「あっ、きんちゃんだ~!」その姿を認めるなり、数人のボランティアが走って出迎えに行きます。そこには小柄なお年寄りがのんびりとした風情で立っておられました。みんなその「きんちゃん」が大切なお友だちといった様子でとても嬉しそうにしています。
2011年4月頃から、宮城県登米市東和町米川にある「旧鱒淵小学校」では、そこを津波被災地の支援拠点にしていたRQ市民災害救援センターが、鱒淵の地域の方にお世話になりながら活動を続けていました。この物語の語り手である岩渕謹一さんは、そこに足しげく通い、全国から来たボランティアから「きんちゃん」と呼ばれ親しまれていたのです。その年の冬を前に、RQはその地を後にしましたが、きんちゃんはずっと彼らのことを覚えていて、「○○さんは大阪から来たんだな」「○○さんは今どこにいるのかな」と気にかけてくださっています。まるで、全国に孫が沢山いるかのような幸せそうな表情で。
津波被災地の小さな自分史をまとめていた聞き書きプロジェクトでは、この津波被災地域の支援拠点となった鱒淵の地が、沿岸部と昔から人的にも物的にも交流してきた歴史が深いことを学び、この地に生きる方々の小さな歴史を紐解くこともまた大切ではないかと考え、何名かの方にお話を伺ってまいりましたが、このきんちゃんの自伝は、そのどれもに似てないものになりました。
第2次大戦の戦局が悪化する中で、楽しいはずの子ども時代も青春もすべて戦争に塗りつぶされ、楽しい思い出などなかった10代。戦時中の記憶について語るとき、穏やかで優しいきんちゃんの表情は厳しくなり「戦争なんか2度とするもんじゃねえ」と繰り返す口調はとても力強く、その訴えをこちらも全身で受け止める思いでした。きんちゃんの反戦への思いを、多くの方にも知っていただければ幸いです。
2014年8月15日
聞き書きプロジェクトメンバー一同
岩渕謹一さん
私は大正12(1923)年8月29日、父・岩渕安右衛門と母・アヤセの長男として生まれました。父が48歳、母が26歳の時の子どもでした。
父は明治19(1886)年に私同様、鱒淵に生まれましたが、16~7歳で三井物産に入社し、カナダに渡りました。
というのも、三井物産は宮城県の地場産業として栄えていた養蚕で、カナダと生糸の取引をしていたからです。カナダでの父は、ドイツ人の家庭に下宿し、夜学に通いながら昼間は働くという生活をして、英語、ドイツ語を身に着け、さらにフランス語など5カ国語を話せるようになったといいます。父はカナダと日本の二重国籍を持っていました。カナダで洗礼を受け、洗礼名カルロフというクリスチャンになっていたのですが、その父の形見はロザリオです。米川の教会の復興に尽力した小林司教から昭和30年頃に戴いたもので、それも今は私の手もとにあり大切にしています。
その後父は、大正8(1919)年、42歳の時に三井物産を退職して帰国し、その後は乞われて鱒淵村の村会議員となり、しばらくして助役を勤めました。
父が母と結婚したのは帰国の翌年でした。母はまだ若く父とは20歳以上歳が離れていました。母の実家は千葉家、嵯峨立中畑というところにあり、45代、900年続くという名家でした。
結婚した当時、母方の祖父は嵯峨立村の村長をしていました。嫁入りにあたって、祖父は「何かあった時、これを売ればお金になる」と金でできた鈴を母に持たせのですが、それは鎌倉幕府の金鈴といことで、貴金属としても歴史的にも高い価値があるというのです。それは今では私にとっての大切な母の形見なのです。
母・アヤセさんと父・安右衛門さん
母もカトリックの洗礼を受け、洗礼名マリアといいました。終戦直後はこのあたりもクリスチャンが多かったのです。私たち以降は洗礼を受けていません。父の葬儀をする際は、教会ではなく、仏式で行いました。仏教徒でなかった父の葬列は、寺の山門をくぐらず、脇を通って入っていったのです。父は戒名をもらわず、洗礼名が墓に刻まれています。
父は、私の覚えが悪いとキセルで打つような厳しい人でしたが、正直な人でした。昔の助役などは名誉職で、収入が少ない割には村の顔として、付合いなどで支出も多く求められ、私財からそういった支出を補ったので、財産を次々と失っていました。さらに戦後の農地解放でほとんどの土地を失って、壁と井戸だけしか残らないといわれるほどの貧乏になってしまいました。
長い海外生活で数カ国語に通じていた父は、英語も堪能でした。私が少年兵として大陸に渡り、そのまま捕虜になっていた終戦直後は、当時水沢県の県庁があった登米に赴いて進駐軍の通訳をしていたそうです。その時も物資不足で履くものがなく、草履をはいて行ったそうです。
思えば、戦時中の父は出征していく私に「潔く死んで来いよ」と言うような本当の軍国主義の人でしたが、母は逆で、「決死隊に志願すんなよ」と言いました。大陸に渡って捕虜になっている間に戦死したと思われていた私が帰還したとき、父は「生きてきましたな」と言っていました。そのことを思い出すと笑ってしまいます。
日章旗の下で戦時服に身を包み。
ゲートルを巻いて、直立不動の姿勢を取っているのは安右衛門さん
子どもの頃の遊びといえば「木馬(キンマ)」でした。近所に子どもが沢山いたので、先輩の見よう見まねで自分で作って近所で遊んでいました。下駄にカスガイを打って「下駄スケート」もよくやったし、木にロープを結わえつけてブランコをしたりもしました。たくさんいた子どもも、尋常小学校の6年生になる頃には、尋常高等小学校に進学する人はいくらかはいましたが、家のために紡績工場に働きに行かされる子もいました。
鱒淵尋常小学校時代の集合写真(昭和10年頃)
尋常高等小学校時代の集合写真(昭和13年頃)
その頃の主食は米ではなく麦飯で、冷めると美味しくなかった。白いご飯を食べるのはお正月など特別な時だけです。食べるものは自家製で、こんにゃく、豆腐、味噌まで家で作っていました。干し柿を作ったり、ついた餅を凍らせて「凍み餅」にしたり、保存食を各家で作りました。基本的に物々交換で、浜の人が持って来る魚の干物などと、麦や米を交換していました。生活全般に現金の要らない生活をしていたのです。買ったものといえば塩ぐらいのものでしょうか。
米川では人がなくなると、お寺で葬儀をしたあと、棺台にひつぎを乗せて野辺の送りをしたものでした。昔は土葬でしたので、亡くなった人が出ると、村の人が桶のような形の棺を亡くなった人の身体の大きさに合わせて杉の木で作り、その中にふつうは膝を抱えて座るような感じに入れ、棺台(がんだい)に乗せてゆっくりとお墓まで担いで運んだのです。身体が下り曲がらなければ長方形の棺にして寝かせ、リヤカーに乗せて運びました。契約講といって近隣の互助会で葬儀を執り行ったのです。
この写真はカナダ帰りの写真屋さんが撮ってくれたものですが、75年前の葬儀の写真です。亡くなった人を家から運び出すときは、玄関から出すようなことは絶対にしません。必ず座敷から出て行きます。そしてそのあとを箒で清めるような動作をしました。
昭和1年(1938)年尋常高等小学校卒業後、北海道に渡り、室蘭の夜間の養成校で旋盤工技術を4年間学びました。昼間は父の弟、つまり、おじが所長をしていた関係で、日本製鋼に入りました。父の弟が北海道の相川町に婿入りしていたのです。ちなみに、おじの息子は陸軍中将まで昇進し乃木将軍に自筆のものをもらったというくらい、軍で出世した人だったそうです。
しかし卒業の半年後(1943年)に体調を崩してしまい、宮城の実家に戻りました。そこから3カ月しかたたないうちに、今度は戦時徴用で60人ほどの仲間と共に東京・板橋の造幣局に「徴用工」として送られました。造幣局は軍需工場になってしまっており、私はプレス機械で弾丸を作る仕事をしていました。住んでいるところは練馬だったのですが、豚小屋がそばにあったり、タヌキが出るような田舎で、道に迷ってぐるぐる歩き回ったことを思い出します。
その後、半年でできたばかりの仙台の軍需工場(正式名称・東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、1941年に仙台市苦竹に新設された)に移動になり、昼間は高射砲の弾丸を作りながら夜間は宮城野青年学校に通う生活をしていました。
室蘭工業専門学校時代の集合写真
仙台苦竹の軍需工場で旋盤工として働いていたころの写真
(「苦竹(にがたけ)」に軍需工場があった-戦時下の生徒たち
—仙台三高新聞部文化祭発表資料より)
勤務体制が11時間拘束の昼勤・夜勤2交替制。
技師、養成工、徴用工、女子挺身隊、学徒動員による生徒・学生たちがおり、魚屋をはじめ八百屋、芸者など様々な職業の出身者がいた。工場構内に宿舎と寮が完備されていた。
●軍需工場
敷地はコンクリート製の塀に囲まれていた。北側と南側には通用門があって、守衛によってボディチェックがおこなわれていた。この工場では、主に、20ミリと12・7ミリの航空機関砲の弾丸を作っていた。この工場は第1から第4工場まであり、その他に養成所(教育工場)や木工場、本部、病院、宿舎、所長宿舎、貯水槽、事務所、大食堂、石炭庫などがあった。
第1工場:機関砲弾の弾体の製造
第2工場:機関砲弾の薬莢づくり
第3工場:機関砲弾への火薬装填作業
第4工場:機関砲弾の信管工場
教育工場:養成工としての訓練を受ける所
木工場 :防火用の柄杓作りなど
工具工場:制作工具を作る所
また、構内には、できた製品を輸送するために、鉄道の引込み線があった。2本の引込み線は陸前原町駅まで続いており、そこから仙石線を経由して空軍へ運ばれたという。 熟練工のような技術と精密さを要求される作業を、それも大正15年製などという古い旋盤機械を使って、ほとんど素人が行っていたため品質は良くなかった。終戦直後、進駐軍がこれら造兵廠の不良品や日本の兵器、建物などを取り壊したり、焼却したりして、今の宮城野原総合運動場の所に、直径およそ100mの大きな穴を掘って埋める作業をした。
やがて戦争が激しくなると、今度は労働力としての「徴用工」でなく、「少年兵」として徴兵されました。その頃は、国民学校の高等科の頃から、男の子は下士官を志願し、1年生を終えた時点で補充兵として徴用されていく時代でした。軍隊に入ると一番下の階級の2等兵になり、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹、と階級が上がって行きますが、伍長・軍曹までは実戦の時には居場所が悪くて敵に狙われやすく、すぐに殺されてしまうような存在でした。
私の隊は最初に九州に行きましたが、2週間ほどで移動命令が下り、大陸に渡ったのです。徴用した漁船で博多から朝鮮に渡り、貨車で満州・山海関を通って香港に行き、広東の中山大学に集結し、仙台84連隊第12中隊に入隊しました。そこで作戦が始まりました。入隊した隊は「泣く子も黙る原兵団」といって、冷酷な作戦部隊でした。その中で、私たちは先遣隊として、犬を連れて敵がいないか確認する役割でした。部隊に割り当てられた軍用犬は6頭いました。班長は軍曹で、私はシェパードの「オルモ」に餌をやったり、洗ったりはもちろん、犬小屋があるわけではないので、寝るときには腰にリードをつないで軍犬と一緒に寝起きするのです。軍犬は人間よりも良い缶詰を餌として与えられるので、軍犬係の中には、空腹に耐えかねてこっそり犬の餌を食べてしまうものもいました。逆に犬が死んで自分が助かった兵もいました。
軍用犬を率いた陸軍の隊員たち(「帝國ノ犬達」より
軍隊の生活は命令通りに動く、牛馬と同じようなものでした。朝3時にたたき起こされて1日が始まります。それから「軍人勅諭」を暗唱します。これは軍隊にはいったら覚えなければなりませんでした。すべてを覚えられない人は、次の5箇条だけいっていました。
「一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし」
「一 軍人は礼儀を正しくすべし」
「一 軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし」
「一 軍人は信義を重んすべし」
「一 軍人は質素を旨とすべし」
そして、「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある」と本文を学ぶのです。軍隊は天皇の統率したものでした。天皇は軍隊の最高峰に位置し、そのお顔を直接見た人はほとんどいない、連隊長でさえあったことがない存在でしたので、私たちは写真だけでしか知りませんでした。
それから毎日戦争の稽古です。青年学校と同じように、予科練隊から毎晩、伍長だの、下士官だのが来て銃剣を使って人殺しの練習をするのです。また少年兵は「ふんどし部隊」といって洗濯の当番があったり、雑用もしなければなりませんでした。
隊は日中戦争に参加して満州から、長沙、衡陽(現湖南省)、桂林、柳州、南寧(ナンネイ。現広西省)と、中国国内の各地を移動とし、遂にフランス領インドシナまで移動し、ドンモウ(ベトナム・ハノイ)の作戦に参加しました。そこで菊のご紋のタバコ1本を与えられました。つまり、これから中隊は決死隊として進軍するから、天皇陛下に賜ったこのタバコが最後の一服になるかもしれないという意味でした。天皇陛下の命令で行くのです。みんな殺されるのは嫌ですが、嫌だなどと言うことはできませんでした。
常に空腹で体力も落ちていて、熱帯マラリアにかかる者がいて高熱に苦しんでいても十分な手当てもできませんでした。中には、病院で頭をたかって(叩いて)もらったらよくなったといって元気になる人もいました。看護婦も夜も日も無く大変だったと思います。やがて隊の中から、選抜された10数名の兵隊が激戦地のスマトラなどに送られて行きました。そして彼らは2度と故郷の地を踏むことなく戦死したのです。
同級生の千葉秀夫さんと
同期入隊の方と撮影。
途中で分かれてスマトラに派遣され、戻らなかった方もいる。
行軍は過酷でした。背負っている背嚢だけで重さは15貫(約60キロ)もありました。飯盒も水筒もその中に入っており、その上に銃も持たねばなりませんでしたので、大変な重荷でした。私たちのいた隊は強いことが知られていた原兵団の先発隊でしたので直接襲われることはありませんでしたが、敵に弱いと思われると、馬車の荷車の物資も馬さえも敵兵に襲われて略奪されるようになり、先頭を行く私たちの第2師団には物資が届かなくなりました。水も食べ物もなくなり、腹が減ると口を動かして食べているようなふりをして気を紛らわせました。みんな他のものに水をやる気力もなく、現地の生水を口にしたものは途端に赤痢やコレラにかかって、「水、水」と言って倒れていきました。そのまま行軍中に死ぬ兵士がたくさん出てきました。死んだ仲間は本当にかわいそうでした。
それが戦争だから仕方ないといえば仕方ない、当たり前だったのです。戦争は本当に残酷なものでした。生きて帰ってきても、もう旧登米郡で戦地に行った人で生きているのは数人です。あとはみな亡くなりました。
私のいた中隊は、ビルマへの移動中、ランソン、タピオ、ウォンビツに達したところで敗戦を知りました。前線にいたので、情報が伝わるのが遅く、8月15日に敗戦を知ることは出来ず、翌日に暗号でやっと伝わったような状況でした。
日本はきっと勝つんだ、負けるはずがないと信じて戦ってきた私たちは敗戦を知って泣き崩れました。捕虜になることは大変な恥辱と教えられていたので「自決するか」と言って泣いている人もいました。みな自決は覚悟していたと思いますが、連隊長は「もう少し待て」と思いとどまるよう言ってくれました。それでもある准尉は一平卒から昇進した生え抜きの軍人で「孫の顔をもう一度見たかった」と言って自決してしまいました。
行軍中には、中隊長以下、天皇陛下のご命令があれば全員、自決する覚悟はできていました。先に、手りゅう弾で自決した人もいました。手りゅう弾を自分だけのために使って死んでしまったので、骨もなにも故郷の日本に持ち帰ることはできませんでした。
そのうち、隊の火薬庫に敵の砲弾が命中して、武器を失った私たちは蜘蛛の子を散らすように逃げましたが捕まって捕虜になってしまったのです。
その後、私たちは中国の捕虜として収容所に入ることになりました。銃などに入った菊の御紋はすべて削りとらされました。しかし、幸運なことに、そこを管理していた中国人は40歳そこそこの若い少将でしたが日本の学校を出ていた人で、日本人捕虜の扱いが比較的良かったのです。それでも朝起きてすることは農作業で、食べるものといったら皆雑炊です。サツマイモのつるを食べるほど食料が不足していました。鉄の御椀に竹の箸で食べたことを思い出します。戦争後、2~3年そこに止められて、やっとのことで日本に戻れる日が来ました。来た時と同じように漁船に乗り、ハノイから浦賀にあがり、米川に戻ってきたのです。昭和22年のことでした。
仏印国境でフランス軍の捕虜を軍刀で切り殺した罪で、自分のいた隊の大隊長が戦犯として絞首刑になりました。実際は部下の兵がやったことだったのですが、捕虜を殺してしまった責任を取る形で刑を受けたのです。
戦争中は、人の気持ちが荒んでいました。上官に何の理由もなく、虫の居所が悪いとほっぺたを左右叩かれることもありました。私の中隊ではありませんでしたが、他の中隊であまりにひどいいじめをしていた上官が少年兵から「後ろ玉(実践中に敵を撃つふりをして後ろから上官を撃ってしまうこと)」で殺されてしまうという事件も起きたそうです。また、これは終戦後になりますが、引き上げ船の中で、軍が解体して軍の序列がなくなったことで、上官だった人が部下だった人に仕返しを受けて重傷を負うということも起きました。
私たちは天皇の軍隊として徴集され、戦場に送られましたが、戦場で命を落とす人は誰ひとり「天皇陛下バンザイ」などは言いませんでした。15や16で戦争に駆り出された少年兵はみなおふくろの名前を、子どもがいる人は自分が育てた子の名前を叫んで死んだのです。こんなに残酷な戦争は絶対にするものではありません。(談)
謹一さんの「善行証書」
これがある除隊後の就職にも有利であるとされた。
謹一さんの終戦時の階級は「兵長」。この証書には年月日の記載がないが、
歩兵84連隊の連隊長は深野時之助大佐だった期間は1941年以降であるので、
時期的には謹一さんが陸軍に在籍していた期間と符合する。
謹一さんは戦後も、戦争での体験を共有した仲間たちとの
「戦友会の集い」には必ず参加していたが、
前後69年を経てその参加者も鬼籍に入るなどして年々減少しているという。
当時を証言する人の声は貴重になってきている。
謹一さんと息子の宣さん
この本は、2013年8月~2014年7月にかけ、
登米市東和町米川の岩渕謹一さんに伺ったお話をまとめたものです。
耳が少し遠くなっていた謹一さんとのコミュニケーションを
いつも息子の宣さんが助けてくださいました。
そして宣さんの奥様、愛犬のハナちゃん、
ご家族の皆様のお力添えが無ければこの聴き取りはできませんでした。
心より御礼申し上げます。
また聴き取りのコーディネートに関しいつも温かく力強いご支援を頂いている小野寺寛一さん、
RQの撤退後もずっと米川の地を支える活動に邁進している浦田紗智さんにも
この場を借りまして感謝申し上げたいと思います。
[取材・写真]
浦田紗智
牧れい花
久村美穂
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2014年8月15日