終戦の日、祖父は私に向かって「いいか。これから俺のいう事をよく聞いて、忘れないように。日本は戦争に負けた。俺もいつ死ぬかわかんない。俺が書き残したものを、今度はお前に託すぞ」と言うのです。
祖父はこう続けました。
「これは慶長16(1611)年の慶長津波のことを書き残したものだ。お前が20歳になった年にかならずこれを町役場に提出するんだ」と。私が「20歳にならなければだめなのか」と聞くと、祖父は「20歳にならなければ認められない」と答えました。
それこそが祖父から私が託された約束だったのです。その言葉通り、私は何度も何度も見て、書いてあることは全部私の頭の中に入れてありました。
しかし、まもなくその祖父も亡くなってしまい、西條家の男手は自分1人となって、祖母と母親、自分の連れ合い、そして姉が残され、親父が生前「女手で生計を立てていくには、人を頼んだのでは自分たちの食べる分も無くなってしまうから、少しぐらい借金しても、どんなぼろの機械でもいいから畑を耕して、そして俺の帰りを待ってろ」、と言い残したとおりに、親父の残した養蚕業を守りました。
そんなわけで、生活に追われてとてもじゃないが、約束を果たせる状況ではなくなってしまったのです。そのまんま今回の大震災を迎えてしまいました。
「戸倉路のつたえ ~語り継ぐ津波の道標~」西條實さん
[宮城県南三陸町志津川戸倉]昭和7(1932)年生まれ
投稿日:2012.01.08
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