聞き手の高田研、中平朗美と
この物語は歌津の小さな漁師町で生まれ育った丸山敬一郎さんの人生の物語です。これを手に取られる方のほとんどは、敬一郎さんのことを知らないでしょう。しかし、敬一郎さんの高度経済成長期の日本を代弁するような人生の数ページをたどれば、「ああ、この場所にあなたがいたんですね。いまの日本になくてはならない働きをされたんですね」と感じる人は多いはずです。
敬一郎さんはきっと言うでしょう。そんなに大げさなことじゃないよ、煙草ふかして、仲間と一杯やって、冗談言いながら頑張っただけだと。そんなふうに、都会の飯場で酒を酌み交わしながら、仲間と一緒に、故郷の潮の香りに思いをはせるお父さんたちがいたことを思い出していただけたら嬉しいです。
貴重なお話を長時間にわたってお聞かせくださった敬一郎さん、本当にありがとうございました。
ところで、きょうの酒の肴はなんですか。
2012年6月吉日
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私は昭和5(1930)年9月5日に、歌津伊里前で生まれました。生まれた家はこんどの津波で流れてぜんぜんないんですよ。
私のお袋っていうのはですね、娘ばかりの姉妹の長女なんですが、その時代はね、最初に生まれたひとは家督となるものですから、よそから養子を貰ったんですね。そして生まれたのが私なんです。
ところが、お袋は24歳でリュウマチで亡くなったんです。私が2歳のときでした。親父は隣の本吉町から婿に来たんですが、ちょうど、同じ頃に親父の実家の家督の方が、戦争で亡くなって、跡継ぎがいなくなってしまったんです。それで親父は実家に帰って行ったんです。親父はその後、実家でまたよそから嫁さんをもらって、子供7人まであるんですよ。
私はお袋の実家に残されて、いろいろと事情が入り組んでましてね、「おっぺさん」(ひいお婆さん)に育てられたわけです。おっぺさんは私が30歳頃に86歳で亡くなったからねぇ。明治10年ごろの生まれじゃないかな。
私が育った家は農家なんですが、米や麦、豆、ソバなどを栽培していました。その当時は、広さとしては中の上くらい、田んぼと畑で一町二、三反ぐらいやってたと思いますね。海岸が近いもので、漁業権も持っていたので、農業のかたわら、海の方もちょっとやりましたね。このへんはウニやアワビの産地だし、夏の始めのワカメや、春になればヒジキ、海苔などの海藻も採れるんです。
そのうち、母親に妹がいたんですけどね、私にとってはおばさんなんですけど、町内から婿をもらって家を継いだんです。そこに一緒に住んでいました。家族は6人でした。みんなで、一緒に百姓やってたんですが、お婿さんは昭和18年頃、戦争に行ってしまって、百姓の手を戦争に取られてしまったわけです。その頃は、学校を卒業してから、みんな兵隊に行ったわけです。残った人で家庭を守ったんです。
戦争当時、小学校の高等1年の時はなぎなたや剣道をやりました。戦争に勝ちましょうという気持ちでね、学校では勉強より、そういうことのほうに力を入れてました。ある日、剣道で側面やられてね、そのせいで片方の耳がうまくないんです。
昔は小学校というのは高等2年まであったけどね、私は昭和19年の卒業です。戦争の真っ最中ですね。私が卒業して次の年が終戦でした。おばの夫が兵隊にいってしまい、おばは子供がいるから、なかなか野良仕事に出ないし、ほとんどお爺さんと、私が手伝って、あとは、よその人を頼んで農業をしましたね。おっぺと家を守ったんです。ずっと一緒に農業です。
3月になったら畑の仕事が始まります。麦のあとのかさを取ったりします。麦蒔くのは、9月から10月ですが、翌年の3月頃、雑草を取ったり、麦踏みしたり、手入れをしたんです。
麦踏みというのは、冬に土が凍って、春になると溶けて、根が浮き上がってるから、土をかぶせて足で踏むんです。麦の収穫は7月頃だね、お盆の前に収穫終わりますから。お米は5月頃に植えるんですね。4月頃に苗をみな、各家庭で作ってね。収穫は10月頃ですね。この辺りの冬は、稲の収穫が終わると翌年の3月頃まで畑が凍ったりするので、農業はお休みなんですね。
そう、麦と米は、違うところに植えているんです。そのころは機械はないですから、農作業は馬でやったんですよ。
海の仕事は農作業の合間にするんです。8月今頃はちょうど、ワカメの開口も終わるころ。5月6月から8月にかけては天然ワカメの開口、ウニの開口で忙しくなってくるんですよ。
開口は、漁業組合が決めるんですよ。採るものの育ち方もみて、海が平らな日を選んでから、「あしたは天候がいいから、ワカメの開口」って、毎年のように連絡をするんです。そうすると、地元のみんな、朝早く、3時ごろから起き出して、船に乗ってワカメ刈りに行くんです。採る場所が家によって決まってるとかはありません。「あのへんはいいワカメいるんじゃないか」と狙いをつける場所は、その人によって違うんです。
私はおじいちゃんにつれて行ってもらってやったんですよ。上手でした。ワカメは草刈りガマでなくて、竹の先にカギをつけたものです。
ワカメ刈り鎌
出典:南三陸街バーチャル・ミュージアム
海面下3メートルか、深いとこで5メートルぐらいのところでワカメを刈るんです。学校は開口になればお休みします。「明日は開口だから休みます」って届けて。学校の方でもそのことをわかってるからね。小学校6年生くらいから開口の日には手伝いに行きましたね。開口のためにしょっちゅう学校を休んでるじゃないかって? 戦争当時はね、食料もなく、食べるのが大変だから(問題にならない)。開口の前の日に、明日はアワビの開口だからということで、名前を書いてくるんですよ。開口に行かない人は休めないですよ。開口に行く人だけです。行かない人は学校に行くんです。
私の実家は船を持っていました。長さ7メートル、幅1メートル20ぐらいの木船だね、昔はプラスチックとかないですからね。ワカメも早く行っていい場所にいけば、余計多く刈れるんですよ。だから、遅く行くといい場所がなくなるから、よっぽど朝早く、3時ごろから行くんですよ。櫓で漕いでって、箱メガネで海の中をのぞくんです。そしてワカメを刈って、船に揚げました。昔は天然ワカメが多かったんです。長いのだと2メートルくらいあったんですよ。ある場所には、ワカメがもう、いっぱいいっぱいについてるんですよ。
ワカメの開口はだいたい年7回くらいですね。今日やって、明日もというわけにはいかない。天気がよければ2日続けてということもありましたけれど、だいたいは間をおいて、天候と潮の加減をみてから、次の開口日を決めます。ワカメを刈るには、潮が引いてる時の方がいいですね。
朝、満潮で行っても、そのうちに潮が下がるから、そこで採るんです。ワカメ刈りにかかる時間は、だいたい2~3時間くらいですが、船がワカメで満船になれば、陸(おか)に帰って行くんです。船にいっぱいに積んで帰って、あとはそれを干す時間が2日ぐらいかかるんですね。生のワカメだから、今度は刈ってきてそのままだと表面が乾燥するから、家へ帰って来たらすぐ、海岸の砂を取ってきて、砂でワカメをくるんでいくんですよ。表面が乾燥するのが早いですからね。そして1本ずつ(余分な水分を取るために)干すんですよ。
干す場所は、海岸の空いてる所がほとんどワカメを干す場所になるんです。海沿いの道路の何百メートルがワカメ干し場になるんです。場所は特に決まってない。空いてるところはどこでもいいんですよ。喧嘩にならないですよ、町内ならば、どこでもかまわないんです。夕方干したのを集めて、次の日また持って行って干して、2日くらい掛かる。クキなんか、なかなか乾燥しないですからね。
干したものを、砂で揉んでおきます。そうすると、漁業組合から「何月何日に集荷します」って連絡があるんですよ。そして漁協に納めるんです。
今でも船を漕げるかって? 今だって大丈夫ですよ。地震の前までは、船外機がついている船だったけど、毎日釣りに行ってましたよ。タコを網で獲ったり、ちょうど今頃カレイとかアイナメを釣ったり。今はその船も流れてしまったからね。
タコはだいたい、アワビの開口終わった頃に網や籠で獲るんです。アワビは11月からです。だいたい年に5回か6回ぐらい開口するんです。それも天候見ながらですから、天候が悪ければその年は4回のこともあるんです。逆に天候が良ければ6回までは行けるね。この開口の時もみんなで漁に行くんです。
アワビを獲るときは、潜り漁は禁止なんですよ。網も禁止。獲りすぎるから。終戦後なんか網ですくって獲るもんだから、アワビの数がいっぱいだったんですよ。獲るのはいいけど、全部身を剥くから、獲るより人手がかかったんですよ。そんなふうに、みんなが乱獲をするってわけで、それ以降はみな、カギで一個ずつ獲るようにしたんですね(図1)。こういうカギでね。深いところで5メーター6メーター、浅いところで2メーターあるね。
図1 アワビカギ漁。
出典:岩手県立博物館「これなあに?」
ウニの季節は6月から7月です。私が若い時、ある年はひとりで、ウニを60キロくらい獲った事もありました。そのときは、朝6時からだいたい10時までずっと漁をしてましたね。
アワビは今でもやります。去年はひとりだけど採りましたよ。最近はなかなか数量が少なくなってねぇ。その年の開口を通して、10キロくらいでないかな。去年の相場はキロ7500~7600円でしたね。
農業より、やっぱり海の方、アワビやウニ、ワカメのほうが収入になったんですね。しかも、アワビだってワカメだって家族の多いところは、よその家より余計に獲るわけですよ。5人も6人も行って採ることもあるから、その分、収入がちがうわけです。
だから、開口には、健康な人はみんな行きますね、母さんだって婆さんだって、その家にいて、健康な人はみな一緒に行くんですよ。船に乗る人数は、家によりますが、何人乗りだろうがかまわないんです。ひとりで行く人もいれば、3人乗って行く人もいましたしね。
おばの家の農作業を手伝っていましたが、27歳で分家して、そこを出ました。知人の紹介で結婚したのです。石灰の鉱山があった、岩手県東山(ひがしやま)町からおっかあを貰いました。同い年でした。相手の実家は百姓もしてましたが、地元に石灰とかセメントの工場があって、そこに勤めていたようです。
分家したときに家だけ建ててもらって、土地はもらわなかったので、それ以降は農業はしていません。小さな船を買って、ワカメ漁などの海の仕事を始めたんです。漁業の合間を見て、海岸工事に行って働いたりもしました。それは日給で賃金をもらうんです。
子供は3人できました。家督(かとく)(ご長男)は、昭和33(1958)年生まれ。気仙沼に独立して暮らしているんですよ。今はサンマ船の船乗りですが、その前は北洋でサケ・マス漁に行ってたんです。今朝、サンマ船で釧路に向け、朝4時に出港するからって電話がありました。サンマ船は大きいですよ、160トンくらいあります。
二番目は昭和37(1962)年生まれ。気仙沼の唐桑に婿に貰われていきました。国内を回る貨物船に乗ってるんです。今は長崎に入ったって電話をよこしましたね。
あと、昭和40(1965)生まれの娘は、東京でデザインか何かの会社に勤めてます。結婚しないでいますね。明日あたりこっちに来るなんて言ってましたね。今度仙台に転勤になるってことでした。子供たちはすぐに電話くれますね。やさしいお父さんだから? いやいや。ハハハハ。
歌津駅から望む被災前の伊里前地区。
写真提供:古流かたばみ会
昭和40(1965)年ごろからは、毎年、東京などに出稼ぎに行くようになりました。娘の生まれた頃です。4月頃からだいたい10月、アワビの開口の頃までいて、開口に間に合うように帰ってくるんです。4月から半年は確かに長いです。6カ月働いて90日失業保険を貰い、終わればまた働きたいってそういう巡りになる。1年の残りは漁業で生活するんです。
求人は、友達なんかに誘われて、長くやってる人が、「お金になるから、行かないか?」っていう具合でね、行ったものですよ。土木の方も、ビルの工事など建築現場にも行きました。静岡や名古屋にも行ったこともありました。
この頃はまだ東北本線は蒸気の汽車が走っていました。私は昭和40(1965)年頃、各駅停車に乗って上京したんだけど、そのころ蒸気でしたよ。夏なんか上野から乗ってきて暑いな、って窓をあけたら、風がまともに来て、炭のカスが頭から飛んでくる。洗わなきゃ泥んこになるんだね(笑)。仙台から12時間くらい掛かるんですが、夜発って朝着くように各駅停車でいくんですよ。急行でなく。ここから仙台まで、その頃は気仙沼線がなく、気仙沼から仙台までバスが通ってたんで、4時間かけて、バスで行ったんです。道路はボコボコでした(笑)。
バスがその頃の一番の交通手段だったから、歌津の集落から外に出る時は、ほとんどバスでした。仙台の方に行くバスは午前中の2本だけで、夕方にも2本ありました。だいたいこの辺に夕方5時に着くような便でした。
一番最初に出稼ぎに行ったのは東京の調布ってところでした。泊まってたのは、こんな仮住宅みたいな、いわゆる飯場(はんば)です。友達などと7~8人ほどのグループで行って同じ部屋に泊まるんですね。ご飯はむこうで炊いてくれるから、泊まるだけです。地元のご飯の方がおいしいかって? ああ、アッハッハッハ。
次の年は静岡で、東名高速の日本坂トンネル(東名高速道路の静岡IC – 日本坂PA間にある。東名高速道路では最も長いトンネル)の現場でした。
トンネルの中の方の工事は大変だけど、私たちは外の下準備の方の現場にいて、材料を運ぶとか、道路を造るなどの仕事をしました。その次の年は名古屋に行きました。飛島(とびしま)(名古屋港の埠頭)の土木工事の方でした。港湾工事、ビル工事、処理工事。そこでさまざまの仕事をやったんです。
10年近くやっても、同じ会社に行くのじゃありません。年々違ったものですよ。条件のより良いところへ行くんです。行くときは、だいたい、この集落の人間で一緒に行くんです。行き先は、友達に「こういう所がある、あそこに行かないか」なんて誘われる時もあるし、職業安定所からも紹介がありますし、さまざまですね。場所は、3月から4月頃に集まって、みんなで話し合って決めるんです。そうして、10月いっぱいまで働いてね。同じ集落の人間だからみんなで助け合うんですね。
私はアワビ漁があるから、10月一杯で出稼ぎを終えて帰ってきたもんですが、漁業のない人は年末まで働いてる人もいたわけですよ。
お休みですか? 仕事は日曜日なんか関係なかったから、自分の都合で、「体が疲れたから」って休みたい人は休んでいいんです。休みの日はどこかに遊びに行ったり、パチンコ行ったりね、そのまま飲みにいったりね(笑)。何が楽しかったって、やっぱりみんなで一杯夜に飲むのが楽しかったですね。みんな、地元の人だからね。夜集まって一杯やりながら、思い出や、家のことを語りあったりしてね。半年家を離れていると、余計なこと考えると良くない。だから、まわりはみんな知ってる人ですし、気安く冗談を言いながらやるんですよ。
東京では休みの日に見物もしましたよ。田舎からいったからね、なんていうんだろうな、「ごたごたしとるような所だな」と思ったねえ(笑)。東京は好きにはなれなかったけど、お金が取れたからね。当時のお金で、歌津の辺りで日当500円だったのが東京では1100円ぐらいしたんです。それも会社によって差があってね200円ぐらいの差があったわけですよ。東名高速道路の日本坂の仕事は1700円したんですよ。仕事が大変かと言うとそうでもない。東京にいたころとそんなに変わらなかったです。
当時はどこでも人手が足りず忙しかったから、普通は朝8時から夕方5時までが仕事なんだけど、その前の朝5時ごろから8時ごろまで、よその会社の時間外労働なんかしたもんですよ。仕事をかけもちして、余分に稼いだお金をお小遣いにして、一杯飲んだもんです。そのころ30,000円を仕送りしたら、おっかあに全部送ってくれたってほめられたけどね(笑)。時間外の仕事を月に105時間ぐらいやって、朝から晩まで働いたんです。朝の4時ごろまで残業したこともありましたね。
酒と、タバコはずっとやめられないんだね。最初は「光」っていうの1箱30円のを吸ってました。赤いね。
「光」のパッケージデザイン
出稼ぎは、もう今は殆どなくなりましたね。出稼ぎをしていたのは、このへんに仕事がなかったからなので、今は行かないですね。
出稼ぎ労働者38年間の推移(55万人→1.5万人に)
出典:厚生労働省職業安定局
出稼ぎに最後に行ったのは昭和56~7(1981~82)年くらいだったと思います。50歳ぐらいになり、体が辛くなってきたんです。海の方の仕事も、息子の方もなんぼか応援してくれるようになったというのもありました。
生活費というのは、田舎では500円あればその後はなんとか生活できました。なにかある場合なんかは、買い物は気仙沼や石巻までバスで行ったんですけど、日用品などの小さな買い物は部落ですませたし、味噌なんかも家で作ってましたしね。美味しかったですよ。
だから、出稼ぎで稼いで、家を2回も建てたんですよ。2回目の家は52歳の時に建てたものでした。その家はみんな、津波で流されてしまったんですね。海岸が近く、10メートル前は海岸でしたから、津波のあとは何にもなかったです。平成15(2003)年7月11日におっかあが亡くなったんですが、その位牌もみな流されて、また買ってきたんですよ。想像以上のが来たからね。ほとんど何もなくなってしまいましたからね。
3月11日は志津川の高野会館の3階で、老人クラブの演芸会があったんで、それを見に行ったんですよ。ちょうどもう終わる頃に地震が来たんで、会館の職員がね、「津波来るから、どこさも逃げてはダメ、出てはダメだ」っていうわけです。だけどね、やっぱり逃げた人もいるわけです。
残った30人は、3階にいたから4階、屋上に上がりました。上がった瞬間にそこまで波が来ました。そして、屋上のさらにその上に機械室があったので、細い階段を上って、そこにみんなで入って行ったんです。
狭いからね、座ることもできないで立ちどおしなの。機械室に水が来て、電気が切れてしまったから、冷たくてもう大変。ずぶぬれだからね。足踏みしたりして、それでも、自分の足に全然、感覚がなかったんですよね、もう、自分の足だか、何だか・・・。頭が痛くなってくる、体は・・もう、どうにもしようがなかったんです。
もう波は一度で終わりではないんですよ、行ったり来たり何回も来たんです。7回ぐらいは来た感じがしましたね。一晩中いて、朝になって、昼も過ぎて、食べ物もお水も何もないまま、そこで過ごしたんです。どこも逃げるところなんてないんです。瓦礫で一杯で、歩くところもなかったんです。
ようやく、午後の3時半頃になって、ヘリコプターが救援に来ました。浜松の航空自衛隊でした。大きいヘリだったから、高野会館のちいさな屋上には着陸できず、腰の曲がった年寄りなんかもいたけど、一人ずつ吊り上げて救出しなければなりませんでした。全員が志津川小学校に移されたときは、もうすでに4時、5時を回っていましたね。そのまま小学校で一晩お世話になりました。次の日、車もない、あったとしても、ガソリンがないので動けなかったのですが、ちょうど小学校に、歌津の同じ部落の人が車で来ていました。その人は、国道がみな壊れて通れなかったので、田束山の裾の山道を通って来たんです。志津川から10分で行ける所、3日かかってきたんです。
そこから歌津の方に戻りましたが、「うちさ帰ったってダメだ、みな流されて何も無いから」と言われて、吉野沢という集会所でまた一晩お世話になりました。
次の日、夜が明けて7時ごろ、家がどうなってるか、どうしても気になって、全く情報もないし、歩いて行ってみようと思って玄関を出たところで、なんと、ちょうど気仙沼に住んでいる息子、車で様子見に来たのに出会いました。
「なんだ親父」ってね。息子は、だいたい吉野沢あたりに来てるんじゃないか、と人づてに聞いて来たんですよ。私が流されて死んだんじゃないかって思ったんですね。タイミングがいいって、相当驚いてましたね。それで息子の家のある気仙沼へ行って、そこで6月初めまで過ごしました。
助かった30人の中に、よその部落の方とか、志津川のよく知らない人とか、ずいぶんいました。自分の部落の人間は、3人くらいでしたからね。あとは顔をよく知らない人もいました。
地震の直後に高野会館の外に出て逃げた人は流されて終わりだったんです。私たちだって、浜松の航空自衛隊が来なかったら、駄目だったんです。もう、助けられた時は、自分の体も自分のものでなかったですから。靴下なんかも流れてね。お婆さんがタオル1本を二つに割いてそれで靴下がわりにして・・。本当に、寒くて寒くて、口では言い表せないくらいでした。
志津川小グラウンドに着陸した航空自衛隊のヘリコプター
写真提供:産経新聞社 2011年3月12日 本社ヘリから、門井聡撮影
地震の次の朝、志津川小学校行校庭からは、
高野会館の屋上で手を振っている多くの人々の姿を確認できました。
それを見た家族などの必死の救助要請を受け
航空自衛隊のヘリが到着したのは午後のことでした。
昭和35(1961)年のチリ地震津波のときは、家にいなかったんで、経験していないんです。その時は用事があって、おっかあの実家の岩手の東山に行ってたんですね。家は大丈夫でしたよ。海面から家までの間が高さ3メートルぐらいあったからね、すれすれまで津波は来たけど、大丈夫だったんです。
明治29年の津波の話はおっぺさんに聞いてました。その頃は、護岸工事なんか全くしてなかったから、みんな海岸に家を建てていたんですね。だから津波で歌津村では800人くらいは亡くなったようですね。家も270か280戸くらいが流出したんです。おっぺさんはそのころ若かったから、海岸の桑畑があったんだけど、そこの桑の木の、太い幹の上の方に登って助かったって話もききましたね。
昭和8(1933)年の津波の時は、明治の津波の事をみんな聞いてたもんだから、家の前に石垣をずうっと造ったものでした。伊里前地区は石垣をみんな高さ3メートルくらい作っていましたからね。だから、あんまり被害がなかったらしいんです。伊里前は亡くなった人がただ一人だって聞いてますね。ただ、歌津町の外れの、浜の方の、工事しないで石垣も何も無いところの家が60何軒、流出したという事もきいています。
チリ地震の津波のあと、その石垣をコンクリで固めて、さらに3メートルくらい高くした、その防波堤が今回の津波でみな取れてしまって何もないんです。
明治29年の津波のあと、みんな高いところにいったんだけどね、家の実家があったところは、大体海岸から25メートルぐらい上がったとこなんだけどね、それでもそのへんまで波が来たんですよ。今度の津波で。だから25メートルくらいの高さがあったんですね。
やっぱり年寄りから津波のことは昔からいろいろ聞いてました。直接おっぺさんからも「津波あったら、高いところ、早く逃げろ」ってね。今度の津波でもね、船がもったいないからって、いったん逃げたんだけど、また、ロープを持って、船を縛りに戻って、2人でもって流された人が近くにいました。
私は平成の森の仮設が当たって、そこに入るまで、気仙沼の長男のところ避難してたんです。息子とお嫁さん、それと孫3人と暮らしていたんですが、6月1日にここに当選して、入ったわけです。だから体育館のような避難所暮らしはしてないんです。この仮設に住んでる人は、だうたいもう、ほとんど部落の近くの、はなしの通じる人達ですね。よその部落から来た人もいるけれど、だいたい部落ごとにまとまって入ってように思います。
年とるのは早いもんだね、もう80歳になるんだもんね。毎晩、夜になると一杯飲むのが楽しみなんですよ(笑)。たまには、友達と一杯飲むこともあります。料理も問題ないし。車の免許も講習受けて書き変えてきたから、9月1日に免許を受け取れます。あと2,3年この調子で行って、なんせわたし80歳で一人身なんで、いずれは、気仙沼の高台にある息子の家でお世話になろうと思っています。(談)
丸山敬一郎さん
この本は、2011年8月15日、
歌津平成の森 仮設住宅にて、
丸山敬一郎さんにお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
高田研
村田良介
中平朗美
大槻フローランス
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年6月12日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net