生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の歌と聞き、
千里(せんり)寄せくる海の気(き)を
吸(す)いてわらべとなりにけり。
高く鼻つくいその香(か)に
不断(ふだん)の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。
丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底
遊びなれたる庭広し。
浪にただよう氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ恐れんや。
海まき上(あ)ぐるたつまきも
起(おこ)らば起れ驚(おどろ)かじ。
(「我は海の子」より)
この詞を読んだ時、これこそ山口さんのことではないかと思いました。波の音を子守唄に、穏やかに眠る日もあれば、時化(しけ)の日に荒波を乗り越えることもある船乗りの暮らしは、それを経験したことのないものには分からない魅力とそれに伴う危険に満ちています。そして、海の男は乗り越えた波の分だけ、強い。それが山口さんの自分史から伝わってくるはずです。
この本を、海に人生の多くを捧げた山口道孝さんとそれを支えたご家族の皆さんに贈ります。二度にわたり、貴重なお話を丁寧に聞かせてくださった道孝さんに厚く御礼申し上げます。
2012年6月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私は昭和32(1957)年10月28日、伊里前に生まれました。姉と妹が2人います。
実家は農家でした。父は農業の傍ら、海産物の行商をしていました。自分で獲るのでなく、仕入れて売るんです。農業の手伝いをさせられたこともあったけど、興味がなかったし、自分から進んではやらなかったな。
海が目の前にあるから、小さい時から海にはよく入っていて、ウニやアワビを獲ってました。
子どもの頃の遊びは、田んぼで野球やったり、昔はこの辺も寒かったから、田んぼに氷が張ったところでスケートしたり。
中学では体育の時間が2時間あると、冬は田んぼでスケート、春になれば山菜採りです。秋だってキノコ採りとかね。それだけのんびりしてたんだよね、うん。その頃の同級生とは、同窓会は40歳の時に1回やったくらいだけど、仮設住宅に結構いるみたいで、逆に今のほうがよく会うね。
中学では野球部に入ってました。震災後、息子がグローブとボール持ってきたんだけれども、息子はバシッとくるボールを投げるけど、私はゆるいボールしか投げられなかったですね。
私たちの頃はみんな男子は坊主が当たり前だったんですよ。野球部だろうが何部だろうが、関係なしで、全員坊主ですよ。
私が中学校に入った頃が、ジャージが出回り始めたときだったと思います。それまでは白いトレーニングズボンだったもの。今はジャージがポピュラーだけども、昔は町に行っても売ってなかったから、わざわざ遠くまで出かけて買ったんです。でもデザインが今みたいに華やかじゃなかった。草緑の上下1色で何もラインの入ってない、ファスナーもついてない、農作業するおばちゃんが着るような服だなと思いましたね。
私は中学校まではここ南三陸町に住んでいたんだけども、中学校を卒業してすぐに静岡の海員学校(国立清水海員学校、現在の国立海上技術短期大学校)に進学しました。私は1年のコース。そこで調理師免許を取りました。16歳でした。
それから、東京の大手商船会社S汽船に入社して、そこで約6年勤務しました。その間に、船が大体長さ300メートル位あるような、いわゆるオイルタンカーっていう、ペルシャ湾から世界各国へと油を運んだ船に乗っていました。その時行かなかったのは、北米ぐらいですね。あとは大体、行きましたから。
一番印象に残ってる場所は、カナダです。5月にカナダに行ったら5月の末なのに大雪が降ってきたことがありました。原油を荷揚げするのに、防寒着を着てやるんですよ、その防寒着も、よく冷蔵庫で使うような分厚い防寒着。それを着てから水揚げするんです。寒いからです。
それから、夏場のペルシャ湾なんかに行くと、あのもう陽炎が出るんですよね。風がなくて気温が50度ぐらいになるんです。あの近辺は上陸できないんですよ。ブイがあってそこに船をつけ、海底からパイプを引き上げて繋ぐ。だから海の中に停泊する格好になります。食料はモーターボートやヘリコプターで持ってきてもらうんです。ペルシャ湾には上陸できるところもあるんですけど、やっぱイラン・イラク行ったってしょうがない(政治的に不安定なため停泊が危険)。かえって、ドバイとかああいうとこだったらいいんですが。
私の乗船していた船は、三国間航路って言って、日本に帰ってこない方が多かった路線でした。ペルシャ湾を基点として、ヨーロッパ方面、地中海に原油を持って行くんです。だから行き帰りは飛行機に乗って、現地で乗組員が交代するんです。船に乗ってて一番いいのは、そうやって海外に結構行けちゃうところでしたね。港、港に女? 誰もいないよ(笑)。自分で、飛行機でフランスに行って、マルセイユに1週間いたなんてこともありました。
資源エネルギー庁「石油輸送に関する現状について」より
赤=マレーシア・シンガポール海峡経由のタンカー通常ルート。緑=超大型タンカー及び迂回ルート
そこで一番びっくりしたのは、乗務員の交代でモスクワの空港に行った時のことです。あの頃はロシアもまだソヴィエトで共産圏だから、各ゲートや便所、あらゆる場所で自動小銃構えた兵隊が立ってるわけだ。もうそれが一番気味悪いね。それとすぐ後ろに軍用機が見えてるし、停まってる飛行機を見ると、旅客機は北朝鮮の旅客機だし、なんかちょっとおかしな気分だったね。お土産買っても、日本円で1円の果てまでキッチリ集められますから。例えばこちらが何か買っても、向こうはお釣りが5円でも寄越さないけども、取るものは1円単位で取ります。そう、向こうが損しないようにってことです。昭和55(1980)年頃のことでした。だから、オイルショック以後だね。
船の中での主な仕事ってのは、その当時はコックの見習い。あとは、士官の部屋掃除とか、そういう世話だね。もう、船長さんの部屋はすごいんだ。オフィスなんか30畳くらいあんだから。その他に自分の寛ぐ場所があって、寝室、それからバス・トイレでしょう。寝室のベッドなんか、船長さん以外に誰も来ない、1人で寝るのにキングサイズですから。
乗船しているのは、その当時は全員合わせて、全員日本人で30人位です。うちの会社は全員男性だけども、会社によっては女子もいることがあるね。ああいう船はね、港出るのには自力では出れないの。タグボートで港を出してもらってうんですね。
大型船を誘導するタグボート
(C)Idemitsu Kosan Co.,Ltd
タグボートの解かりやすい説明が出光タンカー(株)ホームページなどにあります。
タグボートは、小さいながらも馬力が大きく、小回りがきく。その性能を活かし、小回りのあまりきかない大型船が安全に離着岸できるようにロープで牽引したり、船先で押すなどして誘導・補助を行う。
乗船しているときは、大体全部が嫌だった。情報がその当時は入んないわけよ。だから、下船してみると流行してる歌も違ってるしさ。「あ、この歌いいな」って思っていても、「何言ってんの。半年前の歌だよ」って言われてしまう。そんな感じで、時代遅れになるっていう思いがありましたね。だったら日本にちょくちょく帰れるかというとそうでもなく、どうしても長く乗船するようになっちゃうんだよね。若けりゃ若いだけ収入が低いから、多くの収入を得るためには長く乗らないとだめなの。
やっぱり6年後には下船して、陸上の仕事に切り替えたんだけども、陸上の仕事に切り替えたら、同じ調理関係でも、もっと給料が安いんだよね。で、そのうち交通事故で入院して、退院した後にその会社も辞めることになりました。
じゃあ、だったらマグロ船に乗ろうかと思いたって、それに5年ぐらい乗ったかな。船の仕事に戻ったのは、やっぱり慣れた仕事のほうがいいということです。何も考えず、なすべき仕事だけやってればいいんだもん。勤めてたら毎日仕事しても、まあ日曜日くらいしか休めないわけですよね。船乗りはまとめて休めるから。休める時は、1か月とか2か月とか長いですし、その間にも給料だって入ってくるし、それ考えたらこちらのほうがいいんですよ。
一番遠いところでは、ニュージーランドとかオーストラリアとか、あっちの方行ったね。マグロって言っても種類があるわけです。例えば、一番この辺でポピュラーなマグロは「ビンチョウマグロ」「キハダマグロ」「メバチマグロ」なのね。マグロ船としては、違う種類のマグロ、「ミナミマグロ」を獲りに行かないと。そのほうが高いの。「クロマグロ」の次ぐらいに高いわけ。だからニュージーランドまで行くわけです。
そこで働いていたのは3年位かな。あとはもう結構船の大きさを小さくして、なるべく早く家に帰ってこれるような船を選んでいました。船が小さいということは、積み荷が少ないということです。積荷をいっぱいにしないと帰ってこられませんからね。たとえば大きな船、魚艙(ぎょそう)に300トン詰まりますよっていうような船の魚艙見てから行ったら、がっかりしますよ。「うわー、これを今からいっぱいにするんだ・・」って。(魚艙が大きい分だけ)うちになかなか帰れないっていうことですからね。
正直、マグロには飽きています(笑)。贅沢? だって毎日食事に出るんですから。マグロの状態を見るのに尻尾切った時点で、「ああ、脂が乗ってる」とわかると、「じゃあ、下ろして食べよう」ってことになるんです。私らは公務員だから獲った魚を家には持って帰れないんです。だから、食べて帰る。マグロの解体ショーとかやれって言われてもできるね。
マグロ1日10トンも釣ってみなさい。すごいですよ。もう、マグロ、マグロ、マグロ。全部血を抜いて、内臓をキレイに取り除いて製品にしなきゃなんない。そうして業者に出しても「あ、頭がない。これはいらない」と言われてしまう。なくてもいいようなもんだけども、そうじゃないわけ。築地に行ってみるとわかるけども、きれいな形になっていることが大事なんです。1日10トン、11回で120トンも獲ってみなさいよ。寝る暇なんかなくたって、もう最高だね。早く船が1杯になれば、それだけ早く帰れるじゃないですか。今はダメだけど、昔は船に積める漁がたった1日で獲れちゃう時もあったよ!(笑)
うちの船長さんは時化の時は「海の方が安全だから船を沖に出すよ」って、もう台風みたいな時も船を沖に出すわけです。そうすると、船首を、波の来る方と風の来る方に向けるわけですよ。船首が下向くと、東京スカイツリーみたいな波が来るわけよ。ダ・ダ・ダ・ダーンって。見上げるどころじゃないんです。
船の重さが何万トンあっても同じです。常に風の来る方、波の方向に船首を立てて、スピードを普通大体15~6は出るんだけども、常に半分くらい、5ノット位に抑えて。これ、横に波食らったら、45度以上傾いたら船は終わりだからね。
船頭さんてのは、マグロ獲る延縄のコースを決める人です。何時から何時まで操業して、最初に昼間に網を上げる分は船速何ノットで「深縄」にしてとか、夜は「浅縄」にしてとか、采配を振るう人。これができる人が魚獲れるわけです。マグロ船というのは情報戦なんです。船頭さんが、漁船のピラミッドの頂点、会社と同じ、会社のトップと同じなんですよ。船長さんより偉いんだよ。これは普通の商船だったら、船長さんが1番偉いけども、漁船の場合は船頭さん。
漁師は「獲ってなんぼ」の世界だから。マグロの場合は、マグロ追いかけては、どこでも行くもの。船を修理すると言って、リスボン(ポルトガル)に寄港したり。うまくいけば地中海の黒マグロなんか、1年で十何億もの売り上げになるんですよ。15歳の、乗組員の中で1番のペーペーで年収2000万にもなるんですよ。だけども、仕事覚えないと、それだけもらえない。だから、魚が釣れる所に連れて行ってくれる船頭さまってのは神様です。船頭さんは年収5000万くらいあるわけ。10億円相当の水揚げを上げんだよ。その人の腕次第。釣れる所に連れてってくれる人が1番上の人。
紛争地域に近い海域では、大きなエンジンを積んで、船型もスマートにして、いつでも逃げられるような船型にしてあるんです。操業してて何か来たときは、漁業を捨てても全力で逃げるんです。スクリューも大口径の可変ピッチってやつを積んでましたね。我々乗ってた頃はハイスクリューって丸こい形のものでした。今なんか二重反転プロペラっていう、プロペラが2つついてそれが互いに逆回転するんで、潮を巻き込まないでスムーズにいくというものです。今のスクリューは刀みたいな形だけど、それも角度が切り替わるわけです。車と同じように進歩しているんですよ。
昭和の終わり、昭和63(1988)年、私が31歳、妻が23歳のときに結婚しました。妹の同級生で、紹介されて知り合いました。結婚して20年くらいになりますね。私に惚れたんじゃなくて、仕事に惚れたんじゃないですか。この人なら食いっぱぐれがないって(笑)。
その時から今の仕事だね。宮城県に2つある水産高校の生徒を教育実習船で、漁業実習とか体験航海とかに連れてく仕事をしてますね。
でも先生っていうわけじゃないんです。生徒数は、大分少なくなってきたけども、大体生徒は本科生と専攻科生合わせて40人ぐらい。うん。専攻科生は、船を動かす免状(図表)、最低限2級か3級は取れるように訓練します。そうすれば、ある程度の大きい船を自分で動かせるようになります。本科生は、カリキュラムの中にちゃんと、乗船実習っていう項目があるんですよ。
船舶免許の種類
年に3回の航海に出ます。60日間の航海が年2回。45日間の航海が1回で、そのほかに1か月ほどの短い内航っていうのがあるんですよ。アメリカに行くビザを東京のアメリカ大使館まで取りに行くのに、船に乗って行くんです。豊洲に行って、生徒にビザを取らせて、あとは観光をさせて帰って来るんです。行って帰ってきて4~5日かかります。夏の凪のいい時に、突然、船っていうのはこういうもんですと教えるために函館に行ったこともあります。予告なし、要はだまし討ち。そんな感じですね。余談ですが、日本人は給料が高いので、なかなか外航船に乗れないんです。船長、機関士長、通信長としてなら可能ですが、フィリピン人とか、インドネシア人とかが多い。だけども、今は大学出なくても、自分で外航船に乗れるような、一級航海士とか一級機関士とかの免許取得を目指す子がいるから、なかなか捨てたもんじゃないな。免状いらないのは自衛隊。防衛大学出た子は、最初から自衛隊に行きます。海上保安庁や、そういう船関係は、給料をもらいながら勉強して一級まで取っていく、そういう感じなんです。
私は本科生の実習に一緒に行くっていうような感じですね。1航海60日ですね。大体長い航海が年3回で、寄港地がハワイのホノルルで、そこで4泊5日ぐらい滞在します。いいですよね。そこで1年に1回は国際交流会をやります。国際交流会では、移民の歴史や英会話を学びますね。ハワイにはだから、50回以上行ったかなと思います。何度も訪問するうちに、大分変わりましたよ、ハワイも。ダウンタウンだった場所は取り壊されてきてんだよね。新しいビルが建って、船が入る場所がショッピング街になったり。そんな感じになって変わってきて。僕らはあんまり車は使わないようにして、できる限り歩いて見て回るようにしてます。どこで何が安いとかを知っていますし。ハワイだとバスが通ってるから。今だと運賃は2ドルぐらいかな?毎回行くたびに値上げされていくけども。通(つう)になったとか、そんなこともないけども、自分が行く居酒屋も、なんか失敗しながらでも、何でも、自分たちで探しますよ。
沿岸部には各県の水産高校1校ずつに、そういう船があるんですよ。たとえば青森県なら「青森丸」、静岡県なら「焼津丸」、岩手県だと「リアス丸」、福島県だと「福島丸」などの名前があるんです。宮城は「宮城丸」。そのまんまです。
震災で気仙沼港に帰港出来ずに塩釜に入港した宮城丸
出典:「ドラッグサポートの風景」
掲載許可取得中
今は船は、お金がかかることさえ気にしなければ、インマルサット(海上の安全を確保するため静止衛星を利用して、海事用途の音声通話とデータ通信サービスを提供するために設立された)が、ちょっと高いけども、いつでも使えるんです。メールもできますし。ただ瞬時には行かないんだよ。瞬時にやったら高くなるから、2時間なら2時間分、サーバーに貯めておいて、その時だけ回線を使ってまとめてどんと送るわけ。写真は容量が大きくて通信費がかさむから、受け取らない方がいいですけどもね。
私が乗る船は650トンで、長さが55メートル、幅は30メートルもありません。大きいと思いますか? いやいや、タンカーや商船から見たら小さいほうなんですよ。乗組員は全員個室が与えられます。生徒は4人部屋です。生徒の個室は、女子も乗船する時代にはよろしくないですね。女子は先生の隣の部屋で、人数も少ないので2人部屋などになることもあります。目の前が風呂、トイレ、洗面所が設置されています。定員が68名。船内のほとんどが居住区っていうような感じですよね。教育のための船ですから、マグロ延縄(はえなわ)の漁もしますが、大体40トンくらいしか積めません。
私は教科を受け持っているのではなく、調理を教えるんです。生徒に調理の手伝いをさせます。基本的に座学は、1航海に1回の講話くらいですかね。自分はこのような生い立ちで、こういう仕事もあるんですけど、皆さんどうですかって、職業紹介のようなことをします。そして、調理の手順や、掃除から何から一切の作業を手伝ってもらいます。
航海実習の一番最初の目的は、船酔いの克服でしょうね。船酔いは克服できます。気持ちの持ちようですよ。私自身は、船が大きすぎて、最初は船酔いなんかしなかったんです。でも、貨物船に移った時、ロサンゼルス沖付近は揺れが激しくて、効いたね。貨物船は自動車運搬船で、軽いんですよ。車を2000台積もうが3000台積もうが、軽いんです。軽いから、船の足が安定しない。その状態で行って、24時間揺られるから、酔っちゃうんですよ。だからもう、そん時はもう仕事終わったらおとなしく寝てると。
学校の船もかなり揺れます。ローリングを止める装置はついていて、船の揺れに合わせて燃料の位置がバランスを取るように動くんですが、あまり意味はないね。
沖縄の実習は、マグロも獲れるけど、私らは太平洋のど真ん中で港に寄って、生徒にダイビング実習や、観光をさせて帰ってくるんです。寄港する場所が変わるだけで、実習することは同じです。
実習で獲ってくる魚は、港で水揚げします。その大体8割ぐらいが宮城県の収入、残りの2割ぐらいが乗組員の奨励金になります。
獲った魚の尻尾を切ってみると、脂乗ってるかどうか判るので、試食します。見た目にできるだけ大きい、美味しそうな脂のいっぱい乗ってるのを選んで食べますね(笑)。だって、せっかく行くんだもの、生徒だって食べたいですよね。そのままでは食べられないんです。さっきまで生きてきたマグロは身が固いから、だから冷凍庫で超低温で4日ぐらいおいておかないと食べられない。4枚に下ろして冷凍紙にくるんで氷に浸けといて4日位置いておく。生のマグロの場合、氷漬けで1週間は、色が良く、赤身が黒くなることもなく、大丈夫なんです。冷やしてさえおけばいい。そういうマグロ知ってると、お店で買うマグロなんか食べれないですね。どんなマグロも新鮮じゃなく見える。
マグロを捌くのなんて、大体船に乗ってる乗組員はみんなできますよ。私が調理するキッチンに来るときはサクの状態で来ます。甲板のデッキ作業してる人はそういう解体ができ、それを大体2日にいっぺんくらいずつ行います。もちろん、キッチンでは洋食、和食、中華、何でも作ります。他の普通のおかずのほかにマグロも付くということです。
実習中に釣る魚は、カジキ類もあるし、「雑もの」と言って鰆(さわら)や、マンタイという金魚のような魚などを少し使うほかは、海に帰しますね。油坊主(あぶらぼうず)と言って、うまいんですが、体に悪い魚がいます。不飽和脂肪酸がいっぱいだから薄く切って焼いたやつを1切れくらいならいいけれど、2枚も食べたらもうお尻から流れて、自然と気づかないうちにもお尻が汚れてる、というものです。それから、今はもうサメは掛かっても、ワイヤーから切って外して海に帰してしまいます。
9.11の影響で、交代で「テロ対策当直」といって、24時間交代で見張るのです。不審者がいないか見回りをします。だからもう一般の人は乗船禁止ですよ。たとえば、今は、ハワイでAPECがあるので、ハワイには行きません。何があってもおかしくないような危険な時期だからです。
私は感じていたけど、この震災前の海はおかしかったんですよね。夏の海だったけど、白波も立たない状態だったの。そんなのもうありえないわけですよ。全然船も揺れないし、風も吹かなかったし、「なんかおかしいな」って言ったのさ。
1月の20日に出港したんだけども、その時点で、すでに海がおかしかった。それで、ジョンストン島(=アメリカ領、下記の地図参照)ってハワイの東側の漁場についたらば、いつも貿易風って風が吹いてるのに、波が良くて、それがあまり吹いてなかったんですよね。
代わりに、海鳥がうるさかったの。海鳥が、船に50羽ぐらい、白いのから黒いのから、今までにない程、ついたんです。
そして、海の中はシャチがうるさかったわけ。マグロ延縄で打っていくと、マグロが釣り針に食いつくのを、後ろからシャチが食ってしまうんです。シャチってのは利口だから釣り針にはかかんないから、針のとこだけ残してマグロをみんな食べてしまうんです。
マグロの延縄を海に入れることを投縄(とうなわ)って言いますが、その後、2~3時間縄を海中に流しとくんだけども、もうその時点でシャチが海面に浮いてるんだもの。その時は「あー今日もダメだな」と思いました。マグロが食いついても、ほぼその8割ぐらいをシャチに食われてしまうんです。本当は水揚げは1日、相場で大体100万ぐらいなきゃなんないんだけども、そんなに獲れないです。1キロ800円として、1日約1~1.2トンぐらい獲んないといけない。でも、入れた延縄は上げて(揚縄(あげなわ)という)しまわないといけないから、辛いですよ。
マグロ延縄漁の図解 Copyright© 2011 hokkatsusyouji co. All right reserved
そのときは、シャチがうるさいし、鳥がうるさいし、様子がおかしいなと思いましたが、どうにか操業を終えて、ハワイに観光に行ってから、再び船が出たときには、今度は風向きがおかしいんです。ハワイから出る時の風というのは、決まり決まったコースから吹くんだけども、そん時は逆だったんだよね。3月はじめの頃のことでした。
3月16日気仙沼入港予定だったんですが、3月11日に震災が発生したでしょ。その3日前ぐらいに大きな地震があったんですが、そん時は県の担当者から「津波もないし、みなさんの家庭は大丈夫ですから」って連絡が来たんです。だから、最初は「どうせ大したことないんだべ」って思ってた。でも、「横須賀にいる自衛隊の船が全部、東北に振り向けたみたいだよ」って周りの人が言っているのを聞いて、「これは大きそうだな」と思って・・。通信長が「メールが24時間使えるし、電話をかける人は電話かけてもいいし、とりあえず家庭とすぐ連絡とってくれ」って言うんです。
地震発生時は、船が震源地の後ろの方にあったから、震源地のそばにいた海上保安庁の船が津波に乗ったようなことはなかったです。津波に遭ってたら、海面が、どーんと上がったでしょうからね。日本の太平洋側だけじゃないんだよね、津波が来たのは。ハワイ島の方にも来て、小さい小舟がひっくり返ってたそうです。ホノルルなんかも1晩中津波の危険を呼びかけるサイレンが鳴ってたっていうもの。その後1か月ぐらいは、ホノルルの方も観光客は日本からもどこからも、まるきり来ないって言ってました。
3月11日、実習船は、日本に近づいていました。あと3日か4日で入れる位置まで来てたからね。でも、気仙沼には入れないし、行く場所ないし、連絡つかないし。電話をかけても通じない。船は3月の18日にあの神奈川県の三浦市の三崎港に入ったの。そこでとりあえず漁の水揚げをしました。
その後も、家にも連絡がつかないから、私は東京の妹んとこに電話して、次の日に、妹の旦那さんの方が三崎まで来てくれたんです。そのときに、彼に「現実を見てください」ってこう言われて、持ってきた衛星写真を見せられたの。「南三陸町は現在このような状況ですから」って、グーグルのやつさ。もう何もないんだもんね。あらーっと思ったのね。津波で流されて、町が無いにしろ、家族と連絡がつかないことが、やっぱり精神的に打撃が大きかったですね。ようやく連絡がついたのは、4月のはじめ頃だったと思います。自分の兄弟やいとこが「試しにかかるかな」と思って電話をかけたときに自分が出て、「こっちもガソリンも手に入んないし、道路も通行止めで動くに動けない。あと、避難所まわってみるから」とだけ伝えました。電話はそれきり来ないんです。バッテリーが切れちゃうと充電できないですからね。
動けない期間、ずっと沿岸に停泊させた実習船にいたんです。ご飯も食べられるし。いろんな人が船に来ましたよ。小泉進次郎、井上康生。横須賀海軍カレーとか、色々支援物資持って来てくれたけど、物資の代わりに、故郷に帰してくれという気持ちでした。
妹や親戚は、被災地と離れた名古屋などにいましたし、現地との連絡を取るにしても名古屋にかけてもしょうがないんだけど、情報を探ってもらうには頼むしかない。そうやって連絡を取り合ってるうちに、3月は電話代5万円も取られました。
2011年3月18日の三崎漁港における水産高校実習船への救援物資積み込みの写真
「現地からのリクエストにより、三浦の野菜や水、
三浦市が保管している持ち主不明の放置自転車多数などを
水揚げを終えた気仙沼のマグロ船に積み込みました」
出典:水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の歴史を現場で考え真実を伝える
三浦三崎港には、震災直後の3月15日以降、母港に帰着できなくなった水産高校実習船が次々と入港し、漁獲したマグロを岸壁で水揚しました。宮城県所属の『宮城丸』、福島県所属の『福島丸』、青森県所属の『青森丸』、秋田県所属の『船川丸』の計4隻でした。今年の1月下旬に宮城丸は石巻港を、福島丸は小名浜港を出港して、ハワイ沖合にてマグロ延縄漁業の実習操業と海洋観測に従事、帰港する途上でした。
被災前、実習船は、普通高校、たとえば宮城県水産高校や、気仙沼の向洋高校でも教職員の研修に使っていましたが、最近はやっていませんね。水産高校というのは大体海辺にあるものですが、この2校も被災して、全部地盤沈下して水が引かないんです。宮城県水産高校は、今は華南高校の仮設校舎、石巻北高校の仮設校舎で授業を再開しているみたいです。将来的にはまた元の場所で再開したいとのことです。向陽高校は被災した場所には再建できないから、気仙沼高校の第2グランドに仮設を建てるようです。普通科はどこの高校にもあるんですが、工業系の生徒は米谷(まいや)工業高校に行ってるし、水産関係はその隣の本吉響(ひびき)高校に行ってるし、もう1つは気仙沼西高校っていうとこに間借りしている状態で、普通科の先生は、生徒が3校に別れてしまったものだから、大変そうです。午前中、本吉響高で授業をやったら、午後は米谷工っていうように、回っていかなくちゃならない。専門教科の先生はそうでもないみたいだけども、その辺が大変みたいですね。
今は水産高校の生徒も、ノートや教科書使って勉強するには十分でしょうけども、実習ができないんですよ。実習は必ず海でするものですが、それもできないし、かといってロープワークをしようにも小型船舶が沈んでしまっていてできません。それに、実習棟もみんなやられてるから、シミュレーションの機械とかも仮設には持っていけないんです。大した実習ができないんです。普通高校であれば差しつかえないでしょうけどもね、実業高校ってのはどうしてもその辺が大変でしょうね。
地震のあとは、宮城県は津波でもうお金ないだろうから、さすがに船は動かせないし、海洋実習はないだろうと思っていました。けれど、違うんだね。宮城県で金がなければ、国で出す。こういう教育関係だから、船があって人が集まれば、それなりの段取りが立てば、船は出せるです。その辺は民間企業とは違うとこだよね。次の航海は10月に45日間の沖縄行きとなりました。
ようやく歌津に戻って仮設に入ったのが6月です。家族だけは先に5月の連休すぎに仮設に入っていました。1回目の抽選で外れて、2回目で当たりました。部屋割りは不公平で、おばあさん1人でも、4人家族でも2部屋なんて割に合わない。私たちは4人家族で、私と妻、息子二人なんです。狭いなんてものじゃない。息子たちは上背がもう180以上あるからね。建設課とか色々交渉してるんです。とにかく急いで建てなければならなかったので、ある程度は仕方ないんですが、あまりにも不公平です。
今は夏だから、布団の上に枕とタオルケットだけで寝てるので、まだ寝るにはいいんです。ただね、子どもたちの勉強する場所がないんだよね。高校を卒業して出てくれれば、少し広くなるけど。今の状態では、土地買って家建てっていうことができないでしょ。大体土地がないですから。
サメは今はある程度値段がついて、身はかまぼこの粘超剤になり、ヒレはフカヒレの原料になる。気仙沼のフカヒレが、世界で1番おいしいんです。
オーストラリアのほうの海に行くと、大体1匹が300キロ以上あるフカヒレが獲れます。フカヒレの乾燥させない状態は重いんです。でも歯にさわると怖いけどね。ちょっと触ると、もう指なくなるもん。だから、食いちぎられでもしたら、これが縫って治るようなものではないのよ。
今は資源保護の観点から一切獲らないんです。獲ってもいいんだけども、全部記帳して申告しなきゃなんない。身もヒレも数が合わないと駄目なんです。フカヒレは近海のマグロ船が持ち込んでいたんだけど、今、フカヒレを作るところが被災してしまっているでしょ。私がもらえればフカヒレを加工して作ってもいいんですが。あれは干すだけだからね。作り方は、フカヒレを塩漬けにして1か月位置くんですね。その後水で洗い流して、何か月か乾燥させるんです。気仙沼の山の中に行くと、以前はいっぱいヒレが干してあったけれど、今は被災してしまったから、場所があるのかな。このフカヒレは、全部輸出するものなんです。この辺で獲ったアワビだってそうですが、みんな乾燥させて、香港などに高値で食材として輸出していたんですよね。
だから、いかにこれから復興していくかだね。漁師がフカヒレやアワビを獲ってきたって、買う業者が被災していて、不在なら、お金にならないんですよ。いくら、誰それが船もらいました、何か始めました、と言ったって、1カ所だけが稼働したってダメなんですよね。地域が一体化して、全体で動いていかないとどうにもならないと思いますよ。つまり、購買側、販売側が同時に回っていかないと。
こないだ、アワビを調べてみたら、稚貝が流されていなくなっていたんです。大分少なくなった。それなのにアワビを獲っていいもんだろうか、となってしまいます。だから漁業してる人には悪いけど、2年なら2年、アワビを増やすために禁漁にしましょうとか、策が必要でしょうね。アワビの親を獲ってしまったら、数が減る一方ですからね。
市場を見てると、8時間で1日1万円出しますよ、ということで瓦礫を片づけたりとか、堤防とか埋め立てしている人がいますが、9月20日で打ち切りになります。その後どうするか考えていない人もいますよね。私から言わせれば「ふざけるな」と言いたくもなります。市場の中でも復興にむけ努力する人たちとそうでない人たちはまるきり違います。復興までの道のりがあまりにも長く、先が見えないということもあると思いますが、中にはやけになってる人もいるんじゃないでしょうか。飲み屋が再開すれば、そこがいっぱいの人で混んでるっていうものね。そこでお金を使ってしまっている。
私は、義援金も支援金も見舞金も要らないから、前の生活返してくれ、それだけが望みなんです。人によって意識のギャップがすごいもんね。ボランティアの人たちが草を抜いたり、瓦礫を片づけている脇で、「パチンコ屋が開店しました」って地元の人が片付けずに並んでれば、誰だって「人をバカにしてる」って頭にくると思います。そういう人にはガッカリしてしまいます。世の中、そんなこともわかんない人が多いんですよ。「そん時はそん時。どうにかなるべ」じゃないんだ。誰もが、今のうちにしっかりした気持ちで、行動を起こさないとダメだと思いますよね。でなければ、気がついたときには、どうにもならなくなってしまいます。
今一番問題だと思うことは、瓦礫の撤去ですね。何とかしてもらいたいと思います。それから堤防などを早めに直して、それから交通網を整えて欲しい。そういうことは私たちの力ではどうにもなりません。復興というのは、こういう事のうち、一番最初に何をして、2番目にこれ、という組み合わせ次第だと思うんですよ。
復興なくして、就職の道もないわけで、うちの息子にも「高給をとろうなんて、そんなのできる話じゃない。その辺をよく考えなさい。お父さんだってこの位の給料取れるかわかんないんだよ」と言いました。息子自身にも方向性が見えないんじゃないかと思います。「この先こうやってこれでご飯食べてくんだ」とか、「果たして就いた職業が自分にあってるか」とかがわからないし、かといって自分で独立するのか、それもわからないでしょうし。
行政の対応もハッキリと、しかもすばやく先手を打たないと。南三陸町全ての人間が町内に根を下ろして生計を立てているわけじゃないでしょ。たとえば私にしても、何もここにいる必要ないんだもの。同じ給料だったら登米市でもいいや、仙台市でもいいやって、なってしまいます。こういう考えの人が50パーセントいたらもう町として成り立たなくなる。だから私は「行政よ早く手を打て」と言っているのです。地元でずうっと商売してた人は、再開したいという希望があっても、買い手の数が今の半分、3分の1になって、その仕事が成り立ちますかってことです。私が言いたいのは、そのことなんですよ。
病院にしてもそうでしょう。私は登米市の市民病院に行ってます。気仙沼市民病院もあるけども、こっちは思ったように機能してないから。買い物してもそうだけど、あんまり被害のない登米市に行った方がいい。私も1か月位あの米川(登米市)にいましたが、あの頃車がなかったんです。でも、バスが充実してんのね。終点まで100円で行けるんです。佐沼に行くのに、8時位のバスで行って、午後3時位のバスで帰ってくるとちょうどいい。それだってバス代往復で200円ですからね。風呂だって入れなかったから、登米に行かないとだめだったし、携帯電話使うにしても、南三陸町を離れないと電波が届かなかった。
私ら中学校の時でも3クラスか4クラスあったけど、今なんかいいとこ1クラス。もともと、それだけ人が減ってきてたんです。子どもを育て上げるっていうのは、それだけお金かかるようになってんですよね。大変な時代になりました。
私は定年まで後6年くらいしかありません。定年までこの学校でやっていくと思います。警察のお世話になんない限り大丈夫だね。
定年後ですか? 定年後までも、今を生きるのがとりあえず精いっぱい。家も流されたし、車も流されたし。子どもは学校を出してやって、退職金で家の借金払って。ローンは地震保険で払ってしまったから、借金はないので、その分いいんです。仕事もあるから、人から見たら、いいように見えることもあるらしく、「お前はいいよな」って言われるのは困りますね。
年齢的に夢を語れる年でもないですが、どこに住みたい、と言えば海の見えるとこがいい。何もなければこの辺だってね、海水浴場だってあったし綺麗なところなんです。とにかく、やっぱり元の生活に戻りたい、そういう思いですね。(談)
この本は、2011年9月14日、2011年11月20日の両日、
山口道孝さんに歌津の平成の森仮設住宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
深 大基
福原立也
宮下凌瑚
河本裕香里
木村真紀
(以上2011年9月14日)
福原立也
宮下凌瑚
大槻フローランス
久村美穂
山中俊幸
(以上2011年11月20日)
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年6月吉日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト