このお話は、大正の終わり、つまり昭和という新しい時代と共にに志津川の細浦に産声を上げ、時代の大きな移り変わりの中で、ご家族を支えて生きてこられた阿部琴女さんの物語です。
女性が語る「戦地ではない戦時中の生活のお話」は、とても貴重だと思います。決して楽ではなかった生活だと思うのですが、琴女さんのお話からは、自分たちの手で生活を営んできた誇りを感じます。
農業・漁業だけでなく、料理・編み物・裁縫・染物と、琴女さんは何から何まで、ご自分の手で創りだしていらっしゃいました。
途中、歌もご披露して下さり、盆踊りの衣装や練習のお話など、働きながらも生活を楽しんでいらした様子もお聞きすることができました。私も主婦の端くれとして、見習わなければと思います。
お話には、息子さん、お嫁さん、ご主人も加わって、貴重なお話をうかがうことができました。長い時間、ご家族の皆様でご協力くださいまして、本当にありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
2012年5月吉日
RQ聞き書きプロジェクトメンバー一同
気仙沼線清水浜駅の春
写真:「東日本大震災写真保存プロジェクト」 撮影/exp*ess*ok*iさん
生まれは、宮城県本吉郡志津川町だわね? 今は南三陸町ね。もとは、字(あざ)、細浦37番地です。生まれも育ちもそこです。大正15(1926)年の12月7日です。今、数えで85歳です。
より大きな地図で 宮城県本吉郡南三陸町志津川細浦 を表示
兄弟は、亡くなった人も数えると5人兄弟でした。3人亡くなっているので、妹と2人だけなんです。妹とは12歳違いです。私が長女で、弟2人、妹2人で、弟2人と妹1人が亡くなりました。弟は、1歳かそこらで風邪をこじらせて肺炎をやって亡くなりました。妹は病気だったか、亡くなったのは3歳のときでした。私が6歳の時でしたから覚えています。
津波は、今度で4回目です。明治29(1896)年と昭和8(1933)年にも津波があったんです。それから、チリ(地震)津波、昭和35(1960)年です。
昭和8(1933)年の津波の時は、私は8歳になったところでした。昭和に入って、学校へ行くのに、津波が3月だったから、5月から学校でした。その時もやっぱり雪が降ってね、その時のことも覚えているけれど、やっぱり高台へ行ってね。今度のようなことは、千年に1回だからね、まさかこんなことになるとは誰も考えてなかったからね。
仕事は、父親が大正8年あたりは大きい船に乗って、そして漁業ね、魚とりをしていたんです。母は、家で子どもを育てながら、農家だから、農業と漁業もやりました。
戦争中は、大東亜戦争では、父親がボルネオ、ハワイなどの方へ船に油を積みに行って、運んだそうです。それでもまず、船はやられないで、健康で、長生きしてね。父親は船長の資格をとっていて、50年も船に乗っていたので、勲章までいただきました。東京オリンピックの年(昭和39年)に皇居へ行って天皇陛下から勲章をいただきました。皇居の二重橋を渡って豊明殿へは本人しか入れないんです。その時は、父だけ皇居へ行きました。
私たちは、東京までは行かないで、仙台の塩釜の海運局での伝達式に一緒に行きました。こういう経験も父親のおかげです。
父は、82歳で亡くなりました。去年33回忌が終わったんです。
その勲章もとってあったんだけど、今度の津波で流れてしまいました。
母もよく働く人で、86歳で亡くなりました。
今の子たちは、遊び場もいっぱい増えて、わけわかんないくらいオモチャもあるけど、昔はそういうものがなにも無いんだものね。
遊ぶものなんてないから、海へ行くと干潮で波が引けるでしょ? そうすると、長い棒を使って貝を獲ったり、川へ行ってトンボを獲るような網で魚を獲ったり、そういうのが遊びでした。お金がかからないような遊びをしていました。
すかんぽって知ってる? 切って酢に漬けると真っ赤になるんです。きれいに。そうするとそれをおかずにしてお弁当に詰めたりしました。漬物です。後は、蕨を採ってきて煮物をしたり、蕗を採ってきて、漬けたり煮たり、お茄子を 煮たり・・・。そういう仕事を、学校から下がってきてからしました。
いろいろな大人の真似をしました。
お人形は、私らの頃にはなかったです。自分の着た着物でお手玉を作りました。山のフジの蔓や皮を、ずーっと長くして色んな籠を編んだり。学校下がってきても遊ぶところはないから、海へ行ったり、お手玉を縫って遊んだり、みんなして寄っていろいろやりました。
私たちの頃は、今のように幼稚園や保育園がなかったんです。でも、学校帰って来てもお母さんもお父さんも働いていていないから、妹とかをおぶって、また学校まで30分くらい歩いて、夕方5時くらいまで学校の教室を借りて、校庭で遊ばせたりして、そういうふうに過ごしました。
夏休みには学校がないから、朝お寺へ行って座禅を組んで姿勢を良くしてね、そうして勉強したんです。夏休み1カ月、座禅組んで、それから拝んで、勉強して・・・。
食事も、米がないから、「つぶし麦」って言って、麦を竹の竿と木をつないだもので打(ぶ)って、ふるって、お母さんたちがついて、食べられるようにしたんです。
米だって、脱穀する機械がないから、昔は、千歯こきって言って、稲を束ねて半分くらいにしてね、ギザギザでこいで、押して、落としてから、米と糠にして・・・。今は田んぼから直ぐに機械に入れたら白米になるけれど、そういうことはなかったんです。そういう作業は、みんな手の仕事だったんです。
お金もないから、店もないっちゃ、買うってことが無いんだもの。なんでもかんでも我が家で作ったさ。米・麦はもちろん、豆・味噌・きゅうり・こんにゃく・豆腐・・・。
こんにゃくは、じゃがいもみたいなこんにゃく玉を洗ってすって石灰入れて煮てね。豆腐は豆を蒸して挽いて、にがりを入れて・・・。今のようにお金をとれないし、バラバラと撒くようなお金はなかったの。もう、1銭だの1円だのの世界。その時の私たちは、1銭あったら良かったんだもの。
私たちは、蕎麦だって、とうもろこしだって、みんな作ったんだから。粟もヒエも。で、戦争中は「かてご飯」って、豆を入れたり、大根の葉っぱを干して刻んで、炊きこみにしてね。大根の茎からね、栄養にもなるし。今だって食べるには食べられるのよ。今だってやればやれるのよ。ご飯でもなんでもね。粟だのヒエだのは、お餅に入れてね、米がないから、白い餅って食べたことがなかったの。
お正月なんかは、米を挽いて粉にして餅にしてね、それが一番豪華でした。後は、よもぎを採ってきて干して擦って粉にして、それもまた米に混ぜて、もち米に混ぜて草餅にして、そんなのは一番豪華でした。食べられない人もいる時代です。それを作って皆で一緒にね、食べたんです。本当にいろいろなことをしました。今の草餅は色で入れたりして、本当の草では無いからね。
昔は、小学校を6年卒業すると、尋常高等1年、2年とあって、それから女学校です。今の高校です。部落から、同じ学年に約20人にいて6人かな? 進学しました。学校までは、歩いていきます。片道2時間、往復4時間です。今の志津川小学校前までです。
より大きな地図で 細浦から女学校(現志津川小)までの徒歩ルート を表示
朝、5時には出ないといけないから、授業が8時からで、その前に行って朝自習やんなきゃなんないから、朝ごはんを食べないで学校へ行くのに、おにぎりを持って行くんです。朝3時に起きて、ご飯を炊いて、山さ行って、畑をなんぼか手伝って、働いてから学校へ行きました。
靴は、今のようなズックや長靴はないから駒下駄です。「げたっこ」って言います。木で作りました。草履も作って履きました。藁で編んでね。雪の時はね、ただのゴムの靴、今のような敷き革はないから、ただのゴムの靴に綿を入れて、綿は温かいから。それで、足袋は雨だと学校着く前に汚れるからしまって、学校で靴を脱いだら足袋を履いて、帰りはまた足袋を脱いでたたんで持ち帰って、ウチでは裸足で、洗って干してまた持って行って・・・、そうやって通いました。暮らしは楽ではなかったからね。
女学校では、お裁縫とか料理とか家庭科で、縫って染める絞り染めも習いました。編み物も基礎から編み方の種類も、1つ編み、2つ編み、かぎ針もね。洋裁も習いました。自分で裁って、子どもの服もセーターも作りました。染物は、染め粉を買ってきて、白い反物を、絹物でも、模様をつけるのにギューッと絞って、手で縫ってキューっと糸を巻いて、花模様や葉っぱとか、そういうこともやりました。着物の布を裂いて、ずーっと長く裂いて編み物もしました。今みたいな毛糸がなかったからね。かぎ針も棒針編みもやりました。
私たちは、1枚のお母さんの着物をもったいないって、ちゃんと型をとって、羽織1枚から洋服1枚。自分でちゃんとやって学校へ着て歩きました。
今の子どもたちは、これからどんな世の中になるのかわかんねぇけども、私たちの生まれた時よりもかわいそうだなぁと思うこともあります。物を大事にするってことがないもの。私たちは、米をとったって麦をとったって、本当に申し訳程度で、皆で食べたらそれで終わりです。当時は着物も綿で、赤い色の着物なんて見ませんでした。皆が同じような生活だったんです。今は、なんでもお金で買えるけれどね。
13歳で小学校6年生を卒業して、尋常高等が2年。それから女学校で、卒業したのは19歳の春です。卒業してからも、そのまま家にいて、ウチの中で働いたり畑を手伝ったり、家業を手伝いました。
戦争が始まったのは、私が19歳の頃です。その時はみんな挺身隊っていうのに行ったんです。私たち女性も兵隊みたいに引っ張られて、女学校もです。
私は、引っ張られずに家にいて、防空壕を掘って穴さ隠れたり、山さ隠れたりしました。男の人は行ってしまうから、艦砲射撃が来るまで、夜は、竹槍で「兵隊さ殺せ」とか言われて見張りもしました。
6尺くらいの長い竹をね。戦争中女性はね、どこで兵隊さんが来るかわからないから、「来たらば、この竹槍で兵隊さんを殺せ!」なんてね。
飛行機で上から爆弾を落とされるから、畑だの田んぼだの山さ、穴を掘って、入り口は藁や笹竹で人から見えないように隠して。それで飛行機が行ってしまったら、出はって農作業をやって、「飛行機、飛んできた〜」って防空壕を深く掘って入って。夜は一番辛かったね。そういう戦争の時は、夜は真っ暗で、今のような電気は無いもの。懐中電灯も無いもの。
だから油ね、ランプってあったのよ。それをつけて、それ持って明かりにして電気なんてないからね。ご飯を炊くといっても、電気やガスはないでしょ? 山から薪を取ってきて、炉を作ってご飯を炊くんです。蒸すのも、みんな。穴の中でかまどを作って、ご飯を炊いたりね。電気も油も貴重だから、いろいろやりました。
今、そういうことできるかな?って思うことあります。炭を焼くでしょう? 炭がないから、木を切ってきて炭焼きをしたこともあります。当時、炭が一番お金になりました。炭1俵でなんぼでした。
戦争中は物が無かったから、私の家は農家だから、できたものは皆で分けっこして、買って食べようと思ったことはありません。自分で採った物を少しずつ皆で食べました。分けてね。果物はその時分は、山で木の桃を採ってきたり、いろいろなを植えたりしました。当時は、「何々を食べたい」とかは、思いませんでした。
お母さんは、一生懸命お努めして、子どもたちに食べさせてくれました。干し柿は、そのままでは食べられない渋柿を食べる調理法の工夫だね。皮をむいて干すでしょう? 干して、粉が上がったら、裂いて大根おろしにしたり、さつまいもだって干して干し芋を作ったり、生の柿を潰して粉を入れてかき餅にして食べました。
米を炒って香煎みたいにして食べたこともあります。蕎麦粉に味噌と出汁を入れて、鰹節なんかも入れて練って囲炉裏で丸く焼くんです。家で採った蕎麦だから美味しいの。朝早く起きて、おやつになるように作って、あれも美味しかった。
なんでもやりました。今、買って食べるのは昔のと味が違うね。自分たちで採って、自分たちで手作りです。
後は、サトウキビ、沖縄で売ってるね? ああいうのも、私たちも作りました。あの時分は砂糖もないから、切って煮出してザルにあげて、その汁を煮詰めるんです。1キログラムの水を200グラムくらいまで煮詰めるんです。そうすると甘味がウンと出てくるの。そういうので、お正月にお餅を食べたりしました。皆で少しずつ分けてね。買って食べるということがないからね。
戦争中(学生の頃)は、イカ釣りも行きました。学校半分、海半分です。
で、獲って来たものを、今度は売りに行くんです。皆が行くから、私も一緒に行ってね。登米市の方まで、転んで怪我をしたりもしたけれど、皆が行くから、泣いたって、お爺さんやお婆さんが「行かなくても良いよ」って言ってくれても、やっぱり皆が行けば、行かねばなんないのかなぁって思って行きました。
楽しみだったのかなぁ? 米をもらって、物々交換です。戦争中のことだから、売っているのがバレて、お巡りさんに捕まると罰金だから、その上、米も取り上げられてしまうから、皆で見て、「今の時間ならお巡りさんいないから・・・」って、わざわざ山を歩きました。楽しみに歩いたのかもなぁ〜。海では、ワカメの種付けもなんでもやりましたよ。
戦争が終わって、お爺さん(ご主人)は戦争へ行っていたから、兵隊から戻って来て結婚しました。私たちはいとこ同士です。小さい頃から一緒に皆で暮らしていましたから、喧嘩しながら「そろそろ一緒になんなければいけないかなぁ」って。お見合いではないんです。お爺さんは3つ上で、私が22歳の時です。
結婚は、許婚(いいなずけ)だったから、特別なことは何もなかったです。父がお祝いに、お婿さんになる人がかぶる立派な帽子を贈りました。一緒に暮らしていたのが、喧嘩しながら、そのまま夫婦になったから、嫁入り道具とか財産とかないです。着物も、自分の家で機織りして縫いました。
結婚式の時は、かつらではなくて、自分の髪で高島田を結いました。今は年をとって髪が薄くなったけれど、元は髪もあったから、髪結いさんに来てもらって、自分の髪で結って振袖を着ました。旦那さんは羽織袴です。ご親戚だとか兄弟だとか皆集まって寄って、うちうちでお餅をついて、それが一番のごちそうでした。昔はホテルでないからね。
同じ家で育ったから、喧嘩しながら一緒になったのよ。その当時は、船さ、ちょっとぐらい乗ったかなぁ。私と一緒になってからは、家の仕事をやりましたから、こうして今でも一緒だからね。機械が無かったから、馬っこね、馬っこでもって田んぼをしたの。
馬のクツワに竹つけて、前を引っ張るわけだ。マンガ(馬鍬)つけたりしてね。馬は大きいの。力のあるやつね。「チャグチャグ馬っ子」知ってる?
♪ちゃ〜ぐちゃ〜ぐうまっこものいうた〜〜
──琴女さん、歌ってくださる。お嫁さん「おばあちゃん、歌好きなのね」
馬コうれしかお山へ参いろ
金のくつわに染めたずな
(チャグチャグ馬コがもの言うた
ヂャ〜もいねがらおへれんせ)
去年祭りに見染めて染めて
今年や背中の子と踊る
おらが馬コは三国一よ
嫁コしゃんとひけ人が見る
さつき柳の北上川へ
鈴コチャグチャグ音がひびく
この辺に馬のお祭りはないです。馬は田んぼで働いて、それから川へ連れて行って川の水をかけて、きれいにタワシをかけて、人間で言えばお風呂だね。馬っこさ乗って草刈りなんかも行ったね。
夏は盆踊りが楽しみでね。昼間は忙しいから、夜に練習しました。ご飯を食べてからね。その時の着物とかも、いっぱいあったのに、津波で何も無くなりました。
息子は昭和25(1950)年に生まれましたから、それから後のことは、この人に聞いてください。息子は、高校の頃、朝ごはんを食べないで学校へ行くので、お婆さん(琴女さんのお母さん)が心配して「ご飯を食べないで学校行ったらお腹すくっちゃ?」って。「婆ちゃん、勉強してる時はなんも言わねぇほうがいいよ」って、「大丈夫だから、黙っときさい」って。そんな思い出もあります。一人っ子だからね。
気仙沼の水産高校で生徒会長もやって「船乗りにはならねぇ」って言ったけども、爺ちゃん(琴女さんのお父さん)が船乗りだったからねぇ。船に乗って、無線通信士で局長をしました。
孫は2人います。昭和54(1979)年と58(1983)年生まれだから、32歳と28歳です。仙台で暮らしています。
私たち、地震のあった時はね、爺ちゃんがテレビを観て、「こんだ(今度は)、大変だー!!」「地震だから、婆ちゃん、出払え〜!!」って叫んでね。
外へ逃げたから、爺ちゃんは1人、私とお母さん(お嫁さん)は一緒、お父さん(息子さん)は1人で、3台で逃げました。センター(細浦地区で避難所に指定されていた細浦生活センター)さ、避難しないとね。
センターさ行ったら、「ここじゃ危ないから高台へ行け」って言われて、お寺さ行って、そしたらお寺もダメだから、ご先祖様のお墓の上で寝たのよ。今度の津波は、潮があんまり引けなかったね。そうして波が来たから、相当高いのね。みんな流されたから、こないだったらウチも流されるなぁって覚悟しました。
1回はセンターに逃げたんです。逃げることに決まっていたからね。でも、そこも危ないってなって、寒いからセンターに入りたかったんだけど、「ダメ、ダメ、ダメ」って。で、「どこさ、行けばいいの?」って。高台だなぁって、ご先祖様のところが高いから、ご先祖様に拝みながら、津波はご先祖様の下まで来ました。山々登って行って、となり村に1時間位いたと思います。「婆ちゃん、ここから歩けるか? 車から降りて」って、お母さんが言うから、「いや〜こういう時、山越えてどこへ行くの?」って。そうしたら、「センターさ」って。もう津波は止まったから大丈夫だって。
オリンピックの千円記念硬貨や、孫が生まれた記念の10万円の記念硬貨もみんな流されてしまいました。お爺さんが漁協で積み立てて作ってもらった着物もみんな流れました。でも、表彰状が出てきたんです。お爺さんが、戦争中、人助けをしていただいた賞状です。
お父様の表彰状
津波の後見つかったお皿
お嫁さんと息子さんのお話 食器が出てきました。割れなかったんです。子どもたちの小学校の運動会の写真も数枚出てきました。
汚れていても、もう使えなくなっていても、やっぱり自分のものが見つかるとうれしいものです。うれしくて涙が流れますよ。
私は、避難所には入らなかったんです。親類の家に1カ月近く。爺ちゃんの弟が歌津の名足浜にいるから、そこにお世話になりました。
それから、気仙沼の兄弟の家に半月位。その後ここの仮設住宅が当たったんです。息子夫婦は、細浦の親戚の家を借りていて、私と爺さんで、爺さんの弟の家へ、名足と気仙沼にお世話になりました。それで、ここの仮設が当たったから、1週間の間に入居しなさいっていうので、6日にここに入りました。
避難所と言われても、私は暮らすのは無理でした。腰が悪くて、骨粗鬆症で入院してたこともあるから、若い人と一緒の生活はできないと思いました。兄弟のところでは、毎晩湯たんぽを入れてもらって暖かくしてもらいました。
お嫁さんのお話 食べ物も避難所は1日2食です。やっぱり3食ねぇ。ここの仮設は、いくら兄弟の所と言っても、長くなると疲れが出るから「まあ、どこでもいいや」って申し込みました。1日も早くと思っていました。
地元にも仮設は建ったんですが、もう、こちらが当たったのでね。
息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないから、説明会もやっていません。だから皆不安なんです。将来のことも考えられないし、宙ぶらりんなんです。この平成の森仮設は、大き過ぎます。知らない連中でまとまらないです。「住めば都」と言いますが、3カ月経ちますが、慣れないねぇ。狭いよねぇ。
私たちは、ご飯のおかずに漬物があれば他はいらないの。そうやって暮らしてきたからね。食べ物は好き嫌いなくて、なんでも好きなんだけど、骨粗鬆症があって、仙台に入院したんです。ウチのお母さんのしそ巻きは美味しいよ。外で買ったのとは違う。外のは硬くてね。
お嫁さん手作りのしそ巻き
こうしてお茶っこして、昔語りをするのが楽しいの。でも、これからは寒くなるから、なかなかできないよ。皆さんにこうして来てもらってね、励ましの言葉をいただいてね、お話して笑って、それが生きがいです。部屋にばかりいて、部屋の同じ所ばかり見てると「あれ? ここ、どこだべ?」って思うときもあります。ここは、大きな家だけど、遊びに来てください(笑)。(談)
インタビューの思い出に。全員で1枚
このお話は、平成23年9月11日、
平成の森仮設住宅で、阿部琴女さんにお話いただいた内容を
音声からまとめたものです。
[取材]
深 大基
河本裕香里
大槻フローランス
宮下凌瑚
福原立也
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
河相ともみ
[発行日]
2012年
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト