狂言に「福の神」というのがあります。2人の男が、福の神の社に年越しのお参りにやってきて、参拝を済ませて豆をまきはじめると、高らかな笑い声がして福の神が現れます。福の神は自分から名乗ると神酒(みき)を催促し、酒奉行である松の尾の大明神に神酒を捧げてから自分も飲み干します。そして、「豊かになるには元手がいる。元手とは金銀や米などではなく、心持ちのことだ」と諭します。さらに、早起き・慈悲心・隣人愛・夫婦愛を説くとともに、「私のような福の神に美味しい神酒をたくさん捧げれば楽しくなること間違いない」と言って、謡い舞い、朗らかに笑って帰っていくのです。
ちよしさんのお話を伺っていて、このお話を連想せずにはいられませんでした。お酒が好き、人も好き、手作りも好き、そしてあの周りを笑顔にする笑い声。ちよしさんを見ていると、「福の神」は、「青い鳥」と同じで、探しにいくのでなく、自分の家ではぐくむものだと教えられたような気持ちになります。
貴重なお話を聞かせてくださったちよしさん、そしてこの企画に多大なご協力をいただきましたご家族の皆様に、この場を借りて、心からの感謝を申し上げます。
2012年4月21日
RQ聞き書きプロジェクト チーム一同
私は大正13(1924)年2月20日、気仙沼市の柳沢(やなぎさわ)に生まれました。名前はひらがなのちよしです。この発音が難しいわね。昔の名前だからさあ、ねえ。
私はね、8人きょうだいの長女なんです。昔は、どこの家でも、子どもは7~8人が普通なの。弟が5人、その下に妹が2人。私が生まれてしばらくは、男ばっかり生まれたから、女のきょうだい欲しかったけど、さっぱり。大きくなっても、おすばて(おつまみ)作りとか話の相手とか、自分ばっかりお手伝いに呼ばれたね。
ちっちゃい頃、どんな遊びしてたかって? そりゃイタズラばかりして怒られたよ。おもちゃも何もないんだもの。お父さんもお母さんも厳しいの、厳しいの。弟たちがイタズラしたのも、お姉ちゃんだから、私が怒られるの。お姉ちゃんだから。弟のことをよく見ていないの、どうのこうのって。怒られながら大きくなったわけだ(笑)。
イタズラはどんなって? 弟が、おもちゃって言ったって買ってもらえないから、自分で何か作ろうと、なんかこう削ったりしてるうちに、刃を欠いで使えなくしてね。今のように買いやすくないのよ、そういう道具は。だから大人が困って。ちゃんとイタズラしたのがわかるから、私が怒られるの。「弟のこと、ちゃんと見てない」って。
実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
ここはお正月っていうと、稲こきをするんです。今ではみんな白米になってくるけんど、昔は稲こいで米にするまでには時間がいっぱいかかんの。1年使うくらいの米をこいだんです。お父さんが帰って来ないとできないの。
そうして家でお父さんの帰りを待ってるんだけど、さっぱり帰ってこないのよ。帰ってこないし、手紙も何もよこさないし、電話ももちろん無いからね。待てど暮らせど帰って来なくて、「はぁ、どうなったんだよ」って。そしたらば、「とんじさん」、知ってますか、あの富山の薬売りです。家々(うちうち)に置き薬をしに、富山から来る人。その人がね、金持っていて、大盤峠(おおばんとうげ)で殺されたってことを聞かされたんです。お父さんが横山へ行く途中にある、あの大盤峠です。うちのお父さんもさっぱり帰って来ないし、近所のお爺さんが「殺されたかもしれないぞ」って言うから、「あら、なんと今夜も帰らない、お父さんは本当に殺されたんじゃないか」と気が気でありませんでした。それが今でも心に残ってんのよ。
ようやく、年越しの晩、私らが寝た後、お父さんが遅くに帰って来てね。いやいや、いやいや。行った先で、荷鞍がグラグラしねえように固まらせる作業を、「うちらのも拵(こしら)えてけろ」「うちらのも拵えてけろ」って、みんなに頼まれ引き止められてたわけ。そういうわけで、お父さんは年越しの夜に歩いて帰ってきて、正月にギリギリ間に合ったんだよ(笑)。わたしがちゃっこい(小さい)ときのことだけれど、でも私がきょうだいで一番大きくて、下に弟たちがいっぱい、いましたからね。
私は、学校は、尋常小学校にだけ行って、そのあと東京に奉公に出たの。だから難しい話も、書くこともわかんないの。その頃は小学校のあとに、高等1年と2年があったのね。入んない人も半分くらいあったでしょうね。
東京に出たのは小学校を卒業してすぐでした。昭和12~3(1937~8)年頃だね。それで、東京の四谷区に5年いて、子守の奉公したの。弁護士の旦那さん、奥さん、5人の小さい子ども、書生さんがいる家でした。うちの田舎の兄弟は貧乏だから、みんな自分のことは自分でやってたけど、東京の子どもは、みんな「姉(ねえ)や(お手伝いさんの呼び方)、それも、これも」って他人にやらせっから、大変だったの。
その頃、東京はみんな洋服でした。こっちの宮城県は着物。東北はうんと遅れてたのね。
中途半端に逃げてきたら親に怒られっからさ。逃げて来たかったよ。その5年間、正月も盆も、一度も故郷に寄こさない(帰らせない)んだよ。夏休みになるというと、奉公先の家族が、静岡の熱海だの、伊東温泉だのに行って、家借りて、そんでご飯食べたりしたんです。そういうとこさ行くから、飯炊きや、子守が要るから、奉公人は家さ帰されねえのよ(笑)。奉公先の家中、みんなして行くの。
東京には弁護士と、昼間働いて、夜学のある書生たちが東京で留守番。静岡から伊東までいくのに汽車がなかったんだもの。でバスに揺られて行ったんです。
そのときはね、東京ではガスが引いてあったの。水道も自分んちにあるしね。伊東だの、熱海だのは水道が家の外にあってね、何軒かで使うの。そんでご飯炊くったって、薪(まき)で炊いたのよ。奉公先の子どもたちは喜んだの。毎日海さ行って水泳ぎして、一所懸命遊んでっから、お腹空いてくるでしょ。ご飯炊くでしょ。みんな食べてしまって残らないのよ。そんで、また私たちが食べるのまた炊いて。それもガスでないのよ、薪で炊いてね。おなか空いてくっから辛かった。子どもが着るものをみんな水びたしにしてくるから、洗濯物はいっぱいだし。
東京にいるときより、かえってひどいくらい(笑)。かえって東京よりも便が悪いから。本当にひどいの。布団なんかは借りたのかな。鍋だの釜は持ってったのかな。
でも、うちに帰りたくて、帰りたくてさ。寂しくて泣いたよ。だって、まだちっちゃい子どもなんだもの。5年いて、一ぺんも家に帰れなかったんだよ。今誰も子どもを奉公に出すようなことはしないけれど、その頃は山があれば木を売って、米があれば米売ってお金取るんだけど、何もない人は土方してお金取るしかないわけ。家々で事情が違ってたんだね。
私の13~7歳のころは、ふつうは踊り習ったり遊ぶ時期に、奉公に出てそういうことが無かったから、いいことなんか一つも無かったんだよねぇ。
5年後にやっと奉公先から戻ってくると、裁縫の習い事をしました。戦時中のことで、ちょうどそのころ、学校の制度がうんと変わったんだよね。「国民学校」と言ってたのが、「青年学校」になったのかな?(職業に従事する、勤労青少年男女に対する教育機関。「専修科」には修業年限がなかった。終戦まで存在した)
小学校は6年とか、年数が決まっているけど、そこは、何年通ってもいいの。裁縫を教えられる先生がいて、それまでミシンを使ったことがなかったけれど、学校にたった1台あるミシンを使わせてもらいに通って一所懸命習いました。みんなが学校に行かない休みの日も弁当持って、ミシン使いに通ったんです。ミシンの糸が絡まってしまうと、ミシンを分解(ばら)して修理しなければいけなかったのね。そうして直してもらってねぇ。一生懸命、やりました。
そのころのお弁当の中身ですか? 梅干が入っていれば、上等なんだよ。沢庵(たくわん)は臭いから、持っていかないんだよね。ほかには、味噌が入ってましたね。おにぎりだの、お弁当缶だのを持っていくこともありました。
甘いものは、お金を出さなければ買われないから、そんなに食べられないけれど、少しは食べられたの。戦争当時は、甘いものひとつも無かった時期(とき)が2~3年くらいあったから、私たちは食べたけども、昭和19(1944)年生まれの大きな娘は食べられなくて可哀想だと思ったけどね。その前は甘いものあったよ。
干し柿は年中あったよ。夏んなるとカビが出るから、食べごろはその前までだけど。どこの家でも柿がなるからね。それも玉子柿、こんなちゃっこい(小さい)柿なんだ。今のように大きい柿は植えなかったんだよね。ひとりして育って、ひとりして生った柿なんだよねぇ(笑)。
飲み物は、お茶と麦茶くらいだね。あとサイダーもあったんだよ、お金出せば。今ないんだけど、瓶さ玉が入って、ああ、ラムネだ。あいつが出てきたんだよね。今はないけどね、あんなのはあったよ。お金出せばね。
結婚した人は漁師だね。支那事変(日中戦争の勃発)があって、昭和12(1937)年から戦争が始まったの。その頃は召集令状なんて、そんなに来なかったのね。昭和18~19(1943~4)年の頃は、男の人はみな召集令で戦争に行ったんだよね。私が昭和18(1943)年の春に嫁に行ってからすぐだけど、おじいさん(ご主人)も招集されて中国に渡りました。
おじいさん(ご主人)とはお見合いも、どうもこうもないの。結婚が決まった時には、どんな人だかもわかんないの。この人は船に乗って沖に行って、いなかったんたんだな。結婚が決まってから、結婚式まで、相手に会ったことなかったの。本当だよ、あんたたち笑うけど。親が決めんだもの。そんで、「いらね(いやだ)」って言ったらば怒られるしさ(笑)。親は怖いし、「どこさ出やれ(どこかへ出て行け)」と言われても行くとこもないし(笑)。
結婚式で会った時にはどうもこうも思わないね。前から顔だけは知ってたの。家が遠くでないからね。その前にちょっとは見かけたことはあったけど。話はしたことないよ。話は全然しないよ(爆笑)。好きも嫌いもなんとも思わない。仕方ないからねぇ。年が10も違ったのよ。だからさ、時代だのなんだのも違うしさ、合わないの。そんなに違うのを知らないで、嫁に行ったのよ。結婚前は相手が若く見えたんだ。あれ、そんなに違うなんてわかんねかったんだね。
結婚式は、着物で、つのかくしもして、支度はみんな家でやったの。黒い紋つきの着物でね、その頃は記念写真も何もないの。
結婚してすぐおじいさん(ご主人)は兵隊に行ってね、いない間に、娘が生まれたのさ。それで、家に男がいないから、娘がね、男見ると泣くのよ。ひどく人見知りでね。
娘が3歳くらいで歩くようになって、わけが出てきて(ものごころがついてきて)ね。そしたら、おじいさん(ご主人)が帰ってきても、よその人がきたと思って、「お父さん」って呼ばないのね。それで、娘はそのまま、とうとう「お父さん」って言わないまま、大きくなってしまったの。それから弟が、今の家督が産まれてね、ご飯時に、父親を呼ぶのに、自分が行かねえで弟さ言わせるの。最後まで「お父さん」って言わないの。
お嫁に行ってから初めて「お父さん」って言うようになった。本当は「この人は私のお父さんだ」って、わかってはいるんだけど、初めから言わねで育ったから、言いそびれたんだね。恥ずかしかったからだろうね。
ちよしさんとご主人
おじいさん(ご主人)は、カツオ漁船などに18年間乗りました。カツオ船は海だからね。半年海に出るんです。4月~9月いっぱい、10月まで漁に出るんだね。あとその他はうちで休んだの。
その間に戦争に行ったり、何度も死ぬ目にあったりしたんですが、おかげさんで命が助かって、98歳です。まず、カツオ船で大雨で一度危ない目にあい、女川から青森にイワシ漁に出て、船に穴が開いてたのが分かんないで、船が浸水したのに、女川の港で助かったの。それから、乗ってた船が大時化(しけ)にあって沈んでしまって、それでも泳いで助かった。太平洋戦争で徴兵されて、2年と3カ月、支那(上海)に行って、陸(おか)の方に出たかったけども、船舶免許があったから、船に乗って大きな機械をまかされたの。
太平洋戦争で支那さ行った人は、戦争に出て死んだわけじゃねえんだよ。水が悪いから、みんな戦病死なのね。飢えて、草を食べたの。そんで水がねえから、馬のおしっこ飲んだの。体の弱い人は下痢になったの。野戦病院さ入ると、薬もねえし、食べ物もないし、もう助かんないんだって。
だから招集されて一緒に支那に行った雄勝(おがつ。石巻市)の親類の兄弟2人が、野戦病院さ入ってしまったんですね。当時は食べ物も無い頃だったけど、おじいさんは船に乗っていたから船に積んだ食糧を、その野戦病院に入ってる人のとこに持っていったんだって。3回病院に見舞いに行ったけど、2回目まではその人たちも丈夫でいたけんど。けど、3回目に行った時は亡くなって、もう、その病院にいなかったんだって。おじいさんたちが支那さ行った時分は、戦争は激しくなかったのよ。だから戦死じゃないの。
おじいさんの兄弟は2人戦死したの。一番下の弟と、あとこの人のすぐ上の兄さん。戦死してんの、2人。この人も男3人兄弟だった。その頃のお母さんはね、男の子を持ったお母さんはなんぼ悲しい思いしたんだね。だからこんな歌っこを歌うことも、今では無くなったけんどね、「軍国の母」を歌ったものでした。
昭和19(1944)年のお正月、お舅さんがね、病気で倒れて半身不随になったの。おじいさん(ご主人)が戦争に行った翌年で、留守だったの。その頃はリハビリも何もないから、ただ食べさせてれば良かったのさ。それでその年の4月に、おじいさん(ご主人)が兵隊さ行く、そして11月に大きいほうの娘が産まれたの。だからさ、食べ物はないし、お舅さんが寝てて、おなかのすいた人は、「食いたい、食いたい」って言ってるし、大変でした。
お舅さんは10年寝たんだよ。左がきかないで、右がきくんだな。半身不随っての。10年もたつうち、1回も起きないで(寝たきりになって)しまったの。今はリハビリでね、なんぼか起きられるようになったけど。お舅さんが寝てる間に、3人子どもが産まれたの。お舅さんは、最初は頭が酒の酔っ払いみたいに、埒(らち)のないことを言っていたけど、だんだん頭が良く(回復して)なってね。自分も寂しいもんだから、「子どもは傍においとけ、おいとけ」って子守りしたんだよ。おもちゃがないから、寝たまんま、ドンブリをお箸でポンって叩きながら子守唄囃して。
子育てはどうしたって、あはは。ああ、子育ても、ただ寝せておいて。おじいさん(ご主人)はずうっと船に乗って家にいないし、私が畑さ行ったりして忙しくしてる間は、お姑さんが子守りしてくれました。お舅さんも子守してくれたけど、それは寝てるうちだけなのね。自分は忙しいねぇ。農業やりながら子どもおがして(育てて)、家へ帰れば寝ているお舅さんが待ってんだもの、そのお世話です。
お姑さんが、お舅さんのこと世話しないの。やっぱりほらお舅さんも、手えかけてもらった(ちゃんと世話してくれる)人に頼みたいからね。お姑さんだと怒られっからでしょうかね。
そのお舅さん、若いときね、自分ではそんなに働かないで、弘法大師(こうぼう)様の信心をするところ(民間信仰)の孫だったんだって。そこでは、「狐がついたように、四つんばいになって歩いてた人が、法華経を読んで拝んでもらったら普通に立って歩けるようになった」ということがあって、よく当たると評判で、大島(気仙沼)や唐桑なんかから、みんなが拝みに来たんだって。いっぱい、はやった(祈祷料の収入が多くあった)んですね。
それで親が二親が津波で亡くなって、それでおばあさんにおがされた(育てられた)のさ。そんで贅沢におがされたんだね。だから、自分で働かないの。そんなんだから、結婚しても、気仙沼の大島からきたお姑さんが漁が上手で、浜さ行って、海さいって、ツブだの貝だの、カキだの獲って稼いで、子どもおがして(育てて)。だから、どうせお舅さんは稼がないんだから、寝ててもかまわなかった(世話しなかった)の。お舅さんも、お姑さんにあれこれ言うと怒られるから、世話を頼まないの。私にだけ頼んだんですね。
あの頃は、畑に麦、いっぱい蒔いたんだよ。それで麦のあとに豆蒔いたから、畑が遊ぶ隙が少しもないんだよね。畑には、粟だの、きびだの、そんなのも蒔いたんだけど、干して、そいで粉にするまで、手がかかるから好きでなかったんだよね。
米は、昔はこんなに米とれなかったんだよね。肥料もそんなにしなかったし。今は米がいっぱい穫れっから、このように避難しても米あるもの。
今では、麦をひとつも蒔かないのよね。味噌もうちで作らないから、そんなに豆も蒔かないし。ゆで豆するのに、青豆で食べるだけ蒔くのね。今考えてみると、あの頃は、どこの家でも、畑っつう畑に麦蒔いて、その後に豆蒔いて、本当に少しも畑の遊ぶ隙ないの。そんで機械ないから、みんな鍬(くわ)を使って手でやったの。うちには馬は無かったの。まわりにそんなに農家がなかったし、田んぼもなかったから。
ごはんはね、麦を一杯食べました。そこに米を混ぜて、それでも量が足んなくて大根を足したのね。なんていうの、カテ(いわゆる「かてめし」のこと)っていったのかな。とにかく鍋に麦も、大根も入れて、そこに米も入れる。だから、米だけ炊くんならば簡単だけども、そういうのも入れっからね。あの頃と今は、本当に変わったね。麦なんか見あたらないよね。なんであんなに麦食べたんだろうねぇ。米と麦、どっちが美味しいって、米が美味しい! 米はお正月だけ。米のごはんはお正月だけで、その他は、お盆におこわなんかするからね。今の人たちは、おこわなんか珍しくも何も無いのにねえ。
「お正月はいいもんだ 雪のようなご飯食べて 油のような酒飲んで お正月はいいもんだ」 だっけか。そういう歌があったんだよな~あ。
(お正月の歌は口伝えで伝承されており、いろいろな歌詞があるようです)
ずっと昔は、酒っこもお正月しか飲まないんだよ。普通には飲まない。それはずっと昔の事だよ。今は、子どもたちも私も弟たちも、よそにてんでに(ばらばらに)暮らしてるから、寄る(集まる)というと、みんな酒っこが好きなの。だから私もおすばて作りに来い来い、っていうけどもね、話の相手はさっぱり。飲むことばっかり(笑)。
あっ、餅が一番ごちそう。餅が一番のごちそうなの。なんか喜びごとなんかがあると餅つくのね。それが一番のごちそうなの。あとはお正月は、粟餅だの、小豆餅だの、いっぱい作るんだな。餅もちつくとき米だけでなく、そういうのを入れたんだね。お正月じゅうお昼には餅焼いて食べたんだな。
お米食べるようになったのは、この頃でねえっぺかなあ? いつ頃か忘れたよう。ずっと昔のことは覚えてんけどね、今のことは忘れるの。あらあらあら。
だけんども、子どもが田束山さんの遠足だの、お祭りだの、どっかさ行くといえば、みんながするように、おにぎりさ梅干いれて白いごはんを食べさせたけど、ふつうは麦が入ったの食べたね。
小泉は3つ部落あんのさ。『浜(はま)(蔵内、二十一浜)』、『町(まち)』、『在(ざい)』と。それから4月8日には、『在(ざい)』の御薬師(おやぐし)さまのお祭りをしたんだね。
8月の13日は、『町(まち)』の八幡様、普通は8月15日に八幡様のお祭りをするけども、『町(まち)』は、なんだか早めに13日にするので、「早稲(わせ)八幡」というんだね。今は勝手に日曜日にやるけどね。9月15日には『浜(はま)』の御天皇(ごてんのう)山のお祭り。そんなのは覚えてんだよねえ(爆笑)。そんな昔のことはよく覚えてるんだけど、今のは忘れるんだよねえ。本当におかしいね、今のことは忘れてんだから。
小泉の虎舞はうちの子どもたちも太鼓叩いたし、孫もやるから、20年以上前からだねえ。
そして御天王山(ごてんのうさま)の獅子舞を、虎舞の後にやるようになったの。それを見て、ちゃっこい(小さい)サヤ(お孫さんの名前)が泣いて、泣いて。踊りだすというと虎が動くんだ。そうすっと「おっかねえ、おっかねえ」って泣いて泣いて。歌生(うとう)(本吉町歌生)のお祭りの獅子舞は最近出てきたけんども、小泉のお祭りのは昔からずっとあったのかな。そして、子どもたちが太鼓叩きに行ったのね。
平磯の虎舞はとても盛んで、中国だのなんだのにも公演に結構行ってるってね。
私が子どもの頃には虎舞なんかなかったし、獅子舞もなかった。
私が子どもの頃のお祭りは、風船を膨らましてバァーっと鳴ったり、そういう売り物がいっぱい出たの。お金をもらって、なんか売り物がなんでも、買うのが一番嬉しかったの。うんうん。そのお祭りよりも、その買うのが面白かったんだねぇ。
その頃は、子どもは太鼓を叩かねえの。叩きたいとは思わない。叩くのは全部大人だったの。男だけ。笛も吹いて、その笛さあわせて太鼓を叩いたんだね。今はどこでも、子どもが叩くね。
私が東京に奉公に出て、こっちにいないとき、そうすっと昭和12~13(1937~8)年ごろだね、そんとき、ここで踊りなんか教える人は、誰もいなかったの。そしたら、堤防の石垣作る人が、米川(登米市米川)のほうから来て泊まって、ここの学校の子どもたちに踊りを教えたんだって。その踊りを今もやるんだってよ。
息子は結婚して、初めての内孫も生まれたの。そこが女の子2人。
長女の、あの、泣いてお父さんっていわない人のね。それが津谷(つや)の在(ざい。区)の大沢ってとこに家があって、そこは津波でも流されなかったんです。そっちの方の孫が、高校1年生。それがひこ孫。
嬉しいよね、丈夫なのね。男でも女でもいいから、丈夫なので。手足丈夫な子であれば、それが一番だよねえ。孫が生まれた時と、ひ孫が生まれた時の嬉しさに違いはないね、みんな同じだね。「一番小さいのが可愛い」ってよそではそう言うけっども、私はそんなこと考えないね。どっちもみんな同じだよね。
これからどうするって、なんともしないね。どうもなんねえからさ。
家督さん(息子さん)たちが家建てるか、どうするか、わかるまで黙ってんのさ。だって、何か言ったって役に立たないもん、うんうん。家を建てて住みたいなぁとは思うね。自分の家から出たいなぁと思うね。
住んでた家は、何回も建て直したんだよ。ほれ、嫁いだ家と、一回息子が「建てんべ、建てんべ」って建てて、そしてもう一回建て直して、次は分屋を建てて、それから今度それをほぐして(解体して)本家を建てました。その頃は灯油が安いときだから、全部の部屋々々さ、トイレから何から、全部、暖房入れてあったのさあ。この頃高くなったから倍以上になったのね。平成19(2007)年だね。そのときは大工さんにも自分の家建てるから一生懸命やってもらったのに、こんなんなってしまって。まさかこんな目にあうとは思わねかったのね。
お庭もあったんだけどね、自動車一人に1台、全部で4台あっから、お庭は狭いのよ。花を植えたいんだけんども、ほんと片端に花植えたのさ。植木なんか植えてんの。そんで、おじいさん(ご主人)があの剪定も何もわかんないでね、ポチポチポチポチ剪定ばさみで切って歩くのよ。花っこ咲いているとこをポチポチポチポチ。なんとみみっちこい。おじいさん(ご主人)も年とって仕事がないし、畑が遠くなんだから行かれないしね、私があんまり口やかましく言うと、おじいさんが怒るから、何も言わないの。
お嫁さんだの孫だと気を遣うけど私が言うと余計に怒るっちゃ。それに、おじいさんは耳が聞こえないからさ、聞えるように大きな声出したら、あだりほどりの(その辺の)人に聞こえっと、笑われっからさ。今年ばり(だけ)なら構わねと思ったんです。そしたら津波がきてねえ。
こないだ石川さゆりが、そこの中学校に歌っこに来たんだって。私、行かなかったんだけど。なんていうのかな、近いのにさぁ、行くのが億劫だったんだな。
子どもに手がかかんなくなってから、旅行には行きましたよ。一番遠くて沖縄さ。それから四国、九州、北海道。農協の保険に入ってたので、農協から誘われてね、それで、ここにいたみんなと一緒に行ったんです。その時は、どこへでも歩けた時だからね、楽しかった。今は歩かれなくなってしまって、行かないね。興味がなくなったんだか、億劫なのか、なんだかねぇ。
幼馴染は、今もいるけんども、みんな違う仮設住宅に、離れ離れになってしまってさ。会いに行くのに、足が痛くて、一人では行かれないから、誰かに車に乗せてもらって行かないといけないの。小泉の人たちはみんなわかる(顔見知りである)のよ。わかってんけども、私は年を取ってるし、若い人のことは聞いたってわかんないの。家の名前を聞けば、誰それのお嫁さんだ、孫だ、ってわかるけんどもね。
その人たちと話をしても、ずっと昔から幼馴染で育った人と話をするのと違うのね。みんなの家は知ってんけども、よそから来た人だったり、それに知ってても東京なんかに行ったりしたら、話が合わないの。
幼馴染は、お隣の人は、家が津波に流されて半年になるのに、1回も会ってないの。あと一人の人はこの仮設さ入んないで、津谷のほうにどっか土地を借りて家を建てたの。今年中にはその家に入んのね。その人が自分で家を建てたのは一番早いね。他の人はまだどこも決まらない。自分の土地がある人はいいけど、無い人は、まだ決まらないからさ。
家建てたとしたって、車に乗せられて行かないといけないからね。本当に離れ離れになった。この年になってこんな目にあうと夢にも思っていねがったっけ。
ここではね、明治29(1897)年にも、津波があったんです(明治三陸津波)。みんな家を海の近くに建てたんだって。海さ行くのに便利だからね。堤防も何もなくて、ポンと行けば、磯まですぐ出られるところなの。言い換えると、すぐに砂原のところで、波が来るとこなんですよ。
昭和8(1933)年の津波とき、私は数えの10歳で、そのことをしっかり覚えてんです。そんとき、堤防がなくて、沿岸に住んでいた人はみんな流されたの。そのとき私が住んでた柳沢の家は、ずーっと奥の方に建ってたの。だから、津波が来ても流されなかったんです。そのあと、農閑期の人が土方やって堤防を拵(こしら)えてたんです。
昭和8(1933)年に流されたところに、その後も住んだ人もいます。戸数はそんなに多くなかったけれども、戸数のわりには住んだ人が大勢いたのよ。
今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
RQのボランティアの若いあんちゃんたちが、タオルで「ゾウつくり」をよく覚えてきて、教えてくれるから、それを習ってね。こっちは、針からはさみから全部流されて、買わなきゃ何もないから。道具を全部あっちで揃えて持ってきて教えてくれんです。ありがたいことねぇ。それで「タオルのゾウ」をこしらえたの。阪神淡路の地震の時にこのゾウが生まれたんだってねぇ。
そんなのね、作るの好きなのよ。これ、手拭きなのよ。どっかに吊るしといて、手拭くのね。ここ(仮設住宅)さ来たって何もすることなかったの。お母さんにみんなお世話してもらって、お風呂もただ入るだけにしてもらって入るからね。そんな時に、ちょうどほらタオル人形を教える人が来て、作ったからさ。
施設さ入っている人に、人形、紙人形だの鶴だの作ったの。そしたら、「あんたらにもらった鶴毎日眺めてる~」って。車椅子でベットで寝てる人がね。あぁ、だから、「やっぱり手作りのものをあげるのっていいのさかなあ」と思ってね。疲れたら休み休みさ。うん。好きだからね。
(談)
この本は、2011年9月13日、
小野寺ちよしさんに本吉町の仮設住宅にてお話いただいた内容を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
福原立也
深 大基
大槻フローランス
宮下凌瑚
[編集協力]
望月由紀子
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2012年7月10日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト