お会いするのが町議の方と伺って、いわゆる政治の世界に生きる方のイメージに、緊張していた私たち。実際にお話を伺った三浦さんの印象は、それを裏切るものでした。相手の気持ちをほぐすようなジョークとユーモアに何度も笑ってしまいました。そうでいながら、その底に流れる、「ご近所さんを助けるように、町の力になりたい」という思いが、どんなお話の中にも伝わってきます。
それと同時に、町議の重責というものは、やはり一般市民の生活しか知らない私たちには、実に計り知れないご苦労やご心労があったであろうということも、感じずにはいられませんでした。「娘さんを亡くされた父親が、1人で泣ける場所を探している」というエピソードが心に深く突き刺さりました。きっと誰しも多かれ少なかれ、そのような思いを抱えていたのではないでしょうか。きっと三浦さんご自身も・・。今は泣きたくても泣いてなんかいられない、という日々の連続でここまで来られたのでしょうが、ご本人は決してご自身の苦労話などなさらないのです。
いつか、これらの日々が、時の流れとともに穏やかに振り返れる日が来ることを、聞き書きメンバー一同心から願っています。
末筆ながら、お時間を割いて貴重なお話を聞かせてくださった三浦さん、取材にご理解いただきましたご家族のみなさまに心から感謝申し上げます。
2012年5月26日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
三浦清人さん
私の生まれは昭和29(1954)年6月13日。57歳ですね。生まれも育ちもずっと同じ、南三陸町の名足(なたり)です。
きょうだいは、5歳違いの弟、10歳違いの妹がいます。ちょうどね、5年おきに計画的に子どもを作ったんだなぁ(笑)。弟は会社員、妹は主婦で、2人とも同じ町内に住んでいたんですが、津波でどちらも家を流されてしまって、いま仮設住宅に住んでいます。私が現在暮らしているのは、自宅です。私だけなんとか津波は逃れて残ったんですね。今の自宅は、私が22~3歳でローンを組んで建てたものです。若いのにカッコ良い? 借金して何がカッコ良いんだ(笑)。
うちは親父の代から半農半漁でした。親父は私が15歳のとき、44歳で亡くなったんです。母は今80歳。元気に農業やってますよ。ホウレンソウを蒔いていて、今日も畑に出掛けていきました。もうね、動いてなきゃだめなんですね。週に1回は熊谷流の踊りに行ってますね。好きなんだね。
この踊りは、公民館主催で社会教育の関係でやっているんですが、80歳になる人が、老人ホームの慰問に行くんですよ。自分が慰問される歳なのに、「慰問に行ってくるわ」って出かけていく。あんまり元気なんで、私の方が先にあの世に逝っちゃうかも知れない、と思うことがあります。母には「順番間違えんなよ」と言われていますが、こればっかりは分からないですね(笑)。
妻は5歳年下で、青年団活動で知り合って、私が26か7くらいのときに結婚しました。子どもは29歳の息子と28歳になる娘がいます。息子は結婚をして、最初は私たちと同居していましたが、震災で仕事が無くなったので、お嫁さんの尾崎の実家に引っ越して、尾崎の運送会社に勤めています。娘は美容師をしていて、登米市の迫に住んでいますから、小遣いがなくなると、実家にしょっちゅう帰ってきますね。
震災前は家から仕事場まで通っていたんですが、電気が止まってしまったので、夜遅く、明かりのない、寂しい峠を越さなきゃならないので登米に引っ越しました。
子どもの頃の遊びはテレビなんかなかったからね、海山で遊びました。そこらじゅう、走って駆けってまわってね。
夏は海に行っては、アワビ獲ったり食べたり、海で育ったせいもあって、海が好きなんですよ。魚釣り、漁が好きなんです。山に行っては、弓なんか作って、ウサギを撃ちに行って、罠を仕掛けて。何も獲れないんだけど、そんな遊びがお気に入りでしたね。
山ではアケビを食べたり、それから、人の家の畑のキュウリを取って食べたり、サツマイモを抜いて食べたり(笑)。そんなこと、この辺りの人はみんな同じです。食べても誰も怒んないんだ。ああ、珍しいバタンキュー(スモモのこと。バタンキョウとも言う。すももを食べ過ぎるとお腹が張って、下してしまう。あるいは樹からもいで、ろくに洗いもせずにかぶりつくものだから、もともとの栄養失調に加えて赤痢や腸チフスになって落命する危険もあったためバタンキューという説あり)ああいうのは取ると怒られる、数が少ないから。キュウリとか畑の物は怒んないんです。その頃は、みんなお互い様なんだ、という感覚です。「盗む」というのでなく、「お腹空いたから食べる」なので誰も怒らない。それは小学生の時ですよ。中学生になってさすがにそれはしないね(笑)。
小学校は名足小学校でした。
今は少ないけど、私たちが小学生のときは、自然の天草(てんぐさ)が海にいっぱいあったわけ。友だち何人かと一緒に、それを海に潜って採って、岩場に干して、夕方売りにいくんです。1日干したら、買ってくれる海産物屋さんなんかあるから、売れるんです。子どものすることですから、採る量も大したことないんですが、それでも、1人当たり1本5円のアイスキャンディーを買って食べられたんです。
開口と言って、この日はこの海産物を採っていいですよ、って解禁の言う日があって、天草の開口はお盆前なんです。みんなその日に船で行って、天草を採りに行って、自家製のところてんを作ったんですよ。天草は、「天草つき」で挟んでむしり取るわけです。
アカハタなどの天然物は高級ですからね。今は天然の天草も少なくなりましたね。海草は採らなきゃだめなんです。季節になると採って、岩を空けるとまた新しいものが着くわけです。採らないと自然に減っていってしまうんです。天草で商売してる人は今はありませんね。南の方、瀬戸内海のほうかな、ところてん作ってる人はいるから養殖をしている場所もあるかもしれないけど、こちらは養殖はしませんからね。
天草は採ったばかりは赤く、
匂いもありますがよく洗って乾かすことでにおいもなくなり、
色も抜けてくるそうです。
天草の収穫には天草つき、という道具を使ったそうです。
図は三浦さんの書いて下さったものをもとにしました。
うちはごく普通の家庭ですね(笑)。親に怒られるのはしょっちゅうでした。
半農半漁だから、米、麦、豆を作って、差網や延縄で、アイナメ、ドンコ、イカ、タラなどの魚も獲ってたわけです。当時は近隣に市場も、冷蔵庫もない時代です。志津川には市場がありましたが、バスを乗り継がないと行けない場所で、そんなことをしていたら魚が腐ってしまう。傍にある魚屋に売るんです。いくら持って行っても安くてね。お米の買えない時代でした。魚屋さんもその日のうちに売ってしまうということです。魚を売ったお金は生活費になりました。PTAなど、なにかと現金が必要だったのです。
小学校の5~6年から家の手伝いをさせられていましたよ。私は実は、小学校3年生の時に耕運機を操縦していたんです。天然ワカメのほかに、カジメという海藻があって、それにも開口があるんです。その日には、船でうちのじいさんと親父が海に採りに行くんですが、大量に採れるので、一回満船になったら、一度陸に揚げにくるんです。ボーンと置いて、また漁にでるわけ。
陸にいる私たちは、大量のカジメを干し場に持ってかなきゃならない。普通はリヤカーで持っていくんだけど、うちには耕運機があったらからそれ回していったんです。ばあさんと私が、船から下ろしたカジメを耕運機で干し場まで積んで、行ったり来たりしたわけです。
駐在さんに見つかって怒られましたけど(笑)。それでも昔の駐在さんって言うのは今みたいには怒んないですからね。子どもに耕運機って、させる方もさせる方ですが(笑)、私はそういうのが好きでしたね。そんな風に家のことをいろいろと手伝ったりしていましたね。
家は金はなかったけれど、借金もありませんでした。昔はそんなにお金はいらなかったんです。食べ物が手に入りさえすれば、あとはとにかく、薪があれば正月が越せたんです。薪は山から採って来る、米は作ってる、野菜も作ってる、おかずは海で獲れる。電気料はその頃もあったけど、プロパンガスでなく、かまどもお風呂も薪でした。
そのころのお風呂は、鉄砲風呂でした。水だって、井戸から汲んで沸かすから一仕事なんですよ。入り終わると今度は、風呂桶を乾かすわけです。乾かすのに横にして、また風呂を沸かすときに立てる。だから、「風呂を立てる」って昔は言うわけなんです。風呂を今晩立てろ、っていうのは風呂は横にして乾かしてるから、それから来ているんでしょう。
昔はお風呂は、3軒の家で1軒あるかないかでしたから、当時は「もらい風呂」って言う風習がありました。「隣の父ちゃん、今晩風呂もらいにくるから」などという会話があったんです、あの時代は。
*五右衛門風呂と鉄砲風呂の違いやその構造などについてはこちらのWEBサイトなどにくわしく解説されています。
肉って言うのはめったに口にしませんでしたね。クジラの肉は食べましたよ。その他はたまに、卵を産むのに飼ってる鶏をシメたこともありました。
漁に出ると、黒い海鵜(うみう)がエサを狙って寄ってきて、延縄(はえなわ)にかかるんですよ。その羽をむしってカレーライスに入れてみたら、その肉が真っ黒で臭いんだ。美味しくなかったですねえ。でも肉には違いない。美味しくはないと言っても肉だからね。私たちが昔食べた肉というのは、そういうものでしたね。ジンギスカンとか豚肉なんていうものを口にするようになったのは最近ですね。子どもの頃は肉を食べることをしないから、初めて牛肉を食べたときは、それが鳥の肉だか牛だかも区別がつきませんでしたね。
私にとってのご馳走ってなんでしょうね。誕生日を祝うなんて習慣は田舎にはないですから。一番の大好物は稲荷寿司で、これが一番のご馳走だと思ってますね。ちらし寿司よりもお稲荷が好きだったですねぇ。子どものころから今だに(爆笑)。運動会や学芸会の時は、必ずお稲荷にしてもらってました。こういうことを言うと、自分の子どもたちにも笑われましたけど(笑)。昔は稲荷寿司の皮が缶詰になって売られていたんです。寿司飯は作るんだけど、皮だけは缶詰を買うんです。いまは、袋に入ってるでしょ? これがメーカーによってぜんぜん味が違うんですよ。あるメーカーじゃねぇと口に合わないというのがあって。いまは自分のところで煮ますが、やはり缶詰の方が美味しかったと感じますね。お祭りの時も稲荷寿司かって? お祭りのときは稲荷寿司じゃない、お餅ですよ。
稲荷寿司の皮
稲荷寿司の皮缶詰、今は逆輸入でしか手に入らないようです。美味しそうですね。
小学校3年生の時、給食が始まりました。翌年の4年生の時、東京オリンピックを良く覚えています。ちなみに初日の昼食はカレーシチューでした。やっぱり忘れられませんね。なんでも初めての体験ってのは覚えてるもんですね。アルミの食器で出てきました。
給食のカレーは、自分の家のカレーとは全く違う味で、違和感がありましたね。2日目は野菜をマヨネーズで和えたポテトサラダでした。玉ねぎが生で涙が流れましたね。それで、パンでしょ。牛乳は脱脂粉乳だから、美味しくなかったですねえ、温(ぬる)くなると容器の底にカスみたいなのが溜まるんですよ。
給食で一番好きだったのは何だったかなぁ。好きなものも嫌いなものも、合わせて出てくるので、特にこれというのは無かったですね。なんでも食べましたね。食べられないほど嫌いなものはありませんでしたね。残さず、全部食べられました。
中学校は歌津中学校。中学校の時は、剣道部に所属し、一生懸命やった思い出がありますね。
剣道は結構打ち込んでいて、子どもたちと一緒に25~6歳まで続けていました。三段までとりましたね。結婚してからやめています。漁協の職員や公務員などをしている30代から80代までの人は剣道をできる時間的余裕があるわけなんです。だから私も長く続けられたんです。漁協を退職してしまうと、もう剣道をやる時間がなくなってしまいますね。
剣道には大会がいくつかあります。選手権とか、県大会とか郡大会とか。私は県大会に、この本吉郡を代表してよく出てました。優勝すれば全国大会に出られるんですが、本吉郡の人が少ないから代表やれたんだけ(笑)。
歌津の名足地区は剣道が盛んなところです。今でも子どもたちは有志の「少年剣道会」っていうのがあって、そこに行って鍛錬を積んでいますね。彼らは毎年夏に、日本武道館で開催される「全日本少年武道錬成大会」に行っていますよ。日本武道館元館長(昭和40年代ごろ)の、三浦英夫さんって言う方が名足のそばの部落のご出身で、そのつながりで参加できるようになったと聞いています。
歌津地区の剣道の初稽古の様子、2008年
歌津中学校は県下でも強豪校として知られ、地方大会優勝、全国大会出場の実績があります。
中学校を出てすぐ、漁業協同組合(以下、漁協)で事務員の仕事に就きました。歌津漁協に15歳で入ったんです。17年間、32歳で歌津町議会議員になるまで勤めました。私は親父が15の時死んだことあり、お金がなくて、高校に通えなかったんですが、漁協に勤めながら、仙台一高の通信教育をうけていました。
私が就職した頃は、電卓なんて出るか出ないかの時代だったから、最初、全部算盤(そろばん)で計算していました。計算機が出たときも、今のような数字が出てくる電卓ではなかったんです。数字ボタンを押すと、「ガチャガチャ、ガチャガチャ」という大きな音の立つ機械でしたね。最初はシャープ製でなかったですかねえ。初めてデジタルで数字が表示された時、「えっ!!」と思ってビックリしましたもんね。それは、初めてテレビを見た時と同じ感動でした。
「+」を押すと、「ガチャガチャ」って機械音がするんですよね。そういう初期の計算機は、音がとにかく大きかった。それが計算機との出会いのでした。昭和45年当時のことでした。そのおかげで、計算は速く出来るようになりましたね。私が慣れてくると数字キーを見ずに打てるようになったので、「ええっ、見ないで打てるんですか!?」ってみんなびっくりしてましたね。
漁協は会社ではありません。作業団体だから、事務員にも事務だけではなく、現場の作業があるんです。早朝からワカメの出荷、ホタテの出荷の作業や、指導、販売、購買などいろいろな業務を行ったものでした。
伊里前商店街から三嶋神社の鳥居を望む、2010年
「東日本大震災写真保存プロジェクト」
私が議員を目指すきっかけになったのは青年団活動でした。青年団というのは、若い人たちが一つの団体で、いろいろ社会貢献活動などをするんですが、そこでボランティアなどにいろいろと取り組んだんです。
そういう活動を通して、自分の町とよその町とを比較したりして、自分の町が見えてくるわけです。政治のことも分かってくるから、そんなところで自分の町を変えていけないだろうか、と思ったんです。そう言う風に夢見て、昔はカッコ良かったんですよ(笑)。「この町を変えて行きたいのだったら、やっぱり立候補しなければ」と考えて立候補したんです。
32歳の頃変えたかったことですか? まずこの町の生活が豊かになることでしたね。われわれの町民の生活に直接かかわる町政に、漁協にいたからこそ言える、「どういうものにお金を使うべきか、どのような事業が大切か」を反映したいと思ったんですね。それに、教育関係でも提言があったんです。「社会教育をもっときちっとしてほしい」とか、「こういうものに予算が欲しい」とか、そういうねらいでしたね。
でも、若い時の気持ちで「よし、頑張るぞ!」って言ったって、議会は組織だから、1人で頑張ったところで変わらないんです。1人じゃなんともならないということを思い知らされたんです。1人でやったって逆に芽をつぶされてしまいます。まさに。「出る杭は打たれる」という感じで、「出しゃばるな」って言われたこともあります。難しい。そういうとき叩かれないためには目立つことをしない方がいい、黙ってた方がいいということが分かったんですが、遅かったですね(笑)。
南三陸町役場と議場の様子(2010年11月)
写真提供:ブログ「Car Audio 好き好き大作戦」
私の住んでる地区は、昔は年に2回、春と秋、今は旧暦の10月19日に地域の祭典日があったんです。しかし、今回のこの震災で、地域の神社の宮司さんが不在になっています。歌津には宮司さんが2人いらっしゃったんです。田束山(たつがねさん)を信仰する宮司さんと、うちの方の八幡様の宮司さんが。私たちは八幡様の氏子なんだけど、そこの宮司さんがいなくなってしまったんですね。
お正月には、神棚に飾る幣束や「きりこ」を、宮司さんがみんな切って氏子に渡すわけです。だから、宮司さんが見つからなかったら今年のお正月はどうすんだろうなって思ったんです。
神棚の切り子は南三陸沿岸の伝統的風習。
神職と教職を兼ねている人は多いですよ。お寺のお坊さんは、檀家が多ければそれ専属で生活できるわけです。宮司さんなんて氏子がいてもそれで生活できないでしょ。宮司さんの仕事なんて地鎮祭とお祭りとか、年に何回しかないんだから。これから宮司さんをどうするか、氏子は今悩んでるところなのです。今は他の地区の宮司さんにお願いする方法しかありません。宮司さんになるのは、お寺の和尚さんになるより難しいということでした。
「いや、誰でもできんだ、テープレコーダで音を流して、ダンダン、ダンダンって。烏帽子をかぶってやればいい」と冗談でそんな話もしていますが、本当に宮司を務める人がいなければ、ただあの、お正月のお飾りができないんです。都会と違ってわれわれは海と神様と深いかかわりを持って生活してきたんですから。
氏子も、昔は神社に何度も奉納する機会があったわけですが、今は単なる神社を回っての打ち鳴らし、要するに、神楽です。宮司さんの鳴らす太鼓は神楽の太鼓なんです。私自身、神社ではありませんが、青年団で神楽をやったので、ある程度の知識はあるんです。当時ある地区の郷土芸能を伝承しようということで、若い連中5〜6人を集めて、神楽を習いに行ったんです。そして、青年団で芸能部門で県の文化祭に参加して神楽を披露し、優秀な成績を収めたこともあります。
うちの部落で神社は3つあるんです。八幡神社(はちまんさん)ていうのは、各部落にあるもので、そのほかに白山神社、愛宕神社。祭りの時はお神楽で、その3箇所を回ることになっています。神社は、建てる位置も「田束山から見て南南西になんぼ」とか、角度が決まってるんですね。詳しいことは分かりませんが星回りなどが関係しているのかもしれません。
愛宕神社(歌津名足)
白山神社(歌津中山)
八幡神社(歌津稲渕)
写真:上記3点、南三陸バーチャルミュージアム
今後の課題は「集団高台移転」ですね。
誰しも今まで自分が住んでたところに戻りたいと思うもので、津波の危険があってやむを得ず移転しなければならないのであれば、できるだけ自分が住んでた場所に近い高台を望むわけです。名足地区は都市計画の中に入っていて、津波が到達したところには家屋の建築許可は下りません。
1メートル近く地盤沈下しているので、水が来るところにも建てられません。今の国の制度では5人以上で集団移転するのであれば、土地も確保しますと言っていますが、売地か賃貸かもハッキリとしていないんです。第三次補正(予算)でその辺りは出てくると思いますが、まだ決定はしてない。建築許可の下りない土地を国が買い上げるのかどうか、その辺もまだはっきりしない。そういう点が問題です。
国のシステムというのはわかりにくい。今、大震災の復興担当大臣がいますが、すべての復興に関して一元的にやってくれるんなら一番いいんだけど、今までと何も代わらないのです。財源は財務省、この修繕には農林水産省とか、窓口が違うわけ。何のための復興大臣か復興か、と言いたくなりますね。われわれにとっては、陳情する先が1か所増えるだけなのです。復興庁は、我々がよその官庁へ行かなくてもいいように調整しなきゃいけない、それが復興担当大臣なんだから。
ところがほら、官僚の既得権というのがすごい。「次生まれて来るなら官僚だな」と冗談でも言いたくなりますね。法律の元はみな官僚が作るのです。(※)法整備というものは、官僚たちが今後自分たちにとって心配のない政界にするための法整備なのです。だから、国会議員がしっかり勉強しなければならず、官僚に使われるようではダメだと思います。
私いろいろと商売もやってきましたが、法律がいろいろ改正になった十何年前から、労働時間の上限週40時間についてなど、よく監督省庁側と衝突したものです。この法律では、公務員は給料が下がるわけがないけれど、時給で働く人の労働時間が少なくなって収入が下がるわけだから、民間は対象外にしてくれと言ったのです。法の整備で利益を受けられる事業なんてのは、一部の上場会社とか、そういう優良会社しかできないんです。民間の中小企業とか零細企業なんかはやっていけない。残業手当の出ない会社もあるんですよ。そういうところはサービス残業です。みなさんのイメージで公務員よりいいようにみるかも知んないけどね。
昭和35(1960)年チリ地震のとき、私がいたのは歌津だから、海は若干潮が引いたのは覚えてますよ。小さい頃でしたから、親たちが「海さ行くなよ」と言ってたのは記憶があります。志津川が大きな被害を受けたというのは後でわかった話だね。歌津地区はぜんぜん被害がなかったですから。
3月11日の震災当日、私は議会の最終日で登庁していました(※町役場本庁舎の2階が議場。防災庁舎は隣)。
実は、2日前の3月9日、津波騒動があったんです。高さが50センチで大したことなかったんですよ。2日後の11日の夕方2時45分ごろ、町長の議会閉会の最後の挨拶のときに地震がきたんです。すごい強さの、とんでもないのが来たなと思いました。みんなで机の下に隠れてました。
すぐに揺れが収まったんで、仲間と2〜3人で階段をすばやく駆け下りました。その時、普段議場にいるときに履いているサンダルを、皮靴に履き換えたのが本当に良かったんです。外に出ようとしたら、議会事務局の職員の女性が震えてしゃがんでいました。「いくべ、立て!」と手をつかんで引っ張り出しました。彼女を外に出して、「とにかく逃げろ」と言いました。
職員はかなりの数が庭にいたし、締め切りを控えた確定申告のお客さんもたくさんいましたから、そこに向かって「大きな津波が来るから逃げろ!!」って叫んだんです。後で、「あの時、あんたが逃げろって大きな声出さなかったら、助かってなかった」と、そこにいたお客さんたちに言われました。
自分が駐車場から車を出した時に、同僚の議員や、引っ張りだした女性がまだそこにいたので、「逃げろよ!」と言ってから逃げました。ところが、結果的にはその女性は津波に流されたのです。あの後、同僚の職員が誰も来ないからって、また庁舎の2階に上がったらしい。だから議会事務局の4人はみんな流されて死んでしまった。彼女は近くの駐車場に自分の車があって、まさかまた2階に上がって行こうとは夢にも思いませんでした。今考えると無理にでも車に乗せて走っていけば良かったと思うことがあります。お子さんのいる方で、写真を見て、言葉が出ませんでした。
ある職員などは津波に巻き込まれ、流されたのですが、目の前に畳が流れて来て、その畳にすがって助かったというのです。そのまま何キロも上流に押し流されて行って、今度は強い引き波で戻され、たまたま病院の4階だか3階だかにたどりついて、そこに人が一杯いて助けられたそうです。
今ではサーフィンしてきたんだな、なんて冗談にできますが、「その時はどうだった?」と様子を尋ねても「何にも覚えてない」と言っていました。またある人は、防災庁舎の上に逃げたけれど、津波の力がすごくて、掴まりきれずに流されてしまったのですが、どこかの鉄のパイプに足が挟まって止まり、助かったのです。生死の境は紙一重なんですね。それが何なのかはわかりません。
ここ南三陸は気仙沼と広域行政っていうのがあって、消防・救急を、共同でやってるわけです。震災後、そこに台湾の団体から3000万円の寄付が来たことがありました。なぜ台湾からわざわざ?と尋ねてみると、実は、防災無線で最後まで放送した遠藤美希さんの話を台湾の人が耳にして、心を動かされたので、防災面で使ってください、ということで寄付したというのです。その後、野田総理の所信表明演説でも彼女の名前が読み上げられましたね。
今にすれば、涙なくして語れない部分って言うのが沢山ありますよ。津波の前では、本当になんともならないことがあるのです。助けられず、目の前で沈んでいった方々も多くいるわけですよね。そのショックも大きいんです。実際にその場にいた方は、言葉には出しません。ほとんどの人は、巨大津波に対する経験がないもんだから。
防災庁舎で行方不明者が今も30数名で、町長などが生き延びたことで、「偉い人から高いところへ登ったのか」という声も聞こえますが、みなさん助かりたいって気持ちは同じだったって思います。防災庁舎がたまたまそんな場所にあって、波もすごかっただろうし。
歌津に帰るまでに津波が来ると思ったから、避難所になっている高台の慈恵園という老人養護施設に車を走らせました。慈恵園に着くと、雪が降っていました。
デイサービスを受けるのにお年寄りがたくさんいたので、職員が、寒いからと、その方たちに毛布かけたり布団掛けたりしていて、手伝っていました。寒いからにテント張ろうということになって、組み立て始めて、海のほうを何気なく見ると、「バリバリ」とか「ゴロゴロ」とか、最初雷かと思うような音が海からしてきました。黒い海から赤い煙がガーッと出た。
そして、こちらにだんだん迫って来たんです。火じゃなくて赤い煙が迫ってきたんですよ。屋根が浮いて来たから、「あ、これは津波がくる!! 逃げろ~!!」って叫びました。職員は「えっ? こっから逃げるんですか」なんて言ってる。
「そうだ、津波がここに来るから逃げろ」
そこから、職員もヘルパーさんも慈恵園から車いすを一斉出して何十人と移動を始めました。みなさんが非難して、自分も逃げ始めましたが、津波がどっちから来るかわからない。たまたまそこに行政区長さんがいたから「どこでもいいから逃げろよ」って声をかけました。そしたら、「山、山」って。裏山に逃げろってことですよ。杉山。
その山が足元が滑るわ、穴が一杯開いてるわで、だから皮靴に交換して良かったんです。あの山はサンダルなんかじゃ歩けない。目の前を女性職員が2人いたはずがいつのまにか1人が歩いていないんです。ぱっとみたら腰を抜かして、木の根っこに倒れてしまっている。「波来てんだから立て!」と言っても立てないのです。「死ぬぞ」っ馬鹿力を振り絞って立たせて逃げたんですよ。今でも腕が痛いんです。その女性がスリムでなかったもんだからさ、ちょっと重かったんだな(笑)。
ここでは、他のデイサービスの施設にも津波が来て多くのお年寄りが流されました。でも、高校生が結構助けたんです。手と手を繋げて助けたんですよ。先生は「危ないからやめなさい、やめなさい」と言うんですが、生徒たちはその現場を見てるから「助けねばならねえ」ってじっちゃん、ばっちゃんを助けようとしたんですね。それでお年寄りが何人も助かったわけです。
ところが、その方たちが今度は、低体温症でみるみる死んでいった。そのショックが生徒たちには大きかったんです。「助けたのに・・」って。で、目の前にその時の現場が見えるから、しばらく「学校に行きたくない」という子たちもいたのです。
私たちがいた避難所には小学生、保育所の方々、中学生高校生、地域の方々と幅広い年齢層の方が集まっていました。幸い、子どもたちは校長先生の的確な判断ですぐに避難して、1人も流されなかったのです。
その日、PTAの役員会があったことも幸いしました。避難所では、大人どうしが集まると、津波についてやっぱりしゃべるわけです、ああだった、こうだったと。そうすると、小学校低学年くらいの子どもが怒って「言うな」って言うんです。彼等も津波というものを自分たちの目の前で見たんですね。だから、大人がその話をすると耳を塞いで、「言うな言うな」って。
日本人として生まれて良かったと思ったのは自衛隊の人の来た時ですね。同じ日本人が助けに来て良かったと思いました。あとはアメリカ空軍の方々、あれには助かりましたね。ただ、言葉が通じないのが非常に残念で、英語も少し勉強すれば良かったと。食べ物は身振りで通じますが、避難所で「女性の下着がないから、なんとかして」と言われた時は困りました。アメリカ兵に「ブラジャー」と言っても通じなかったんです。それで、サイズを表すBのなんぼとか、Fのなんぼとか行ってみたら、「OK、OK」と言って理解してくれました。
米軍のヘリが救援物資を持ってくるのに、名足小学校の校庭にヘリポートを作って、そこに来た救援物資を、われわれの地区だけでなく、周りの地区にも分配していました。隣の地区の人が、自分たちの地区にヘリポートのHの字を描いたら、今度は米軍のヘリがこっちにまったく来なくなり、「隣に見に行って見っぺさ」と行ってみたら、隣の地区にばかり降りていました。物資がそちらに行ってしまったんです。そういうことがありましたね。
その救援物資は、食べ物も生ハムとかジャムとかパンとか、アメリカの人が食べるものだからさ、食べ慣れないものでした。それを半分ずつに切って。
うまかったなぁ。でも、来る日も来る日も、一生分くらいパンを食べました。それからカップヌードル。もう沢山という位で、あれから私はパンを食べていません。後になると野菜などの生ものも支援物資が来て、ありがたかったですね。
山に逃げて助かると今度は、地区の施設に行く途中に木の間に挟まっている人がいるというので、チェーンソー持って来て、切って助け出したんです。途中で2、3人の人を助け出したんですが、怪我をされていて、今でも助かったどうかは分かりません。まさに地獄でした。夜は、雪で寒かったですし。
自宅に戻ったのは翌日でした。
山を降りて道路に出ると、向こうからアメリカ製のジープのような車が来たんです。運転していたのはガタイの良い男の人で、「乗っけてくんねえか?」といったら「いいですよ」と言って乗せてくれました。
その人が「私たちも歌津地区に行こうと思ってたんです」というので、よくよく話を聞いてみたら、「坊主ですから」って。その方は和尚さんだったんです。ぱっと見ただけではそんな風には思えない人だったんですよ(笑)。歌津のお寺が流されたという連絡を受けて来たということでした。タイミングがちょうど良かったんです。
それで乗せていただいて自宅に戻ることができました。自宅は流されませんでしたが、浸水して、またいつ何時津波が来るか分からない状況だったので、家族は名足保育園の避難所にいました。私は津波が来る前の最後の電話で、女房に「慈恵園にいる」って連絡して、それから家族と音信不通になっていました。だから、慈恵園が流されたと知り、家族はもうダメだって思ってたんでしょう。避難所に私が現れて「おい」って言ったらびっくりして、「ああ、生きてたのか!」なんて(笑)。
そこから、避難所の方々も食べていかなければならなかったので、家が残った方がたのところに米があったから米を持ってって、食べてもらいました。白米は少なく、玄米の状態でしたので、昔の家庭用の脱穀機を引っ張り出してきて、それで白米にして持っていって食いつなぐ、という状況でした。
私は毎日のように朝早く避難所に行って、夜遅く自宅に戻って、という生活をしていました。みなさんの要望聞いて昼間は避難所に行って物資を運ぶなど、いろんな用件を受けていました。要望はいろいろありますから。ところがガソリンが無いですから、車を使うような要望には困りました。
一番困ったのは津波に流された方のご遺体が見つかっても、それを火葬場まで運ぶガソリンが無かったことなんですよ。自衛隊から、ガソリンがないから、ディーゼル車を借りようということになって、2トン車のディーゼル車があったわけです。乗用車のバンだと、1体ずつしか運べないけれど2トン車だと複数運べるのです。燃料は軽油です。
次はこの軽油をみんなでなんとかしようと。それで、トラクターなどの農機具から抜いて、車に入れて、ご遺体を運んで火葬することができたんです。それはほんとうに情けなかったね。花一輪ないんですから。何にもない。可哀想でしたね・・。
昔からの井戸が自宅の下の方にあったんですが、4月7日ごろの2回目の地震で、水質が変わってしまって塩っぱくなって、飲めなくなったんです。海のそばだから管に亀裂か何かが入って、そこから海水が入ったんではないでしょうかね。今はもう塩気も薄くなりましたが、当時は洗濯に使うと乾くと塩が出るほどでしたね。
今後の夢と言われても、まだ余裕がなくて、そこまで行かないなぁ。とにかく政治家の仕事って言うのは、そこに住んでいる方々が安心して生活することに尽きます。そこには経済的なこともあるし、防災的なこともあるし、全ての面が関係してくるわけだけど、やっぱり「ここで生まれて良かった」と、そう思ってもらえるようにしたいですね。
地域の安全と産業の振興とあるけれど、そこで自分が出来る範囲で、それに向かって励むしかないと思います。みんな協力し合いながらみんなが幸せに暮らせればいいなということです。
ここはやっぱり一次産業、水産業が大事なんです。これをはやく復活させることなんですよね。養殖場があるから、そこがうまくいけば、生活にゆとりが出てくるからね。
「水産特区」を知っていますか? 県知事が発言し県議会でもその方向で行くのに決定しているものです。要するに民間の資金を利用して、民間の方に漁業に参入してもらうということです。
具体的には、漁業権行使の書き変え時期にあたる平成25年までには確定します。そこで県知事が区画漁業権の許可を出すんですが、これからは民間にも出しますよ、というふうな内容なのです。
漁民の中には反対してる方々もありますよ。単純な既得権が脅かされるから反対だ、反対だ、と言う。そうじゃなくて、結局今、漁業施設が壊滅状態で、自力で再建が出来ない人もいる。若い人が後継者にいて、これから30年も40年も事業を継続できるよっていうところばかりではありません。
たとえば事業主が50代、60代で、息子は別の仕事をしてる人、後継者がいなくて自分で終わりだという人の中には、借金をして昔のように復活できるかっていうとやれない人もいるんです。国が再建資金の3分の2の補助をくれるといっても、数万円でできるものではありません、何百万、何千万とかかるんです。むしろ民間の業者に来てもらって、そこで一緒に働くとか、サラリーマン感覚で、給料を貰って働きたいという人もいるわけです。
だから産業復興というのは、やりかた次第だと思います。何も今まで自分たちが漁をしていた、そういう生活を邪魔されるわけではないわけです。県知事が許可を与えんのは限定した部分で、何もかもを渡すわけではないのです。漁業権という権利をもともと持ってた方々が全部放棄させられるわけではなく、ある程度の分野に就いては民間に譲りましょう、ということなんです。民間は漁民ができないことをやってもらおうということ。だから、私は賛成なんです。
民間の業者が来る事によって、販路も広がってくるわけで、今までが「作り育てる漁業」だったのですが、今は「売る漁業」なんですよ。付加価値を高めると。そうすると販路も広がってくるし、今まで10売れたものが12に、15になるかもしれないんです。要するに、漁民の方々の収入が増えればいいと思いますね。
この震災をきっかけに、漁業の形も変わってくるだろうと思います。そう考えないと、これからの経済社会を進んでいけないと思いますね。人間の意識の方向変換が大事です。
これから何をしなければならないかとか、あんまり考えこむとそれだけで疲れてしまいますから、あんまり考えないようにしてるんですよ。自分1人で考えったって空回りしてしまいます。なるようにしかならないのですから。自分の命を大事にするのは当然のことです。亡くなった方々の分までやらねばならんのは当然のことです。だからといって、一度に何もかもをやろうと思っても無理ですから。あまりにも被害が大きすぎからね。
それで私は、身近な方々を助けることから始めています。家も車も流されてしまったという方に話を聞いて、病院の診療や交通機関もストップしているので、私の娘の車を使って病院にお連れするとか、そういうことから始めたんです。身近なことでやれること、各家庭が困っているいろいろなこと、例えば子守りや、重い水や物資の運搬や、そういった気づいたことからやっていくことですね。あさ5時ごろ起き、自宅で使う分の水を運んでから、方々を回っています。
だんだんと、みなさんの笑顔が出てきたら、それがなによりですね。最初は声を出して笑うこともできなかかったんです。最初の2日目は泣きますよ。でも、あとは泣いてられないんです。お腹空いて、生きるために食べなければならないと思うからです。赤ん坊が生まれてすぐお袋の乳首を探すようなもんで、生きるために、泣いてばかりはいられないんですね。そんな中、海の人たちは強いなと感じました。お母さんたちも、本当に強いですね。
その一方、笑顔が戻ってきても、陰では泣いてるという人もいます。男はみんなの前で泣いてるわけに行かないから、人に見られないよう、暗いところに行って1人で泣いてるんです。そういうのを慰めるのは難しい。ある人は、まだ19歳が20歳の娘さんを津波で流されて、みんなの前では笑っているけれど、本当は泣く場所がなく、探している。
亡くなった方と、生きた方というのはほんとに紙一重ですね。津波のときは逃げることですね、何も要らないから逃げること。とかく「早く状況を知らせたい」「自分の無事を知らせたい」と思いがちですが、携帯電話はあの状況下ではまったく繋がらなかったですからね。焦っても仕方がないのです。命さえあれば、いつかどこかで家族と会えるし、慌てず、自分の命を守ることだと思います。自分が助からなければ、相手も助けられない。自主防衛とはそういうことだと思いますね。
私は人に頼まれてうまくいくことが嬉しいんです。だから金にならない(笑)。女房にも「もっと大事なことあるでしょ? 自分の生活考えて」って怒られるんだな(笑)。(談)
ホテル観洋より志津川湾を臨む
この本は、2011年10月20日と11月20日の両日、
三浦清人さんが南三陸町志津川のホテル観洋のラウンジにて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
福原立也
八木和美
前田拓人
寺田まり子
本川裕太郎
(以上2011年10月20日)
八木和美
福原立也
山浦秀紀
(以上2011年11月20日)
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年5月26日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト