これは、登米市迫(はさま)町の農家に生まれ育ち、結婚後は南三陸町志津川(しづがわ)に移り住み、そこで銀行マンとして、また酒屋のご主人として人生の大半を過ごされた須藤衛作さんが語ってくださった物語です。
地方銀行が会社組織として産声を上げた頃、発展期、都市銀行の進出による冬の時代、その変遷を身を以て体験しながら、忙しい酒屋に婿入り。鍛え抜かれた農業家としての視点を持ち続けながら、さまざまな産業をクロスオーバーする人生も稀有なものですが、その上に戦争、2つの大津波、奥様の恵子さんの闘病生活と幾多の過酷な体験や困難に見舞われる。まさに激動、そんな人生をも「悠々」と語る衛作さん。まるで人生の向かい風にあっても、植物をはぐくみ育てる土に堂々と立つようです。
変化にも柔軟に対応し「自分の力でなんとかする」。それが出来たのは、困難の中でも着実に行動し、常に人生を楽しもうとしたから。お話を聞く中で私たちはそれを学びました。この物語を読む中で、衛作さんの穏やかな口調と起きていることのすごさを対比して感じていただければと思います。
今回の聞き書きは、衛作さんご夫妻のお嬢さん、東京にお住いの芳江さんからお話をいただいたことから実現しました。
末筆ながら、貴重なお話をいただいた衛作さん・恵子さん、そして芳江さんに心よりお礼申し上げます。
2012年10月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
須藤衛作さん
お会いするたび、楽しいお話が泉のように。
私が生まれたのは昭和7(1932)年3月16日。もう80歳です。私は、銀行に一番長く勤めていたのだけどもね、百姓から、酒屋から、商売から、いろいろやったんです。何でもやってきたから。何でも聞いてください(笑)。
生まれた家は南方(みなみかた。宮城県登米市東部の穀倉地帯)の百姓でした。今住んでいる佐沼から2キロメートルくらいの所です。南方の小学校に6年、佐沼(宮城県登米市、南方の西北に隣接する)で中学校を4年、高校を2年と、この近くの学校に通ったからね、このあたりのことは全部、わかるわけ。その間に戦争もありましたよ。その間、中学校ではほとんど勉強しないで、田の草取りだの、農家の仕事、つまり農作業をやってきたの。戦時中の学徒動員と同(おんな)じように、学校で勉強しないで、勤労奉仕をするんです。そういうのが中学校の1~2年ごろずっと続きました。中学校2年生の時に終戦を迎えました。
実家の農家は、お袋がやってたんです。この辺りはみんな農家だったんですよ。親父は私が生まれてすぐ死んでしまったので、お袋が働いたんです。
私は5人兄弟の末っ子なんです。一番上は軍隊に入り戦死しました。2番目は学校の先生でしたが、去年亡くなりました。あとの2人の兄は、百姓をしていましたね。
私たち農家のお正月といえば、昔は旧正月に祝ったものです。
お正月の準備は小寒、1月の半ばあたりに、まず凍(し)み豆腐を作ることから始まります。自分たちで育てた豆から、自分の家で作るんです。農家はみな、そうやったんですね、昔は自給自足でしたから。その豆で豆餅や納豆も作るんです。「ツトコ」といって藁で作った容器に入れて作る「ツトコ納豆」です。
それから飴餅です。聞いたことがないでしょう? 今でも、復刻して、道の駅なんかに売ってますよ。この登米郡地域のお正月には欠かせないものです。
飴餅の作り方はこうです。
秋に大麦が発芽してくると、麦芽っていうんですが、それを天日に干して、水に浸して「うるかし(湿らせ)」ます。その芽を使って煮た餅米をふかし、それと合わせて発酵させて、絞って煮詰めて、水飴を作ります。それを餅にからめたのが飴餅。私はそれが好きで、(結婚して登米を離れ)志津川に行っても、お正月には必ず飴餅を作ってる人を聞いて買ってきたものです。
飴餅のレシピについては、NHKの「今日の料理」のサイトに美しい写真入りで紹介があります。
また、飴餅を食べる時にかける、きな粉も自分の家で作ったんですね。きな粉用の豆を大きい鍋で炒って、石臼で挽き、ふるいにかけて作りました。豆は子どもでも挽けましたよ。中学生ぐらいになれば、手伝ったものです。飴餅にそれを混ぜて、食べるんです。うんと甘いんですよ。
そんな風に、私が住んでる志津川町と、登米のほうの餅は違うわけです。志津川の餅はあんこ餅だのクルミ餅だのですが、こちらの方は飴餅とか、あと納豆餅とかになりますね。雑煮はおんなじだけど。
あとちょっと変わった食べ物では、エビ餅っていうのがあるんです。これは、「沼エビ」を使います。今スーパーなどで売られているのは、ほとんどが茨城県の霞ヶ浦で獲れたものです。火の通った状態で売られていますよ。そのエビに醤油をかけて、納豆餅と一緒に食べるんです。
沼エビといえば、この付近はね、昔は「掘」と言って、川の小さいのでエビが獲れたこともありました。しかし、この一帯が改田(かいでん)、つまり全部耕地整理されて、水が流れていた田んぼが干拓されてしまい、水が枯れてしまったんです。だからもう、エビはいないし、ドジョウもいなくなったんですね。子どものころはドジョウを獲りましたよ(笑)。
小さいころからそういう手作りの正月を祝ってきたので、我が家のお正月は、こんな風に登米風に祝うんですよ。
お正月準備が始まる前は、家の中で脱穀、つまり“稲こき”という農作業があったんです。脱穀は今は機械で、田んぼの中でやっていますけど、昔は、雪の降る日などに家の中に持ってきてやる、そういう風習があったんです。今は脱穀は10月に終わってしまいますが、当時は2カ月半くらい遅れて終わるんです。こんな古いことを知ってんのは、私たちしかいないんですよ。
冬の期間の、農家の仕事っていうのは、農初出(のうはで)と言って、旧暦1月11日が仕事の始まりになっています。そこまでは農家の人は休みっていうきまりがあるわけです。そこから、藁を使って、網や縄、ぞうり、わらじ、編笠、それに「けら」っていう肩にかける、よく映画に出てくるでしょ、そういういろいろなものを自分たちで作るんです。私も、いまだに、ぞうりを作るのが上手いんだよ(笑)。もちろんお正月の注連縄(しめなわ)も作りましたよ。
今は科学が発達して、その代わりに海が汚れるようになったんですね。今の網はナイロン製で腐らないから、自然に還ることがないのです。ところが昔は、藁でできた縄を使ったんですね、全部。筏も縄でできていました。特殊な「縄ない」の機械を使って、撚(よ)りをうんと強くかけた「固縄(かたなわ)」を、農家で作ったんです。それを漁に使うから、結局、海中で腐って自然に還るでしょう? だから、そんなに海は汚れなかったんです。
今は釣りが盛んだから、海の底なんて落とした針や糸で大変な汚れようですよ。私も多趣味で釣りもやりましたが、昔は、釣りをしていても、そんなに針や糸は落とさなかったから海は綺麗でした。だから魚も豊富だったしね。
私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
下駄スケートの作り方
出典:オリオンの311の星
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
子どものころの遊びを図を書いて説明してくださる佐藤さん
終戦の日を迎えたのは、は中学2年の時、私は15歳でした。
当時の中学校は入るのは大変だったんですよ。競争率が4.6倍でしたからね。今なんて1倍あるかないかの競争率で騒いでいますけど、昔は4~5倍ぐらいが普通だったんです。1学年3クラス40人ずつ、合計130人くらいいたと思います。私は2年でしたが、兄のいた4~5年生は学徒動員で、授業しないで、全員、軍需工場に引っ張られていきました。「戦を支えねば駄目だ」という、軍隊主義だったんだね。みんな洗脳されて、オウムと同じですよ。昔の人たちは、「それこそ天皇陛下万歳」の万歳組です(笑)。
8月15日、私たちは生徒全員で長沼(ながぬま:登米市迫町)に行って勤労奉仕をしていました。山を開墾してたんですね。その近くの店で、玉音放送を聞かされましたが、何を意味するのかよくわかんなかったですね。「負けた」って言う人と「そんなことないでしょ」って言う人もいましたし(笑)。
そして、戦後は、ああ、ずいぶん変わりましたよ。農地解放(GHQの指揮で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された)で地主が土地を失くし、幣価切り下げもありました。つまり、銀行で紙幣に印紙が貼られて、個人がいくら以上のお金を持ってはダメだという、ちょうど北朝鮮がやったのと同じ政策を打ったんです。
農地解放では、今まで小作料を取られてた人が取られなくなったから、農家がたちまちのうちに復興したんだね。あれが日本で一番大きな変化でした。要するに、地主だの庄屋だのをみな解体したんだから。うちなんか地主の方でしたから、ガッポリ取られた方ですけどね。
昔の小作人の農家は貧乏でした。地主が小作人に農地を貸すときは、田一反あたり米をいくら寄こせ、となるわけです。これが小作料。三穀と言って、収穫の半分くらいを地主に取られるんです。その農地が小作人に開放されたからね、農家の人たちの暮らしが全体に良くなったわけです。私たち地主がもらったのは、田は一反300坪につき250円(笑)。当時、お米にして一升です。
中学2年生から4年間、ずっとそういう戦後の変化を見て、家では農業を手伝っていました。中学生なんて今でいうと子どもでしょ。でも昔は違うんですよ。小学校のときから始まって、中学校になると農業の仕事全部をさせられるんです。だから、世の中で何が起こっているかは理解できたのです。
戦後、一番上の兄貴が中国で捕虜になり、抑留されてソ連にいました。それで日本に帰って来なくて、すぐ上の兄と私と2人で実家の農家を守ったわけです。今みたいに機械でなく、昔の農家の仕事っていうのは全部、手足を使ってやるわけだから、とにかく大変でした。だいたいね、早朝から夕方4時頃ようやく農作業が終わるんですからね。
年間の農作業は、旧正月まで終われば早いほうで、旧正月までは忙しいんです。田植えまでは農閑期とは言うけれど、その間に米俵を編まなくちゃいけなかったんです。昔は米俵も政府の買い上げだったから、農家の収入になったんです。
俵は藁で編みます。ムシロと同じように長く編んで、最後にくるっと丸めて縫いつけて作ります。米を無理無理いれると米が漏れる「二本縄(単式)」の作り方ではなく、「三本縄」の複式では絶対すきまが開かないので、米が漏れ出ないのです。だから終戦後、複式の編み方が流行りました。
参考:俵編み機を使った俵づくり動画okuderazekiさんがYouTube上で公開されています
米俵の代金は、「包装代」として、俵と縄で1俵いくらの単価で国が買いあげてくれていました。ひとりのノルマが1日10俵、その価格が1万円です。米俵は、50キロの米を入れるものを、5.5キロの重さで編まなくちゃいけないんです。あとで農林水産省の食糧庁でちゃんと検査されて、5.5キロ以上重いとはじかれてしまいます。それをうちでは全部で700俵ぐらい作るですよ。だから作男(さくおとこ)という人の手を借りるんです。
作男というのは、家で年間契約で働いてる男の人で、近所から通いで来る人もいれば、うちに寝泊まりして飯から生活費まで預ける人もあるし、いろいろでした。当時の人件費は1人当たり、米10石(こく)。10石っていうのは米25俵。今の金にすると、掛けることの、1俵13,300円だから、要は、安いものですよ(年間で332,500円)。そのかわり飯も食わせてもらい、小遣いも貰うんです。
そういう作男という人が、大家さんとか、庄屋さんに行って働いたんですね。うちにはそういう人を3、4人雇っていました。米俵約700俵のうち、家で使うのは500~600俵ぐらい、あとはよその分もやったんです。それが農閑期一番収入になりました。
今は反対に紙袋を買わされるんですよ。1袋70円でね。藁も、青いうちに無理やり機械で脱穀するようになってからは藁の先が無くなり、米俵にはほとんど使えない状態なので、田に散らばった藁を機械で集めて、ビニールに詰めて達磨のような形にして固めて、発酵させて、これが牛のえさになるんです。
震災後は藁が放射能で汚染されているから食べさせてはいけないことになっています。岩手県の兄貴の行ったところも、汚染されているので牛に食べさせるのは禁止で、保管されているんです。
その他にも藁には使い道があって、たとえば畳表(たたみおもて)には、短くても大切に扱い、干すことでうまく使えます。だから今でも、藁は無駄にはなっていません。
今は、安い米が海外から入ってきて、最盛期から比べから、もう4割くらい価格が下がっています。現在の農家の人たちの収入は、政府は買わず、農協経由で業者に売られることで成り立っています。30キロ6500円の価格がついていますが、農協に米を納品しても、その価格の全額が農家に入らないんです。
手数料を集荷した農協に取られますし、外来種のカメムシが稲を食べたあとの黒い点がついたお米は色彩選別機にかけて除去するけど、その手数料がまた500円取られるんです。そうすっと手取り5500円ぐらいになってしまいますね。
さらに、支払いも全額一括ではないんです。今年、仮払いとして5000円もらえます。残りは、業者に販売して結果で高く売れれば差額が戻ってきますが、安ければそのまま何ももらえないで終わってしまうんです。だから経営の先が読めないので、生活にならないんです。
銀行に勤めたのは、末っ子ということもあります。いくら実家を手伝ったところで、腰ばかり痛くて、家督でなければ1銭にもならないから。朝からネクタイ締めて出掛ける、そちらの方がいいなって(笑)。
私が入った銀行は、入行した頃は、「振興相互銀行」って名前でした。相互銀行となる前は「振興無尽(むじん)会社」と言っていたのです。無尽という制度は、都会にもあって、「頼母子(たのむし)講」とも言いました。無尽会社は各都道府県に3つも4つもありました。
無尽というのは、
1)毎月1万円ずつ出して3人だったら3万円集まったら使えるようになる(「用立て」になるという)。
2)くじを引いてあたった人が一番先に使える。
3)使った人は利息は決めようだが、たとえば10,000円あたり500円にすると、次の月には借りた30,000円と利息の1,500円を足して、31,500円となる。
4)次につかう人は31,500円使う。残りの2人の人はまたくじ引いて、2回目に当たった人は31,500円使えるから1,500円儲かります。
5)3回目は満期。2回目に当たった人がまた利息を2人分1,000円払うから、元本が多くなるわけです。32,500円払う。いったん配当を受けると次回からはくじ引きに参加できず、メンバーは人数×カ月で無尽が一巡するうちに、それぞれ1回ずつ配当金を受け取ることになります。
くじに当たらない人でどうしてもそのお金が必要な人は、金利を上乗せて「どうしても譲ってけろ」って、当たった人から買い取るんです。
これは3人の例ですが、会社になると、50人単位でより高額な金額でやるんです。それを無尽会社が管理し、事業に使ったりしたんです。
無尽会社ってのは、無尽に参加していない人に貸したり預けたりはできません。それで昭和26(1951)年、「相互銀行」になり、預金も預かってよいということになり、「貸出金」というものも出てきました。そのころ私が入社して2年目くらいだったかと思います。これがさらに、昭和64(1989)年、第二地方銀行「仙台銀行」となったんですね。
私の最初の仕事は、お客さんの所を回って「日掛け金」を回収することでした。お客さんを覚えるのに150軒くらいの担当を持たされて回らされるんです。入社して2年くらいやりました。最初は佐沼地区で、1年回ると、また別の地域を担当しました。だから、長い人だと10年くらいする人もいます。
昔は、「日掛け」という無利息の勘定があって「私は毎日500円ずつ積みたい」など希望の金額で毎日積み立ててもらい、ある程度1万円、2万円とまとまった金額になると、月掛けや、定期預金、無尽の掛け金に振り替えることもできるというものでした。毎月1回、日掛け金を自分の好きなように使っていいというわけです。
担当地区を回る間には、いろんなお客さんを見て来ましたたよ。だいたい、銀行には朝8時半の出勤で9時ごろに外回りに出発します。開店前の商店には朝早く行きます。そうすると、家の前まで行ってみたら、奥さんがほうきを持ってだんなさんを追いまわしてる(笑)。そういうのに出くわすんです。近所の人たちも「あそこはしょっちゅう喧嘩してっからな。声かけないで静かに通りすぎなさい」って(爆笑)。
そういうのもあれば、だんなさんが洋服の仕立て屋で、おっかさんがバーをやってる家で、朝は寝てるんですよ。ところが、その夫婦は「家は開けとくから、いいから入ってきて」というので、2人して並んで寝ててる布団の間から手を入れて、日掛け金を回収です(笑)。なんで起きないのかね、起きたらいいのに(笑)。
もっと面白いのがね、仙台市内で集金したときの話ですが、飲み屋に朝の集金に行くと、飲み屋のお兄ちゃんとかもそうだけど、こっちは若いでしょ、20代のころだから、パンスケ(夜の商売の女性)どもに部屋に引っ張り込まれそうになる(笑)。だけど、そのあとがおっかないわけ。パンスケの後ろにはヤクザもいるから。
あとは、集金しててお酒なんかも出たんです。町内集金は自転車だから、「ほら飲んでらい(飲みなさい)!」って。そういうのは珍しくありませんでした。またみなさん、お菓子とかね、あとお香子(つけもの)を出してもらったり。それをゆっくり食べてね、休んで(笑)。だから。お客さん1軒の家に1時間くらいいるのが普通だったの。次の家は「おぉぉっ!」って駆け足(爆笑)。
昔の人たちは何やっても、それでも友だち、仲間同士。今みたいに告訴されたり、訴えられたりってないからおおらかでしたね。
私たちの頃は、当時は、今みたいに金余りの時代じゃなく、いくらでも集金して来いという時代でしたし、集金やっててもいろんな話題があって面白かったんですね。
集金というのは、銀行にとっては「安定」なんです。お客さんと親しくなって「よもやま話」ができるようにならなければ、銀行に情報が入らない時代だったのです。例えば、「あそこの家のお爺さんが亡くなったから保険金が入るよ」って、教えてもらえるわけです。今は、人件費の高くつく集金というのがなくなってしまった。お客さんには、全部一斉にメールだの、なんだのになってしまいました。私の退職近くになって携帯端末が入ってきました。機械化され時間管理されて、お客さんとお話もできない時代に変わっていったんです。
銀行に入った当初は、帰宅が夜の9時、10時でした。ここの地域は農家預金っていうのがあって、昼間仕事してから、また夜集金に行くんですよ。そうするとね、帰ってくるのは9時10時になります。農家に行って、農協に入ってるお金を拝み倒して預け直してもらうわけです。
それから、北洋船団と言って、遠洋漁業の船員が7月~8月に帰ってくるので、その預金を予約してあるわけです。昼間だけでは終わらなかったら夜になる。それでも残業代はもらえませんでした。そんなふうで、遊ばなかったし、夜も仕事があって飲み屋さんには行けなかったですし。
銀行では、だいたい、大卒は10年、高卒は14年で係長になります。昔は、次長・課長・係長の順に昇進です。高卒は34歳くらいで係長になり、3~4人くらいの部下がつきます。地域を一通り回って顔つなぎをします。今のように銀行がサバイバルゲームをする時代ではなかったから苦労はあまりありませんでした。いいこともわるいこともあまり起きない。その点は楽だったですね。
係長になっても外回りするんですよ。同じ預金でも、訪問された家にとっては、もらう名刺が平社員と役職とでは気分が違いますよ。だからね、支店長でも次長でもみんな外回りする。いいお客様、大きいお客様が入れば訪問するんです。これが我々の仕事です。都市銀行みたいに部屋で胡坐かいていたんじゃ誰も利用してくれません。これが大きい銀行と地方の小さい銀行の違いです。
昔の地方銀行は、支店長や次長でも便所掃除をしたくらい、小規模でした。小さい店舗だと行員が8~9人くらい。大きい店舗だと14~20人くらいでした。私は案外大きい店舗で、佐沼とか築館など経験しました。志津川も15人くらいでした。みんなで外回りをしないと回らないんです。内勤と外回りの仕事が半々くらいでした。
外回りはおもしろいけど失敗もあります。大きい失敗というのはよそにお客さんを取られるということですね。自分が開拓したお客さんが、他行に取られるのはしゃくだったな。競合は德陽銀行(三徳無尽、1990年普銀転換。徳陽シティ銀行を経て1997年経営破綻)というのがあって、それから信用金庫・信用組合が競合していましたね。我々地方銀行は町の中心しか歩きませんでした。ネームバリューが違いましたから。こういうのは、政治力なんですよ。
融資係、預金係、為替係と。これが銀行の三大業務ですが、全部やったけど最初は預金係を担当しました。
入行当初から、為替基本法とか不動産鑑定士とか預金・小切手などを銀行協会の通信講座で勉強しました。毎月、添削出して。資格を取ると会社から報奨金が出ます。70点以下だと1銭も出ない。80点や90点以上だと受講料が全額補助です。1年間通して勉強すればそれはそのひとの評価になりますが、途中でやめると受講料も全部自己負担です。大体10科目~16種目くらいは受けなくてはならないので、仕事もあるし忙しいです。人数の少ない地方の銀行は、みんながいろいろなことを出来なくてはならないので、そうなるんですよ。
また、不動産鑑定の勉強は必須でした。今だと保証会社、信用会社がありますが、昔は、担保物件を自分たちの融資の調査係で査定しなくてはならなかったんです。それで査定額の70~80%まで融資するんです。自分も担当したことがあります。オールラウンド主義だから必ず担当する。毎年係は変わるんです。慣れない係には配属になると、新入社員はいいんだけど、古株になると「いつまで待たせんだ!」と怒られるんです。今は専門職だからそういうことはありませんね。
銀行業務をする中で、高度経済成長やバブル崩壊などの経済の変化を肌で感じてきました。ヤクザがらみで面倒なこともありましたし、回収不能のときには、正直かわいそうにと思いながらも、担保物件の競売をやらなくてはならないこともありました。今こそ文書競売促進法ができましたが、昔は何度も直に話に行ったものです。債務者の親戚一同に集まってもらって、できるだけ助けてやりましょうという方法をとりました。都会の人と違って、地方の人は親戚・縁者があるから、困っている親戚の分を出してくれるわけです。時間と手間がかかるので、今そんなことをやっていては、人件費が高いから割りにあわないんです。
これは最近の競売物件ですがこの近くの農家で、土地が500~600坪、部屋が10からある大きな家で、200万しないです。役場の掲示場に掲示されるんですね。高度経済成長期にも、バブルの後にも競売にかけることがありました。バブルの後の方が多かったようです。
地方銀行の経営が苦しくなったのは、昭和48(1973)年、大店法(大規模小売店舗法)ができ、地方に大型店舗が進出し始めた頃だったと思います。地元の商店の売り上げがなくなりました。一方では、地方には零細企業が多く、大きな会社はないから、気仙沼線全線開通などの大型の案件で企業に金が入るときにはもう遅い。鉄道とか道路とかの建設になると、国で土地の買収が始まる年から、都市銀行が大型企業ともう仲良くなっていて、黙っていてもお金が入るようになっている。我々小さい銀行だの信組はそういう情報がないんです。その点大手行にはどうしても勝てなかったんですね。
昔は金利が横並びだったから、お客さんにとって、預金集めの決め手がサービスや、家から近いとか、感じがいいとかしかなかったんです。
ATMが銀行に導入されたのは30年くらい前だったと思います。一番最初はキャッシュディスペンサー(CD)、現金自動支払機でした。そこから10年くらいたって預け入れもできるATMに変わったんです。それから10年たって送金もできるようになりました。
今から40年くらい前に銀行にコンピュータが入り、35〜6年前にオンラインシステムになりましたが、記憶力のいい若いお兄さんたちはコード番号7ケタが頭に入っていて、お客さんを見るとすぐ思い出せるのです。私たち年配行員が通帳を開いて確認しながら4~5人のお客さんを相手にしているうちに、お兄さんたちは10人ぐらいこなしてしまう。また、昔の印鑑証明は分厚い台帳を出してきて老眼鏡で探さなければなりませんでしたが、今はねICチップのデータでぱっと探せます。そんな風にシステムがどんどん進化していきましたね。
ただね、変化して一番ひどいと思うことは、金額の間違いの処理で、今は間違ってもおおごとにならないけど、昔は間違ったら訂正伝票4枚切らなくちゃならなかったんです。今はね機械が訂正までやってくれるから、今の人たちは伝票の切り方を何にも知らないわけです。つまり電気が止まったときに、我々のようにそろばんで対応するということはもうできないわけです。
銀行では、東北電力から停電の連絡が来ると、事前に発電機をレンタルして対応しますが、今度の津波の場合にはね、2、3の店舗で自家発電持っていたのに、水を被って機能しなかったんです。
私たちの頃は、昔はそろばんでしたし、はじくのは早かったんですよ。当時は年利ではなく、日歩7銭とか8分とかで計算していました。9月と3月の決算期には、半月か1カ月くらい毎日夜中まで仕事しました。前にとった利息は「経過利子」といって決算期ごとに戻すなど、その計算で決算期は大変でした。今の人たちは決算期も、帳簿もシステムもわからないんです。
結婚して志津川に行ったのは、私が27歳、これ(恵子さん)が23歳のときだったと思います。銀行に入ってから結婚しました。ちょうど伯母の家に子どもがなかったから、これが先に養女に入っていて、私が養子に入ったんです。
翌昭和35(1958)年、チリ地震津波がありました。義母を背負って、水のある所を走って逃げましたが材木がドンドン流されてくるんです。津波ってのは、川沿いが一番水の流れが早い。さらに水は川から溢れて道路に流れるんです。だから、津波の押し寄せる背後からでなく、川から溢れたその水で前から攻められてしまったんです。逃げ道遮断されたような格好のところを、津波の勢いが弱かったこともあって走って逃げきれたんです。
たんすも衣類も水浸しになってしまいました。その時は、荷物を2階に持って上がってたら、汚れずに済んだろうにって思いましたね。
しかし今度は、そのチリ津波の記憶が悪くはたらいて、逃げない人が一杯出たんです。「どうせ2階にいれば良いんでねえか」とか思ったんですね。
結婚してからは、夜は麻雀。接待麻雀もやりました。夜も仕事で、始まるのも遅いから午前様になっていました。銀行は土曜が休みではなかったのと、日曜にゴルフを始めたけれど、土地があったから野菜作りもしていたし、酒屋の仕事も手伝っていたので時間がありませんでした。昔は酒を入れる箱が木でできていたから、それを壊したり片づけたり、担いで運んだりしたものです。農家出身だから力があるんですね。
定年後の20年間は、酒屋をしていました。店番、配達と忙しく、帳簿もつけて、決算書も全部自分で作ったんです。銀行にいたときに知ったことを活かして、登記まで自分たちで書類を作ってやりました。
志津川の養父母の酒屋は、志津川で製糸工場が倒産して、その経営者の家屋敷を買い取ったのが始まりなんです。90年くらい前の話ですが、1000坪ぐらいあろうかという相当なに大きな屋敷だったんです。当時うちの養父(おやじ)がね、德陽無尽(のちの德陽相互銀行)っていう無尽会社の下請けをやっていたので、周囲の人たちと、共同でその家屋敷を無尽にかけてて、その金で興業銀行から買い取ったんです。そしてうちは一番広い面積、約390坪を買い取りました。そしてその年から後、ずっと酒屋をしていたんです。だから、100年近い歴史があったんです。
ところが、その家は一度昭和12(1937)年の志津川の大火で全焼してしまったんです。大火で残ったのは、40坪の広間だけでした。それを私たちが母屋にして、酒屋をその前に出して再開したんです。ちょうどそのとき、養母は大学病院に子宮筋腫で手術入院していました。私たちが酒屋の商売を再び始めたころ、やっと大学病院を退院しました。
全てを丁寧に説明してくださる衛作さんの表情はキリリ。
酒屋の屋号は「カクヤマ」です。由来は、養父がこの酒屋を買う前、德陽の無尽をやるもっと前に、登米の旅館に勤めていた時代にさかのぼります。登米市でも2、3番の金持ちで、酒や醤油を造っていましたが、養父はそこで何年か勤めてたんですね。そしてのれん分けしてもらったんです。そこの苗字が山田というので、「カクヤマ」となったわけです。残念ながらみな潰れてしまいましたが。
うちの2階には、かつて德陽無尽が事務所として借りていたことがあります。その後、敷地内の庭に事務所を建てて、養父(おやじ)がそこで働きました。家を改造するときに取り壊してしまったんです。
酒屋は息子が継ぎました。息子は大学卒業後、信販会社に勤めて、盛岡で勤務していたんですが、平成元(1989)年、これ(恵子さん)が体調を崩したので、会社を辞めて戻ってきて継いだんです。
これの病気がわかったのは昭和62(1987)年あたりのことで、50歳ぐらいから甲状腺などを悪くして、佐沼の病院や東北大病院に行ってはあっちこっちを手術したりして、苦労したんです。
最初に手術したのは国立仙台病院(現:国立病院機構 仙台医療センター)でした。家の向かいの人が勤務していた関係もあって、そこに決めたんです。甲状腺か扁桃腺か何だか、「完全に治りました」と言われたのに、1年ぐらいでまた症状が出てきてさっぱり治らなくて、声がかすれて出ない。だから甲状腺の手術をするときに、反回神経を傷つけたんでないかと。医者を巡ったけれど原因が分からず、私の麻雀友だちのお医者さんが反回神経の専門家の横浜市大の先生に紹介状を書いてくれたんです。そして、ようやくここに辿りつたんです。原因は最終的には、喉頭癌でした。
ちょうど昭和天皇の亡くなった1月に、横浜市立大病院で2回目の手術を受けました。それから6月まで入院していたんです。
健やかなる時も病める時も・・支えあったご夫婦
横浜市大は海のそばにありました。これの入院中は、私は銀行に勤めていたので、毎週通ったもんです。それから10年、治療のため横浜に通いました。月1回、夫婦で横浜に行くんです。行ってもただ看てもらうだけなんですが(笑)。2人で志津川と横浜を往復して1泊か2泊しますから、たった3分か4分の診察のために5万円以上かかったんですよ(笑)。
通っていたときは、よくニューオータニインに泊まりました。前の日行って泊まって、次の日診察して、帰る日には、昼過ぎに横浜を出ないと、その日に志津川に戻れないんです。折角だからいろいろなところ見て歩きました。中華料理は高いからやめろって言われてあまり食べませんでしたけども(笑)。中華料理店の2階、3階、4階がね、安いビジネスホテルになっているところがありましたが、そこの支配人が「だめ、美味くないから、やめろ」って言うんだから。屋台食えなんてね(笑)。球場の周りでダンボールに寝てる人たちがいましたが、今でも居るんでしょうか。この寒空に・・と思ったもんです。
手術後10年間が一番、転移の可能性があるということで気をつけました。手術から20数年経っても転移は無かったので、今のところは大丈夫だと思っています。仙台の病院の患者さんでは転移で亡くなった人もいたので、お医者さんにお世話になって文句はつけられないと思うけれど、やはり手術した医者によって予後が違います。やっぱり、医者を選ぶことが必要だなと思ってます。
手術前は痰が詰まるので、痰取り機械というのを持ち歩かないといけませんでした。ダルマ型をした重い機械で、4~5キロあるんです。それを持つのは私の役目でした。しょっちゅう痰が詰まって苦しくなるので、そのたびに喉の穴から痰を取らなくてはなりませんでした。外出中も家に居るときも、常時です。
手術してからは大丈夫になりました。そこからは、ネブライザーという医療用の吸入器をずっと使っています。今持ってるのは私の知ってるお医者さんが辞めたときにもらった2台ですが、以前持っていたのは津波で流されてしまったんです。多分、6万5000円ぐらいしたものです。3台持っていたのを全部流してしまいました。今でも1日に2~3回使ってます。以前は、仙台の病院で買わされた、大きな吸引だけの機械を提げて歩いたんです。
吸入器
そう、手術してからだから丸23年、ずっとです。機械が津波で流された後は、南方(みなみかた)で私の姪の亭主が内科医していたので、頼んだんですが、手に入れるまで半月ぐらいかかったんです。
また、「声の再生器」がないと、話ができないわけです。最初はイタリア製、特許を持っているらしいです。次にアメリカ製、次に日本も出すようになった。だけども、いちいちね、7万5000円取るんですよ。
これはね、世帯収入が所得税のかからない範囲なら無料なんですが、うちでは嫁に収入があったので駄目だったんです。これを立声会という身体障害者協会が斡旋してるんですが、そこで買うと高いんです。だから知ってる医者に頼んで2~3割安く入手しています。それで6万円。その後、嫁が出産で、無収入になり、保健センターに申請して、1万7000円になりました。しかし、処理が面倒くさいし、業者も指定業者で無いと入られないという。そういうのがおかしいですよね。結局、医療用機器メーカーが儲かってるんだと思いますよ。
入院にしても、期間が長くなればなるほど、国からの補助金が安くなるんで、患者を早く追い出すそうです。病院では早く追い出して、新しい人を入れたほうが儲かるんです。ほんとに無茶苦茶なんですよ、ああいう制度というのは。病気治すためでなく、経営のためだって、私はそう思っていますよ。とにかくね、薬なんて誰も安くしろという人はいないし、ジェネリック医薬品もどれがどれだか分かりませんからね。しかも今、9月まで被災した人は医療費がタダだから。なので、よこされた薬、みんないただいてくる(笑)。ジェネリック医薬品かどうかなんて調べない。世の中おかしいですよ、やっぱり。
私の昔からの趣味の一つに、釣りがあります。
海の近い志津川だから、ザッパ船を借りて、海で淡水魚の鮎釣りなどをしたものです。漁業権は要りません。
長沼のフナはしょっちゅう獲ったなぁ。長沼、伊豆沼のフナは骨が固いので有名で、昔はよく食べたものです。珍しいものではなく、用水路にいっぱいいたんです。フナはね、用水路の角の深くなった所にいっぱいいたんです。特に秋、フナが溜まります。堰き止めて、水を汲みだしてフナを出せばいいので、簡単なんですよ。2~3人隣の人たちと獲りに行って分けました。
獲ったフナは土臭い(※掘割の泥の中にもぐっている)から、真水に入れて2日くらいゴミ出しして、土臭ささを取んなくちゃならないんです。フナは味噌煮や、ふくさ汁にします。醤油はあまり使わないですね。串を刺すことを「弁慶に刺す」と言いますが、フナを串に刺してあぶって、味噌をつけて何回も囲炉裏で焼くんです。田楽ですね。そうすると燻製になって長持ちするんです。
また、冬のドジョウ堀りが楽しかったんですよ。冬の凍った田んぼの氷を剥がしてスコップで少しずつ掘ると、土の中にドジョウが刺さっている。泳いでるんではなく、刺さってるんだから。食べなくても獲るのが面白くてね。志津川の海の人はドジョウやフナは食べませんね。
津波で家の金庫も流されましたが、警察が見つけてくれたんです。その中に収集した古銭の一部が入っていました。
津波前には、明治時代からの古銭を収集したものがアルバム6冊分ほどありました。娘の芳江に1冊贈ることにしていて、そこに10万円金貨など入れていましたが、全部流されました。総額で150万だか200万だか紛失してしまったんですね。
これはね、アルバムに入らないので、ただ、金庫にバッと入れておいたものです。ホントに一部だけ、残ったんです。金庫に水が入ったのでひどく汚れていました。それをブラシで丁寧に磨いたんです。塩水でこうなるんですよ(と、錆びたような状態のものを見せる)。
ここにあるのは、記念硬貨だけじゃありませんよ。これが寛永通宝。これはね、1万円金貨。5万円金貨、10万円金貨もあるんだよ。これらみんな金庫が壊れて、砂かぶって。それを洗ってね。ほかにも、本当はいろいろな古銭があったんです。
これらはあなた方は見たことないでしょう。軍事債券ってやつです。いま復興債券ってありますが、軍事債券ね。戦争当時こういう債券を発行したんですよ。
流された古銭のうち、1万円以上のものはビニールに包んでね、濡れても大丈夫なはずなんです。ボランティアが集めた古銭などはみんな警察に届けられて、日銀が没収するんです。見つけた市町村が保管すればいいのに、義捐金にすればいいのにと思います。私が流したものは金貨が多く、10万円金貨を全部流しました。それも日銀が全部没収して、国庫金になるというのです。
財布だったら名前が入ってるから、戻ってくることもあります。嫁の財布は1年近くたってから、ボランティアの人たちが泥掃除をしていて見つけて届けてくれました。5万円も入っていたし通帳入ってたから喜んでいました。
9月になると、夜が明けるの待ってキノコ採りに行くんですよ。いろんなキノコ採って、うちに帰って風呂に入ってご飯食ってから出勤だから!(笑)
キノコはね、私は先生ですよ。大体分かるんです。その代わり、本は随分買って勉強しましたよ。足が弱くなった頃から、いつキノコが生えたかというのが分かってきたんです。なぜかというと、お客さんが私のところにキノコの鑑定に持って来るんですよ、「これ(食べられるか)見てくださいって」。
それを見て「生えた」っていうのが分かる(笑)。それから採りに行くわけです。そうなんだよ、みんなみたいにね、早くから探して歩かないんです(笑)。ここは歩かなくても分かるんだもん、ちゃんと鑑定に持ってくるから。キノコっていうのは、普通の人たちは遊びながら行きますが、午前11時頃行っても無いんです。朝、もう夜明けに、きれいに採ってしまった後ですからね。そして採った人は跡を残さない。後から行くと小さなキノコも何にも無いんだから(笑)。だから早く行ってしまわないとだめなんです。
キノコ作りも家の庭先でやってるんですよ。今はヒラタケを植えてるんです。志津川の家は庭が広かったので、ほだ木を買ってきてシイタケ、ヒラタケ、ナメコの3種類、特に、シイタケは200本くらい育てていました。
市販のキノコの株を「スポン」と切ったのを構わないでおくと、うんと大きくなるんです。ナメコだってそうです。小さいのが良いなんて言う人もいるけど美味しくないですね。笠が開いてきた大きなナメコの方が美味しいんです。
我が家ではいろんな種類を育てていたので毎年、お正月ぐらいまでキノコが採れました。早生、中生、遅いのとうまく組み合わせて育てます。ベランダでも簡単にできるんですよ。お正月に食べたかったら、「晩生(おくて)」を買い、うんと早く食べたい時は、「はやて」を買います。種類いろいろあるから、よく調べて。私は生産者から直接注文しています。晩生(おくて)が美味いんですよ。
キノコ採りの季節は9月頃から11月初めまでで、1種類が10日ずつ採れて変わっていく。それを狙って行くんです。
一番先に出るのが、東北原産の「ハタケシメジ」と松茸。
次にアミタケ。それからアケボノ。みんな採って食べてんのはね、「ウラベニホテイシメジ」。毒キノコの「イッポンシメジ」に似ているんです。間違うと、毒キノコを食べてしまいます。
毒キノコのイッポンシメジは傘の開いた成菌のヒダは少し赤みがかった肉色をしているし、柄はスカスカの繊維状。
イッポンシメジは食べると死んでしまいますよ。死ななくても相当の重症です。知らない人たちはね、「イッポンシメジだ」と言って採ってきて食ってますが、本当の名前は「ウラベニホテイシメジ」なんですよ。
ところが、図鑑ってね、何回買っても実物と写真が合わないわけ。色が違ったりね、格好が違ったり。だから私は図鑑を3冊も4冊も買ってみたり、わざわざ仙台まで書籍を探しに行ったりしました。そうやって特徴を覚えたんです。
当時志津川でキノコ栽培してる人がいなかったんです。志津川では、昔は町役場なんかのある付近で採れたんですが、工業団地が造られたから今は生えません。昔は松茸も生えていたんですが、今は、ほとんど採れなくなりました。環境が悪くなったせいでしょう。酸性雨などにやられたんだね。今は強い、本当に酸性雨に強いのが残ったんですね。
銀行にいたときは、とにかく無料サービスばかりしていて暇がありませんでした。私は趣味が多かったから、ある程度はね、暇があったほうが良かったんですが、麻雀は週に1回はやっていたし、囲碁は段を取っていましたし、その上に、こんなふうにキノコ採りもやるんですからね。暇を見つけてはこんな風に採って歩いたから、やっぱり人生はね、忙しい(笑)。
私は、青色申告会の会長をしてるんですよ。一時は、県の理事もやっていました。もう20年ぐらいになりますか、退職して2、3年経ってから就任しました。それと同時に商工会の監査役もやったりしました。
だいたい75過ぎてまで、青色申告会の会長など辞めて、若手に譲ろうと思ったんですが、ここだけは跡を継ぐ人がいなくて、困ってんですよ。だけど、そのうち今度は会員が減って5~6人しか残らなかったから、自然解散だなあって思ってるんです。もともとは60人も70人もいたんだけども、青色申告会の会員っていうのは、法人とは違って個人の人でないとなれない。だから、店の規模が小さい人たちだったんです。それがもう皆、津波で流されてしまいました。その中で合併前の名残で「志津川会」っていうのがあるんです。復興市にも数人会員がいます。
青色申告会は税務署と関係があるので、年に4~5回税務署から召集がかけられるんです。自分ではとうの昔に辞めたつもりでも、跡継ぐ人がいなくていまだに自分に声がかかるんで、困っています。気仙沼みたいに、選挙でなんとかならないかと思うんですよ。こういうのは、皆でやんなくては駄目ですね。
その他、文化関係では、志津川町の将棋クラブの会長もして、えらい損な気がしましたが、歌津町との合併を機に辞めました。
3月11日は、税金申告が終わって、片付けをして、我々夫婦と息子と3人で家にいました。地震が来たとき、廊下の壁と壁の間に腕を広げてつかまりました。古い家だから潰れるんじゃないかと思いましたが、補強したから地震では大丈夫でした。物も殆ど落ちなかったのですが、店の酒なんか落ちて割れてしまいました。家はやっぱり補強してあると違うなと思いましたね。
子どもたちは高台の学校に行っていたので、良かったんです。家のすぐ近くに海円寺というお寺があったので。軽乗用車に2人で、まずそこに逃げましたが、地震が収まってすぐに警報が出たので、すぐ上の保育所まで車で登りました。息子はそこから志津川小学校まで逃げたんです。
私は呑気屋だから、とにかく自分の愛車が津波を被っては惜しいと思って、「ここなら絶対大丈夫だな」って思える高台まで持って行って、自宅にトコトコ戻り、記念硬貨だの何だの、アルバム、カメラ、ビデオ、米まで全部2階に運んだんです(笑)。「まだ、津波来ねぇんだな。おかしいなぁ」とは思いましたが、最初、波の高さは6mという放送だったんです。情報は変わっていったけど、こちらは停電だし、携帯も電波が全く駄目で、情報が分かんなくなってしまったんです。それから、誰が叫んだか分からないけど、「来たっ!」というが聞こえました。「それじゃあ逃げましょう」って、トコトコすこし高い場所に登って津波を眺めたんです。
そうしたら、「おお水来たぞ!」と言う間に、道路沿いに水が来て、追われるようにだんだん高いところに逃げてったんです。そして、木の間から、自分のうちが波を被り、潰れ、そしてうちの近く全部が「ビリビリビリビリ」って音を立てて潰れていく様子が見えました。私も本当に、あと3分逃げるのが遅かったら終わりだったんだなあと思いました。
我々は街の中だから海岸の様子は全然分からなかった。家の中で津波が来るのを待ってた人も沢山いるわけです。うちの前には45号線が入っていますが、その奥の役場の方に行ったところの部落は、うちから500メートルぐらいの距離なのに、チリ地震の時、津波が来なかったので、そこの人たちは逃げないでいたんです。津波が来てから騒いでも、余程足の速い人でないと間に合わない。皆、流されていってしまったんです。
逃げる前は、折角集めた趣味のものなどが濡れると勿体無いと思ったから、みんな2階に上げたんです。最初っから津波が40分後に来ます、って言われればね、車にみな積んで逃げたのに、とは思いました。けれど、頭に北海道の奥尻の津波のことがあったんです。津波は震源が近ければ「5、6分で来る」っていうことが。だから「急げ」となったわけです。
その判断が大事。町側は津波が何分後にくるのか、全然発表しなかったんですよ。後から聞いた話だけど、浜の人たちはね、津波の前に水が引いたから、津波が来るまでに30分かかるなどと分かったそうです。娘に聞くと、東京では津波到達時間の発表があったそうです。ラジオなんか持って逃げている人はそんなにいませんでした。逃げる時は必死で、家に2台も3台もあるラジオを持ってく余裕がないんです。その余裕というのはどっから来るかというと、情報なんですよね。
あの日の情報は、「逃げろ、逃げろ」の一点張りでした。もし「到達は何分後」とか、「何を持って逃げろ」とか言われれば持って行ったと思います。地震が終わったか終わらないかの内に慌てて逃げたから、丸裸ですよ。文字通り裸一貫。80年働いて何もなくなってしまったんですから(笑)
最終的には志津川小学校の避難所に皆集まりました。裏が山になっているから山越えをして小学校に集合したんです。そこから、水もなければ食料もない。薬も持ってこなかったので、飲めませんでした。5日間くらい薬がなかったんです。1週間くらい経った頃、眼下のお医者さんに頼んでなんとか薬を出してもらいました。金を払うといったんだけど、「お見舞いだからいらない」って受け取ってもらえませんでした。
1日目はあきらめというか開き直ったって気持ちでしたね。誰も泣かないし、みんな笑ってましたよ。
犬はいましたね。猫はいませんでしたが。
あきらめムードではありましたが、ただあんまり心配はしていませんでした。小学校の校舎にはタンクがあって、水だけはあったから、大事にして飲みました。ただ、寒くて寝られないんです。食料は当日は何もありませんでした。ビスケットをポケットに1つや2つ持っていたような人もいたけど、殆どの人は何もなしです。次の日の11時頃、やっとおにぎりが届きました。
たばこは吸えなかったのですが、2日くらいは吸えなくても大丈夫ということを経験しましたね。みんなで体育館にいたので、余震がずっとあったけど、みんなでいたら怖くないという気持ちでした。でも、全然眠れませんでした。ただ横になるだけです。
震災から1年が経って、大分落ち着いて来ましたが、今度は自分の年齢のことなどをいろいろと考えてしまいます。国の対応も遅れていますし、移転希望や個別相談会もこれからで、復興には今から何年かかるかわからないですね。
前に住んでいた志津川にはもう住めないんです。本当は前の所に戻りたい。志津川ってのは、都会とは全然違って、みんな付き合いがあるからです。町内みんな顔を知ってる者同士ですし、銀行にいた関係上、近隣を2年ぐらい歩いたから、どこに誰が住んで、どういう人かってことが全部わかっているんです。
次住む場所は大体決まりましたが、これから必要な面積の希望をとってから買うことになるので、土地を手に入れるのがいつになるかわからない。しかも造成したらすぐに住めるわけじゃない。冗談でお寺の高台を分譲してくんないかとか言ったりします。被災者ってのは多くが70歳以上の人間ですからね。
家は、入谷の駅前、戸倉と湾サイドと3か所に分かれて移転するんです。私たちが住んでいたのは市街地だから、志津川高校の裏側と志津川小学校の裏側、それと湾サイドと同じ地区の人を、次も同じ地区に入れたいということなんですね。
もとの家の敷地は屋敷だけで400坪近くあって貸家もあるから、全体で500坪くらいあるのです。坪8万円とみているんですが、そうすると4000万が入ることになる。
しかし買い取りの代金がすぐに貰えないんですよ。替地する人たちが先になっちゃうんです。町にもそういう駆け引きがあるんですよ。被災地を買い取りするにも移転する人たちが優先になる。戻らない人は後勘定です。4年か5年後です。そうすると、先立つものがないから、家が建てられないんですよ。食べて行くだけの賃金を払う職場もないので、みんな志津川の外に出てしまいます。男はパートの680円や750円を貰ってもどうにもならないんですよ。
仮設住宅は今は無料で住めますが、3年目以降は賃料を払わなきゃならない。今、登米の仮設に来ている人も、志津川の方の仮設に入りたいと言って問題になっています。仮設が空いてればいいけど、空いてなければ志津川に移り住むことになり、補助金が出なくなることになります。自分で家賃を払って住むことになるんです。
私たちの今住んでいる佐沼の家は、小さい家だから認められましたが、2階建ての大きい家を借りた人は、登米市がみなし仮設住宅・賃貸住宅と認めなかったんです。書類に正直に書いたほうが悪いんです。2階はない物件を借りたことにすれば良かったんです。だれもそんなこと教えないから。
登米市は地元での死者が少なかったから、なるだけ余分な金銭を出さないように出さないようにしているのでしょう。私たちのようなよそから来た人には義理や、人情とかはないんです。
5人だから仮設住宅を2つ借りたんですが、狭くてね、いるところがなかったんです。そこから佐沼のこの家に移ったあとにね、テレビなどを借りることにしたんです。ある人に、6人で住むのなら、みなし住宅が仮設住宅として認められるということだったので、役場に行ったんですが、首を縦に振らないんです。仕方なく、自分で調べて、書類を一晩で書いてぎりぎりに出しました。おかげさんでテレビが借りられました。
それから市の人も家に廻ってくるようになりました。私はその人たちにいつも言うんですが、「70代の人にね、土地計画法第何条とか難しい専門用語を言ってもだめ、専用用語は使わないで話せ」って。銀行にいた私には、ある程度はわかりますよ。法律用語など、専門用語があまりに多すぎます。訳のわからないことを言う。「あんたたち自分のおやじさんに話すように話せ」っていうの。私にだってわからない法律がいっぱいあるんですから。
死ぬまでには家を建てなきゃいけないと思っています。だから、早くお金を貰えればいい。政府や国で早く土地を買い上げてくれ、代金を先に頂戴と言いたい。今高台移転で土地交換して家を建てたって1年はかかるんです。それが今から買収でしょ? まだ山で造成もしていないし、1年で収まらないでしょう。これから商店街や工場を形成することになるのですが、問題はそこです。高台移転したとしてもそこに雇用の場がないのです。もしこれを進めるなら自動車工場を引っ張ってくるとかすれば高台移転もスムーズに行く。
実は、私たちには売掛金で貸してあるのが台帳がないために取り戻せないでいるんです。地代や家賃が入ってこないところもあるし、そういう被害が大きいんです。自販機だって5台くらい持っていましたが。たくさん入ってたんだよ。売上げが少ないから毎日開けなかったけど。小金溜めてね(笑)。
酒屋の免許はありますが、再開しようという気はありません。息子はもう商売では食べていけないと分かっています。酒屋というのは、飲食店あっての商売で、ビールとか樽とか重いものを売って成り立つんです。一般個人の売り上げだけではだめなんです。復興市は観光客が来るので飲食店とおみやげは売り上げがいいらしいですが。
今、一番困っているのはね、水産加工業の人たちです。どこも人手が足りないのですが、復興需要で、建設業に携わる人は高騰し、農家の人たちは1万3千円、下水や側溝掃除に1万円が支払われますが、それより時給が低いんです。今から家を建てていくんだから、この傾向は5年は続くでしょう。また高台の土地は高くなり始めています。今、1人暮らしが20%くらいいるのではないかと思います。それに対しまともに働ける人がいる家庭なんてのは5割ないでしょう。食べていける給料を支払う職場なんてないのです。
今の時代は、みんななんだかせかせかしてて、振り回されて、人間の本当の信念がないように思います。
銀行にいた頃、融資する時、この人は支払い能力が危ないかな、と思っても、自分の信念で「この人には貸そう」「この人は助けてやりたい」と思ったら、支店長が何と言おうと稟議書を提出したもんです。信念を持って、やると思ったらやる人間味があったんです。今はそういうのは通じないんです。
今は機械でデータ分析してすぐに「支払い能力なし」でダメ。機械でやるのはいいけど、「なんでそうなるのか」という原理原則だけは知って使わないといけない。昔の調査係はね、親戚関係、親子関係を見て、大丈夫だって判断して貸したんですね。そういう余裕のなさがおかしいと思いますね。昔のように担当者が人を見る力と信念が必要だと思います。(談)
破顔一笑!
この本は、2012年3月~6月にかけ、
須藤衛作さんに宮城県登米市佐沼のみなし仮設住宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
久村美穂
織笠英二
大橋弘幸
中村道代
芝崎多紀子
田辺和子
播磨谷菜都生
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
中村道代
久村美穂
[発行日]
2012年11月28日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト