東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

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自分史

縦の糸はあなた、横の糸は私
──夫婦の自分史
千葉貞雄さん・きちよさん[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]


まえがき

今から始まるお話は、第2次世界大戦前に歌津の伊里前に生まれ、その後も伊里前で郵便局員として勤めながら、町の人々の生活を支えてきた千葉貞雄さんと奥様のきちよさんの物語です。

勤勉実直なお人柄はもちろんですが、奥様との出会いと結婚のお話は、とてもロマンチックです。夫婦としての長い時間を経て、今なお奥様をいたわりご主人を立てる夫唱婦随のお姿からインタビューの若い学生たちも多くを学んだことでしょう。

言葉のやりとりそのままの方が、お2人の仲の良さが感じられると思いましたので、今回は、できるだけ手を加えずに編集しました。そして、千葉さんご夫婦の姿に、人と人がお互いに仕えあう「幸せ」を感じていただけると思います。

長時間にわたって貴重なお話をお聞かせくださった千葉さんに、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

末永いお2人のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同

震災前の歌津・伊里前湾 旧歌津町ホームページより

産めよ増やせよ

生まれは、昭和4(1929)年4月20日、83歳です。生まれはここ、伊里前。兄弟は7人で、私は次男坊。あの頃は「産めよ増やせよ」という戦時下の政府の方針で、どこも子どもが多かったです。兄弟は、男が6人で一番末が昭和20年生まれの妹です。名は「末子(すえこ)」です。昔は、「とめこ」だの「まつこ」だの、もうこれ以上子どもは作らないというときは、止める名前をつけました。
昭和15年頃というと、私たちが小学校5・6年です。その頃は、どこの家も小さい子がいるので、学校へ子どもを連れて行きました。家の人たちは仕事をしなくちゃならないけど、子守りがいない、大きい子どもたちは学校へ行かなければならない・・。だから、学校へつれてきて子守りしながら勉強をしていました。そういう時代です。

きちよさん 子どもが多い家は、仕事が忙しいときは、子どもを背負ってサツマイモの蒸かしたのをおやつに持って、そして学校へ行くの。それで、先生たちは認めているから、怒られたりはしないの。

子どもは、憎いひとはいないんだ。みんなかわいい。小さい頃は小さいなりに、みんなかわいがられるものです。年が上になってくると、ちゃんと仕事しないと親に怒られます。子どもだからといって、あんまり遊んでいられる時代ではなかったんだね。
私は、学校が近かったから、家の直ぐ裏で、2~30歩で行けたから、子守りをしながら学校へ行くことはありませんでした。兄弟で早く帰ったものが子守りをする。学校を帰ったら子守りをするということになっていました。昔話だね。
親父は、山に行って仕事をしていました。営林署って、農林事務所に勤めていました。通いで山の木の管理をする仕事です。一番高い山を全部1人で管理していて、毎日朝早く山へ行きました。夏には、山の刈り払いに人を頼んで、その監督をして・・。その仕事が戦争中から戦後まで続きました。

きちよさん 松とか杉とか、そういうのをおじいちゃんは1人でしていたね。

お袋は、留守番でした。百姓も兼ねていたから、子守りしながら畑仕事をすることもありましたが、たいていは家にいてお裁縫をしていました。手習い、和裁だね。お袋は上手だったから、頼まれて縫い物して賃金をもらって、結構忙しかったと思います。

きちよさん 御姑さんは、横山のお寺で育てられたのね。だから、仏壇とかご先祖様のことはいつもちゃんとしていました。この人も、神様だの、仏様を粗末にしない人です。
昔は子どもが大勢だから、お寺だのに姉っ子(ねえや)に出されたの。お寺で相当躾けられて、そこでお裁縫を習ってきてたから、私が来た頃も縫っていましたよ。

結局、お寺は今で言えばホームステイだね。孤児を預かって育てたり、流れてきた人を食べさせたり・・。お袋が預けられたお寺は横山の有名なお不動さんの大徳寺(日本三不動のひとつ)。天然記念物のウグイで今でも有名です。

三陸津波

昭和8(1933)年、私が4歳のとき、三陸津波にあいました。その時、今の伊里前小がある場所まで避難しました。当時は、下に学校があったけれども、上にも校舎はありました。上校舎といいました。私の家の裏が旧校舎、その並びに中校舎、坂の上が上校舎です。当時も地震のときは上校舎が避難場所になっていました。4歳だから、地震があったのも、津波が来るということも、わからなかったです。ただ、兄と上へ来て避難して、外で焚き火をしていたのを覚えています。「どこそれまで、今、波が来たぞ!」という大人の声が耳に残っています。夜は家に帰ったのかどうかも覚えていませんが、夜起こされて学校のところにおしっこをした時、学校の校庭で焚き火をしていた兵隊さんがいました。後日、もう一部隊、小隊が災害の復旧のために来たというのは、後から聞きました。
伊里前は、明治の津波のときも、割に被害が少ないところなんです。明治のときは海岸は浸かったと聞きましたが、海のほうはどうだったとか、色々聞く話しはあっても、伊里前は被害が少なかったようです。住みやすいところだったのだと思います。

明治三陸地震

昭和三陸地震の新聞

水汲みの手伝いと当時の水事情

学校から帰ると、子守りはもちろんだが、水汲みというのも大事な仕事でした。みんなで手助けして働いた時代なんだね。
夕方になると、大きな樽に水を汲みます。そして次の日まで丸一日その水を使って茶碗を洗ったりします。水は川から汲んだり、堀井戸からつるべで汲んだり・・。大きな甕に2つくらい汲みます。
今は、上水道が発達して水道の蛇口をひねれば水が出る、トイレでも何でも水です。
今でも上水道のない山奥は、同じようにしていると思うけれど、沢水を汲んだり、井戸から汲んだり、川から汲んだりして使って、それで病気になるとか雑菌が入ってるとか言う人はいなかったね。米を研いでる人の10メートル先でオムツを洗う人がいたりね。火事になれば、その水を汲んでかけたり、川は大切な生活用水路でした。

きちよさん 本当に不思議だよね。今は、「手を洗え」「なに洗え」って大騒ぎするけれど、自分にとっては米を洗ったりするからきれいに使っていても、上の人たちが何を流しているかは、わからないでしょ。それでも、ご飯炊いて食べても、おつゆを作って飲んでも誰もおなかを壊さない。本当に誰もおなかが痛いって言わないし、救急車が来ることもないんだから、不思議だね(笑)

水といえば、この町は元禄6(1693)年、300年前にできました。これは私の想像ですが、伊達家の時代に大事業みたいに埋め立てて作ったのではないかと思います。その時町を作ったのが約30戸。それからここは宿場町で、馬を休ませる場所、馬の水飲み場でした。当時は交通が馬なので、馬に水を飲ませられる場所が必要でした。ここは水には恵まれていて、山も近いし、川もあるから、自家水を掘っても水量が多くてなんぼでも出ました。屋根から降った水を溜めるとか、堀井戸が冬にはたまらなくなるとか、そういう部落では、水が貴重品でしたね。

きちよさん 今でも町から上水道が来ていても自家水は自家水で飲んでみると全然違うんだよ。味がいいからね。今度の津波で、みんななくなってしまったけどねぇ。

昭和初期の台所と水がめ個人のホームページより転載

戦中の小学校生活

昭和12年に支那事変で、支那とのいくさが始まって、20年までだいたい8年間、戦争、戦争でした。お父さんたちも兵隊に連れていかれると、留守番は年寄りと女の人ばかりになるので、私たち小学生が、5年生、6年生が、そういう家に学校からお手伝いにいくようになりました。
田んぼの稲刈りとか、種まきとか、下準備の奉仕です。17年くらいから始まって、私の学校時代は勤労奉仕が多かったです。

私は学校が近かったけれど、みんなは家から学校まで4キロ7キロあるのも普通で、夜明けになったら歩いてくる。子どもたちだけで自転車もなく、全部歩きです。みんな、通ったんです。そういう遠くから歩いてくる子たちは運動会とか徒競走とか速かったです。鍛えているから足が丈夫でマラソンとか・・。自然と足が鍛えられて、体も丈夫だったんですね。

当時は、雨の日も風の日も、特別な着るものなんてないのが普通でした。被るものも、着るものもない。合羽や傘があるなんて、何人もいなかったです。雨降った時は、上に掛ける毛布を被って来たりして、学校に着くと濡れていてかわいそうでした。その点私は近かったので、雨の日は学校まで裸足で走って行きました。雨が小降りになると「ほんで、走ろう!」って、走りました。廊下へ入って、足は雨にあてて洗って、そのまま教室に入るような、そんな風でした。

昭和16(1941)年に大東亜戦争、太平洋戦争が始まると、尋常高等小学校がなくなって国民学校になりました。小学校は6年。その上に高等1年と2年がありました。ここまでが義務教育です。

それよりも前に、6年生や、早い女の子には4年生で辞めていく子もありました。そして、姉っ子したり、出された時代です。私が卒業したのは昭和19(1944)年です。

食糧難の思い出

私の子ども時代は、食糧難だから、食べ物がないとき。今食べている梨もない。畑へ行って大根を盗んで食う・・そんなのが遊びだった時代です。大根は生もなにも、なんでも生で食べたね。

きちよさん それは、本当だよ。私は貞雄さんより5つ違うけども、私たちもそういう経験はみんなしてるよ。盗んだ大根は急いで食べるから、そこらへんの川で洗ってきて自分の前掛けで拭いて、大根の皮は、口先でとって、そして食べたの。辛くてのどが渇くんだね。

サツマイモを食べてるのは良い方。大根の葉っぱだの、そこらにある草っぱ、葉っぱがあるものを採ってきて食べたり、今の人たちは食べれないだろうね。肉もないから、山にいるウサギを捕って食べたりね。

学校で昭和17(1942)年位かな、今の中学1年生のときです。ウサギ追いの手伝いをしたことがあります。山でね。何人かいる猟師のお父さんが山向こうで待っているから、生徒みんなで声だして、「おおおおお~ほ~ほ~」って地面を叩いて、木の棒なんか持って、叩きながら追い出して、山すそから追いっこしました。今の鹿撃ちと同じです。3匹くらい獲ったかな。学校でいただいてウサギ汁にして食べさせてもらった思い出があります。ウサギと一緒に雉も出て、そういうのを猟師の人たちに撃ってもらって、学校でもらって、学校行事で食べたことがあります。山には、今でもタヌキやキツネ、ウサギ、ハクビシンなんかは、いると思います。
栄養失調だな。田とか畑とかあれば少しはマシと言うくらい。お米が一握りあったら、後は大根の葉っぱとかそこらにあるものを入れて、雑炊にして食べました。ご飯は少しで、後は芋だのなんだの雑穀だな、そういうのを入れて食べた。それは皆です。浜の方でも、どこでも。

きちよさん 雑炊っていうのは、今だと肉鍋とかした時に、汁っこがのこるでしょ? そこにご飯を入れて食べるとおいしいでしょ? そういう雑炊でなくて、鍋だのって、どこの家でもできなかったけども、大きな鍋を炉に掛けて、色々あるものを煮て食べたの。何でも食べるの。

ガスなんか無い時代だからね。炉辺で焚き火でやったんだ。薪を焚いているので、煙でまなこをやられて「めちゃ(結膜炎)」が多かったです。「めちゃ」っていうのは、目やにが出たり、まなこがクチャクチャってなることです。煙でいぶされるから目が開いていられない。それでも、寒いときは煙に当たってもいいから火のそばにいて暖をとろうとすると、目をやられたんだね。昭和24〜5年くらいまではそんな風でした。
ガスは今から40年くらい前かな。焚き火はずっと続いているけれど・・。

郵便局に就職

小学校を昭和19(1944)年に卒業して、その頃人手がいなかったので、郵便局に就職しました。上手くいったんだと思います。45年間勤めました。
当時は、人がいなくて、皆兵隊や軍需工場へ行って、東京だとか仙台だとか、皆引っ張られていきました。学校終わるのを待ってて、直ぐ工場へ働きに行くような時代でした。私は高校へ行かなかったので、まだ16歳です。徴兵にもかからないので、お手伝い仕事から始めて、そのままずっとです。試験はありませんでした。いわゆる顔ですね。私の兄は軍需工場で横浜へ働きに出ました。で、兄から「空襲も激しくなってきているから東京へ行くのはやめろ」と言われて、東京の民間工場へ行くことになっていたのをやめて、そうこうするうちに、郵便局から兵隊へいく人がいるから、空きができるから助けてくれと、それで入りました。
私の頃は、高校へは優秀というより、金持ちの家の子が行きました。召集にもとられないしね。気仙沼の高校へ行くのは組で1人か2人です。他は行っても志津川の高校。後は、高等2年が終われば就職、仕事でした。

戦争が終わってからは、とにかく食わなければならない。物価は上がる、金はあっても物は無いと言う時代だったので、私のような給料取りは大変でした。船に乗ってもらえる金は、じゃんじゃん値が上がりました。私が100円給料のとき、船乗りは一晩で1000円くらい取ってくるとか・・。私が月に3000円のとき、サンマ漁に1回行って3万円です。北洋とかソ連の鮭を獲る船だと、1軒の家から3人が1回行くだけで家が建ったような時代です。それくらい取れる。バカでもかまわない。とにかく船さえ乗れば、一人前。みんな中学終われば直ぐ船に行きました。義務教育なんて、勉強なんてどうでも良いという、そういう時代です。今大体50代から60代の人は、中学を終わったら海へ行って船に乗りました。その頃は船も多かった。船に乗れば、戸倉小浜みたいに立派な家が建った時代です。
歌津には、役場と農協と漁業会とか、官公庁の勤め口はそれくらいしかなかった。銀行は戦後しばらくしてからです。だから、皆、海へ行くか、会社や工場のある東京や仙台へ行くか・・そんな風でした。

この辺りは、高校へ進学しないことで有名でした。皆が高校へ進むようになったのは、ここ30年くらいです。高校は出ていないと将来ダメだとなって、父兄が教育に熱心になって、学校を休ませないようになって、ようやくです。
一番の理由は、船に乗れなくなったからです。船の数も減り、人が制限されてね。今日本人1人に1万円払うなら、外国の人を千円で雇いますね。乗る船がなくなって、北洋には行かれない、トロールもダメだ・・。こうなると、今となっては頭を使ったほうがいいと後悔している人もいると思います。それでも当時は、食べなければならないし、一航海、二航海行ってくれば、自分には別に勘定をとっても(自分自身が使う分は別にしても)家が建つ時代でしたから、唐桑御殿なんて有名ですね。

きちよさん 1回行ってくれば、行った後、家が建つんだもんね。

局はずっと歌津郵便局です。局舎は独立していて10人くらいでした。仕事は、最初は配達で、勤めてすぐは歩きで配達しました。朝早く出て、足が棒になって、くたくたになっても、若いから一晩寝て朝になれば治って起きられました。着るものも無くて、当時も制服はありましたが、予算もなく、物も無いので回ってこなかったんだと思います。マント合羽という私物を着て配達すると、濡れるんです。寒くてしょうがないので、そうなると後はスト(ストライキ)をしました(笑)。今、そんなことをしたら免職ですね。まあ、濡れないような掛け襟とかを自分で用意して、支給されるのを待っていないで、自分で作ってやりました。だから、大目に見てもらえたと思います。

その頃は、人員も無くて、女の人も配達するような時代でしたが、一方で、配達に行くと「それは、あの山のかげだから、置いていけ」とか「届けてやっから、重いから置いていけ」とか手伝ってもらえることもありました。
その後自転車が配給になって、2台3台と増えて、自転車のパンクは自分で直しました。で、段々バイクになって、最初のバイクはタイヤに鋲(びょう)がついてないから雪道で転んだこともあります。バイクも最後は鋲付のタイヤになりました。
配達以外にも2~3年で教えたり、替わったり、郵便やったり貯金やったり、外回りだったり、絶えずグルグル回っていました。仕事は、全部把握していました。ずっと勤めて仕事内容も歌津の町も人も知っているので、割と気ままにできたと思います。誠実にやることが大事で、通信の秘密を守るとか、そういうところをきちんとしていると、見返りもあったし、頼んだり頼まれたりでお互い近しくなって、利点もあったと思います。信頼関係だね。信用が大事な仕事でした。

勤めた当時は、電報の配達も仕事でした。まだ三公社五現業の前の逓信省(ていしんしょう)の時代です。電報は夜に多いので、宿直もありました。電話の取次ぎも仕事でした。呼び出しなんてまだ無い時代です。「どこそれさ行って、電話かけるように頼んでけろ」なんて電話がかかってくると、それを知らせに行くとか、サービスですね。戦時中、私が勤めた頃は、電話も役場と漁業協同組合と農業課の3つしかありませんでした。
空襲警報もまず郵便局に知らせが来て、それから役場へ知らせて、サイレンを鳴らす。まずは志津川の郵便局へ連絡が来て、そこから枝葉に分かれたんだね。
電話も段々増えてくると、一度に数が重なると、シャッターが下りて、警察と役場の電話しか使えなくなるとか、そんなこともありました。後は、電話が混んで通じないので、「特急」とか「急報」とか「普通」とか料金が違うんです。早く電話をかけたければ料金を高く出して「特急」、そうすると「普通」の人より先になる。そういう時代でした。

逓信省のチラシ

電話の向こうに君がいた

結婚は、27歳のときです。

きちよさん 自分は27でしょ。私は21でしょ。志津川からきました。

こっちも郵便局に勤めていたので、良く電話でしゃべっているうちに・・。お互い顔も見ないで、電話でしゃべっていて、そうこうするうちに、押しかけてきました。顔、いかったなぁと思って。

きちよさん その「押しかけてきた」っていうの、この人たち書いていくんだよ(笑)。

局は違いました。12〜3キロ離れている局でした。電話の交換手だったんです。電話を申し込む時に、やりとりしているうちに段々とおしゃべりして、顔は知らないので「まなこがついてっぺかなぁ」とか思っていました。

きちよさん なんとなくなったのね。この人の彼女の電話をつないだこともありますよ。その彼女、今度の津波で亡くなられたそうです。

2人で会ったときは映画を観ました。どんな映画なのかは忘れてしまいました。気仙沼へ1時間くらいかけてバスで行って「映画さ観に行くべ」って、5〜6人くらい友だちと行きました。行くときはバスで行って、帰りは2時間歩いて帰ってきました。2〜3時間歩くのは普通でした。遊びに行くのに、歩いて、車は無い時代だからね。

きちよさん 恋愛といっても、今のように結婚する前に家に連れて行くようなことはなくて、しょっちゅう映画を観ました。仕事の後にご飯を食べて、それから見に行ったり。初めて観た映画は・・、あれ~忘れちゃったねぇ。あの頃は、会わないで親に決められてしまって結婚する人も多かったの。お振る舞いの日に「どの人がお婿さんだろう?」なんて、お嫁さんが言うようなこともあったね。恋愛で一緒になれるのはいい方。後はみんなお見合い。結婚式に大勢男のお客さんも来るから、どの人がお婿さんかわからないの。そんな結婚が多い時代だったのね。

出会ってから、大して経たないうちに親父が病気になってね。その頃は一緒になろうとかそこまで考えてなかったです。それが、親父が死ぬ時に、「27だろう。そろそろ一緒になってもいいんでないか」と結婚を勧められたので、それならそっちの女の人ではなくて、この人と結婚したいと直談判しました。そういう時だったので、親父が目を下ろしている(亡くなる)ときだから、結婚式はしていません。どうってことないですよ。結婚式しなくても、こうして結婚して、順調にきました。親父は60歳で亡くなりました。その時はもう兄はいないし、弟がいたので、弟3人、面倒を見なければならないので遊んでる暇もなかったです。

きちよさん 結婚した時は、弟が3人いて、おじいさんは病院に入院していて、おばあさんが病院へ行っておじいさんの看病をしなければならないから、隣に住んでる親類のおじさんが「おめ、姉っ子あったらば連れてきてお支度させろ」って。それで、私がそのまま来て、私が12月の16日に来て28日におじいさんが亡くなって、その時私は数えで22歳。いまなら旅館や仕出し屋を使うけど、その頃はどこでも家でしたから、ここさ来て、12日しか経っていないんだよね。それでも、一生懸命やって誉められたんだよね。そういうところでの経験はなかったけども、なんとなく自然とそうできたんだね。ちゃんと1人でクルクルクルクルと仕事ができたんだよね。

力を合わせて働いて・・

うちも、ここらにも畑があったのに、だんだん無くなってしまいました。家族が病気をすると、昔は保険なんて無いから、結局土地を売って薬価代にして払いました。ずいぶん売りました。大きな畑も持っていたんですが・・。親父の病気のときです。その前にも手放したものもありますが、病人が出ると財産をなくしたんです。

きちよさん 病気したら貧乏になるの。銭こ払うのに、銭こないから、屋敷を売ったり、山を売ったりしてね。

財産をなくすといえば、病人が出るほかには、会社を作ってつぶれて借金を抱えたり、博打につぎ込んだり、賭け、とばくだね。後は、保証人だ。保証人になって、返すことになって潰れた人がいっぱいいるんだ。「保証人にはなるな」これは今も言われるだろ? 
結婚した頃も、まだ物の無い時代だから、食べるものには苦労しました。畑をやっていれば野菜は少しはマシだったけれども、肉類、肉なんかほとんどない。買いたくてもお金も無い。売るところもない。だから、雉だとかヤギだとか狸だとか、近くのものを殺して食べていた時代です。
一度、豚をもらったことがあります。もう勤めていたときです。結婚もしていました。友だちの家のおばあさんが亡くなったときに、ちょうどその家で飼っていた豚が死んで、病気だったのかな? おばあさんが亡くなった時だから、肉は食べられないからといって、うちがもらいました。こういう寒いときで、ものすごく寒かったので、1日吊るして凍らせて、2階から吊るした豚を見て、一番小さい弟は怖がりました。冷蔵庫もない時代だから、逆さに吊るして凍らせて、そうして食べました。貴重な蛋白質です。肉を食べられるだけで恵まれていました。

きちよさん この人の舎弟(しゃで:弟のこと)なんか、豚が吊る下がってるからおっがながって逃げてたよ。夜の間乾かして乾いたら皮をはいで豚鍋こさえて、みんなして兄弟寄って食べたんだ。
結婚した頃は、私も局へいきながら御姑さんと弟たちと暮らして、子ども生まれてからは局を辞めて、ちょっとした店っこをやりました。雑貨物を売る店です。主に食料品、子ども相手の駄菓子が多かったけれど、日用品も売りました。何でも屋だね。氷砂糖や佃煮っこも売りました。今テレビでやっているような、昔のことをテレビでやっているけれど、そんなもんじゃないよ。御姑さんといっしょなら嫁さんは昼寝なんてしないよ。
ここに来て、ほんとに貧乏だったから一生懸命になって稼いだよ。「あの家においでって言われても、何もない」って、いっぱい言われたから、「ようしっ、見てろ!」と、私だってなんぼだって稼げばなんとかなるからやってみろ!!と思って、悔しい思いは自分の胸の内にしまってね。自分だって働けばなんとかなると思ったよ。本当に裸だったけど、すっかり裸になってしまったけど、他人からは絶対に借りるまいと思って用意して、働いて・・。意地が強かったんだね。

努力だ、努力したんだね。
店では、食品が多かったね。子ども相手の商品が多かったと思います。大人だと「まけろ」とかサービスだのあるが、子どもならそんなことは言わないね。かわりに、店を離れていると盗まれちゃうこともありました。
とにかく、食べなければならないし、食べさせなければならないから、私の給料だけでは足りないから、補いにアルバイト、そういう方式でしのいだわけです。

きちよさん 朝は、ヤクルト配達もしました。28年9カ月やりました。ヤクルトはへいきちさん(弟)が東京へ行ってからだから、昭和30年代です。朝4時半に起きて、歩いて配りました。市内だけ歩いて100何件。その頃はビンだったので帰りも重くてね。今みたいに電気がついていないから、暗いところを歩くのは気持ち悪くて、誰か男衆が来るとそこは早足で歩いたり、他を先に回って後からもう一度行ったりしました。「あんたがやってるからとってやるね」って言ってくれるお客さんもありました。旅館へも行って働きました。働ける限り働いたっちゃ。

努力しなきゃなんだよな。
弟は、今茅ヶ崎に行っているのが、明治大学まで行って、アルバイトしてやっていたんだけど、3年で自分で仕事を見つけて急遽やめました。今、茅ヶ崎の役をやっているので、地震の後は直ぐに救援物資なんか持って来ました。

きちよさん 一番先に長靴を持ってきたね。

お袋は、昭和61年に83歳で亡くなりました。親父より30年くらい長く生きました。
私は、定年まで郵便局で働きました。その頃にはオートバイです。配達も外回りもしました。勤め上げた年金のおかげで今の生活ができています。

子どもの頃からアワビの開口日には、子どもも海に行って捕りました。半農半漁です。漁業組合に入っている組合員でないと捕ることはできません。アワビは当時も良い値段になりました。家内はベテランで、アワビを一山ずつ持ってきて貝から剥いて、身は取って、わたのほうをバケツに入れてもらってきました。私も開口日には時間休をとったり年休をとったりして漁に行きました。たくさん捕れたら組合に出して、その分は利得になります。家で食べることもできます。買って食べるよりは自分で釣って食べるほうが、せっかく権利を持っていますからね。
漁師にならないで勤めをしながら、遊びの時間に釣りに行く。そのうち船を持って、船でアワビ捕りや釣りに行きました。行って捕る。副業というより遊びです。本漁師ではないから、余計なことはできませんでした。ワカメ養殖を少しやったことがありますが、1日ついてやる仕事はやりませんでした。
漁へ出るために半休や年休を取るのは、休みをやりくりしたり、代わりに出てもらったりしました。アワビの開口なら1時間あれば帰ってこられる。捕ってくれば、後は女房に預けて、また勤めに戻りました。

郵便では配達のほかに、外回りで貯金や保険の仕事もしました。お金のことなので、家に上がりこんで勧誘するわけなので、大事なのは顔です。信用が一番です。窓口に座っても、やはり田舎だから直ぐ顔なじみです。仕事柄、色々な噂も耳に入ります。世話をして欲しいとか頼まれ事も多かったけれど、名前はわかっても、信用を害すると困るので余り深入りはしないように気をつけました。

郵便局が一番忙しい年末年始は、寝ないで働きました。
大晦日まで働いて、大晦日の12時過ぎたら配ってしまって、元旦は一応官の命令だから局長が8時半に出勤して、挨拶して、それで終わり。暮れにでて、配ってしまったんだね。自分も早く休みたいからね。

きちよさん 年越しなんて、お父さんと一緒に食べたのは50年一緒に暮らすうちで3回くらいしかないんだよ。

制服も来るようになって、2年に1回支給されました。だから、上手に着れば1着で間に合う。そういう風にして残して、たんすに入れてとってありました。記念にとってあったのもあります。それもみんな、今度の津波で流されてしまいました。

<逓信博物館 ていぱーくのサイトに、制服の移り変わり ~郵便を配達する人~ が美しい図版とともに紹介されています>

勤めているときは、私は8時におきてご飯食べて出勤。
寝坊したら、まず出勤してはんこを押してから、帰ってきてご飯を食べました(笑)

きちよさん できたんだね、そういうことは、もとはね、できたんだよ。今はやかましくなったからできないよ。

私が終わる頃になって、60歳以上の人たちの入る10年保険ができました。年配者対象の保険です。話がしやすいし、顔もわかっているから、「死んだときに役に立つから、入ったほうが良いよ」って勧誘もしました。年金もらうようになったら、10年かけておくと良いからって勧めて、1回だけ掛けて亡くなった人もあります。保険金をもらえた人は多かったと思います。直ぐに亡くなると、病気を持っていたのかな? と疑うこともあったけれど、まぁ、保険金をもらえて良かったなぁと、当時で100万円もらえました。今なら500万円くらいでしょう、役に立ったと思います。

きちよさん 「おかげさまで」って「入れてもらってたから」って「掛けんのやめようかなとおもったけんど、お父さんから勧められて入ってて、助かった」って、「きもちだから・・」って持ってくる人もいたんだよ。だけど、仕事のためにするんだからって受け取らなかった。

私は、そういうお礼は、もらわずに返しました。信頼関係だからね。
案外わからなかったのは、学校の先生だね。子ども相手は良くても、本当の社会の勉強ができてないから、社会の人と付き合うのが下手な人が多かったね。先生って言うのは範囲が狭くて、もらうのが当たり前って言う人が多かったですね。

きちよさん 生活費だ、給料だ、この人は袋のまま持ってかえって、封を切らずにそのまま私に預けてくれました。信用してくれたんだと思います。この人、財布なんて持ったことないんです。使ってくるときは、行って勘定なんぼかするって覚えて帰ってきて、どこそれで飲んだからなって言われて、私が払いに行きました。

2人で遊ばず真面目に働いて、お金ためて家の修繕をして、それの繰り返しです。震災前の住所は、伊里前80番地。明治29年以降に建てられた家に改造、改造して住んでいました。

きちよさん 私が来てからでも10回はやったね。

勤めているうちに借金して、お金を借りて、家の修理も、あそこの土地も買いました。退職したら建てましょう、というのは止めたほうがいい。退職して、退職金で建てましょうと思ってもね、何もなくなってしまうだろう? 勤めているうちにお金を借りている分を払い終われば、退職した時にずっと残るわけだ。私はそうしてやってきました。楽しみがなくなってしまうからね。月賦で払っていれば、給料から引かれていれば、これしか給料をもらわないんだと思って生活できる。余分があっても何か余計に買って終わりだから、遊びごとでない大事なことはお金を借りて若いうちにやったほうがいいと私は思います。人それぞれに考えはあるけれど、私はそうしてやってきて、退職金で九州へ旅行に行ったり、少し遊んだりできています。

子どもは3人で、上が男の子、下2人が女の子。みんな結婚して別々に暮らしています。孫もできました。

きちよさん 子どもの細かい年なんて忘れてしまうね。稼がなくっちゃならないもの。こうやって座って中にいて暮らしたことなんてないものね。一時もじっとしていられないくらい働いたよ。

震災前の歌津郵便局

3.11震災

震災当日の2時46分、家内は家に居ました。私は裏にいて、そこの空き地、公民館のところにいました。最初はゆるゆると、長く続いて、横揺れでした。家を見てて、倒れないかなと・・。自分は立っていられませんでした。車に寄りかかっていたけれど、ズルズルとしゃがみこんでしまって、家からは50メートルくらい離れているので、少し弱くなってから歩いて家に戻りました。とにかく長く、長く続きました。
家はつぶれずにすみましたが、家の中が、棚から物が落ちたりしていたので、それを片付け始めると、津波警報が出ました。それから直ぐに大津波警報に変わって、とにかく避難しようとなり、家内が体調を崩しているので「車で送るか?」と聞いたら、歩いていくというので、家内を先に家から出して、私はもう一度家の中を見てから、トラックでここまで(小学校)避難しました。トラックに長靴とか防寒着とか積んで、もう少しいろいろ積んでも良かったんだけど、やっぱり人気がなくなってくると気持ちの悪いもので、とりあえず気のついたものを積んで逃げました。揺れが強いから、上へ上がって、ここの上で海を見ていました。
見ていると、沖のほうから波が、白波が高くなってきて、見ているうちにここも危ないから、「もっと上へ上がれ」って、お互いに声を掛け合って、みんなで中学へ上がりました。その時は車を置いて。ここに20〜30台あったと思います。私は近くに停めてあったので車で上がりました。

きちよさん 私、とにかく避難するとなって、後ろを向かずにとにかく30分くらいかかって上ってきて、みんなと、ここもダメだからもっと上がろうって。自分は足が悪いから静かにみんなについて歩いていったら、ちょうど向かいの家のお母さんに声をかけてもらって「家に入りなさい」って。その晩はそこでお世話になったの。毛布も2枚も3枚もかけてもらえたから、助かりました。

最初に、防波堤と防波堤の間から波が入ってきました。一番先に流された家は、その波に流されたんだと思います。その最初に流された立派な家が、この直ぐ下で壊れました。その後は、家のほうが心配で、そちらを見ていました。まるで将棋倒しみたいに、海から波がどおってきて、どす黒い色でした。段々段々家が流されて、自分の家が流れるのを見て、後は見ていません。津波は何回も来たんだけれど、私は1回を見ただけです。自分の家が「わ、流れたな」って。家が、1軒の家の屋根がこの小学校の校庭まで流されて上がったと聞きました。
普通引き潮があるんだけれども、引き潮がなかった。沖のほうから壁みたいに水が来ました。2回目は大きかったと聞いていますが、段々暗くなって寒くなってきたので、みんな中に入りました。

きちよさん こんだ、夜になったら雪が降ってきたものね。雪が降り出したときは、布の薄い靴を履いてきてしまったから「困ったなぁ」と思っていました。でも、この人がトラックに長靴を積んできてくれたの。息子家族も無事で、中学校の奥の家にお世話になっていました。その晩は中学校では下に敷くものもないし、毛布も1枚で、寒かったと思うよ。

それから、家内を訊ねました。この辺りは自分の庭と同じで、どこに誰の家があるとかは良く知っているので、探しやすかったです。大分暗くなって、別な家へ避難していることがわかったので安心して、その後は雪が降ってきて、寒かったです。私は逃げるときに防寒着を持ってきていたので助かりました。その晩は、みんなバラバラと避難所に泊まりました。中学へ泊まった人もあるし、私たちは家へ泊めてもらいました。
山に私の小屋があるので、そこに薪やら炭やら置いてあったのを持ってきて、2〜3箇所の人の集まる場所にも配りました。
その夜は焚き火をして、明け方の3時くらいまで焚き火の番をして過ごしました。立っていられないくらい強い余震が何回もあって、眠れなかったです。結局、人が寄って、色々話しながら、「誰が見えない」とか「誰がいない」とかそういう話でした。

きちよさん 凄かったね。私立っていられなかったもの。私たちは、すがってたよ。
山の小屋は、畑仕事の道具だの入れてありました。この人は、炭だのなんだの入れるようにちゃんと作っていて、もし津波でどこもかしこも無くなってしまったら、そこでろうそくつけて暮らすべっちゃって、話していたのね。そうは言っても、まさか家まで流されると思わないものね。

ここは、1軒残らず流れました。明治以降、昔からの家は全部です。お寺まで流されました。チリ地震のときは道路が濡れて床下くらいでした。前も話したとおり、この辺りはあんがい被害の少ない場所だったんです。明治のときも伊里前の人は2人くらいしか亡くなっていません。伊里前と言うところは、三陸町でも中心地でした。方々から用足しにやってきて、買い物をして帰っていく。年寄りはここでお酒飲んで帰る人もあるし、お菓子食べていったり、集合の場所でもあったんだと思います。

朝になって、もう火にくべなくなったので、避難所にいて、朝早く戻ってみたら、ここ(小学校)まで打ちあがってました。そして、下を見たら、何もない。伊里前の町が本当に何も残っていませんでした。4キロくらい海までずっと瓦礫ばかりがずっとです。
警報がどうなったとか、連絡も何もありませんでした。電話が来るわけでもない、ラジオもない、テレビもなかったです。家の茅ヶ崎にいる弟が、ラジオで尋ね人で貞雄さんのところを呼んでいるよと人づてに聞いても、連絡のしてみようがなかった。5日目にようやく災害電話が通じて、一言二言声を聞いて話すことができました。
津波の後、弟と甥っ子が避難物資を届けに、2〜3回来ていたみたいだけれど、会ったのは一度です。
後は、仙台の娘が1週間くらいで迎えに来てくれました。家内は娘の所へ、息子家族は嫁さんが気仙沼の本吉が実家なので、そこへ行くことになって、それぞれの避難生活をいったりきたりしました。

きちよさん 娘が来たら直ぐに仙台へ行かせようと言う話になっても、油がなくて来られないの。瓦礫もあって来られないって。1週間して迎えに来ました。そして後仙台へ行って、その後鳴子温泉へ行きました。

家の孫は、震災の時、病院で働いていました。患者さんを助けようと思って、若いから全身ずぶ濡れになって、そして大分人を助けたらしいと聞きました。介護の仕事をしているんです。

きちよさん 志津川病院の4階で、みんなを上げたり運んだらしいの。自分の着物、すっかりだらだらになってね。一番大きい孫です。4階まで水が上がってたって言うから、4階から5階へ上げたりするから、すっかり濡れてしまってね。後から父親に電話で連絡ついてから、服を届けたって。震えてる孫を見て、看護婦さんが赤いけどもカーディガンを脱いで貸してくれたって。
私は、孫はダメだろうと思ったの。隣の役場の人たちも30人も亡くなっているからね。そのうちに息子が大丈夫だって教えてくれて、その後は仙台へ行ってしまったから私も教えられてないの。
したけど、ずいぶん患者さんたちに誉めてもらってね。体格がいいから、ずいぶんがんばって、「助けてもらった」って聞いてます。自分の体も考えずにみんなを助けてぇって一生懸命になったっていうから、良かったなぁと思います。

私も、息子はなんとか上手く様子を見れば大丈夫だろうと思っていたけれど、孫はダメだったなと思いました。孫とはまだ、そこまでゆっくり話してないからわからないけれど、カーディガンの話も後から聞きました。
下の孫は、自動車の教習所で地震にあって、佐沼の自動車教習所です。そこで泊めてもらって、次の日に帰ってきたようです。嫁さんの実家の本吉、大山へ教習所から帰っているので、下の孫とはまだ会っていないんです。

グランドゴルフ

私は辞めてから、最近だけれど、グランドゴルフをやっています。トロフィーなんかも大分もらっていましたが、津波で無くなりました。先日ももらったので、飾るものは流せば終わりだからと言って他の人にあげてきました。旅行しても、記念に買ってきてもね、大金をかけたけれど並べるだけで、流してしまいました。どこも同じでしょうけれども・・。
グランドゴルフは、震災後もやっています。南三陸志津川倶楽部に所属しています。今年は11月の14日で打ち止めにしました。大会は今年は2回、例年なら年に10回くらい大会があります。本当なら、今年は県大会で優勝していたので四国に行く予定だったんですが、行けませんでした。県大会は個人です。
グランドゴルフは、国体はありませんが、ねんりんピック(高齢者を中心とするスポーツ、文化、健康と福祉の総合的な 祭典である全国健康福祉祭の愛称)という全国大会があります。それには2度ほど出場しました。全国の大会では、ホールインワンが出ないと優勝は難しいです。私は、勝負事には余り関心がないんですが、「千葉さん、おたく、うまいですね。700人中28位ですよ」といわれたことがあります。
家内も一緒に7年ほどやっていたんですが、体調を崩して、足を悪くしたので、今はやっていません。

きちよさん直伝、夫婦円満のおしえ

きちよさん 嫁いだらね、その家の女の人、御姑さんと実家のお嫁さんとは仲良くしなさい。その人たちと仲良くしていたら、兄弟たちも気持ち良く泊まりに来れるからね。これが一番大事。家のお父さんの兄弟たちは、私が嫌な顔をしなかったからみんな年に3回も4回も泊まりにきたよ。自分の兄弟よりも、旦那様の兄弟に勤めればいいの。そうすれば、旦那さんだって、自分のほうを良くしてもらったらうれしいでしょ? 自分の兄弟も大事だけれど、やっぱり旦那さんの方をすると、旦那さんが喜ぶから。そうしていると、家にきた兄弟が直接は言わなくても、「ああ、兄さんのところへ行くと、姉さんがこうだよ」とね。私だって、兄弟のところへは50年間味噌も何も全部送ってきました。津波で終わりになったけれど、それまでは50年ずっとね。味噌は、豆も畑で取って、煮てぶって、味噌にして、兄弟みんなに送ったんだよ。伊里前の人はみんな作っていたね。

家々の味があるからね。やっぱり自家用が美味しく食べられるね。

きちよさん 夫婦喧嘩はね、しないの。損だから。なにを語られても私には勝てねっちゃ。けんかする分損だから黙っているの。そうしたらあきらめるでしょう? 男の人の稼ぎだけで生活できるなんていうのは特別なことで、たいていは自分も働いてね、雑仕事だけど雑仕事でお金を取るっていうのは大変なんだよ。この人は、お金をちゃんと預けてくれた。息子が生まれた時、孫が男の子だった時、「船に乗せたら家が建つね」なんて言われることもあるけども、時代が違ってきて、船乗りになるかならないかはわからないんだよって言ったの。銭こはもらってからの話で、もらわないうちは無いのと同じ。私たちは、自分たちの考えで動かなかったから、何もないの。だから、本当に寝ないで働いたようなもんだよ。
夜遅くまで働いて、朝は配達しなくちゃなんないから、暗いうちに起きて、昼間は店を見て、私がいても「おばあさん」っていうのがあって、私が何か頼まれ仕事で家を空けるときは「おばあさん」頼んで、留守番してもらいました。おばあさんとも御姑さんともけんかしたよ。家族でさえけんかするんだから、兄弟でもさ。けんかするけども、直ぐに仲直りするんだ。直ぐと言葉をかけるの。それで、自分もかけられたら返事するの。
だから、たとえば、お父さんになんぼ怒られたって、返事しないわけにはいかないっちゃ。だから、あきらめるから、仲が良く見えるんだ。
歌津のオバサンが言ってたなぁって自分胸の中にしまっておくっちゃ。
私さえ耐えたら丸くいくんだなと思ったら、もう後は言わないんだ。お父さんの兄弟たちは幸せだと思うよ。だから、おかげさまで今度の津波でも、みんなして「姉ちゃん、姉ちゃん」って持ってきてくれる。自分たちの心に、姉ちゃんにしてもらったって思いがあるんだよね。みんな、何か買ったり持ってきてくれたりしてるよ。
自分が結婚してけんかするとき、伊里前のおばちゃんが語っていたなぁって思い出してみなさい。自分の胸さえ入れて耐えればね。けんかしても、3日もたたないでまた声かけんのさ。そうすれば相手も嫌な顔しないでね、「おらのかかぁ、参ったな」ってね。
きちよさん この人も遊ぶっていうことをしないから、勤めてても、この人に3万でも5万でも小遣いをやったことはないの。飲んできても、次の日私が払いに行くでしょ。だから、小遣いっていうのを勤めているときに私は1回も渡したことがないの。この人は私のことを信用してくれたのね。そして、私もこの人に信用してもらったから、この人も遊んで歩いたわけではないから、やりくりは1人でしたの。商売をしていたとき積み金するわけ、1日に100円とか50円とかって。それで貯まると家の普請をしたの。修理して、そういうの10回もやったの。あるところのおばちゃんが「おめえのところ、また貯まったから普請するのか?」って聞くから「そうだよ」ってね。
銀行に貯まるでしょ、で、現金で払うから、借りることないから、借りないでやってきたよ。今度息子たちに身上を渡したけれど、1銭も余計なのは渡さないけれど、借金も一切ありませんからって、私は借金だらけで財布をもらってしまったからね。それでも、来てしまったら、帰るわけにはいかないでしょ。親に苦労かけるからね。親だってさ、娘がそうやって戻ってきてもどうにもならないっていうことがわかっているからね。
嫁に来て、実家に泊まったのは一晩だよ。親が死んだとき一晩。「死んだ人が生きて帰ってくるわけでないから、帰ってきなさい」って。「はい」って。来た限りは、一緒になったからには、別れるってことを考えてはダメ。離婚するって言われても、ようしないって言ったもんね。離婚するったってさ、私なんかされないんだもの。なにも能がないから、稼ぐだけが能だからさ、だからこの人にすがっているしかねぇっちゃ(笑)。

これから

またもとの場所に家は建てられないので、土地は別なところを見たりしています。建てる段取りはするんだけれども、建てるまでこの世にいるのかな。
仮設住宅にはいって、2年の内に建てて移れというわけなんだけれど、そんなお金がどこから出るんだ? 100万200万で建てれるようなものじゃない、最低でも1000万円はかかるでしょう? なんぼがんばっても、なんぼ食わずに貯めても今から私たちには貯められないよね。だから、2年で出る人はいくらもいないと思います。
同じところに古くいると気兼ねもしなくてお付き合いするようになるでしょう。元々の隣近所はどこにいるのか、今はわからないです。だから結局疎遠になってしまうのかな。少し時間はかかるだろうけれども、ここで慣れて近しくなるんだと思います。
最近、大分やったりとったりして近しくなってきました。みかん持ってきたり、おにぎり持って来てくれたり、ここは田舎だから、もらえば返す。これも忙しいんだよ(笑)

きちよさん 隣もらいをしても、いい人がここに来てくれたから、おすそ分けとかできて良かったよ。私たちも2人だから、余計にあっても粗末にしてしまうからね。食べて美味しかったら半分おすそ分けだね。

山から持ってきてそこらにかまわずに置いておくと、片付けてくれって怒られるから、ジャガイモだのたまねぎだのみんなやるんだ。今度はかぼちゃ。食べてみて美味しかったら隣にやるとか、忙しいね。(談)

9月のメンバーと一緒に

12月のメンバーと一緒に

この本は、2011年9月6日、
千葉貞雄さんが伊里前小学校仮設住宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。

[取材・写真]
2011年9月6日

刈田唯可
深大基
伊藤祥子
櫻野沙紀

2011年12月17日

織笠英二
久村美穂
横山佳代子
河相ともみ

[年表]
河相ともみ
織笠英二

[文・編集]
河相ともみ

[発行日]
2012年2月18日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net

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Information

投稿日:2012.09.28
カテゴリー:自分史.

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