売りしない。話を聞いて、本当に欲しい人だけに売るんです。若い人がたまに来るけど、「まだ必要ない」って帰しちゃう。要らなくなったり、行き違いがあった場合はキャンセルにする。売上が多いけれどキャンセルも多いから会社はどう思っていたのか、なんとも言えないけど、売上はありました。キャンセルが多くても売上が上がるのは、押し売りしない方法が口コミで広がったからだと思います。
社内では、社員のいいところをいかに褒めるかだね。悪いところがあったら、私の考えを話してみてチャレンジさせる、自信を持たせる。そういう風にしていると、みんな寄ってきてくれます。
あとは、ご飯をみんなで食べるんです。週に1~2回はみんなで食べてました。ウチに連れてきて、飲ませたり食わせたりして、バーベキューしたりする時にはウチの奴に協力してもらいました。社員と一緒に鍋を作ったりご飯を炊いたりして、盛り上げ、そういう場でみんなで話す。働き甲斐というか、仕事は楽しくしなさい、ということを大事にしたんです。
目に見えないことだけれど、人との接し方、そういうのがすごく大事なんです。自分の肩書が増えれば増えるほど、人には優しく、そして低姿勢にならなくてはいけない。社員があってこそ会社があるんです。社員が満足していなければ、満足な接客もできないでしょ。だから、社員を満足させるような経営の仕方をしなければならない。
それにはまず、楽しく働き甲斐のある環境づくりをやらなくちゃいけないと思いますね。時には会社に直談判したり、上司とけんかをすることもありましたが、自分が実績を見せなければ会社はなかなか認めてくれないんです。部下に対しては、上から目線でなく、同じ目線でものごとを見ていかないと、間違った路線を進もうとしているとき、膝を付き合せて話すことができなくなります。
そんな風だからどこ行っても楽しかった。会社では「須藤さん変わってる」と言われていたけれど(笑)。
ボランティアスタッフとも気さくに接して下さる須藤さん
退職した時に、「もう東京に戻って、あの殺人的な、埼京線の電車に乗って通勤するのは勘弁だ」とウチの奴に話しました。前から田舎暮しというものに興味があったので、「じゃあ、いっそのことみんな引き払ってこっちに来ちゃおう、どっちみち2人しかいねえし」ということになりました。
ウチの奴は昔、不動産の事務もやってたし、そういう分野には精通してたので、家を探してもらってたんです。しかも、新しいきれいな所は駄目だから、古い家、農家を探して。で、良いところがあったというので、今のところをすぐ買っちゃった。
ここに住むことを決めたのは、ウチの奴に任せていたからなのだけれど、私としては海と山に囲まれて、古い農家で、体力的にも毎日「直す」という仕事があるような、ボロ家で良いから、そういうのを見つけてほしいというのが希望でした。東京の業者を通してインターネットで見つけて、案内してもらって、最終的に私も見てここに決めた。最初はもうすごかった。どうしようもなくって。
平成16(2004)年に買ったんですが、一関(いちのせき)に居ながら、毎週休みの日に本吉(もとよし。宮城県気仙沼市)に通って、そこでもってリフォームを少しずつやってた。翌17(2005)年にそこに移り住んで、毎日ぼろ家をリフォームですよ、何から何まで、自分の手で。
手作りの犬小屋
もうお風呂はないし、とてもじゃないけど人間の住めるような所ではなかったんです。すごいの、ニホンカモシカが、ウチの裏を通っていくの。「私の方が先に来たんだ」って、横目でにらみを利かせながら通っていくのね。毒蛇はいるし、それを考えると怖いんだけど、でも海は近いし、山はすぐだし、山の幸、海の幸もあるしね。
荒れ果てた場所を住みやすく
これからもまだリフォームは続けます。だいぶ良くはなったんだけどね。やっぱり、昔からの草屋という建物なのね。茅葺(かやぶき)屋根があって、今はそこの上にトタンを敷いて隠しているんだけれど、夏は涼しいし冬はあったかい。だから、家はクーラーがあるけど使ったことはないんです。
周りの住民たちもすごく良くしてくれたんです。海まで行く間に46所帯あって、ちょうど自宅が入江の最後のところにあって、その上にまで1軒あって、そこの人たちからもお世話になって、「いい人たちが来てくれたって」って喜んでいただいて。
イベントとか老人会に積極的に誘われましたし、私たちの方でもそういう会に積極的に入って行きました。
最初は、「老人会に入らないと」って言われて、「そういう風習があるんだな」と、驚かされたの。でも、仲良くやっていくにはコミュニケーションが大事だから、中に入ったら中に従わなければならないと思ってね。自分も接客業をやっていたからね、そういうことが理解できたという点では、うまく行ったみたいです。
「老人会」の人は、みんなおじいちゃんおばあちゃんでね、私なんてまだ若い方なんですよ。もう、女とか男とか過ぎた人ばっかなの。
いろいろな地域の集まりに参加して、「変わってるな」と思った会があったの。それは「契約会」と「振興会」。
「契約会は一家の一番の長老が入るもので、すぐに入らなきゃいけない」と言われて、「契約会ってなんですか?」と聞いたら、「契約会で契約するんだ」と言われて、なんで契約するのかわからない。「入るのにお金を払って、契約書ってあるんですか? 領収書ってあるんですか?」と聞くと、「そんなの一切ない。昔からの伝えで今まで来ているんだから、習慣だから」と言う。さらに、「ここで死んでもこのお金は返さないよ。ただ、ここから出て行ったらお返しします。出ていく時には返すけど、突然出て行ったら返さない。その土地に住んだままで『辞めた』って脱退する時も返さない」って言うの。
変わってるなと思いました。意味がわからないから、どういう会なんだ?と思って、「契約会の規約みたいなのはあるんですか?」と聞いてみたんです。そしたら、「そんなのある訳ねぇ」って。「今までの人たちは理解して入っているんですか?」って言ったら、「あんた良いこと言ってくれたね」って言うんだけど、そのまま(笑)。「契約会」はご神木って言って昔から杉の木を持ってるのね。土地は本吉町所有の土地なのね、杉の木は、みんなで集めたお金でもって買ったものなんです。木が売れたら配当しますという趣旨なんだってね。それくらいがメリットと言えばそうなんだけど、今は杉も価格が下落しているし、それも切り出して運ぶのに売値以上のお金がかかるから、資産としては全然ダメなんだって。配当はもらったことがありませんね。
あとは「振興会」というのがあって、人と人とのつながりを作るためにスポーツやゲートボール、そういったイベントとか、体操とか、そういう「年寄りが元気になるには、どういうことをしたらいいか」というのをやるわけね。というのは、今は病院へ行くと年寄りばっかりでしょ? 何でもないのに病院に来ては負担を大きくしている。年取ってくると体を動かさなければならない。体を健康にすればするほど、国はお金がかからないでしょ。
また、その「振興会」とか「契約会」とか「老人会」とか、別々の集まりが一緒に何かをやる場合もあるわけ。どっかでつながる点があるわけね。
「シルバー人材センター」が本吉に発足することになったときは、2年間理事をやらせてもらいました。そういう人の世話をする役回りが嫌で、静かにおとなしく暮らしたいと思って田舎に来たのに・・。
最初は、お掃除とか、買い物とかの仕事がほとんど回ってこないの。でも、段々とシルバーに頼んでくれる人が増えてきました。農家の人なんかは、段々年取って田んぼをやる労力が足りないのね。で、そういう家事を頼むのね。安くてやってくれるし。人材センターにいるお年寄りは、みんな現役をやっていた人だから、助かっているんじゃないですか?
本吉町は、国の推進事業として(平成の大合併)、平成21(2009)年9月、気仙沼市と合併をしたんです。合併に反対する人もいたけど、賛成する人もいて、メリットもあったんだけど、結局、合併してみたらデメリットの方が大きく出てしまったんです。財政的にも安定していたのに、貧乏になっちゃったし、議員さんも少なくなってしまいました。
現在の気仙沼市における本吉町の位置関係
ウチには、犬と猫がいるんです。
東京、埼玉から連れてきたの。犬は、転勤で一関にいた時は、2年間だけ、ウチの女房の弟に預けていたのを引き取った。猫は、引っ越しの直前にウチを飛び出しちゃって、3カ月くらいしたら隣の家から「見つかった」って電話がかかってきて、新幹線で猫1匹を迎えに行って戻ってきたんです。
ウチの奴は犬猫が子ども以上に可愛いんじゃないの?
最初の犬は、ボランティアで川に捨てられていたのを、ウチで引き取って来たんです。それまでは、ハスキーっていう種類の、デカい犬を飼ってたの。1回お産したんだけど、ものすごい可愛い子犬が、6匹生まれたんです。ハスキーの仔犬って、目が光っちゃってね、ブルーでとても可愛かったんだけど、みんな貰い手がついて、いなくなっちゃった。
それが、母犬が電車に飛び込んじゃったの。私が悪かったんだけれども、朝の散歩で、自転車に乗りながら綱を引いてたら、犬が急にサァーッと綱を引っ張っちゃって、手から離れてしまった。犬は、電車と競争を始めちゃったんですよ。で、そこにぶつかっちゃって、死んじゃったの。あん時は、本当、悲しかったね。
そして、「もう犬飼うのやめよう」って言ったんだけど、ボランティアさんが、「須藤さん、逆じゃないんですか? 無理に忘れようとすると、忘れられないもんですよ。もう1度、ペットと触れ合うことによって前のつらさが忘れられるんですよ、癒されるから」って。それで、「じゃあ、もう1度飼ってみよう、良い犬じゃなくて雑種で良いから」と伝えて、探してもらうことにしました。すると、「今、こういう犬を預かっているから会って相性が合うか見てみませんか?」と声がかかって、相性が合ったんで引き取ったのが今の犬で、10年間ずっと一緒にいます。
ウチの猫と犬は同じ年なんですよ。猫は、春の桜の季節に捨てられていたのを引き取って、だから「さくら」という名前。で、犬は10月6日に引き取ったんで、「トム」という名前。簡単に名前を付けたんですけど。犬と猫はとても仲が良いです。ふつう、犬と猫はあまり仲が良くないんだけど、そばにいって猫のほうが威張っている。
ウチの犬は蛇を見つけるのが上手なの。捕まえて、かじっちゃうの。すぐ吠えて知らせに来るんだけど、殺しはできない。ウチの方ではね、去年だけで蛇を10匹殺しましたよ。マムシはあんまり来ないけど、ヤマカガシっていう奴がいて、前歯には毒が無いからいいけど、奥歯でガブッとかまれてしまうと、30分もすると、命を奪われるという毒蛇なんです。1mくらいの大きさの蛇で、威嚇すると、マムシのように向かってくるの。だから、地元の人からは「蛇を見つけたら殺せ」と言われていてね。
最初、ヤマカガシを見つけた時は、上の家の人のところまで行って、「助けてくれ」って大騒ぎ。なのに、簡単に1発で終わっちゃったの。棒で頭ひっぱたいて終わりですよ。あっけにとられてしまいました。また、別の日に、ウチの周りには小さなカエルがいっぱいいるんだけど、ウチの奴が蛇がカエルを飲み込んだところを見つけて「蛇だ」って騒いでたんです。私は飲み込んでいるところを可哀想だなとも思ったけど、でもやっぱりやっつけちゃった。
今年は、震災のお陰かどうかわからないけれど、あまり出ないの。2匹見て殺したくらいかな?
2年くらい前に近所の山で烏骨鶏(うこっけい)を捨てに来た人がいて、「捨てに来たんだけど、食べてくれる?」って言うんです。「えっ? 飼っていたものを食べられないよ」とウチで飼ったの。そうしたらまた可愛いんだね。ヒナは産むし、卵は産むし。
卵は普通のより小さいんだけど、インターネットで見たらひとつ400円~500円くらいするのよ。こりゃいいやと思って、近所に配って喜ばれて。春夏秋冬、4回しか産まないのね。1回に14~15個しか産まない。だから、毎日は食べられない。貴重なものなんです。
それでもまた同じ人が烏骨鶏を引き取ってくれって来るのね。断ったら、足と手を結わいてポンポンと捨てる。すると、次の日には、キツネとかタヌキが食べちゃうの。その周りに行ったら、もう羽だらけ。可哀想なことするよね。断れないよね。そんなふうに、全部で烏骨鶏も11羽くらいになったかな。烏骨鶏のヒナも可愛くて。
かわいらしい烏骨鶏のヒナ
それが、おととしの夏かな、キツネに襲われたんです。そのとき、犬が鳴かないんだよね。キツネは風下から自分のにおいがわからないように近づいて、ネットを破って烏骨鶏を持って行っちゃったの。オスとメスが1羽ずつ残ったんです、もう傷だらけになって。いろいろ看護して治ったの。他の、2羽3羽の死体を山に穴を掘って埋めました。
そうしたら次の日、臭いを嗅ぎつけて、またキツネが掘り起して持って行っちゃったの。ちゃんとお墓立ててお線香立ててしたのに・・。その時はもうがっかりしたというか、これが野生なんだなって思いました。
今年、震災後、夏になってからキツネにメスをやられました。何日かして、今度はオスもやられかけたんですが、今度は相手は猫だった。血だらけになっちゃったんだけど、ウチの奴が騒いでるのを聞いて駆けつけて助けたの。いま、オスだけ元気でいます。人間で言ったらもう年取ったじいさんだけどね、私と同じ年くらいかな? もう1回メスをどこかでもらってきてあげようかなと思っています。
一関に転勤の話がなかったら、気仙沼にくる縁は無かったですね。でも、前々からこれからの老後は田舎暮らしをしてみたい、という気持ちはありました。都会はもういいやっていう感じはあったからね。
だって、都会にいたら、下手したら殺されてたよね。東京にいた時は、新宿に通っていたけれど、私なんかは自由時間に出勤できたので、結構電車が空いている時間帯に行けたから通勤は楽だった。けれど、空いているところに座っていると、私の席の前のところに変な若い集団が3~4人立ってニヤニヤしながら見てるの。気持ち悪いって言ったらありゃしない。
昔あったでしょ「おやじ殺し」とか、自分は暴力を振るわれなかったけど、そういうのにも何回か出会ったしね。あとは、痴漢だとか喧嘩とか。埼京線なんか、毎日のように痴漢でしょ? その後ですよ、女性専用列車ができたのは。それでもたまに変なおやじが入ってくるようなことあるみたいだしね。そういうのと見ると嫌だね。早く都会から離れたいと思っていたので、いいチャンスだったかもわからないね。
田舎で一番驚いたのは、若い子たちがすごく純朴なこと。都会からすると新鮮だね。すごく親想い。ここから東京に行ったり、関西や仙台に行く人もいると思うけど、ある程度の年になると、ほとんどの人は地元に戻ってくるようだね。そして定期的に夏とか、お盆とか正月とか家族で集まっているよ。ウチなんか、戻ってきやしないけど。
ウチの子どもや孫たちが、田舎ができたということをすごく喜んでくれている。海が近いから、海水浴もできるし、山に行けばワラビとか、自然のもの、知らないものがいっぱいあるし。食べられないものが何かなんて、最初はわからなかったけれど、スーパーに行かなくっても、生えてる雑草なんかを食べて生きて行けるくらい、自然のものがいっぱいある。
ただ、畑に除草剤が撒いてあって、野良猫も飼い猫も外に出ちゃうから食べて死んじゃうというのもあるみたいね。
人間関係でいうと、私たちが持つ田舎の人のイメージで、若い人や子どもたちなんか、鼻垂らしてほっぺが真っ赤になっている、なんていうのは全くないからね。都会と同じ。お父さんとかお母さんとかおばあさんとか、3世代くらいが同居しているのがすごいよね。あれにはびっくりする。
手作りベンチ
私はどちらかというと、家の中にいるより外にいる時間の方が多くて、1日中動きっぱなし。それでもウチの奴から見ると、動かない動かないって言われるの。困ったもんだよね。
自分たちで手直しした玄関
ウチの奴は昔から料理が得意、それで一緒になったんだけど、助かります。お互いに共通のものを持っているからこういう田舎暮らしできるんだね。
今は兄弟みたいになっちゃって毎日けんかしているけどね。ウチの奴は6つ年上なんですよ。男は定年退職すると何もしないって、報道関係とかで取り上げられるけど、そういうのを聞いていて、私が教育されちゃったの。「洗い物とか、洗濯ものとか、やらなくちゃだめよ」って。
お蔭で料理はできないけど、補助くらいはできるようになりました。洗い物はするよ。ウチの奴も60くらいまで不動産関係の仕事をしてました。迫力では下手な男はきっと負けちゃうね。怒鳴るもん。変な男が違反していると、「バカヤロー!」って。びっくりするよね。
私も免許があったんだけど、更新を忘れちゃったの。それで、再発行を頼みに行ったら「病院に2~3カ月入院していたこととしてその証明をくれ」って言われたけど、かかりつけの病院に断られて、それじゃいいやって流しちゃったの。また取ろうとしたら、「あんたダメ、浮気するから」と言われて。だから、どこに行くにもウチの奴が運転して行くんです。どこに行くにも一緒だよ。私は楽で良いけどね。
いつも仲睦まじいおふたり
私たち生まれが都会だから、時々刺激がほしくなるの。人がいっぱいいるところに行きたくなるんです。だから、月に何回か、気仙沼や登米に行きます。裂織(さきおり)、瀬戸物、七五三の人形を作るのなどを見に行ったり、千厩(せんまや。岩手県の観光地)に行ったり、ここから車で1時間前後のところだったら行きます。ウチの奴は高速道路に入れないの。怖くて、流れに乗れないの。だけどスピードは出すんだよ。
だから、東京に行くときは新幹線で、あとはたまにバスで。高速バスが出ているからね7,000円くらいで。何回かウチの嫁さんも池袋から気仙沼まで利用したことがある。だけど、やっぱり新幹線が一番楽だね。
でも、いいですよ、ここは。ウチの周りは、杉林じゃなくって雑木林なんですよ。だから四季折々の花が見られる。
切って工作に使ったりするから助かるんだけど、それでも杉だけじゃどうしようもないからね。そういった面ではすごくロケーションが良い。家の中から外を見る限りでは、今回の震災の影響が全く見えない。すごく良いところです。畑もやっているけれど、ウチの奴がやっている。私がやると、ダメだって怒られる。「やり方が違う」って。だから、言われたことだけやるんです。耕したり、機械で撹拌したりね。
雑木林、四季折々の花
今はナスなんか育ててますよ。震災があったから、それどころじゃなかったけどね。まわりがみな流されて無くなっちゃったからね。
毎日、山行っては杉の木を切って、皮を剥いで、犬小屋や、椅子、テーブルまで作ったんです。全くの素人だから楽しんで作ってました。
そういう作品を売るのに、2人とも好きなのがフリーマーケットなのね。人との掛け合いなんかが面白いんです。
フリーマーケットは本吉近辺には無いの。登米のほうに大きいのがあるの。夏と秋、8月と10月にあって、東北一の規模で、すごい大きいんですよ。お店が1,000ぐらい出るんです。
8月は暑くてあまり売れなくてだめだけど、10月は結構売れるんです。登米の町ぐるみでやっているから、いろんな世代の人が出店していて、老若男女、大人も子どももやってくる。いろんなイベントもやっているし。
そこに店を出すと、多いときで3万ぐらい稼ぐときもありました。8月なんかは、1万円で終わっちゃうときもあるんだけどね。そこに出品するのに3,000円くらいかかるのね。だからそれを回収しなきゃ、とは思うんだけど、お金のことよりも人間と人間の掛け合い、「もうちょっとまけてよ」「じゃあ、よっしゃ」、そういう掛け合いがすごく楽しくてね。普段、そういうことは身の回りにないからね。じいちゃん、ばあちゃんばっかりで、張り合いがないからね。だから、そういう楽しい時間で刺激をもらってる。
自分たちで作ったテーブルや、手作りのちりとりを出しているんです。ちりとりは、ホームセンターで材料を買ってきて、それで作ったもので、値札は1,500円だけど、「負けてよ」って言われて1000円にしたりして。でも結構売れたりするんで、楽しいんですよ。
ウチの奴は、古布、昔の着物の生地でエプロン作って出してますね。生地はもとから古いのを持っていたのもありますし、たまに東京へ行ったときに、銀座にある専門店なんか行って、安いのを買ってきたり、またフリーマーケットで買ったりしてますね。
そんな風に、自分たちもお店を回って、安く買って仕入れて、それを売ったりね。普段、使う家庭用品を、安く売っているのね。でも、電気製品なんかは買ったはいいが電源入れたら入らなかった、とかあるからね、気を付けないと。でも、ほかの人が作ったものは買わないで、家で同じのを作るんです。
あたたかみのあるフォルムのベンチも手作り
水車が旅人に手招きをする
震災の日は、地震が2時46分にあったんだよね。そして、すぐ下の家に4軒みんな集まって「大丈夫か」と話をしていたら、「津波が来るらしいよ」と聞いて、また自分の家に帰ってから、1軒上の家に行ったんです。
そうしたら、ものすごい、「ゴォー」という音がしてね、すぐ下の家が波に押されて、みんなウチのところまで迫って来たの。そして、ウチのちょっと手前のところで止まったんです。そして、それがまた引いていったのね。それは、すごかったね。
ウチの奴は見なかったんだけど、まあ、なんていうか地獄っていうか、あんな大きな家や鉄塔や、コンクリの塊なんかが、上に向かって流れて来るんだからね。それが終わると引くんだよね。その速さが速い。上がってくるよりも下がって行くほうが怖いんですね。
ウチに年中、車で遊びに来てお茶飲みしてた、84歳になるおじいちゃんがいたんですよ。「私はモテるんだ、ここにこういう女がいるんだ」ってよく自慢してたんです。その人が「いい女ができた」って言っては、鳴子温泉に行くような人だったの。
その人が自宅に帰ってきて、津波が来るってわかっていたのに、「私は大丈夫だ、津波はこんなところまでこないんだ」って家の中へ戻っちゃったの。そうしたら、結局流されちゃった。おじいちゃんには、チビという名前のメスの犬がいて、どこに行くにも連れて可愛がっていたんだけれど、その犬がね、震災後にね、おじいちゃんを捜して、ずーっと歩いているの、何もないガレキのいっぱいあるところを。
で、クンクン鼻を鳴らして、沢の上のところで動かないでいる。だから、もしかしたらおじいちゃん、そこで埋まったのかなと思って、消防署の人に話したら、50人ぐらいの人がすぐ来てくれたの。半分の人が海のほうへ行って、25人くらいの人がそこをきれいに遺体を傷つけないようにとってくれたんだけど、結局見つからなかったのね。その後、おじいちゃんはずうっと下のほうで見つかったんですよ・・。
気仙沼線が通っていたんだけど、津波でその陸橋も砕け散っちゃったし、道路も寸断されて、家も基礎だけ残して、何から何までみんな流していっちゃった。見てみるとわかると思うけれど、本当にあそこまでなっちゃうのかなと。
残ったところは、砂が20~30センチも溜まっちゃって全然使えないし、ガレキがものすごいんで、片づけて、歩けるようになるまでに2~3カ月かかったんです。だから、みんな避難所に避難していたんです。
私たちは家は津波ではやられなかったけれど、2回目の4月7日の地震の時に、揺れが少し強くて、古い家だからちょっとずれてしまった。大規模半壊ってやつ。役場の人が4人くらい見に来てくれて、罹災証明書もいただいて、色々とお世話になったんだけれどね。
そのときに、ウチの奴がこのままじゃダメになるから、おかしくなるからって避難所に行きました。支援物資も避難所には来るのだけれど、ウチみたいに家が残ったところにはなかなか来ないんです。だから、避難所にもらいに来ていたんだけれど、いい顔されないんですよ。炊き出しを食べに来るのは良いけど、物資をもらいに来ると、「避難所が優先だ」と言われて、そういったことが厳しかった。
そんなときにあるボランティア団体が、避難所では物資が行き届いたんで、今度はウチみたいに家が残っているところで困っている人がいるのではないか、ということで来てくれた。そして、水だとか支援物資を持ってきてくれて、定期的に電話をくれて、また様子を見に来てくれたりして助かったんです。
それまでは水が本当に不便で、20リットルのポリ容器を5つくらい買って、消防署やはまなす(老人養護施設「はまなすの丘」)の方にある自衛隊の給水場所に車で行って運んでいたのね。それが終わると、蕨野(わらびの。気仙沼市本吉町)に自然の山からの湧水が流れる水道管がある、とそこを紹介されて、今度はそこに汲みに行って。もう1日おきなので重労働でした。重い容器を家の中に入れるのも大変。肩、腕、腰と、おかしくしちゃってね。でも、やんなきゃいけないからね。重すぎて持てないから、ウチの奴にやれとも言えないし、大変な思いをしました。
ついこの間、やっと水が通りました。電話が一番最後で、1カ月前くらい前に通りましたが、その2週間前くらいが水だったの。
こちらに引っ越してくる前、リフォームをするために、一関から車で休みの度に来ていたんです。周りの人たちも珍しいのか、見に来たりしてたので、ある程度コミュニケーションはとれていたんです。「早く来てね」とか「待ってるからね」とか言われたり、野菜をもらったり、ある時は泊まったりして、普段からそういうつながりはあったのね。そして引っ越して来たばかりの時には、地域の人はすぐに受け入れてくれた。そんなふうに、震災前までは、近隣との人間関係はとてもうまくいってたの。
もちろん不慣れなこともあったけど、お世話になったし、コミュニケーションもとれて、とても良い感じだったんです。でも、震災のおかげで、お互いに見えないところが見えるようになって、どんどん、ある部分の人間関係がぎくしゃくしていったんです。
実は私たちが避難所に行ったのは、3月11日から3日間だけでした。あまり長くいられなかったんです。
震災後に、避難所では困っている人たちがいるからと、自主的にウチから毛布なんかを避難所へ持って行ってたんです。自分たちの分も出しました。けど、自分がいざ避難所の中へ入ってお世話になろうとすると、「自分の毛布くらいは自分で持って来い」と言う人もいました。だって全部出してしまって、自分たちの分なんかもう無いのに。誤解なんです。でも、そういう風に言われているのを回りの人が聞いて、「だったらこれを使ってください」って分けてくれた。それでも、長くはいられなかったね。
いま避難所にいる人たちも大変だと思いますよ、いろんなプレッシャーや人間関係のストレスなどで。何が辛いって、これが一番辛いんじゃないですかね。トイレだって夜遅くなっても戸外の寂しい場所に行かなきゃいけない。ウチの奴なんか、もう年だから誰も襲うような奴はいないと思うけど、でも、怖いから、懐中電灯ともしながらついて行ってやらないと。そういう思いをしながら、あの避難所に長くはいられないですね。
ボランティアさんが支援物資を持って来るでしょう、そうすると、物資の奪い合いじゃないけど、「あれを持って行っちゃった」とか「みんなにあれを渡さなかった」とかいう話になる。ボランティア的なことをやろうとすると、「なんで余計なことするの?」と言われるし、炊き出しをすると、かえって非難されたりして。やろうとする方は親身になってやっても、それがあだになってしまう場合があるわけ。信じられませんでした。
最初に来たボランティアさんに対しても「あとでお金を取られるんじゃないか」って、そういう相談を受けたことがありました。「そんなことないんだから、もし心配だったら、来た時に聞いて、有償だったら受け取らなければいいんじゃないか」って言ったんですよ。それでその人は持ってきてくれた人と笑いながら話をして、結局貰うことができたんだけど、それに慣れてきてしまうと、貰うことが当たり前になってしまうのね。要らないものまで貰う、なんでも貰うの。
それってちょっと違うんじゃないの?と思いましたね。もっと困っている人がいっぱいいるから、そういう人たちに分けなくちゃいけないんですよ。だから、ウチでいったん貰って、ほかの人にも渡そうっていうことになって、ボランティアさんを中継して、そこが直接持っていけないところの人に、ウチに取りに来てもらうようにして渡していたのね。ウチから持って行ってもらうのであれば問題ないということで。今もしているんだけどね。
そういうのを見られると、結局、全部ウチがもらっているんだろとひがむ人がいたりする。普段、そんなことはないのにね。直接文句を言われることもあるし、間接的に態度で示してくることもある。昨日、あんなにコミュニケーションうまくいっていたのに、次の日顔を合わせたら顔をフンっとされて。こっちは下町育ちだから、挨拶ぐらいすれば良いじゃないかって思ったこともありました。
普通の時は、本当によくしてくれるんだけど、震災がきっかけで、ガラッと変わっちゃう人も中にはいるのね。そういうのが本当に辛かったね。
最初は仕事もあったらいいなと思ったけど、とてもじゃないけどない。気仙沼の方の床屋さんに何カ月か行ったんだけど、あまりに暇なんで、給料をもらうのが可哀想なくらいになっちゃって。自分にも経験があったからね。
苦しい体験も勇気を持って語ってくださった
ウチの奴ともいろんなことがあると、「都内へ帰ろう」って話になったり、子どもも東京にいるから「自分の目が届く、すぐ行けるような場所へ戻ってこい」って言うんです。だけど、こっちのほうが田舎暮らしを満喫できて良いんです。
震災があって、確かに人間関係はギクシャクしている。でもそれは、ウチだけじゃないと思う。ここの中にいる人たちだってそうだと思います。ウチなんかは、昔からのしがらみがないじゃない、だから、そういういう安心感もあって、みんなが気楽にいろいろと苦労話を話してくれるんですよ。
こういうときは、話をするだけでも気持ちが休まるんじゃないんですかね。コミュニケーションでもってお互いに癒すということになるんですね。(談)
原稿確認のため自分史に目を通されるご夫妻
須藤さんのお話を2011年の夏、冬と伺ってから、しばらくお会いできない日が続きました。体調を崩されたのを心配されたご家族のたっての希望で、病院にも近い北関東にお引越しをされたからでした。
ほぼ半年ぶりにお会いした須藤さんは、ご夫婦とも変わらぬ温かい笑顔で迎えてくださり、ほんとうにほっとしたものです。おふたりの楽しいお話に初めて会うメンバーもすぐにとてもリラックスした雰囲気ですごすことができました。
おみやげにお持ちした、本吉のもとのお住まいの近隣の最近の写真を、懐かしそうに、いとおしそうに眺めては「ああ、帰りたい。ここはほんとにいいところなのよ」と何度もおっしゃっていた奥様。その言葉がいつまでも心に残りました。
本書では、当時の貴重な証言の一つとして、お話いただいたできるだけそのままを、自分史としてまとめさせていただきました。ここに改めて須藤さんご夫妻に心より感謝申し上げるとともに、今後のご多幸を心よりお祈り申し上げます。(2013年1月)
聞き書きチームが大変お世話になりました
2011年8月23日 刈田唯可、大井田和恵、穴沢奈保、阿部貴仁
2011年8月23日 刈田唯可、大井田和恵、穴沢奈保、藤本磨臣
2011年11月26日 石田多鶴子、織笠英二、久村美穂、大井田和恵
2012年7月29日 川上智子、大橋弘幸、中村道代
この本は、2011年8月23日と11月26日の両日、気仙沼市本吉町長窪のご自宅にて、
須藤寿郎さんにお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
藤本磨臣
刈田唯可
大井田和恵
阿部貴仁
穴沢奈保
(以上2011年8月23日)
大井田和恵
久村美穂
石田多鶴子
織笠英二
(以上2011年11月26日)
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[編集協力]
廣田直子
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2013年1月31日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト