今から始まるお話は、昭和という時代とともに産声を上げ、伊里前に生まれ育った、高橋静男さんの自分史です。
その知識の豊富さ、いくつになっても新鮮さを失わない好奇心、ユーモアに溢れた語り口を、余すところなく収録したつもりでおります。伺ったお話の数々は私たちにとっても素晴らしい財産となりました。
そして、この自分史そのものが、高橋さんにとってもう一つの宝物になるように願って、「伊里前 海と山が育む宝もの」という題名をつけさせていただきました。
長時間にわたって貴重なお話いただいた”伊里前の大研究者”である高橋さん、絶妙の合いの手を入れてくださった奥様に、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
ツェッペリンってわかりますか? ドイツの飛行船、ツェッペリン号ですよ。昭和4(1929)年の夏、日本に来たときに、この海岸を通って行ったそうです。兄貴たちが家を飛び出して見に行っていました。みんな「ツェッペリンだ、ツェッペリンだ」って言うんだけど、私はその時4つか5つの頃で、あんまりちっちゃくてね、誰にもついて見に行くこともできなかった。ツェッペリンはこの海岸をずっと霞ケ浦から来たんですよ。
ツェッペリン号
出典:ウィキペディア 旅客を乗せて史上初めて世界周航に挑んだ「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」
私の生まれは、大正15(1926)年。つまり年号が昭和になった年。昭和と同じ生まれなんです。その年の10月27日に生まれました。
この話をしてる今日が終戦記念日なんだけど、あなたがた、戦争ってどんなことかなんて、おそらくわかってないよね。
幼少期はどんなって、家は商売してたから、食べるものも不自由しなかったし、山から、海から、毎日遊んでばかりおったんです。竹馬で山駆け回ったり、海駆け回ったりしてね。今でもね、運動会なんかで、竹馬に乗って駆けて見せたりすると、みんな、ビックリしますよ。年取って、みんなヨタヨタってなるんだけどね。
家は百貨店みたいなものをやってたから、余裕があったんですね、兄弟みんな、学校にいれてもらいましたから。何でも売ってた。うちの親父、及川清吉が明治ごろ創業したんです。親父はここ歌津の出身で、石巻の呉服屋あたりに修行に行って、ここを開業したわけですよ。親父は高橋家に婿養子に入ったんです。
高橋家っていうのは、商売はやってなかったようで、それ以前は、ご先祖は医者だったんだが、後継ぎがなくなって、百姓になったらしい。その長男が東京に行って、辻(つぢ)という婦人と結婚したのち、台湾巡査として台湾に渡ったんだが、数年後に病気で亡くなった。子どもも病気になったので、奥さんは子どもを連れて伊里前の高橋家に帰って来たわけです。それで、新しい旦那さん、つまり、ここで呉服屋の番頭をしていたうちの親父を見つけて結婚し、奥さんがいっぱい持っていた持参金を基にして開業したのが始まりです。
伊里前では、盆と正月は市の立つ順番と日にちが決まっていたんです。夏は8月の10日が志津川、11日が伊里前、12日が津谷、最後は気仙沼となってました。市の立つ日の朝なんてのは、買い物に行くのに3時ごろから起こされたんです。
昔は、地元の人が買ったもののお金は、ほとんど盆暮れにしか支払わないんですよ。うちの親父なんかは、テレビでみるような、こんな大黒帳にね、みんなのつけた分を書き入れていたんですが、盆になると支払いに来るわけですよ、何カ月分ものお金を。
人が亡くなると、朝から買い物と称して座りこんで必要なものを買っていくんです。小さい時からそれを入れる箱を作ったんだけど、一式、木地蔵、(死出の旅に出る)わらじ、「死人(しびと)もの」と言って、亡くなった人が着る衣装のさらし木綿の反物などの一切をうちで売ってたんですね。昔は人が亡くなると、「みんな縫い物に来てください」ていって、死に装束を縫って着せてやるんです。
そんなわけだから、歌津全部のどこで誰が亡くなったというのが、うちではすぐわかるわけですよ、役場の次ぐらいの速さで。
商売をうちでやってたときには、家族みんなでご飯食べたことはなかったですね。お客さんがひっきりなしに来たりなんかして、忙しかった。このあたりには1軒か2軒かしか店がなかったらしいです。
商売の話で思い出したのですが、あるとき、うちの実家の義姉(あね)が筆入れを持ってきて、「貧乏になってしまう」と言うのです。「なんだべ」っていったら「コレ見てください」という。見てみると、親父は100円って定価の書いてある札に、95円という手書きの札をつけている。それで義姉がね、「100円のものを95円で売られると私たち貧乏になってしまいます、おじいさん(父)に注意してください」っていうのです。「姉さん、そんなこというもんじゃないよ。この5円のお金で、歌津の浜の何キロもわざわざここまで買いに歩いてくるんですよ。薄利多売ってね、たった5円って思うけど、その5円のためにわざわざここまで来てくれるお客さんがいるんですよ」って言ったことがあるんですね。それが父の商法だったんです。
うちはきょうだいみんな、学校にいれてもらいました。私の兄は今年で96歳になりますが、村で2番目の医学博士で、今も健在です。
本吉にはこの頃、中学校なんてなく、佐沼と気仙沼に一つずつしかありませんでした。下宿です、遠くて通えないの。高等女学校ってのはね、この界隈では登米高女っていうのが一つしかなく、あと矢吹の高田っていうところにもうひとつあるだけ、あとは仙台にしかない時代でした。
同級生で気仙沼の中学校に入ったのは私ひとりで、歌津でも3人目だったし、佐沼の中学校に入ったのは、私のころでは過去3人しかいなかった。他の人は小学校出れば、家の手伝いなんかしていましたね。
昭和19(1944)年のことです。学徒動員で、みんな日立製作所に行って、軍需物資を作っていたんですが、そこが米軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)にあって、工場が壊滅したので、そこにいられなくなったんです。
そのあと、昭和20(1945)年4月に現役として入隊して千葉に行ったんです。この部隊は、硫黄島に逆上陸する部隊、つまり硫黄島奪還作戦のための、死を覚悟したものでした。なので、「認識票」っていう小判型の金属片に番号を書いたものを持たされたんです。戦争に行って、たとえ爆死して体がなくなっても、その認識票で誰だかって確認できるようにです。だから、前線に行くのと同じだったんです。入隊後、最後の家族面談が許されたときに、親父が面会に来て、激戦地に行くので生還は難しい、と言うと「みんな死ぬんだな。捕虜にだけはなるなよ」と言って寂しげに帰っていったのを覚えています。
けれど、船もなにもなくなって、硫黄島に行くにもいけない状態になったので、作戦は中止になりました。それで本土防衛部隊に編成されたけれど、幹部候補生だったから当地活動をしていても、ほんとの兵隊の訓練ばかりやっていましたね。
結局、8月に終戦になって、9月の4日に帰ってきた。除隊です。
20歳で兵隊から帰ってきて、歌津の小学校の先生を1年やったんですよ。代用教員です。朝のドラマ(当時のNHKの朝ドラ「おひさま」のこと。主人公は小学校の先生)みたいなね。
小学校2年生が受け持ちで、「いろいろほめろ、ほめろ」って言われるんですが、けどね。2年生ぐらいでほめることもあんまりないんですよ、いたずらばっかりしてさ(笑)。だから「あれやっちゃだめ、これやっちゃだめ」と言い続けるうちに、我ながら情けなくなってきて。ひとのアラばっかり探すような根性になったんじゃ大変だなぁ、と思って、辞めることになりました。
代用教員をやめると、今度は大学に入りに横浜に行ったんです。昭和22(1947)年のことでした。横浜には大学に入学してから卒業するまでいましたね。
大学生活ではアルバイトをやらないで、スポーツ関係、野球やボクシングの広報関係の写真をやってました。
一番覚えているのは、昭和23(1948)年ごろ、6大都市で学校給食が始まったときのこと。横浜も一番に始めたから、その取材を市から頼まれました。
その当時は、東京六大学と一緒になって写真展やコンクールをやっていたんで、慶応や早稲田にたがいに競い合った仲間がいました。
顧問が外人さんで、レストランに連れて行かれてね。パンが出たんだけど、パンをどう食べるのか分からなくて、まさかフィンガーボールの水を飲むわけにもいかないで、手をつけないで、外人さんの方をじっと眺めてたら、手でつかんでむしって食べている。「なんだ、むしって食うのなら大丈夫じゃないか」ってね(笑)。
またテレビが売り出される前の話ですが、自分の建屋の隣に工学部の教室があって、そこでテレビの研究をしててね。静岡のある学校(浜松工業専門学校)で日本で初めてテレビの実験をやってね。NHKがテレビの放送試験をして、やっと画面に「あいうえ」が映るだけなんですが、それを見学するのについていったりしました。
そんなふうに、大学にいる間は、面白いことがいろいろとあったね。
私は、外国貿易専修過程におりました。英語とね、中国語とスペイン語を第二外国語で勉強したけれど、中国行って使ってみたら、私の学んだ中国語がひとつも通用しないの(笑)。それでね、”Can you speak English?”ってボーイにいったらね、” I can.”って言ったからさ、話せたんだけど、その英語も通じないんですよ。10年間勉強したはずなのにねぇ。会話って言うのはまったく別のもんなんです。大学での英語の成績は優だったのですが、書くことばかりで、英会話の勉強はしていなかったんです。
外国貿易を学ぼうと思ったのは、中国とか、南米との取引を考えてのことです。南米だとスペイン語が必要だし、日本に一番近いのは中国。そのときはね、中国と貿易したらね、自転車を売るだけでもあと百年大丈夫かなと思ったんですよ。
学生時代は、歌津を拠点にして暮らすなんて、ここへ帰ってくるなんて、まったく考えてなかった。横浜に行ったっていうのは、自分がずっと海に、山に、育ったからこそです。今度の津波に遭ってもここに暮らしていることもそうだけど、どうしても山も海もないとこに住めないんだよなぁ、って思います。で、月にいっぺんくらい横浜の山下公園まで、最短距離で一番安くて行ける方法で行って、海を眺めたんです。そこでは「赤い靴」の音楽が朝からずっと、一日中かかっていて、覚えてしまいました。だから私はカラオケなんかあんまり行かないんだけど、「赤い靴」の歌を歌うことにしてるんですよ。そのほかの歌はあんまりできないからね。
4年生のとき、大病にかかってしまって、こっち(伊里前)に帰って、あっちの病院、こっちの病院と転院しながら入院して、10年も患ってしまったんです。それ以来、就職ができなくなってしまった。就職できないから、地元で何かやらなきゃいけないなと思ってたんですが、大学で写真部にいたから、一番手っ取り早いって言うんで写真店(フォトスタジオ高橋)を始めることになったんですよ。
そしたら、伊里前には、そういう商売をする人が誰もいなかったから、だいぶ繁盛したと思いますね。白黒フィルムだったら自分で現像をやったけども、カラーフィルムなんてものは、自分でやんないで委託なんですね。フジカラー現像業というのが仙台にあって、毎日集配にきてくれたんですよ。うちで役場からの注文を一手に受けていたからですね。3,4年前まで写真屋をやってたんだけど、デジタルカメラが出たでしょ?あれでね、現像なんて業務を委託していたところや、写真材料のフィルムなんかの問屋がつぶれちゃったの。それでできなくなりました。
昭和8(1933)年の津波のときは、小学校の1年か2年だったかな。現在の歌津中のすぐ下あたりに住んでいたんだけど、3月3日の夜でした。揺れが長くて、5分ぐらい続きました。もう収まったから寝ようと思った時に、隣のおじいさんが「津波だ~!」って声を出したものだから、一目散に下の伊里前小学校のほうに逃げだしたんです。その津波では、歌津全体ではで4~500人の方が亡くなったんです。だけどこの伊里前ってとこはひとりも死んだ人がいないのね、1軒は船が突っ込んだけども。というのは、うちの前がちょうど道路で、水がちょこっと乗っただけで済んだほどで、伊里前では水がほとんど上がらなかったからなのです。
チリ地震(昭和35(1960)年)で津波が来たときも、町の中心あたりでも床下浸水が少しあったくらいでした。だから、「ここは津波など来ても大丈夫」って思っていたんです。そのまえにも、十勝沖地震か、2メートルくらいしか来なかったんだけど、養殖の網が被害を受けたんですよね。
誰が設定したのか、このあたりには、6m90cmの高さに全部印がつけられました。「津波が来るかもしれないから、これ以上の高いところに登りなさい」という意味です。ところがね、浜の方にもね、同じように6m90cmの印をつけてるんです。港とか、馬場中山、田の浦なんてところは、すでに当時でもう12mくらいの津波が来てしまうことがあって、そのために何百人と死んでいるに関わらずです。
後日、このあたりの津波の有志以来の歴史を、自分の手でぜんぶ書いてみたのです。県の土木課から、津波の浸水の高さと、津波で亡くなった人のことなど、全部訊いて、津波の記録・被害写真・亡くなった方の名簿を一冊の記録にまとめて作ったわけです。
実は、チリ地震の時に、私はこの被害状況を20枚近く、全部一人で撮影していたのです。町内でその記録してたのは、私ひとりだけだったので、報道するときは、私の写真をみんな使ってました。小学校、中学校の生徒が、うちに昔の津波の様子を聞きに来た時に、写真や記録をみんなに見せました。
ところが今度の津波は正直言って、まったくの想定外。このへんはいわゆる断層がないもんで、「直下型の地震はない、仮に直下型の地震が起きても、はるか100キロか200キロの沖あいに起きるのだ、だから、この辺がつぶれる心配はないんだ」と信じていました。地震保険にも入ってなかったんですよ。いやいや・・。
それから、いつか必ず津波が来るから、その映像を記録に残そうと思って、カメラとビデオはいつも充電してあったのです。なのに震災当日、地震があんまりでかかったから、カメラも、ビデオも、もって逃げるのを、すっかり忘却してしまったんですよ。
姪の方が商売やってたんだけど、それが今度の津波で行方不明になってしまっている。見つからないまま、こないだお葬式やって、迎えた新盆です。このお団子はね、昨日お墓に供えるのに作ったときに、家で食べるようにも多めに作ったものですよ。
姪の車から髪の毛がみつかったんだけど、髪の毛というのは、毛根がないとDNA鑑定ができないんだと聞きました。先っぽだけじゃ駄目らしいんですだよ。利府に200体だったか、身元がわかんない人がある、って言うんだけど、探しに行ってもDNA鑑定も何もできない。だけど姪は携帯電話を持ってるはずなんです。
さっきまで、お巡りさんが探しに来て、その辺りをかき回していたところへ、「骨ばっかりになっても、携帯電話持ってるかもしれないから、よく探してください」とお願いしておきました。
車に積んでたグランドゴルフの道具がね、唯一の持ち出した家財道具になってしまいましたね。それでも、カメラとビデオは忘れてきたんだけど、うちの家内は「非常用持ち出し」っていうのをまとめてあって、そのなかに通帳とキャッシュカード、いろいろな土地の権利書やなんかをリュックにいれてあったのを、土足で2階にあがって、持ち出しておいてくれたんです。なくても預金は下ろせたでしょうけど、面倒なことになっていたと思いますねえ。
結婚ですか? チリ地震の津波のときからかな、一緒になったのは。今年で50年くらい。妻は気仙沼の人ですよ。子どもは2人。子どもが生まれたのは結婚して3年後ですね。今は2人とも仙台。女の子だからみんな嫁にいっちゃってね。
娘は今は2人とも仙台の岩切に住んでいますけど、自宅が半壊っていう判定を受けたんですよ。それでも大したことなかったんです。私たちは歌津から避難して長女のところに行ったんですが、仙台のほうでも瓦礫で大騒ぎしていました。南三陸が被害を受けたと思っていたら、仙台のほうもやられたんだなぁ、とそのとき分かりました。それから、程近い2番目の娘のところに行ったんですが、そこの人たちの買い物ぶりみると、スーパーなんかもう、物がなくて、並ばなきゃ買えないようになっていました。自分たちが被害を受けたと思ってましたが、いずこもおんなじだなぁって思いましたね。
新聞記者が取材に来たときに、「仙台に避難したのにどうして歌津の家に帰って来たんですか?」と訊かれました。「娘たちのところでは、うちの家内と2人、なに不自由ない待遇を受けてきたんだけれど、ここ歌津には、仙台にはない、山と海があるからだ」と答えたんですよ。仙台から歌津に帰ってきてすぐに、ふき抜きに行きました。仙台にはふきも何もない。仙台には6月11日までいて、12日にここに帰って来たんです。
山へ行けばきのこ、海行ったら釣りね、それから海藻類ね。3歳から山にきのこ採りに行っていっていたんです。誰にも知らせない、ふたりっきりの秘密の場所がいっぱいあるわけですよ。ここでは、共有地、民有地関係なく、山で取れるものは所有権がない、とみなされるわけです。みんなのものですからね。今まで行って一回も咎められたことはありません。そのかわり、誰にも言わないで行くんですよ、秘密で行くんだから。しかも、山に入って誰かが来たら、顔も合わせないように避けて歩く。場所を知られたら大変ですしね。もちろん山のどこで何を採ってきたかなんて、話もしません。9月になるときのこ狩りが始まるんだね。
つい先日、津波で流される前の家の玄関にかけておいた、海で使う「てかげ」っていうのを、誰かが、田んぼの中から見つけて、ガードレールにかけておいてくれたのを見つけました。その場所は歌津駅のずっと裏で、「まさかこんな遠くまで流されてくるなんて」と思いましたね。
毎日、家がもとあった場所に帰ってきて、探し歩いているものがあるんですよ。国宝級の家宝をね。今日現在、ほとんど見つけてないわけです。
家のあったところで、流れないで残ったものはたった一つ、グラウンドゴルフのトロフィー。軽いものなのに、家の土台も何もないほどの津波に遭って、これがひとつ残っていたんですよ。
それから、何十年にも渡って、10キロぐらい歩いて、海水浴場から拾ってきた貝を集めてきて、それをペンダントに作ったり、磨いてぴかぴかにしたものを、何千個と持ってたんです。それが津波で流れて、家から200メートルぐらいのところに散らちらばってた。それを拾ってくれた人がいたんですよ。この貝が出る所は歌津で一か所しかないので、誰もそんなに大量に持っていないことから、うちにあった貝だと思った。いや、「これが俺の貝だ」って主張してるんじゃないですよ。うちにあったものは、この方向に流れてきたんではないかな、と推察したわけです。そうすると家の家宝もこのへんかな、と思って、重点的に歩いて探してるけれど、何一つ見つけてないんですね。
どうしてそんなに探しているのかというと、今年、家宝の個展をやろうかと思ってたんですよ。自分で撮った津波の写真とね、それから「釜神(かまがみ)様」ってあるでしょ。(台所の窯の)神様を土で作る風習があるんですよ。それと水石(すいせき)、その3つの宝物で個展をやろうと思ってたんです。
ところが百点用意してた写真も、もちろん釜神様も、その家宝の石も、今に至るまで一つも見つけてないわけです。写真は、ここに住み着いて以来60年撮りためたものです。とくに水石なんて、山菜採りに山に行くたびに探して、やっと見つけたものだったわけですよ。みんなにその話をしても、「石なんて」と言われますけれどね。国宝級。実物はお見せできないから、写真でもいいですか? これが国宝の(奥さまが横から「勝手にね(笑)」)石ですよ。もっとすごいのがあったんだけどね、写真がない。自然にできたとどう考えても思われないくらいなんですよね。流されてしまった家宝級の石は、まだ見つかってないですから。
水石二つと、釜神様の写真が、年賀状二つに残ってたのを娘が取っておいてくれたんだね。こないだ娘のところにいって、もらってきました。
釜神様を自分で作ったのが、7つあったんですが、10個になったら個展をやろうと思ってました。
この地方では、竈を作る時、火事にならないように、土でこういうのを作って、神様として飾ったんです。昔は百姓の家には、竈を造る所にはどこにでもあったものですよ。今だと、あそこの上品さん(道の駅「上品の郷」)などで、釜神様を売ってます。3~40個並べてありますが、相当高いものです。豊里の香林寺だったか、資料館(壊邑館、閉館中)に二十何体あったのですが、展示してあった小判を盗まれて以来、資料館を一般には見せなくなったんです。
今では新しい家を建てると、こういう炊事場になったから、釜神様をつくる人もなくなったので、自分の手で昔ながらの釜神様を作ってたんです。なんせ、粘土でつくるものですし、実物もなくなってきていますから。
玄関に置いたでっかい石がありますが、それは、丸森町のあぶくま荘へ車で行って、山へ入って拾ってきたものです。それを削って、磨いて、やすりをかけてピカピカにして、みんな台座をつけて、あと4つあったわけです。
一番大きいのは15.6キロありました。2階の角においたのがこれくらいの奴だからね。(津波で流されたとしても)遠くへ行かないはずだと思って、今でも探して歩いてるんですが、どこに飛んで行ったのか、まだ見つけることが出来ないんです。今朝は探しに行かなかったけどね。
北の家の土まで、みんな津波に持って行かれちゃったのに、漬物石は2つ、拾ってきてそこにあるんだけど、流れないで残っているなんて、不思議なもんだと思います。わかんないもんだね(笑)
平成2(1990)年、民話と伝説を訊いて歩いてね、本を作ったんです。ほとんど流されたんだけど、娘のところに行ったら、娘がひとつもっててくれたんです。それをもらって来ました。公民館に行ったら、私の本が濡れたまま1カ月も放っておかれたのがあったので、家に持って帰って洗い、乾燥させて、今ここにこうしてあります。これは歌津町が、南三陸町になる前に、みずから訊いて回った話を本にしたものです。巻頭に「わたくしたちの歌津町」ってあるでしょう。その文章の方も自分で書いて、写真の方も自分で撮ったんです。
それを仕上げてからは、何も書いていなかったので、もう一つ作ってみました。古いもので、天保12年に写本された「歌津敵討(うたつかたきうち)」が偶然に手に入り、これをものにしようって思いたったんです。貰い物のワープロを使って指一本で。2~3年かかって作りました。原文がこれです。(写真参照)「天保十二年これを写す」とは書かれているけど、誰が写したか作者は書かれていない。
ワ-プロで打ち直したものを「歌津敵討『孝子お筆重次郎』 写本・編集/高橋静男」としてまとめ、13冊自主製本して、町長、教育長、文化財保護委員長はじめ、みんなに配りました。だけど、津波のあと持ってないか訊いて回ったら、ほとんど流されてました。一人だけ、家に行ったらありました。「持ってねぇか」「持ってます」ってことで貸してくれ、コピーして返すからと言って借りてきました。
昔話を聞いて回ったのは、聴いてまとめておかないと、よその土地の人が来て、ここで話を聞いて自分の村の、町の物語にしてしまうと、よそへ散逸してしまうと思ったからですよ。だから、だいぶ盗まれてしまったものがあるんだけど、今まとめておけば、これが歌津の物語だよ、と主張出来ると思ってね。なんでこれを残そうと思ったか、ですか? なんせ歌津生まれの歌津育ちだからね。
歌津には、山に行けば山菜もあり、海に行けは釣りもできるし海藻もあります。でも去年から、なにせ海藻類は寒い時、2月が旬ですから、海に行かなくなりましたので、海藻類はみんなからもらったんですよ。
だからそれをしっかり乾燥させて、乾燥剤を入れて、売り物と同じように仕上げてね、新潟の友達や秋田の方々へあげるものを、一生懸命作っておいたんです。うちは頂いてばかりで、何もお返しがないですからね。
それから、家では、キウイが毎年5~600個、こんなにでっかいのができたんです。小さめのは家で食べて、大きめのものは贈りものにしようと、10個20個にリンゴを足して包みにして、頂き物のお返し用にして、段ボールや冷蔵庫に入れて置いてあったんです。孫にもやろうと思ったのが流されたのが、妻は今でも悔しいって言ってるんです。私は家宝を流されたのが、今でも忘れられないので、探しているんだけどね。
一昨日、木の化石をひとつ、部屋の中にもおけないようなものを拾って来たんです。素人が見てもそれとはわからないものですけど。
ここは化石の街で、「歌津魚竜化石」というのが出たところなんです。それを発見したグループを率いていたのが村田先生と言って、発掘当時、仙台の東北大助手でしたが、最後には助手から一躍、九州大学の教授になられました。私は一緒に発掘について行ったんです。何度もお世話になりました。しばらく発掘に関わっていて、先生が家の隣の旅館に泊まっていたので、いろいろお話を聴いたりしました。
ある時、駅を作っていたら、骨が出てきた。歌津の公民館長は「これは恐竜の化石だ」といいながら、袋に入れて持ってきたので、みんなで「これは何の骨だ?」教育課長が「カモシカの骨だ」、私は「道産子だ」と言い合って、とうとうわからず、東北大学に持って行って村田先生に鑑定を頼んだんです。そしたら、半年ぐらいたって、鑑定結果が出ました。その結果が「農耕馬」っでした。教育課長が「全員当たんなかったぞ」って手紙を寄こしたけれど、「待てよ、農耕馬と道産子って同じはずでねえのかな」って、私は今でも思ってますよ(笑)。
化石の調査は続いているかって?また別の場所でも新しく化石を見つけて、削って、中学校の隣の資料館にも何度か持って来たものです。それを「魚竜館」というものを海のそばに作って展示したい、というので、展示してありました。
ほかにも、皿貝化石と言って、エドモンド・ナウマン博士と言って、ナウマンゾウを発見した博士が歌津を通った時に皿貝化石群を発見して、世界の学会に発表したんですが、そこが県の指定場になってるわけです。
それに加えて、独自で、ここから1キロぐらいのとこの田や畑を探して、今度は木の化石を見つけてきたものですから、この町は、「魚竜化石」だけじゃなくって「化石の町」として宣伝しようと思って、化石の小さなものをビニール袋にいれてみんなにあげたりしたこともあります。
出典:宮城県HP「歌津館崎の魚竜化石産地及び魚竜化石」
町から頼まれて、文化財保護委員を20年、教育委員を10年、保護司を22年勤めましたよ。
文化財保護委員っていうのは、歌津の文化財の保護・調査活動をするんですよ。
田束山(たつがねさん:5月のツツジの美しさで有名な霊峰)に経塚遺跡というのがあってね、それを見つけてほっくり返したら、無断でやってしまったので、県からしこたま怒られてしまいました。多賀城の歴史資料館の館長が来て、掘ったものを、ガーゼに包んで持ちかえったあと、「お前たちは、無断発掘したけれど、重要なものを見つけた。功罪相半ばするから、不問に付す」というわけで告発されませんでした。
(注:この田束山経塚の発掘品は、仙台の多賀城の歴史資料館に展示されています。)
それからそこで見つけたガラクタを、うちに持って来ることができたので、家内と二人でセメダインでくっつけてみたんです。そしたらこんな壺になりました。(注:この三筋壷は経を収納していた容器と考えられている)
三筋壷
出典:南三陸町観光データベース
ある日新聞記者が来てね、自宅に保管してあった壺を見て、拾ったもの無断で持っていると「ネコババ、犯罪だよ」というので、急いで警察に届けました。警察では、「これは文化財に認定する」ということになり、戻されてきました。それで、魚竜館に津波で流されるまで飾ってあったんですよ。
発掘したものは文化財で国のものだっていう文化財保護法ができ、文化財保護委員っていうのが作られたわけです。文化財保護委員になって20年、委員長になって2年目に、今度は教育委員になったので、文化財保護員はやめることになりました。
保護司というのは、罪を犯したけれど、刑務所に入らず自宅で暮らす人、それから刑期満了前に釈放された受刑者に対して、1カ月に1回ずつお会いして更生してもらう仕事です。保護司になっていると、でっかい顔をしては歩けないんです。
例えば、私が誰かの家に出入りすると、「あそこの家は保護司が出入りしている」「何をやったんだ」と言われてしまう。ですから民生委員と違ってね、身分ははっきりとは公表できないのです。給料は貰っていなくても、準公務員の身分ですから、宗教に関わっちゃだめだとか、いろいろ制限がありました。だから、お蔭さんで、町内会の会長とか区長とかには、はっきり言って一度もなったことがないんです。
仙台の保護観察所から自分の担当の人を頼まれるんです。例えば、重大な交通事故を起こしたんだけど、刑務所には入らないとか、麻薬でどうとか、シンナー遊びをしたとかの子どもを頼まれます。そして、その人たちや子ども達に会ってお話を聞いて、ときどき仙台まで連れて行ったりします。
私の扱った案件は、たった一人を除いて、みんな真面目でした。5年間の観察期間にほとんど3年で卒業して、みんな再犯はないんですよ、私の手に負えなくて、よその保護司さんにお願いした一人を除いてはね。辞める時には、歌津の人はみんないい人ばっかりで、ほんとに保護司冥利に尽きたという話をしました。
歌津に居る人は、みんな侍の子孫だから、融通の利かないところもあるけれと、良い人間だと、いまでも思ってますよ!
頼朝に従って藤原征伐にきて、領地を貰って百姓しながら、「いざ鎌倉」に備えたっていう家の子孫ですからね。当時の有名な侍は、歌津十二人衆といって歌津一帯に勢力をもっていたんです。新しく領主になった伊達政宗によって、葛西矛の武将が集められて、だまし討ちをされ、全員討ち死にしたんです。その後、伊達藩の直轄になってたわけですよ。歌津って所はね。
伊里前は元禄6(1693)年に新しい町割りをしてできた町なんです。伊達政宗が領地を62万石もらって、新しく領地になった街道、道路を通して、馬で年貢を運ぶんです。
ところが、仙台の小野から陸前高田までの東浜街道にある、陸前高田、気仙沼、津谷、本吉(志津川)、その間があんまり長すぎて、息が持たないんです。駅があれば、馬に荷物を積んで行って、駅で降ろして、次の荷物を馬に積んで帰ってくることができる。
それで、元禄六年に許可をされて、新しく伊里前に駅ができました。だからここは自然にできた町じゃないんですよ。駅は、浜街道からちょっと離れた海岸に作られました。
駅を作る最低条件って言うのがあるそうで、たとえば品川宿だったら、馬が25頭、それを扱う者が25人、それにお客さんを泊める宿屋が3軒とか。ここには宿屋が何十軒作られて、津波前までは町外れに上町切(かみちょうぎり)、下町切(しもちょうぎり、町切=町の切れ目)っていうのを示す石碑が立ってました。
帆船時代は、駅のほとんどの人間が宿を営んだりする商人だったと思います。津谷から馬で来て伊里前で荷を積み替えて、という馬中心の伊里前駅ができたというわけです。仙台の殿様が泊まったり、伊能忠敬が泊まって調査やったり、そういう記録があるんですがね。
伊里前を守る人たちが、「ケエヤグ」っていうんだけど、「契約講(けいやくこう)」と言う相互補助の今で言う隣組を作りました。伊里前契約会は隣組の単位を「合」と呼び、8合まであります。それが今まで続いているわけ。「契約講」が明治前に「契約会」になって、今でも77戸が会員です。伊里前には全部で400戸以上ありますが、それ以上入会させないわけです。
というのは、膨大な山があって、何千万という財産があるけれど、会員が増えれば増えるほど、配当金を分けると分け前が少なくなりますからね。それで今までは、お祭りなど行事は全て、契約会主導でやってきたんですが、契約に入ってない人が増えてきたので、町民全部でお祭りをやろうと言うことになりました。
昔は全戸で相互補助ができていたんだけど、どんどん人が増えて行ったからね。伊里前以外の地区では契約会に全員入っているらしいです。例えば、ある自治会では会費など一切取らない。アワビやウニなど、保護地域では開口日以外採ってはいけないのですが、特別に漁をして、収穫物の売り上げで自治会の運営費を賄っているところもあるんですよ。伊里前は特別で、古い契約を保持しています。山もあるし、海もあるし、半農半漁の人が多いんですよ。
今度の災害でも、契約会の財産に山があるから、その山を提供して、昔のまま分散しないで、伊里前を再生したいという動きがあるわけですよ。仮設は2年たったら、どっかへ行かなきゃいけない。その前にね、土地を提供しておいて、造成して、元禄さながらに町割りをしてね、町を作って下さい、ということです。
そんなもの、どんどん進めていいはずなんです。そうでないとね、みんなが高台に行きたいって、てんでに勝手に行ったら町の形態も何もなくなってしまいます。町づくりをする必要がなくなってしまうんです。
ここにはもう、家は建てられないようですよ。今でも許可さえあれば家の権利はあるわけだから、建てたいし、千年に一度しかこんなでっかい津波は来ないと思いますよ。ちっちゃい津波は何度もくるけれど。6mの防潮堤なんかは、チリ地震の津波、あれに耐え抜くように造ったはずだったけれど、それが今度の津波でどこへ行ったか無くなってしまって、防潮堤を作る予定も何も無いようです。
本音を言えば、高台から下に降りて、昔の町並みみたいになるんだったら、そこに行って、町づくりをやってみたいですね。ただ、歌津はまだいいんですよ、志津川なんてあんな広大なところに一軒も家を建てるな、なんていったら、とんでもない話ですよ。代わりの場所がどこにも無いですからね。
伊里前の場合は、この近辺にも契約の山とかそういう共有地がいっぱいあるんですよ。だから、造成費用を国に出してもらえば、来年と言わず造成地は出ると思いますよ。そうでないと対応が遅くなればなるほど、(伊里前を離れたまま)帰ってくる人がいなくなりますから。
元禄時代に町割りをした当時には、ここには50戸ばかりあったと言いますが、津波前は400戸あったらしい。それがこのまま放っておいたら、200戸ぐらいしかなくなってしまうと言います。だから元禄時代みたいな町づくりをしたかったら、早急に場所を決めて欲しいと思います。
早く復興したいですね。今いる、ここは校庭だからね。吉野沢とか居住地であれば、居座ってもおっ立てられないけども、校庭にいつまでも居られるわけがないですから。2年後、どいてくれって言われたら、どこか新しい何処か見つけて家を造るにしても、夫婦二人きりだから、でっかい家を建てたってだれも後に入る人がいないんだから、まあ、せいぜい仮設ぐらいでいいんですよ。できればね、町営住宅とか、悪くて町営アパートとか、町長になんとか造ってもらわないと、行くとこないんだわ、あと、あの世とか(笑)。希望はそれです。新しい土地を準備してもらって、2年後にそこに移れるようにしてもらいたいです。
それから、家宝を見つけることだ!
(談)
この本は、2011年8月15日、
高橋静男さんが歌津中学校仮設住宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
河本真吾
清水万由子
吉野大地
佐藤結生
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年1月31日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net