東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

自分史

波は咆えているか
山口道孝さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]

はじめに

生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の歌と聞き、
千里(せんり)寄せくる海の気(き)を
吸(す)いてわらべとなりにけり。

高く鼻つくいその香(か)に
不断(ふだん)の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。

丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底
遊びなれたる庭広し。

浪にただよう氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ恐れんや。
海まき上(あ)ぐるたつまきも

起(おこ)らば起れ驚(おどろ)かじ。

(「我は海の子」より)

この詞を読んだ時、これこそ山口さんのことではないかと思いました。波の音を子守唄に、穏やかに眠る日もあれば、時化(しけ)の日に荒波を乗り越えることもある船乗りの暮らしは、それを経験したことのないものには分からない魅力とそれに伴う危険に満ちています。そして、海の男は乗り越えた波の分だけ、強い。それが山口さんの自分史から伝わってくるはずです。

この本を、海に人生の多くを捧げた山口道孝さんとそれを支えたご家族の皆さんに贈ります。二度にわたり、貴重なお話を丁寧に聞かせてくださった道孝さんに厚く御礼申し上げます。

2012年6月吉日

RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同

01

私が子どもだった頃

私は昭和32(1957)年10月28日、伊里前に生まれました。姉と妹が2人います。
実家は農家でした。父は農業の傍ら、海産物の行商をしていました。自分で獲るのでなく、仕入れて売るんです。農業の手伝いをさせられたこともあったけど、興味がなかったし、自分から進んではやらなかったな。

海が目の前にあるから、小さい時から海にはよく入っていて、ウニやアワビを獲ってました。
子どもの頃の遊びは、田んぼで野球やったり、昔はこの辺も寒かったから、田んぼに氷が張ったところでスケートしたり。

中学では体育の時間が2時間あると、冬は田んぼでスケート、春になれば山菜採りです。秋だってキノコ採りとかね。それだけのんびりしてたんだよね、うん。その頃の同級生とは、同窓会は40歳の時に1回やったくらいだけど、仮設住宅に結構いるみたいで、逆に今のほうがよく会うね。
中学では野球部に入ってました。震災後、息子がグローブとボール持ってきたんだけれども、息子はバシッとくるボールを投げるけど、私はゆるいボールしか投げられなかったですね。

私たちの頃はみんな男子は坊主が当たり前だったんですよ。野球部だろうが何部だろうが、関係なしで、全員坊主ですよ。
私が中学校に入った頃が、ジャージが出回り始めたときだったと思います。それまでは白いトレーニングズボンだったもの。今はジャージがポピュラーだけども、昔は町に行っても売ってなかったから、わざわざ遠くまで出かけて買ったんです。でもデザインが今みたいに華やかじゃなかった。草緑の上下1色で何もラインの入ってない、ファスナーもついてない、農作業するおばちゃんが着るような服だなと思いましたね。

海員学校からオイルタンカーの船乗りへ

私は中学校まではここ南三陸町に住んでいたんだけども、中学校を卒業してすぐに静岡の海員学校(国立清水海員学校、現在の国立海上技術短期大学校)に進学しました。私は1年のコース。そこで調理師免許を取りました。16歳でした。

それから、東京の大手商船会社S汽船に入社して、そこで約6年勤務しました。その間に、船が大体長さ300メートル位あるような、いわゆるオイルタンカーっていう、ペルシャ湾から世界各国へと油を運んだ船に乗っていました。その時行かなかったのは、北米ぐらいですね。あとは大体、行きましたから。

世界をめぐるオイルタンカーの生活

一番印象に残ってる場所は、カナダです。5月にカナダに行ったら5月の末なのに大雪が降ってきたことがありました。原油を荷揚げするのに、防寒着を着てやるんですよ、その防寒着も、よく冷蔵庫で使うような分厚い防寒着。それを着てから水揚げするんです。寒いからです。
それから、夏場のペルシャ湾なんかに行くと、あのもう陽炎が出るんですよね。風がなくて気温が50度ぐらいになるんです。あの近辺は上陸できないんですよ。ブイがあってそこに船をつけ、海底からパイプを引き上げて繋ぐ。だから海の中に停泊する格好になります。食料はモーターボートやヘリコプターで持ってきてもらうんです。ペルシャ湾には上陸できるところもあるんですけど、やっぱイラン・イラク行ったってしょうがない(政治的に不安定なため停泊が危険)。かえって、ドバイとかああいうとこだったらいいんですが。

私の乗船していた船は、三国間航路って言って、日本に帰ってこない方が多かった路線でした。ペルシャ湾を基点として、ヨーロッパ方面、地中海に原油を持って行くんです。だから行き帰りは飛行機に乗って、現地で乗組員が交代するんです。船に乗ってて一番いいのは、そうやって海外に結構行けちゃうところでしたね。港、港に女? 誰もいないよ(笑)。自分で、飛行機でフランスに行って、マルセイユに1週間いたなんてこともありました。

01

資源エネルギー庁「石油輸送に関する現状について」より
赤=マレーシア・シンガポール海峡経由のタンカー通常ルート。緑=超大型タンカー及び迂回ルート

そこで一番びっくりしたのは、乗務員の交代でモスクワの空港に行った時のことです。あの頃はロシアもまだソヴィエトで共産圏だから、各ゲートや便所、あらゆる場所で自動小銃構えた兵隊が立ってるわけだ。もうそれが一番気味悪いね。それとすぐ後ろに軍用機が見えてるし、停まってる飛行機を見ると、旅客機は北朝鮮の旅客機だし、なんかちょっとおかしな気分だったね。お土産買っても、日本円で1円の果てまでキッチリ集められますから。例えばこちらが何か買っても、向こうはお釣りが5円でも寄越さないけども、取るものは1円単位で取ります。そう、向こうが損しないようにってことです。昭和55(1980)年頃のことでした。だから、オイルショック以後だね。

船の中での主な仕事ってのは、その当時はコックの見習い。あとは、士官の部屋掃除とか、そういう世話だね。もう、船長さんの部屋はすごいんだ。オフィスなんか30畳くらいあんだから。その他に自分の寛ぐ場所があって、寝室、それからバス・トイレでしょう。寝室のベッドなんか、船長さん以外に誰も来ない、1人で寝るのにキングサイズですから。

乗船しているのは、その当時は全員合わせて、全員日本人で30人位です。うちの会社は全員男性だけども、会社によっては女子もいることがあるね。ああいう船はね、港出るのには自力では出れないの。タグボートで港を出してもらってうんですね。

04

大型船を誘導するタグボート
(C)Idemitsu Kosan Co.,Ltd
タグボートの解かりやすい説明が出光タンカー(株)ホームページなどにあります。

タグボートは、小さいながらも馬力が大きく、小回りがきく。その性能を活かし、小回りのあまりきかない大型船が安全に離着岸できるようにロープで牽引したり、船先で押すなどして誘導・補助を行う。

乗船しているときは、大体全部が嫌だった。情報がその当時は入んないわけよ。だから、下船してみると流行してる歌も違ってるしさ。「あ、この歌いいな」って思っていても、「何言ってんの。半年前の歌だよ」って言われてしまう。そんな感じで、時代遅れになるっていう思いがありましたね。だったら日本にちょくちょく帰れるかというとそうでもなく、どうしても長く乗船するようになっちゃうんだよね。若けりゃ若いだけ収入が低いから、多くの収入を得るためには長く乗らないとだめなの。

やっぱり6年後には下船して、陸上の仕事に切り替えたんだけども、陸上の仕事に切り替えたら、同じ調理関係でも、もっと給料が安いんだよね。で、そのうち交通事故で入院して、退院した後にその会社も辞めることになりました。

マグロ漁船へ

じゃあ、だったらマグロ船に乗ろうかと思いたって、それに5年ぐらい乗ったかな。船の仕事に戻ったのは、やっぱり慣れた仕事のほうがいいということです。何も考えず、なすべき仕事だけやってればいいんだもん。勤めてたら毎日仕事しても、まあ日曜日くらいしか休めないわけですよね。船乗りはまとめて休めるから。休める時は、1か月とか2か月とか長いですし、その間にも給料だって入ってくるし、それ考えたらこちらのほうがいいんですよ。

一番遠いところでは、ニュージーランドとかオーストラリアとか、あっちの方行ったね。マグロって言っても種類があるわけです。例えば、一番この辺でポピュラーなマグロは「ビンチョウマグロ」「キハダマグロ」「メバチマグロ」なのね。マグロ船としては、違う種類のマグロ、「ミナミマグロ」を獲りに行かないと。そのほうが高いの。「クロマグロ」の次ぐらいに高いわけ。だからニュージーランドまで行くわけです。

まぐろの種類は、イシハラフードHPなどに詳しい図説があります

そこで働いていたのは3年位かな。あとはもう結構船の大きさを小さくして、なるべく早く家に帰ってこれるような船を選んでいました。船が小さいということは、積み荷が少ないということです。積荷をいっぱいにしないと帰ってこられませんからね。たとえば大きな船、魚艙(ぎょそう)に300トン詰まりますよっていうような船の魚艙見てから行ったら、がっかりしますよ。「うわー、これを今からいっぱいにするんだ・・」って。(魚艙が大きい分だけ)うちになかなか帰れないっていうことですからね。

正直、マグロには飽きています(笑)。贅沢? だって毎日食事に出るんですから。マグロの状態を見るのに尻尾切った時点で、「ああ、脂が乗ってる」とわかると、「じゃあ、下ろして食べよう」ってことになるんです。私らは公務員だから獲った魚を家には持って帰れないんです。だから、食べて帰る。マグロの解体ショーとかやれって言われてもできるね。

マグロ1日10トンも釣ってみなさい。すごいですよ。もう、マグロ、マグロ、マグロ。全部血を抜いて、内臓をキレイに取り除いて製品にしなきゃなんない。そうして業者に出しても「あ、頭がない。これはいらない」と言われてしまう。なくてもいいようなもんだけども、そうじゃないわけ。築地に行ってみるとわかるけども、きれいな形になっていることが大事なんです。1日10トン、11回で120トンも獲ってみなさいよ。寝る暇なんかなくたって、もう最高だね。早く船が1杯になれば、それだけ早く帰れるじゃないですか。今はダメだけど、昔は船に積める漁がたった1日で獲れちゃう時もあったよ!(笑)

船員ピラミッドの頂点、船頭

うちの船長さんは時化の時は「海の方が安全だから船を沖に出すよ」って、もう台風みたいな時も船を沖に出すわけです。そうすると、船首を、波の来る方と風の来る方に向けるわけですよ。船首が下向くと、東京スカイツリーみたいな波が来るわけよ。ダ・ダ・ダ・ダーンって。見上げるどころじゃないんです。
船の重さが何万トンあっても同じです。常に風の来る方、波の方向に船首を立てて、スピードを普通大体15~6は出るんだけども、常に半分くらい、5ノット位に抑えて。これ、横に波食らったら、45度以上傾いたら船は終わりだからね。

船頭さんてのは、マグロ獲る延縄のコースを決める人です。何時から何時まで操業して、最初に昼間に網を上げる分は船速何ノットで「深縄」にしてとか、夜は「浅縄」にしてとか、采配を振るう人。これができる人が魚獲れるわけです。マグロ船というのは情報戦なんです。船頭さんが、漁船のピラミッドの頂点、会社と同じ、会社のトップと同じなんですよ。船長さんより偉いんだよ。これは普通の商船だったら、船長さんが1番偉いけども、漁船の場合は船頭さん。

漁師は「獲ってなんぼ」の世界だから。マグロの場合は、マグロ追いかけては、どこでも行くもの。船を修理すると言って、リスボン(ポルトガル)に寄港したり。うまくいけば地中海の黒マグロなんか、1年で十何億もの売り上げになるんですよ。15歳の、乗組員の中で1番のペーペーで年収2000万にもなるんですよ。だけども、仕事覚えないと、それだけもらえない。だから、魚が釣れる所に連れて行ってくれる船頭さまってのは神様です。船頭さんは年収5000万くらいあるわけ。10億円相当の水揚げを上げんだよ。その人の腕次第。釣れる所に連れてってくれる人が1番上の人。

紛争地域に近い海域では、大きなエンジンを積んで、船型もスマートにして、いつでも逃げられるような船型にしてあるんです。操業してて何か来たときは、漁業を捨てても全力で逃げるんです。スクリューも大口径の可変ピッチってやつを積んでましたね。我々乗ってた頃はハイスクリューって丸こい形のものでした。今なんか二重反転プロペラっていう、プロペラが2つついてそれが互いに逆回転するんで、潮を巻き込まないでスムーズにいくというものです。今のスクリューは刀みたいな形だけど、それも角度が切り替わるわけです。車と同じように進歩しているんですよ。

教育実習船の仕事に就く

昭和の終わり、昭和63(1988)年、私が31歳、妻が23歳のときに結婚しました。妹の同級生で、紹介されて知り合いました。結婚して20年くらいになりますね。私に惚れたんじゃなくて、仕事に惚れたんじゃないですか。この人なら食いっぱぐれがないって(笑)。

その時から今の仕事だね。宮城県に2つある水産高校の生徒を教育実習船で、漁業実習とか体験航海とかに連れてく仕事をしてますね。

でも先生っていうわけじゃないんです。生徒数は、大分少なくなってきたけども、大体生徒は本科生と専攻科生合わせて40人ぐらい。うん。専攻科生は、船を動かす免状(図表)、最低限2級か3級は取れるように訓練します。そうすれば、ある程度の大きい船を自分で動かせるようになります。本科生は、カリキュラムの中にちゃんと、乗船実習っていう項目があるんですよ。

船舶免許の種類

08

年に3回の航海に出ます。60日間の航海が年2回。45日間の航海が1回で、そのほかに1か月ほどの短い内航っていうのがあるんですよ。アメリカに行くビザを東京のアメリカ大使館まで取りに行くのに、船に乗って行くんです。豊洲に行って、生徒にビザを取らせて、あとは観光をさせて帰って来るんです。行って帰ってきて4~5日かかります。夏の凪のいい時に、突然、船っていうのはこういうもんですと教えるために函館に行ったこともあります。予告なし、要はだまし討ち。そんな感じですね。余談ですが、日本人は給料が高いので、なかなか外航船に乗れないんです。船長、機関士長、通信長としてなら可能ですが、フィリピン人とか、インドネシア人とかが多い。だけども、今は大学出なくても、自分で外航船に乗れるような、一級航海士とか一級機関士とかの免許取得を目指す子がいるから、なかなか捨てたもんじゃないな。免状いらないのは自衛隊。防衛大学出た子は、最初から自衛隊に行きます。海上保安庁や、そういう船関係は、給料をもらいながら勉強して一級まで取っていく、そういう感じなんです。

私は本科生の実習に一緒に行くっていうような感じですね。1航海60日ですね。大体長い航海が年3回で、寄港地がハワイのホノルルで、そこで4泊5日ぐらい滞在します。いいですよね。そこで1年に1回は国際交流会をやります。国際交流会では、移民の歴史や英会話を学びますね。ハワイにはだから、50回以上行ったかなと思います。何度も訪問するうちに、大分変わりましたよ、ハワイも。ダウンタウンだった場所は取り壊されてきてんだよね。新しいビルが建って、船が入る場所がショッピング街になったり。そんな感じになって変わってきて。僕らはあんまり車は使わないようにして、できる限り歩いて見て回るようにしてます。どこで何が安いとかを知っていますし。ハワイだとバスが通ってるから。今だと運賃は2ドルぐらいかな?毎回行くたびに値上げされていくけども。通(つう)になったとか、そんなこともないけども、自分が行く居酒屋も、なんか失敗しながらでも、何でも、自分たちで探しますよ。

沿岸部には各県の水産高校1校ずつに、そういう船があるんですよ。たとえば青森県なら「青森丸」、静岡県なら「焼津丸」、岩手県だと「リアス丸」、福島県だと「福島丸」などの名前があるんです。宮城は「宮城丸」。そのまんまです。

04

震災で気仙沼港に帰港出来ずに塩釜に入港した宮城丸
出典:「ドラッグサポートの風景」

掲載許可取得中

今は船は、お金がかかることさえ気にしなければ、インマルサット(海上の安全を確保するため静止衛星を利用して、海事用途の音声通話とデータ通信サービスを提供するために設立された)が、ちょっと高いけども、いつでも使えるんです。メールもできますし。ただ瞬時には行かないんだよ。瞬時にやったら高くなるから、2時間なら2時間分、サーバーに貯めておいて、その時だけ回線を使ってまとめてどんと送るわけ。写真は容量が大きくて通信費がかさむから、受け取らない方がいいですけどもね。

私が乗る船は650トンで、長さが55メートル、幅は30メートルもありません。大きいと思いますか? いやいや、タンカーや商船から見たら小さいほうなんですよ。乗組員は全員個室が与えられます。生徒は4人部屋です。生徒の個室は、女子も乗船する時代にはよろしくないですね。女子は先生の隣の部屋で、人数も少ないので2人部屋などになることもあります。目の前が風呂、トイレ、洗面所が設置されています。定員が68名。船内のほとんどが居住区っていうような感じですよね。教育のための船ですから、マグロ延縄(はえなわ)の漁もしますが、大体40トンくらいしか積めません。

私は教科を受け持っているのではなく、調理を教えるんです。生徒に調理の手伝いをさせます。基本的に座学は、1航海に1回の講話くらいですかね。自分はこのような生い立ちで、こういう仕事もあるんですけど、皆さんどうですかって、職業紹介のようなことをします。そして、調理の手順や、掃除から何から一切の作業を手伝ってもらいます。

航海実習の一番最初の目的は、船酔いの克服でしょうね。船酔いは克服できます。気持ちの持ちようですよ。私自身は、船が大きすぎて、最初は船酔いなんかしなかったんです。でも、貨物船に移った時、ロサンゼルス沖付近は揺れが激しくて、効いたね。貨物船は自動車運搬船で、軽いんですよ。車を2000台積もうが3000台積もうが、軽いんです。軽いから、船の足が安定しない。その状態で行って、24時間揺られるから、酔っちゃうんですよ。だからもう、そん時はもう仕事終わったらおとなしく寝てると。

学校の船もかなり揺れます。ローリングを止める装置はついていて、船の揺れに合わせて燃料の位置がバランスを取るように動くんですが、あまり意味はないね。

沖縄の実習は、マグロも獲れるけど、私らは太平洋のど真ん中で港に寄って、生徒にダイビング実習や、観光をさせて帰ってくるんです。寄港する場所が変わるだけで、実習することは同じです。

実習で獲ってくる魚は、港で水揚げします。その大体8割ぐらいが宮城県の収入、残りの2割ぐらいが乗組員の奨励金になります。

獲った魚の尻尾を切ってみると、脂乗ってるかどうか判るので、試食します。見た目にできるだけ大きい、美味しそうな脂のいっぱい乗ってるのを選んで食べますね(笑)。だって、せっかく行くんだもの、生徒だって食べたいですよね。そのままでは食べられないんです。さっきまで生きてきたマグロは身が固いから、だから冷凍庫で超低温で4日ぐらいおいておかないと食べられない。4枚に下ろして冷凍紙にくるんで氷に浸けといて4日位置いておく。生のマグロの場合、氷漬けで1週間は、色が良く、赤身が黒くなることもなく、大丈夫なんです。冷やしてさえおけばいい。そういうマグロ知ってると、お店で買うマグロなんか食べれないですね。どんなマグロも新鮮じゃなく見える。

マグロを捌くのなんて、大体船に乗ってる乗組員はみんなできますよ。私が調理するキッチンに来るときはサクの状態で来ます。甲板のデッキ作業してる人はそういう解体ができ、それを大体2日にいっぺんくらいずつ行います。もちろん、キッチンでは洋食、和食、中華、何でも作ります。他の普通のおかずのほかにマグロも付くということです。

実習中に釣る魚は、カジキ類もあるし、「雑もの」と言って鰆(さわら)や、マンタイという金魚のような魚などを少し使うほかは、海に帰しますね。油坊主(あぶらぼうず)と言って、うまいんですが、体に悪い魚がいます。不飽和脂肪酸がいっぱいだから薄く切って焼いたやつを1切れくらいならいいけれど、2枚も食べたらもうお尻から流れて、自然と気づかないうちにもお尻が汚れてる、というものです。それから、今はもうサメは掛かっても、ワイヤーから切って外して海に帰してしまいます。

9.11の影響で、交代で「テロ対策当直」といって、24時間交代で見張るのです。不審者がいないか見回りをします。だからもう一般の人は乗船禁止ですよ。たとえば、今は、ハワイでAPECがあるので、ハワイには行きません。何があってもおかしくないような危険な時期だからです。

実習航海洋上で津波を知る

私は感じていたけど、この震災前の海はおかしかったんですよね。夏の海だったけど、白波も立たない状態だったの。そんなのもうありえないわけですよ。全然船も揺れないし、風も吹かなかったし、「なんかおかしいな」って言ったのさ。

1月の20日に出港したんだけども、その時点で、すでに海がおかしかった。それで、ジョンストン島(=アメリカ領、下記の地図参照)ってハワイの東側の漁場についたらば、いつも貿易風って風が吹いてるのに、波が良くて、それがあまり吹いてなかったんですよね。

05

代わりに、海鳥がうるさかったの。海鳥が、船に50羽ぐらい、白いのから黒いのから、今までにない程、ついたんです。

そして、海の中はシャチがうるさかったわけ。マグロ延縄で打っていくと、マグロが釣り針に食いつくのを、後ろからシャチが食ってしまうんです。シャチってのは利口だから釣り針にはかかんないから、針のとこだけ残してマグロをみんな食べてしまうんです。

マグロの延縄を海に入れることを投縄(とうなわ)って言いますが、その後、2~3時間縄を海中に流しとくんだけども、もうその時点でシャチが海面に浮いてるんだもの。その時は「あー今日もダメだな」と思いました。マグロが食いついても、ほぼその8割ぐらいをシャチに食われてしまうんです。本当は水揚げは1日、相場で大体100万ぐらいなきゃなんないんだけども、そんなに獲れないです。1キロ800円として、1日約1~1.2トンぐらい獲んないといけない。でも、入れた延縄は上げて(揚縄(あげなわ)という)しまわないといけないから、辛いですよ。

マグロ延縄漁船の一日
マグロ延縄漁船の一日は、明け方近くに船尾から縄を海中に投げ入れる投縄から始まります。
投縄は、無線で位置を知らせるラジオブイや浮玉を幹縄に付けつつ、枝縄にイカ、アジ、サバ等の餌を付け、海中に投入します。
4~5時間かかる投縄作業を終え、マグロがかかるまで2~3時間待機(縄待ち)した後、今度は縄を引き揚げる作業(揚縄)を開始します。
揚縄は、船の前方右側の舷門(げんもん)からかかったまぐろを船上に引き揚げるのみならず、縄の回収や絡まった縄の修復などの作業もあり、10~12時間もかかる重労働で、作業終了は深夜になることもあります。

06

マグロ延縄漁の図解 Copyright© 2011 hokkatsusyouji co. All right reserved

そのときは、シャチがうるさいし、鳥がうるさいし、様子がおかしいなと思いましたが、どうにか操業を終えて、ハワイに観光に行ってから、再び船が出たときには、今度は風向きがおかしいんです。ハワイから出る時の風というのは、決まり決まったコースから吹くんだけども、そん時は逆だったんだよね。3月はじめの頃のことでした。

3月16日気仙沼入港予定だったんですが、3月11日に震災が発生したでしょ。その3日前ぐらいに大きな地震があったんですが、そん時は県の担当者から「津波もないし、みなさんの家庭は大丈夫ですから」って連絡が来たんです。だから、最初は「どうせ大したことないんだべ」って思ってた。でも、「横須賀にいる自衛隊の船が全部、東北に振り向けたみたいだよ」って周りの人が言っているのを聞いて、「これは大きそうだな」と思って・・。通信長が「メールが24時間使えるし、電話をかける人は電話かけてもいいし、とりあえず家庭とすぐ連絡とってくれ」って言うんです。

地震発生時は、船が震源地の後ろの方にあったから、震源地のそばにいた海上保安庁の船が津波に乗ったようなことはなかったです。津波に遭ってたら、海面が、どーんと上がったでしょうからね。日本の太平洋側だけじゃないんだよね、津波が来たのは。ハワイ島の方にも来て、小さい小舟がひっくり返ってたそうです。ホノルルなんかも1晩中津波の危険を呼びかけるサイレンが鳴ってたっていうもの。その後1か月ぐらいは、ホノルルの方も観光客は日本からもどこからも、まるきり来ないって言ってました。

3月11日、実習船は、日本に近づいていました。あと3日か4日で入れる位置まで来てたからね。でも、気仙沼には入れないし、行く場所ないし、連絡つかないし。電話をかけても通じない。船は3月の18日にあの神奈川県の三浦市の三崎港に入ったの。そこでとりあえず漁の水揚げをしました。

その後も、家にも連絡がつかないから、私は東京の妹んとこに電話して、次の日に、妹の旦那さんの方が三崎まで来てくれたんです。そのときに、彼に「現実を見てください」ってこう言われて、持ってきた衛星写真を見せられたの。「南三陸町は現在このような状況ですから」って、グーグルのやつさ。もう何もないんだもんね。あらーっと思ったのね。津波で流されて、町が無いにしろ、家族と連絡がつかないことが、やっぱり精神的に打撃が大きかったですね。ようやく連絡がついたのは、4月のはじめ頃だったと思います。自分の兄弟やいとこが「試しにかかるかな」と思って電話をかけたときに自分が出て、「こっちもガソリンも手に入んないし、道路も通行止めで動くに動けない。あと、避難所まわってみるから」とだけ伝えました。電話はそれきり来ないんです。バッテリーが切れちゃうと充電できないですからね。

動けない期間、ずっと沿岸に停泊させた実習船にいたんです。ご飯も食べられるし。いろんな人が船に来ましたよ。小泉進次郎、井上康生。横須賀海軍カレーとか、色々支援物資持って来てくれたけど、物資の代わりに、故郷に帰してくれという気持ちでした。

妹や親戚は、被災地と離れた名古屋などにいましたし、現地との連絡を取るにしても名古屋にかけてもしょうがないんだけど、情報を探ってもらうには頼むしかない。そうやって連絡を取り合ってるうちに、3月は電話代5万円も取られました。

07

2011年3月18日の三崎漁港における水産高校実習船への救援物資積み込みの写真
「現地からのリクエストにより、三浦の野菜や水、
三浦市が保管している持ち主不明の放置自転車多数などを
水揚げを終えた気仙沼のマグロ船に積み込みました」
出典:水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の歴史を現場で考え真実を伝える

三浦三崎港には、震災直後の3月15日以降、母港に帰着できなくなった水産高校実習船が次々と入港し、漁獲したマグロを岸壁で水揚しました。宮城県所属の『宮城丸』、福島県所属の『福島丸』、青森県所属の『青森丸』、秋田県所属の『船川丸』の計4隻でした。今年の1月下旬に宮城丸は石巻港を、福島丸は小名浜港を出港して、ハワイ沖合にてマグロ延縄漁業の実習操業と海洋観測に従事、帰港する途上でした。

被災後の実習船での教育

被災前、実習船は、普通高校、たとえば宮城県水産高校や、気仙沼の向洋高校でも教職員の研修に使っていましたが、最近はやっていませんね。水産高校というのは大体海辺にあるものですが、この2校も被災して、全部地盤沈下して水が引かないんです。宮城県水産高校は、今は華南高校の仮設校舎、石巻北高校の仮設校舎で授業を再開しているみたいです。将来的にはまた元の場所で再開したいとのことです。向陽高校は被災した場所には再建できないから、気仙沼高校の第2グランドに仮設を建てるようです。普通科はどこの高校にもあるんですが、工業系の生徒は米谷(まいや)工業高校に行ってるし、水産関係はその隣の本吉響(ひびき)高校に行ってるし、もう1つは気仙沼西高校っていうとこに間借りしている状態で、普通科の先生は、生徒が3校に別れてしまったものだから、大変そうです。午前中、本吉響高で授業をやったら、午後は米谷工っていうように、回っていかなくちゃならない。専門教科の先生はそうでもないみたいだけども、その辺が大変みたいですね。

今は水産高校の生徒も、ノートや教科書使って勉強するには十分でしょうけども、実習ができないんですよ。実習は必ず海でするものですが、それもできないし、かといってロープワークをしようにも小型船舶が沈んでしまっていてできません。それに、実習棟もみんなやられてるから、シミュレーションの機械とかも仮設には持っていけないんです。大した実習ができないんです。普通高校であれば差しつかえないでしょうけどもね、実業高校ってのはどうしてもその辺が大変でしょうね。

地震のあとは、宮城県は津波でもうお金ないだろうから、さすがに船は動かせないし、海洋実習はないだろうと思っていました。けれど、違うんだね。宮城県で金がなければ、国で出す。こういう教育関係だから、船があって人が集まれば、それなりの段取りが立てば、船は出せるです。その辺は民間企業とは違うとこだよね。次の航海は10月に45日間の沖縄行きとなりました。

歌津に戻る

ようやく歌津に戻って仮設に入ったのが6月です。家族だけは先に5月の連休すぎに仮設に入っていました。1回目の抽選で外れて、2回目で当たりました。部屋割りは不公平で、おばあさん1人でも、4人家族でも2部屋なんて割に合わない。私たちは4人家族で、私と妻、息子二人なんです。狭いなんてものじゃない。息子たちは上背がもう180以上あるからね。建設課とか色々交渉してるんです。とにかく急いで建てなければならなかったので、ある程度は仕方ないんですが、あまりにも不公平です。

今は夏だから、布団の上に枕とタオルケットだけで寝てるので、まだ寝るにはいいんです。ただね、子どもたちの勉強する場所がないんだよね。高校を卒業して出てくれれば、少し広くなるけど。今の状態では、土地買って家建てっていうことができないでしょ。大体土地がないですから。

漁業者の復興を急がなければ・・・

サメは今はある程度値段がついて、身はかまぼこの粘超剤になり、ヒレはフカヒレの原料になる。気仙沼のフカヒレが、世界で1番おいしいんです。

オーストラリアのほうの海に行くと、大体1匹が300キロ以上あるフカヒレが獲れます。フカヒレの乾燥させない状態は重いんです。でも歯にさわると怖いけどね。ちょっと触ると、もう指なくなるもん。だから、食いちぎられでもしたら、これが縫って治るようなものではないのよ。

今は資源保護の観点から一切獲らないんです。獲ってもいいんだけども、全部記帳して申告しなきゃなんない。身もヒレも数が合わないと駄目なんです。フカヒレは近海のマグロ船が持ち込んでいたんだけど、今、フカヒレを作るところが被災してしまっているでしょ。私がもらえればフカヒレを加工して作ってもいいんですが。あれは干すだけだからね。作り方は、フカヒレを塩漬けにして1か月位置くんですね。その後水で洗い流して、何か月か乾燥させるんです。気仙沼の山の中に行くと、以前はいっぱいヒレが干してあったけれど、今は被災してしまったから、場所があるのかな。このフカヒレは、全部輸出するものなんです。この辺で獲ったアワビだってそうですが、みんな乾燥させて、香港などに高値で食材として輸出していたんですよね。

だから、いかにこれから復興していくかだね。漁師がフカヒレやアワビを獲ってきたって、買う業者が被災していて、不在なら、お金にならないんですよ。いくら、誰それが船もらいました、何か始めました、と言ったって、1カ所だけが稼働したってダメなんですよね。地域が一体化して、全体で動いていかないとどうにもならないと思いますよ。つまり、購買側、販売側が同時に回っていかないと。

こないだ、アワビを調べてみたら、稚貝が流されていなくなっていたんです。大分少なくなった。それなのにアワビを獲っていいもんだろうか、となってしまいます。だから漁業してる人には悪いけど、2年なら2年、アワビを増やすために禁漁にしましょうとか、策が必要でしょうね。アワビの親を獲ってしまったら、数が減る一方ですからね。

市場を見てると、8時間で1日1万円出しますよ、ということで瓦礫を片づけたりとか、堤防とか埋め立てしている人がいますが、9月20日で打ち切りになります。その後どうするか考えていない人もいますよね。私から言わせれば「ふざけるな」と言いたくもなります。市場の中でも復興にむけ努力する人たちとそうでない人たちはまるきり違います。復興までの道のりがあまりにも長く、先が見えないということもあると思いますが、中にはやけになってる人もいるんじゃないでしょうか。飲み屋が再開すれば、そこがいっぱいの人で混んでるっていうものね。そこでお金を使ってしまっている。

私は、義援金も支援金も見舞金も要らないから、前の生活返してくれ、それだけが望みなんです。人によって意識のギャップがすごいもんね。ボランティアの人たちが草を抜いたり、瓦礫を片づけている脇で、「パチンコ屋が開店しました」って地元の人が片付けずに並んでれば、誰だって「人をバカにしてる」って頭にくると思います。そういう人にはガッカリしてしまいます。世の中、そんなこともわかんない人が多いんですよ。「そん時はそん時。どうにかなるべ」じゃないんだ。誰もが、今のうちにしっかりした気持ちで、行動を起こさないとダメだと思いますよね。でなければ、気がついたときには、どうにもならなくなってしまいます。

今一番問題だと思うことは、瓦礫の撤去ですね。何とかしてもらいたいと思います。それから堤防などを早めに直して、それから交通網を整えて欲しい。そういうことは私たちの力ではどうにもなりません。復興というのは、こういう事のうち、一番最初に何をして、2番目にこれ、という組み合わせ次第だと思うんですよ。

この町に将来も生きるために

復興なくして、就職の道もないわけで、うちの息子にも「高給をとろうなんて、そんなのできる話じゃない。その辺をよく考えなさい。お父さんだってこの位の給料取れるかわかんないんだよ」と言いました。息子自身にも方向性が見えないんじゃないかと思います。「この先こうやってこれでご飯食べてくんだ」とか、「果たして就いた職業が自分にあってるか」とかがわからないし、かといって自分で独立するのか、それもわからないでしょうし。

行政の対応もハッキリと、しかもすばやく先手を打たないと。南三陸町全ての人間が町内に根を下ろして生計を立てているわけじゃないでしょ。たとえば私にしても、何もここにいる必要ないんだもの。同じ給料だったら登米市でもいいや、仙台市でもいいやって、なってしまいます。こういう考えの人が50パーセントいたらもう町として成り立たなくなる。だから私は「行政よ早く手を打て」と言っているのです。地元でずうっと商売してた人は、再開したいという希望があっても、買い手の数が今の半分、3分の1になって、その仕事が成り立ちますかってことです。私が言いたいのは、そのことなんですよ。

病院にしてもそうでしょう。私は登米市の市民病院に行ってます。気仙沼市民病院もあるけども、こっちは思ったように機能してないから。買い物してもそうだけど、あんまり被害のない登米市に行った方がいい。私も1か月位あの米川(登米市)にいましたが、あの頃車がなかったんです。でも、バスが充実してんのね。終点まで100円で行けるんです。佐沼に行くのに、8時位のバスで行って、午後3時位のバスで帰ってくるとちょうどいい。それだってバス代往復で200円ですからね。風呂だって入れなかったから、登米に行かないとだめだったし、携帯電話使うにしても、南三陸町を離れないと電波が届かなかった。

私ら中学校の時でも3クラスか4クラスあったけど、今なんかいいとこ1クラス。もともと、それだけ人が減ってきてたんです。子どもを育て上げるっていうのは、それだけお金かかるようになってんですよね。大変な時代になりました。

私は定年まで後6年くらいしかありません。定年までこの学校でやっていくと思います。警察のお世話になんない限り大丈夫だね。

定年後ですか? 定年後までも、今を生きるのがとりあえず精いっぱい。家も流されたし、車も流されたし。子どもは学校を出してやって、退職金で家の借金払って。ローンは地震保険で払ってしまったから、借金はないので、その分いいんです。仕事もあるから、人から見たら、いいように見えることもあるらしく、「お前はいいよな」って言われるのは困りますね。

年齢的に夢を語れる年でもないですが、どこに住みたい、と言えば海の見えるとこがいい。何もなければこの辺だってね、海水浴場だってあったし綺麗なところなんです。とにかく、やっぱり元の生活に戻りたい、そういう思いですね。(談)

02
03

この本は、2011年9月14日、2011年11月20日の両日、
山口道孝さんに歌津の平成の森仮設住宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。

[取材・写真]

深 大基
福原立也
宮下凌瑚
河本裕香里
木村真紀
(以上2011年9月14日)

福原立也
宮下凌瑚
大槻フローランス
久村美穂
山中俊幸
(以上2011年11月20日)

[文・編集]
久村美穂

[発行日]
2012年6月吉日

[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト

コメントは受け付けていません。

Information

投稿日:2014.08.12
カテゴリー:自分史.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 今朝磯 仙北鉄道 仙台 仙台84連隊第12中隊 仙台味噌 仙台市苦竹 仙台軍需工場 仙台銀行 仙石線 代掻き 代用教員 代用食 仮設住宅 仮設校舎 仲人 伊勢 伊勢神宮 伊達家 伊達政宗 伊達藩 伊里前 伊里前の市 伊里前契約会 伊里前小学校 伝統食 伝説 伽藍 低体温症 佐沼 佐藤正信 佐藤正助 体育大会 作並街道 作業小屋 作男 例祭 保健センター 保存食 信用組合 信用金庫 修学旅行 備え 傾城 阿波の鳴門~巡礼歌の段 元旦 元朝参り 兎汁 入谷 入谷小学校 全日本少年武道錬成大会 八幡様 八幡神社 八百万の神 公務員 公民館結婚式 六丸 兼六園 兼業 再建資金 冒険 冠婚葬祭 冬の遊び 冷凍網 出征 出稼ぎ 出笹沢 切り子 刈払い 刈掃い 初任給 刺し網 刺身 剣道 加工団地 加工場 助教 動力船 勤労奉仕 北上川 北洋船団 十三浜 十五夜 千島列島 千歯こき 千葉正海 半農半漁 南三陸町 南三陸町民族無形文化財 南三陸町町議 南寧 南方 南満州鉄道 南部神楽 南郷 参詣 及川甚三郎 友好町 古代装束 古文書 召集令状 可美村 台湾 右もらい、左もらい、カギ持ち 合併 合併協議会 合祀餅 吉三郎沢 吉野沢 名足 名足小学校 名足浜 向洋高校 味噌 味噌汁 品陀和氣命 哈爾濱 唐桑 唐桑尋常小学校 唐桑小学校 商工会 喜多流 喧嘩 四海波 回遊魚 囲炉裏 囲炉裏端 国民学校 国立海上技術短期大学校 国立清水海員学校 国際交流 国際交流協会 国際魚竜化石サミット 土俵作り 土葬 地主 地域振興協議会 地場産業 地方銀行 地鎮祭 地震 地駄引き 坂上田村麻呂 垂下式 堤防 塩入 塩水選 塩蔵ワカメ 塩釜 塩釜神社 増産隊 壇ノ浦 壊邑館 夏休み 外国人留学生 外材 多賀城歴史資料館 多賀城資料館 大害沢 大工 大工見習い 大日如来 大東亜戦争 大根 大根おろし 大根の葉 大漁旗 大漁祈願 大畠章宏国交省大臣 大盤峠 大祭 大網 大胴太鼓 大蔵流 大規模半壊 大謀網漁 大谷 大谷地区 大谷小学校 大谷海岸 大谷金山 大谷鉱山 大豆 大連 大連鉄道学院 大雄寺 大麦 天保年間の津波 天宇受売尊 天岩戸開き 天津児屋根尊 天然ワカメの干し場 天然記念物 天照大神 天照皇大神宮 天狗の面 天皇 天皇陛下バンザイ 天草 天草つき 天草の開口 太平洋戦争 太鼓 奉公 奉公袋 奉天 契約会館 契約講 奥尻 奥州藤原氏 奥浄瑠璃 女の沢 女学校 女川防備隊 妙音寺 嫁入り 子どもの遊び 子供キャンプ 孝子お筆重次郎 学制発布 学徒動員 学頭 宇佐八幡宮 宇佐神宮 安倍貞任 安東 安波トンネル 定置網 実習操業 実習航海 実習船 宮司 宮城丸 宮城球場 宮城県教育委員会 宮城県本吉響高等学校 宮城県水産高校 宮城県津谷農林学校 宮城県津谷農林高等学校 宮城県津谷高等学校 宮城県社会福祉課 宮城県神社庁 宮城県青年団連絡協議会 宮城農学寮 宮城野原総合運動場 宮城野青年学校 宮大工 宵月 家畜保険 家畜商 家畜車 家督 寂光寺 寄木 寄木仮設 密漁 密航船水安丸 寺子屋 将棋クラブ 尋常小学校 尋常高等小学校 小作人 小名浜港 小型船舶免許 小学校 小屋の沢 小林司教 小正月 小泉 小泉の歴史 小泉の祭り 小泉の花火 小泉中学校 小泉八幡様 小泉八幡神社 小泉城 小泉小学校 小泉幼稚園 小泉進次郎 小漁 小豆餅 小野寺弘司 小鯖 小鯖神止まり七福神舞 少年兵 少年剣道会 就職列車 屋号 屋島合戦 山の幸 山伏 山伏神楽 山内家 山内盛 山学校 山師 山林 山背 山菜 山菜採り 岩戸開き 川魚 巡礼おつる 巡視員 工業団地 巨人、大鵬、卵焼き 巨釜半造 差網 市町村合併 布刀玉尊 幌羽山 幣価切り下げ 幣束 干しアワビ 干し柿 干し芋 干し蛸 平成の大合併 平成の森 平成の森仮設 平泉中尊寺金色堂 平磯 平磯虎舞 広瀬高校 広葉樹 庄内市 庄内町 庄屋 床屋 座敷まわり 延縄 建前 廻館 弁当 弁慶 弁慶に刺す 弟家督 弥惣峠 弥惣峠~入谷ルート 彌勒寺 後藤寿庵 御天王山 御天皇山 御崎さん 御崎神社 御幣束 御神入れ 御薬師 御開帳 復旧 復興 復興への想い 復興市 復興庁 復興担当大臣 復興需要 徳恵 徳陽シティ銀行 徴兵 徴兵検査 徴用工 徴用船 德陽無尽 德陽銀行 志津川 志津川の大火 志津川の蛸 志津川中学校 志津川会 志津川実科女子高等学校 志津川実科高等女学校 志津川小学校 志津川湾 志津川町 志津川病院 志津川駅 志津川高校 志津川高等学校 愛宕神社 慈恵園 慶長地震津波 慶長地震津波伝承地 戦中 戦争 戦後 戦後の給料取り 戦後の食糧難 戦時下 戦時中 戦時徴用 戦死 戸倉 戸倉村 戸倉村尋常小学校 手仕事 手力男尊 手漕ぎ船 指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 飴餅 餅まき 養殖 養殖ワカメ 養蚕 養蚕の神様 館城 館崎 香林寺 馬っこ 馬の足 馬喰 馬捨て場 馬橇 馬糞拾い 馬車 馬追 馬鍬 馬頭観音 高台 高台移転 高射砲 高島田 高度成長 高度経済成長 高砂や 高等小学校 高野会館 髪結い 魚屋 魚竜 魚竜化石 魚竜太鼓 魚竜舞 魚竜館 魚艙 魚釣り 鮎釣り 鮪立 鱒淵 鱒淵の5さん 鱒淵の5ちゃん 鱒淵小学校 鱒淵源氏ホタル保存会 鱒渕野球クラブ 鳥越沢 鳴子中山ラドン温泉 鳴子温泉 鴇波神楽 鹿折 麦ごはん 黄金郷 黒毛和牛 黒豆 黒部の太陽 鼎が浦高等学校

地域の歴史や文化