「実は、私も自分史らしきものを書いていたのですが、津波で資料を全部なくしてしまったんですよ」。お話の途中でそう聞いて、なるほど!と思いました。正一さんのお話はまるで、すでに出来上がった原稿を読み上げるがごとく、簡潔で、明快で、整理されたものだったからです。長らく教壇に立たれて後進の指導にあたられ、話すことにかけてはプロフェッショナル。そんな方のお話には、ついつい引き込まれて、時間に限りがあることがかえす返すも惜しいものでした。
歴史的にも貴重な証言となっている満州時代のお話など、ぜひ多くの方にお読みいただき、日本と大陸のかかわりという歴史のうねりは、地方の村に住む青年の人生をも一つの糸として巻き込んでいったことなど感じていただきたいなと思います。「人間万事塞翁が馬」というがごとく、山内さんの不思議な運に守られた半生は「塞翁が一代記」と呼ぶにふさわしいものでしょう。
お忙しい中、丁寧に、わかりやすく、貴重なお話をいただきました正一さんに心より御礼申し上げます。
2012年7月10日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私が生まれたのは宮城県本吉郡歌津村伊里前(いさとまえ)。そのころは歌津村といいました。大正12(1923)年10月16日に生まれましたので、87歳になります。
家内は大正13(1924)年生まれで1つ歳下でしたが、3年前、平成20(2008)年に85歳で心筋梗塞で亡くなりました。今年が三回忌にあたります。この通り津波で何もかも流されてしまったので、ここに遺影もなにも飾っていません。
私の父は明治32(1899)年の生まれ、隣の入谷村(いりやむら。南三陸町入谷)の出身で、県職員として、道路の補修などを行ういわゆる「道路工夫」として土木事務所の作業員をしていました。父自身が5歳ごろに幼くして父親と別れたこともあって、子煩悩な人でしたね。よく「仕事には忠実であれ」ということは申しましたが、あとはあまりうるさく構いませんでしたね。父は昭和49(1974)年に75歳で亡くなりました。数年前、平成18(2006)年に三十三回忌をやりましたね。
父の実家は半農半漁でした。この辺はたいてい半農半漁でしたね。農業はお米ですね。漁は今のような漁師ではなく、磯漁です。天然もののアワビ、ウニ、あるいは海藻をとって、生計の足しにしていました。今よりも若干値段は安かったかもしれませんが、数量はありましたからね。ね。
アワビなんかは磯で1メートル50センチくらいの深さに、8センチから10センチ位の大きさのものが獲れました。アワビは3.3センチ以上の大きさを獲りなさいってことが決まっていたわけです。
家内もね、15年前、20年前はアワビの開口になると漁に出かけて行きましたよ。
船はもちろん持ってましたが、船外機のついていない、櫓を漕いで進むのが1艘だけです。当時の船の耐用年数は普通30年くらいですから、今はもうその船はありません。今ほとんどプラスチックで、船外機もつけていますよね。それに、ウチはもう、漁業組合は脱けてしまいましたから。
母は歌津村の韮(にら)の浜(南三陸町歌津韮の浜)の出身でした。専業主婦で、父に従順でね、浜育ちで、教養はないけれども、母と呼ぶには十分な人でしたね。男ばかり7人兄弟を育ててくれました。私が長男で、正一と名づけられました。したがって7番目は、正七。それが末弟です。2番目の弟は、昭和31(1956)年の12月に亡くなりましたが、他の兄弟は6人とも今も健在です。
母の韮の浜の実家へは、子どものころ、よく行きました。八幡神社の祭典がある時なんかに、弟をみんな一緒に連れて行くんですね。神社の森に行くと、出店があって、そこで、当時のお金で5円貰って、10円も貰ったことはないなぁ、大きな梨をね、1個5円で買うのが良かったですねえ。母の実家の親戚がよく2晩も3晩も泊めてくれました。
母の父親、私から見たらおじいさんが、そのころ歌津村の村会議員を3期ぐらいやったんです。おじいさんはお婿さん、つまり、泊浜の出身で母の実家に養子にいった人でした。何年か経って、自分の息子、つまり母の弟も、議員をやりましたね。そのころは、歌津町になっていましたので、「町会」議員でしたが。母の実家でこのおじいさんの血を受け継いだ人は、一般に頭のいい人が多かったんです。農業やっても漁業やっても、利口だと言われた。だから、遺伝っていうことを無視できないですね。僕が小学校入学の頃、8歳の時、おじいさんから絣の着物を送られたこと、そして、おじいさんの体格は意外にほっそりしていたことを覚えています。
学業のことは、自分で言うと恥ずかしいのですが、40名中1番か2番の点数をもらいました。高等小学校まで8年間歩いて通ったわけですが、学校を休まず、また、みんなより早く登校する習慣にしたのです。
勉強は好きでした。主に文系ですね。振り返ってみると、3年や4年生のころは、記憶力がいいので、友だちの参考書の全部の過程を見せてもらって、買わなくてすむというので、暗記していましたね。友だちはあんまり勉強しないので、そのお母さんが、「お前もね山内さんのようにね、一生懸命勉強しなさい」って言われたのを思いだしますね(笑)。
家で弟に勉強を教えるってことは無かったんですが、いちばん小さい弟は昭和14(1939)年生まれですから、だいぶん歳が離れているので、私が、のちに、昭和18(1943)年にね、町の国民学校の代用教員に採用された時には、その弟を自分が担任するということになりました。今なら都合が悪ければ、「隣の組に回して下さい」と言えたのかもしれませんが、当時は、決まったことを覆すのもうまくないと思って、「そうですか、はい、いいですよ」と言ってお受けしました。
遊びでよくやったのは、「メンコ打ち」、僕らの言葉で、「バッタ打ち」でしたね。私はあんまり得意じゃなかったんですが。
小さいバッタが大きいバッタをひっくり返すんだから、どういう物理的現象で風がいくかわかんないけど、何人か、そういう上手な人いましたね。
僕の得意は、座金(ざがね)の丸っこい奴をね、どこから購入したのか、友だちからもらったのか、みな持ってんですよね。その丸い座金を離れた場所から投げて、メンコに当たってひっくり返ればいいという遊びでした。僕もミカン箱いっぱいになるくらいメンコが溜まったし、石油一斗缶半分くらい持ってた人もいましたね。あまり夢中になると、パチンコなんかと同じでね、もう何も考えませんから、勉強のこともね。
もうひとつ、忘れられないのは酒蔵。酒屋さんが1軒あって、友だち3人ぐらいと、そこの高い蔵にね、スズメがいろんなものを運んで来て巣をつくっているところに、はしごを架けて登って、スズメの子を、赤ちゃんを捕るんですよ。
高さは2階の屋根の下あたりです。雨どいの所とかに巣がありました。子どもというのは、みんな、それは自然なことなんですが、高さに対する恐怖がないんですよ。「このはしごが倒れたらどうしよう」とか、「屋根から落っこちたらどうしよう」とか考えないんですねえ。
なんで捕るのかって、その鳥を焼いたり煮たりするわけじゃなくて、自分の手で取り上げて、それだけで満足なんだね。持って帰らないですよ。そこに、自然にほったらかして。僕だけじゃなく、多くの友だちがやりました。それは昭和の初めあたりでしょうね。小学校低学年くらいです。
小学校に入ってから、夏休み近くなると、海水浴場を青年会が世話してくれて、海岸から40メートルぐらい離れた場所に、海中に、木でやぐらを組んでくれました。それが楽しみでね(笑)。「あ、夏が来た」と思ったものです。磯の潮が引いてから10~15メートル、それらしく泳いだら、やぐらの家に行って休んだりして過ごしました。
この季節はもちろん母親などが、夏用の白と黒の合わさったような着物を出してくれました。僕が6年生のときは、洋服着たのは2人ぐらいしかいないものね。主流は着物でしたよ。
父が公務員でしたから、私たち家族は貧しくても、お腹一杯、ご飯を食べることができました。それでも、戦争中はどこでも同じですから、粗食をしていましたが・・・。主流は米でしたね、米で若干麦は入ってました。たいていの家では麦をお米に混ぜましたね、多かれ少なかれ。兄弟7人ですから食べ物好き嫌いしないで、何でも食べました。おかずは、イワシなどは地産地消で安いので買ってきて、囲炉裏のほとりに竹の串に刺して、アユ焼くように立てて置き、それを食べました。8割くらいの家に囲炉裏があったんですよ。
そのころの間取りはよく覚えていますよ。屋根は僕が生まれた頃は杉皮でした。茶色の杉の皮で葺いて、石のおもりで飛ばされないようにところどころ打って。その後、僕が6年生ごろかな、瓦に葺き換えたようでしたね。
道路に面したところに店先があって、そこの窓から、祖母が雁月(がんづき)という練り菓子、ういろうより少し固いような菓子を作って、売っていましたね。泊浜とかそのほか浜の方の人たちが、山の方に田畑を持っているので、そこに行く途中に馬を休ませて、タバコ(おやつ)にその雁月を買って食べる人もあったんでしょう。高さが2センチくらいで値段は5円くらいじゃないかな。けっこうね、それで小遣いを稼いだように記憶してますね。
雁月の材料は、主に小麦粉と砂糖で、粉を溶いて砂糖を入れて、そこに炭酸か何か入れ、缶に入れ、蒸かし釜で蒸かすんです。白砂糖なら白っぽく、黒砂糖を使えば黒っぽくなる。
僕が1年生を終える少し前のことだったと覚えていますが、祖母は52歳くらいで亡くなりましたから、そのあとは、私の母が継いだようです。
で、母が嫁入りに持って来た長持、お話聞いたことあるでしょ、樟脳(しょうのう)臭くてね。母がうちのばあちゃんから引き継いだ雁月を売って、稼いだ日銭をしまって置いたんですね。小学校の高学年になった僕はそこから、悪いと知りながら、ちょろまかしてたんです。自分は大きな罪悪感は無くって、自然だと思ってましたね。そのお金で何したかというと、食べ物、特に、和菓子の上等な奴、製造販売してたお菓子屋さんに行ってね、「買い食い」する、それが多かったですね。母は、高等女学校に行った人ではありませんでしたが、お金が減ったことはわかるんです。それでも、何も言わなかったですね。「正一、お前は、お母さんのお金を盗った」なんてこと言わなかった。
うちには馬は飼っていませんでしたが、終戦直前の2年ぐらい、父が50歳前後だったと思いますが、和牛1頭、農業用として、たい肥を作るために飼いましたね。僕は、朝、牛に草を食わせに、路壕(ろごう)に連れて行ったりしてました。
田んぼは無く、畑は3段ほどありました。僕なんか数えの50歳まで、土曜日曜は休んだことがないくらい、畑を耕すのを手伝っていましたよ。20年ぐらい前までは耕作していましたが、今はもうしていないので、荒れ果てて草ぼうぼうですが、今でもこの畑はあります。その畑の周辺は雑木林で、樹齢60年以上の杉の木を植えてあります。杉の木はいっぱいありますけど、安いものです。この仮設住宅から直線距離で約1キロ、歩いて12~3分のところです。
小学校8年(国民学校初等科6年、高等科2年)を終えた僕は、家が貧しいもんですから、満州の南満州鉄道に行きまして、会社の養成施設の「大連鉄道学院」に2年間学びました。そこで1年目は有線電信を学び、2年目は運輸関係、列車に乗るほうを学びました。
卒業して勤務したのは、奉天(ほうてん)と大連(だいれん)の間の「許家屯(きょかとん)」駅でした。駅務員と称し、有線電信の係になったんです。大連と許家屯間は距離にして20キロくらいですかね。学校のあった大連には、配属後もしばしば行きました。大きな町ですよ。
許可屯は、周辺から果物がとれました。また、隣町に熊岳城(ゆうがくじょう)という、安東(あんとん)などとならぶ有名な温泉地がありましたね。熊岳城駅から歩いて10分くらいの、ここの温泉に休みに入るのが楽しみでしたね。
熊岳城温泉のアルバム
「南満洲鉄道株式会社地方営造物絵葉書帖」より『熊岳城温泉』
「沿線写真帖」
(明治45年6月 満洲日日新聞社)より『熊岳城ノ鉄橋』
出典不明
「満州写真館」掲載
「満洲の旅」(昭和15年 マンチュリア・デーリー・ニュース)に掲載されている駅スタンプ
僕は休みになると、許可屯からふたつ先の熊岳城に行き、「馬車(マーチュー)」という、タクシー代わりの馬車に乗ってね、5~10分行くんです。
昭和初期ころの熊岳城温泉の絵葉書
その温泉には傷痍軍人なんかよく来てましたね。そして砂湯に入ったり温泉場の湯の方に入ったりしてました。
あとね、その方たちから、検閲があるせいか、田舎の実家あての郵便物を「これ出して置いて下さい」と、よく頼まれましたね。
熊岳城の斜め横の方向に、望小山(ぼうしょうざん)という山があって、高さは地上から数えれば50メートルか、70メートルしかないような、なんでもないような饅頭型の山でしたが、伝説の山なんですよ。科挙の試験を受けるために、北京かどこかに勉強に行った息子を思って、母親が毎日のように望小山に登って祈り続け、待ち続けていたという有名な話があるんです。それで息子が何年待ってもね、まだ科挙に合格しないのか、帰らないでね。ついにそこで亡くなったと。
当時の満州の読本や、内地でもね、うんと出版されたはずです。
戦前期の熊岳城温泉の絵はがき。(建物は現存せず)
近所にね、鉄筋コンクリートの2階建ての洋式の「熊岳城ホテル」というのがあったけれど、用事もないから行かなかったですね。温泉に行く時はいつも、満州は寒いから、温まる飲み物を買って飲むんです。それに、コンビニはないけども、日本人が作ったいわば売店のようなものが、熊岳城駅にあったんですよ。そこに、お稲荷さんとのり巻きのね、詰め合わせが、プラスチックと似たような容器に入って売られていました。それを買って行きましたね。その頃が一番楽しかったですね!
特定のガールフレンドはいませんでした。駅長さんや郵便局長さんの娘さんもそうですけど、満州や朝鮮の女の子は、当時は外地の人であってもね、日系の内地の高等女学校に入れたので、電話では話してもきれいな声だし、日本語ペラペラだものね。
その頃のすまいは許家屯の満鉄の社宅でしたね。会社で頼んだ中国人で、日本語が少ししかわからなかったのですが、女の人と交替で炊事をしてくれる人を雇っていました。女の人のことを「尼さん」と呼んだりしてましたね。社宅では、3食出るんです。豆もやしを、豚肉なんぞ少し入れていためたのを、美味しいもんだなぁって思いましたね。田舎から出て行ってね、寒いからやっぱり油ものを好みますし。
社宅にいたのは1年半位ですね。そのころは8人ぐらいしかいなくて、あとは鉄道を守る警備隊の人もいたわね。
昭和16(1941)年の3月に、上級学校の進学の準備をするため、満鉄を退社して日本に戻りました。
当時、親戚の人で、建築業を満州の敦化(とんか)で営んで、成功した人がいて、今のお金で、20万くらい、まる1年送金してもらったんですよ。こっちでお願しますとも言っていなかったのにね。僕は牛乳配達とか新聞配達でもしながら苦学しようと思ってたんだけど、本当はそうやった方がよかったのかもしれないですね。
そして、4月、西荻窪の1人暮らしのおばあさんの家に下宿し始めました。そのおばあさんは、福島の出身で、田母神さんという70歳位の方でね、孫が戦争に行ったあとで、そこに留守番代わりに、お婆さんと2人で住むことになったんです。6畳2間のね、同潤会住宅でした。
そこで今でいうと20万くらいの仕送りのうち、10万くらいが下宿代になって、あとの10万で予備校に通ったんですね。西荻窪から中央線で、お茶の水の駿河台のね、明大や中央大の前を通って、主婦の友社の前を通って、神田錦町の正則予備校まで行きました。英語を外国人教師が教える学校でしたが、戦時中で外国人はおらず、旧制東京都立一中の英語の先生なんかアルバイトで来てましたね。
いろいろと選択肢がありましたが、5年制の私立の旧制中学の夜間部の3年に編入しようと思って勉強したんですが、文系が得意だったんですが、やっぱり理系の試験がね。10人中6人くらい合格したのですが、私を含めて4人が残ってしまったんです。戦争が激しさを増す中、田舎に引き揚げて来ることになりました。
昭和17(1942)年12月8日、あの日は曇ってた日なぁ。近所の共立講堂で、海軍大佐で報道部長の平出さんから太平洋戦争開戦の話があって、その日は寒かったのをよく覚えています。
しかし、幸運だったんですよ、早め、早めに引き揚げてきたのは。東京大空襲にも遭わないし、その前に、満州を出ていたので、満州引き揚げの混乱にも遭わなかったですし。
昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。
1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。
教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。
教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。
そんなわけで、教え子は、相当数いますね。やっぱり教職っていうのは、先生の誕生会とか還暦とか、なにかをやってもらうことがありがたいですね。
その後、だんだんと出世しましたけれども、教頭になれというのも拒んで、34年間勤め、55歳で退職しました。年金が貰える年齢に達したということと、自分の都合で辞めたのです。実は、宅建や行政書士の試験に通って資格を持っておりましたので、年金を貰いながら、行政書士の仕事を続けたのです。携わったのは主に、建設業と、農業、農地法の入札参加、許可申請ですね。となりの志津川・歌津で30社ばかりの建設業の会社が、屋根のてっぺんの工事業、電気屋さん、クロス張りの内装屋さん、大工さんと、いろいろあり、大いに助けましたね。行政書士は20年間やって、80歳で辞めました。
僕の結婚の経緯は、やっぱり見合いです。頼まれ仲人と言ってね、父の友人が仲人をしてくれました。「あの子がいいだろう」「あの子を貰いなさい」ということで結婚となったんです。昭和18(1943)年のことでした。
家内は大正13(1924)年生まれですから、1歳違いの19歳です。当時地方銀行の銀行員でしてね、名足という部落から銀行まで、徒歩あるいは自転車で通ってました。私は当時、助教で20歳でした。田舎の同じ町のことですから、面識はありましたよ。
昭和18年3月15日、陸軍記念日ですからよく覚えています。結婚初夜は、この納戸のところに押し込められまして、1泊させられまして、あとは、新婚旅行もなく新婚生活が始まりました。
結婚式は、昔のしきたりで、泊浜の母の実家に人を呼んで行いました。同僚をね、十数人、校長先生以下呼んだのですが、定員というものがあって、人を呼ぶにも限界がある。それを遺憾に思ってましたね。また、戦争中ですから、もう砂糖が少ない時代でした。配給係が役場にいましたから、その頃としては盛大な一升瓶の砂糖の配給を受けて、あんころ餅を作って振舞いましたね。
子どもは、男が1人、女2人います。長女は昭和23(1948)年、文化の日に生まれましたんで、迷わず「文子(ぶんこ)」と名をつけました。次女は昭和28(1953)年生まれで、その真ん中に昭和26(1951)年生まれの長男がおり、現在埼玉で会社員をしています。長女と次女は専業主婦です。
結婚して2~3年後に、2番目の弟が出稼ぎに行って、大謀網(だいぼうあみ)漁(沖に仕掛け、魚を囲い込んで出られなくする漁法)で成功して、当時のお金で1500円も稼いできたんです。安いお家が一軒建つほどの金額でした。当時弟は結婚する前で18歳か19歳でないだろうかな。一緒に住んでたんですが、自分が生まれたこの家を改築するのを金銭的に助けてくれたんですね。
1500円を当てた大謀網というのは、岩手県の要谷(ようがい)というところの網元へ弟が出稼ぎに行ってしていたんですね。1回の漁でそれだけ稼いだのでなくて、夏から秋の3カ月くらい働いてのお金だね。主にマグロですね。季節によって冬はタラね。
名足の人と、歌津から弟を含めて2人、出稼ぎに行ったんですね。歌津の1500円を当てたもう1人の人はその後動員されて、空襲で焼夷弾か何かを受けて亡くなったそうです。
友だちから聞いたのですが、1500円を当てたあと、泊浜や高台の方角に田んぼある60あとさきのお爺さんが、うちを通過する時に馬を引っ張りながら、「1500円当たった家はこの家だよ」と言いながら歩いて行ったってことを聞きましたね。
その弟はカムチャッカ沖で、トロール業の最中に亡くなりました。昭和30(1955)年の12月25、6日ごろでした。満船で船が重くなっていて、明日に帰るというときになって、時化に遭って・・。当時弟は、船長の次の甲板長として、乗組員がほかに18人くらい一緒でした。その時すでに結婚して気仙沼におりましたが、自分の建てた新しい家に1カ月くらいしかいられなくて、ほんとうに気の毒でした。悲しかったですし、「救護袋に入って、それに入って助かることができなかった・・」など、そんなことを考えましたね。
子どものころからの住まいは、大正10(1921)年前後に建てた古い家でした。それを今回の震災まで、全面的に改装して住んでいたのです。築80年を超える建物でした。
貧しかったので、風呂は、僕が小学校卒業するころまでは、お隣に「貰い湯」でしたね。貰い湯に行くときは「ありがとう」は言いますけど、「ありがとう」で終わりです。特に燃料の薪を持っていくなどはありませんでした。
お隣の人が気仙沼出身で、今生きてれば120歳くらいの人で、千葉トミさんって方でね。何艘も船を持っていて、カムチャッカのサケ・マス漁で稼いだ有名な人でした。年末になると、お魚なんかいっぱい持ってきて、みんなにおすそわけしてもらってね。
「貰い湯」には、その他に本家や親せきにも行きましたね。家にお風呂ができたのは終戦直後くらいかなあ。結婚と同時ぐらいだね。
結婚した当時は、見取り図どおりの家に住まったんです。トイレは離れで、家の中から行かれないのね。家族もみんなみんな一緒でした。2~3年後は、8畳間を占領して、半分は畳、半分は板の間に仕切って住まいました。やっぱり貧しかったのかな。
すぐ下の弟が大謀網漁で稼いで、改装にお金を出してくれて、2階をあげたり、その後もいろいろ雑収入があったんでしょう、「離れ」と称する、2階建てした物置を建てたりしたんですよ。
その後、柱を全面入れ替えて、瓦を赤瓦にしましたね。土地は70坪しかないんですけど、家は何ですかね、120坪くらいかな。
津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
仮設住宅を出て、またもといた場所に戻るつもりは全然ありませんね。戻れませんし、流された家の何も残っていませんから。金庫らしきものにいくらかの現金を入れていたけど、流されて警察に届けましたけど、見つからない。でももっと多くの、何千万と流された人もいたかも知れません。だからあんまりそのことを言わないんですよ。
そして、持っていた畑の猫の額ほどの土地がありますから、小さくても、早めに、家を建てようと思っているんですよ。
僕は今、87歳で、10月で88歳です。人間も生物ですからいつまでも生きてるわけにはいかない。いつかはお隠れになるんです。お金の使い方も自分の楽しみのためだけに使うことのないように、考えなければいけないんです。(談)
このお話は、2011年8月17日、山内正一さんに、
歌津中学校仮設住宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
丸山まゆみ
佐藤結生
頼成裕理子
高田 研
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年7月10日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト