私は米川小学校の2学期から6年生に編入し、新制中学校に進学しました。日本に帰ってきてからは家に収入もなく貧乏でしたので、夏は藁草履、冬は藁で編んだつまごを穿いて学校に通いました。仙台への修学旅行も250円~300円の負担金が出せなくて、自分ひとり行けませんでした。小学校の頃から、下校すると近所の親類の農家に行き、鍬を使い、土寄せ、種撒きや麦刈りなどの手伝いをしました。そうすると夕飯を食べさせてくれるから、1食分でも家で負担しなくてもよいから、毎日そうやって働いていました。当時、ほかの家は畑があるから主食になる芋を作っていましたが、うちは土地を所有していなかったので、ほかの家で稲を刈ったあと、すぐの妹の恵子と2人で、稲穂拾ってきて、一升瓶に入れて搗(つ)いて、米にしたものです。その後、母が実家の土地を借りて一畝くらいの畑を作ったりしていました。
本当は、私の子どもの頃からの夢は、師範学校に入り学校の先生になることだったのですが、家族のため、働こうと決めていました。自分は家庭のために犠牲になっても妹弟たちは良い生活をさせたいという思いがありました。帰国当初、家は米川村役場から生活保護を受けていましたが、私の中学卒業と同時にそれをお断りしました。
ただ、恵子にも卒業時の修学旅行、仙台行きも、「俺も我慢して行かなかったからお前も行くな」と言って行かせなかったことを今も申し訳なく思っています。「俺も働くからお前も行け」って佐沼のある金物店に女中に出したりしたのは、苦労させて、すまないことをしました。今でも心残りです。その下の妹は比較的自由に過ごして、高校まで出ています。
「遠き桃源郷~少年の見た満州引揚げの悲劇~」小野寺幹男さん
[宮城県登米市東和町米川綱木]昭和20(1945)年生まれ
投稿日:2012.01.07
カテゴリー:キーワード.
© 2012 東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト. All Rights Reserved.