はじめに、2度にわたり貴重なお話をおきかせくださった佐藤はぎのさん、そしてこの企画にご協力いただきましたご家族のみなさまに、この場をお借りして深く感謝申し上げ、この本をお贈りいたします。
昭和の初めにお生まれになった佐藤はぎのさんの軌跡をお聞きすると、いかに今の世の中で自分がのほほんと生きているかを思わずにはいられません。現代の平和で豊かな生活の基盤は、はぎのさんのような明るくたくましく情にあふれた女性たちが築き上げてきたのだということを感じました。
パッと晴れやかな笑顔になったかと思えば、家族や知人が病気になったり亡くなったりされたというお話では声を詰まらせて語られ、人の痛みが自分のことのように感じられる深い感受性をお持ちの方だと思いました。不思議な出来事や、見えないものに対しても深く信頼し、都会に住んでいると、つい蔑ろにしがちな大切なこともお話しいただきました。
「私はね、商いもずっとやってたから、黙ってることは好かね。みんなの喜ぶ顔見れば、うれしくてしょうがない。腹も何も減らないから」と、何度もお菓子やお漬け物をすすめてくださり、別れ際には、「家庭は大事にして! ね、一生だよ。別れるなんて不幸なことは絶対ゆるさねよ! 」と夫婦仲良く、家庭円満に、ということを何度も繰り返し伝えてくださいました。
はぎのさんがいつまでもお元気で、笑ったり歌ったり、明るいお声が絶えない日々を過ごされますように、心からお祈りいたします。
2012年12月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
私は昭和2(1927)年10月5日に志津川(宮城県本吉郡南三陸町)で生まれました。6人きょうだいで、最初に女ばかりが5人続けて生まれて、私が3番目。最後の最後に「ホギャー」と産声を上げたのが舎弟(しゃで:弟)。この舎弟が家督(かとく:跡継ぎ)になったの。父親は、6番目に生まれた弟のことが可愛くて仕方がなかったみたい。
私の父さんの父さんだから、私のじいちゃんの話だけど、その人は韮(にら)の浜(南三陸町歌津)から出た人で、とても上手な漁師だったんだって。船頭をしてた。そして昔は機械でなくて、帆掛け船でね、一生懸命だったって。そしてあるとき、嵐にあって亡くなったの、遭難してしまって。
そしてね、昔おばあさん(遭難したおじいさんの妻)から聞いた話でね、遭難したおじいさんが夢枕に立ったんだって。「ほら、いべ、いべ(行こう、行こう)」ってロープ持って来たけども、おばあさんが、「私はこの子どもたち置いて行かれないから、おめぇ1人で行け。私は行かない!」って。おばあさんも、なかなかのおばあさんだったから。私と違ってね、スマートなの。きりっとしたおばあさんで、背は小さかった。
そのときは私のお父さんが10歳のときだったって言っていたかな。婿になったときは17だったから、17歳までおばあさんが女手一つで育てたんだね。自分の父親も早くに亡くしていて、未亡人にもなったから、息子である父が頼りだったんだろうね。
私の父さんは、美男子で、性格も良くて、志津川では一番腕の良い漁師だったんだ。アワビ獲っても、ワカメ採っても、カゼ(地元でのウニの呼び名)獲っても、何をやらせても一流だった。そして、17歳で婿養子に入ったの。いろいろな事情があって、韮の浜というところに行ったんだけど、韮の浜ではあんまり腕がよくて、「他の人の分まで獲りそうだ。とてもここに置いておくわけには行かない」って言われて、志津川に帰された。それでも漁師を一生懸命に頑張って、なんとか成功したんだ。
実家は忙しいと言えば忙しかった。
1日に海苔を1万箱もこしらえて、詰めて、出荷するのは面白かったよー。私たちも子どもながらに、「これだけ仕上げたら、いくらの収入になるんだな、良かったなー」と思ったからね。そのかわり、家族全員一致協力して、海苔干しを手伝ったよ。
昔は、海苔のことを「ウンクサ」って言ったの。「運の草」であると。「バンジョ」っていう市場にあるようなカゴでいっぱい海苔を採ってね。入れても入れても、いっぱい溜まるんだな。それでうちの父さんが身上を上げたのさ。
だからね、今でも海苔やる人たちを手伝いながらそういう話をしたいと思うときがあるよ。そのくらい、海苔というものはありがたかったんだよ。
でも、大東亜戦争が始まる前は、食べるものに困ったね。それで山の開墾もしたの。どこでも終戦になってみな開墾したけども、父さんは30歳過ぎてから初めて百姓仕事をするようになったんだ。だけど、父さんは何でもできる人だった。今のように機械の力でやれば短時間でささっとできるけど、今から60年も70年も前の話だから、そのときはそんなものはなかったからね。漁業も、農業も、鍬頭(くわがしら)(農作業のリーダー)になって、一生懸命やってた。
私たち小さい子どもも一緒になって、木の根っこを運ぶのを手伝ったり、一生懸命手伝ったんだよ。
2番目の姉が、はじめは静岡県富士郡吉原町にあった「東京人絹(じんけん)株式会社」というところに勤めてて、その後、横須賀の海軍で働きました。
姉が行ってから、募集があって、うちの父が世話をしてくれて、私を含めて志津川から6〜7人まとまって同じように働きに行ったの。そのとき私は小学校6年を卒業したばかりで13歳。
東京人絹は、8万坪もの敷地を保有していたよ。
東京人絹の工場は、沼津から電車で3つほど行った鈴川駅(現東海道線吉原駅)で降りて、吉原町というところにありました。パルプを原料とする化学繊維の糸(人絹)を製造する会社です。大きな工場で、男女別の大きな寄宿舎が3棟もあって、プールもあった。働いているのは若い男女で、男の人が夜になって女子宿舎に忍び込もうとすることがあって、そんなときは大騒ぎになって、1人や2人の男の人を、女の人みんなで取り囲んで追い詰めるの。そういうことは今のあなたたちの時代にはないと思うけど、その時代は風紀に厳しい時代だったからね。
富士郡というだけあって、富士山が見えるところに女子寮があったの。そこに神社があって、毎朝6時になると、身支度を整えて集まってみんなで体操をするの。
体育の先生がすらっとしてステキな先生だった。生きておられるともう100歳を超えていると思うけど、お元気かどうか。体操をしながら、遊戯なんかも教えてもらいました。
そのあと、朝食を食べに食堂に行くんだけど、これまた大きな食堂で、ここでは男女が一緒だから、男の人が女子をビックリさせたり、おどけて笑わせたりして、賑やかにしていて面白かったよね。
会社が大きいと、先生に頼んで、学科でも作法でも歌でも、何でも教えてもらえたんだよ。
そして、各会社対抗の野球大会や運動会にもみんな出された。私も何かと出てたね。運動場にいて、先生に「あなた上手だね」とほめられると嬉しくなって、一生懸命やったよ。運動会で飛んだり跳ねたり、いろいろやりました。
そんな風に、面白いこともあったけど、戦争が始まったので、一方では怖くもあった。
大東亜戦争の始まる前は、「教育勅語」を聞いてから仕事が始まったんだけど、戦争が始まると、「教育勅語」はやめになりました。その代わりに、偉い人たちがみんな「戦争になったのだから、何かで誰よりも優れた、一番になれ」というような話をするようになった。だから、私は職場で一生懸命、何でもやったよ。でも、大東亜戦争開戦になって、天皇陛下の開戦の詔(みことのり)を聞いて、みんなで涙したこともあったけど、まもなく、東京人絹が閉鎖になってしまったの。私たちは結局そこを辞めて、姉は軍需工場へやられたし、私は故郷の家に帰されました。
姉が19歳のとき、見回り団の班長を務めたんだけど、真面目だったので、私までその影響を受けて、少しは作法が身についていたんでしょう。東京人絹が閉鎖になるときに、社長に「女中に来ないか」という誘いを受けたの。でも、私は女中になるどころではなかった。なんといってもまだ13歳で、家に帰りたくて仕方なかったんだもの。それでその誘いへの返事はしないで、人の言うことに耳を貸さず、家に帰ってしまいました。
この前、小学校6年生の子どもたちと話す機会があったんだけど、その子たちを見て、私が東京人絹に働きに出た13歳ってこんなに小さかったんだなぁと思った。自分もそのときは、家に帰りたいと思うのが当たり前の年だったんだよね。
でも、家には長く居られなくて、今度は石川県の金沢、兼六園のあるところに、勤労奉仕に行かされました。そこでは兵隊さんの軍服を織ったり、雨合羽を作ったりと忙しくて、人手が要るということで。一生懸命働いたけど、戦争が激しくなると、やっぱりそこも閉鎖になってしまって、家に帰ることになりました。15歳ぐらいだったと思う。
家に帰って来たところで、戦時中だったから、男の人は戦争や工場に取られていなくて、家に残された女性は一生懸命戦争に協力しなければ、って言ってたよ。女の人は山に行って、松の根っこを掘って、そこから飛行機の部品に使う油を採るって言ってたんだ。そして家に来て不満を言ってばかりだったな。
そのうちに今度は「みんな、軍隊に協力しなければいけなくなったので、気仙沼の鹿折(ししおり)の缶詰工場に行って応援してください」って動員ですよ。勤労奉仕、つまり無料で仕事をするの。でも、だんだん戦争が激しくなってきて、その缶詰工場は艦砲射撃でやられてしまった。爆撃されたときに私は偶然家にいて無事だったの。
命というものは不思議なものだよ。見にいってみると、爆弾が落ちた場所に、4間(けん:1間=約1.8m)ほどの大きな穴が開いてたんだよ。それはもう、たくさんの爆撃があったんだから。そして働く場所を失って志津川の家にいる間に大東亜戦争は終わったんです。
今この仮設住宅にも泊浜(とまりはま)の人たちがいると思うけど、艦砲射撃で泊崎荘(とまりさきそう)のあたりに爆弾が落ちたりして、事故に遭った人もいたよ。でも、今回の津波のような広い範囲の被害でなく、2、3カ所のことで済んだけどね。
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
私には好きな人もいたよ。男の人は私のことをなんとも思ってなかったから、私の片思い。
漁師で、大柄でがっちりした人で、頭も良くて、身なりはそれほど立派じゃなかったけど、性格もいいし、気持ちのいい人だったから憧れたの。相手も少しは私がそういう気持ちでいることを分かっていたと思うけど。私は馬鹿真面目だったから、何があっても誰にも自分の体を触らせなかった。そのへんが緩かったら、いくらか男の人も言い寄ってきたかもしれないけど、馬鹿のつく堅物だったから、そんなことは許せませんでした。好きだった人に対してもそうだったんだよね。
切なくなると伊豆の「下田夜曲(しもだやきょく)」を歌ったりなんかして、1人で泣いて、気を晴らしていたの。横山のお不動様(写真)は縁結びの神様だっていうんで、そこに行って拝んだこともあったよ(笑)。
1 千鳥なぜ啼く 下田の沖でヨー
泣いたからとてサー やらにゃならない旅の船
2 伊豆の七島 通いもなろがヨー
わたしゃ片恋サー 思い通わす 舟が無い
3 思い切りましょ 切らぬと云うてもヨー
添うに添えなきゃサー 思い切るより なお辛い
横山の町の真ん中あたりに、高い山があってそこの上のほうにお不動様があるの。縁結びだけじゃなくて、なんでも救ってくださる神様だと言われてた。だから私もそこに行って、お願いしたこともあったんだ。だけど、「その人に何か渡そう、何をあげたらいいかな」と思って、タバコを吸う人だったからタバコケースを買って、お不動さんのお守りを持ってきたんだけど、それを失くしてしまったの。それは、あとからお参りに来た人が見つけて届けてくれたけれど、自分が好きだった人とはお付き合いできませんでした。
その人とはご縁がなかったんだねぇ。良いお家のお婿さんになってしまいました。片思いは私の独り相撲で終わったの。そのとき私は22〜23歳。
そうしたら、ある日不思議な夢を見たの。「この人があんたの旦那さんになる人だよ」と教えられる夢。その人は「ヒゲモッコ(ヒゲがぼうぼうの人)」だったの。「ええっ、こんな人なの! この人が旦那さんになるの!」ってビックリしたけど、夢のお告げなのでしかたない。誰にも言えないので黙ってたけどね。
それからは、夢で見た「ヒゲモッコ」のほうがいいんだよね(笑)。そのときはそんな人がどこにいるか見当もつかないけど、もうその夢のお告げに夢中になってしまって。
その頃の一般的な婚期は、22〜23歳がちょうど良いんだけど、私は遅れていた。やっぱり親たちも焦って、あっちに声かけ、こっちに声かけしてたけど、私は涼しい顔で、心配していなかったの。一流のお金持ちとか、あちこち良いところからばかりから縁談が舞い込んできていたから、あの夢のお告げがなかったら、今ごろ良いところにお嫁にいっていたかもしれない。私は今に大金持ちになってた! ほんっとに!(笑)。
あるおじいさんが来て、うちの父さんもみんな知ってる人だから、「うちの嫁になればいい」って言ってくれたけど、やっぱりその家ともご縁がなかったんだね。私も実家にいなきゃいけない人だからやめて、その人も近くからお嫁さんもらったけど、そのお嫁さんも、無理がたたって早く亡くなったって、あとになってからきいた。
つい最近、その人(縁談相手)が88歳になって米寿で新聞に写真が載ったんだよ。そして、若い頃の気持ちでね、「あぁ、私はこういうわけであんたに嫁に行かなかったから、ずっと苦労ばかりしてる」ってことは話してきたの(笑)。その人は、なんにも言うも語るもしないけど。私はその人のこと、好きも好かないもなかったけどね、何にも役に立たないけど、声かけてきたら、なんぼか気持ちいいでしょ、黙ってるよりも。
昔の話に戻るけど、志津川の月給取りの人から嫁に来て欲しいと言われたこともあったけど、興味がぜんぜんなくって、夢の中で会ったヒゲの人がいつ私のところに来るのかは分からないままだったの。
あるとき、うちの父が歌津の石浜というところから船を買ったの。そうしたら、船を売ってくれた家の旦那さんが、「いい人がいるよ。お嫁さんにもらいたいと言ってる人がいる」って言うの。私はいつまでも親に心配かけられないなぁと思って、特に何も考えずに親任せにしていて、相手に会ってみたら、なんと、私の結婚相手は夢で見た「ヒゲモッコ」だったの!
「ああ、この人だ」とすぐにわかった。なんでピンと来たかって? それは旦那さんだもの。「この人が神様から授けられた人だ」と思ったよ。
歌津の海苔を扱う人で、私が行商に行って「海苔でも買いましょうか」と言ったときに見た人でした。1回会っただけでは印象には残っていなかったんだね。
その夫は、うち(佐藤家)に養子に来てくれたの。もともと高橋という姓で、高橋クニオさんと言いました。クニオさんは、戦争が終わってから漁師になった人で、職業軍人として生きて行こうとしていた人が漁師になったの。カツオ漁船にしても、何にしても、大勢の仲間と船に乗って漁をした経験なんかなかったんだ。
クニオさんの叔父にあたる人が仙台にいて、軍隊では大佐級の人だったそうで、軍刀をさげて、馬に乗ってここに来たんだって。そういう人に憧れたんだねぇ。それで軍人になろうと思ったんだね。
もともとは、静岡県の清水に造船所で働いていて、役場の人には「(軍隊に入るのは)やめろ」と言われたらしいけど、「私は軍隊で飯を食うんだ」と言って志願して行ったんだって。体にひどい怪我をしたような跡があったよ。戦地には行かないで、仙台から新潟のとある部落の内地勤務になったってきいたけど、部落の名前は忘れちゃったね。主人が生きていれば訊くんだけど、もう亡くなったからね。
そして新潟で、特攻隊に行く番が自分に回って来たんけど、班長だった人が、なぜかよその班の人から特攻に行かせてねぇ。その人は特攻隊に入って体当たりで亡くなってしまったんだけど、主人は特攻隊に行かないで済んだ。それから間もなく戦争が終わったんだ。
実家に帰ってみたら、自分の母親が毎日毎日、近所の神社に息子の無事を祈って拝みに行ってたそうだよ。仙台にいたときも、母親が大福餅を搗(つ)いて、面会に持って来たって。米もなければ満足に食べることもできなかったときに、よくそんなものを持って行けたと思うけどね。「母親が面会に来てるから行って来い」って言われて、山なんかに行って大福餅をごちそうになったんだって。軍隊にいた人たちは、誰かが面会に来るとそういうものを持ってきてるって知ってたから、他の人たちも食べたかったでしょうけれど、そんなに沢山持って来られなかったから、全部自分で食べてしまって、他の人たちは残念がってたそうだよ。
そんなわけで、軍隊で食べていこうと思っていた人だったから、半農半漁の家なんかに婿入りするような人じゃなかったの。軍隊から帰ってきて、にわかに漁師になって、カツオ船に乗ったり、みんながしていることを、見よう見まねでしたんだね。
養子に来てくれることになって、体格もいいし、性格もいいし、会ったときは「ヒゲモッコ」でヒゲがモサモサしててビックリしたけど、剃ってみたら思ったより美男子だったね。あんたたちみたいにさ! あははは!(笑)
だから、夫の実家のほうの人たちには、やっぱり恋心があったのか、「志津川には婿に出さない! ここに置くから!」っていう人がいたけど、私との縁談がまとまったんだ。昔のことだから、お手紙を数通やりかけただけで婿養子に来てしまったんだよ。私は25〜26歳で、夫は27歳だったと思う。
子どもの祝い事が何歳だったというのは覚えているんだけど、自分のこととなるとよく覚えてないね(笑)。
うちの父親が仕事のできる人だったから、戦時中には、夫のお姉さんのところとか、2軒ばかりのところに勤労奉仕で歌津まで行っていたんだけど、そういう関係で、昔の人たちはうちがどんな家なのかを調べていたんだね。
結婚式の日は、祖父が商人をしていて、石越に宿をとったところが、たまたま髪結いをしてくれる家の人だったから、そのご縁で髪を結ってもらいました。その宿は、昔は子どもを教育する学校だったそうから、教養のある良家だったと思う。髪結いをしていれたおばあちゃんは、私の家に1週間泊まって髪を結ってくれたので、他の人より見た目が良かったかもしれない。美人ではなかったけれど、まだ若かったから、いくらか綺麗に見えたと思うよ(笑)。
そして白無垢も着たし、お色直しは仙台で借りた振袖だった。写真があればお見せしたいけど、津波で流されてしまったからね。
そのときは衣料切符(戦中と戦後、衣服を買うときには、現金に加え、衣料切符が必要だった)で買う時代だったから、決まった点数以上はもらえなくて、あまり買うことができなかったんだ。それで、わざわざ仙台まで行って、うちで獲れたタコを持って長町まで送ったの。呉服屋さんに行って3,000円出して、縞のつぎはぎした、袖は袖でまた別になっている着物を買ってきたよ。
写真の衣料切符は、衣料品を購入する際になくてはならないもの。当時は、衣料品の種類ごとに点数が定められていたので、品物を買う場合には必要な点数の切符を店で切り取り、代金と一緒に渡すことになっていた。
原則として1人に1枚が1年分として交付されたが、点数に制限があったので、お金をたくさん持っていたとしても好きな品物を好きなだけ手に入れるということはできなかった。(一関博物館所蔵)
父親のことでは、お話したいことがたくさんあるの。
父は貧しい中から百姓として開墾して来た人だったから、「自分の楽しみで踊りをするなら、昼間の仕事を怠けてダメだ」と言ってた。父は厳しい人だったけど、手を挙げられたことなどはなかったよ。頭一つ叩くことはなく、なでてくれるような優しい人だった。
子どもは弟が生まれるまでは女の子ばかり5人姉妹だったから、誰も海の仕事を手伝う人がいなくて、父親一人で苦労をして本当にかわいそうだった。
海に船で行くのも一人で行かなければならなかったから、アワビを獲るときでも、波がザブンと来ると船が勝手に動いて岩にぶつかることもあったんだ。ふつうは「こんな所、もう来るもんか」となるけど、船を修理するのだってお金がたくさんかかるから、漁に出ないわけには行かない。「だったら私が行こうか」ということになって、毎日父親の船に一緒に乗って行ったの。アワビ獲りでも、カゼ(ウニ)獲りでも、トモ(船尾)の操作というのは大変なんだけど、そこを私がやったの。
志津川の漁協の人はとてもいい人たちばかりで、父親がその日のアワビなどの「あがり」を持って行くまで、帰らないで待っていてくれたの。
また、父親が、ものすごい量の海苔を収穫して来てね。今は全部津波で流されたけれども、松島あたりの島で採って来たの。
うちの妹も「働き者(はだらぎもの)」でね。その妹と2人で、朝3時に起きて、大きなカゴに水を入れて、海苔を入れて、きれいにして、パンパンッと干して、3,000枚くらい仕上げたんだ。水場のないところだったから、夫は井戸から水を汲んでくる専門。汲んできた水に片っ端から冷たい氷が張ってくるほど空気が冷たくて、ふうって息で暖めてたよ。
それから、志津川の松原っていう所に田んぼがあって、そこにヨシが多いから刈りに行ったの。そいつを一本一本干して、編んで、切って、海苔を漉く「海苔簀(のりず)」っていうものを作ったの。あと、今のように機械でないからね、「トウバ」っていうものを作ってさ、そっちもこっちも日の当たるところを作って干すの。
女の人たちがみんな来て、ワーワー言いながら干した海苔を剥がして、おもしろいもんだった。そうしているうちに、父さんと主人はイワシ漁に行くんだ。夕方に行って、差してきたものをまた上げに行くんだから、相当辛かったと思うよ(イワシは光に集まる性質があるので、夜間に操業する)。あかぎれに薬を塗りこむ日々が続いたね。
夜に海苔を10枚ずつ勘定して100枚ずつ束ねて、箱に入れるんだ。だから主人もみんなも、(お金が沢山貯まって)ホクホクさ! ホクホク(笑)。
だから私はね、お金というもののありがたみは、さっぱり感じなかったのさ。「けせぇ(ちょうだい)」と言うと「けら(あげる)」って言われるから。子どもたちのものを買うときも、切りつめたことしないで、「なんぼ使う?」って訊かれて、父さんにもらえたの。
父親はワカメのほうでも腕が良くて、6〜7人の人を頼んで、浜いっぱいに採ったワカメを干したもんだったよ。その頃は塩蔵ワカメなんてないから、全部干すの。次にそれを、長屋に重ねて置くんだけど、ワカメの出荷は、今のようにナイロン袋に入れるのでなく、昔の「むしろ」に縦にきれいに置いて、その上を足で踏んで平らにするの。
父親は腕が良くて、何十kgと収穫して売れたから、1年分のワカメの売り上げで、自宅用の畑3段5畝を買うことができたんだよ。
父親は勝ち気だけど、小さい頃から苦労ばかりしてきたから、夫と2人で手伝ったの。「刈り方」の父親が手際も要領もいいから大量に刈れて、それを海の底から引き上げる「上げ方」の私のほうは大変だったんだ。夫の方は、父親が刈ったワカメのかごが10回引きあがる間に、1回も上げられないくらい力不足だったんだ。私は父親に申し訳ない気持ちだったけど、家に男の子がいなかったから、父親は夫のことを可愛くって仕方なかったんだね。
夫と父親は、喧嘩ひとつしたことがなかったよ。それだけは嬉しかったね。
あいだに入る人は大変なもんだよ。私は父親と夫の間に立って、両方の愚痴を聞く立場だったから大変だったけど、私は悪口なんか一つも聞かせなかった。それぞれ言い分があるけど、私がその真ん中に入って、誰の悪口も言わずに良い面だけを言うようにして上手に取り持ったの。そんなに簡単なことじゃなかったけど、だから仲良くできたんだと思う。
ただ、ドラマのように夫婦のゆとりなどは持てず、夫は可哀想だった。うちでは婿の務めが大変だったからねぇ。百姓の仕事も、海の仕事も、何もかもしなければならなかったんだからね。
ワカメ漁の1年(塩蔵ワカメ)
時期 | 作業 | 内容 |
1月〜5月 | メカブ削ぎ | 芯の周りのメカブを器具で取る。 |
1月〜5月 | 芯抜き | 芯と葉の部分を手作業で切り離す。 |
1月〜5月 | ワカメ刈り | 獲ったワカメをボイルし、塩をまぶす。 |
5月 | 片付け | 海中のロープを船上から手で引き上げる |
7月〜8月 | ロープ掃除 | ロープについた汚れを取り除き、整頓する。 |
10月 | 土俵作り | 養殖棚を固定するために使用。袋に砂利を詰める。 |
11月 | 種はさみ | ロープを結び、ワカメの種をそのロープに挟む。 |
父はあるとき、自分の船で、イワシが甲板いっぱいになるほどの大漁で、4間(けん)くらいの柱2本を両方ですくい上げたの。今なら機械をボタンで操作するけど、その頃は数が少なかったら手で網をあげてたんだよ。
大量のイワシは、一度女川(おながわ)で水揚げしてから、帰りに志津川の沖でもう一度漁をして帰ってきてました。私が家にいたら、「大漁だ、酒を買って来い!」って言うので、ふざけて言ってるのかと思ったら、本当にすごい数のイワシを獲ってきてね。「今、大漁して戻って来たから、みんなに祝い酒を振る舞うから、酒を買ってきてくれ」と言うんだよね。今のように、どこかお店で宴会をするのではなく、家に人を呼んで酒を買ってきてみんなで飲んだりしたよ。
胃ガンを告知されたのはその1週間後でした。父親は「まだ、くたばるわけには行かない、体を治さなきゃならない」と言って、検査入院した後、自分で進んで仙台の国立病院に行ったんです。院長先生からは「この人は胃ガンでさえなければ、何歳まで生きたかわからないくらい丈夫な人ですね」と言われたけどね、その後66歳で亡くなりました。
父親はそれまで薬を飲んだことがないほど元気で。その代わり、お酒だけは1日に1升飲むんです。自分ひとりでは飲めないし、義理の息子の夫にも飲ませたいから、「ハイ、クニオ、飲ませろ」となる。夫は演芸会でみんなでドブロクを飲んだときに飲みすぎて以来、「もう飲まない」と決めたんだけど、父親に「なんで飲まない」と責められるから、少しずつ酒を注ぎ注ぎするうちに、また飲み始めてしまって。それというのも、2人が気が合ったからなんですねぇ。
酒の肴は、毎日のことだから、それこそ刺身を作ったり、父親はイワシの頭を取って酢に漬けたりして、「うまい」と言って食べてた。それからドンコを生で叩いて、ワタを入れて、タマネギを入れて味噌であえるのが本当に美味しいの。
ドンコ。
三陸の冬の味覚。淡白でトロッとした白身のおいしい魚。
特に冬は脂がのり、大きな肝もアンコウに比較されるほど美味
ご飯なんか食べずにそればっかり食べたくらいだったよ。私たちは「生ものは嫌いだからいらない!」って言ってたけど、父親が「頭を叩かれてもうまいから、食べてみな」って言うから食べてみたら、それが本当に美味しかった。それ以来、「ドンコのたたきってこんなに美味しいなのか」って、食べるようになりました。活きの良いドンコを食べたら、あなたたちだって喜ぶと思うよ。だって、獲れたてを、すぐたたいて食べるんだもの。
ドンコといえば、志津川の奥の貞任(さだとう)山のほうに米広(こめひろ)っていう集落があるんだけど、この地にいた安倍貞任(あべさだとう)という武将が敵に攻められたとき、山の上から米を滝のように流して敵を欺いた、というウソか本当かわからない言い伝えがあるところなの。
今いる仮設住宅のすぐ裏に住んでいる人が、米広から漁師のところにお嫁に来たっていう人でね、うちの父親に魚を食べさせてもらってとても美味しかったと言ってた。
清水浜(しずはま:南三陸町)の方では、炉で大きな鍋を火にかけて、おつゆでも何でも、ドンコだの魚だの入れて炊いて、みんなでお迎えするのさ。山の方から来た人だからめずらしかったんでしょ、それがすごく美味しかったって。よくよく話を聞いてみたら、一度うちに来たことのある米広の人の娘さんだったんで、びっくりしたよ。
貞任山と清水浜
父親が亡くなって、末の弟が家督になったんだけど、その弟の建てた別家に移ったの。志津川の海岸のすぐそばで、そのあたりは本屋敷(もとやしき)と言って、昭和8(1933)年の津波のときに一帯が流されたところだったの。
本家はそこよりずっと奥のほうの、津波もここなら大丈夫だろう、という位置に建て替えて立派な家になったんだけど、別家も、そこも今度の津波で流されてしまったな。
別家になるときに、畑を3段分けてもらいました。でも山奥で遠かったから、育った麦を人に頼んで刈り取ってもらおうと思っていたら、あるとき、お爺さんが「畑仕事できるよ」って話を持ってきてくれたの。私たちの畑が、その人の家のすぐ上にあって近いから「やってあげる」ということになって、「いつまでお願いしていいの?」って聞いたら、「何でもねえことだ。人から聞いて、あんたを見込んで来た。いいから一生使え」と言ってくれて、本当に嬉しくて、涙が出たもんだったよ。その人がまた、刈って来た麦を渡すときに、一度も手間賃を取らないの。3段分ぐらいの畑を貸したけど、私はそのままにはしなかった。毎年お祭りのときとお正月に、特別な魚を必ず贈りました。
私の家は子どもも多くて余裕がなかったから、建て替えることはできなかったけど、海苔の養殖でいくらか稼いでいたから、下にブロックを積んで、10mくらい上に建て増ししたの。なんせ、家族が大勢で、子どもたちも学校に入れなければならなかったしね。いつ家を建てようかという話になったとき、「子どもを勉強させなければならないから、時期が今は良くないからやめましょう」ということになったの。今のように子ども手当があるわけでもなし、子どもにそれほどお金をかけたわけじゃないけど、いくらかはかかったよ。本当、自分でも驚くけど、よくやったと思う。
私はその別家に13年間住んで、食べ物や土地やなんかはゆとりがあっても、本当に現金がなかったの。食べるもののことは心配なかったけれど、父親が亡くなって、母親はいたけれど体が弱かったから、とにかくお金がなかった。
すると夫が「飯のタネを作らないといけないから、船舶免許でもとるか」と言って講習を受けてね、2年かけて丙種の免許を取りました。講師の人は乙一(乙種一等航海士)、乙二(乙種二等航海士)からでも取っていいって言ってくれたんだけど、お婿さんだし、丙種の免許が取れてないのは恥ずかしいことだったから、丙種から順番に上がって行ったの。(※当時の船舶免許は、甲種:船長、一等航海士、二等航海士、乙種:船長、一等航海士、二等航海士、丙種:航海士のように分かれていた)
そして免許が取れたので、気仙沼の大型船の船主のところに行って、前借をして生活していたの。それでも大変なことは大変だったね。別家になってしまった以上は、子どもたちも食べさせなければいけないし、粗末な身なりはさせたくなかったからね。夫は働きに働いて、働きバチで死ぬまで通したよ。漁師をする家に婿入りしてしまったから、仕方ないけど、死ぬまで漁師をしてました。船にも乗り、広い畑もあったから農業の方も忙しかったしね。忙しいときなどは、畑の手伝いに6〜7人も人を頼んで、早めに仕事を割り振りして、自分は海に出て行ったの。本当に忙しくて暇がなくて可哀想だった。
夫は家督の息子と2人、北洋への遠洋漁業をやめて、銀鮭の養殖に手を出したの。儲かるときは大きな札束をどんと稼いだこともあったけど、失敗して損するときはガタっと巨額の借金を抱えることになってしまって。人間というのは、いつもいいときばかりではなく、急に運が悪くなるときもあるから、そんなときに失敗したんだね。
その上、今度は夫がくも膜下出血で倒れて、仙台に運ばれて手術を受けて入院したの。娘2人が仙台にいたから、食事を運んでもらって、食費がかからなかったのが嬉しかったね。だけど倒れて以来、怒りっぽくなってしまったの、もともとそんな人じゃなかったのに。娘が来ると怒るの。お弁当を持ってきてくれて、自分がそれを食べさせられることを怒るから、「じいちゃん(ご主人)、あんた、こんなふうに親孝行しようと思って、弁当はいらないって言っても毎日持って来てくれる。それなのになんで怒るのかわからない! 感謝状をやらなきゃならないくらいなのに、なんでだ!」って私と喧嘩になったけど、仕方がなかったんだ。自分で気分を制御できなくなったんだから。そのうち、退院しようかと思うと悪化して、また2回も手術したの。
そういう大変な状態だったけど、体の悪い夫のことを他の人に頼むわけにもいかないから、仙台まで私が通うしかなくて、本当に大変だった! 一度なんかは、仙台に行こうと思ったら荒町というところに雪が降って、横山に行くときの上り坂で、滑って上がりきれなくて戻ってしまうの。病院の先生に電話をしたら「ああ、そんなときは来る必要ないから」って言われて。
夫は10年経って回復して働けるようになったけど、70歳くらいになってたから、目が見えなくなったり、あちこち病気をしてた。
あるとき、タコの開口日がきて、「じいちゃん(ご主人)、留守番しててね」って言いおいて、私と息子とタコ漁に出たの。開口日と言ったら女も男もお祭りで、みんな漁に行くんだよ、船1艘に5人も6人も乗ってね。
そしたら、「お父さん(ご主人)が具合を悪くしたからから早く帰って来い」って。
釣ったタコを預けるだけしかできなくて、お金も受け取れないまま、仙台の病院に行くことになってしまった。そこからは、仙台とここを行ったり来たりする日々でした。
「貧乏子宝」って言うけど、私には6人の子どもに恵まれました。
出産のときには、母乳の出がよくなるからって、父親がアワビを獲ってきて食べさせてくれたの。だから6人も子どもを育てたけど、上の息子に少し粉ミルクを飲ませただけで、あとは母乳で育てたよ。だからみんな健康だね。生まれるまではどんな子が生まれるかと思って心配して、願掛けにも行ったけど、五体満足に生まれて安心したなぁ。母親というものはそういうものだと思うよ。子どもたちがみんな健在で、親孝行な子どもたちだから、それは良かったと思う。
6人も子どもがいたらうちも大変だから、よそに養子に出そうかと思ったこともあったけど、叔父に「なにを言う。自分の子は自分で育てるものだ!」と叱られたの。そうして全員養子に出さず家に一緒にいたおかげで、今日遊びに来た孫など高校2年生になったんだから。みんな努力するし、偉い、いい子ばかりです。
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
その後、6月15日はうちの父親の命日だから、14日にここの仮設住宅(平成の森仮設住宅)に入ったの。そしたら何も知らないでいたんだけど、いつまでもここに入居しないでいるとカギを取り替えられて入れなくなってしまうんだって。何も勝手がわからないまま、周りにどんな人が住んでいるのかも知らないままだった。私は志津川の人間だからねえ。ここまで来て落ち着いて、みんなにここへ来たのはこういう訳だと話したら、ほっとしたよ。
でも、ここは夜になると波の音が聞こえるの。だからいくら早く床に就いても、その音が気になって寝られなくて、夜中の2時3時になってしまうんだ。そんなことが続いたから、体も心も、頭もみんなまるっきり、言うことをきかなくなってしまったよ。だからね、お世話になってきた人にお手紙を送ろうと思っても、そんなの全然書く気がしなかったの。そうこうするうち、あっという間に1カ月も経ってしまって、いまさら手紙を送るのも恥ずかしくなって、送れずじまい。
そんなある日、お酒を2本いただいて、1本はみんなで分けて飲んで、1本はお世話になった旅館に送ったの。そのお酒は、名足の高台にあって流されずに残った家が3〜4軒あって、そこから呼ばれて「何だろう」と思って行ったら、「お酒があるから」ってもらったものなの。旅館の方からはお礼を言って来ませんでしたが、私も同じようにお礼できずにいたからね。そんな風にいつも悪いことばかり起こるわけではないから、なにかしてもらったときには海藻でも何でも送ってお返ししようと思ってるの。今は旬のサンマでもあれば送ってあげたいけど、今年は無理だね。物資をいただいたときも嬉しくて、こっちで揃えた物は壊れてしまったし、新聞もテレビもなかったから。「ご飯です」って呼ばれて、あの階段に下りて行くと、私は歩けないから、周りの人が行ってくれて。隣のお兄さんに声をかけてもらったけど、あちらも忙しそうなので、お礼も言えないままだ。真面目な人だった。その人のお母さんは具合が悪くて、目も見えなくなってどこか遠くに運ばれてしまった。
津波のあと、3日も息子に会えなくて、私は死んだと思ってたよ。息子は志津川湾に船を見に行っていたときに津波が来たの。うちの船は3艘あったんだけど、ひとりで全部を見るわけにも行かないから、2艘はすっかり流されました。志津川湾の道路のところから見ていたら津波が来たから、上へ上へと上がって行ったの。
波が引いて、落ち着いてから、家があったところに私も行ってみた。地図も何も無いから、「おばあさん、全部流されたから行ってもダメだよ」と言われても、「まさか、そんなことねえべ」と思って本気にしないで行ったの。そうしたら、本当にトラックの底は抜けているし、乗用車はポコンとへこんでるし。家の中には、鍋2つに、まな板と包丁まではみんな見つかったけど、あとは何もかもなくなってた。近所の養殖ワカメの加工場があったところは、釜から、タンクから、スッポリと抜いたように流されて無くなってた。周囲には、顔にマスクをした人が大勢お金を探して歩いていたね。そんな風に探している人が大勢いるものだから、私たちもその場を動けずにいたの。
辺りは人も通れないくらい、滅茶苦茶になっていて、志津川からここまでたどり着くのに、普通なら30分もかからずに行けるところを、ぐるっと遠回りして、何時間もかけてようやくたどり着いたの。だから、息子も来られなくて当然だったんだ。そして、3日目にようやく歩いて来たの。車もなければ、着るものもなし、来る途中には、少し高台の細浦の交番に泊めてもらって、そこが一軒家だったから2階から布団を持ってきて、周囲の部落の人と一緒に雑魚寝して過ごしたって言うの。そこにしても、水も無ければ電気もつかず、食べるものも無かったんだね。
このあたりの人たちは、本当に夫婦で語るヒマも何もないくらい忙しいんだ。ヒマあれば働かねばならないし、あんたたちにはちょっとわからないでしょう。だけどそのくらい、農家というもの、漁師というものは、ヒマがないの。だからここいらの人は働き者だから、お金はいっぱい。心もいいし。だけども、この津波が何ほどだって、誰にもかなわないなあ。それが涙流れるほど悔しい。
大津波で、子どもたちが全員無事だったのは良かったけど、自分自身、よくよく、命があったものだと思って感謝してるの。
私は以前にも大病をして助かった経験があるの。こんな小さい虫がね、胆のうの中に入ってたんだね。シュロンっていう薬飲むと落ち着くのさ。だけども、ある時痛み出して、「いつものことすれば良ぐなる」と思って麦を刈ろう思って鎌を探してたら、それっきりダメになってね。兄弟たちや姉ちゃんが「いぐず(意気地)ないから、少し痛くても、『痛い痛い』って言うんでしょ」って言うけどもそれどころでない。立って居られないし、横になっても居られないくらい、痛くて病んだのさ。そしたら、医者に連れて行かれたけどもね、ちょうど先生が大学に行くところを引き留めて、その先生にやってもらったからよかった。タイミング悪く帰ってたら間に合わなかった。そうしたらね、胆のうが紫に大きくなって腫れてたって。虫が入ってたのを知らなかったからね。その虫が1尺(約30cm)くらいあったんだって。そいつがどこにも行きどころがないから暴れてね、結局あれだけ続いて、危なく破裂しそうだったの。
あるときは、私は急性筋肉炎でね、11カ所腫れて、9カ所切ったの。そのときも生かされたんだもの。
それは今から20年も前のこと。電気コンロって、こういう小さいのがあったの(写真)。ある時、「危ないから拭き取りましょ」と思って、私もあわてん坊だからね、触っちゃったら、はっと思う間に電気がターーッて来たの。
昭和40年代に出回っていた電気コンロ。
通電回路が露出し、漏電や感電の恐れが高い危険な物だった
電気が抜けなくって体全身を走ったから、筋肉の骨と肉の間が化膿したんだって、余計。筋肉炎は痛んだり、ぢくぢく病むことはないの。ただ具合が悪くなるの。具合悪くて、なんとなく、そこいらに居られないような体になるんだよ。
みなさんも気をつけてね、この話はみんなのためになるよ、誰も知らないことだから。
そのときも生かしてもらったんだからね、すごいこと。ねぇ。ほんとに私って、バカみたいに命があるんだ。
うちの夫は、くも膜下で仙台に行って、治療に8時間もかかって良くなったんだよ! そしてね、83歳になって亡くなったけど、すこぶる頭ははっきりしてたんだ。特攻隊に行く予定だったのも、よその班から隊長さんがやったから、うちの人は生きて帰ってきてね。そんなこと全然知らないで私たち一緒になったんだからね、この家に縁があった。不思議だよ。
私もね、家にこのようにして親孝行しなかったら、大きな家に嫁に行くんだったの。そこに行くかと思ってたけども、好きな人もあったけども、父親がかわいそうだったから、どこにも行かれなかったの。だから私がそのためにご先祖さんも生かしてくれるのかな、このお天道さまもそうしてくれるのかなと思って、私はそういうこと考えてる。
だから人にどうこう言われたってね、あんまりも腹も立たないしさ、不思議なの。「笑い憑き」だって言われてね。「変なお婆さんだ!」って。だけども自分では「憑き」でも何でもない。
ただ、心臓は働いたおかげで丈夫になったってわかってるの。ここ(胸)を一生懸命叩いているの。
息子のお嫁さんの妹はこの仮設住宅のすぐお隣にいるよ。寄木(よりき:南三陸町歌津)というところに妹がお嫁に行って、寄木の人たちにお世話になってたけど、その方が亡くなってしまって。まさか、私も妹も同じ仮設に入っていると思わなかったよ。産婆さんの妹のおばあさんや、夫の実家のお嫁さんのお姉さん。その人が私の父親の甥嫁(甥っ子のお嫁さん)。その人がいい人で、なんであんなにいい人なんでしょう。この人の隣にいるのが甥嫁のお姉さん。みんな他人ではない人たちだったのね。
今回、仮設住宅で親類縁者と一緒に暮らせることはうちのクニオさんのおかげだと思っているの。クニオさんとは恋愛結婚でもないし、好きになって結婚したわけでも何でもなかったけど、やっぱりこれば生まれたときから結婚する運命なんでしょう。クニオさんのいた石山という部落なんて、それはどこ? と思うくらい何も知らないところでした。そこから、家督でうちに来るはずなかった人がお婿にきたんだから。本当に神様のお授けくださった人だよ。
今は体操でも整体でも、そういうところに欠かさないで行くの。昨日にも(仮設住宅で)行事があって、腕や足をさすったりするのがあったの。体が病んで、朝2時頃まで寝られないこともあるから、昨日、他の人より多くやっていただいたっちゃ。そのためか、その病み方が違うの。だから、さっきも一言あいさつしてきたけどもね、本当にありがたかったと思ってね。
いろんなことおしゃべりして、そのお礼にみんなのこと笑わせたいと思ったの。
今回の津波で、妹が流されてしまったけど、この妹が歌を歌っても何をやっても上手な娘だったんだ。山奥のずうっと向こうまで私と2人で開墾したんだけど、そこで妹と私と2人、誰にも遠慮することないから、仕事をしないで歌を歌ったり、話をしたりしたもんだ。
妹は、いつかもう一度演芸会で、マドロス(船乗り)でもヤクザでも普通の踊りでも、なんでもいいからやってみたいと思っていて、行李の中に私の分まで衣装を入れて沢山ためていたの。そういうのも、みんな津波で流されてしまった。まー、惜しいこと!
私は生きているうちにもう一度、皆さんの前で歌をご披露したいと、今でも思っているの。だけど、今は普通の状態とは違ってしまっているから、ところどころ忘れていることもあるけど、それでも覚えているところもあるからね。
今回、鳴子温泉に1カ月お世話になったの。階段をうんと登った高いところにあったけど、そこでお世話になったから、歌でも歌って、歌津の人たちを花が咲いたように盛り上げてみたいと何度も思ったけど、支援物資などを貰う事ばかりで、「そんな歌なんか歌っても」と思って、とうとう、あの場では言いだせなかったんだ。
6月15日はうちの夫の命日だったから、14日に、この平成の森仮設住宅に入ったの。
それでもやっぱり自分ではこの歌をみんなに聴いてほしいと思ってね。70年も前の歌、朝の歌、元気な歌です。この歌の1番の歌詞は、友だちのうちわに書いてあげて、2番、3番の歌詞も同じように書いて、「さぁ、その友だちにあげよう」と思ったら、暑いからってそのうちわを誰かが持って行ってしまって、それきりになってしまったんだ。
私はこんど、85歳にもなるんだよ。
私ね、編み物もお習字も70年ぶりにここ(仮設住宅)で習ったのさ。なんぼか書くのは良いんだけど、目はいつも病むから、読むのは思うようにはならないけどもね、みんなのやることはやって、そして朗らかにやりたいと思っているの。
だけどね、今お風呂に入られないから、1週間に1回だけどデイサービスに行ってるの。デイサービスはデイサービスなりのきまりがあるんだけど、それを知らないからね、みなさんに会うと声を掛け合うのさね。私は黙ってられない性だから、歌津の知り合いがいっぱいいたり、志津の人たちにも会うから、声かけるの。そうするとデイサービスの人に、「むだごとしゃべってわがんねの!(無駄話ちゃダメだってわからないの! )」って怒られるんだ。だけども、私は「だって、あんた、しばらくぶりに会うもの、黙ってるのが性に合わねんだ」って言うんだけど、それはそれでも、あんまりおしゃべりしたり、笑ったりはダメだって。
でも、うれしくて笑いたくてしょうがないから、こうやって笑うんだ。
だから私、よく「笑い憑き」だって言われるのさ(笑)。(談)
この本は、2011年9月25日 、2012年4月21日の両日、
南三陸町歌津の平成の森仮設住宅にて、佐藤はぎのさんから伺ったお話をまとめたものです。
[取材・写真]
福原立也
田中礼子
綿貫菜穂子
齊藤 哲
長谷部弘幸
(2011年9月25日)
久村美穂
河相ともみ
土田照美
牧れい花
(2012年4月21日)
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[方言聞き取り]
織笠英二
[文・編集]
牧れい花
[発行日]
2013年1月吉日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト