これは、南三陸町歌津の樋の口に生まれ育ち、山と森を守りながら生きてこられた山内孝樹さんの自分史です。
山内さんは、多忙な毎日の中でも、ご自分の信念を大切にされ、いつも周囲への思いやりにあふれた、とても大きな方です。横座(家長の座る場所)でお話しくださるお姿には家長としての風格が漂うのですが、そのお話はとても楽しくテンポがあり、毎回時間の経つのも忘れてお聞きしました。
テンポ。そう、山内さんにとって、ロックとの出会いほど鮮烈で強烈なものはありませんでした。その後の人生の場面・場面に、いつもロックが、歌が、音楽がありました。その音楽を聞けば、厳格なお父様、おしゃれなお母様、素敵な奥さま・・ご家族の思い出が流れ出し、溢れるのです。
訪問の度に、奥さまにもお嬢様にもご一緒していただきました。ありがとうございました。長い時間にわたり、お話しくださいました、山内さん、奥さま、お嬢様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
昭和28(1953)年8月23日、乙女座生まれです。家業は林業。父は歌津町議員も務めていました。6歳上と4歳上の姉が2人います。
現在の住まいは、築58年の木造建築です。林業という仕事柄、お客様より良い材木を使うわけにはいかないので、柱には栗の木なども使用しています。昔ながらの造りにこだわった田の字造り(平面を4部屋に区切った形が「田」の字に似ていることから)の家です。広い土間に大きな部屋が4つ、その部屋の両側に廊下があり、奥の離れへと続いています。田の字造りというのは、ふすまを開放すると大きな広間にできるので冠婚葬祭を家でやる時代には大事な機能でした。
私が25、26歳までは、このあたりは土葬だったんです。奥の床の間のある部屋の神棚の下に二間の押入れ(お母様のご希望)と、離れへの通路にも少し収納がある程度で、家の広さの割には収納が少ないと思います。学童期は「自分の部屋」に憧れましたね。長机を持っていろいろな場所に置いてみるけど、広い空間に独立した空間を作ることが難しくて、よそに遊びに行くと小さいながらも子どもだけの空間があるのがうらやましかったものです。
この家に祖父母、両親、姉2人、自分の7人家族。そして、離れに叔父叔母夫婦と、その子ども、つまり従兄弟が3人の5人家族の2世帯が住んでいました。あとは、うちの土地を借りて、うちの仕事の手伝いをしていたおばあさん、おじさん、そのおばあさんの兄弟、住み込みの方のご夫婦の6人が住んでいましたから、全部合わせると同じ敷地内に3家族がファミリーだったんです。そのうち2家族が、ここで一緒に食事をしていました。家長が座る場所「横座(ヨコザ)」に祖父が座り、次には父母が座って、正座して全員そろって食事をしました。こうして大勢でご飯を食べることが、とても自然で当たり前でしたね。ガス釜じゃなく、薪(まき)を使って竈(かまど)で米を炊く時代です。薪は、冬の前に、父と叔父さんと、大勢手伝いに来てもらって、斧で薪を割って木の小屋に確保していました。昔は囲炉裏端でいぶしていたから、柱のあちこちが真っ黒になっていたので、張り替えています。
家業は本業の林業が主体で、山を約120ヘクタール所有し、昔は馬も1頭飼っていました。その他には田畑が1ヘクタール以上あって、この田畑を借りて耕して生計を立てている方たちが近所に住んでいました。麦を畑で作っていた時代です。
叔父は、馬の世話のため、朝の草刈り作業に行く時は、木の弁当箱(ひつこ)にご飯と味噌や梅干を入れて持って行ったそうです。
小学校3年生までは近くの上沢分校に徒歩で登校していました。小学校4年生からは、伊里前(いさとまえ)小学校へ自転車で通いました。
本校では最初はお弁当でしたが、お弁当を手で隠して他の子に見られないように食べている子がいたのを覚えています。麦飯のお弁当に海苔を一面にベッタリとはって醤油をたらしただけのお弁当などで、見られるのが恥ずかしかったのかな。私自身は、そういう食べ物が大好きだったんですが。
小学校4年生から給食になって、食事の雰囲気は変わりましたね。皆が同じものを食べられるようになったんです。割烹着に三角巾をつけた給食当番が、寸胴鍋を運んで、アルマイトの入れ物に分ける。好き嫌いもできないし、みんなで和気あいあいと食べられることが嬉しかったです。脱脂粉乳が苦手で、飲んでもらう代わりに別の物をあげる子がいたりしました。私は、小学校3年までは先生に注意されるほど好き嫌いが激しかったのですが、そのうち好き嫌いがなくなりました。
それでも淡水魚はいまだに苦手です。渓流釣りは好きなんですけどね・・。
当時は停電になる日があり、その時だけは給食が出ないので、お弁当持参の日というのがありました。その日は、お弁当を持ってくることができなくて外で時間をつぶす子もいて、今でも忘れられないものです。長じて自分が親になり、PTAの役員をしていた時に、保護者が給食の味に多くを注文する場面を目にして、そういう保護者にも給食が出来た理由を知って欲しいと思いました。我々の時代に、子どもの栄養の偏りをなくすためにできたのが給食です。みんなで楽しく平等に食事ができるための給食なんですね。
小学校のPTA会長を、校舎建設の時期に友だちから跡継ぎを頼まれて3年間務めました。運動会の挨拶で「お母さんの作ってくれた日本一のお弁当が待ってます。がんばりましょう」と挨拶をしました。2年目は「世界一のお弁当だ!」、3年目はとうとう「宇宙一!!」(笑)。今思えば、PTA会長の挨拶としては、父子家庭の方への配慮が足りなかった。申し訳なかったなぁと思います。
ただ、私の気持ちとしては、どこのレストランで食べたって、どんな美味しいラーメン屋で食べたって、味の原点はお母さんが作ったお弁当だと思います。日の丸弁当でも海苔弁当でも、それがお母さんの味だと思います。
子どもの頃の思い出の味といえば、食事は、母と、叔母さんたちが連携をとって作っていました。味噌汁はちょっとしょっぱかった。叔母さんの白菜漬けが、すごく美味しかった。お袋の味というと、そういう叔母さんの味も一緒になっています。母の料理で覚えているのは、卵を薄く焼いて海苔で巻いたものや、当時はハイカラなカスタードクリームを手作りしてくれたことがあります。まだバターが珍しい時代に、ご飯に落として食べたりもしました。母は、モダンでしたね。なんでも美味しかったですよ。
上沢分校とスクールバス
出典:旧歌津町町制記念パンフレット
伊里前小学校旧校舎
出典:旧歌津町町制記念パンフレット
小学校4年生の頃から、「山の子なのに、毎日海にいた」と言われるほど自転車で海に行って泳いでいました。遊泳禁止区域のロープよりも先の防波堤辺りで、素潜りをしていたんです。そこでマイナスドライバーでアワビを獲ったりしました。ある浜地区に、ものすごい流れの速いところがあって、そこへ父と夏休みに行って潜ったことがあります。流れが速いので海藻につかまって引きに耐え、波が落ち着いた時を狙ってアワビを獲るんです。
唐島もきれいでしたね。そこで素潜りしていたら、ある時見つかって(笑)、「右手挙げてみろ!」「左手挙げてみろ!」「両手挙げてみろ!」・・。で、バレて怒られました。
あの頃素潜りしていたのは、単純に冒険心からだったと思います。海の怖さを知らなかったんですね。海の怖さ、海の仕事の辛さは、大人になって海で仕事をする友人たちの話や体験を通して感じるようになりました。アワビとか、牡蠣とか、ホヤとか・・。われわれは一瞬で食べ、「旨いっ!」で終るけど、我々の林業と同じで、実は長いスパンで手間をかけて育てていかないといけません。その辛さは育ったものだけ見ていても見えないものだと思います。
海は、ある時ふと今まで何の抵抗もなく潜っていた場所を「怖いな」と感じるようになりました。それまでに、色々な事故とかがあったのも影響しているかもしれません。
唐島(からじま)。
館浜集落から南に2キロほどの沖合いに浮かぶ標高18mの小島で、周辺はアワビやウニの好漁場。
写真右手に見えるのが唐島、左手はウタツギョリュウの産地である館崎の岩礁
出典:南三陸町バーチャルミュージアム
小中学校は、ケンカとかもありました。先輩のクラスの給食のパンを前日に食べたりして、逆に先輩たちにパンを踏まれたりとか・・。
遊びといえば、凧を竹ひごを使って作ったり、腰に「ふくべん」を下げて、山へ栗やアケビやキウィ類に似たコウカの実を採りに行ったりしました。弁当を持っていく時は、お箸は持っていかずに自分でナイフで削って作ったり、それも遊びでした。
子ども時代の山内さん=右
「そぞめの木で作った箸は大丈夫」とか、「ここの湧き水は飲んだらダメだ」とか、先人の知恵を、遊びの中で先輩や大人から教わりました。Y字の木にゴムひもを皮に穴を開けて通したものを組み合わせて「ゴムはじき(通称パチンコ)」を作ったり、遊びの道具も自分たちで作りましたね。
高学年になると、杉の丸太で車輪を作り、板を渡して、簡単な軸を前輪の間につけて方向を変えられる車を作ったり、冬にはそりや竹スキーを自分たちで作ったりして遊びました。こういう物の作り方は、先輩から教わります。先輩には、悪い先輩もいたし、殴られたりもしたけれど、みんな、殴ったらいけないところや程度もちゃんと知っていました。けんかもして、それで力加減を知っていくんだと思います。遊び、冒険、けんか、失敗・・そういうことを全部通して、色々な痛みや加減を覚えてきたと思います。今の親は子どものけんかに口を出し過ぎです。
名前が孝樹(こうき)なので、小さい頃は「こっちゃん」って呼ばれていました。一つ年下の「いっちゃん」という友だち、それから「かんちゃん」という友だちの3人で必ず組んで、いっちゃん・かんちゃん・こっちゃんで、「三銃士!」です(笑)。
中学生の時に、ビニールハウスのビニールを、テントのように木に張って、ろうそくを立てるものを木にぶら下げて、うちの裏でキャンプをしたり、リヤカーに道具を積んで行って、2晩くらい泊まったりしたこともあります。キャンプ道具のない時代です。我ながら良くやったと思いますね。
実は、この3人で、とんでもない事をしでかしたことがあります。今の子どもたちには考えられないことですが、「鉄砲」のようなものを作ってしまったんです。
「ゴメンナサイ」と心の中で言いながら水道屋さんから2ミリくらいの厚い鉄管を失敬し、さらに狩猟の弾の使用済みの薬きょうを山で拾って穴を開け、鉄管にはめこんで、釘と木を使って引き金を製作。運動会の「ヨーイドン」のピストルに使う火薬を使い、爪ではがし、最初に少しティッシュを詰め、次に火薬を詰め、小っちゃいビー玉を入れて・・。
絶対やっちゃいけないんですけど、出来上がったものをいっちゃんと、かんちゃんと木に向けて撃ったら、木の幹にビー玉がめり込んだ! 音もすんごい!!
もう一丁ショットガンも作りましたが、これは、やっぱりあんまり短すぎてドンと撃ったら(弾が)すぐ下に落ちてしまいました。
ある時、告げ口されて、担任が(もう亡くなられましたが)「お前ら来い」と。
「おい、よく作ったな。見せろ」と言われ、「よーくここまで作ったけども、後はこれ、ちょっと俺がもらっておくから。2度とやっちゃいかん」と取り上げられました。叩かれるかと覚悟していたんですが・・。
ほめられたんだか、なんだか(笑)。
今の子どもたちはやらないが、遊びがドンドン、ドンドンと発展していって何かを作り出していたと思います。だからこそ、今の子どもたちに、「それは、やってはいけない」と言えます。
そんなふうに遊んだ友だちとは、けんかもしたけれど、今でも大切な友だちです。
子どもがけんかしただけで親が出て行く現在、私がPTAの会長をしている時にもそういうことはありました。どこそこの子どもさんと、どこそこの子どもさんがけんかして、校長室に来て親同士が話し合っている、「困った」と言ってくるんです。私は「いいからやらせなさい」と。なぜなら、けんかして、仲直りする方法を学び、相手に怪我をさせない方法とかを覚えるからです。私自身がいつもそんな感じでした。だから、わざわざ「けんかをやりなさい」ってことは言えないけれど、もしどこかでけんかがあってとか、そういうことが聞こえてきたら、後でこじれる様だったら間に入っても構わないので「やらせておきなさい」と言ったことがあります。
例えば「どうして怪我させたの?」とか言いますが、怪我をしてみて、怪我をしない方法を覚えるのだと思います。自分もアケビ採りに行ったりして怪我をして、そのときゃ泣いてね、それでも痛くなくなりゃまた登って、今度は足をかけて登れば落ちない! そういう自然や経験から得るものを大事にしてきました。今もってそれは変わらないと思っています。
それにしても、中学校時代の美術の先生にしばらくぶりで会った時、「今の子には彫刻刀を持たせられない」と話されていました。危ないし、下手すると人を傷つけるからだとおっしゃるんです。私たちも、ずいぶん先輩に殴られたりしたけれど、先輩のほうには、ここまでは殴ると痛いけれど大丈夫、そこを越さない、というブレーキのようなものがあったと思います。叩かれて先輩の上下の隔たりを教えられ、そうやって痛い思いをしながら、やってはいけないことを覚えました。
中学校の遠足で、今のような良い道ではなかったけれど、ずーっと泊浜まで歩いたことがあります。その帰りに、ある友だちに「こっちゃん、うちに寄ってけ」って言われて連れて行ってもらったことが嬉しくて、今でも忘れられませんね。連れ行ってもらったその子とは今でも友だちです。
子どもの頃のおやつといえば、豆もちもうまかった。いっちゃん、かんちゃんと3人でかくれんぼして、かんちゃんがオニになっちゃって、「まーだだよ」って言っている間に、ふたりで「食ってしまおう!」って・・。食べてるところを見つかって、「お前ら何やってんだー!!」ってね(笑)。
豆もちとか、すみもちとか、草もちとか、きな粉を絡めたものを、ばあちゃんが出してくれたりしました。また、同級生のおばあちゃんが、畑で作ってくれた瓜を冷やして食べさせてくれたのを覚えています。だから、本当におやつと言えば手作りのものでした。芋を茹でたものとか、遊びに行った家のおばさんが子どもたちに出してくれているのが、3時のおやつだった時代です。
それから、柿をくすねたりも・・「あそこの柿は甘いから食べよう!」ってかんちゃんが言うので食べてみたら渋柿で、「ウワ~!!」って口から出したり(笑)。そのあと、その渋だらけの口をどうしたかって言うと、今度は人様の家の大根をくすねて食べたり・・。そういうことを大人は黙って許してくれた時代でした。いっちゃん、かんちゃんとは、本当に3人でよく遊びました。
中学を卒業したら、とにかく東京に行きたかった。千葉の房総半島に農業学校があり、進学を口実に親に話をしましたが、父親に反対されました。それで津谷高校(今の宮城県本吉響高等学校)の農業科に進学をしました。
三銃士のかんちゃんは、中学を卒業すると立川の工場に勤めました。夏に帰って来た時、「おう、元気か」なんて言いながら、彼が買ってきてくれたのがビートルズのシングルレコード「ゲットバック(B面:ドントレットミーダウン)」。彼らしいお土産です。値段のところに見えないようにシールを貼って「こっちゃんはロックが好きだから」って。
彼はやっぱり苦労していて、夜間学校に通っていた時期もあったり、警備保障など色々な仕事について、それから地元に帰ってきてからも、大工や手習いをし、現在は建設会社で重機を動かしたりしています。友情は変わることなく、今でもずいぶん力になってくれます。
小学校の4年生の時ビートルズを聴いて、ブッ飛んだ! 洋盤に縁のなかった小学生の時、「ロッテ歌のアルバム」という番組に出てきたのが、美樹克彦の「俺の涙は俺が拭く」。詩はちょっとクサイんだけど、サックスのイントロがカッコよくて、指を鳴らしながら出てくる。それを母と姉が気仙沼に行く時に、「頼むから買って来てくれ」と頼んで初めて手に入れて、姉のお下がりのプレーヤーで聴きました。
その後には、ちょっといけない不良少年、ローリング・ストーンズを新譜カタログで見て興味を持ち、高校に入ってから初めてストーンズを聴いて「すごいな」と思いました。その後、ピンク・フロイドに出会い、「ナイルの歌」や「夢に消えるジュリア」とか(一節歌う)。自分に、音楽でトリップできることを教えてくれたのがピンク・フロイドです。
私をニューロックに導いてくれたのが高校の友人でした。シンナーを吸っていたのでラリってばかりの「ラーリー」って呼ばれていたんです。他人には「ヤッチャダメだよ」って言いながら、「シンナー吸うと、山内、サイコーなんだぜ」「なんで?」「部屋でシンナー吸ってレコードを聴くと、そのバンドが目の前に出てきて演奏してくれるんだぜ」って言う。「怖いな~」って思っていました。もちろんシンナーなんて吸いません。
ある日ラーリーが、当時のメジャーグループが気仙沼に来た時に、その類(たぐい)の何かをもらったというように記憶しています。彼は髪を長くのばして、いわゆるヒッピーに憧れていて「オレは就職なんかしないで旅に出るんだ」みたいなことを言っていたんですが、その彼も、年とともに「俺はまじめになる」と言うようになって、それがある日突然亡くなってしまったんです。
私は、髪を長くすると怒られるので、当時流行していたウルフカットにしていました。高校時代のおしゃれは、詰め襟をきちんとかけ、座るときは必ず一番下のボタンをひとつだけ外してました。憧れの仙台に行って、普通の学生服より襟が少しだけ高く、丈が心持長い、身頃をちょっと絞ってある学生服が欲しくて欲しくて、3年生の時にお金を貯めて買いました。お金は家の仕事を手伝ってもらったものです。お金は、必要な時は親がくれましたが、純粋にお小遣いとしてもらったことはありません。経済的には余裕があったのに、けっこう厳しかったと思います。
ある日、すごく可愛がってもらった養護の先生(もう亡くなられたが)と、あと1人のおばちゃん先生に、「ちょっとアンタおいで」って保健室に呼ばれてそのウルフカットをばっさり切られてしまった。「あんたのその、ヤギのヒゲみたいな髪を切ってあげる。そのほうがメンコイから」って。そういう学校生活でした。
とにかく、ロックが好きでしたね。高校へは、始発のバスに乗らないと間に合わないっていうので、朝早く起こされて、バス停まで自転車。原付の免許は直ぐ取れたんですが、少し突っ張って自分なりのこだわりが「自動二輪じゃなきゃいかん」ってことで、高校1年生の時に自動二輪の免許を取り、バイクを買ってもらってからは、バイクで通学しました。冬は寒いけれど、少しだけ大人になった気分でしたよ。3年生の時、「イージーライダー」が流行った頃で、どうしても欲しい250ccのバイクがあり、新車が買えないので中古を購入して、学校に行く前にロックを聴き、Gパンをはいて、当時なかなか手に入らなかったVANのトレーナを着て、精いっぱいのおしゃれをしたつもりで、袋に学生服入れて、学校で着替えるって・・、そんな風にして登校していました。
沢田研二や萩原健一(ショーケン)が作ったグループPYGというのがあったでしょう? 彼らの履いていたストライプのGパンが流行った時期があり、それが欲しくて買って、当時デザイン事務所にいた従兄弟が贈ってくれたブルーのサングラスをかけて、そういう格好で学校まで行って、学生服に着替えて、帰りもまた着替えて、土埃にまみれて帰るんです。あとは、友だちとトグロ巻いて、友だちのところへ遊びにいったりとか、そんな学生生活です。
高校3年の時、一度だけ学校をサボったことがあります。親父にも申し訳ないなぁ、と思いながら、どうしても観たい映画があったんです。
その映画が、『猿の惑星』です。
チャールトン・ヘストン主演の映画で、雑誌で見て「観たい!」と思い、ついに気仙沼で上映することになって、もう閉館しましたが当時気仙沼市に洒落た映画館があったんです、町の真ん中の丸光デパート(今はなくなりました)のそばにありました。すごく素敵な小さい映画館で、洋画を沢山上映していました。
映画館は、うちでは連れて行ってくれなかったし、行けるもんじゃなかった。映画に行くってこと自体が不良だった時代です。で、オヤジに「学校に行く」って言って、学校には「病院に行く」ということで、学生服を着たんだけど、コートを上から着込んでバスに乗って・・。今思えば、どこから見たって高校生なのですが、病院に行くふりをして、途中で降りないで気仙沼までバスで行って、初めてドキドキしながら「猿の惑星」を観ました。切符売り場で「学生1枚」って言えないのが辛かった~、「大人1枚」って(笑)。当時300~500円くらいで観られたと思います。映画そのものはすごかった! その後に、DVDを購入しましたが、本当にショッキングだったことを覚えています。
高校卒業後はデザイナー学院へ行きたいと思っていました。横尾忠則が好きで、グラフィックデザインに興味がありました。小さい頃からの物づくりや、音楽、従兄弟のデザイナーの影響もあったと思います。
しかし、親には、当時学生運動の時代だったこともあり仙台の大学にもその影響があったので、花巻にある奥州大学へ行ったらどうかと薦められて入学しました。
この学校は関山義人氏が創設した大学で、朝から晩まで日の丸が揚がっているような学校でした。1クラス70人足らずで、大学1年生で寮生活を薦められて入寮しました。1年生は1年間学生服を着ているように言われたり、「自分」と名乗るように指導されたり、先輩後輩の関係に厳しかったり、少し軍隊的な傾向の強い学校だったと思います。大学2年生からは学校に紹介してもらった下宿へ移りました。まかない付きの約束だったのが、だんだん食事がきちんと出てこなくなって、お腹をすかせた私たちは近所の総菜屋さんに食べさせてもらったこともあります。その恩は忘れられないですね。大学時代は、とにかく腹が減りっぱなしでした。
学校では経済学部経済コースに在籍しましたが、政治学や経営学など興味のあるものはどんどん履修しました。
当時、友だちがバイトを探していて、クリーニング屋の仕事を見つけてきたことがあります。車の免許が必要と書いてあったので、高校3年生の時に普通免許を取っていた私をダシに「一緒に雇ってくれ」と勝手に交渉してきて、友人共々めでたく採用となりました。詳細がわからないまま、私もアルバイトの報酬を皮算用して楽しみにしていました。それが、なんと時給が100円!! がっかりしましたよ。といって、いまさら断るわけにもいかなくて・・。当時バス代がちょうど100円でした。
しんどいし、稼ぎにならないし・・。後に時給を上げてもらえましたが、それでも時給150円。授業のない時だけしか働かないので、お金を貯めるどころではありませんでした。そのクリーニング屋さんは、大きな会社への出入り業者で、花巻ではクリーニングの上手な店だったと思います。車の運転ができる私は、お店の奥さんを乗せて、お得意さんへの配達やそういう大きい会社の回収の仕事もして、友だちより1時間くらい長く働きました。色々社会勉強させてもらったと思います。2ヶ月ほど働いて、年末前に帰省を理由に辞めました。わずかな給料は友だちと合わせて、当時流行のアイスクリームのクリスマスケーキを問屋でまけてもらって、それから安物のシャンパンを買って、クリスマスを祝って使い果たしてしまいました。
大学を卒業すると、当然のように家に戻り、月1万円の給料(小遣い)をもらって家業を手伝うようになりました。しかし、どうしてもきゅうくつで、もっと社会勉強をしたいと思い、家を飛び出しました。遅い反抗期だったと思います。
家を出てからは、運送屋で長距離トラックの仕事についたこともあります。貨車からプレスした紙の束をトラックに積んで、そのトラックを運転して配送する仕事です。この紙の束が1個60kgあってとにかく重い。「経験あります」といって雇ってもらった手前、いまさら教わるわけにもいかず、大変な作業も我慢して次第にコツをつかみました。それを茨城、新潟などへ運ぶのが仕事でした。
それから、仙台に住んでいた姉(銀行に勤めていた)の紹介で酒造会社に就職して、義兄に保証人になってもらい会社近くにアパートも借りました。仕事は配送・配達から始まり、面接では手取り8万円の約束でした。ところが、いざ支給されてみると8万円に足りなかった。「約束が違うから説明してほしい。約束を守れないなら解雇してもらって構わない・・」。今思えば若気のいたりで面接担当常務に精一杯のタンカをきったんです。後に、社長が「それは筋違いだ、ちゃんと払って、このまま働いて欲しい」と言ってくれました。その時、常務を相手に「ウソをつくなら、ばれないウソをついてください」と言ったのを覚えています。生意気だったと思いますが、その時は、それが精一杯でした。
その後歌津に戻り住み、町役場に交通安全協会、県の会長としてその常務の名前の賞状を見た時は、苦笑してしまいました。
この仕事だけでは、到底貯金まではできないので、夜はアルバイトをしました。姉の紹介でスナック&レストラン「サンマリノ」で面接を受けました。「いち、じゅう、ひゃく、せん、漢字で書いてみて」というような面接でした。
当時「シェーキーズ」と並んでピザが美味しいと言われたお店で、芸能人や有名人も来ました。ここでは時給500円、深夜が550円でした。平日は会社があるので夕方6:00~10:00、土曜日は夕方6:00~翌日3:00まで働きました。帰りの交通費はタクシー代(600円程度)が出て、それも惜しくて歩いて帰る生活でした。革靴が買えずゴム長靴にズボンをかぶせて履いていた店員もいました。この時の仲間には特別な思いがあります。お客さんに怒られたり、取立て屋が取立てをする現場に出会ったり、同伴のホステスさんがお客さんと待ち合わせにこの店を使ったり、仕事の後食事に来てくれたり・・。この店で、色々な人たちの色々なやり取りを勉強させてもらいました。
サービスでコーヒーをお出しする時に、最初は震えてカタカタと音がなってしまっていたのですが、やがて音が鳴らなくなって、馴れたということですね。時には高額の報酬をちらつかせた引き抜きの誘いもあり、サンマリノの会長も「行ってもいいよ」と言ってくれましたが、自分は行くと抜けられない世界だと思い断りましたね。社会の裏側もみて、勉強させてもらったと思います。仲間と仕事の後に飲んだ時、明け方の別れ際に甲斐バンドの「安奈」が流れてしんみりした。その光景が今も忘れられません。
働いて、倹約して、このバイトのおかげで50万円を貯めて、念願の日本デザイナー学院仙台校の夜間部・エディトリアル科に入学しました。夜間部は週2回だったので、学校のある日は、サンマリノの仕事を休ませてもらって通いました。
当時の学長が写真家の秋山庄太郎さんで、入学式の時の挨拶には感動しましたよ。その日の昼食に食べたラーメンは、特別美味しかった! ここでは、コピーライティング(当時は糸井重里や仲畑貴士が活躍して話題になっていた)・デッサンなど何でも意欲的に勉強しました。周りは、ここに来る前からきちんとデッサンの勉強をしていて、既に仕事(臨時)で業界にいるような人たちが多かったですね。
そんな中で、烏口(からすくち)も知らなかった自分には、何もかもが新鮮でした。
学院時代の私の作品には、横尾忠則や、『流行通信』の影響が強く、矢沢永吉の「成り上がり」をショキングピンク使いでコラージュにした作品や、他にも、周りからの評判も良く、今でもはっきり覚えている作品がいくつかあります。
サントリーオールドのキャッチコピー「時流れ沈黙のセレモニー深呼吸」は、今も自宅に。
またニッカウィスキーの「1度目の眠りから2度目の目覚め」、電力会社の「樹上生活に還ろうか」を製作したことも良く覚えています。これらを通して、自分でも、プロでもやっていけるんじゃないかという手応えが感じられるようになっていきました。
しかし、実家から「そろそろ帰って来い」という話がありました。その時、私は、信頼していた先生に自分の作品を個人的に見てもらって「自分はプロでやっていけるでしょうか?」と思い切って聞いてみたんです。そこで先生は、「大丈夫。通用するから、どんどん作品を作りなさい」と言ってくれた。
うれしかった。これでいいんだと思いました。この先生の言葉で、自分は、自分の中でやれるだけやりきったんだと納得ができました。
「もう作品は出しません。卒業証書もいらないです。」と言って、デザイナー学院を退学して、歌津に帰る決心をしました。あの時、もし先生から「プロにはなれないよ。」と言われていたら、自分はあきらめないで、意地でももう少し続けていたかもしれないと思います。
今思うのは、自分のことを擁護してしまうようですが、両親に寂しい思いをさせてしまったけれども、それでも、自分は、この時の経験で人の暖かさも知ったし、人の目線で世の中を見られるようになったと思います。今は田舎にいるけれど、こういう勉強をさせてくれて、この世に生を受けて、今は心から親に感謝しています。
絵を描いて説明してくださる山内さん
私の趣味といえばカメラです。ライカの小さいのや、コンタックスを持っています。
写真を撮って『遊ぼ』という犬の写真で入選したこともあります。賞金とドッグフードがたくさん送られてきましたね。ドッグフードは、犬の写真だったからでしょうか? 賞金では、息子に黄色い三輪車を買ったと思います。周囲から「もっとやったら」とも言われたんですが、議員仲間にも写真が趣味だと言ったことはないし、どうしても人まねになるから「日本カメラ」とか「朝日グラフ」とか、あまり見ないようにしています。見れば、どうしても売れ線とか、影響を受けてしまうんですね。写真に限らず、自分の作品がチケットとか葉書とか、形になるのはうれしいと思います。
宮沢賢治生誕百年祭の時、依頼されて花巻市のブドリ舎に賢治のポストカード用の写真を提供したこともあります。
歌津に戻って、時にはデザイナーの夢を捨てて後悔したこともありましたが、ひと冬を越えればそれなりに仕事には慣れるものです。当時は林業が全盛期で、これにバブル時代が続き、1本売れたら左団扇、10本、20本売ったら1年間の暮らしは十分! というような時代でした。
30歳の時、「幼稚園の先生をしている娘さんがいるがどうだろう?」というお見合いの話が父の友人から持ち込まれ、写真もなかったので、互いに顔を見たこともなく会う日が決まりまして、「まあ、仲人さんの顔を立てて会うだけ会って美味しい食事でも食べて断ればいいや」というような軽い気持ちで受けて、当日も待ち合わせ場所に出かけました。
一応、お見合いなので、ネクタイを締めて当時流行のDCブランドのスーツを着て行きました。
仲人さんは軽装で軽トラックに乗ったまま声をかけてきて、
「ああ(相手が)来た来た・・」。
指差す方向を見ると、ちょうど車でやってきた彼女が縁石に乗り上げていて・・。
仲人さんは、彼女を紹介だけすると
「後は2人で喫茶店でも行って話をしなさい」と、帰ってしまったんです。
この時の奥様の孝樹さんに対する第一印象は・・?
リーゼントでDCブランドの服着てクラウンに乗って登場したこの男性は、「お坊ちゃんだー」と思いましたよ。「なに!? この人。お坊ちゃ~ん」って(笑)
だから、私、お坊ちゃんの嫌がることをどんどんしちゃおう! って思ったんです。お昼ご飯には焼肉定食を食べたいって言いました。そのお店が、ご飯はお代わり自由だったのね。そうしたら、「お代わりしますか?」と孝樹さんに聞かれ、さすがに「それは無理」と断りましたよ。そんな調子だったんです。
それが、その日からとにかく毎晩8時になると電話がかかってくるようになりました。
孝樹さんの『毎晩8:00電話大作戦』ですか?
そうですね。次の約束を決めようという時に「その日は都合が悪いんです」と言うと、
「わかりました。その次はいつがいいですか?」と必ず次の約束を取り付けるんです。
お付き合いはどれくらいだったんですか?
(お2人で顔を見合わせて・・)3カ月です。
山内さん:当時はお見合いで気に入ればね・・(笑)。
結婚の時、お2人は何歳だったんですか?
彼が30歳、私が27歳ね。(山内さんに確認するように・・)
新婚旅行には山内さんのこだわりで京都を訪れたそうです。瀬戸内寂聴さんのお寺で、予約もないのに寂聴さんに会うことができ記念写真を一緒に撮ったり、祇園で舞妓さんと記念撮影をお願いしたら、サッと舞妓さんが奥様に傘をさしかけてくださったり・・。
とても思い出深い旅行になったそうです。
結婚後、長期林業の功労で農林水産大臣賞をいただいたことがあります。
林業研修で福島県の阿武隈へ行き、とても熱心に林業を研究し取り組まれているムトウさんという方(当時60歳位)が「19歳や20歳で木に魅力がありますよ、などと言う奴は頭がおかしい」と。この時、家業の「林業」に対して、「わからなくていいんだ」と気持ちが楽になれました。その方のことは、受賞記念の際の文章に書かせていただきました。
林業は、バブルがはじける前から低迷していました。ただ、あの頃はまだ低迷しているといっても古木1本が300万円で売れたり、まだまだ売れて、お金もあったと思います。以来、木価が下落しています。売れなくなった背景には、外材が入ってきたこと、集製材や合板、プレス材の開発が大きく影響しています。祖父の時代は「売ってください」「売ってあげます」の時代だった。祖父は幼い頃に両親を亡くして苦労したせいか、財産に対する執着が強かったと聞いています。父の時代は、それほどでもなかったとはいえ、仕事の目安がたちました。だいたい、今年は何本位植えて、切って、売って・・というような。もともと、樋の口大家(ひのくちおおえ)の木は良いと言われていて、映画「黒部の太陽」のモデルになった建設業界の笹島ヨネ作さんが岩手の仕事の関係でご自分の家を建てるという時に、紹介されてうちの木を使ってもらいました。
登米の旧校舎の腰板、外の部分にうちの材木が使われています。
ただ、材木というのは、仕入れた人間が儲けているんです。うちの木を「秋田杉」として秋田の材木市で売られたこともありますよ。
まだ、「山師」がいた時代に、実際の「山師」とのやり取り、優しさの裏にある危ない手口も見てきました。輪尺(木の直径を計る道具)を使って目通りする時も、必ず我々に見えない方向から計り、少しずつさばを読む。できるだけ安く買って、できるだけ高く売って、さばを読んだ分だけでも、ずいぶん儲けたと思います。
うちの山は木が育つのに適しているんです。実は木というのは、その土地で育てれば、そこの木になるもの。「秋田杉」だって、苗木をここへ持ってきて育てれば、この地の杉になる。「裏杉・表杉」という呼び名もあるが、製材してしまえば実はわからないものです。肌が少し違う程度で、普通はわからない。
横山に「津山杉」という有名な杉がありますが、あそこは盆地なので寒暖差が激しくて、30年で太くなりますが、実は目が粗い。うちの木は年輪が狭くて目がつんでいます。無節は好きずきです。節を無くそうとすると、無理に手足を切り落としてしまうような感じで、実は節があったほうが強い。木は自然が一番だと思います。
林業というのは「小豆相場」と同じで、波があります。「アリとキリギリス」のお話にたとえると、今は、キリギリスと立場が逆になった「アリ」の時代でしょう。価格も下がり売れませんが、5年後10年後、木が値上がりするかもしれないし、しないかもしれない。『震災バブル』なんて言われているみたいですが、「それはそれ」。今のように辛いところを味わうのもいいと思っています。私が20代で植えた木が70代でまだ樹齢50年の木です。長いスパンで育てる以上、相場に踊るのではなく地道にやっていこうと思います。林業の転換期で、本当はやり方を変える時かもしれないし、実際にインターネットで事業展開しているという話も聞きます。薪ストーブの薪が高値で売買されている話を聞くと、「やりすぎだ」とも思います。もっと真剣にリサイクルや間伐材の利用方法を考えるべきなんです。
ただ、自分はアナログ人間だから、植えて→育てて→守る、このスタンスを変える気はありません。最近また間伐しています。ここ7年くらいは植林もしています。父の時代は毎年植えていました。全伐すると翌年に植えるんです。切り株はそのままにしておくと朽ちて山を肥やしてくれる。切り株で細工する人もいます。
木を植える時は、外側のビニール袋に水泥と苗を入れてトラックで運び上げ、大体180センチ間隔に植えていきます。昔は何十人も人を使いましたが、今は自分ひとりで作業します。そのために作業道を充実させて、どの作業道にも軽トラで入れるようにしました。
「革靴で行けますよ」と言うんです。山には全部名前があって、作業に行く時は、家族に「ここへ行くから」と告げて作業に入ります。枝打ちの作業中に大怪我をしたこともあります。結構辛い作業なんですよ。
航空写真で見る樋の口の山
林業は私の代で終わりかもしれないと思います。でも、もし残せるようであれば、日曜農家ならぬ日曜林業(日曜林家)で森林組合に管理を手伝ってもらいながら代々守っていくような方法も考えています。
林業の仕事というのは、お天気しだいで、雨が降れば仕事がない。お休みです。枝打ちの季節が9月以降3月まで。これは、木の成長しない時期を選んで作業します。枝打ちをすると、その時期は伸びないし太らない。人間と一緒です。その傷である切り口を治すため、一所懸命になっているんです。そして、植林は春先から梅雨まで。下刈りが4月~9月です。忙しい時期だけ臨時雇用でまかなっているところもあります。
林業は敬遠職の一つとも言われているようですが、林業を職業として復権・安定させるためには、まず、通年で仕事があり、雨天でも作業ができるような工夫が必要です。自分が森林組合の理事をしている時も、もちろん若くて一所懸命な子たちもいました。仕事を終えた後、彼らは全身から木のにおいを発しています。やる気のある若い子を林業インターンとして受け入れることもできます。
ただ、わざわざ都会の子でなくても、地元にも若い子はいるし、インターンに時間とお金をかけて育てようとしても、長続きしなくて、どうしても給料の良い方へ行ってしまうと聞いています。やはり仕事環境の工夫が必要です。間伐で出た材木の加工・販売のようなアイディアを積極的に取り入れて、仕事の定着率をあげるのが大事だと思います。
林業をしながら、米作り・畑仕事もしています。今朝もトラクターで耕してきました。トラクターでディープパープルやARBなどのロックを聴きながらね(笑)。今のトラクターにはエアコンもラジカセも付いています。ラジオはノイズが入るから聴こえないしね。
こういう家の仕事は、若い頃に手伝いで一通りやりました。田んぼの畦のクロ塗り(水田の水漏れを防ぐための作業)を、当時は機械なしで「よつこ」でやりましたよ。
今は96アールの田んぼで米を作っています。種籾は農協に注文して、ハウスで苗を約200箱作ります。種籾は、昔は塩水選(えんすいせん)で・・。比重計もあるんだけど、以前は、生卵を使い浮き沈みで比重を見ました。悪い種は浮くから、先人の知恵ですね。今は温湯(おんとう)消毒したものを持ってきてくれます。10アールに箱で約20枚分。しろかきや土入れは自分と家族でやっていますが、田植え時のような農繁期は、今も手伝いの人を頼んでいます。採りいれ後、収穫の60アール分は農協へ供出します。供出分は機械乾燥してもらいます。これが、翌年の農薬代や種籾代に充てられます。自宅で食べる保有米は自然乾燥しています。
学生の頃は他所でアルバイトをしたかったものですが、父が認めてくれないので、家の仕事をバイトとして小遣いをもらいました。自分が働いてもらったお金は、なかなか簡単に使えないもので思い入れのある品を買ったと思います。あこがれのブランドの洋服を買ったかなぁ・・。アルバイトといえば、昭和46・7年頃「クリスマス雪害」の時、雪の重みで木が全部曲がってしまったので、ジャッキを買い、ビニール紐で1本1本木を起こすのを手伝いました。
今も木を切ると、その当時のところが若干曲がっているのがわかるんですよ。
出典:木材貿易と森林
議員になるきっかけは歌津町長をしていた叔父に「そろそろ社会で役に立ってみたらどうか?」と言われたのがきっかけです。「みんなの声があるよ。やってみたら」とも言われました。今は議員をやっていますが、当時はそんな気は毛頭なかったですね。
2世議員というのは、親が引退の時出馬する。私の場合、父が引退してからずいぶん間があいてしまって、本当にゼロからのスタートでした。自分は「先生」とか「議員さん」と呼ばれるのが嫌いです。議員の役目は町民奉公だと思います。議員で儲けようと思ってやる仕事じゃないと思います。中には「先生」と呼ばれて、自分を特別だと思っている議員もいますが、自分はそうはなりたくない。自分は「樋の口の孝樹」と呼ばれてみんなが気やすく何でも色々言ってくれる方がうれしいですね。
議員だからと堅苦しく構えるのではなく、ジョークで例えるなら、登壇の際には自分のテーマ曲を流して登壇するとか・・。もし私なら、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン」なんかで登壇したいですね(笑)。
議会というのは、言いなりで数の論理に流されてはだめだと思っています。評決は辛くても勇気を持ってやらないといけません。「辛口でないと・・」と思います。
今、自分は2期目(旧歌津町では合併を迎えるまで2年5か月務めました)ですが、町に対しては、偏りが一番気になっています。均衡のある街づくりをしたい。格差・差別のない社会が理想です。今、南三陸町はどうしても志津川中心で歌津が後回しになる傾向があって、2つの地域には空気の違いがあります。夫婦が相思相愛で結婚したはずなのに、やっぱりお互いが馴染むまでにはそれ相応の時間が必要なように、町も同じなのだろうと感じています。震災後志津川に物資が偏り、同じ町内なのに・・という事実がありました。「分ける」「分かち合う」「心は一つ」「絆」が、口先だけのスローガンになってしまっていてはダメです。
色々な事情があったとは思います。時間をかけて、いずれバランスの取れたところに納まるのではないかと期待しています。
父は大正7年生まれで、仙台の高校を出ていて、戦地へも行っています。父方の祖父は近衛兵だったかな。いつも詰襟を着て、思想はかなり右よりでした。
父は怖い人で、言葉が荒いというのではないが、押し売りのような者が来てもひと睨みで退散させてしまうような迫力がありました。あまり口数の多い人ではなく、自分に対しても色々細かいことは言わなかった。男親は背中を見せて、自分はその親父の背中を見て育ちました。
父は長男だったから、時代もそういう時代だったし、家督を継ぐことを当たり前だと思っていたと思います。自分は実は次男なのですが、幼いころに兄が亡くなって家督となりました。が、どうしても世の中が見たかった。家を出る時はやっぱり怒られました。
仙台時代は、姉が様子を知らせてくれていたし所在は明らかにしていました。歌津へ帰る時は叔父が間に入ってくれたんです。父が怖いといえば、自分が大人になってお酒を飲むようになってからも、父は節度のある人で、グラスに1杯酒を飲む。その間はこの横座に座っているので、自分は父が飲み終わって早く奥の部屋へ行かないかなぁと思いながら食堂で酒を飲んでいたものです。私は、若い頃は、ウィスキーを2日に1本空けて、タバコは1日に90本! 自分の部屋へ水割りを持っていく時も、氷と別に持っていけばいいんだけど、グラスに作って運ぶから氷の音がする度にヒヤッとして・・。それくらい父は怖かったですね。
父は、車の所有が珍しい時代に早くから車も乗っていました。モダンな父だったと思います。母の影響もあると思いますが、カシミアのコート・メッシュの靴を履いて、父もおしゃれな人でしたね。自分が20歳を過ぎて、一度だけ父にネクタイをプレゼントしたことがあります。サンローランかな。自分に1本、父に1本買ったのを覚えています。
厳しい人で、いつも苦虫をかみ殺したような顔をしていて、ローリングストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツのような顔立ちでした。孫が生まれてから良く笑うようになりました。
父は私が38歳の時に胃癌で亡くなりました。見つかったときは既に転移していて、「1年ですよ」と言われて、本当に1年でした。静脈栄養で輸血もしました。
親と別れるというのは、いつか終わるとわかっていても、どこかでいつまでも甘えられるように感じていて、正直「どうしよう・・」って思いました。親というものは、一生越せないものだなぁと思います。それは、父も母も。
父は双葉百合子の「岸壁の母」が好きでした。戦死して帰るはずのない子を待つ母心。最近「すごいなぁ」って、親の気持ちがわかるようになってきたと思います。
嫁ぐ前、母は教師をしていて仕事を続けたかったそうですが、伯母さんの紹介で気仙沼市大谷から歌津の樋の口へ嫁ぐことになったそうです。
長持ちで花嫁行列を組んでのお嫁入りで、歌津に入り、山を登り始めると、どんどん道が狭くなって、当時はまだ電気も通っていなかったくらいの田舎で、花嫁の父親は「帰る! 話が違う」と、怒り出したそうです。実際、母はこの土地に慣れなくて苦労したと思います。
母との思い出と言えば、小学校の1・2年生の頃、映画を観たことがあります。今村昌平監督の「にあんちゃん」という映画(昭和28年、佐賀県鶴の鼻炭坑を舞台に、炭坑で両親を亡くした4人の兄弟姉妹が、苦境に負けず明るく生きる姿をセンチメンタルな描写を回避し描いた)で、夏休みに体育館でやっているのを観に行きました。母は近視で眼鏡をかけていました。貧しい家の話で、母親が死んで、葬儀で船に乗せられて運ばれていくのを、主人公の2番目の兄(にあんちゃん)が海に飛び込んで追いかけるシーンがあって、その場面が寂しくて悲しくて、指の間から観たことを覚えています。先日、大人になって同じ映画を観て、その時のことを思い出しました。今観てもやっぱり切ない映画でした。
母の手編みのセーターは今でも大事にとってあります。ボートネックやアラン模様など流行の編み方で編んでくれました。私のセーターを、妻から息子へとリレー式に着ています。母は、しつけには厳しい人だったので、よく「物を大事にしなさい」と言われました。おかげで、自分は物を大事にする方だと思います。
小さいころは、母が気仙沼へ行くと「グリム童話」や「イソップ物語」といった本を買ってくれました。当時は気仙沼へ行くというのは、大変なことでしたから、そうやって買ってもらった本は今でも大事にとってあります。母は、よくお話もしてくれましたが、この時も日本の昔話よりもグリム童話やイソップ物語のようなお話をしてくれましたね。語りのように話してくれることもありましたが、本を読んでくれたこともあります。伝記や本は買ってくれました。一つのお話を何回も何回も読みました。「小公子」とか、今でも覚えています。漫画はダメです。漫画は買ってもらえないので、隠れて読みましたよ。
母はお正月とお盆に気仙沼の実家に帰省しました。お盆のほうが少し長く帰れたと思います。一度、実家からの帰りに最寄りのバス停までの途中で、畦から田んぼに落ちたことがあって、実家に戻らなければならなくなったんです。「しょうがないわねぇ」と言いながらも、母の実家に戻れることがとてもうれしそうだった様子を覚えています。気仙沼の母の実家もモダンなつくりで、祖父が九州で買ったきれいな色ガラスの窓がありました。その家の中心にふくろうの置物があって、今のこの家の中に在るたくさんのふくろうの置物は、その実家の影響で集め始めたものです。
たくさんのふくろうの置物
姉が仙台に暮らしていた時(学生時代)は、仙台に行くと、洋服とか本とかを買ってくれました。当時の仙台は花の都で、バスで4時間、特急バスが出来てからでも3時間半かかるような時代でした。
母にはやはり特別な思いがあります。今の自分の価値観・嗜好にも大きく影響を与えていると思います。母はとにかく頭の良い人で、達筆でした。一度旅先の倉敷からはがきをもらったことがあります。
母の学生時代は敵国語ご法度の時代ですから致し方ないとしても、今の時代なら母は英語もできたと思います。母は江里チエミの「テネシーワルツ」が好きでした。音楽も、演歌よりこういうモダンな曲が好きでしたね。
パティペイジの「テネシーワルツ」も好きでしたが、一番好きだったのはレイシー・J・ダルトンの歌う「テネシーワルツ」です。後年、歌詞の意味を知って意外そうでした。「メロディーが好い」と言っていました。母は洋楽を聴いて、カントリーウェスタンやドリスディも好きでした。メロディーが好きだったみたいです。
一度だけ仙台時代に、母に手紙を書いたことがあります。「元気でやっています。昨夜部屋でニシンを焼いたら、部屋から臭いがとれません・・」みたいな。『前略おふくろ様』だね。
仙台時代には、お金を溜めて、母親にだけ当時はまだ高級品だった羽毛布団をプレゼントしたこともあります。あの頃の自分の精一杯の贈り物だったと思います。
自分が仙台へ行っている時も、帰ってきて一緒に暮らしている間も、私が仙台へ行っていたことに対しての思いを、母は口にしたことはありません。どう思っていたのかなぁ?
母は自分の夢や憧れを私に託したのかもしれないと思うことがあります。母のように教師になって欲しかったのかどうかは、今となってはわかりませんが、学生時代に教職に関する履修はしませんでした。
母が72〜3歳の頃の8月、お昼ご飯を食べていたら突然「岩手県の広田湾に同級生がいる。同級生に会いたいな」と言い出したんです。「気仙沼女学校の同級生が元気でいるかな。行きたいな」って。思い出をいっぱい作りたかったんだろうと思い、母を車に乗せて連れて行きました。広田湾の見えるところでカセットからレイチャールズの「愛さずにいられない」が、たまたま流れたのが印象的でした。震災後に行った時も思い出しました。青空いっぱいに音楽が響いたなぁという思い出です。
そういえば、私は北原ミレイの歌う「潮風の吹く町」(浜圭介作曲・他歌手のカバー)が好きです。「ふるさとは遠い北の果て潮風の吹く町・・浜なすの花が咲く頃に帰ろうと思いながら・・」と、2年が過ぎた東京にあこがれて行った女の子が、流転の日々を送り、やっぱり寂しくて甘えたくて汽車に乗って故郷に帰る・・という歌詞です。
今にして思うと、この同級生の話もボケていたのかもしれません。この頃から「カギがなくなった」とか「たんすを荒らされた」とか言い始めたのです。最初は冗談だと思っていました。母の認知症の症の始まりでした。
症状が出始めたころ、ハンチングを後にかぶってサングラスをかけて、とにかく車に乗りたがったのでよく助手席に乗せてドライブしました。妻よりもずっと一緒にドライブしたと思います。色々な人生の場面に、いつもその時々の音楽が流れているなぁ~。聴くと、パーッと当時のことを思い出すんです。
認知症が始まってからは、暇ができると家から出ていってしまうので、洗濯物をたたんでもらったり、私が切った薪を集めてもらったりしました。洗濯物をたたむ時は、せっかくたたんだ洗濯物を母がよそ見している隙にまた崩して、何度もたたんでもらうようなこともしましたね。
すっかり痴呆が進んで、母が「孝樹にベストを!」と編んでくれたら、子ども用のサイズ゛だったなんてこともありました。
一度夜中にいなくなってしまったことがあって、そういう時に限って懐中電灯の電池がなくて、女房がコンビニに買いに行って、みんなで家の周りを探しました。4月の霜が降った時で、ようやく少し下ったところにいるのがやっと見つかって、「もうだめかなぁ」って。そうしたら、母が「誰ですか?」って、「俺です」って言ったら、「足が痛いんです・・」「痛い、痛い」って言うので、直ぐに背負ってきて病院へ連れて行きました。どこかへ行っていたのだろうと思っていたんですが、「どこも行っていない」と言うんです。多分、少し高いところから戸を開けてトンと落ちて、足を痛くしたので赤ちゃんみたいに這っていったのかなと思います。這っているうちに落ちたのかな? あの時は、無事に見つかって本当に良かったです。
この場所(横座)で私が濃い目の水割りを飲みながら書き物をしていると、コップを母がスーッともっていって飲んで・・。濃い目の水割りを飲んでしまって驚いたその時の「クワーッ」と言った母の表情が忘れられません。若い頃はお酒なんて飲まない人だったけど、お茶だと思ったのかな。ボケて赤ちゃんに還っていって、何でも口に入れてね、そんなこともありました。
寝たきりになって車椅子になってからも、みんなで食事をできるように工夫して、ここに母の欲しがっていた薪ストーブを買いました。母は薪ストーブが欲しいと言っていたんです。私も薪ストーブを欲しいと思いながらなかなか踏ん切りがつかずにいて、母が寝たきりになって、ある日酒を飲みながら薪ストーブのカタログを見ていて、中国製と北欧製の物を見比べるとやはり高いものは違って・・。お酒の勢いとは怖いもので、気がついたら「えいっ!」と、電話で注文してしまいました。母にこの暖かさを伝えられるかな!?というのが正直な気持ちでした。とにかく洒落たことの好きな母でした。
母は、胃漏になり、平成20年に、お医者様が「周りが荒れてきているから取り替えましょう」ということになり、気仙沼市立病院へ入院しました。それで、急に容態が変わって、いつ終わるかわからない状態になってしまって、お医者様からも「覚悟してください」といわれました。ちょうど3月の新年度予算定例会の時で、電話をかけて議会は欠席しました。自分も動転していたんだと思います。いつ終わってもおかしくない状態でした。
ところが3日目に電話をかけたところ「山内議員さん、とにかく明日一度来て顔だけ出して、議長さんに直接話してください。一度来てもらえませんか?」と言われました。議員は親の死に目にも会えない覚悟を持てと先輩議員から聞いていましたので、自分も覚悟を決めて翌日は出席しました。とにかく議会中に議場のドアが開かないことだけを願いました。
最後の2日間議会に出席できて、その後、看病してくれていた姉と交代して間に合って、翌日日曜日かな、昼間看ていてくれた女房と交代して、夜の7時頃かな、突然心電図モニターがおかしな動きをして、まだ動いているんだけど、見に来た看護師さんが「もう終わっている」と。駆けつけてくれたお医者様も「もう・・」と。体を動かしたりするから、機械は動くんだけれど、もう終わっていると言われました。結局、誰も間に合わず、その場にいられたのは自分だけでした。待っていてくれたのかなと思います。きれいな顔をしていました。
親父に遠慮して額に「ありがとう」とキスさせてもらいました。
こういう性格の山内孝樹がいるのは、母のおかげだと思います。マザコンと言われそうですが、やっぱり母には感謝しています。
その日、私は志津川で議員の仕事をしていました。地震の大きな揺れがおさまって、時間を計算しながら、あそことあそこが越えられれば大丈夫と・・。車で家に戻りました。
震災後は、電気が止まってしまいましたが、薪ストーブと炭炬燵が役に立ちました。元はかんちゃんのお父さんが炭窯をやっていたんですが、震災でできなくなってしまったので、今は志津川の入谷地区で焼いたものを買っています。1袋2000円くらいかな。温かいんです、炭は。遠赤外線ですからね。暖をとることができて、助かりました。友だちが冷凍庫を持っていて、停電で溶けてしまうから、魚とか加工したものを「食べてくれ」と持ってきてくれたりもしましたね。
あと水は、全く汚れの無い川の水、それをポリ容器に入れて、従兄弟と交代で汲みました。まず、「水を汲ませてください」っていう多くの方が来たので、水槽をきれいにして、そこからバケツで汲めるようにしました。燃料が手に入ってからはポンプアップで汲み上げ出来るようになりました。
自分は何でもやってきましたが、「殺める、くすねる、だます、脅かす」これだけはやらなかった。そして、やってはいけないと思っています。
自分の人生訓は「人生は社会大学」。色々な人、小さい子から大人まで出会って、出会った人がみんな先生なんです。経験は、全て勉強になっています。自分は「社会大学」に、やっと入学できたけど、「社会大学」には卒業はないと思っています。議員には絶対にならないと思っていたのが、今はこうして皆さんのおかげで議員をしています。議員を務めていても、肩書きは嫌いです。「先生」と呼ばれるのも苦手。名刺にも、だから肩書きは書きません。名刺の蝶のマークは、切手からかたどったものです。蝶とブルーが好きで、思い返すと時々モチーフとして描いてきています。裏面の「森呼吸」とは、「家業は森呼吸ーしんこきゅうから始まる」という私の気持ちです。福島で、ムトウさんの一言で、自分がすーっと楽になれた時の事。自然と自分の中にこの言葉が出てきました。「ちゃんと伐採して、時間をかけて木を育てていこう!」という意味をこめています。
自分を応援してくれている人たちは、障害があっても、おじいちゃんおばあちゃんでも、みんな「社会大学」の先生です。ありがたいと思います。みんなが気楽に話しかけてくれて、色々教えてくれる。やっぱり「社会大学」だと思います。純粋な心を持ったH君とは、自分がPTA会長をしている時に歌津駅で初めて会話をしました。それがきっかけで、彼は施設でマッサージを修得中らしく私の肩をマッサージしてくれました。それ以来、今もお付き合いが続いています。その後、選挙での私のポスターを見て、H君がお母さんに「この人だよ」と伝えたことを、後でお母さんが話してくれました。彼は、応援のメッセージも送ってくれたり、寒い中を待っていてくれたりしたこともあります。本当にありがたいと思います。心が純粋な分、心と心が真直ぐ通じ合う感じがします。「みんな、ハートをありがとう」そういうふうに、お付き合いも一つひとつ、大切にしていきたいと思います。
自分には潔癖症なところもあって、ダメなものはダメ。酒を飲んで酔った「フリ」をするのも嫌い。「ダメ」はちゃんと言う。 対等、まっさらな気持ちでお付き合いをしたいと思います。言葉にしないのは嫌いです。なんにでも取り組むこと。「みんな対等」ここが原点です。
自分もお坊ちゃんだったと思います。世の中に出て、こんなはずじゃなかったと思いながら、迷いながら、ここまで来ました。人生は、誰でも必ず昇れるんです。ただ、過信してはダメで、人生には、必ず下りもある。それを一気に下るのか、ゆっくり下るのか・・。私はゆっくりと下れたかな、と思っています。
この本は、2011年11月13日、12月10日、
山内孝樹さんにご自宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
福原力也
塚田萌
三ツ木由紀子
久村美穂
織笠英二
河相ともみ
[文・編集]
河相ともみ
久村美穂
[発行日]
2012年4月
[発行所]
RQ市民災害救援センター
www.rq-center.net