志津川湾と荒島
写真提供:rakumaru「楽兎庵便り」
ここから始まるのは、地元に生まれ育った高橋登美子さんが綴る、「志津川ものがたり」です。
たくさんの人が自宅に集うことを好んだ面倒見のよいご両親。近所の人が代わるがわる入りにきたという大きなお風呂。威厳タップリのお父様、お手伝いにいそしんだ子供たち。楽しいお正月。海水浴。高橋家の家族行事のかずかずをとおして、四季折々につづられた登美子さんの少女時代のエピソードは、読む私たちをタイムスリップさせ、「旧き良き日本」へと誘ってくれます。
そして、長じてのキャリアウーマンとしての登美子さんの生き方には、世代を超えて多くの女性が共感することでしょう。結婚と家庭という普遍的なテーマをこの時代にすでに体験し、新しい人生の舵を切って、好きな仕事を定年までやり抜くのは、並大抵のことではないはず。その一方で、周囲の人と手をつなぎ、あたたかい人間関係も育てていらっしゃるのです。
これを手に取るすべての方が、登美子さんの豊かな内面世界と、志津川の魅力を同時に感じていただければ幸いです。
貴重なお話をたくさん聞かせてくださった登美子さんと、この企画を応援してくださった中瀬町区長の佐藤徳郎さんにこころより感謝申し上げます。
2012年3月31日
RQ聞き書きプロジェクト チーム一同
私は昭和13(1938)年3月28日にここ志津川に生まれました。潮見町といって、ちょうど警察のあった辺りです。わかりやすく言えば、松原ってところですね。生まれてから終戦(昭和20年)のちょっと前あたりまでいましたね。松原ではお風呂もなくて、銭湯に行っていました。
私は8人兄弟で、そのときはひとり亡くなって、7人いたんです。上2人は東京の方で暮らしていたから、その時は私が一番上の立場で、下に弟2人と、妹2人がいました。
考えられないくらい、いろいろな生活だったんです。戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。あの頃はみんなそうしてましたね。私は、そんな話をするような古い人なんですよ(笑)。
松原は楽しかったの。夏になると年を取られた人たちが勉強を見てくれました。
昔は、男の人は高等小学校を卒業するか、青年学校8年まで修了するか、女の人は女学校を出ると先生になる資格がもらえました。女学校を出て先生にならないで家にいる人とか、青年学校を卒業した人たちがみんな、夏休みになると、松原に建ってるあずま屋で勉強会をしてくれたんです。朝、朝早く起きて、松原そうじっていってみんなで松原を掃除して、そのあとにその人たちが夏休みの勉強をみてくれたんです。
そんで勉強みてもらって、涼しいうちにそれが終わって、10時くらいになると勉強が終わって、みんな今度は海に向かって走ってくんです、裸になって(笑)。海水浴です、もう。それこそ、待ち構えてたように走って行ったものです。
昼ごろ、いい時間になると子供たちが海から出てくるのを待って、近所のおばちゃんたちがつるべで井戸から水汲んでいるんですよ。その水を、子供にザブー、ザブーっとかけてくれる。みんな並んで、体についた塩水を流すのに、かけてもらうんです。その井戸水が冷たくてね。
ああいう時代っていうのはほんとにいい時代だったね。ほんとあの時代はよかった。
終戦後、昭和21(1946)年に引っ越しました。小学校2年生くらいだったでしょうか。
松原というところが狭いということもなかったのですが、昔は近隣に病院がないので、みんな入谷とか戸倉から来ては家に泊まって行ったので子供が寝る場所がないほどになってしまい、終戦の年に今度は志津川町大久保という、畑などのあったところに家を建てて引っ越しました。ずっと、24歳で嫁ぐまでそこで暮らしていました。今も家はあります。
終戦後ということで、ちゃんとした暮らしがしたかったのかもしれませんね。子供も大勢いましたので、土地の広いところに家を建てて、お風呂も作って。自分の家の畑に建てた一軒家だったんですが、広いし、遊ぶのにも困らない。
風呂は下から火を焚く大きなお風呂だったから、母親が入るのを見たことがないくらい、近所の人がずうっと夜中まで入っていました。私たちは父親が働きから帰ってくると、子供3人と大人一人がお風呂に入りました。大きなお風呂だったんですが、水汲みは大変でした(笑)。水道がないから、井戸からつるべで汲んで、担いで行くんです。井戸は往復10分くらいの距離にありました。水汲みは子供の仕事でしたから、肩に食い込んでね。
井戸は毎回つるべを落として水を汲みあげるので大変力がいりました。「カギ」と呼ばれる棒の先に桶を引っ掛けて、天秤のようにして運んだのです。子どもにも重労働でした。
そして子供は背が低いので、台の上に登ってお水を湯船にいれるんです。お風呂が大きいから、いくら汲んでもなかなか終わらない。浴槽の中を見れば「まだまだだ」って思ってがっかりするから見ないで(笑)とにかく水をいれるようにしていました。それでも子供は、親が怖い、親の言うことはきかなくちゃならないと思うから(最後まで頑張る)。子供が働き手だったんですね。
多くの人でにぎわった高橋さんの生家の間取り図
終戦後、昭和30(1955)年くらいからみなさんお風呂を(自宅に)持つようになりました。チリ地震津波のちょっと前くらいでしょうか。でもそのころまでみんなお風呂に入りに来ていたように思います。とにかくよその人たちと生活してるような感じでした(笑)。親が人に食べさせるのが好きだったし・・。
私はよその人が家に来ていることが楽しかったですね。よその人が来ていると親が優しくて、怒られないから。その時代は人とのつながりが良かったんですね。たとえば、終戦後はね、手とか足とか無くした人が良く来たんです。白い服を着て、袋を下げて、おもらいみたいだけど来てくれて、そういう人たちも家に泊めたりしていました。自分たちの子供も大勢いるから、泊まる布団も十分だったわけではないけれど。
そういう環境で育ちましたから、何が好きって訊かれたら、私は人が好きって答えるでしょうね。食べる物を前にしてもそんなことを言うから、「人を食べるの?」ってからかわれますけど(笑)。今日はこうしてボランティアの皆さんが、本当に全然知らない人たちが、こうして尋ねて来てくれて、やっぱりいいなぁって思いますよね。
家でお世話した方が、今度の津波にあったからって、私たちをお見舞いに来てくれたんですよ。足をくじいて病院に入院していたのに、娘さんが連れて来てくれたんです。それから、お世話した方の孫の代の人が皆お見舞いに来てくれました。父母の生き方が自慢できると思うくらいです。代々人のことをお世話するのが、うちの家系ですね。自分のことはいつでも出来るけど、まわりの人のことは今、やってあげなければできませんものね。
父親は百姓をしていました。戦前は、自給自足の生活でしたから、田んぼを耕す合間に、和泉さんとか、醤油を作っていた佐藤さんとか、県会議員をなさっていた大長さん(屋号)とか、大きな山を持っている地主さんのお家があるんですが、そこの山に出入りして、木がよく伸びるように山の刈り払いをしたり、杉の間引きをしたり、山仕事をして、常勤のようにして通っているうちに、その家の内情とか、一年間の仕事の内容を把握する番頭さんのようになって、「手間取り」として現金を稼いでいました。その金を学校に持っていくお金にしていましたね。
そのころは、地主さんが山や田んぼを持っていたんで、ほとんどの人は山に仕事に行ったり、小作で作っていたりしたんですね。戦後の農地解放で、畑や田んぼにしていたところは、地主から小作の手に移り、地主さんには何も残らなくなり、小作をしていたみなさんは土地持ちになっていきました。山は残っていたけれど、田畑は失ったのです。
父は専門の漁業をしていたわけではありませんが、漁業権は持っていたから、開口とか、ハモ釣りとかには行っていましたね。漁業権もいつのころからかわかりませんが、漁業協同組合を立ち上げて、農家の人たちを漁師さんのようにして、漁業権を与えたんです。漁業権がなければ、開口の日にアワビなんかを獲りに行けないですからね。たいていは、半農半漁ですね。海あり、山ありだから。
親の苦労を知らないような子供でしたが、そのかわり親の言うことは絶対のものでした。父親が手間取りにいくのに、「今日はここの田んぼこれだけやっておきなさい」などといろいろ言い置いて行くのですが、それはちゃんとしておかないとだめなんです。昭和21(1946)年生まれの妹がいるんですが、戦後生まれで、その妹からは何もしなくてもよかったんですが、その前に生まれた弟2人は、すごくいろいろな家の手伝いをやらされていました。
私が小学校を卒業して中学校に入った頃は、ストーブに焚く薪取りや、杉の植林、そんなことが多かったですね。杉は学校に植えたので、町のものでしたが、今度の津波で枯れてしまいましたね。
冬の間、親は山に行かないから家に居て仕事するわけですよ、縄をなったりね。そうすると、(子供たちにとっては)おっかなかったですね、父親が。だから早く春になって親が山に行かないかなって思ってたんですよね。(笑)。もうこうして親が家の中で縄ないなんかしてると、遊べないっていうか、うるさくしたら怒られますから。そういうこと今、改めて話してみるとね、すーごく、父親を邪魔に思ってたね。でも、子供心におっかない親だったんだけど、そういうふうに親子関係ってどこかでつながってたんですね。
親っているときは鬱陶しく感じるものなんだけど、いなくなって初めてその存在感がどーんと出てくるんですね。私よりずっと年長の方が、口々に「あなたの親がこうだった」とか、「かあちゃんは優しかった」とか、話してくれると、ありがたいなぁと思いますね。親っていなくなってから有難味が出てくるものなんですね。
小学校のころは給食がなくて、お弁当を持っていったのですが、家は田んぼと畑と海があるでしょう。そういう志津川の生活ですから、親は大変だったと思うけれど、子供はあんまりひもじいとか、大変とかいうことはなかったですね。
ただあの、お弁当を温める暖飯器って知っていますか? 下に炭を置いて、段があって、そこでご飯を温めるんですね。そうすると、お漬物が匂っちゃって。一番下はあったまるわけね。そしたら2番目の人が今度は下に行って、交互に温まるようなっていて。アルミのお弁当だから、角が腐食するようなお弁当箱だったんです。
人のお弁当を見るなんて、あまりなかったのですが、おかずなんかないですから。梅干しはいい方で、まずご飯を入れて、味噌を入れてくる人が多かったですね。
その他はたくあんしかなくて、それをみんなご飯に入れてくるから、私たちクラス40人から50人くらいいましたので、匂いがみんなついちゃって。そんな学校生活でしたね。
終戦後は、ゴムで作った靴が配給で来るんですね。40人も50人もいる所に「何足」って決まってくるんです。くじをひいたのか、順番にもらったのか、記憶は定かではありません。雨が降ると、道路は舗装ではないので、水が溜まってドロドロですが、大変なことだとも思わなかったですね。子供のときは、何でも大変ではなかったですね。
ここらへんのお正月の風習は、伝統的なものがありましたね。
まず暮れになると、お家を綺麗にして、神棚を掃除して、糊を焚いて、真っ黒になった格子もきれいにします。夜になると親が障子紙を張るので、昼間のうちに子供たちで準備しておくのです。それから、「お恵比寿さん」など(七福神)人形を全部下ろしてきて、すすで黒くなったのを洗って綺麗にしてから年越しをします。親は、日中の仕事が終わってから準備を始めて、障子を張るのも夜中までかかったりしてましたね。障子を張り替えると、部屋の明るさがぜんぜん違って、こんなに汚れていたのかと驚きました。
うちの場合だと五升枡ってお米測る枡があったんですよね、それに少しばかりのお金を入れて、それを「今年はありがとうございました。来年もなんとか困らない暮らしができるように」って親が神棚にお供えするんです。
お正月に口に入るごちそうは、みんなこの辺りでとれたものです。お雑煮を作って、あんこ餅を作って、クルミをつぶして。クルミは金槌で叩いて割るんです。それでお雑煮には、(お雑煮の具に欠かせない)「お引き菜」と言って、中身は大根が千切りになって、にんじん、牛蒡と、しいたけと、あとは昔はね、地こんにゃくって言う名の黒いこんにゃく、それを千切りにしたのを入れて団子に作ります。その上に、蛸の渦巻(22ページ参照)とか、お雑煮の上盛りをします。仙台だとハゼなど付ける(※焼きハゼで出汁を取る仙台雑煮)んだけど、このへんでは、蛸の渦巻とかアワビとか付けてたんですよね。さらに、この辺りは鮭が登ってきて捕れたからイクラ(ハラコ)、セリはこのへんの田んぼから冬でも採れたから、セリのせて、シイタケのせて、それから、紅白のかまぼこをのせて、すごく豪華でした。
そこにお餅が入るのね。お餅がいらないっていうと「コウ」だけになるのね。コウっていうのはどんな字を書くんだったかな。よく「コウだけでいいな、餅いらないな」ってよく子供たちだけで言ってましたね。
あんこ餅とクルミ餅も用意します。あんこ作りは、大忙しだったのね。あんこ通しっていう道具があって、小豆をつぶしてこしあんにするわけね。そして袋に入れて水にふやかしてあんこを作ります。クルミはつぶして、剥くのは子供の仕事。クルミ餅とあんこ餅とお雑煮として、それでお正月の食卓は整います。
そして、大根おろし。神様にお供えするのに塩を使ってはだめって言われました。それで酢で味をつけたんです。紅白のかまぼこをお皿置きにして、そしてお正月の朝に、父親が神様に必ず捧げて、子供がその後ろにぞろぞろついていって拝むんです。
朝はね、ちゃんと神様を拝まないと、お餅を食べさせないと言われて、みんなそろそろ父親の後ろに並んで、ちゃんとこうして膝をついて拝んだものです。うるさくした人のところには神様が来ないんだって言われましたね。拝んでるふりしていたのかも知れませんね。
そしてお正月の食卓を囲んで食べ終わると、今度は前の晩に神様にあげたお金がね、いくら入っているかすごく気になるのね(笑)。次の朝にその枡からお年玉をもらうの。それがすごく良かったねぇ・・。買うものもないんだけど、枡のなかにお金がなんぼ入っているのかな、と神棚の上で見えないから気になって。
そのお年玉って言うのは、親が外で働いて手間取りして稼いだ現金なんですよ。自分たちが家の手伝いをしないと、親が外に出られないし現金が入ってこない。だからたぶんね、今考えると親の言うことをきく、っていうのはそのへんだったのかなぁ、と思います。そう、お年玉のためね(笑)。
あのころでいくらもらったんだろ、ほんとに小額だったと思いますが、買ったものは覚えてて、今でも忘れられないのは、金平糖ってあるじゃないですか、ピンクや緑のきれいな砂糖菓子。そういうのがガラスのケースに一杯入って売られてるでしょ? きれいだからね、一杯入ってる塊だけ見てね。いくら持って行ったのかな、5円くらい持って行って、買ってみたらここに金平糖が何個も来ないんだよね(笑)、それがずっと忘れられないの。なんかお金使うの損したって、ただ見てた方が良かったってずっと思ってたね
あとは自由です。お正月の料理を食べ終わると、父親はね親戚を「一礼」しに、出かけるわけですよ。母親はいろんなもの食べさせたり、やっぱりよその人が「一礼」で家に来るからそこに(挨拶に)出たり、みなさんにお神酒出したりで忙しい。一礼っていうのは、一番最後に来る人がお酒を飲むのね。いろんなところを年始の挨拶で回んなくちゃいけないから、お酒を飲まないで回って歩くんです。一礼で「おめでとうございます」って父親が立派にして出て行くとね、もうそれが天国だった。帰ってくるまで(笑)。
こういう「一礼」っていう風習は何年も前からなくなって、今はみんなでセンターに集まって、おめでとうございますをするようになりました。私たちの親戚は何軒か、やっぱりやったほうがいいっていうんで、この前まで「一礼」をやっていました。来年はおそらくやらないでしょうね・・・亡くなった方が多いし、(親戚の中にも)佐沼や入谷に行って、ここにいない人もいますしね。
そのあとは、子供みんなで羽根つきしたんですよね。こないだ古くなった羽子板があったのを、みんな流しちゃったんだけど。羽子板とかも古くなって。高学年になってはあんまりしなくなって、卓球かな、戸袋に入ってる板を卓球台に作ったもんだと思うけど、そんなので遊んだり。とにかく子供たちはみんな遊びを見つけてする名人で、苦労しませんでしたね。
昔はお正月も貧乏していたけれど、みんな新しい下着を身につけて着物を着たんです。昔はシャツとか下着なんて着っぱなしだったから、嬉しかったですね。こんな袂のついたのね。それで「がっぱ」っていってポックリのようなものをお正月に一足、普段2枚板の下駄をはいているのですが、買ってもらってそれをポクポクと言わせながら履いて、着物を着てみんな集まったものです。お正月は朝風呂に入っても、昼間に入ってもよく、部落の子供たちみんなが来て、一日中、みんなでお風呂に入ったのが楽しかったですね。親が人好きだったのかもしれませんが、お友達もいっぱい来て、人がいるのが好きでしたね。
お正月は、家はきれいになるし、親は怒らないし、おこずかいは少しもらえるし。なんとなくそのとき、瞬間が嬉しくて、毎年頑張ったとかいう意識ではなく、それが普通の、日常の生活だったんですよね。なんとなくその空気が大好きだった。すごく気持ち良かったんです。
お正月は、うちの親が生きている間はとにかくそうやってきちんとしてたから、今でもあんこ通したり、「お引き菜」を作ったりしています。
今東京に行ってる娘がおばあちゃん子で、私の母を幼稚園ぐらいから手伝ったりしたから、それをしたいんですね。帰ってくると。「お母さん(お料理)しないの?」とかって言って。美味しかったし、今でも美味しいし。今なんて、昔の美味しいものって、みんなわざわざお金出して食べてますものねぇ。
お正月は神棚に、鯛などの形に切り抜いた「切り子」を飾りますね。そのほかにも、いろいろのお飾りを貼ります。鯛の形がついたとか。「星のだま」などのいろいろなお飾りを飾ります。それを作るのは、切子を専門にするような職人さんがいたんですね。しめ縄とかお飾りなどを売りに来ていました。
今でも、御幣束(おへいそく)を切る方が、この仮設住宅の中にいらっしゃいますよ。私も今年のお正月は小さいものを切ってもらいました。
その方は宮大工さんなんです。宮大工の棟梁ともなると、神棚に飾るお宮も立派なのをこしらえますし、祝詞を大工さん自身があげなくてはなりませんし、なんでもできなくてはならないんですよね。匠の技ですよね。
今は、宮大工としての仕事にこだわらず、頼まれれば、なんでもやってくださいます。この方が雇われていた方が、匠の名人で叙勲を受けたほどの腕の方でした。
「自分の家はなかなか建てられない」と言っておられたのですが、やっと建てて、「700年も1000年も大丈夫だ」と言っていた家だったんですが、建ててわずか3年ぐらいで、この間の津波で流されてしまって本当にお気の毒でした。
昔は子供がお使いに行くのが普通でした。お店に入る時は、「もうし~」って言いながら入って行きます。もらうっていう意味と買うって意味もあったんでしょう。店の方でも心得ていて、何を買いに来たかっていうのは、もう店の方で知っているんです。子供がモジモジして行っても、分かってくれますし、親がお金を持たさないで使いに出しているのも分かっていたんです。例えばいつも買うお醤油や味噌を一升瓶に五合など、みんな、そこの家の家計も内情も知っているという感じで見計らってくれるのです。だからみんな、お店の人に持たされて帰ってくるという感じでした。
そのようにして帳面につけておいてもらって、盆などに手間どりした勘定が出てから、まとめて支払う、それが普通だったんですね。
でも、たぶん医療費は大変だったと思います。今みたいに保険があるわけではなし、重病人が出た家は、高い医療費を払うために、お金を借りなければならなくなる人もいました。前借で借りてしまうから、働きに行って稼げる額よりも多く借りてしまって、今みたいに利息もとれないから。結局、山を取られ、畑を取られたりしてしまうのです。お金を貸す人は町内にいたんですが、有難がられたんです。お金はないと医者にかかれないし、物も買えない。現金を融通してくれてありがたい、というわけです。
あるときは、親戚が遠くから病院に来るのに(家に泊まって)寝てたりしたから(静かにしないといけない)。病人だけが、「お粥(けっ)こ」って言って、米だけのお粥を作って食べさせたのね。病人だから。私たちは麦ごはんとかだった。白いご飯は食べられなかったのね。いいときはジャガイモ入れたり。ジャガイモはね、あったかいうちは美味しいけど、さめると美味しくなかったの。むかしはいもご飯って冷たくなると芋の匂いして美味しくなかったの。
100歳ばかりで死んだ叔母に、「『お粥(けっ)こ喰いてぇ、お粥(けっ)こ喰いてぇっ』って、病人と一緒に食べたいとばかり言ってたんだから、あんたは」って言われましたね(笑)。
それでも志津川は食べるものにはどこも困らないと思いましたね。子供に食べさせるために、親が柿とか串柿とか作ってたし、サツマイモ、いちご、ぶどうとなんでも植えてたんですね。昔はお金持ちでお金がいっぱいあっても、高いお金出してどっからかヤミで買うかしなければ、モノがないから(買うことができず)食べられなかったのね。反対に、米、麦、アワビなんかはとれたけど、美味しいものは、さっきの金平糖ではないけど、お金がないと買えなかったものもありました。
高度経済成長期に入っていくわけですが、その頃私は昭和28(1953)年に中学を卒業すると、1年くらい家の仕事を手伝っていましたが、お金にならないので、就職して、地元の病院に勤めました。先日の津波で患者さんが流されてしまったあの志津川病院で、患者さんの給食を作る仕事でした。そこを退職するまで、39年と少し続けました。
その頃は就職難で、中学を300人卒業しても100名ほどしか就職できないような状況でした。夜間に通うという手もあったのですが、もう勉強に飽きてたんですね(笑)。弟も妹もいるし、お金を早く稼ぎたいと思ったんですね。
就職して3~4年目くらいたった頃に、昭和35(1960)年、チリ地震津波が来ました。その前に25歳のときに一度結婚しましたが、就職したばかりで、朝は5時起き、夜も交替制ではなかったので、ずっと働きづめで、「仕事を続けながら同時に嫁のつとめも果たす」ということは難しく、どっちを取るかということで、仕事を取りました。だんなさんになった人のこともぜんぜん考えなかったのかな・・。お義母さんと暮らしてて、そちらも嫁さんいなくても別に関係ないって思ってたのかもしれないですね。職場の周りの人にも、「(結婚なんて)辞めた方がいい、辞めた方がいい」、って言われてその気になって。で、6カ月か7カ月くらいで離婚して、ずうっと病院の給食のところで働いたんです(笑)。離婚する時には、相手の反対もあったのですが、親が連れに来てくれました。父親には、連れて帰るのに10年寿命が縮まったと言われるほど心配をかけました。
その後にうちの親が、「いつまでもそんなことしてたのでは」と言いますし、私自身が大人になって、少しは親孝行もしなければと思い、ぜんぜん仕事と関係のない船乗りと結婚しました。30歳になった頃かな。昭和40(1965)年でした。
相手は二つ年下でした。年中いないから(都合がいい)って、船に乗ってる人をすすめてくれて。マグロの遠洋漁業をしてる人で、6カ月帰ってこなかったから、非常に自分としては暮らしやすい人でした。給料だけは送ってくるしね(笑)。働きたいし、やっぱりお金が大事だったんですね。働けば入ってくるけど、お嫁さんになるとお金を出さなくちゃならなくなりますから。うちには今娘が2人いますが、その人との間にできた子供です。
主人はもう亡くなったんですが、インド洋まで遠洋漁業に行ってる人でした。ほとんど私はひとりで呑気に暮らして。住まいは竹川原でした。
主人はその後、還暦を迎え、船もあんまりお金がとれなくて、やめてしまいました。若い人で乗る人は少ないから、結構船にはまだ乗れていたのですが、還暦を迎えたことだし、お父さんや昔の人に会っておかないと、これから年とってひとりになっても困るからというので船をやめて、還暦の同級会に参加してすごく満足していたんです。
船を下りて家に一緒にいたのですが、お酒がすごく好きな人でした。頭の中を割ってみたいってほど、どうなってんだかって思うくらい人がよかったんです。海で育った人だからすっかり子供に帰っちゃって。海に行って海草を採ったり潜って貝を獲ったりしてました。
ある日、寒い時、ここは「夜磯(よいそ)」って言って、夜寒い時分、月が煌々となっている時に、潮が速くずーっと引いていく(大潮)んですね。酔ったまま、みんな寝る頃に行って、誤って落ちてしまって。お酒飲んでるからたぶん、そのまま亡くなったんでしょうね。一晩中探したんですが見つからなくて。その次の日たまたま魚を揚げに行った人が見つけたんです。
乗るのをやめた船が沖へ出て行くのを見て、私は主人に「同級会なんかこれからも出られるのに、船に乗るのをやめないで」って言ったんですが、それでも船に乗るのをやめて、こんな風に亡くなってしまいました。近所の皆さんの方が悲しんだり心配してくれたりしていました。「船に乗せてやればよかったね」って言っていたのですが、そういう運命だったのかもしれないですね。主人が亡くなった時、娘は30歳と32歳でした。
主人との思い出ですか? 6カ月ぶりに帰ってきて、船が戻ってくると気仙沼のドックに入るんですが、勤めをしているから船が岬に入ってもドックに行けないし、子供が小さい時には、主人が戻ってきて、二晩泊りくらいでおんぶしたり抱っこしたりして・・。だんだん船も性能が良くなってきて、外国でもドックできるようになっていたので、長くいる時で1カ月くらいしか家にいませんでした。だから帰ってくると生活サイクルの時間がくるっちゃいますよね。それでやだな~って思ったりして(笑)。それで、主人が帰ってくると、「なんか俺、ハワイの方が自分の住んでる家でここの方が外国みたいだ」なんて言ってました。
彼はどこに行くにもひとりが嫌で、「一緒にいかねぇの、いかねぇの?」って必ず言うんですよ。それで遠くには行けないんで、このへんの山に行くんですが、山が好きで山菜とりも好きだったですし、歩くのも好きで歩いたり・・そのくらいなのかな。そういう時は私の休みに合わせてもらって一緒に行きました。私も山菜とりなどは好きでしたし。主人は山菜を食べるのも好きでした。
船が外国に入る時には、(日本からそこに向けて)いろんな贈り物ができたんですね。そのときにいろいろと作りました。山菜の味噌漬けだとか、このあたりでは蛸が有名で、私が小さい頃よく作っていた「蛸の渦巻」。ハムみたいに作るんです。このあたりでもだれも知らないんですが。
10月に獲れた蛸が気候が良くて一番いいというんですが、それを頭に竹を入れて、12月いっぱい干し蛸にするんです。
籠を作る竹を使うと、軟らかくってしなるから、それを頭に入れて広げるんです。頭の部分がしぼまないように干さないといけません。あとで足を、その頭の中に全部入れるから、小さくなってしまうと入んなくなってしまうからです。家の父がその作業は得意だったんです。だから私は直伝ですね。
昔はいっぱい蛸が獲れたから、30匹くらい干す。そして、今度はそれを水で戻すんです。戻した蛸の頭に足を全部入れるんですね。それで蛸糸でぐるぐる巻きにして、ちょうどハムのような出来あがりにするんです。そうすると蛸がすっかり美味しく出来上がって、そのまま最高のおつまみになるんです。それを(外国の港にいる主人のもとに)送ってあげると、みんなよそでは食べたことないですし、毎年船から、「今度、油の補給で外国に停泊するから、その時に作って送ってくれ」ってリクエストが来るんですよ。必ず蛸を干しておかないとできないから作るのが大変なのですが、作って送るとみんながすごく美味しいって喜んでくださるんです。今でも作りますよ。
東京には、去年80歳で脳梗塞で倒れた兄がいるんですけど、自分で元気になりたいってリハビリして回復したら、志津川の家の昔のことばかり言うらしく、「蛸の渦巻が食べたい」って。それで去年作って兄のところに送ったのですが、「昔のより美味しくない」って言われてしまいました。昔は十杯ほどの沢山の蛸をふやかして茹でて作ったんだけど、去年は一杯だけ作ったんです。
蛸も大きくて足の太いのでないと美味しくないですからね。今は数も少ないし、値段も上がっていますからね。それでも私は知り合いがいるから蛸が手に入ったんですが、この津波で獲れなくなりましたね。
たぶんまた蛸がここに来ると思うんだけど、「根蛸」ていって、志津川でずうっとそだった蛸の方が美味しいんです。蛸の小さいのがここに入ってきて大きくなった「マダコ」でないと作れないですからね。海の方の崖がアワビの宝庫なんですよ。志津川の蛸は、そのアワビを食べてそこに住みついている蛸だから、よそから入ってきた蛸よりも身が張っていて断然美味しいんです。志津川の海は遠浅だけれど、山から海にかけて全部岩なんです。今は海藻もなくなっているけれど、海藻の中にアワビが住んでいましたからね。そんな様子も、もう子供のころの思い出になってしまいましたけどね。
母親は77歳のとき、敬老会の朝に亡くなりました。心筋梗塞で、朝に起きたら亡くなってたんです。いい死に方だったんだけど、ちょっと早かったと思いますね。
父親は83歳で亡くなりました。父親はね、膀胱がんだったんだけど転移したんですね。このへんの病院に膀胱がんの先生がいなくって、泌尿器の先生じゃなくて、外科の先生が担当でした。前立腺がんのお薬飲んでたんだけど、自分で「どうもおかしい」「自分の知り合いで若いころに看病した人が膀胱がんで亡くなってるから。きっと自分もそうかもしれない」と言っていたんです。けれど検査もできなくって結局は手遅れみたいになって。
お盆でみんなが忙しい時に父親は私の家にいて、お茶を飲んで帰ったんだけど、その後夜中に「座っても立ってもいれなくなったよ」って電話よこしました。「じゃすぐに病院に」って。病院に行ったらもう殆ど立つこともできなくなってしまって、そのまま2カ月、10月16日に亡くなってしまったんです。
入院したときも、パートで来てた(外科の)先生が学会かなにかでちょうど来れなかったんですね。「おじいさんこんなに風になるまで、申し訳なかった」って頭を下げられたけれども、「まぁ先生のせいでないから」とは言ってみたものの、「だからパートはだめだぁって」父親は怒ってました。
入院してから、意識もなくなって、痛み止めも今みたいに打たないので、今度はすごい痛みが来て、それで肺に転移してたから、たんが詰まってね。点滴のチューブをして、おしっこ(カテーテル)をぶら下げているのに、夜中に「(トイレに行くから)起こせー!」って言うんです。最後までそんなおっかない親でね。(カテーテルが入っているから)トイレに行かなくてもいいんだけど、「自分で行くから連れてけーっ!」て私たちを起こすんですね。それを見て、若い先生が「おじいさん若いころ何してた人ですか」なんて言うんで「インドでヨガやってたんです」って(笑)。木の根っこみたいに、もうすっかりやせちゃったのに、働いたときに体がしっかり作られていたから、肩も隆々として大きかったんです。昔の人は働いて働いて、ああいう風に体ができて、それで亡くなるのもいいかなって思ったんだけど、父親はかわいそうで、かわいそうでね。もう父親が強い(存在だ)と思って、ぜんぜん(健康のことなど)気遣っていなかったなぁって思いました。
父親は私たち子供にはおっかなかったけど、孫たちが好きで好きで。うちの大きいほうの娘なんかね、もう父親が亡くなってからしばらく、毎晩私がいなかったり息子がいなかったりするから家に来てくれていたんですが、「じじが毎晩来てる」と言ってきかないんですよ。「そんなの来てるわけないでしょ?」って言っても「お母さん、来てるから外見てきて」って。それで私の母が"そんなに「じじ、じじ」言ってると、誰かが連れて行かれるから。死んでからそんな風に言うもんでない"って言ってたの。
このあたりでは「百か日」の法要をするんですが、それを前にしてね、母が死んじゃったの。その後、「百か日」の法要が終わったらね、そしたら娘が、あれだけ「じじがきてる。ほら、草履の音がするのに。自転車が止まってんのに」ってずっと言ってたのに、ピタッと言わなくなったんです。それできっと母を連れにきたんだねって。
だから娘は、今でもそうなんですが、すごく霊感が強いのかもしれません。娘がちっちゃいころは主人は船に乗っていて家にいないし、私も仕事してるから、殆ど私の父と母に育てられたから、2人のことが好きで好きで。普通は子供はおじいさん嫌いだ、とか言うもんだけど、おじいさんの寝てた毛布に孫たちみんなくるまって、あっちがひとりこっちがひとりって、みんなおじいさんの毛布の引っ張りあいして(笑)。孫は父のことが好きで好きでしょうがなくてね。父親は子供の頃は怖かったけども父親が年とってからは怖くはなくなりましたね。こんなにしっかりと生きたいなって思いましたね、親のように。
だから、あの子たちの親は実際は私たちで、私の父親ではないのに、娘たちには(まるで、自分の父親が彼女たちの父親のように錯覚して)「親と同じような生き方をすれば親のところまでちゃんと生きられるよ」、って言ってしまいますね(笑)。
娘は長女は東京にいるんですが、独身で暮していて、2番目は結婚して15年目にやっと生まれて4歳。だから孫はまだ一人ですね。
嫁ぎ先のお義父さんも孫ができないとずっと言っていらして、息子さんのことも心配していて、とてもよいお義父さんだったのですけど、孫の顔を見ないで亡くなりました。3月にワカメを採りに行って、帰りの遅いのを心配して見に行ったら船の中でくも膜下出血で倒れていたんです。救急車で運んでもらったけれどダメでした。
孫の名前は憲登(けんと)というんですが、「憲登はどっちのおじいちゃんもいないんだもんね」っていうんですよ。憲登という名前はむこうのお義父さんの登に、お義母さんの憲子の字をとってつけてもらいました。幼稚園ではみんな変わった名前なのに、憲登だけ昔の名前だねって(笑)。お義父さんがなくなる前に、次女が体調が悪いと言っていて、葬儀の後の火葬では、「もしかしたらオメデタかな?」と言っていたので、「もしかすると憲登はお義父さんの生まれ変わりかも」なんて言っていたんですよ。3月に亡くなって、10月に生まれたんですね。(お義父さんに孫を)見せたかったね~ってみんなで言っていました。
今はあちらのお義母さんも、まだ若いし、(私と同じように)石巻の仮設住宅に入ってひとりで暮らしているんですね。家督さんが(近所に)住んでいるからって。二女の家は津波で流されたんですが、たまたま無事で、大丈夫だったんですね。
人生はドラマみたいですね。運命というか。
今回の津波では、ボランティアで知り合った方やそのご家族がたくさん亡くなりました。地震が起きた時は私は「高野会館」というところにいました。
午前中からお昼までいて、「保健センター」というところに移動したんですね。ボランティアの楽しみをしてたもんだから、仲間と一緒に認知症の研修会を受けに行ったのです。そこで地震にあいました。
高野会館にいる方には、「保健センターに行くよ」と言い置いて行ったのですが、聞いていない方もいて、あとで私がいないと騒ぎになってしまいました。
認知症の研修会では、認知症というのはこういうものですよ、という芝居をしていたんです。たとえば朝起きて「今日はどこへ行くんだっけ」とか「病院は何曜日だっけ」って何回も聞くんだけど、それを家族が「何回も聞いてるよ」とか「さっきも聞いたのに、さっきも言ったのに」とか言ってはダメよ、逆らわないでその人にあわせるような対応をするように、っていう研修会をするんですね。講師の先生が来てお話をしてる間に、認知症の人と介護する人が二組出て芝居をするんです。原稿があるから簡単だと思ったけど、同じ文章が何回も出てくるし認知症になったみたいだった(笑)ね。
それでそのお芝居が終わって講師の先生のお話を聞いてる最中に地震が来たんですね。大勢の人が参加してたと思うんだけど、あまりにも揺れがものすごくて、床のところに机があったんだけど、その机に捉まれなかったんです。はいつくばるように伏せるしかありませんでした。「大丈夫だから、お腹に力を入れて頑張りましょう」と言いいいながら耐えました。普段より長い地震で、終わりかな、と思ったらまた大きいのがやってきて。それで、地震がこんなに大きいのだから、津波もきっと大きいからというので急いで解散しました。それで、携帯をつかみ、寒いから捨てようと思って廊下においてたジャンバーを着て、靴は長靴に履きかえて、それで避難しました。
それで避難する人、家に帰る人と別れました。ほとんど家に帰る人で、私も家に戻りました。あとは松原の住宅のあるあたり、あの辺の人は帰らないで保健センターに残ってたと思います。松原まで帰ってたら、避難が間に合わなかったと思いますね。
そのとき一緒に研修してた人たちが、3人亡くなったんです。私が認知症のお父さん役になって、もうひとりの方も認知症役になって、もうひとりが介護者になって、私の介護をする、そういう認知症の芝居をしていました。私の介護役をした方が亡くなったんです。「お父さん大丈夫だから」なんて言ってくれた人が亡くなったから、(その声が)耳に残ってしばらくは大変でした。もう一組の芝居の方も亡くなって、3人亡くなったのね。ひとりは、お家に帰ってお家で亡くなったし、もうひとりはお家に車で帰ったんだけど、瓦礫の中で見つかったっていうから、たぶん家に車で降りてから波にさらわれたんだと思いますね。
みなさん「波は来ない、大丈夫だ」と信じていました。高くて平らなところだから津波の避難訓練なんてほとんどなかったかもしれません。私の介護役してくれた人の新井田地区っていうところで、(海岸から見たら)一番奥だから、まさか波は来ないって思ってたと思うのね。そこでたくさんの人が亡くなってるから、わからないものです。
ボランティアで一緒に講習を受けた人の旦那さんが志津川病院3階に入院していて、まだ見つからないんです。退院許可が下りてたそうです。この仮設に住んでる人のお兄さんも一緒の部屋でまだ見つからないんですが、そういったしっかりしてて退院準備するような方というのは、「自分たちは大丈夫だよ」ってベッドの人、車いすの人を優先して高い階にあげようって(遠慮して)、一緒に流れてしまったのです。会館にいた人たちが、病院から患者さんたちが流れるのが見えた、窓もドアも全部外れて、ベッドのまま流れちゃったって言ってました。みんなで後ろ向きになってそれきり見ないようにしていたそうです。滝のようだったって言うくらい、引き波がすごかったんです。
チリ地震津波(昭和35(1960)年)の時は、家の実家のすぐ下まで水が来ましたが、被害を免れたので、下の方の人が避難してきてみんな泊まっていました。この津波では、志津川病院の辺りも、そのとき出勤していましたが、1階が天井まで水が来て、2階への階段の踊り場あたりまで水が来ましたので、1階にいる患者さんを2階に運んで大丈夫でした。
東日本大震災の津波では、今度も3階、4階までは大丈夫、と思って、3階の方を4階に避難させていたようですが、4階の天井まで水が来てしまいましたからね。3階4階に入院している人は歩けなかった方が多かったんです。考えてみたら病院に勤めている人は若返っていて、チリ地震津波を経験している人がいなかったんじゃないかと思いますね。
チリ地震津波の時には、津波に追いかけられて病院に行ったのですが、今回の津波では大きい地震が来たから津波も大きいのが来るとは思いました。でも防潮堤や防波堤を前は2メートル60だったのが今回は6メートルにしたから大丈夫だ、と信用していて、まさか波がこんなにきて流されるとは思っていなかったので、あわてて逃げて怪我するよりは、ゆっくりしてと思っていたところに、震源地が近かったので、間に合わなかったのですね。
この集会所の下に自宅があったんですが、この上の御霊屋山(おたまやさん)(先祖の霊や貴人の霊をまつる殿堂。みたまや。霊廟。)の上がこの地区の避難場所だったんですね。私が家に戻ったら、お家にいた人がみんなが道路に出て避難の準備をしていました。それでみなさんと一緒に避難をして、山の上から津波が来るのを見ていたり、自分の家が流されるのを見ていたりしました。
流された家は、ちょうどオイルショックの頃、物が不足していて大変な時代だったんですが、昭和49(1974)年頃に建てた、2階建の家でした。6年前には改築したんです。海に優しいように、汚い水が流れないようにって、下水道工事をして、建てて40年も経ってるからっていうので大工さんにお任せして、半分リフォームしたんです。そしたらみんな流れちゃって・・。
目の前でいろいろ流された時は、あんまりなにも考えてなかったけれど、車が一杯流れてきて、後ろのランプがみんなついてたし、あの中に誰か乗っているのではとか、流れてきた家の中に避難しないでいる人がいるんじゃないかとか、そんなことしか頭になかったですね。地理的にも流れてきた屋根の形や瓦の色をみると誰の家だかわかるし、みんな知ってるから、あの家には誰が住んでたけどみんな逃げたかな、とか、そんなことしか津波の時は考えられませんでしたね。船もずっと海の上を走ってるように流されていました。同級生の大きな船は流されていたけど、もう(修理して)使ってるみたいですけどね。
ここらへんの家はチリ地震津波の後に、みなさん2階建にしたの。そのころはみんな1階建だったんです。でもね、チリ地震では、津波の引き波が沈むように行ったんですね。海岸近くはザーッといったんですが、町はみんなものが残ったんです。5月だったから助かる人もずいぶんいたし、志津川病院の2階あたりは流れてきた人たち、避難してきた人を2階に上げたので、人がいっぱいだったんです。今回はもう、(波があまりに高くて)助けられなかったものね。一回に流されてしまったんでしょうね。
ずっと海岸の方ではね、やっぱり叫び声がすごかったんです。なんかもう、しばらくずっと、耳に残ってました。ただ煙の上がった、土埃みたいな波が来るのを見てただけでしたね。松原の実家に妹がいますが、近所に「松原避難所」という第一避難所があって、そこに避難したんです。向かいに町営の4階建のアパートがあったんですね。そこの人たちが4階まで行けば大丈夫だっていうので、(近隣から)避難した人もいると思うんだけど、そこは4階まで波が来たから、それで2階から3階まで波に来られた(襲われた)人たちのギャーとかワーとか言う声が聞こえたんですね。2階や3階にいた人は大丈夫だと思ってたのか、妹はもうあの声が耳に残って「もうおっかなくて、ここには家建てられない」なんて言ってましたから。
一軒家に住んでた人は、声出す暇も何もなかったんじゃないかな・・。見てた感じではね。第一避難所の建物は形残ってますね。サンポートのいちばん海岸の茶色い、ちょっと崩れたような建物、あれが第一避難所だったんです。幸い、あそこは4階の屋上にみんな登って、濡れたんだけどみんな助かったんです。車のある人は早めに避難しました。やはり海のそばだから。
ここの部落の人が撮ったビデオ見たでしょう? あれは私たちと一緒にいた人がその時撮ったの、御霊屋山の上から。阿部さんってここで映してたおじいさんですが、「何が防波堤だよ」「これでは志津川全滅だね」って言って。その方は自分の家のすぐ上くらいで撮っていて、屋根がぐるっとまわるようになって、私たちは少し上から、撮ってる所に「早く、波来たよ、逃げて逃げて」って声をかけていました。
私は携帯電話をいつもテーブルの上に置いて出歩くのに、逃げる時、不思議とその時はそれだけ持って逃げたんです。避難後、私の実家の家族はどうなったかなと思ってましたが、仙台の娘にメールしようとしたら、圏外で通じなかったんです。東京の娘はじめ、みんなに「地震だから慌てないでじっとしてなさい」ってメールしました。自分だけ連絡とれないって言うのは別にいいと思って、とりあえず地震後すぐあっちこっちメールしたわけです。そしたら仙台の娘も親子3人で無事でいますって東京からメールが帰ってきて無事がわかりました。
娘は仙台で、自分の店やってるんだけど、店にいる、姪っこもみんな無事。実家の方も家督が入谷にいたんだけど、船で沖に出て大丈夫。沖に出た方が安全なんですね。孫は地震後幼稚園から歌津のおばあちゃんちに行って無事。実家のお嫁さんもみんなに助けられて無事だったし、兄弟とか実家の家族とかそういう人たちも無事でした。昭和15年生まれの大きいほうの弟はわかめや牡蠣など、養殖を専門にしていますが、津波では船を沖に出して助かったんです。親戚は亡くなってしまいましたが・・。
私の弟の義妹が新井田地区の奥に住んでいましたが、地震当日、ホテル観洋のアルバイトに出勤予定でした。新井田地区は地震では家の中では何も落ちなかったので、大したことはないと思って車で出てきたら、天応山地区(津波で全滅になった)に通りかかると道路に丸太があったそうです。材木店が高いところにあるし、なんで道路に材木が落ちてきたんだろう? って不審に思った瞬間、その丸太の向こうから波が見えて、そこから慌ててUターンして家へ戻ったそうです。そのとき新井田地区のみんなは奥の方で波が見えないから、避難していなかったんです。義妹が「津波きたよ」って知らせて回って、自分は夢中で逃げて助かりました。義妹が町に行って車で流されたのじゃないかって一番心配していたのですが、無事でした。
一次避難した畑のビニールハウスで一晩を過ごしました。雪が降って、寒かった。大きい避難所だと、ドラム缶に薪を焚いていたのですが、私たちがいた山のところは、暖房もなく本当に寒かったですね。そこには、足腰が痛いため、「行ったり来たりや歩くのが嫌だから、ここでいい」って言った人たちがいたのです。
一晩いて次の日のお昼くらいかな・・そこのお寺さん(大雄寺:だいおうじ)に移動して、そこに足腰が痛くて山を下ったりするのは(体に負担がかかって)大変なので、歩くのが大変な人を置いて、入谷小学校に避難しました。
そのうち、メールが向こうから来るけどこっちからは行かないようになってしまったんです。(志津川に押しよせる)津波の映像が(テレビに)映るから、私の消息をみんなで心配していたところ、3日目に私の姿がテレビに映ったんです。入谷小避難所にいった次の日の朝か夜、入谷小の下に入谷公民館があって、そこでの炊き出のおつゆ作りをしてたら取材が来て、テレビに映ったんです。私の妹がテレビに映ったのを録画していて、みんなに送ったら、「これって絶対お母さんだよ」ってみんなにわかったんですね。着るものはいつも一緒で、それが映ってね。みんなが「そうだそうだ、お母さんだ、生きてた~!」ってことになったらしいです。「死ぬもんですか」って言ったの(笑)。
避難所には、お汁を頂くにも、器もなくてヨーグルトのカップや牛乳パックの小さい方、あれを半分に切って使ったのです。習慣的に一度使ったら捨ててしますよね。そうすると、その後器がもらえないので、皆さんにそのまま持っているようにってお話して使ってもらいました。それでも避難所に人がどんどん増えるから、器が足りないんです。次は若い人が、器は水に濡らして洗ったらティッシュで拭くということを始めたらティッシュがいくらあっても足りないんです。ですので、汚れたカップをまずティッシュで拭いて、それを水にくぐらせてすぐに使っていいようにしました。
ヨーグルトがあってもスプーンがなくて、割り箸を半分に折って使ったり、まるで私たちはお腹をすかせた赤ん坊のようでした。赤ん坊はお腹空いたら、食べるためならどんなことしても口に入れようとするものです。だからみんな赤ちゃんになりましょうって言いました。夜だって赤ちゃんがはいはいするように動けば人を踏まないで済みますし。年寄りが何日も動かないでいると立った時に足がよろよろなんです。
年を取った人が避難所でトイレに行かないのが不思議だったのですが、水を飲まないからだったのですね。プールの水を汲んで来て使う水だったので、「薬飲む人優先ですよ」ということで、ひとりコップ一杯とか制限がありましたし、また最初はみんな飲む気分も食べる気分もなかったと思いますね。あれだけの人がいたのに、咳する人もなくて、救急車も一度も来なかったんです。ただ透析が必要な人が腎不全を起こして病院に入院させてもらったとあとで聞きましたが。
避難所の小学校では、みなさんと仲良く暮らせたんだけど、若い人も子供もほんとにああいうふうに暮せたっていうのは、ほんとにすごいことです。80くらいのお年寄りも一緒でしたからね。自分の家だったりすると年寄りは遠慮するし、若い人は言い分通してギクシャクすることが多いものですが、避難所はお互い遠慮してるだけじゃなくって、その時代を経験してる人たちが平気で食べて暮せたっていうのを目の当たりにして、(それがお手本になった)からっていうのがあったと思いますね。
そのあと、私は仙台の娘のところに行ったのだけど、みなさんは鱒淵小学校に移動しました。
だんだん落ち着いてくると、今まで考えなかった知り合いの人の波が来た一瞬とか、あとは2階にいたまま流されたとか、「あ、波来た」って思ったのかな、とか亡くなる前にどう思っていたのかと、いろんなこと考えますよね。死ぬ間際のその一瞬のときを思うと、かわいそうだからね、働いていた病院の患者さんもそうだったんだけど・・。
娘のところにいた時は、中瀬町のみんなのことばっかり気になってね。ひとりでいて、何にもすることないし、仕事を辞めて6年間、仲間と一緒にボランティアしてたから、その仲間の消息もぜんぜんわからなかったり、みなさんどうしてるのかな、ということがすごく気になっていました。
仙台でも、老人の集まる場所を市役所に行って聞いて、そしたら集まる場所がみんな地震で壊れて修理中なんです。それで公園でみんな集まって体操してるとこに一緒に混ぜてもらったりしてました。そんな中でも、早く志津川町に帰ってこういうことをしなくていいのかな、なんて焦ってたんです。けれど、何分にも年だから、「あなたは73歳ですよ、自分が歩けなくなったらどうすんの」って自分に言いきかせて。
後日、みなさんがここ(中瀬町仮設)に来る時に一緒に仙台から来て(合流しました)。いつまでも娘のところにいられないから。志津川地区で鱒淵に行くって言うのはわかってて、それでみなさんでまとまって仮設を申し込むということを役場の建設課で聞きました。電話したら、「中瀬町の人たちみんなで仮設申し込むんだけど、どうしますか? 申込んでおきますか?」って言われたんです。大久保に住んでいる弟に代理で申込んでもらおうと思ったら、たまたま佐藤区長さんとちょうどお会いして、「どうすんの?(良かったら)一緒に申込むから」って言ってくださったので、それで一緒に申込みしたんです。
みなさんにもう来ないと思ったって言われて・・・区長さんは来るって知ってたんだけど、仙台に行って、帰って来ないだろうって思ってたって。
私の人生はほとんど志津川町内、もう70年。年代は違えど、ほとんど知ってる人たちですよね。それがみんなで一緒に申込んでみんな一緒になれたんです。よそのところに行ってもたぶん、志津川町内の人のいる所にいければどこでも良かったとは思います。仮設で大変だ、という人たちをお相手してあげればいい、という感じで今まで生きていたから、どこの仮設に入ってもまぁいいと思うんだけど、でも一緒になれたのは嬉しいですよね。
ひとりでいるとなんというか、歩けなくなりそうだけど、みんなといると元気になりますね。
かと思うと、みなさん(表面的には)元気にしてるけどね、おとといアリーナで健康診断あって行ったら、友達がこんなことを言っていました。「子供の実家に嫁さんと子供と一緒に住むとこもないし、子供が困るからって、遠くに行ってしまって、自分はひとりになってしまって毎晩仮設で泣いてるよ」って。私は、「泣くのは勝手、お嫁さんのいないところで勝手に泣きなさい。ひとりだったら大丈夫、相手がいないんだったら、なんぼ泣いても大丈夫だから、誰も気にしないから」って言ったんです。もともと明るい人なんだけど、やっぱりそういうふうに寂しそうにやってると、もうねぇ。みなさんほんとに思い出も流しちゃったから、元気そうにはしてるけど、みんなそれぞれ(苦悩や悲しみが)あると思いますね。
・・・これからどうしたいか、ですか?
昨日も「これからどうしたらいいかって、この頃なんだか考える」って友達がいたんだけれども、「別にこのまま(笑)。もう、流されるのに慣れちゃったから、流れるままでいいんじゃない?」って返したんです。そしたら「今晩の日記に書いておこう」って帰っていったけど(笑)。それよりしょうがないですよね。ええ。逆らってたってしょうがないから、流れるままでいいじゃないって。思い出も、苦労も、楽しみもみんな流れたから、これからまたその苦労と楽しみをね・・・長い人生になるか短い人生になるかわからないけれど。
仮設は2年いられるけどあとは、年をとってくると、今でも病院に月一回通ってますが、そういう健康に関する問題がいろいろでてきますよね。あと買い物とか用足しとか、もともとひとりでいたから、津波後の手続きとかも全部ひとりでやりましたが、そういうものも疲れて面倒くさくなってきますね。主人もいませんし、ひとりで流れるままでもいいかなって思っています。これでご主人がいてってなると、そうも(身軽には)いかなかったと思います。そういうところは大変だなって思いますね。私たちも若いころは、子供を育てて働いてって、そういうのは苦労かもしれないけど、将来の目標があるからまだいい。年寄りだけで暮らしてる人っていうのは、70過ぎて80のおじいちゃんに食べさせなきゃいけないとか、病気になったら病院連れて行かなくちゃとか、大変だと思います。
おそらくは2年後には仙台の娘のところに行って住むようになるとは思ってるんです。(娘は、私を受け入れるのに)今いる所は私が一部屋とったら狭いし、ものが置けないから、(対策を)ちょっと考えてるからって言ってくれているので、おそらく2年後ここにいられなくなったら娘と一緒に暮らせると思います。大きい娘は東京で暮らそうって言ってくれていますけど、東京はちょっと遠いなって思うんですよ。
娘は仙台の宮町というところにいて、東六(とうろく)(東六番丁)小学校のすぐ裏でそのへんも古い家が多いんだけど、本町に「フェリーチェ(イタリア語で小さい幸せの意)」というイタリアンのお店を夫婦でやっています。もう6年になりますね。子供もいるのでアルバイトさんをこの頃雇っています。子育ては金(バイト代)がかかるって言ってますね。
2人は最初東京にいて、結婚して仙台に帰ってきました。旦那のほうが調理師、娘は美容室に勤めてたんです。東北方面に帰って飲食店を開きたいけど、志津川では商売にならない、仙台だったらいいと言ってはじめました。私は不景気で商売反対だったんだけど、やっぱり独立してやりたかったんでしょうね。若いうちだと思って。開店することになったら、志津川の高校の時の担任の先生が、私が全然構わないのに、(開店の)ダイレクトメールを作って出してくれたり、自分の同僚や教え子に店を紹介してくれたり、応援していただきました。孫が生まれて2年間は、月曜日の朝仙台に行って5日間孫の面倒をみて、土曜日の夜志津川に帰ってくるというような生活を続けました。そんなふうで6年続いてます。
志津川には主人の墓があります。今は町の計画も全くないし、家を建てる場所もないし、仙台くらいに住めば、お墓参りもすぐ来られるとは思います。大きい娘が、定年したら志津川に戻ってお墓を守りたいって言ってます。「小さい仮設の間取りくらいでも建てれば、お墓ぐらい守れるんじゃない?」って。
志津川では、行政の指導でお年寄りの引きこもりを防止するために、「お茶飲み会」といって、お年寄りを集めて20人前後ぐらいでお楽しみ会をしていたんです。保健士と栄養士が来たりして、ごちそう作ってみんなで食べたり、血圧測ったり。それが6年間続いたんです。震災の後、仙台の娘のところに行った後も、それがあるときだけ志津川に帰ってきてました。帰ってきて計画をたてて、「お茶飲み会」の前日に志津川に来て、用意して、終わったらまた仙台に帰ったりして。それ続けたいなんて思うんだけど、ずっとは続けるのはちょっと無理だし・・。
こないだ保健士に会ったら「(「お茶飲み会」は始まったの?」なんていうから「まだまだ」なんて。RQさんが「お茶っこ」をしてくれているから、安心しています。みなさん住んでる仮設が佐沼から登米市、戸倉青年の家とあっちこっちだから、話も出せないし、来てみてとも言えないんですよ。体操するにしてもストレッチするにしてもお話するにしても、全部資料がなくなってるし、専門家じゃないとめったなことは言えないし。保健士も増えてるわけじゃないし、数が限られてるから、「指導して下さい」ってことは、他の地域にはなかなか言えないんです。
このお正月もたぶん、センターに集まって新年会っていうのをやると思いますね。亡くなってる人がいっぱいいるけど、それはそれで、部落内の年中行事ってことになってるから。こないだ部落だけで「ミニ芸能会」っていうのをやりました。ここの仮設でまとまって初めての行事をやったわけなんです。いろいろな催しをやっていただいて楽しかったです。(RQの)新垣さんの三味線が上手だったんですよね。
山が今みたいに赤くなっているのは津波のせいですけど、木が山の中に倒れているのは、間伐して手入れしないからです。する人がいないというのもあるし、安い外材が入って地元の材木が売れないから、そこから出してくる人件費にお金をかけられない、っていうのもあります。昔は牛に引かせて出したんですが、牛を引く人もなくって、そのままです。そんなふうに、杉が倒れていたり、いろいろなところが崩れていたりするから、水の流れが変わって、山そのものが崩れてしまっていますね。
何年か前からここら辺の「森林組合」が若い人を募集して何人か入れて、間伐などをしたと聞いています。募集するのもこの地区出身の人ではなく、どこからでもいいから、ということだったので若い人が何人か来ましたけれど、重労働だし、そのまま残ってやっているかどうかは知りません。ハローワークでは、枯れた杉を森林組合の方で片付けるのに、瓦礫撤去よりも良い日当だと思うし、長く続く仕事だと思うんですが、30代の人で、募集しても誰もいないそうです。大変ですものね。ここ仮設住宅では30代の人材はいないと思いますね。もう30歳足しても(つまり還暦)でも誰も働き手がいないかもしれないね、って言っていたんです。そんなふうだから人手不足なのでしょうか。
人手不足だから海にも行かなくなったんですね。昔は開口っていうとみんな船に乗って行ったものでした。糸さえ下げていれば蛸は釣れたので、子供もみんな行ったのです。餌はサンマをつけました。「いしゃり」っていって、こういう風な爪のついた道具です。
ベイサイドアリーナの、いまはあげっぱなしになっている緞帳(どんちょう)、あれは西陣に頼んで作ってもらったんですが、その柄が「いしゃり」です。漢字はどうかくのかわかりませんが、いしゃりっていうんです。爪のついた重しに石をつけた、竹で作った爪のようなものをつけてサンマを結んで糸にして落としておくと、蛸って釣れるんです。つまり、蛸がサンマに抱きついて、蛸はいったん抱いたものは離さない性質があるので、そのまま釣り上げられるんですね。船に乗るのに、朝に早く起こされました。10月で寒かったから、いっぱい着せられて。でも、蛸釣りにいくのにお友達や人が集まるから、それが楽しみでね。
あの時代はほんとにいい時代で。ねぇ。ええ、楽しかったですねぇ。(談)
2011年10月15日、第1回取材メンバーとともに写真左上より時計回りに
大木潤子、本川裕太郎、福原立也
2012年2月18日、下書き原稿のチェックを受けにきたメンバーと。
この日被っていらしたお帽子は82歳になる。
左から中村道代、織笠英二、河相ともみ(久村撮影)。
この日は思いがけずトン汁とおはぎをふるまっていただき、楽しい時間がさらに楽しく。
この本は、2011年10月15日、
高橋登美子さんが志津川中瀬町二期仮設集会所にてお話いただいた内容を
忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
2011年10月15日
▼
大木潤子
本川
裕太郎
福原立也
2011年2月18日
▼
中村道代
河相ともみ
織笠英二
久村美穂
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年3月31日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net