このお話は、歌津に生まれ育ち、スポーツ万能青年だった及川徹さんの自分史です。
及川さんは、高校から志津川へ自転車で通うようになり、その後、臨床検査技師として志津川病院に勤務し、退職後は、歌津町・南三陸町議会議員をお務めになりました。及川さんには、その他に、南三陸町体育協会会長としてのお顔もあります。
まさに、歌津と志津川を爽やかに駆け抜けてきたという印象です。中学時代は陸上の選手として、高校時代はバレーボール部の主力選手として活躍され、そしてなによりも、志津川までの12キロの道のりを雪の日も自転車で通い心身共に鍛え上げたエピソードからは、おおらかな強さが感じられます。
どんな時も、スポーツマンらしいリーダーシップを発揮してきた及川さん。現在は南三陸町歌津グランドゴルフ協会の会長として、皆さんを誘って、楽しみながらご活躍されています。
長い時間、インタビューにお応えいただきまして、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。
2012年6月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
生まれは昭和13(1938)年8月31日です。ちょうど73歳です。宮城県本吉郡歌津字伊里前です。ずっと地元で生活してきました。
兄弟は、弟と2人です。兄がいたんですが、5歳で亡くなっていますから、両親と弟と4人家族です。父は役場職員でした。
半農で農業を少しと、役場の職員という感じです。「歌津町史」にも載っています。町役場では助役を務めていました。農業は主に田んぼをしていました。
津波で流されたものの見つかった「歌津町史」
助役時代のお父様
私が小さい時、父は軍国主義者っていうか、当時の大人はそういう風だから、小学校へ入る前に仙台へ閲兵式を見に連れて行ってもらったことがあって、その時、偉い人たちは馬に乗って衛兵は銃を肩に行進していて、それを見て親父に「お前は歩くより馬に乗る方にならないと駄目だ」と言われました。
親父が偉いとかそういうことではなくて、そういう時代。で、そんな親父だから戦争に負けた時、1週間飲まず食わずになって「このままだと親父が死んじゃうぞ」と子ども心に思いましたね。当時はラジオがまだ珍しくて殆ど無かった時代だから、ウチの前に近所の人たちが集まって玉音放送を聞きました。玉音放送は、明らかに国民に対する謝罪の言葉だと思いました。「申し訳ない」というね。私はわかりましたよ。
親父が飲まず食わずになったのも、「申し訳ない」という気持ちだったんだと思います。本当に飲みも食いもしなくて、頑固でしたね。赤紙が来て応召して、戦地へ送り出して、中には戦死した方もいたわけだから、「申し訳ない」と感じたんではないでしょうか。
津波の前に、たまたま親父の写真を整理した時に、「村葬」って言って、歌津村葬っていうのをやったんだけど、山内さんという方の旗(のぼり)の写真が見つかって、その家の方に「あるか?」って聞いたら「無い」というので大きく引き伸ばしてお渡して、喜んでもらったことを思い出しました。
そういう父も敗戦後は少し変わったかもしれません。とにかく食べて行かなければならないですからね。橋の欄干に通していた鉄パイプも供出してしまって無いような時代で、とにかく物が無い。食べ物も無い。「松根(しょうこん)」と言って松を伐って、松の根から油を採ったんです。結構松を伐採したんです。戦後は、新しく木を植えるどころではなくて、開墾して食べ物を作らなくちゃならない。ウチの親父なんかも、何かに没頭しなければ忘れられなかったんじゃないでしょうか? そんな風に感じるくらい、食べるために必死に働いていました。そういうところから立ち上がってきたんです。あの時代を知っている人間と、今の人たちでは感じ方が違うんじゃないかと思います。
松根油のポスター
小学校は伊里前小学校です。私が小学校1年生の時が終戦です。だから、ノートって無かったんですよ。朝の連続テレビ小説「おひさま」、やっていますね? あれと同じ時代です。物が無い時代です。
ノートがないから、石板に蝋石(ろうせき)で書いてね。で、その場で消すわけだから、何も残っていません。小学校3年生くらいまで、そんな感じでした。
お昼も、食べ物がほとんど無い時代なものだから、お弁当なんだけれども、持って来られない人もいて、それで学校を休む人も結構いました。例えば、さつまいもを2本くらい弁当缶に入れて、それがお昼ご飯・・っていう風な。その、さつまいもも、なかなか持って来られない人たちは、学校に来ないで休んだというような、そんな時代でした。お弁当を腕で隠して食べてね。
持って来られない人は「山学校」と言って、家は出るんだけれども学校へは来ない。山を歩いて食べられそうなものを探すんです。飢えてるからね。同級生だけじゃなくて、もう食べるだけで精一杯という時代だったんです。それでも、歌津は比較的真面目だから半分以上は学校に来ていたと思います。クラス全員が揃って出席なんて日はほとんどありませんでしたね。食べ盛りがいる家は、食べ物のやりくりに大変だったと思います。
履物も、その頃は、ズックとか長靴が無いから、雨が降ると裸足で学校へ行くんです。それで、伊里前小学校の池で足をザブザブと洗って教室へ入る。私は、幸いにして裸足で学校へ行ったという経験は無いけれど、遠くから通ってくる人たちは裸足で、それに傘とか合羽も無いから、ケット、毛布ですね、それを頭から被って、あるいは蓑笠、テレビで観たことある? お百姓さんが、昔着ていた藁で編んだ蓑と笠です。そういうのを着て学校へ通っていた人がいた時代です。普段は草履か下駄です。藁で編んでね。藁草履です。子どもが自分で編むということは無かったですね。草履を編むのは、雨の日や夜の仕事でした。
私は学校が近かったんです。家から250メートルくらいでした。
子どもの頃の楽しみといえば、やっぱり食べることなんですね。お腹がいつも空いていましたからね。山へ行って、くわご(桑の実の方言)とか、後は、茱萸(ぐみ)を採って食べるのが楽しみでした。
自然の恵みが多いとかそういうことではなくて、子どもの人数が多くて、皆が採るから競争みたいなもんですよ。当時は1クラスが40~50人。3組あって1学年150人くらいでした。
海にも、行きましたよ。潜って、タコを獲ったり・・。
そういうふうに遊んでいると、お腹が空いたり、喉が乾いたりするから、途中の畑に入って大根があれば、ちょっと無断で大根を頂いて食べたりしました。大根はね、土から顔を出している青い部分が甘いんだよ。お天道さまが当たっているところが青くなるでしょう? そこが甘いんです。で、そこを食べると美味しいの。下は辛いから・・。そういう時、犯罪意識とかそんな大げさなことは考えませんでしたね。今とは感覚が違いますね。とにかく、背に腹は代えられないと・・。
品種改良が進んでいないから、野菜なんかも今とは違います。美味しいというのが少し違うと思います。この辺は、梨とかリンゴもあまり無かったね。今は、ドンドン品種改良が進んで、種なしブドウとか出ていますけれど、当時喜んで食べていた物って、今ではあんまり売れないんじゃないかな?
柿は、当時からありました。甘柿と渋柿とありますね? 甘柿というのは、まだ木になっている青いうちから甘いんですよ。だから、そういうのは見逃しません(笑)。1つ無くなり、2つ無くなりしてね・・。その柿の木のある家の人たちの口には、ほとんど入らなかったと思いますよ。
「お正月は、お餅!」って思うだろうけど、お米がある人たちばかりじゃないから、もち米ばっかりじゃなくて、色々なものを混ぜて、豆を入れて豆餅とか、よもぎを混ぜて草餅とか。今は、わざわざそういう物を入れたほうが美味しいなんて言うけどさ。
で、もち米にうるち米(普段食べているご飯のお米)も混ぜるから、粘りのない餅になるんです。焼いても、食べると「ぼっきらぼっきら」って。ウチの弟は、「うる米餅はいらない」なんて言いました。ウチの弟だけじゃないけどね。
冬といえば、田んぼに水を張って凍らせて、スケートをしました。田んぼに水を張るのは自分たちでします。当時の子どもは生活に慣れていますから、そういうことも自分たちでしましたね。氷は一晩で全部は無理だけど、しっかり凍ると丁度良いスケートリンクになるんです。今のようにスケート靴なんて無いから、下駄のようにして、歯をつけて、そういう風なのを作って遊びました。
もちろん自分で作るんです。金具がなかったりすれば、釘、太い柱なんかを留める柱と柱を打ちつけるような鎹(かすがい)、そういう金具を利用して作って、自分で磨いてね。転ぶと危ないから、戦時中の防空頭巾を被ったりしました。
中学校は、歌津中学校です。歌津には、伊里前小学校と名足(なたり)小学校と2校あって、両方の子供が歌津中学で一緒になります。
中学では部活動で、ありとあらゆるスポーツをやりました。野球をやり、バレーボールをやり、陸上もやり、卓球もやりました。当時は、本吉の中学と対抗試合が主でした。学校対抗戦です。陸上では、県大会で仙台へも行きました。三段跳びとスウェーデンリレーです。運動だけじゃなくて、一応、中学の時は生徒会長もやりました。
伊里前小学校と歌津中学校
ウチの母は体が弱かったから、朝は弟と当番を決めて、ご飯を作っていました。今みたいにスイッチひとつ入れればご飯が炊ける時代じゃないから、「くど」って知っていますか? 竈(かまど)ですね。当時は子どもといえども小学校2〜3年生から、山で薪を取って来て火おこしをします。だから、中学生にもなれば竈でご飯を炊いてお弁当を自分たちで作りました。そういうことも、中学校時代の思い出です。朝、5時には起きていたと思いますよ。
高等学校は宮城県立志津川高等学校です。前身は、志津川実科女子高等学校ですけれど、私の頃は共学でした。歌津という地区から高等学校へ進学するというのは少なかった時代です。中学を卒業すると漁師になるというのが一番。とりあえずお金が稼げるからですね。
私の学年は、当時としては進学率が高かったと思います。それでも進学率6%位じゃないですかね。学年から15~6人位進学しました。
高校時代は、家から12キロを自転車で通いました。私が1年生の時は3年生がいるし、自分が3年生になれば後輩がいるので、自転車で通うのは一緒でした。私の弟もそうだけど、だんだんバス通学が増えて自転車通学が少なくなったけれども、私の学年でバス通学はいなかったと思います。道路も舗装されていない砂利道で、坂道では降りて押したりするから、大体45分~50分かかりました。
途中でパンクすれば自分で直すこともありました。後は、2人乗りってほどシャレてないけど、パンクした方がサドルに乗せてもらって脇に自転車を抱えて行くこともありました。雪でも自転車です。雪は、一番の大敵でした。
少々の雪なんて大丈夫(笑)。台風とか雨も厄介でした。それでも、「学校行きたくねぇ」なんて、親父が怖くて言えませんでした。怒られますからね。
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高校は、校庭が狭くて野球部がなかったので、バレーボール部に入りました。最初、卓球部へ入ろうと思ったら先輩と折り合いが悪くてやめました。
先輩からは「陸上をやれ」と誘われました。自転車で体を鍛えていたからでしょうか、高校生になってからは、短距離よりも中距離、1500メートル位が得意で運動会では常に半周から1周くらい1人で先を走るような感じでした。200メートルトラックですよ。それでも、高校では兼部ができなかったので、バレーボール部に専念したというわけです。
9人制バレーボールで私は右利きなので、ポジションは、フォワードのレフトやハーフのレフトです。一応エースアタッカーでした。体も大きい方でしたね。多分、同級生の中では身長が2番目に大きかったと思います。
高校時代には、下駄箱に先輩の女の人からのお手紙が入っていたことがあったような記憶があります。返事なんて出しませんよ。女房に怒られちゃいますね(笑)。すごく勉強したということもないけれど、バカではなかったですよ。
バレー部では1年生の時からレギュラーでした。2年生と3年生の時は、県大会でベスト4まで進みました。
ウチの親父が当時、高校のPTAの副会長だったんです。だから、あんまり悪いこともできませんでした。ただし、月謝だけは、時々ごまかして拝借していました。お腹が空くのでね・・(笑)。月謝を滞納するんです。
たまたま親父が最初の役員会で学校へ行った時に、1カ月くらい滞納しているのが判って、「あ~ひどいなぁ。毎月、月謝はちゃんと月謝でやっているのに。あの時はお前のせいで俺は恥をかいてきた」と言われて、それからはPTAの役員会がある時は、友だちや仲間からお金を借りて払って滞納者名簿に名前が載らないように気をつけるようにしました。そして、また次の月から・・(笑)。借りた分は、もちろんちゃんと返しましたよ。
何にお金を使ったかと言うと、食べ物ですよ。弁当は3つ持って行くんです。で、朝、「いってきまーす」って学校へ行って、2時間目と3時間目の間の休み時間が少し長いので、そこでまず一つ。それから、お昼にもう一つ。放課後部活をやって、その後最後の一つ。
ところが、部活が終わってからは弁当一つでは物足りない。その頃は学校に自転車置き場が無かったので、自転車を置かせてもらうように借りていた所が、たまたまパンを売っているもんだから、ついパンを買う。ほとんどがパン代です。ラーメン屋とか蕎麦屋なんて無かったですね。パンは、ジャムパンです。中にジャムが入っている。あとはあんパン。
それからまた自転車で12キロ走って帰って、家で夕ご飯を食べます。とにかく、なんぼ食べても、食べても、お腹が空きましたね。
ただ、自転車を踏んで高校へ通ったことが、今の自分の体力を作ったと思います。東京とか神奈川へ集団就職したような時代です。友だちとも、「あれがやっぱり我々の体を作ったんだよなぁ~」って話しています。
この頃一緒に通った同級生が神奈川県の茅ケ崎(ちがさき)に住んでいて、「東京歌津会」の会長をしています。彼はお兄さんがこちらにいて甥や姪もいるので、震災後もよく通ってくれて励ましてもらいました。その彼とも「若い時に体を鍛えるのは大事だなぁ」って。若い時に鍛えるのがやっぱり一番だと思います。
親父が怖かった・・と言っていますが、一応私にも反抗期はあったんですよ。どんな人だって、女の人だって、どんな時代でも、反抗期はあると思います。そうだなぁ、一度家出をしたことがあります。
ウチの親父は酒飲みだったから、酔っておふくろに文句を語ったりして辛くあたることがあって、それで、おふくろが少しかわいそうになって私が意見すると親父が益々怒るから、弟を連れて家出をね。当時、川の橋の下に風呂桶屋さんとか竹細工屋さんが材料の竹を置いている場所があって、そういうところに隠れて一晩帰りませんでした。
弟には「絶対声を出すなよ」と言って、おふくろが心配して探しに来て、私たちを呼ぶんだけど弟には返事をさせないで・・。おふくろが、一晩寝ないで心配していた、なんてこともありました。そのくらいの抵抗はしましたね。
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院に就職しました。その年がチリ地震の年です。国家試験を受けて、資格を取って、帰って来たらチリ地震津波(地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し宮城県志津川町(現南三陸町)では41名が亡くなった)にあったという感じです。
津波が来た時は、朝の5時頃だったので、まだ出勤前で伊里前の自宅にいました。自宅には被害はありませんでした。
親父が「病院が心配だから行ってみろ」と言うので、自転車で志津川へ向かいました。途中、橋が全部落ちてしまっていたので、そこは自転車を担いで歩いて川を渡りました。志津川に入るのに、まず裏山から高校へ行き、近くの同級生に頼んで自転車を置かせてもらいました。高校は高台にあるので、チリ地震津波の時は大丈夫だったんです。
それから病院へ向かいました。ところが、病院の近くまでたどり着いても病院へ渡れない・・。当時病院の周辺には製材所が4つあって、そこの材木が流れていたので、その材木の上をポンポンと越えて、なんとか病院の2階へ入りました。
志津川病院は、今は5階建てですが、当時は2階建ての木造の病院でした。病院自体は流されませんでした。水が残ってハゼとかカレイとかピシャピシャしていたのを覚えています。
前の日には、大小あわせて手術が7件あって、その中で、晩に手術した「えんどうさん」というお婆さんをおんぶして逃げました。屋根の上、潰れた屋根の上を渡って行くんだけれど、途中また波が来て、南三陸町の役場の手前にあった旅館の3階に駆け込んで、波をやり過ごして、そうやって中学までお婆さんをおんぶして行きました。
私も若かったんですね。あの津波の時は、幸いにして患者さんも職員も1人も亡くならずにすみました。今回のような仮設住宅というのはなくて、志津川中学校の体育館が避難所になりました。波が引いたら、みんな自分の土地に戻って家を建てました。
あのチリ津波の教訓を、もう少し真剣に受け止めていたら・・と思います。岩手県の田老町(たろうちょう)というところを知っていますか? あそこも、古い時代(明治29年三陸津波、昭和8年三陸津波)から、津波で大きな被害を受けるというのを繰り返していた場所で、それを教訓に「波返し」というのを造りました。
それで「あそこはもう完璧だ」という評判で、私たちも視察に行きました。それを基盤にして志津川や伊里前も造ったんです。基盤があって、それを元にそれぞれ対策はしていたんだけれど、今回の津波では何も役に立たなかったということです。千年に一度の津波というものの凄さです。
私たちは、三陸沖地震とチリ地震津波と、今度の大震災と、3回も経験しました。しかも、戦争で、いっぱい苦労して育ってね。生きているうちにそういう経験はしたくなかったねぇ(笑)。もっと良いことを経験するならいいけどもさ。
チリ津波の後も、志津川病院には41年間勤務しました。女房とは病院で知り合いました。彼女は、薬剤助手として勤めていて、結婚は2人が26歳の時です。女房も同じ歳、昭和13年生まれです。女房は早生まれ(1月4日生まれ)だから学年は一つ上になります。
女房は、生まれは赤羽だったか、浦和だったか、上野にもしばらく居たことがあると聞いています。それで、戦争になって母親の実家が志津川なので疎開して来たそうです。
子どもは、女の子が2人です。昭和39年生まれと、47年生まれです。上の娘は気仙沼総合病院で看護師をしています。下の娘は気仙沼で助産師、昔で言うお産婆さんをしています。父親としては、厳しい方だったかな。子どもを育てるという責任がありますからね。人それぞれですが、いくら親でも子どもの人生を云々というところまではしません。でも親としての責任があるうちは、義務教育ってあるでしょう?そういうのはきちんとやったつもりです。ぶつかって喧嘩したとしても、親子だから忘れちゃうね。震災前は、私たち夫婦と上の娘の家族4人(娘夫婦と孫2人)と下の娘と、7人で一緒に暮らしていました。
結婚生活というのは、やはり山あり谷ありです。離婚しようとか、そういうことを考えたことは全然ないから、そういう意味での「谷」ではありません。良いことばかりじゃないって意味です。甘いのは結婚したすぐの頃だけでね(笑)。女の人は、結婚生活をしていくと強くなるからねぇ。
体育協会の会長は病院勤務の頃から、20年務めました。志津川と合併するまでです。
歌津体育協会の記念冊子
体育協会長の及川さん
町会議員は、病院を退職してからです。旧歌津町時代からで、南三陸町になって初めての選挙でも当選して、合計三期務めました。旧歌津町が任期2年目で合併したから10年間、3年前までです。
私は、どちらかと言うと、病院職員として長くやってきましたから、病院のこと、医療のことを中心に活動してきたと思っています。
当選時の広報
出典:南三陸町
地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で軽トラックに乗って迎えに行こうとしました。
途中で津波が来て、山に潜り込んで、潜るって言うより、登ってだな、それで、なんとかかんとか高校まで行ったんだけれど、孫はもう帰った後でわからなくて・・。それで諦めて帰ってくるのに45号線は全く使えないから、知っている山道をグルっと回って戻って来ました。
後から聞いたら、気仙沼のジャスコに居たそうです。そこが危ないからと、私たちの子どもが通った旧宮城県鼎が浦(かなえがうら)高等学校(現在の気仙沼高等学校)で一晩過ごして、それから今度は気仙沼西高校へ行ったということです。怪我がなくて良かったです。
より大きな地図で 南三陸ー気仙沼 を表示
下の助産師の娘は、車で流されたそうです。自分の仕事場に向かっている途中で流されて、連絡の取りようがなくて、携帯電話も何も効かなかったですからね、半分あきらめていました。
そうしたら、私が避難した場所がたまたま発電機を起こしてテレビを点けたら、ウチの娘がテレビに写ったんですよ。瓦礫の中で助けを求めている姿でした。「ああ、これ助かったんだな」って、一応安心しました。
3日後に帰って来て、体が半分以上黒くなっていました。一晩海の中で瓦礫に揉まれたからね。体格が良かったから、今度ばかりは「お前スタイル云々じゃなくて、体格良くて良かったな」って、家族で笑い話にすることができました。
娘が低学年の頃は小学校にプールが無かったんです。だから、小さい頃はウチの前の川で泳ぎ、そうして海でも泳いで泳ぎを覚えました。高学年になって小学校にプールができたら、水泳大会で優勝したり記録を持っていたりしていたのが、今回幸いしたかなぁと思います。
家には婆さん(奥様)1人が残っていました。家の裏の山を崩れないように固めていたセメントの壁に、避難する時用に階段を作ってあったので、その階段を登って逃げたそうです。それで女房は助かりました。登って逃げて山の上から見ていたら自分の家がパーっと流されていくから、手でこう捕まえたくなったそうです。
上の娘は、もう1人の孫が専門学校の卒業式だったので、仙台に行っていました。その仙台からの帰りに地震と津波です。石巻から柳津(やないづ)の近くまで来て、そこで津波をかわすことができたんですが、もう少し早い時間に帰り始めていたら、途中で津波に呑まれていたんじゃないかと思います。タイミングが良かったと思います。おかげ様で、家族全員助かることができました。
避難したのは、歌津中学校の体育館です。あの晩はかなり雪が降ったんですよ。
まずは下の小学校に駆け登って、たどり着いて、少し疲れて休んだんです。伊里前小学校のプールの近くです。
そうしたら、同級生がそこで亡くなったと後で聞かされて、俺が休んだ直ぐ近くで亡くなったんだなぁと思いました。私の場合は、どうしてこうしてよくわからないけれども、すっかりずぶ濡れで中学校へ避難しました。寒くて寒くて・・。
そうしたら、どこから持ってきたのかわからないけれど、パンパースをもらって一晩履いて過ごしました(笑)。将来の練習をしたのかな?と笑いました。それで、3日間中学の体育館にいました。
それから今度は、平成の森に畳を使っている部屋があって、友だちが「こっちに来たらいいんじゃね?」と誘ってくれたので、そこでまた3日3晩くらいです。その後、知人の踊りの名取をしている方がいて、そこの津波を被らなかった稽古場をお借りして、そこはかなり長く3カ月くらい過ごしました。それで、ここに抽選が当たって入居したんです。
仮設というのは、自分ではどうにもできないでしょ? みんなが一線です。「お金持ちも、貧乏人も・・」って言葉があるけれど、そういう感じ。みんなスタートラインに一緒になったという感じです。
お金持ちの人はそれなりに銀行に預けてあったり、そういうことはあるだろうけれど、それにしても、スタートラインに立ったということだけは事実だと思います。だって、みんな同じです。隣に住んでいる人のところは、やっぱりここと変わらない。仮設住宅を作った会社によって間取りとか造作に少し違いがあるかもしれないけれど、大体は同じです。
私は、ここ(平成の森仮設)の人はだいたい知っています。隣の家は、私より1つ後輩なんだけど、行方不明のまま半年過ぎたからということでお葬式をしました。見切り発車だな。道路を挟んでそっち側は女房を亡くしたとか・・。できるだけみんなで励まし合いながらすごしているという感じです。色々考えてもしょうがないなと、そんな風に思っています。
津波で流されたけれど、おふくろの位牌は見つかって届けてもらいました。おふくろは体が弱かったんです。人工肛門ってあるでしょう? 今は普通だけど、この辺ではおふくろが最初でした。ヘモ、痔が悪くて人工肛門の手術をして、そんなふうでも結構長生きしてくれて72歳で亡くなりました。ま、俺の年までは生きてくれました。
家族の写真は、塩釜に住んでいる弟に焼き増ししてもらいました。
その2人兄弟の弟が、昨年12月14日に亡くなりました。震災後も元気でこちらを心配して力づけてくれていたのが、1カ月くらいで逝っちまったもんだから、今もまだショックから抜け切れません。
先日、弟の家へ電話をして弟の子と話をした時に、弟の孫娘が女の子なんだけど「宇宙の勉強をしたい」って。この話、もし親父が生きていたら何て言うかなぁ? なんて、親父なら、女の子がそんな「宇宙」なんて、許さなかったんじゃないかな? そんなことを考えました。
色々な都会のニュースを見ていると、腹が立つようなことばかり。子どもを何人も犠牲にするような車が突っ込んだ事件とか、ああいうのを見ると本当に腹が立ちます。私は、厳格な親父に育てられたから、ゴツンとやりたくなる。でも、それじゃあ暴力になってしまうし、腹をたててもしょうがないんだけど・・。
我々の世代とその上の世代は、戦後の厳しい中をここまでやってきた、立ち上がってきた。これからの若い人たちはどこまで出来るかなぁ?って思います。今の若い人たちに、飢えとか戦争の話をしてもピンと来ないでしょう? 我々はインターネットだとかコンピューターとか、面白そうだなとは思っても使い切れないもんね。若い人たちは、次々だよね? チョットついていけない感じがします。だから、考え方も違って当然だと思います。
こうして仮設に入って、家の中でゴロゴロしていてもしょうがないんだからと、みんなを誘ってグランドゴルフをやっています。実は、宮城県のグラウンドゴルフは歌津が発祥の地なんです。気仙沼市と唐桑と角田市に働きかけて、歌津を合わせて2町2市で宮城県のグラウンドゴルフ協会を立ち上げたんです。最初はグラウンドゴルフについての知識も無かったんだけど、見学して面白いもんだなぁって、それで立ち上げました。
先日も秋田に22名で行って来ました。私がグランドゴルフの会長をやっているから誘われて、それでみんなを誘って、そうしたら選手宣誓をして欲しいということになったんです。会は旧歌津町の人が多いです。
選手宣誓というのは、本来はそんなに色々しゃべるものじゃないんだけれど、全国の人たちにいっぱいお世話になって、それを少しお話しして選手宣誓してきました。全国から、グラウンドゴルフ協会からの義援金や支援金も集まってきていて、そういうことに対してのお礼もちゃんと言いたいなと思ったんです。ただ、レンタカーがないと相談したら、「迎えに行きますから」って秋田から迎えに来てくれて、それで参加が実現しました。
秋田の大会で選手宣誓をする及川さん
写真提供:秋田県南日々
今度、10月の15〜16日に、山形の庄内町へ行ってきます。もともと友好都市で、1年交代で行ったり来たりしていたんです。今年はこちらが行く番だったのが、用具もみんな流してしまって・・。
震災後、そういう用具を贈ってもらったり、いっぱい元気づけてもらったりしたので、私を入れて4〜5人でお礼に行こうかと思っていたら、先方のグラウンドゴルフの会長から携帯に電話がかかってきて、それがちょうど秋田から帰ってきた翌日に電話で、「心配しないでいいから多くの人を連れてきてけろ。何人くらい来ますか?」と言われて、30人から40人の間かなぁって。
向こうとしては、大勢来てもらって癒してやりたいという風な気持ちでいてくれるんだと思います。山形への参加費は500円です。本当はタダでいいと言われたんだけれど、そんなことではダメだからと電話で話したんです。
山形の庄内市の立川町も山形のグラウンドゴルフの発祥地です。今は合併して庄内市になりましたが、当時は立川町で、町長さんとも知り合いです。この震災の後も、グラウンドゴルフ協会の人たちが中学の避難所でも色々送ってくれました。食べるもの、お雑煮を500人分位ごちそうになった時もグラウンドゴルフ協会の方々が中心になってやってくれました。立川町の町長さんも一生懸命中心になってやっていただいたので、本当に心強いもんだなと思って、今はどんなふうに返したら良いのかなと考えています。
2012年は、宮城県で「ねんりんピック」を開催します。実は、歌津はグラウンドゴルフの会場になっていたんです。ここはホテル観洋もあるし、民宿もあるから宿泊場所にも困らない。ところが、歌津で開催できなくなったので七ケ宿町が会場になりました。宿泊場所が確保できなくて仙台から往復するという話も聞いています。いつか、ここで、歌津でまた大会ができると良いなぁと思います。
今は、グラウンドゴルフにあまり馴染みの無い人も、後からこの仮設に来た人たちも誘って、みんなさ呼びかけてやろうかなーと思っています。部屋の中にだけ居るっていうのは、本当に良くないと思います。同じこの仮設に居ても、コミュニケーションの場も少ないしね。
この上の野球場に芝生の種を蒔いて、グラウンドゴルフができるように準備しています。まずもってみんなで和気あいあいやっていると沢山見に来るから、そうしたら誘って・・。今は、まだ泊崎のグラウンドゴルフ場へ行ってプレーをしているんですが、それだと年をとっている人たちは行けないでしょう? 車を運転しない人も多いからね。ここでできるようにすれば、みんなでできるでしょう。
日本の戦後の頑張りがあって、そして現在があることを考えると、今回の津波でも「負けていられるか」という思いもあります。でも、いざ75歳になってみると、「さて、これからなぁ・・」という気持ちもあります。若い30代40代であればともかくね。それでも、子どもたちとも一緒に生活しているので、やっぱり頑張らなきゃいかんなぁという気持ちもあります。
まずもって、やっぱり誰しも同じだと思うんですが、やっぱり城、つまり家を、自分の家を持ちたいですね。自分の家を後世に、孫たちに持たせてやりたいです。孫たちもそれぞれ、本人の人生だからどういうふうにするかわからないけれども、それでも、帰ってくる家、自分たちが育ったふるさとというものをもたせてやりたいと思います。例えば東京にいようが、大阪にいようが、何年に1回としても、もし帰ってくるならば、やっぱり自分の家がないところに帰って来たくはないと思うんです。
もちろん、墓守、つまり・・やがて私たちもそこに並ぶんだろうけれども墓守をして欲しいなっていうのもあります。
我々の歳になると、もうどこかに出るということは考えられないです。もちろん、諦めて息子のところへ行くとか、あるいは、娘のところへ行くとか、色々なことを考えてここを去っていった人もいます。それでも、自分はここに、歌津に骨を埋めたいなぁという風には考えています。(談)
お話くださる及川さん(2012年6月3日)
このお話は、平成23年9月17日、平成24年6月3日平成の森仮設住宅で
及川徹さんにお話いただいた内容を音声から忠実にまとめたものです。
[取材]
宮下凌瑚
大木潤子
大井田和恵
河本裕香里
木村彩子
(以上2011年9月17日)
久村美穂
土田照美
中村道代
田辺和子
(以上2012年6月3日)
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[編集協力]
江戸川淑美
[文・編集]
河相ともみ
[発行日]
2012年6月
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト