被災地では、昨年の夏、多くのひまわりが植えられ花を咲かせました。今年の夏も、各地でひまわりが大きな花を咲かせることでしょう。
ひまわりという花は、土を選ばず育ち、夏の暑さや乾燥にも強く、そして何よりも明るく元気なイメージがあります。幸田笑美さんのお話の中に小泉の避難所での「ひまわり温泉」というボランティア活動が出てきます。その「ひまわり」という言葉が印象に残り、音声でお話を聞き終えた時の「ひまわりのようなご家族だなぁ」と感じたままをタイトルにしました。
どんな時もお日様をまっすぐ見上げる「ひまわり」のような笑美さんは、幸田理子さんの娘さん。今はプレハブの店舗ですが、また新しい理容店を再開し、安定した生活が戻り、益々ご活躍されることを心からお祈りしています。
震災後、仮設住宅での生活がまだまだ落ち着かない夏の日、長い時間取材にご協力いただきまして本当にありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
2012年7月吉日
RQ聞き書きプロジェクトメンバー一同
幸田笑美です。昭和36(1961)年1月1日に、本吉病院(宮城県気仙沼市立本吉病院)で生まれました。
元旦生まれといっても、誕生祝いというのを特別にしてもらった覚えは無いんですよ。「私、ないよね?」って母に聞くと「世の中皆がお祝いしてくれるでしょう」って言われました。私の生まれた頃は、この辺はまだ旧正月でお祝いしていました。元旦生まれで良かった〜とか、そういうのはあまり無いですね。
当時は、ここの小泉(宮城県気仙沼市本吉郡)ではなくて、橋を渡った「芝」という部落に住んでいました。家族は、私と妹と両親、それに父の姉の5人です。父の姉というのが、離婚して、子どもがいなくて独り身だったんです。それで「弟家督」という感じで、父が姉の籍に入って、お嫁さんをもらったというわけです。今は1人世帯で、その人の代で終わりという家も結構ありますが、当時は「家」を継いでいくということが、とても大切だったんですね。
父の実家は小泉で、母は同じ本吉町の日門(ひかど)の出身です。父は森林組合の仕事をしていました。母は理容師です。父方の祖父は土木の仕事をしていました。母がお嫁に来るまで芝には床屋は無かったそうです。母は、それまでの家に手を加えて、自宅で床屋を始めました。
「弟家督」というのは、当時でもやっぱり少なかったと思います。お姉さんには子どもがいないから、母親が仕事をしている時は「どれどれ寄こしんさい」って、お姉さんが子守をしてくれて、それが夜になっても母に子どもを返さないってなると、実の姉妹なら「返してよ」って言えるけど、相手が(戸籍上の)お姑さんですからね。結局は女同士だから、いろいろ難しかったんだと思います。今はお嫁さんが強くなってお姑さんが弱くなって、だから、そんなに揉めないけれど、昔は逆ですからね。母は、「昔はお姑さんに仕えて、今は嫁さんに仕えて、何時になったらおれは仕えてもらえるんだ〜」って言ってます(笑)。
そうこうするうちに、両親は家を出されてしまうんです。やっぱり両親も「居られないね」って、芝にお姉さんを残す形になりました。私が5歳くらいの頃です。「子どもたちは置いて行け」と言われたそうですが、両親は、「子どもは自分たち夫婦のだから」って、私たち2人を連れて出ました。最初は小泉の父の実家(兄の家)の2階で生活を始めました。ところが、父の兄というのが夜になるとお酒を飲んで、「上がって行くぞー」って・・・。50年前のことですからね。結局そこにも居られなくて、当時牛を飼っていたので、その牛小舎の上の藁を置いている場所を、父が藁をどけて空けて、そこで親子4人で暮らし始めました。
そんな時、震災前の自宅の土地をお世話してくださった方がいて、本当に助けられました。その土地に、大工さんにお願いして小さい家を建ててもらったんです。田んぼの真中に土を盛って、35万円の家だったそうです。
より大きな地図で 本吉町日門-陸前小泉 を表示
今はこの辺も家が増えましたけれど、最初は、学校で航空写真を撮ると田んぼの真中に家がポツンと、学校の直ぐ脇なんで・・・。周りは田んぼでした。全部。
最初の家は、本当に急遽建ててもらったので、お店をメインにして、直ぐ脇に茶の間兼流しがあって、戸棚も無いからりんご箱を代わりに使うような生活でした。廊下が無い家だったんです。流しとテーブルがあるからそこが茶の間で、それに6畳間1つと4畳半。この4畳半に住み込みの職人さんが居ました。
芝を出てくる時にもらって来たのがお茶碗。母が嫁いだ時に持っていった物です。お茶碗の他には、父がわずかな独立費用をもらっただけ。舎弟家督だったから、母の稼ぎも含めて自分たちが仕事したものは全部、毎晩お姉さんに出していたみたいなんです。それで母は1銭ももらえず。当時家を出されるというのは、それが当たり前だったそうです。両親は、本当に一生懸命頑張ったと思います。
その頃は床屋もちょうどうなぎ昇りに景気が良くなる時期だったんです。最初は100円、200円からやったんだけど、トットトットと景気が上向きなのに助けられて、小泉に来てからは生活が安定しました。
そのうちに、田んぼを譲ってもらっては廊下を作り、台所を作り・・・と増築しました。私が中学へ入る時は、畑にしていた土地に増築して2階を上げてもらって、2階の4畳半と6畳間が子ども部屋になりました。私が中学3年生になった時には、家を建て替えました。ウチの父は津波で流される前の家まで、6回も建前(たてまえ:上棟式のこと)をしてるんです。
と言うのも、家の目の前の川が県河川で、その整備用地にお店の部分が少しかかって、最初は家を引っ張って移動するつもりができなくて建て直したり、家の脇を45号線が通っているから、一度は道路幅で取られて、次は歩道で取られたりして、その度に家を建て替えてきたんです。
家を建て替える度に、県や国で補償してもらって借金しないから、「なんだいねぇ〜」という地元の人たちのヒガミみたいなのもありましたよ。やりたくてやったんじゃないんだけどねぇ。だから、ウチのお店は、歌津とか二十一浜(にじゅういちはま)とか蔵内方面のお客さんが多いんです。
笑美さんの描いてくださった、最初の三角の家の間取り図
笑美さんの家の近所の風景
小泉に出て来た時は、出たくて出て来たわけじゃなくて、出されたんだけれども、周りの人からは「お祖母ちゃんを独りで置いて来た」って言われて、「そういう家の子とは遊ばない」っていうのが子どもの世界にもあって、私と妹は、橋を渡って芝まで遊びに行きました。その頃は大橋って長い1つの橋じゃなくて、橋2つ、大橋と古川と2つ渡って行ったんです。芝の人たちは、私たちが遊びに行くぶんには遊んでくれました。
小学校は小泉小学校です。同級生だけでも小泉の町に7〜8人いたので、段々にいろいろわかってくれるようになって、地元でも遊べるようになりました。幼稚園は、当時は川の下の方にあって、そこに通いました。小泉幼稚園です。小学校は今と同じ場所にありました。当時は平屋の木造校舎でした。中学校は、今は「はまなすの丘」という老人保健施設の場所にあったんですよ。
私が小さい頃、家には職人さんが居ました。住み込みです。昔の職人さんは真面目で、独立する日まで一生懸命やるという風だったんですが、ちょうど私が小学校4年生の頃の職人さんが、夜になるとちょっと出ていって彼氏の所へ会いに行ったということがありました。両親としては、一応よそのお子さんを預っているんだから、間違いがあっては困るからって、その人が独立した後、職人さんを置かないことにしたんです。
父は森林組合で山へ行って4時とか5時には帰ってくるので、それからは、父がご飯を作ってくれました。今みたいに電気じゃなくてガスでしたね。
お店を2人でやっている時は、ちょっと暇を見つけて、お客さんの合間に食事の支度をするとかできたんですけど、母は忙しくて無理になって、子どもはお腹が空くから待てないでしょう? それで父が食事を作っていたんだけど、ある日「ちょっと来い来い」って呼ばれて、親に呼ばれれば行きますよね? そうしたら「手を入れてみろ」と言われて、お米を研いで水を張った上に手を入れて、「お前、どんなに米を研いでも、1升でも2升でも、手、こう洗って置いて、水をここまでやれば米が煮えるから」と教えられて、それからは私がご飯を作るようになりました。私が4年生で妹が2年生の時です。
小学校の家庭科で調理実習があるのは小学校5年生からですよ。お米が何合に水がこの線まで・・・という方法を習うより先に手で計る方法を覚えたから、私は、それ以来ずっと手ですね(笑)。父も仕事から疲れて帰ってくるし、女の子だし、やればできるだろうと思ったんでしょう。難しいおかずはできないけれど、目玉焼きとか段々覚えて、遊んでいても4時半には帰って来て食事の支度をするようになりました。
ウチは両親が結婚する時に船を持って組合員になって、漁業権も持っていたので、夏はウニ獲り、11月はアワビ獲り。畑もあったので、大根とか白菜とか、そういう物を食べて、おかずって特別に考えたことはないですね。
私が小さい頃、昆布の開口と言うのもあって、その日は赤崎海岸に親が船で昆布を持ってくると、それを私と妹で伸ばして干して、夕方になったら全部まとめて家に持ってきて、そのままだと乾いてガリガリになっているから、少ししとらせて(湿らせて)長さを揃えて切り分けて、業者に買ってもらいました。
芝から出てきてからは自力で生活していくしかなかったから、ワカメでも昆布でも、現金になるものは私たち子どもも手伝ってやりました。
ウチは、畑も海も家族全員でやります。母のお店のお休みは月曜日、父の仕事の休みは日曜日だったから、みんな一緒のお休みがないでしょう? だから、朝5時に起きて7時まで畑をして、それから朝食を食べて両親は仕事、私たちは学校へ行って・・・。
とにかく家族みんなでやるんです。1年365日で家族全員お休みというのは元旦だけ。元旦だから、そんなに寝坊もできないんだよね。私たちは、そうやって手伝うというのが当たり前で育ちました。農作業も漁も、家族全員でやるもんだと思っていました。
※震災前の美しい赤崎海岸の様子が、写真入りで「身近な松原散策ガイド」 などで紹介されています。
高校は、気仙沼の響(ひびき)高校です。
高校を卒業すると、親がやっているから「床屋やらないの?」みたいな感じで、でも近くで仕事を見てると「やだなー」って、休みが無いんですよ。いくら「今日はお休み」って言っても、お客さんはポコって来て、粘って待ってればやってもらえるって・・・。
早い人なんて本当に朝早いですよ。私たちがカーテンを開けると待ってます(笑)。都会なら営業時間は朝9時〜夜7時ってあるみたいだけど、家でやっている時は、朝6時に起きればカーテンを開けて、お客さんが来れば夜の9時でも10時でもやりました。仕事が終わったら12時過ぎなんてこともありました。9時に来てパーマかけるって言うんだもんね。
学校は一関の方へ行きました。今になって思えば仙台の学校へ行けば良かったんですよ。一関は雪が凄いんです。
この辺は10センチ積もれば除雪車が飛んでくる。スタッドレスタイヤなんて本当はいらないくらいです。それが馬籠の坂を登ると雪が多くなるんです。だから、「靴欲しいでしょ?」って親がショートブーツを買って送ってくれたんだけど、足りない。丈が膝まであるブーツじゃないと使いものにならないんです。あっちに行ってそういうブーツを買って、こちらに帰ってくる時、駅まではそれが普通のスタイルなんだけど、気仙沼から本吉の間まで来ると、皆にジロジロ見られるの。「それ、何?」って。
それを履いて帰って来たら、おばあさんに「あんた、そんなハイカラは水田靴(長さが膝まであり、水田の泥の中でも脱げにくく、歩きやすい長靴)履いてー」って言われました。田んぼで履く水田靴ね、あれ、ピタってなってて、確かに水田靴に近いんです。とにかく機能優先です(笑)。
私は寮に入りました。当時は、専門学校が1年間でした。寮といえば、太い梨の木があって、学校と寮は少し離れていたから、毎日の行き帰りに見ていたんです。実が段々大きくなってきてね、貧乏生活の寮生活だから、「これ、食べても良いのかなぁ?」って。ずっと見ていても誰も、もがないんです。
それで、電話をかけに行った帰りに1個もいできて、食べれるんなら食べよう、食べれなかったら諦めようって。1個をみんなで剥いて食べたら、すんごく甘い20世紀梨だったの! 一晩で全部もいで、美味しかったですよ。寮には女の子も男の子もいたから、みんなで「ちょっと高いところお願い」なんて。一晩で全部だから、寮長さんは、朝になったら1個も無いから「何来たんだろう?」「何か動物が来たんじゃねぇか?」って、そんなことがありました(笑)。
1年しか一緒じゃなかったけれど、その1年がやっぱり濃かった。和気あいあいでしたね。卒業後は、みんなバラバラです。やっぱり一関方面にいる人が多いです。私も先生のところに「お願い」って、一度職人で出ようと思ったんだけど、母がヘルニアをやって足が痛いから「家を手伝って」って言われて、帰って来ました。
専門学校を卒業して家に帰って、親がそろそろって感じで「この人とお見合いしたら」って、うるさかったんで、「えー」って何もわからないうちに結婚したんです。両親もお見合いだったし、母も20歳くらいの頃結婚したみたいだから「あんたもそろそろ」って。「えー、なんだか嫌だなぁ〜」って言いながらも、なんか断りきれずにやっていたんですね。あちらも「結婚してみたかった」くらいの気持ちで、5歳年上の方でした。
20歳で結婚して、1年くらいで別れました。理容関係の仕事の人ではなかったし、私が家で仕事をして、終わって上がってきた時には、相手はもう・・・。すれ違いっていうんでしょうか? 「やっぱり、いやだ」って。お互いに結婚生活や相手に対する理想もあるし、生活の違いが大きかったと思います。
その後29歳の時に、お店のお客さんだった人と再婚しました。30歳で第1子を出産しましたが、ウチの一番大きい息子が幼稚園の時に別れました。
それが、一番下がお腹にいる時です。妊娠3カ月くらいで、つわりがひどくて。でも職人で雇われてるなら「気分悪いから休みます」って言えるんだけど、それもできないから「ちょっとごめんなさい。寝ます」って、お客さんの居ない時間に毛布を持ってきて休むような感じで、パーマをかけるにもロットを巻いたら「ちょっとごめんなさい」って、吐いて戻って、また仕事・・・。
子どもも2人いて、お腹にもいて、親に「まだ妊娠3カ月だからどうする?」って言われたけど、やっぱり産みました。仕事をしながら、両親にも一緒に育ててもらったという感じですね。ただ、結婚生活で得るものはあったと思っています。
子どもは、今年20歳の息子と高校2年生の娘、中学3年生の息子の3人います。子育ては、「楽しい」というのもあるし、「大変だ」というのもあリますね。
下の2人は丈夫なんです。どちらも1回ずつ熱性けいれんをやったくらい。ところが一番上は弱かった。1歳4カ月で熱性けいれんをやって、喘息をやって・・・。入院している時に、体を拭いていたら、「あれ? 変だなぁ〜」って。「外科で見てもらったほうが良い」と言われて見ていただいたら、「鼠径ヘルニアです」って診断されて、素人には「何? それ?」って。
で、子どもが寝ている時に本屋で調べたら「ヘルニア」ってあって、その下に「脱腸」って。それで、「ああ〜、脱腸ってこういう感じなんだ」とわかったんです。
それで、喘息をしょっちゅうやっていたので、「一度家へ帰ってから手術しましょう」と言われたんだけど、「帰ってまた喘息出ると困るから、このまま病院に居るうちにやってください」ってお願いして、病室だけ変わって手術してもらいました。
今は3種混合ワクチンだけど、一度だけ4種混合ワクチンだったことがあって、その予防接種の後、具合が悪くなって入院したこともありました。一番上が全部背負っちゃったのかな? もう、何回病院へ行ったの? 何回救急車に乗ったの?っていう感じ。
3歳くらいまで、本当に手がかかりましたね。今もかかるんですけどね・・・(笑)。
子どもたちが学校に通う頃は、幼稚園が小学校の直ぐ下、その上が小学校、中学校が今の場所に移動して1列に並んでいて、海の方から順番に山の方へ通うんです。ウチは、学校が近いから忘れ物をしても休み時間に知らん顔をして戻って、10分休みで往復してましたね。
結婚して、子育てしている頃も、基本的に食生活は変わっていません。海で獲ったもの、畑で採れたものを食べてきました。
ウチは冷蔵庫を3台くらい動かしていたんです。ワカメの時期には、お客さんにもいただいて、買うってことは無いんですね。ウニを獲ってきても、実は私、ウニが嫌い。1個なら食べられるけどね。とりあえず作るだけ作ってポンと冷凍してね。獲ってくる量も半端無いんですよ。「バンジョ(万丈籠)」って入れ物があって、そのバンジョに3つくらいてんこ盛り。コレ測れば100キログラム位になるんです。
ブルーの四角い籠が万丈籠
畑仕事は、ウチの子どもたちも、私が子どもの頃と同じように、みんなでやります。今の子どもには「俺には関係ねぇから」とか言う子もいるみたいだけど、ウチはみんなで早起きしてやります。家の行事ですね。子どもを連れて行くようになってからは、「コレが終わったら、ここでバーベキューすっぺしね」って。
芋掘りをやる時は、全部分担制。小さい子も、小さいなりにできることをやります。雀や虫が来ないように糸を張ってるのを、大きいのが外して、2番目が芋の茎を抜いて、私たちが芋を鋤で掘っていくんです。で、芋が出るでしょう? ちょっと乾いた頃に、今度は下が拾って集めます。だから、私たちが掘り終わった頃には、もう集め終わってる。自分の仕事が終わったら、芋を集めて片付けを始めるから結構早いんです。
ウチでは7月の20日あたり、学校が休みになったら芋掘り。3月、4月になれば蒔く。そろそろ苗を植えるとか、白菜は何時とか・・・。子どもたちもわかっていて予定を空けておいてくれます。
今も、大きい息子も一緒に暮らしています。6人一緒です。私が独り身だから、高校を出ても家を出ることは考えなかったみたいです。
本当は公務員になりたかったの。8月までは受験勉強していたんだけれど、「宮城県は採らないから、このレベルなら千葉とか行けば採用になるから、やりたい仕事があるなら千葉とかへ行ったほうが良い」って面談で言われて、「じゃあ、やめます」って。どうしても事務がやりたいからって、気仙沼の船のエンジンを直す会社に入りました。
息子がその会社に入ってから、カツオの巻き網にかかったマグロ(ビンチョウマグロ)をもらってくるんです。マグロを食べる回数が増えましたね。袋に入ってポンって渡されるから、最初はカツオだと思って「明日はアラ汁だなぁ〜」って言うと、「母さん、それマグロだよ」って。食事は基本的にそういう感じで、時代が変わっても同じですね。
今高2の娘には後を継ぐか?って話もあるんだけど、お嫁に行く人だから制限することはしたくないなぁと思います。今の御時世で就職が厳しいといっても、津波でお店も流されて何も無いですからね。
被災前の理容店。サインポールが見えます
この仕事、傍で見てるより大変なんですよ。母もヘルニアで腰を痛めましたが、私もヘルニアやってひどかったんです。昔はコンクリートの床でしょう? コンクリートの上にクッションフロアを2重に敷いて柔らかくしてやるようになっても、それでも冷えるからね。昔の理容師は腰の悪い人が多いと思います。
その日は12時までお店で仕事をして、床屋ですね、マツモの開口だったので、1時〜2時は海にいました。開口の日にどこで採るか!? 場所は自分たちで決めるから、12時ギリギリまでお客さんをやって、海へ行って場所を探して、サイレンが鳴るんです、合図です。で、2時まで。いつもは終わりもサイレンが鳴るんだけれど、その日は鳴らなかった。でも、「だいたいもう2時だよね? 物も無いし・・・」って大きなゴミ袋に2つくらいを軽トラックに乗せて家に帰って来ました。
マツモの開口「ひむかのハマグリ」
籠いっぱいに収穫されたマツモ 「ひむかのハマグリ」
寒かったんですよ。それで、こたつにあたって、テレビを見ているうちに地震です。採ってきたマツモは根っこを綺麗に取ってから出荷なんです。「根っこ取んなきゃね〜」って、母に言われたんだけど「テレビが今好いところだから、終わったら〜」なんて話をしました。
1回目の地震では津波が来ると思ってなくて、水槽のこぼれた水を拭いていて、そうしたら2回目の地震が大きかった。テレビが切れたんです。で、テレビの大元が切れたと思ってないから「何で、こんな時にテレビ消すの? こういう時は逆に点けなくちゃ」って言ったら、「いや、何もしてない。切れたんだ」って。「えっ!? じゃあ、電気来なくなった?」そんな感じでした。
外を見たら幼稚園の上に消防車がいる。普通なら「避難してください」とかサイレン鳴らすはずの消防車が上にいる・・・。ウチはペアサッシだったから、外の音が聞こえないんです。家自体は全然壊れていなかった。なんか、静かで、よくわからないから、怖いし、危ないかもしれないって、庭にあった軽トラでワゴン車のところまで行って、ワゴン車に乗り換えて家まで乗ってきて、「まあ、とりあえず避難しましょう」って。
ウチは庭が狭いので軽トラ1台しか置けない。運転がそんなに上手じゃないから、ワゴン車は近くに土地を借りてそこに置いていたんです。走ってワゴン車を取りに行くのは危ないと思いましたね。家が崩れたら軽トラも潰れるから、ワゴンを置いてる場所なら何もないから、そこに軽トラを置いて、私たちはワゴンで逃げようって、それくらいの考えでした。
1年前の地震で避難した時に、直ぐ帰るつもりで特に何も持たなくて、とりあえず「避難しろ」って言われるから行きましょうくらいの感じで避難してみたら、みんな凄いの! 他所の人たちは、おやつ一袋に、着る物に、あれもこれも・・・って。私は、何も持たずに来ちゃったから「あ、なんだ、持ってくれば良かった〜」って。その時は、3〜4時間避難していました。
で、今回はその時のことが記憶にあるから、一応、毛布1枚とお菓子を少し持って行きました。まさか、帰れなくなるなんて思わないから「こんなもんでいいかなぁ〜」って感じです。「おばあちゃんたち、今ワゴン持ってくるから、外に出て待っててね」って。戻ってきて、直ぐに出発して上がってみたら、向かい側の赤崎海岸の海の方がもう津波でダーって一直線になっていて、それでも、上に着いた時は、「ウチは屋根も大丈夫だし、家に帰ったら今夜片付け大変だねぇ」なんて言ってたんです。それが直ぐ目の前に津波が見えて「え!? 何? どうしよう??」そんな感じでした。
まさか家が流されるなんて、思ってもみません。赤崎の方に1回目、2回目と津波が来て、3回目の津波と言うんでしょうか、その次の波が町まで入ってきて、その波で、ウチの脇の物置に入れてバイクとかがスポーンと出たんです。おばあちゃんのラクーター、息子が去年買った50ccのバイク、おじいちゃんのバイクも、ものの見事にスポーンと「あ、流れた」って感じでしたね。その後、鉄道の上から津波が落ちてきた。
テレビでも映してたよね? 高いところから落ちてくる力ってあるじゃないですか? その落ちる力と、45号線の橋と橋台の間から上がってくる水と両方で、ウチは家の基礎をベタコンって全部コンクリートで一つになっているやつだったから、そこから家がまるごと浮かされた感じになったんです。
「えっ? 家が浮かされた。流れてる」って。おじいちゃんもおばあちゃんも、「こういう時は泥棒が来るから家を見てなきゃ」って、「ふ〜ん」って見てたら、「あ、ウチの船、流れてきた」って。「きゃー」とか、そんな声を上げる余裕は無かったですね。
それで、私たちが見ている場所も危ないから、車を置いて逃げるように言われたんだけれど、親は足が痛いから、最後でいいから、とにかくみんなが行った後から車で行こうって、途中で歩けないおばあちゃんたちも拾って小学校まで行きました。それで、そこもダメってなって、もっと上の畑に車を置きました。
おばあちゃんたちは一度車を降りたんだけど、とても寒くていられないと思ったから、車の中に入ってもらって、私が外で様子を見ていました。あの時、軽トラだったらどうにもならなかったでしょうね。軽トラも土手の下の方にコロッと落ちたところまでは見ました。まだ見つからないですね。
海から見た津屋川・小泉の町 宮城県HPより
私の妹は歌津に嫁いでいて、なんとも無かったんです。それで、妹の家からバッテリーだ、車だ、って借りてきて、下の避難所に貸していました。それに、ウチは歌津のお客さんが多かったから、いろいろな情報が入ってくるんです。聞くと、歌津と小泉では様子が違う。あっちは支援物資が来たのはみんなで分けて、食べる物も支援があって、ご馳走になって・・・って聞くんです。
ところが、ここは、私たちが入った時点で200人の食事を私たちが作って食べて、いろんな物資は来るけど「ありがとうございます」って頭を下げてもらって、そのまま上の体育館に上げさせられるんです。水も上。ペットボトルに入った水じゃなくて、四角い箱に入った下で開けるタイプの水も全部。だから、水を飲む時は自衛隊が持ってきてくれたタンクの水を飲むんです。凄い塩素臭くて、コーヒーの味も「変だよね?」って言うくらい。公民館の館長さんがリーダーっていうか、その人の指示で避難所は動いていました。
専門学校時代の友だちが、みんな心配してくれてインターネットで調べたら、同姓同名、フルネームで同じ人が志津川で亡くなっていたそうです。それで「幸田、ダメになったー」って言われたみたいなんだけど、そのうちに「年齢が違うぞ」って気づいてくれて、よく見たらこっちにもあるって、電話をかけてきてくれて「見に行かなきゃいけない」って。
「大丈夫よ!」って、すごくアッサリ言っても「そんなことないよ〜。みんな大変なのわかるから」って。「来なくていいよ、みんなの顔を見たら泣いてしまうから、来なくていいよ」って。そうしたら、「前の住所で良いの?」って。「大丈夫」って話したら、いきなり大きな箱が送られてきて、日用品がゴッソリ入っていました。これは本当にありがたかったですね。
今は仮設住宅に入っています。5月の17日に鍵をいただきました。15日くらいに「入れるようになった」って電話があって、みんなに「あんたたちばかりズルいよねー」とか言われながら2日間過ごして、17日に母が説明を聞きに行ったら「明日、鍵を渡されたら、その人は自立とみなしますから」って言われたそうです。
米も無いんですよ。何号室って鍵をもらって、妹から軽トラック借りてきて荷物を運んで、とりあえず荷物は詰め込んで、家の中を見たんです。女だから見ますよね? 釜も包丁もある、一応プラスチックの食器もある。スプーンでもなんでも、とりあえず「有る」。大丈夫だなって思いました。「でも、米無いよね」って。水と電気はあるけど、「何を食べるの?」って。おかずも無い。
避難所で物資というか食事で缶詰を配る時、ウチは6人家族だからそのうちの3個くらいを開けて、3個は残すようにしていたんです。だから、そうやって取り置いた物を食べるしかないねって。
仮設ができるより前に、自分たちでアパートを借りて出ていく人には、お米を30キロの袋であげていたのを見ていたから、何で私たちにはくれないんだろう?って思いました。それで、夜に「すみません。お米がなくてご飯が食べられないから、今夜と明日の朝だけ、ここで食べさせてもらえませんか?」ってお願いしたら、「は? 昨日言ったでしょう? 鍵をもらって出たんだから、ダメです」って言われたの。
避難所の朝食が7時で、息子は仕事に行くのに朝早いから、息子だけは、夜のパンを食べずに残しておいたのを食べて仕事に行っていたの。だから、その時は私たちも同じように残しておいたパンを食べてしのぎました。で、次の日妹の所へ行って「ちょっと米ちょうだい」って分けてもらって、その夜から食事を作れるようになりました。
仮設の中にはお布団も2組しかなくて、1DKは定員が2人なんです。それでもお布団は2組。ウチは6人家族だから3Kに入ったんですけど、2組しかないから両親に使ってもらって、私たち4人は、妹のところから借りてきて、敷いたり、着たりして過ごしました。
妹のところも家が無事だったとはいえ、大変だったと思います。
ところが、避難所の人たちは、私たちが17日に出た後、20日に溜め込んだ物資を「こんなにいっぱいあんだから、これ、みんなで分けよう」って全部分けたそうです。だから、私たちより後から出る人は、みんな凄い物持ちです。ある避難所では6人いれば布団もちゃんと6組あったという噂もありました。
他のいろいろな話を聞けば聞くほど、「ウチは、なんだろうね〜」って悲しくなります。仮設に入っても、用事があれば避難所へ行くよね? そうすると「仮設来るな〜」って言われるの。「すいません、電話帳がないので、電話かけるのに、電話帳貸してください」ってお願いして、係の人に「どうぞ」って許可をもらって電話のところに行っても、「お前、仮設だよな? 仮設の者、ここに入ってきちゃなんねぇんだから、来るな!」って言われるの。本当に凄かったですよ。
子どもたちも、それまで避難所に一緒に居たから、子どもだもの、行ったり来たりするじゃないですか? それを「早く出て行け」って、箒を持って追われたそうです。他の子どもたちはパーッと帰ったらしいんだけど、ウチの子は最後まで残って、後片付けをしてから帰ってきたそうです。「お前の家の子、来たから怒ったら、片付けてから帰ったよ」って言われました。「友だちの家へ遊びに行ったら、必ず片付けてから帰って来いって、小さい時から教えてるから」っていちいち説明しなくちゃいけなかったりね・・・。
今まで知らない人じゃない、店のお客さんや、いつも話をしているような人たちまでが、「え? この人、こんなこと言うの?」って。「今までこの人こんな言葉使わなかったよな」とか、本当に辛いですね。小泉という所は、陰険なっていうか、嫌味を言うような土地柄ではなかったし、本当に驚くことばかり、悔しいくらいです。
避難してきて2カ月くらいの頃に、ハサミと櫛をいただいて、その時はひまわりおじさんのシャワー小屋を一つ借りて、みなさんの床屋をやりました。外では風が強くてできないの。「やってちょうだい」って言われて、やってみたんだけど無理。それで、ひまわりおじさんのシャワールームが、手を洗う用に一つ空いていたから、おじさんに「これ貸して」ってお願いして、「良いよ」って。
狭いの。私が動けないから、お客さんに動いてもらってやりました。
震災直後から精力的な支援活動を続けておられたひまわりおじさん
震災前、息子が2年間働いた給料は銀行振込みで、仕事を始めてから一度も下ろしたことが無かったんです。ボーナスだけは社長さんが東京から来て手渡しだったんだけどね。
息子の小遣いは、私が仕事したのから渡していたから、給料はそっくり銀行にあって、手付かずだったんです。通帳は私が預っていたし、キャッシュカードを作ったのに、本人、暗証番号をわからなくなってしまって・・・。お金を下ろせるのは私だけ。
それで、震災の3日前に、息子にハンコを渡されて100万円下ろしてあったんです。半分の50万円で車検を受けて、残りは普通貯金に入れて携帯の引き落としに使って、もう半分の50万円は食費として「おばあちゃんに出そうね」って話していたんです。
100万円の束、「1枚だけ持っても、これ帯が付いてっから落ちねぇぞ」とか「何センチあるか、計ってみろ」とか・・・、家に置いて遊んでたんです。地震で一度家に入った時も、部屋まで行って「ここにある」って見たんです。息子が戻ってきて「母さん、あれ持ってきた?」って聞かれて、「ごめん。持ってこない」って。息子も一言だけ「うん」って。ショックだったんだろうけど、流してしまったのが私だから、二度と「あれ、あったらね・・・」とか言わない。「もう諦めてやるっきゃないねー」って。本当に何もかも流れてしまったからね。
流された家は、壊れた一部が、町の真ん中辺りにありました。地震の次の日がバスケットの試合の予定で、親の会で役をやっていたから、応援の旗とかいろいろ玄関に準備していたんです。それが、公民館の近くで見つかりました。
旗だけは持って帰ったけど、他は見つからなかった。その場所からズーッと奥に私たちの部屋の2階の物があった。いろいろなところで少しずつ見つかるんですね。ウチの親も芝から出てきて苦労して、物をすごく大事にするから、家にはお客さんが大勢来ても良いように、布団でもなんでも沢山あったんです。その布団が上の方に全部ありました。たまたま和ダンスを見つけて「ここに、和ダンスあるね。誰のだろうね?」って見たら、私のだったんです。
まさか自分のとは思わないから「似てるなぁ」って。それで、娘も一緒にいたから、「ちょっとごめん」ってギリギり開けて引っ張ってみたら私の着物だった。それがこの避難所に来て3日目のことです。
着る物が何もないから、和ダンスの引き出しに、まだ使っていないエプロンを入れていたのを思い出して、妹の同級生の家からハンマーを借りてきて、タンスの裏を壊して中の物を出したんです。エプロンの他には、子どもたちが習っていた太鼓の紐も持ってきて洗いました。今着ているエプロンも持ってきたの。親が、ウニだ、アワビだって一生懸命やって貯めて買ってくれた成人式の振袖も一応持ってきたんだけど、おばあちゃんたちに「もう無理だからあきらめろ〜」って言われて、「でも一応・・・」って。さすがに投げる(捨てる)に投げられないですよね。
5月の末に、このプレハブの建物を買って、土地を借りて、一応床屋なので保健所の許可をとったり準備をして、6月半ばあたりから仕事を再開しました。
この土地は、芝から出てきた両親が最初に家を建てた時からずっとお世話になっている大工さんの土地なんです。もう少し仮設に近い土地もあって、はじめそっちの土地をお願いしたんだけど、それは一発でダメって断られてしまったの。妹の家の近くの南三陸町に行くか?って話もあったんだけど、やっぱり仮設と離れると結構大変で、7時まで店をやってると、ここでも「まだ?」なんてこともあるから、これ以上遠いのは難しいなぁと思います。
両親も年をとっているので、とにかく新しい家を建てて、プレハブじゃない店を、もう一度持ちたいですね。また、家で仕事をしたいと思います。やっぱり小泉がいいね。漁協にも船をお願いしていて、海へも行きたいと思っています。全員が船を揃えたら、また開口もするって聞いています。そうしたら、2〜3年後には海に出て漁をして、お世話になった皆さんにご馳走したいんです。それが楽しみですね。(談)
取材を受ける笑美さん
プレハブのお店の前で記念撮影
このお話は、平成23年7月31日、
再開したお店にて、幸田笑美さんにお話いただいた際の音声データーを元にまとめたものです。
[取材・編集協力]
時川拓也
鈴木ゆか
柿原富久美
渡邊裕美子
河本真吾
広瀬敏通
[年表・編集]
河相ともみ
[発行日]
2012年7月
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト