この物語は源敏一さんが生まれてから現在までの名場面をつづった人生の物語です。
2011年、あの未曾有の震災後、馴染みのない土地で、右往左往し、日々汗と泥にまみれていたボランティアに、真っ先に支援の手を差し伸べてくださったのは、源さんでした。そのやさしさと勇気。それらがいったいどのように育まれてきたのか、知りたい!そんな思いで取材させていただきました。
題名の「真っ向勝負!」は、源さんの、青春時代に始まり今に続く、「誰の前でも正々堂々、直球で!」という生き方を象徴している言葉と思って選びました。源さんの心はいつも熱い、でも発される言葉は、その熱さをやさしい思いやりで包んでいて、とても温かく響きます。人生で照る日も曇る日もあるけれど、いつも心を明るく前向きに行こう、というメッセージ、きっと読む方みんなに伝わると思います。そして、誰もが読んでいるうちに笑顔になってくる、そんな1冊になったと思います。
インタビューにあたり、貴重なお時間を割いていただき、数回にわたり楽しく、味わい深いお話をお聞かせくださった源さん、そして取材に多大なご協力とご理解をいただきましたご家族のみなさまに心から厚くお礼申し上げます。
2012年3月17日
RQ聞き書きプロジェクト チーム一同
私はね、父親が次男坊なんです。
父親は登米にいたんだけど、2人兄弟で、(家督の)長男がいるから、家を出なきゃならないという状況だった。それで北海道の炭鉱に行ったんです。当時は炭鉱が盛んだったから、北海道に行ったわけ。それで、あっちで所帯を持って、私が生れたわけさ。だから実は道産子。それで暑いのが苦手。ハハハ。場所は旭川のちょっと手前の芦別ってところです。あそこらへん、みんな炭鉱だらけだからね。
生年月日は昭和30年(1955年)2月2日。きょうだいは妹がひとりで、4つ離れてます。
小学校1年生までは芦別にいて、あっちの学校に通った。1年生終わった時に、炭鉱もだんだんほら、不況になってきて、登米に戻ってきた。
親父の兄夫婦には子供が生まれなくて、実家にはばあさん(源さんのお祖母様)がいたから、戻った方がいいというようなことになって。炭鉱の不況もあったし、芦別を引き上げて、登米に戻ってきた。私が小学校の2年生になる時だね。一時期長男夫婦とはちょっと一緒にいたけど、あるとき東京に行くことになってね。ほとんど入れ替わりですね。
源の姓はこの辺では自分の家を含めて3軒あって、源氏の流れを汲むという逸話があるんですよ。
平泉が栄えるより前の時代、11世紀ごろに、源義家(みなもとのよしいえ)一行が通過する時に一族の姉妹2人が足でまといなので、命令されてこの地に残り、それが先祖となった、といういわれがあります。そのほかにも、源義経(みなもとのよしつね)が奥州に逃れた時期、兄の頼朝(よりとも)が奥州征伐に乗り出した時期と、11世紀~12世紀にかけ数回にわたり、源姓を名乗る人々がこの地を往来しました。その中でこの地に根を下ろした人々が我が家の祖先だと思うんです。
自分でも調べてみたんですが、菩提寺は、源頼光(みなもとのよりみつ)という人が建て、その名にちなんで頼光寺(らいこうじ)(写真、宮城県登米市東和町米川字町6)となっているというんですね。そのお寺も2回くらい火災を起こして、ある時代より古い資料は無くなったので、調査が行き詰まってしまいました。
だとしても、「源」なんて、何か理由がなければ勝手に名乗れない苗字だと思います。系図もあったらしいが、当時家柄が重要視される時代があって、土地と同じように自分の家も系図を売ってしまったようです。なので、証拠になるものはお墓しかありませんが、年号をみると600年くらい前のものがある。そのお墓があるということは先祖が生きていた時代はもっと古いので年代的には合っているし、由緒は正しいと信じていますね。
私が小さい頃、ひいばあさんに昔話を聞いた中で、ひいばあさんが小さい時は、この家にも、鎧兜がいっぱいあったらしいのです。当時山賊みたいな窃盗団が大人がいない時を見計らって馬で来て、それこそ「七人の侍」に出てくるノブセリのように、みんなさらってくのを、ひいばあさんは米びつの陰に隠れて震えながら見ていたそうです。だから先祖のことは嘘ではないと思いますね。当時はこんなに家もなかったと思うし源家も世をしのぶ部分があったんでしょうね。
自分でも分かる源家のルーツとしては、この家はもっと上の沢にあったらしいということです。そして落ち着いた頃に今の場所のほうに出てきたんですね。
小学校2年生のときに、芦別から引っ越してきて、登米の鱒淵小学校に転校しました。
鱒淵小の今の校舎は、私たちが転入してきた当時は木造、卒業してから鉄筋コンクリートになって、さらにその後に出来た学校なんですよ。(写真を持ってこられる)これが木造の校舎、体育館。ここ新しい校舎。
(写真を見せながら)これがいまRQの入ってる校舎を作ってる状況。この合祀餅(ごうしもち)拾いってね、上棟式をやるのにね、いわゆる柱をたてて屋根を張るでしょ? あの棟っていうの三角の。それをセットするときに、式典をやるわけ。屋根の上から、縁起づけに餅を撒くんだ。それを合祀餅っていう。撒かれた餅は、食べる食べる。いまはビニールで巻いて包んであるのを投げるから、みんなで分けて食べるんです。この合祀餅拾いっていうのは、宮城県ではだいたいの場所でやるんだよ。普通の一般家庭はまぁ上棟式なんて言わないで、タテマイって言いますけどね。
小学校へは、当時は、自転車で行ったかな。鱒淵小学校へ続く道の途中に今は集会所みたいなのあるんだけど、そこが鱒淵小の分校だったんです。公園があるでしょ。あの辺から上流が学区で、当時は家が50軒ぐらいあったのかな。なので、分校3年生まででも、30~40人ぐらいの児童がいました。私も転校して来てからは分校に通ってました。
転校当時は登米に移住してくる人がほとんどいなく、よそ者扱いされました。地元の子供が短靴(タングツ)を履いていたのに、自分は半ズボンに白ズック(斑のスニーカー)といういでたちだったり、言葉が違ってたりしたから、転校当初は今でいう「イジメ」にあったこともある。でも、幼心に思ったのは、ここの生まれでなかったけど、ここで生まれた人よりここに馴染んでやろうということだったですね。
鱒淵小学校校歌
1
緑かがやく竹峯山 草のそよぎのさわやかに 深い理想をうちたてて 心素直に たゆまず学ぶ 新しい時代のために
2
風のきらめく 鱒淵の空の光にとぶ小鳥 高い希望を夢みつつ 体きたえて いそしみはげむ たのもしい稔りのために
3
谷にささやく 川の音清い流れのひとすじを 遠い未来にあこがれて 力を合わせ 正しく進む ふるさとの平和のために
作詞・扇畑忠雄 作曲・福井文彦
実家は農林業でした。炭を作るんです。山の木を切り出して、窯に木を仕込んで焼いて、できた炭をちゃんと梱包して製品にして、ここらへんに出荷してました。当時はいっぱい炭が売れたから、それが我が家の収入源でした。
夏になれば、刈り払い、下刈りと言って、植林後の山に雑草が伸びてくるから、それを刈る手入れが必要だった。冬は冬で炭焼きの仕事があり、年中働いてましたね。
うちは田んぼが無く畑を持っていましたが、植えて収穫した野菜は家で食べるように作ったもので、出荷したりはなかったな。
昔は米川地区が商店街だったんです。今はほとんど店をやめてさびれているけども。当時は1日3便のバスがあったが、今のように毎日は物を買いませんでした。
買い物は盆と正月くらいで、ほとんどは自給自足だったのです。行商の車がたまに回って来るのでその人から買ったりもしたんですけど。
当時は盆正月には親戚が必ず来るので、町場に行って刺身を買ったり。当然来る人も何かを買って来るんです。親戚の家に行くというのは泊まるのが常識だったんです。
小学校時代は、毎日のようにそこの川に入って泳いだり、安いモリを持って歩いて、石の下に手を突っ込んで魚を捕ったりしてました。年中、川で遊んだ思いがありますね。馬の足公園の上流がここです。
魚とりをしたり、夏になりゃ水泳、川遊びをしたり。
ここには、ウグイとか天然のウナギがいました。ウナギは特別な漁法で、釣り針にドジョウをつけ夜に穴に仕掛けて、次の朝にひっかかっているかどうか見に行くんです。餌は太いミミズも使いました。
ふつうの魚はね、箱メガネって言うのかな、われわれは水眼(すいがん)と言うんだけれど、片手に箱の下に硝子を貼ったのぞきメガネ、片手にヤスを持って、反対側の腰には魚籠(びく)を、ここではフゴと言うんだけれど、竹で編んだものを付けて、川を巡りながらヤスでつくんです。
ハヤ、ウグイが獲れたけど、その他に、カジカもとれたんです。カジカはハゼのような魚で、京都ではゴリというのかな。春先にはカジカの卵を石の下に産卵するんです。オスが1匹そこに番をしているんですけど、そこにメスが来て石の下に卵を産卵するんです。これくらいの塊で、大きさは仁丹くらいで、山吹色の卵なんです。それは貴重で、みんなで時期になると争ってとりに行ったんです。今でもあるんですが、カジカも絶対数がかなり減ってきてるんで、昔のようにはとれなくなったなあ。卵はとってくると味噌汁なんかにしてね。
ひざ下位の水の浅い所にいて、あまり深いところにはないんですよ。子供同士の争いはないけど、見つけていたのを横から捕られちゃったみたいなのはあったね、「今日あたり行ってみるか」と行くと、「あー! とっくに捕られた」ということもあります。石がひっくり返っているから分かるのね。
雨が降って川が濁れば釣りですよ。竿は売っているものではなく、その辺の竹藪の釣竿にむいている笹竹に糸をつけてね。釣った魚は家に持ち帰り食べる。さばくような大きな魚ではないから、から揚げなんかにしましたね。その頃は今のように車もなく買い出しにも行けなかったので、魚は貴重なタンパク源だったのです。しょっちゅう、誰かが川に入っていました。
毎年冬になると、野ウサギ、ここでは山ウサギというんだけれど、それを罠を仕掛けてとって食べたりしました。
罠は針金の細いものを輪っかにするんですね。それをウサギの通り道に置き、ウサギがそこを通ると首がひっかかりギューとなってとれる。前の日に仕掛けて、次の日に見に行く。それは良くとれましたよ。ウサギは自分でも皮を剥いで、肉の状態に捌いて、家の人に渡して料理に使ってもらいました。料理はやっぱり鍋料理で、トン汁のような感じのウサギ汁。ウサギはちょっと独特の臭みがありますね。毛色は灰色っぽい色で冬になると雪にウサギの足跡があるんですよ。前が2個で後ろが点々となっていて、ウサギの通り道が分かるので、そこに罠を仕掛けて。とれる、とれないの波もあって、毎回捕れるんじゃないんだけれど、ウサギは食糧でした。
うちの親父もそうだったけれど、狩猟免許を持っている人が結構いたので、キジとかヤマドリとかウサギも含めて捕ってきましたね。キジは今でも見られますよ。ほら、これだよ、これがヤマドリ(居間に、はく製にして2羽飾ってあった)。ヤマドリの雄ですよ。雌はしっぽが短くて鶏のチャボみたいなんです。このはく製は、町の人に頼んで作ってもらったもんです。
家では子供の頃から冬になると高級料理のキジ鍋を毎日食べてましたよ。キジの雌は(子孫を増やすから)捕ってはだめなんです。雄はいいですけど。狩猟シーズンは11月から2月頃まででした。
木の実の季節の秋になると、子供たちも多かった当時は、学校から帰るとみんなで山に行って、栗を拾ってきたり、柿を取ったり、あけびを採ったりしました。暗くなるまでおやつ代わりにして食べながら遊びました。柿は渋柿と甘柿があって、渋柿は取っても仕方ないが甘柿はねらい目をつけて、家の人がいない民家の柿の木に登って捕りました。柿の木って折れやすいんですよ。だから登るのには結構注意して登りました。きのこは子供でも知ってるきのこを採りました。年中、山に入っていましたね。山菜も採りました。
川についていえば、そこには行かないようにしていましたけど、昔は所々に深みがあって、背の立たない所がけっこうあったんですよ。それくらい深かった。今は浅いけどね、昔はもっと深いところがいっぱいありましたね。
なぜかって? 戦後になって住宅木材の需要が高まって、杉は割と成長が早いんで、落葉樹をいっぱい切って、そのかわりに杉を植樹したんです。広葉樹は年数もかかるからって全部切ってしまったんです。杉の植林を国が主導した。だからこの辺は杉が今は一杯ある。植生とか生態系とかそんなの関係なく、その頃は山のある人なんかは、今杉を植えておけば、あと50年経てば子供や孫の代になればものすごい財産になるからって、みんなで競って植えたんです。
結局今なんか、建材は外国のが沢山入って来てるから需要が無くて、杉なんか金にはならなくなったの。二束三文ですよ。反対にお金出して切ってもらってるような状況だからね。時代は変わったんですねぇ。
昔は石油なんか無かったでしょ。あっちの町場の人なんかは、ご飯炊くんだって、燃料にするのに毎日薪拾いに来たんですよ。だから、みんなが山にはいるから、山は昔わりと綺麗だったの。この辺では広葉樹で冬場の仕事の木炭を作ったというのがあったんですが、杉は1回植えてしまうと、炭を作るには向いてないので、でっかくなるまでその山には入らないんです。たまに間伐で入るくらいなもんでね。みんな山に行かないから山は荒れ放題なんです。
杉が多すぎるせいで、今はここら辺の山の中にいる人で花粉症に悩んでいる人は結構いるんですよ。昔は花粉症という言葉自体なかったから、春先になってハナ風邪ひいた、なんて言ってたけど、いまにしてみると花粉症だったんだなって思います。これだけあるもの。すごいよ、もう花粉が霧みたいに、見えるんだから・・。
山をそういう風にやっちゃったから、山自体に保水能力がなくなったわけです。杉林って水持ち悪いんですよ。早い話が、スポンジを畳において、スポンジに水たらせば、スポンジが吸って水をためといてくれるけど、畳に流せばそのまま流れるでしょ? 今は、こういう小さな川でも、すこし雨が降っただけで水かさが増えて、その次の日になったらもうカラっとなるんです。山に保水力があれば、ジワリジワリと水を外に出すから、いつも同じ水量で安定してるわけ。雨が降っても3日位で徐々に水位が上がってきて、徐々に水位が下がるようであれば、大雨が降っても洪水の心配はないんです。ところが今は畳に水をまいて居るような状況だから、大雨が降るとすぐに水が溢れて、あちこち土砂崩れの危険があるし、山から砂利が流れてきて、深いところが埋まってなくなってしまったんです。
夏なんかは、昔はプールなんか、もちろん無いので、川の深くなってるところを、学校側で「この部落はここで泳ぐこと」と指定して、監視員を置いて水泳場としていたんです。ほとんどは大人ではなく高学年の子供だったと思います。
当時、川は出入りする人がいっぱいいて、鱒淵は川が恵みの元だったのでしょうね。
昔は、川の中をずーっと川沿いに歩いて来れる状況だったのが、だんだん水量が少なくなってきました。川の深みもなくなったし、だんだん川に入る人もいなくなったので葦(よし)、雑草がいっぱい生えてきて、今は本当に川に入って遊ぶってのはなくなってしまいました。たとえばRQでキャンプやったり、都会の人が珍しくて遊ぶことはありますが、地元の人はほとんど入らなくなってしまいました。
しかも、漁業組合が淡水でもあるんですけど、ここは北上川の支流なので、北上川漁業組合の管轄なんですよ。だから漁業権云々があって、勝手に川に入って魚をとると、どうのこうのと言われてしまう。子供たちくらいは許されるんだけど、釣りをするにしても釣り券を買えとかいろいろ言われます。自分から思えば、それなりの理由があるにせよ、勝手に漁業組合を作って権利を囲うのはおかしいと思いますよ。
子供の頃はやっぱりおはぎとかああいうのが好きでしたねぇ。子供の頃からよく食べてました。
ごちそうたって今のような食材なんかもないし、今はカレールーを売ってるけど、昔はカレーなんかもカレー粉を小麦粉で溶いた真っ黄色なカレーで、肉なんかも買えなかったし売ってなかったから、肉の代わりにソーセージを入れたり、ちくわを入れたようなカレーでした。カレーは子供のころからありましたよ。
おやつなんてのはないから、木の実を捕って食べたりしてました。木に登ったり拾ったりして。秋になるといろいろ木の実が出るんです。アケビやグミ、あと柿とか。おやつ調達が遊びだったんです。
愛犬・弁慶とツーショット
この地方はね、お昼御飯はこれ、とか決まったものはないけれど、割りと米がおいしいから、おかずはあんまり付けないで、漬物だけとか、昼はだいたいそういう感じだね。
あと、「はっと」ってね。東京で言う、スイトンみたいなもので、練った粉をうすく広げたようなのがあります。具は、汁ものならなんでもいいんです。味噌汁・・・醤油でもいいし、あずきなんかお汁粉みたいにしてもいい。
一説では、昔は、米は全部年貢でとられてしまって、残った小麦を使って、はっとを練って作ったところ、それが美味しいもんだから、米を百姓がつくらなくなるからまずいって、御法度になった、だから「はっと」。そういう説もありますね。最近なんかではカレーを薄く、緩くして、それに入れて、麺でないカレーうどんみたいな、団子汁みたいな風にするところもあります。
主食のごはんがあってはっとがある。でもご飯より好きな人はそればっかり食べるようです。年中通して朝昼晩問わずここら辺で食べられていますね。いっぱい人が集まってなんかやる場合にもはっとがあれば、ハラの足しにもなるし。1年中。私はあんまりはっと自体は好んでまで食べないんですが。
親が野球好きで、シーズンになるとテレビは野球しか見せられなかった。その影響か、3歳くらいからボール投げで遊んでいました。小さい頃から野球、野球でした。
現在の米川小学校の近くにあった中学に入り、野球部でした。高校は米谷(まいや)工業高等学校の自動車科に行きました。高校はただ、自宅から通えて、倍率が一番低いところを選んだんです。高校に入って野球をしたかったので入れりゃどこでも良かったのと、高校も当時強い高校があったが、自分は実力も呼ばれるほどなかったし、漫画の「巨人の星」というのが、主人公の飛雄馬が無名の高校に行って甲子園に出る物語だったことが理由でした。
小学校から中学校、高校とずっと、野球だけは真面目にやりました。高校1年生のときは1年間に休んだのは2日だけでした。元旦と8月15日だけ休みで毎日行きました。
本当に野球に賭けていたんです。当時は同級生はタバコを吸っている奴もいましたが、自分は、はたちになるまで吸わなかったんです。とにかく生真面目で、いつも野球のことしか考えていないような生活でした。
高校になると硬式なので、現実的にはついて行くのが精一杯でした。自分が1年のときの3年は非常に厳しい人で12、3人一緒に入ったのですが、3年まで残ったのは2人しかいませんでした。照明設備もない高校だったので、暗くなれば帰宅なんですが、自転車で家に帰ればヘトヘトでした。3年になった当時のポジションはキャッチャー。キャプテンで4番でキャッチャーでした。予選は1回戦で負けてしまいましたが、やりきった思いがありました。
その当時の野球部での経験があって、人が今、何を考えているか、洞察力というか、人への気配りについては、人には負けない自身があるんです。
たとえば、キャッチャーはピッチャーの心理を考えながらサインを出したり、ベンチでは何を考えているかとか、このバッターはどこに打とうとしているかとか色々あります。そういう部分が今は役に立っているんですね。
また、キャプテンとして、対監督との話の時は選手の味方で、自分を殺してもみんなのことを考えていました。後輩の1年生、2年生には、先輩後輩の威厳は保ちながら接しました。
たとえ自分より年上の人でだらしない人であっても、一応先輩なので立てます。度が過ぎるとぶつかることもありますが、どんなことを言われても自分より人生1年でも長く生きていれば、やっぱり先輩なんだよね。1年生は奴隷ですからね。荷物もちは当然のことで、3年生がふんぞり返っていても、そばにいて汗をかいていれば拭いてやったり、親に対するよりも丁寧な言葉遣いで接したもんです。
この世界はそうあるべきだと思いますよ。友達みたいな関係では絶対うまくいかない。力量とか成績ではなくやっぱり先輩は先輩。だから反対に自分より年下の人間が偉そうに言ってくるとカチンときたりします。命令系統とか序列とか守るタイプじゃないとキャプテンはできないですね。
こういうことは、父親の影響は少なくて、自分が野球人生を送っている中で自然に身についたものです。
父親はジャイアンツのファンで王、長嶋の世代、自分もその影響でジャイアンツのファンだったんです。年代的には江川と同じ位ですね。
だんだんジャイアンツも魅力が無くなってきて、今は選手すら分からないんですよ。
当時高校では毎年、弁論大会があったんです。1,2年の時に聞いていて、なんてくだらない内容の弁論しかできないのだろうと思っていました。クラスから1人ずつ出て、漠然とした希望みたいな、私はこう生きていきたいとか、人生について考えるとか、そんな抽象的な感じの内容で、発表するのも大体クラスの学級委員とか頭の良い連中がほとんどだったんです。
それに不満があって、3年になって「今年の弁論大会は、誰に出てもらう?」と担任が言ったので「私やります」と立候補しました。今まで野球しかやっていないし、成績だって半分くらいが赤点の私に、担任は、「お前本当にできるのか」と言うので、「大丈夫、大丈夫」と返したら、「とにかく原稿を出してみろ」ということになりました。原稿を担任が見て、「おまえ大丈夫か? 本当に」と心配していました。
戻ってきた原稿は、国語の先生に3分の2を直されてました。赤いボールペンで前の内容はぜんぜん分からなくなっていました。たぶんできないと思ったんじゃないですかね。
自分の原稿が直されたのが気に食わなかったので、自分の順番が16人中16番目のトリで時間があったから、順番を待っている間に、直したんです。
原稿の内容は、男子校だった学校に、私が3年のときに女子が初めて入って来たんですよ。共学になってあまりにも女子の服装なんかが乱れているので、これは何とかしなきゃならんと思って、当時田中角栄の日本列島改造論というのがあったので「米谷工高改造論」としたんです。「せっかく女性が入ってきているのに、制服とかベレー帽にもっと誇りを持たなければだめだ、男子生徒も女性が入ってきて浮かれている状況に見えるので是非改善が必要だ」と。
結果はなんと1位だったんですよ。今でも覚えているのは、話をしている合間に「私はこう思います」と言うと、会場から「そうだー!」と合いの手が入るんですよ。「みなさんどう思いますか?」と問いかけて会場の反応を受けて話す。当時は斬新だったと思いますよ。大体の人は一方的にべらべらしゃべって終わりますので、私のは審査員の受けがよかったんじゃないですか。会場の女子は下を向いてました。男子600人の中で女子は40人ですから。
国語の先生は自分の直した内容でないのであきれたと思いますが、何も言われませんでした。
当時の同級生はこの近くにはいません。その学校も登米市の生徒数が少なくなって統合になるんです。だから自分の行った学校はほぼ無いです。小学校は北海道で1年生までいて、炭鉱町の小学校なので無くなったと思うし、転校して来た鱒淵小学校は無くなった。当時は町内に中学校が3つあって、私たちのころは、それぞれに300~400人くらいずつ生徒がいたんです。その中に母校の米川中学校がありましたが、もう東和中学校に統合されてなくなってしまいました。今度米谷工高も無くなるんですよ。何か自分の歴史がだんだん薄れていくみたいです。時代の流れなのでしょうがないけれど。
スポーツといえば自分が小さい頃は野球と相撲しかなかった時代です。それこそ巨人、大鵬、卵焼きの時代。
それがこんなスポーツもあるんだとカルチャーショックを受けたのは、「東京オリンピック」のとき。昭和39年9歳の時でした。
学校の白黒テレビで東京オリンピックを見たが重量挙げだとか、バレーボールや体操のチャフラフスカを見て、こんなスポーツもあるんだと思いました。水泳だってプールで泳いでるけど、自分はここの川でしか泳いだことがない。野球の他にできそうなのは柔道くらいだと思いました。
ほかのスポーツをやっていればもう少し芽が出たかな、と今思ったりしますが、そのときはもう野球に足を突っ込んでいたので今更、他のスポーツをやろうとも考えつかないし、この人たちは違う世界の人なんだと思いましたね。
高校を卒業して、仙台の小松製作所という重機の会社に入社したんですよ。機械そのものが好きなもんでね。忙しかったですね。相変わらず野球が好きで、入ったばっかりのくせに、何もないところから野球がやりたくて、各営業所に声をかけてもらって野球の東北大会を開いたんですよ。
でも、入って仙台、大河原、古川と、2年で3回も転勤で、それに馴染めなくて、そこは2年ぐらいで辞めたんですけどね。
帰ってきて地元の車屋さんの整備工場に入りました。そこでもやっぱり野球の虫が治まらない。会社になかった野球部を作って、ユニフォームを社長に直談判をして作ってもらって、町内の早起き野球リーグに参加して野球をやったんですよ。なんとなく雰囲気的にこれならできるというものがあったんです。
会社とは別に、地元の青年の人たちとも野球チームを作っていました。かつては自分より20歳も年上の人とも野球チームを作ってやったことがあるんです。それを今度もう1回またメンバーを集めて、ユニフォームも作りました。いろんな大会にトライをしたね、当時は天皇杯や高松宮杯があって、国体予選にも出ました。1回戦で負けてしまいましたが。
そういう年代の人が段々チームから抜けて行って、野球はだめかなと思い、私も手を引いて、今度手を出したのはソフトボールです。それは地区対抗でやってたんですけども、そこに入ってまたユニフォーム作りましょうと、反対を押し切ってそのチームだけで3つ作ったんですよ。
ユニフォームばっかり作ってるって? そうです。ユニフォームは全部で8着作ったかな。今は小さくて着れなくなったのもありますよ、腹がでてきてね。やっぱり不思議なもんで、普通のジャージでやってるのと違いユニフォームがそろっているだけで強く見えるんです。やっぱり服装からだったね。服装から、礼儀から始まる感じでね。
けれど、おととしかな、ソフトボールをやってて生まれて初めて肉離れを経験して、あっこれは体力の限界かな、足を洗おうと思い、今は行っていません。たまに見に行ってやるくらいなもんで。唯一の野球経験者として地元のチームを引っ張ってきたけれど、ちょうど自分が肉離れで抜けたシーズン、チームは地区で優勝したんすよ。もう私の役目は終わった、私がいなくても大丈夫だなと踏ん切りがつきましたね。
余談ですが、警察活動のなかには、全国の防犯活動として、防犯自治体っていうのがあって、戸締りを注意してください、とか地域の防犯のために活動するんです。その防犯コンクールって言うのがあったんです。私たちは登米市代表として県の大会に行って、5位だか6位だかになりました。登米警察署では今までずっと参加してるんだけど、入賞したことがなかったとかで、署長が感激して感謝状を贈りますというので、うちに賞状があるんですよ。
鱒淵にはの青年団っていうのがあって、当時はそういう団体が各町内会にいっぱいあったんです。学校を卒業して社会人になると、青年団に入るのが普通だったから。もちろん入ってない人もいたけれど。8割がた入っていましたね。女の人もそうです。
青年団が何をするかというと、年に1回、演劇やコーラスの文化発表会のようなことをしたり、他の地域と対抗で体育大会、あるいは地元の敬老会を主催したり、盆踊りを企画して行ったりするんです。いろんな活動をやっていたんで、ほとんど夜は家にいたことがなかったですね。家にまともにいるのって月に1回くらいしかなかったんです。家帰って、毎晩青年団の活動に「いってきます」って出て行って、集まっていろいろ話をしたり、企画をしたり、ああでもない、こうでもないって話し合ってました。青年団は早い話サークルですね。給料なんてありません。
敬老会とかそういうのがあれば出し物の「またたび舞踊」、「演歌舞踊」を練習したり・・・またたび舞踊というのは、早い話が水戸黄門みたいな格好をするんですよ。氷川きよしの箱根八里の半次郎みたいなもの。年齢が30ぐらいになると、だいたい引退の時期でした。今は青年団はいまは盛んではないですね。
青年団でも会長をやらされて、東和町の中にも6つか7つくらい各地区にあって、それを統合する連絡協議会の組織もあったんですが、そこの会長もやったんですよ。どうしても黙ってられなくて発言してしまうのでやらされるんですね。
結婚は25。青年団にいた最中だね。女房には青年団活動を通じて知り合いました。同じ地区で2級下なので、同じ中学校に行ってるはずなんだけど、分かんなかったですね、その頃は野球一筋で。青年会で一緒に活動をして知り合ったというのが、正確に言えばそうなのかもしれません。
人生にいろいろ節目の出来事がありますが、結婚がポイントだったと思います。
昭和54(1979)年、あっちの親に反対されたけれど負けないで、女房に「ついてくるか?」と聞いたら「はい、ついていきます」って言うので、自分の生まれた北海道に移り住んだんです。もちろん仕事もやめて、ちょうどほら北海道は親戚がいたから、とりあえず部屋を探して生活していました。2人だけの出発でした。
半年ぐらい経ってから、間に人に入ってもらったらあっちの親も折れて、入籍をしたいってことで婚姻届も出してもらったんです。北海道に行って半年ぐらいで入籍して、1年後、昭和55(1980)年に男の子が生まれたから、ちゃんと順番は踏まえてましたよ。子供が生まれて4カ月目くらいに「大丈夫だろう」ということで登米に帰って来ました。だから登米を出て行って戻るまでに2年半くらいかな。
ふたり目の子供は女の子で、登米で生まれました。その後息子が生まれました。3人が3歳ずつ年が違うんですよ。学校なんか9年連続上がる時期が一緒で、お金がいっぺんに出て行くので、大変でした。ウチは大学も行かなかったからまだ良かったけど、やっぱり一番ひどかったのは、高校卒業と、高校入学と中学入学が一緒になったとき。あれは大変だったな・・・。
今一番の楽しみは、2人の孫と会うことなんです。ここから30分ぐらい離れた場所に一番下の息子一家が住んでいるんですよ。嫁さんもらって、しばらくは家にいたけど、だけどもう次男坊だし、孫も2人できて、独立してみたい、みたいなことで、4月に引っ越してったんです。こんな地震でどうすんだって言ったんだけど、理解してやりました。孫も連れてくって言われてね。さびしい状況が続いたなぁ。
うちのお風呂にはシャンプー、リンスがいっぱいあるでしょ。あれは孫たちがいつ来てもいいように用意してあるんです。いっぱいいたときの名残ですね。自営で従業員でもいるんですか、と聞かれることがあるけど、違う違う。あれは家族の。4月までは8人の大家族だったんだから。今は4人。
奥さま、お孫さんと水入らず
私たちの当時の結婚式は、公民館結婚式というのが流行しました。
公民館で人前結婚式をして、そのまま披露宴をするんです、結構広いので。披露宴の料理は仕出し屋さんが来て用意するのがセットになっていたと思います。高島田でお色直しは1回ぐらいしたかな。
後は各家にほんとに近い人とか、親しい人がそこ終わってから家に読んでドンチャン騒ぎ(笑)。今と同じですよ。
このごろは結婚式はもう何年もありません。
ひとつには、最近はもう、結婚式自体をしなくなってますね。なんかそれが今の風潮みたい。ウチの息子もそうだったけど、結婚しても大掛かりな披露宴はやらない。式場に身内みんなで行って、三々九度の杯は取り交わして、そこで食事会をやっておわり。昔は結婚式をするって、案内状を出してさ、手伝いの人もいっぱい来て、大変だったんですよ。
またもうひとつには、婚期を逃した独身の人が多いこともあります。結婚しない女の人もちょっとはいるけど、男の人に結婚を逃した人が一杯居ます。地元にいる女の人が少ないのもあるけど、戦後の教育で、人に迷惑をかけなければ自分は何をしてもいい、みたいな、そういう風潮があって、「自由だ」「結婚? 何を言ってんだ、嫁さんなんかいらない」って。子供がいないのはそれもありますね。
葬式はね、年寄りが多くなったから、結構あるんですよ。ウチでも去年の5月に親父の葬式を出しました。
親父はそのとき80歳だったから、働いてはいなくて、家にいたんですが、山菜が採れる頃で、前の日山菜を採って、そのより分けなんかしてました。夕方私が帰ってきて、親父とふたりで、いつものように普通に晩酌して、一杯飲んだんです。次の日、私出勤したでしょ。そのお昼に、バタッと倒れてそのまま死んじゃったの。突然でした。連絡来た時はもう、息をしてないって言うから。女房がちょっと出掛て、出かける前は普通にしてたのに、帰ってきたら倒れてて、救急車を呼んだんだけど、ダメでした。
この辺の葬式は、まずね、誰かが亡くなると、班長さんが「集まってください」って声をかけて、みんなで集まって葬儀の日取りを決めるわけです。だいたい葬式って友引にはやらない。それから4日目も死につながるって嫌うんです。そうするとだいたい5日目くらいになってしまいますね。
そのあとはやっぱりみんな手伝いに来てくれて、喪主と遺族はもちろん祭壇の前にいないとダメで、弔問客の対応だし、男の人たちはいわゆる葬式に使ういろんな飾りものとか何かを作ってもらったり、あとはテントを張って受付をして。女の人は食材を用意してゴハンを作って、弔問客にお茶出して。毎日大変です。
今は亡くなってから3日くらいで葬儀まで終わらせることも多くなってきたけど、昔は5日くらいかかっていましたね。喪主なんか寝る暇ありません。親父のときは、私が喪主で、ちょうど日曜日だった4日目にやってしまったんですが、それでも大変でした。
あるとき、大腸にポリープがあるから取りなさいって言われて、入院することになりました。入院して2日目に「明日やりますから今夜夕食抜きです」といわれて「はいそうね」って受けました。若い先生だったの。
手術のとき、モニターで腸の中を見せられたんだけど、輪っかみたいなのでポリープをギュッと結紮(けっさつ)するんだけど、なかなかうまくポリープのとこに行かないのがわかるんだね。なんとか「ハイ終わりました」ってことになったんだけど、重湯を食べさせられて、すぐ出血したんですね。これはヘンだと言うことになって、食事をまた止められて。「もう1回診ますから」って。もう1回手術をやったのね。だけど、重湯を食べてまた出血したんです。それでまた食事を止められて。それで、3回目のときはベテランの先生と若い先生と2人で「ここはこうやるんだ、ああやるんだ」ってやってました。
1回の入院で普通だったら3日4日で退院するのに、3回やられたから(笑)延びて延びて、半月くらいいましたよ(笑)。しかも3回の手術代をがっちり取られるしさ。だからね、入院なんてそれくらいしか経験ないんですが、期間も出費も予定外、オーバーしましたね。
あとは、40歳ぐらいで不整脈と診断されて、カテーテル検査をやりましょうってことになったんです。カテーテル検査というのは、心臓に造影剤をいれて血管をみる検査です。足の付け根の動脈からやったのね。その時は大丈夫でした。
それから5年くらい経って不整脈が頻繁になってきたから、もういっかい検査やりましょうということになったんですが、「奥さんまだ来ないんですか?」「いや連絡とってんだけどもう来るんじゃないかな。1回やったことあるから来なくても大丈夫、やってください」って言ったんだけど、医者はなぜか慎重だったんです。「いや、奥さん来てからやります」って。
女房が来て、それで検査をすることになって、「ハイ、造影剤入れます」といわれて、造影剤が入ったとき、なんか変な感じがして、心臓がばくばくになってきて、冷や汗みたいなのが流れて来て、眠たくて眠たくてしょうがなくて、目の前が真っ暗になって、意識がすぅっと遠くなったんです。気がついたら医者が「大丈夫ですか、起きてください」といいながら、私のほっぺをたたいています。胸のあたりがすごく熱いんです。やけどみたいになってる。「どうしたんだ?」って聞いたら、「今、心臓止まってしまって」って。電気ショックを2回だかやったっていうんですよ。
もちろんカテーテル検査だから、心電図とか全部つないでる状態でそうなったんです。結果的に造影剤が体にあわなくて、ショックを起こしたんでしょうね。
女房は病室で週刊誌を読んで待ってたんで、ぜんぜんそのことに気が付かないんですよ。だから「今、心臓止まったのさ」って。ワハハハ。医者もけっこう慌てたみたいなんですよね。
それで、普通だと検査なら五日~1週間ぐらいで退院させられるのに、私はそんなことがあったもんだから、半月ぐらい置いておかれて、「早く退院させて」と言っても「いや、こないだああいうことがあったから、もう少し様子を見ます」って。なんだか、入院は伸びるんですよね。
それからはもう開き直って、タバコも酒もぜんぶ、もとに戻しました。死ぬ時は死ぬって。気をつけたって死ぬ時は死ぬんだ、我慢するストレスの方が却って良くないかな、と思っています。
ここ3年ぐらいは演劇をね、やってます。登米市ではもう十何年にもなりますが、地域に伝わる伝説を題材にした創作演劇を、脚本を起こして、キャストとかスタッフとかは市内で公募して毎年やってるんです。切符を売る人だとか、ポスター作る人だとか、係わる人は全部で
150人ぐらいになるんです。3年前にちょうど、鱒淵が舞台になる芝居だったの。地元だから、村人その一で出たわけです。それが最初でした。3年目の今年、なんかわかんないけど、主役の柄じゃないんだけど、主役をふられて、大変でした。長かった。公演は震災の5日前、3月6日でした。
写真は源さんが主演した「大嶽丸と田村麻呂」のポスター。
「もらい湯」(被災地支援のボランティアに自宅のお風呂を使わせていただくこと)を始めたきっかけは、何人かの人には話したんですが、親戚が南三陸にいるし、まだ見つからない人もいるんです。それにやっぱり南三陸は隣町だし、なんかやらなきゃなんないなかと思いながらも、自分の仕事が再開すれば、そっちに行かなきゃなんないんです。だからボランティアのみなさんのように、ほんとは毎日支援に行きたいんだけど、そういうわけにもいかなかった。無事なところは無事なりにちゃんと通常通り動かなければならないんです。
そういう中でなにか出来ることはないか、と思っていた矢先に、4月3日、南三陸町(志津川)の人たちが避難してきて、手伝いにいったわけです。荷物を運んだりしてね。
一段落して、「そういえばここにボランティアの人来てたな」と思ったんです。実際に、我々地元の人間も「ボランティアと言っても、何しに来てるかわかんない」という感じだったのね。私は割と人前に立つときにあんまり物怖じしない性格なので、「こんにちは、ちょと見学させてください」って突然行って、RQの総務の安達さんにお願いして「地元の人間なんですが見学させてもらっていいですか?」と見させてもらいました。
「どういうゆうことをやっているんですか?」と聞いてみると、「物資の配送であるとか、泥出しもあるんですよ」って言ったので、「泥出しするんなら大変でしょう、汗を流す所はあるんですか?」と聞いたら「社協の方に時間限定でありますが、他の人はウェットティッシュで拭いて終わりです」。「じゃあ、うちの風呂は小さくて2人や3人なんだけど、汗ぐらいは流せるので入りに来ませんか」と、最初は信用されなかったですよ。「いつから来ますか?」と言ったら「明日からいいですか?」と。
最初は「冗談でしょう」みたいな感じで、信用されなくて「いやいや、ほんとにほんとに(来てもらっていいんです)」って。「え、いつからですか?」「明日からでもいいですよ」って言ってしまった。そのとき一緒に来ていた佐藤さんと2人で相談して、2軒でもらい湯をやるかって言ったんだけど、佐藤さんは明日からと聞くと、「うぁーちょっと待って、うちはだめだ。掃除してから」というので、そんな訳で、我が家が第1号になりました。
家に帰って、「これこれこういう訳で、明日からボランティアにお風呂を提供することになった」と言った瞬間、「何考えているの、なんで勝手に1人で決めてくるの」と、家族に叱られ、娘なんか口も利いてくれなくなりました。私だって、正直、そうは言ってみたものの、どんな人が来るか分からないですよね。でもそこを、「やかましい、私が世帯主だ。オレが決めたんだ。嫌ならお前たち出て行け」と押し切ったら「掃除なんかみんな1人でやりなさいよ」と言われて(笑)。そしてもう無理やり、強制的に始めました。そのかわり自分で薪も割って、フロも掃除してという条件付だけど、まあいいんです。幸いなことにうちは灯油と薪の兼用釜なんですよ。薪を使えばそんなに経費もかからないんです。
佐藤さんと話をしていたのは、自分たちも地元だし、何かやらなきゃだめだよなということで、なかなか何も出来ない中で、風呂を提供する支援ができるということになったので、自分の気持ちも少し支援に関われたということで納得できたんですね。
最初はもらい湯に来る人も、2人か3人だったんです。夜なんかは迷うので地図を書いた紙を本部に持って行って、ここがうちのある場所だっていったんだけど、ここが分からなくて通り過ぎたり、隣の家に行ったりする人がいたんです。コレじゃだめだって言うことで、うちは道路から見える位置にあるので、今度は、壁には「RQ支援の家」と大きく書きました。脚立をもってガムテープで自分でやったんです。それを見て娘は「なにすんの、またこんなことすんの? 恥ずかしいからやめてよ」って、怒られながら(笑)。最初は青い外枠はなかったんです。後で青いガムテープ買ってきて足したんですよ。今度は、夜になるとせっかくの看板が見えないから上に電気をつけたりして、2、3回ぐらい手直ししてるんです。どうせ同じことをやるんなら、もっと効率がよくとかいろいろ考える方ですね、うん。
もらい湯に来る人も緊張して来るじゃないですか、だから名刺をあげてました、怪しい者じゃないですと。
みんなに今ではノートを書いてもらってるんだけど、最初は気が付かなくて、ただウチに来てくれた人を風呂に入れてて、4月4日の日が最初でしょ、7日くらいにでっかい余震が来たんです。あらあらと思って、せっかく来てもらってんだからどこから来たかくらい、は聞いておいた方がいいなと思い始めて、最初の方は聞いた名前を自分で書いたんだけど、あとはノートを用意したらいつの間にかみなさん自主的にコメントを書いてくれるようになって。
もらい湯を一緒に始めた佐藤さんは、年は上なんだけれども飲み仲間でした。そしてもう1人飲み仲間である小野寺さんが、私たちのうわさを聞きつけ「じゃあウチでもやろう」ということになった。頼んだわけじゃないんだ。自主的に。あとからもらい湯をはじめた小野寺さんにも、ノート書いてもらったほうがいいって薦めたの。「そうかな~」って。佐藤さんはあんまりそういうの「いいや、オレは」って感じでしたね。
だってこういうのってさ。「お風呂入れるの一緒にやりませんか」つうのは、なかなか頼める話じゃない。したら小野寺さんのお姉さん。あそこも受けてくれてだんだん広がって、今8件なって、後自然と増えてったから・・・。
女房は2週間くらい経ってくると、ここに居ながら日本中の話を聞けるので、自分の中でも楽しみになったみたいで、今日は大阪の人が来たんだとか、交代で入る時間にボランティアの人と話をしてました。
もう350人近い人が来てるんですけど、嬉しかったのは、自分は何もしなかったけど、もらい湯の輪が8軒まで広がったことですね。2人ずつにしても1日20人近い人が汗を流すことができたのかなと。声をかけた人は1人しかいないんですよ、あとはみんな自主的に自分も知らないうちに。噂を聞いて自主的に始めてくれたんですよ。スタートがうちだってだけで、そこと特別連絡を取ってるのでもないし。1軒だけ、千葉さんところは家も新しいし、「こういうことを始めたんだけどさ、入れる気あるんだったら受け入れてみたら」なんて軽いのりでいったんだけど、「ああ、いいな」なんて。だから、もらい湯を始めたのは悪いことではなかったのかなと思えました。
この間、RQに言ってきたのは、これからは地元との交流を考えてほしいということです。ボランティアに来た人は、普段はボランティアに集中してやっているので、地元の人と深く交流をするんであればボランティアの休みの日を作りなさい、といったんです。地元の人も邪魔になってはいけないと思うので、休みがないと入りづらい。休みをとるというやり方もあるんじゃないかと話をしたら「あっそうですよね」と言われたんです。気づかないんですよ、中に入っていると。だから外から見て気づいたことをその場で言っています。
そうやって、長いような短いような5カ月が過ぎました。
今までは世代が違うと関係ないや、みたいなところがあったけれど、地震の影響で、多少若い人の考えも変わったのかな、と感じることがあります。多少は他人の心配を出来る若者が多くなったかなって思います。いろんなテレビをみたりなんかしても、日本全体として、今まで見向きもしなかったところにまで気を配るみたいな風潮ができてきましたね。ただこれが一過性でなければいいなと思いますね。
支援って言うのはいろんな方法があるから、一番は背伸びをしないで、自分の出来る部分をちゃんとやればいい、っていうことじゃないかな。自分に負担かなと思う様なことは最初からしない方がいい。風呂を貸してすでに5カ月になるけどコツっていうか、そんな偉そうに言える立場じゃないけど、お風呂だって、「ああ、今日も来る、明日もくる」そういう風に考えれば負担になるでしょ。だから逆転の発想で、「あ、今日は沖縄のひと、明日は、どういう人来るのかな、今日は新潟の人来るのかな、そう言う風にハンデを楽しむように、それが長く続けるコツかな。それが楽しいから、ゼンゼン負担に感じませんね。
これまで、ひととおり、何でも出来る仕事はやってきました。
小松を退職し、自動車修理の会社に行って、その後は建設業の仕事についていました。建物を作るんです。大工さんではないですが、やっぱり体力的には結構きついから、腰なんか痛めたりして、もうだめだな、限界だなと思ったときに、ちょうど「介護の仕事があるよ」って言われて、「この際やってみるか」って思いたって資格をとって、介護ヘルパーの仕事に就いて約3年になります。そんな転職なんて大それたものじゃないんだけどね。
結構今の老人幸せですね。私がやってるのは、「訪問入浴介護」っていうものです。寝たきりのベッドの隣に浴槽を準備して、お湯を張って、お年寄りをお風呂に入れる仕事。つまり、昼間は職業、夜はボランティアで1日中お風呂お風呂だよ(笑)。腰にも結構来るんだけど、建設業よりはましです。熱くてさ、冬も部屋をガンガンあっためてるとこにお湯の温度はかりながらやんなきゃなんねぇから、お風呂に入れてあげる人よりも汗かいてるんです。今も暑いしさ。今55歳ですから、自分の体と相談して、60歳になったらやめようかなと思っています。
基本的に、演劇をやっても感じたことなんだけど、人生って演劇にたとえりゃキャストの1人で演技者なんですよね。演劇を生きて行くってことは、照明をあててくれるスタッフだとかあるいはチケット売ってくれる事務局であるとか、衣装を作ってくれるスタッフのおかげ、やっぱりいろんな人に支えられての自分の人生があると思います。それに最近ようやく気付いたので。
だからあえて表立って「私が支えているんだぞ」っていわなくても何らかの形で誰かを支えてあげればいいかなって。「自分はこれをやってやった」とか言う人も多いけど、やっぱりその人も、誰かに、どっかで支えてもらっているんだろうなぁと。
人がひとり、たとえばいなくなっても社会全体は大したことないんだよね。これは去年親父がなくなって思ったことなんだけど。それがこの多くなればなるぶん、社会がだんだん影響がでてくるんだよね。ひとりひとりは微々たる力かもしれないけど、やっぱり数が多くなるとね。世の中を動かす力が生れる。だから誰かと話したなぁ、今回の震災は原発でも何でもそうなんだけど、自然をみくびっていたっていうか、甘く見ていた結果だと思うのね。想定外とかなんとか、そうていなんて人間が勝手に決めた基準であって、自然はそんなんでははかりしれないから、自然をなめちゃいけないなぁって。思ったし、それとともに、人っていざとなればこう結束できるんだってこと、自然をなめるな、っていう半面、人間をなめるな!みたいなね。そうは感じた。人間の力ってすごいんだぞ。いざとなれば人間だってなかなかのもんだぞってね。
ボランティアの人たちにはとにかくね、日本中から駆け付けてくれること自体に感謝してる。さっきもいったように一過性じゃなく息の長い支え方をしてもらえれば助かるかなと思ってる。これでなければならないという形は無いと思うので、どういう形でも支援は支援だと思うので、とにかく引き続きまた、長期に渡る支援をお願いしたいと言うのが本音だね。
もらい湯にしても、野球にしても、始めるきっかけを待ってる人、やりたいと思っている人は、いっぱいいるのだと思います。けれど、実際に、最初に手を挙げて、先頭に立って、風当たりの強い場に出るって言うのは結構辛いものです。目立つためにそうしていると思われるんじゃないか、など人目が気になってできないものです。
しかし、あえてそうすることによって、意外にも後に続く人が出てくると思います。今、野球の世界でも、松坂やダルビッシュなど日本人が多数渡米しているけれど、あれはやっぱり野茂という先駆者がいたからこそですよね。だから、物怖じしないで、かっこよく言えばパイオニアになることをためらわないでほしいと思います。
これは、自分が「もらい湯」をやってみても感じたことです。結果的には、「もらい湯」をやりたい人はいっぱいいた、でも、もし自分が始めなかったら多分、「もらい湯」は存在しなかったと思います。
若い人たちに伝えたいのは、何をするにもいろんなやり方があるが、先駆者を後押しする立場につくこともひとつ、それでもやっぱり、大変だけれど先駆者になることをためらわないでほしい、ということです。
山の頂上に1本の大木があれば、そこは朝から晩まで日当たりは良いかもしれない。でもね、風当たりも結構強いんです。1本の木を見てさえそう思うんですから、人間にしたって、スポットライトの当たる場所、つまり目立つところにあれば、その分風当たりが強いっていうのは当たり前なのです。いつも日陰にいる人は何の批判もうけないけれど、風を受けながら日に当たっている木のように大きくはなれないのです。こういうふうに常に考えていれば、いろんなことに前向きになれると私は確信しています・・・。(談)
撮影・織江佑季
[取材・写真]
時川拓也
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織江佑季
久村美穂
[年表]
河相ともみ
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[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年3月17日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net