東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

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自分史

歌津に生きる
小野寺弘司さん[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]

マツモの石鍋

はじめに ~担当者からのお手紙~

小野寺弘司さんと初めてお会いしたのは、2011年の秋のRQシンポジウムの時でした。

遅れていった私は、たまたま空いていた主賓席の後ろの席に座り、落ち着かない感じで次の部の公演を待っていました。そんな私に声をかけて下さったのが小野寺弘司さんでした。ひまわりの会であることを教えて頂き、私も今年は種を蒔きに行きたいと名刺を交換しました。

その時から「聞き書き」に参加しようと決めていました。その「聞き書き」のリストの中に、お名前があり、少し嬉しくなり、また私が行かねばと思い、2回目からお話しを聞きに伺い今に至った次第です。

歌津でお会いした小野寺さんは、東京でお会いした時よりも、もっと大きくて、暖かいオーラを感じました。何だろう? これは? 自然と向き合って生きていらした方だからだろうか? 
お話を聞いていくうちにだんだん解っていきました。

歌津で生まれ、豊かな自然にいだかれて育ったわんぱくな少年時代。その頃の子供たちは知っていました。既製の玩具はないけれど、実は想像力を働かせれば、遊べる道具は自然の中にいっぱいあることを。
山の木だって、石ころだって面白い遊びが出来るってことを。

青年時代、漁船漁業の仕事を始め、自分の力と知恵で、自立した人生を歩み始めます。精一杯働いて、思い切り遊んでいた、生き生きとした小野寺弘司さんが感じられます。

そんな中、奥様と出会われ、結婚されてお子さんもできて、家族を守る家長として、これからの生活を考えワカメの養殖を始めます。
そして家族を守ると共に伊里前契約会に入り、地域の為にも活躍されます。時を追って小野寺弘司さんの人生には、大きな責任が課せられます。しかし、それを果たすことによって大きな自信が蓄積されていったのではないかと想像しました。

そして震災の時、饒舌ではないけれど、機転の効いた判断力と実行力に、地域のみなさんがどれだけ助けられ、そしてどれだけ励まされたか計り知れません。
暖房もなかった避難先で焚き火をして、みんなを暖めたお話を聞きながらその情景が目に浮かびました。
小野寺弘司さんの焚き火をしている後ろ姿と、あたっているみんなが、焚き火の火で顔が明るくうつし出され、少しの温もりを感じている様子です。

この自分史に、そんな小野寺弘司さんの後ろ姿を描くことができていたら、うれしく思います。
長い時間にわたり、お話くださった小野寺さんに、この場を借りて御礼申し上げます。

2012年4月吉日

RQ聞き書きプロジェクト 一同

1 戦後すぐ歌津に生まれる

私は終戦の1年後の昭和21年3月25日、伊里前で生まれました。

歌津駅から見える三嶋神社の鳥居がありますね、あそこから2番目くらいのところに本宅がありました。実家とは言いません。本宅です。

親父は農業をやっていたのかなぁ。年とってからなんぼか漁にもいくようになりました。まだ私たちが小さい頃だったね。養殖事業が盛んになって、それをやるようになりました。親父はいろんな仕事をやっていました。農協で、今で言う20トンか30トン位の船かな、その船の荷揚げもやってました。それは今で言うアルバイトですね。時期的なものなので。木炭の炭の時季や米の時季にやっていました。トラックがない時代ですから。船しか運ぶ手段が無かったです。その仕事はいったん船から荷物を揚げて、馬車で農協の倉庫に運んで、馬車から荷物下ろして積み荷して行くんです。そういう仕事をしている人は何人もいなかったよね。そういう人は若いうちに亡くなりました。うちの親父も62歳ごろに亡くなりました。

母は畑だの手伝いをやっていました。母にはずいぶん叱られました。悪い子供でしたからなぁ。いつも悪いことをしてたよ(笑)。今みたいに食べ物がなかったですから。昼でも夜でも集まって遊んでましたから。

母は去年の8月10日くらいに亡くなりました。91歳でした。それも私が遊びに行ってる途中に電話貰って、今からつつじ苑から志津川洪竜寺に運びますから、って言われて終わりでした。2人の生まれた年は覚えていません。

わたしの兄弟は4人ですね。私は次男坊です。男ばっかりです。昭和19年生まれ兄とは年子でした。

だけど兄は東京で26歳で亡くなりました。刑事をやっていたんです。昭和39年の私が就職したばっかしの頃かなぁ、秋には東京オリンピックがあったから。

すぐその下の弟は3つ違いですが、千葉に行って、今年の2月に亡くなりました。その下は気仙沼の小池消防署員です。正義感が強い兄弟って? そうでもないですね(笑)。私みたいなものもいるもの。

一番下は7つ違いです。7歳も差があると可愛いって? 男兄弟ですから(笑)。弟を海藻採りに連れて行ったりしました。兄弟はみんな腕白でした。兄弟だけでなく海に行って遊ぶような連中は、みんな腕白なんですよ。私が家を継いだのは兄が亡くなってからです。


2 みんな自給自足の暮らしだった

私が子供の頃、うちでは米、大麦、大根、白菜を作ってました。家で食べる分を採って、残りを農協に売って。私が生まれたこの辺の人たちは、食べる分は自分とこで採ってたんじゃないかと思います。

海のものも豊富でしたからね。自給自足できる感じですね。海藻、アワビ、ウニ、あとはタコ。そういうのがいっぱい、獲れたんですよ。ええ、ごちそうです。


3 腕白だった子供の頃

私も海に獲りに行ったんですよ。小学3年生ぐらいのときには素潜りをして、冬場には、夕方潮が下がりますから、みんなで焚き火して。焚き火の大きなかまどを作った上に石をドンと置いてあっためて、そこにマツモを乗っけて食べたんです。マツモの黄色い色が青々として。物が少なくて、煮て食べる鍋なんかないものですからね。それが鍋代わりだったんだね。

<石鍋のつくりかた>周りに石を立てて、こっちをくいで、ここにちょこっと穴開けるようにして、したらこっちから木をくべて。そんな風にマツモを食べるのは結構ふつうにやっていました。

私が小さい頃、子供同士集まるメンバーはいつも同じで、年上の子がリーダーになって、そういうことをやっていましたね。

海に行かない時は、山に行って。藤の蔓を割って、つないで、長くして。それを大きな木に結わえつけて、ブランコにしたり、そうして遊んだんです。小学3年生ぐらいから中学ころまでやってたのかな。

小さい頃から、昼でも夜でも子供同士が集まる場所があったんです。今の子はそういう場所がなくて

ホントかわいそうです。

私は、遊びに行ってもいちばん小さい方でした。みんな私より4つも5つも上の連中でしたから。

実は、左の手をみんなと遊んでいるうちに神社の上の杉の木の根っこにぶつけて2回も折ってるんです。曲がってるんです、これ。遊びで。昔は海苔の養殖に使うロープを干したんです。そこに石を付けて長く延ばしたんですね。そのロープを木に結わえて、ロープにあがってみんなでブランコをするんですね。私は小さいですから何回も落ちるんです。

みんなで乗っているんだけど大きい連中は先に降りるんです。そしてまたゆするんです。20分、30分最後まですがってるんだ、足掛けて。そしたらもたないから落ちるんです。自然には治らないんで、段ボールを両方にあてて、その上に包帯を巻いて。ギブスにする。

家族には「自分が悪い、遊んでたたき落ったんだ」って。そうしないと一緒に遊んでもらえないんだもの。

それでも楽しかったですよ。毎日学校から帰ると誰か彼か神社の上でおっきな声出して、呼ばるんです。そうすると、みんな神社に登って行くんです。そういうとこしか遊び場がなかったから。国道から行った神社の松の木、あれにも何回も登りました。みんな。そういうのが遊びだったんです。


11月から2月の頃、夜になると大人たちが拍子木もって『火の用心』やるんです。そうやって火まわりしだんだね。そこに行って遊ぶんです。一緒に回ったり。そうやって火まわりしたんだね。一番の焚き火する頃だしね。その時代は火をおこしていたのは薪しかないからね。私も大きくなって家にいた時は拍子木持ってやりました。今はそういうことしないけど。

また冬場の遊びで思い出すのは、ケンケンで戦ったりするのがあったな。

何人かで組んで「殴り込みだ!」ってケンケンをして(相手を)転ばせたら、自分の陣地の中に戻ってきて、最後に何人残ったから勝ちだというような遊びをしました。ジャンケンするような余裕はないんです。殴り込みといっても、本当に殴ったりはしません。

また、そのころはサッカーもやりました。5、6年になってくるとね。野球をやりたくてもバットもない、杉の木だの栗の木だのの枝をバットにするような時代でしたから。最近です。バットだのグローブだのあるのは。サッカーのボールは、今みたいなサッカーボールじゃなくて、ただの赤いゴムのボールです。その空気がなくなると自転車屋の空気入れで入れたんです。今みたいなサッカーボールなんてないですから。


4 漁師としての一歩を踏み出す

小学校は6年、中学は3年までで、高等学校には行っていません。兄貴は行ったけど。中学を卒業して家の手伝いをしても、お金は稼げませんから。漁船漁業に行きました。気仙沼です。その頃で、高校に進学するのは、全学年98名のうち20人位いたか、いないかくらいでした。あとはその頃は東京に就職してたね。

ちょうど集団就職が、金のたまごとして、もてはやされていた時代でしたから。

最初の1年はマグロ漁に行っていました。よく獲れました。釣り方は、延縄って、針と針の間、25メートルくらいあるんなぁ。針をつけて冷凍したスルメをかけたり、サバをかけたり、サンマをかけたりして釣るんです。餌は冷凍庫に入っているものを買ってくるんです。それをその冷凍のまま餌として付けるんです。マグロを獲っていたのは1年くらいだったかなぁ。マグロをやってるとお金にならなくて遊びに行けないもので・・・(笑)。


5 よく働きよく遊んだ独身時代

それで今度は、サケマス漁に行ったんです。当時この辺では、家族から3人位漁へ行くと、家が1軒建ったんです。サケ・マスに4月から行って7月の中頃帰ってくるんです。3カ月くらいです。漁に1回行くだけで結構大金が貰えるんです。この辺は漁船漁業で偉くなったとこですから。歌津海岸地区は。

それこそ御殿みたいな家が建っていました。みんな津波で流されてしまったけれどね。

1年のうちに4月から7月にサケマス漁、そのあとサンマ漁に8月から11月まで行くとその年の漁船漁業は終わりですから、そのあと家に帰ってきて、海苔やらワカメやらを自分で採って、ふたたび漁船に乗る4月までやります。それを昭和53年頃までやってたんです。その間に家を建てました。

サンマを獲るのはあっちまで行くんです。千島列島。四国の香川の漁船会社に11年くらいいたのかなぁ。

23、4歳のときかな。どうだったか、証拠も何も流されてわからないんです(笑)。

香川に行くのは年に2回ぐらいです。4月に港から船に乗って香川に行って1回行って帰ってきて、あと、行っても行かなくてもよかったんです。そういう契約ですから。そのころはお金に困るということはなかったからね。高松から鳴門のあたりまで、ずいぶん、漁船仲間と遊びに行きました。おいしいものを食べに行ったり、見に行ったりさまざまなところに遊びに行きました。女の人と遊ぶ、ですか? そういうことも(笑)。今電話よこしたのはそんな(遊び仲間の)メンバーです(笑)。


6 海苔・ワカメの養殖を始める

海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。

海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうすると海の中で育つんです。そのころ結構このへんに海苔を作ってる人がいました。漁協組合ができたときに作った、何千トンっていう大きな共同の冷凍庫がありましたから、みんなその冷凍庫に置くようになりました。冷凍網が3000箱~4000箱入るような冷凍庫でした。

海苔の方は、塩釜で種をつけて直接もってきて、あと冷凍庫に入れるんです。冷凍海苔ってその頃は主流なんです。いま、宮城県の海苔も半分は冷凍の海苔です。 秋、芽をだして、そのままほかしてやるのと、 その収穫が終わると、今度は冷凍したものを出して網の張替えするんです。1年中、ヒマないんです。松島のへんでやってますね。松島の海苔や明石、千葉だって今はどこでも冷凍網じゃないですか。

私も自動乾燥機を買ってみたり様々なことやってみたけど、今は海苔を一切やっていません。

銀鮭をやったこともあります。みんなこの辺の人は銀鮭でおっきな穴(赤字)をあけたんです。財産売った方もおるし。私は、なんとか努力して、財産に手をつけないでやめて良かったです(笑)。

協同組合は中学卒業の前からずっと父が入っていました。親父の代に協同組合法ができてから、組合が3回名前が変わったんですね、最初が『歌津全町漁業協同組合』合併してから『歌津漁業協同組合』今度が、『宮城漁業組合歌津支所』とね。組合組織作るのに、頭数が100人なら100人集まらないと組合が成立しない。そんで最初の歌津全町漁業協同組合の時は、120~30人集まって作ったのかなぁ。その時におやじが組合に入ったんです。

私が組合に入ったのは親父が亡くなってから。昭和53年です。相続をして。それから父親のあとを継いで海の仕事をやりました。そのあと農家はスパっと辞めました。海の方に専念しました。農業でなく、海の仕事を継いだのは、自分の努力でなんとか食べて行くのに良いと思ったからです。どこに行っても仕事がない時代でしたから。そして、自分でワカメ採りを始めたんです。畑はそのまま荒らしておきました。もったいなくもないです。

7 結婚、家庭を持つ

結婚は昭和46年かな。遊んでるうちに見つけてきたんです(笑)。南三陸の人です。うちの女房の実家も漁船漁業です。うちの女房の父親も42歳で亡くなったんです、事故で。結婚したのは出会って2年たったくらいかなぁ。

遊び歩いた仲間は、みんな好きな人ができてそんなふうに結婚しましたよ。その頃は家にも親にもお金を渡さないで、稼いだお金は自分でみんな使ったんですからね、おもしろかったんです(笑)。

子供は3人います。息子は今は町の役場建設課に勤めています。今度の震災では一番、体を使ったんじゃないですか? 毎晩10時だ、11時だって言ってたから。私は子供の進路とかそういうことにあんまり口出ししないね、したってしょうがないもん。だから、この頃娘たちに怒られるんです。私たちも、上の学校に行きたかったのに、なんで行けなかったんだって。でも、この家から3人も大学出したら大変です。食いぶちを稼いだ残りから300万円も掛かるんだもの。

娘たちはもう結婚してます。長女は気仙沼の大谷ってとこにいるし、次女は仙台で看護師さんをしていて、徳洲会病院にいます。私たちだけです。ここ歌津にひとり残っているのは。息子も結婚しています。息子はあまり私のところには来ないです。私の方が孫の顔見に行くだけです。

孫は7人います。内孫は2人います。


8 伊里前契約会の昔

今から、伊里前の契約会の歴史をぐるっとお話します。伊里前の歴史の中に定置網の漁業権があったんです。昔のこと、私が会長になる何代も前のことで、その漁業権を当時県に150万円で売却したんです。そのお金は、その金額のまま、漁業権の補償基金として今も定期預金にして残っているんです。

当時は伊里前契約会には村を動かすほどの金があったそうです。漁業権を売ったのは何代も前の方々です。

9 伊里前契約会と、他の契約会との違い

契約会はここの辺の浜ごとにあります。

契約会によってルールはみんな違うんです。しかし『規約』がちゃんと生きてるところは伊里前契約会だけなんです。また伊里前契約会だけが土地や山を持っています。他の会は持ってません。

10 伊里前契約会の・構成・規約による役割

私が、伊里前契約会の会長になったのは、55才くらいの時かな。1期が2年で、4年間やりました。

会長は、総会でみんなの推薦でなるんです。契約会には16人の役員がいます。会長、副会長2名、会計、幹事2人、山係、芸能部等です。

伊里前契約会の規約による役割は

①  伊里前契約会が代々受け継いでいる50町歩(普通は、1町歩=1ha)位の山を1年に山を2回見に行くんです。契約会全員で。海を見に行ってから、山を見に行ったり、雑木が生えているから切ろうとか、刈り払いをしようとか考えて里山を維持しているんです。それを会長が計画をして、春と秋にある総会にかけるんです。その段取りが大変で。私も会長はやりたくなかったのさ、ほんっとに(笑)。仕事ができないですから。なんだかんだって。

今の契約会はここ3年くらい全然やってないんです。やっぱり代が変わるとこうなるのかなぁ?って、年とった人たちは言ってるんです。なんもしないで、山がどうなるのかなと。今のように3年ほったらかしてあるのは気になります。今は私は顧問だけど、何の権限もない立場です。会員の方に、たまに「あそこ、こうやったらいいのに。」くらいは言います。そうでなくても3月11日の前はみんな海の方で忙しかったから。自分たちの職業ですからね。

②お祭りは、4年に1回三嶋神社の大祭を執り行います。但し何か大きな行事があったりすると、その間でも、お祭りを行います。田束大橋ができた時にもやりました。

私が会長のときには、お祭りに使う紙花を、知的障害者の方とボランティアの方に作ってもらいました。

保健センターで集まって、作り方を手取り足取り教え、時には手伝って。1週間から10日かかったかなぁ。

自分の仕事そっちのけでやらないとできなかったですから。大変な仕事です。

③契約会は、自分が会員になっていても、息子が結婚するとその場で代が交替なんです。私の息子は私が2期やってるうちに結婚しましたから、私も契約会をやめて息子を入れたんです。息子が結婚しなければいつまででも会員です。今81歳の方もいらっしゃいます。跡継ぎいなくて。

④契約会では、特別収入があったりすると旅行に行ったりします。

契約会には代参っていって、もともと契約会のなかで八組に分かれていて、そのうちの2組ずつ神社にお参りに行くんです。春と秋と。総勢約20名で、塩釜神社と、岩沼の竹駒神社とに、お札を貰いに行くんですね。行った約20名で一晩お酒飲んでくるんです。遊びに行ってくるんです(笑)。つまり、朝7時に出発し、朝塩釜神社に着き、9時ごろに御祈祷して、その後竹駒神社に行って、御祈祷して、竹駒神社の近辺でお昼を食べて、そのあとは行き先を決めて遊びに行くんです。北に行く組もいるし、鳴子に行く組もいるし、福島に行く組もいるし。その組で違うんです。代参は、ぐるぐる回りでいくので、遊びに行く組がうらやましいとかはないでね。代参行くときは2組だから、話し合いはあります。お金かかりますし、会計報告も2組だけで開かれます。

総会の時には自分たちで料理するんですよ。前に代参に行った2組でみんなで料理するんです。

どんなものかって? 高級な料理ですよ(笑)。季節のものです。秋には地元で採れる白菜、牡蠣、タコ、さしみ、煮魚などを料理し、春にはメカブだの、ワカメだの、ホヤだの、春マスの塩焼きにして食べさせるんです。行ってきた男連中でやるんです。経費は会から半分出て、個人で2000円ずつ出すんです。いつかなぁ。こういうことしねえで、民宿でやるか!?って話になって。けど、今まで続けてきたもんだから、ずっと継続していったほうがいいんでねぇかと、そのまま継続してるんです。民宿でやるのは楽なんだけど、自分たちでやったときの味が出ないんでないんかなぁ。作るのが楽しいんでねぇ。家では何もしないような人が、出てくると やってるんですからね(笑)。準備は組長(班長)が取り仕切るんです。

私が契約会をやめて息子の結婚式をしたときには、家の前がお祭りみたいだったよ。ホテル観洋で結婚式挙げたんだけど、230人くらい集まりました。観洋がいっぱいになりました。獅子舞が2頭出て、伊里前契約会にある魚竜太鼓のメンバーも20人くらい集まって。

魚竜太鼓は和太鼓だけど大きな太鼓です。100何号くらいあるのかな、こんな大きな太鼓です。叩くのは男と女。若い連中。震災に遭ってからは、魚龍太鼓は1回もやってません。メンバーになるのは、今この地区にいる若い連中なら誰でもいい。契約会に入っていなくても。そういう制限してたら叩く人がいなくなります。お祭りとか契約会会員の結婚式なんかあると、しょっちゅう出て行く。頼まれれば行くけどね。若い連中もどんどん外に出さないとだめなんです。

*歌津魚竜太鼓:歌津町内の海岸で相次いで発見された魚竜化石は世界最古の2億4200万年前のものとされ、「ウタツザウルス」の学名で天然記念物として国の文化財に指定されている。

「魚竜太鼓」はこの化石の発見にちなみ、昭和63年の牧野町長が提案し創設された。構成員は20名。志津川、歌津地区での活動がメイン。平成18年に気仙沼法人会より自然文化伝承部門賞を受賞している。

11 町村合併後の契約会の変質

歌津町でいたときは、年に2回、契約長会議をやっていました。歌津町から町の三役のうち1人が出席するかして、各契約会の代表が出席しました。

今の保健センターのところにあった役場に契約会の誰が行っても、町長がいると、「おーい、こっちへ来てお茶飲めや」と声がかかる。お茶飲むってことは話を聞いてくれるってことです。こういうことだから頼むと、わざわざ陳情に行くんです、そんなふうに、各部落の契約会が気軽に役所を訪れて、街の三役が常に話し合いをしていました。暮れには、各契約会がお金を出し合って忘年会をやっていました。だから、町にまとまりがあったんです。契約会長が先頭に立って部落をまとめて、部落の区長がその下にいるんです。だから浜に行ったら部落の契約会長は強かったんですよ。6500~7000人規模の町だったから、まとまりが早かったですよ。

合併して南三陸町になってからはそういうのがなくなってしまったんです。区長にはなにも権限がないし、契約会長の話も町で聞いてくれない。このごろは誰も陳情に行かないし。前は契約会が音頭をとって行くのが普通だったんです。町議会と契約会が顔を合わせる機会はもうないです。今は他の契約会との交流はありません。


12 震災当日の記憶

震災当日は作業小屋にいました。朝から、よそのお母さんたちと4人でワカメの作業をしていました。
あの時は、お昼食べて2時だから、ちょうど練炭とストーブの一番燃えいいときですから(笑)。2時46分だったかにありました。地震がきたときは、一番先に自分が外に飛び出たんです。ドア2枚ありますから。足でけったら壊れるんだけど、まさかそういうこともできないんで、一番に開けて。それでお母さん方に一番先に言ったのは、「火を消して帰ってください」と。すぐ帰りましたよ、みんな、無事です。あの、気仙沼市の大谷に帰ったのも、間に合いました。あと、子供を学校に迎えに行って車で避難した人もいたんです。

一緒に作業していた人のなかで、自分たち夫婦で逃げるのに、隣に住んでる2人のばあちゃんを置いていくのはかわいそうだって助けているうちに波が来て、自分の家の杉山を登って、そのばあちゃんたちを引っ張って行った人たちがいるんです。そのばあちゃんたちがよく歩けないもんですから思ったように動けなかった。とうとう自分たちのところに波が来て、最後に手を離したらだーって流されてしまった。2人とも水につかったって言ってました。1人のばあちゃんが亡くなったそうです。

13 津波を予測し、仕事の道具を守る行動へ

私はみんなを帰したあと、その小屋の前に軽トラを置いてましたから、それに乗って、海岸にいって、船の30メートルのこんな太いロープを切ってきて。岸壁のところに縛ってあるもんだから、そうするとどこでも軽く浮いて流れ、転覆はしないだろうと思って切ったんです。その船はどこさ行ったらわかんねぇ(笑)。

それで、家に行かないで、軽トラを置きにすぐ山に行ったんです。そして、それを置いて帰ってきて、家の前にデミオ(小型の自家用車)を道路に出して、エンジンかけて海岸に行ったんです。

14 潮が引かない大津波

海岸を見に行くと、沿岸あたりは、ずいぶん人が集まっていました。家の向かいの野郎っこと2人で、海の様子を、沖のほうをぐるーっと見て、「ああ、だめだぞ、行くべ!」ってすぐに逃げてきたんです。沖が真っ白になったんです。普通なら津波だと、来る前はうんと潮が引くんです。けれど、今度の津波では、潮が引かないんです。津波が来るまでに20分か30分くらい時間あったんですけど、春にアサリ掘るくらいしか潮が引かないです。島の沖の方で、海が真っ白くなって志津川のほうに流れて行くのを見て、「ああ、これダメだ」って2人で行こうと。集まっていた人たちに「何やってんだ!何で逃げないんだ!沖真っ白だからダメだ!」って言ったんだけど最後まで「行かない」って言い張っていた。その最後まで残ってた2人は津波の中泳いだみたいです。這って、這って、階段登ったみたいです。私らが車でもとの所を逃げるときも、ここらへんには、ずいぶん人がいました。残ってたこの辺の人たちは、もう2回も3回も方向を変えて逃げなければならなかったんでないですか。こっちからくる津波と、あっち来る津波と、2方向からの津波がぶつかりましたから。

そして、あの、自分の土地が高台にありましたから、車を置いて、海の方見に行ったんです。「これはだめだ。」と思って女房の様子を見に行ったんです、すぐ近くですから。「ああ、こりゃだめだぁ」と思って。うちの孫のところのお義母さんに、こっちはダメだから伊里前小学校へ避難しろと逃げるようにいいました。

そしたら、伊里前小学校も危なくなってきて、中学校に避難しなければならなくなったんです。学校の先生方は、みんなを学校の外に出して、自分たちが先頭に立って役場の職員たちも、全員誘導にあたってました。だから子供たちは誰も亡くならなかった。幼稚園の子供たちも亡くならなかった。志津川は、チリ地震の時に5メートルの堤防を作ったから、大丈夫だろうと思って油断していたんだね。

中学の避難所では、子供たちは父兄が迎えにくるのを待っていました。電話も通じなくなったので迎えに行くのに時間がかかったんです。うちの息子たちも伊里前小学校にいたんです。歌津駐在所には警察官が1人いました。連絡係として。歌津の役場は公用車を先に高台に上げて、自家用車をそのあとあげたので公用車は使うことができました。それで小学校の3階にあった毛布をすぐに子供たちが避難している歌津中学に運んだんです。これはその場の判断ですね。

普段練習している訳ではないんだけどこの辺の子供たちは、小さいうちから様々な話しを何回も聞いてるから地震がきたら必ず外へ出るよ。

地震になったらすぐにジャンパーを着せて靴を履かせて1回外に出す。そしてテレビを見て津波が無いなら戻ってきます。だから歌津の人たちは亡くならなかったんじゃあないかなぁ。亡くなられた人たちは1回逃げて戻ったのが理由じゃあないかなぁ。私も海岸から逃げてきて、エンジンかけっぱなしで家に戻ってすぐに出ました。家のばあさんが、孫の何を持っていこうかと聞いてきたけど、そんなバカなことをしているなーって言ったんだ。入って、オシメの鞄1つ掴んで終わりですよ。そのちょっとした判断で生死が分かれた。

15 気転を利かし焚き火で暖を取る

私は山のてっぺんに行って、海の様子をしばらく見てたんだけど、どうも寒くて。雪降ってきましたから。こりゃだめだな、と思って歌津中学校避難所に行きました。でも、中学校に避難したって火の気ないですから寒いのは同じなんです。

実は、12月にその中学校の後ろの大工さんが火災をおこしました。その大工さんのところに、私も応援に2日くらい行ったのかな。後片付けに。忙しかったけど。その大工さんがいたので、木を切れないかと。「何すんだ?」「校庭で火を焚くんだ」と言ってね。大きなフォークリフトでひとまとめ取ってきてもらって。火を点けたところを、中学校の校長先生に見てたんだね。「弘司さん、なあにしてるんだ。」って言われたけど、そんでもこっちは。笑ってやった、そう言われてもどうも思わなかったわけだから。ほんでも今燃しているのは枝なので、火がひと晩持たないなと思いました。自分の車のところに、桑の木を切ったものが15本位あった。夏に切ったからちょうどいいころに枯れたのがあったんだね。それを軽トラ2台位積んできてね、そこで2晩焚きました。最初は1人か2人あたってた。だけど時間が経つとそこさ一杯になって。寒かったから。

寝られないんです、寒くて。どこも温まりに行く所がないんです。

毛布も何もなかったから。そしたら中学校の校長先生が学校のカーテンはみんな外して持ってっていいって言ったんです。毛布がわりに体に巻いてね、年とった人とか暖めるのにね。

そうして、夜の9時あたりかな。消防の連中がポロポロ帰って来たんです。水門をしめて来た連中が、瓦礫にさえぎられて一時戻れなくなってたんです。みんな平成の森のところから山を上がって、山を回って中学校のとこに出て来たんだね。だから時間がすごくかかってしまって9時、10時なんです。みんな寒さに身を縮めてんだ。12時近くに火を焚いて、それを囲む輪がばーっと大きくなってきたときに、駐在さんが来たんです。「駐在さん今までどこにいたんだ?」って聞いたら巡回中に津波がバーっと来て、車をバックで逃げて助かったけれど、地元の人ではないから、どうやって中学校の方さ来ていいか、わかんなかったって言ってました。時間かかったんだね。すぐのとこなんだけど。歩いて帰って来たからねぇ。もうすっかり体がだらりとなって。12時過ぎかなぁ。その人が来たの。歌津中学校には、400~500人いました。そのうち火にあたることが出来たのは30人位です。


16 避難所の生活

避難所の中学校には6月の中頃までいました。最初避難した時は、食器やら、箸やら、なにもないんです。みんなで裏山に竹を切りに行って、箸つくってみたり、竹をくりぬいてコップを作ってみたり。ほんとに昔の原始人みたいなことやりました(笑)。あかり(電気)は戻って来ませんでした。

避難所にいたときは、朝4時や5時に起きたんです。外を掃いたり、号令かけて色々している間に、物資が来るので、その片付だとか、なんだかんだしてるうちに9時、10時になってしまうんです。

物資をヘリで運んで来たもんですから、人足がいなかったもんで。みんな今日ヘリが何台くるからって嘘を言ってね。総務課から今日は5台くるといっても10台来るって言って。そう言わないと居なくなってしまうから。あそこの中学校の後ろにテント小屋を作ったんです(笑)70何人、一番多い時でいましたね。私が避難所で中心になってやっていました。誰かかれかが犠牲になってやらなきゃいけないんでやったようなもので。

中学の避難所では、仕切りは後になって配られたけど使わなかったね。他の所は、使っていたようだけど。

この間、バックに入っているものが見つかったって、志津川警察署から手紙もらいましたから、取りに行ってきました。バックのなかに、おふくろがみん~な入れてたんだなぁ、古い通帳なんか。年取ってから詰めたみたいなんだ。まだ中身を開けてみてないんです。その代わり金庫は見つかんねぇな。流れたんでない。

伊里前の人たちもお金を無くした人たちが結構います。高齢の人で娘が家を建てる時にお金を貸して、毎月その返済のお金が入るので、茶箱を買ってその箱に詰めていたらしいんです。それは。余程大きな金額だったらしい。あと公務員を定年退職してうちで20年くらい働いていた人が、金庫が流されて見つからないって言って、心配していたんだ。そうしたら、家から1.5キロメートルくらい離れた所で瓦礫の片付けをしていた業者さんが見つけて鍵が付いてたんで開けたら、定期通帳や様々なものと一緒に現金300万円か400万円入っていた。その業者さんから社長のところに行ってその人のところに戻ってきた。

うちの女房も警察署に届けられたバックの他に、拾われた本の間から、名前入の現金の入った封筒が出てきて、戻ってきました。

17 復興にむけて

復興にむけては、最初はワカメをやって行きます。この小屋建てて、今は毎朝1時2時には起きてきて、5時まで種をつくって、今種が海に300枚くらい入ってます。朝早くて、眠いのは眠いけど、やるとなったからには責任があるからやるようなもんで。前の晩は9時、10時に寝ます。この20日あたりから海に出て毎日仕事することになるかな。2月あたりにワカメを収穫します。ワカメは1枚ずつテンバタ(凧)みたいにして、9月20日にはそれを深いところから潮の浅い沿岸に出すんです。太陽光線に当たるようにしないと育たないんでね。光合成ができないと芽が出ないんです。
収穫が楽しみというか、自分で作ってないからね、漁協さんから委託されてるから。船借りた連中からなんぼか返されればと思います。自分の道具を持って、震災後気仙沼(漁協)に行って自分でワカメ種付けのロープを作りました。漁協さんにできたワカメを渡せばそこで責任は終わりですから。漁協さんであとみんなやればいいんです。去年はうんと作ったんです。災害は、何もなかったですから500網くらいやったかな。

ワカメの養殖

①袋の中にメカブとのれんのような綱を入れます。


②浮きと重りを付けて①を海に浮かべ、メカブの胞子を綱に付着させます。

③胞子が付着し芽が出たのれん綱を取り出し、本縄に特別に作った道具で新芽を付けます。


④浮きと重りを付けて、新芽の付いた本縄を海にゆだねます。

⑤月の終わり頃、成長したワカメを収穫し、1トンタンクに茹でたワカメを入れ、重石としてカゴに25キロの塩を2袋ずつ入れ水分をとり、それを繰り返します。

⑥タンクから取り出したワカメをタンクの中の塩水で洗い、ばっちゃんにワカメの芯を取ってもらって乾燥機にかけます。それを15.5キロの箱詰めにして出荷します。


⑦そしてこれが2012年春の採れたてワカメです。



18 ひまわりのお話

ひまわりの種は、神戸の震災で亡くなられた、加藤はるかさんの庭に咲いたひまわりを、地元の人が育て、新潟中越地震の被災地に送り、そこで植えたひまわりを、中越で南三陸町志津川出身の、食堂をやっている方が届けてくれたんです。志津川の高橋自動車っていう車屋に。そしてその方が、志津川の旭洋設備工業の社長に、被災地に届けて欲しいと依頼されたんです。そして一緒にひまわりをみんなで植える会を作ったんです。その会は志津川から唐桑まで植える会と、志津川から気仙沼市まで植える会があります。気仙沼の代表は三浦さんです。

中越からは40万個の種が送られてきました。その種を、歌津の避難所のばあちゃんたちが袋詰したんです。30粒ごとカップに。それを気仙沼の避難所をぐるーと回って、今年(2011年)のお盆には花が咲くように配布したんです。それを5月頃、避難所のみんなで、空き地に植えたんです。気仙沼の一番のメイン通りです。バイパスから下がって2キロくらいが、本当に見事でした。8月ごろ。歌津では小学校・海水で浸かった田んぼ、泊の遊んでいる土地、後はゴルフ場に植えました。そこで一番初めに収穫した種を花のまま、神戸に贈りました。今度、神戸の人たちも、中国領土の島に植えないかって話しがあったけど、途切れたみたいです。ひまわりは、肥料を最初からいっぱいやれば、花がナンボでも大きくなる。牧野町長が写真を持っているかな。牧野町長のひまわりの会。

ひまわりの会は2月に、気仙沼出身のディレクターが音頭をとって、みんなを集めて、新年会をかねて民宿で集まる予定です。その集まりで何か決まるかもしれない。そして、このひまわり会のメンバーの人は、気仙沼の市長やら、上の人が含まれています。本吉の前の千葉町長、歌津町長と、志津川の阿部町長は息子の元へ避難中です。今度の春にも私らが中心になって植える予定です。去年できた種が、米の袋で、4、5袋取っておいてありますから。天皇皇后両陛下も、伊里前小学校にひまわりを見に来て下さいました。1回だけでなく、帰りももう1回黙祷にいらしたらしいです。

ほんとにあれだね。ほんとに、ひまわりは塩分に強いですね。ぐるーと、この歌津町のこの流された田んぼの後に、随分咲きました。やっぱり、ひまわりみたいな黄色い丸い花はいいんじゃないですか。みんなで大きくていいなーって話していた。ひまわりをね、ばあちゃんたちと一緒に仙台空港まで、黄色いTーシャツを着て、外国から来た人たちを、迎えた。ひまわりを10本位花束にして。花束をひまわりで。ああいう、なんていうの、まあるいし、どこいっても目立つんだ。(終わり)


*「三陸ひまわりの会」は、自ら息子さんが津波で行方不明となり、避難所生活をおくる牧野駿・前歌津町長や、千葉仁徳・元本吉町長、鈴木昇・前気仙沼市長等が顧問となっていました。
気仙沼市、南三陸町で、震災復興の願いを込め、被災者やボランティアが震災後に植えた「ひまわり」が仙台市で8月1日-3日、APECの特別会議(防災、災害がテーマ)に参加する国際チームを仙台空港で出迎え、海外のみんなさんにこれまでの支援の感謝と、復興に取り組む宮城の被災地の「元気」を伝えまました。気仙沼「ケアハウス ソレイユの丘」「気仙沼C.C」、南三陸町「番屋」「ひまわり農園」などに震災後に種をまいた「はるかのひまわりの花」をフラワーポットに入れ、同じく津波被害を受け甚大な被害を蒙った「仙台空港ターミナルビル」のAPEC会議参加者が来仙する仙台空港ターミナルビル到着ロビーに並べ歓迎しました。第1便が成田空港から到着する8月1日夕方には、津波被災で避難生活をしている「ひまわりの会」の会員や実行委員が、ひまわりの花の束をAPEC会議参加者に、手渡しました。
また、到着ロビーに空港ターミナル内に「被災地の復興の様子や、神戸から各地の自身被災地をリレーして多くの元気をいただいた「はるかのひまわり絆プロジェクト」の紹介をパネルに編集し、APEC開催中に、海外から会議参加者や、同行する海外メディア、および一般の空港利用客に、復興状況と合わせて展示されました。

番外編 三嶋神社のお祭り

お神興の奇跡

復活した暴れ神輿

三嶋神社はあの地震で壊れて直した時に、ご神体を出したんです。そして神主さんも私たちもわからなかったんです。恵比寿大黒の神社だと。そういうところが初めてわかったんです。

お神興は契約会芸能部が管理しているんです。伊里前出身の東京で成功した方が、お神興を2つ<寄贈して下さったんです。その2つがみんな流されてしまった。子供神輿もです。

ところが、伊里前小学校に、運送業の大葉勝治さんていう方がボランティアでいらして、軽トラックで果物を伊里前小学校に運んで来たとき、そこの小学校の下の神社はなんだ?って聞かれたことがきっかけでした。私も車で、小学校まで送られて行ってお話しして。あそこは三嶋神社という祠だと話し、お神興の形をお話しすると 伊里前の三嶋神社が大葉さんの地元の静岡県の三嶋神社と同じ流れの神社だったことがわかりました。それから始まって、寄贈してもらうことになったんです。

贈呈された御神輿の魂入れにて。氏子総代の小野寺さん

魂入れの厳かな儀式を見守る

4月1日かな。伊里前に持って来るんです。お神興は100万円以上だねぇ。うちの方の神輿のあの塩釜神社の神輿で2、3000万円するんでないの。三嶋神社のお神輿だって2000万円位だって言ってた。漆を塗り直そうとして500万かかるって言われて止めたんです。それがこの震災でぱっと流された。

このDVDはね、そこの高台にいた方に、ないかーて探したら出てきた。その当時これを100本以上作ってみんなに買ってもらったんです。そいつが残ってあんだね。この頃はね、魚竜太鼓も、ずいぶん人が集まってきました。

そしてこないだもねー。三陸中間道の警戒の区域の確認に行くのに、私もよくわからないから、先に行ってるー、って行ってたの。そして警戒区域確認して。時間早いから仲間とコーヒー飲みながら周りをぐるぐる回ってたら、一緒にいった仲間にあれー? おんなじのあるよーっていわれて。そしたら獅子舞の貴重なモンペがでてきたの。それをほぐしてそのものに作るかーって、今話になっている。だけど今年のお祭りはみんな仮設に入っているからでません。だけど裾野市からこっちに持ってきた時、そこでやるかーて。3月の30日か4月の1日だね。このお祭りをやると地域の人たちほんと1つになるんだーねぇ。三嶋神社もぱっと直しましたから。

地震で壊れた分。神社に鐘があるんですけど、あれも伊里前契約会で作ったんです。

この辺の神社は、鐘があるところが多いです。御崎様、御崎神社にもあります。分離でなく、戦争当時に持って行かれたんだね。それで鐘がなくなったんだね。

お神興は2日前から準備します。三嶋神社の階段も上がります。階段を上がるのはそんなに大変ではありません。お神興は17、8人でお神興を担ぎます。ずいぶんあばれますよ。うーん。あばれるっていったって中心に入っている人が気が荒ければあばれる。(笑)

私はお祭りを何回担当したかな。2回やったのかな。私が担当した時に業者呼んでDVDに撮ってもらったんです。やっぱり写真だけでは残らないから。子供のだしも結構壮大です。これは神社の魚竜太鼓です。

みんな流されましたから。これ獅子頭4頭か5頭あった。それも流された。子供たちも一緒にやる太鼓屋台もあります。みんなそれを1回やると次にまたどういうふうにやるか様々な話をして今度ああゆうふうにやるか、こういう風にやるか、とか話が出てくるんですよ。この花だって。脇にある飾り花。これだって500本くらい作ったのかな。今一番古い奴が出てきますから。獅子舞って2人で入るんですね。お獅子は2種類あって普通の赤いお獅子と黒い顔の権現獅子がいます。両方しっぽもついています。ここの小さい子たちはこのお祭りを見ていつかは俺がやるんだって、そういう気持ちですね。魚竜太鼓の写真は何も残ってないな。うちの息子もやってあんだけどあそこからみんな流してまった。魚竜太鼓の歌はこの辺でいう、ドヤ節だな。確かそんだあな。ドヤ節かな。叩く道具はそこの小屋に入ってます。太鼓もいまだら7、8000万円かかるんのかなあ。

あの太鼓作るに。あのおっきな1メートルくらいの太鼓くらいですからから。今はもうあまりどこも行かなくなりました。太鼓もうんと減りまして。若い連中は歌うまいのまだいるからなぁ。こういうのをつなげるの、ほんと大変だあね。

この本は、2011年9月4日と2012年1月21日に、
小野寺さんの仮住居にて
小野寺弘司さんからうかがったお話を忠実にまとめたものです。

[取材・写真]
2011年9月4日

藤本磨臣
杉浦克彦
深大基
刈田唯可

2012年1月21日

織笠英二
土田照美
丸尾依子
河相ともみ

[年表]
河相ともみ
織笠英二

[イラスト・文・編集]
土田照美

[発行日]
2012年4月21日

[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
http://www.rq-center.net

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Information

投稿日:2012.07.01
カテゴリー:自分史.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ 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指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 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