この物語では、唐桑の海辺に生まれ、育ち、山一つ越えて海辺にお嫁に行き、そこで暮らしてきたひとりの女性の人生が振り返られています。
おおらかで温かい人柄は唐桑の青い海と陽光によって、また愛情を注いでくれたご家族によって育まれたのでしょう。いつ通っても笑い声の絶えない、和やかな雰囲気のなか、とても深みのあるお話を伺うことができました。
今回の採話は、唐桑で地元に根付いた支援活動を続けられている「からくわ丸」のみなさんの多大なご協力をいただき実現しました。丘さんとの強い信頼関係があればこそ、私たちもご縁をいただくことができました。
お話を聞かせてくださった丘さん、ならびに「からくわ丸」の加藤さん、中内さんに厚く御礼を申し上げます。
2013年1月吉日
RQ聞き書きプロジェクトチーム一同
丘 美津江さん
からくわ丸のお2人、聞き書きメンバーとともに
私が生まれたのは、もう大正の終わりですね、大正15(1925)年8月27日。昭和の元年になりますから、昭和天皇とともに歩んだの。
茅葺き屋根のちっちゃい家に生まれました。今住んでいる小鯖から、山一つ向こうの、笹浜(ささはま)っていうところです。そして5人きょうだい。兄4人、私は末っ子で長女でした。兄とは歳がずいぶん離れていましたね。お爺さん、お婆さん、兄夫婦と子どももいて、10人家族で暮らしました。丸いテーブルでね、10人みんなで囲んでね。母とお義姉(ねえ)さんがはじっこでね、両方で、みんなのご飯をよそってくれたのね。
「これ、みつ」「ああ~?」「これ、みつ」「う~?」こんな調子で呼ばれてました(笑)。
唐桑半島の豊かな海と山圓
写真:Satoh Junpei
実家の屋号が「新屋(しんや)」っていうので、ご近所では「新屋のみっちゃん」で通ってるの。いまだに、実家の方に行くと、「あ、みっちゃん、来たね」って。
末っ子で女の子だったので、大島からお嫁に来たお婆さんにね、すん~ごく可愛がられて、溺愛されたの。「お婆さん、今日は夜磯(よいそ)に行ってくっから」「ああ、海? 危ないからダメ」ってね。だから泳ぎも今でもわかんない(できない)の。ほんっとに、可愛がられて育ったんですね。だからいまだに臆病なの。
お婆さんは後妻で、前の奥さんは、私の父が7歳のとき、子どもおぶって、ふのりを取りに行って亡くなったんだって。子どもおんぶしたまま。だから私とは血の繋がりが無かったんですが、女の孫が1人だって可愛がってくれたんです。お婆さんは102歳まで生きました。100歳超えてね、県知事からおっきな時計を貰ったのを覚えてる。そのころで100歳以上生きられる方って珍しかったですね。
津波前の鮪立の町。海を隔てておばあさんの生まれた大島も見える
写真:東日本大震災写真保存プロジェクト
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
ちっちゃい頃、夜寝るときは、母から毎晩、「巡礼おつる」の話を聞いたもんです。
数えで8つのときから、尋常小4年くらいまで、母と一緒に寝たのね。その毎晩、毎晩、おんなじ話、言わせる(言う)んだね。次の晩もその次の晩も、「巡礼おつる」。言う方も言う方だけど、聞く方も聞く方だ、毎晩毎晩おんなじことをって、今でも笑うね(笑)。母も眠いとも思わないで言ったもんだ。私は子どもだもの、聞いていても途中で、うとうとと眠ってしまう。その話を人にしたら、「そんなに毎晩聞いた話だったら覚えてるだろうから、書け」ってんだ。めったなこと言うもんでない(笑)。もうひとつ「信太の森のキツネ」という話も聞いたんだけど、なんだか忘れたねえ。
「おつる」の話は、女の子どもが「みんなの家ではお母さんが髪を結ってくれるのに、家ではお母さんがいない。お婆ちゃんだけ結ってくれる、それはなんで」って言うんだね。お婆さんが「実はこうなんだ、父が敵(かたき)とりに出掛けた」って言うんだな。そのためにそのおつるが親に会いに行くんだって話なのね。それを自分の子と知らないで、お金を獲ろうとして父親が殺してしまったって言うんだな。「わが心して金をとる・・」とかなんとか、ねえ。よく。言って聞かされたぁ(笑)。まったく毎日、おんなじことを。聞いたもんだか、言うもんだか(笑)。
そのうち、兄のところに子どもが生まれて、長男の甥っこが母に抱っこされて寝るようになったわけだ。だから「あんたはひとりで寝なさい」って、私はそこで離されたわけだ。6歳くらいかな。私にかわって、甥っ子はまた「巡礼おつる」の話を聞かされたわけ(笑)。
阿波藩の藩主、玉木家の若殿が、高尾という傾城(美人)に溺れている(好きになって夢中になっている)のを幸いに、小野田郡兵衛という悪臣がお家横領を企てます。
この騒動のさなか、家老桜井主膳のあずかる玉木家の重宝、国次の刀が何者かに盗まれます。桜井主膳は、元家臣、十郎兵衛に刀を探すように頼みます。十郎兵衛と妻のお弓は、娘のおつるを祖母に預け、大阪へ出て刀を探し始めます。十郎兵衛は名前も「銀十郎」と変え、盗賊の仲間になり質屋などの藏に忍びこみ探すのでした。
ある日、お弓が十郎兵衛の家で針仕事をしていると飛脚が来て「追っ手が追っているので早く逃げろ」と知らせます。この切羽詰まったところに、かわいい巡礼姿の女の子が門口に立ちます。
巡礼の国なまり(方言)が気になり「国はどちら?」と訪ねると、女の子は「国は淡路で、父の名は十郎兵衛、母はお弓と申します。」と答えます。お弓は疑いもないわが娘と知ります。すぐにも母だと名乗り、抱きしめようとしますが、今は役人に追われる盗賊の夫婦、ここで親子だと名乗ればおつるもいっしょに捕らえられるかもしれないと、「国で親の帰りを待ったがよい」とさとします。おつるは、国の悲しい出来事や巡礼中の怖いことなどを訴え「帰りたくない、なにやら母のように思われる。ここに置いて下さい」と頼みます。
お弓は心を鬼にして返すことにします。おつるは泣く泣く遠ざかっていきますが、お弓はのびあがり、見送って、泣き崩れます。しかしあきらめきれず、もしもの時は夫が考えてくれるだろうと後を追うのでした。
入れ違いにおつるを伴って帰ってきたのは十郎兵衛。わが子とは知るはずもなく、おつるが金を持っているのに目をつけ、その金を貸してくれと頼みこむ。しかし、おびえたおつるが声をあげたので慌てて口をふさいだため、おつるは窒息死してしまいます。
おつるを見失い、力無く戻ってきたお弓はこの有様を見て、おつるが捜し求めた両親に会いながら親子の名乗りもされずに追い返され、実の父親に殺されてしまった不幸な娘の身の上を思いやって涙にくれます。
十郎兵衛も我娘を殺してしまったことを知ると、後悔の涙にむせぶのでした。迫る捕手。捕手を追い散らすと、おつるの死骸もろともわが家に火を放ち、夫婦は何処ともなく落ちのびていくのでした。
*人形浄瑠璃「巡礼おつる」のストーリーや写真がこちらのサイト:涙を誘う 人形浄瑠璃 傾城阿波の鳴門 「巡礼歌の段」などで紹介されています。
わたしの母が、この話をあの年でどっから聞いたのかな、っていまさら思います。母は蝦夷狩(えぞかり)っていう同じ唐桑の隣の部の出なの。母の父親は宮大工の棟梁だったって聞きました。お酒が好きだったってね(笑)。だから、この巡礼おつるなんて、なんでわかってたのかなあって、今、つくづく思いますね。
近所に三姉妹の方があって、その家へ毎日遊びにいったのよ。上のお姉さんは私と1個違いだったし、あと妹2人とは、3個ぐらいずつ年下だった。今でも懐かしいです。遊んだ笹浜の方、歩ってみたいと思うね。その三姉妹以外にも、ほかにも子どもが来るの。そうね、6人・・7人くらいかね。みんな寄ってきてね。みんなで仲良く遊ぶ。喧嘩しないでね。毎日遊んだもんです。陣取りとか、縄とびとか、もう、汗流して遊んだものね。今みたいにゲームなんてない頃ですし、そんなもの、夢にも思わないもんね。お手玉とかね。おはじきですね。
三姉妹の家には、みんな寄るのね。別の家に行くと、きれい好きなお爺さんがいて、箒を手から離さないで、遊びに行くと追われるわけだ。「散らかす」って(笑)。だからその三姉妹の家に毎日のようにいって遊んだわけ。
今の「イジメ」なんて、なかったですよね。なんでいま「イジメ」なんてやるんだかね。ほんと仲良くね。虐められたこともないし、もちろん虐めたこともないし。仲良く遊んだもんだがね。陣取りなんてね、男性軍はそっち、女性軍はこっちでね。そして遊んだもんです。汗流してね。
仲良しだった三姉妹は、上のお姉ちゃんだけ青年学校まで一緒で、後の2人は体が弱くてね、早く亡くなったんです。遊び相手が減ってしまってさびしかったですね。
あと、夏休みはラジオ体操あったのね。宿(しゅく)の唐桑小学校に行ってラジオ体操するのに、30分くらいかけて行ったのね。学校に行く時は、大体、みんなで一緒に行きましたね。終わったらハンコ押してもらってね。ラジオ体操、好きでしたし、運動会でも徒競争だけはいつも1等で、あとはもう、後ろの方から1等かな(笑)。
兄とは、半造(はんぞう)に行って、ナメコやなんかのキノコ採りとか、「かけす」って言ってたアヤメ、あとは、オキナソウが沢山あったんですよ、それを掘りに行ったりとかね。よく兄に連れられて歩ったの。掘ってきて育てたりとかね。あとはほら、栗取りとか、あけび取りとか、兄を追っ掛けて、そして歩いたの。
子どもの頃は、父がね、草履を作って履かせられたんです。そうすると、3日位経つと、草履の周りのはみ出た藁が、ポサポサポサっと出てくるわけ。それをハサミで切っては、履いてたのね。そのうち、草履がくたびれそうになると、すぐに取り替えてくれたのね、父が。早く起きてね、藁をトントントントン、草履作ってくれたんです。赤とか白とか、いろんな布を手で撚(よ)って、巻いて、それを鼻緒にしました。漁業の仕事をしながら空いた時間で作ってくれたんです、はいはい。
よっぽど大きくなるまで靴なんてなかったね。雨の日はね、下駄。今のようにカッパなんて無いから、お婆さんが、お嫁に来る時持って来た毛布を、でっかい長持ちから出して来て、「これ被っていけよ」って、三角に折って、かぶせて、紐で結んでくれました。そして下駄を履いて宿の小学校まで歩いて行ったの。
そして、ストーブなんてないもの。雪なんか降ったら冷たいですよね。冷たいって言ったって仕方ないもの、足元に置いて。その濡れた毛布に足をくるんで、そして帰って来たんですね。そうして雨の日も風の日も休まないで通ったんですね。
お風呂はどこの家にもありましたね。
まあるいドラム缶のような大きいの、1個半くらいの長さにしてね、丸い筒があって、そこで木なんか焚いてそして沸かしたの。あとは松から下りる松笠(まつぼっくり)ありますよね。あれ拾ってきて。あれは燃すのに最高、良かった。拾うのは、子どもばかりでなく大人もついて行くからね。半造なんて、危険だからね。笹浜の家は10人家族だったから、家族だけでお風呂に入っていました。
小鯖に嫁に来てからね、この辺は、どこの家にも風呂があったけど、それでもね、「もらい湯」はさせてたの。お風呂があっても、燃料の木の蓄えが無かったりすれば、「貰いにいってくるか」っていうわけでみんな寄ってくるわけさ。40年前まで住んでた家は坂の一番下にあったんだけど、周りはみんなね、お風呂に入るように呼びにいったの。お姑さんから「どこそれ、来ないから行って呼んで来い」って呼びに歩かせられたの。井戸は家のそばだから、中のお湯が少なくなれば水を汲みに行って足して。ぬるくなれば、立って行って、風呂の火を燃して。そして、「もうそろそろ、みんなお風呂から上がって家に帰ったから、あんたも入って寝らい(寝なさい)」って言われるわけ。
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。
中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。
尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。
希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。
青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
今思えばね、ほんとに、子どもだったのね。あんたがただって、こういう方と結婚したいっていろいろあるわけでしょう。今のように公務員のところにお嫁に行きたいとか、こういう職業を持った人と結婚したいとか、そんなことはわからなかったの。私は、こんな風に思って暮らしたの。私、牡蠣、大好きでね。いっぱい食べられる舞根(もうね)にお嫁に行きたい、ってそんなこと思ったのね。舞根に行ったら牡蠣いっぱい食べられるな、舞根にお嫁に行きたいな、って思ったのね。
で、あるときに「ワカメの芯抜き」って、ワカメをいっぱい重ねて、芯を抜く作業があったんですよ。10人くらい並んで作業するんです。舞根から来たお嫁さんが来てて、その人とお話したいと思ってたんです。でも、なかなかできなくて、その日ついに隣に来たんです。
※舞根の海の美しい写真がこちらのサイトなどで紹介されています。
いろんな話をしていると、「今頃なあ、おらの母ちゃん、牡蠣剥きにいったべなあ。朝、お婆さんに『いつまで寝てるんだ! みんな船乗って牡蠣剥きにいったんでねえか。早く起きろ!』って2時に起こされるんだ」「ええ~。夜中の2時に?」「うん、2時に。起こされて牡蠣剥きに行くんだ」「この寒いのに?」「んん、この寒いのに2時に行くんだ」それ聞いたとたん「ああ、舞根に行かなくてよかったぁ」って(笑)。とても2時に起こされても勤まんなかった。
お嫁に行ったのは戦後、21歳の時でしたが、その頃も食べ物はあんまりなかったね。でも実家では田んぼもあったから、親はよそに嫁に行った私を案じたって。「私らはこうして食べるべなあ、小鯖さ嫁に行った娘は、何食べさせられっぺなあ、心配したぞう」って。親だもんね。でも、私は「ここでは、こういうもんだ」と思って暮らしたのね。「実家さ行って食べたい」なんて思わないよね。あきらめたのね。
「かてごはん」を食べるからすぐお腹がすくのね。もうすこし食べたいと思ったってざくざく、ざくざくというご飯だものさ、10人で食べるんだもの。もっと食べたいと思ったってもう、鍋にない。
あんなの食べれば、今頃スマートなのさな(笑)。今は気ままして食べ放題。息子が来るたびね、「あんた、また太って。ここ(急な坂)上がったり下がったりできなくなったら、わがんねよ(仕方ないよ)」「なんにも、そんなに太んねえ」「なに? その姿見らい(見てみなさい)。でぐでぐでぐでぐ・・また太ったか」なんて(笑)。怒られっぱなしです。手伝ってもらうから「はいはい」って言うのさ。アハハハ。
嫁入りは、昔は仲人さんがついて、親が決めて、「こういう家が嫁に貰いにきた」ということで、「仕方ないな」と思って結婚しました。今なんて、こんなこと、考えられないよ。見たこともない人のところさ、お嫁に来たんだから。結納の品は、仲人さんが結婚前の「大安吉日」に持ってくるわけ。だけど誰かはわからないの。「こんなことってあるの」って思うよね。私たちでも思うもの、「よく、見たことねえ人さ嫁に来たもんだなあ~」ってね。でも兵隊に行って帰って来たっていうから、手足は丈夫なんだべな、って(笑)。
結婚する日に、「お婿さんが白足袋履いてくるんだ」って教えられて。「どんな人だべなあ」っと思って、足元ばり(ばかり)見て、「白足袋はいた人は、あの人かなあ」と、そう思ったの。お婿さんの方は、行列で貰いに来るんだよね。ぞろぞろと並んでな、袴はいたり、羽織着たり、紋付き着たりしてみんなそうして来たのさ。本家がまず先頭でないかな。右もらい、左もらい、カギ持ちって一番末っ子の人が一番下座敷さ、座らせられるとか、あとはもう、順番があるらしいね。いくら、あの、10軒の本家でも親族でも本家が上とか、その次はこの人って順番があるらしいの。
嫁を送るっていうわけでそれなりの順番があってくるんでないかな。本家の佐々木家がついてくるわけ。最初は本家同士で挨拶して、「座敷まわり」って、席を取り持つ人があって、「高砂や~」を歌ってね。「この浦船に帆を上げて~」って、そういう謡をする人が必ずいて、双方の親族を取り持つわけ。杯を持って「あの方からです」とか、「あの方がご返杯です」とかって運んだり、いろいろやったわけさ。
私は高島田に結って、つのかくしをして、そうして小鯖まで歩いて来たのさ。笹浜から。「今日あそこでお嫁に行くっつうから」ってわけで、部落の人がみんな見に来てくれるの。お天気良かったから、良かった(笑)。嫁入りしたのは、昔は旧暦でやったから、旧暦の12月25日でした。
小鯖の家は大変だったですよ、ホントに。2人義姉がいて、1人は子ども2人連れてここに疎開してきた人で、あと嫁にいかない義姉も1人いたし、おっぴさん(曾お爺さん)があって、おしゅうと(舅、姑)さん2人あって、こっちも10人家族のところに嫁に来たの。
お姑さんは居娘(いむすめ)で、お爺さんが婿養子でね。私がコタツのまわりでうろうろしていると、「なんだ、みんなばり(みんなだけで)コタツ取り巻いて。ほら、みつこ(美津江さんのこと)もよって、ほらほら、そこさ入って、あたれ、あたれ」って言ってくれたりね。お爺さんが優しかった。でも心臓ぜんそくでね、早く亡くなったんです。
実家にいたころは母や義姉、兄まで魚が捌けたから、何もしたことがなかったんですけどね。なんでもやってもらってね。何にもわかんなくて来たの。捌くのも、お煮つけ作るのもわかんなくて来たの。嫁に行っても、小鯖の家には、義姉たち2人、お姑さんだって若いもの。「この嫁は何もわかりそうにないから」なんて思って、家事は最初は私以外のみんなでやったんでないの? アハハハ。
実家の屋号は「新屋」、でも実は小鯖の家も屋号は「新屋」なんですが、山一つ越えて嫁に来て、ずいぶん雰囲気が違いましたね。実家の方はとにかく朝から晩まで忙しい、忙しい家だったの。こっちへ来たらね、「あら、こんなに楽をして、生活できるのかな~」と思ったの。すんごい忙しいんだもの、実家の方は。
小鯖の家が営んでいたのは、客船関係だったって。小鯖の浦から気仙沼までお客さんを運んだんでないの? そして地元のみなさんに「今日は針、買ってきて」「糸、買ってきて」「ろうそく、マッチ」ってそういうのをいっぱい頼まれて、買って持って帰ってきてくれたもんだそうです。昔はこのへん、全部船だったのね。今は船もなくてね、ほんとに、なんでもかんでもタクシー使ってね、大変です(笑)。ほんとに時代もかわってねぇ。
初めてじいちゃん(旦那さん)見たとき、どう思ったかなあ。「ああ。この人」と思ったぐらいでねえかな(笑)。「この人、あんまり人相よくねえな」って(笑)。じいちゃん聞いてたっすか?(笑)あんたのこと言ってんだよ。66年一緒にいたんですよ。名前は「ゆきお」、幸いな男と書くんです。一応赤紙は来て、海軍に入って戻って来て、やっぱり徴用船って軍需物資、そういうものを積んでいく船にも乗ったらしいのね。「弾の中をくぐってきた」って言ったから。
結婚式のときの写真はないのさ。だけど、何十年も一緒にいれば、旅行に行ったり、写真は、背負い駕籠(かご)でひとつばり(1つ一杯に)あるわさ。ほんとにね、アルバムにはとてもとても貼りきらないでね。田舎ばばと田舎じんちゃんだもの、見せるようなものでは(笑)。
優しかったねえ。ほんとにねえ、何も怒られたことも印象にないし、ほめられたこともないし、あんまり人と話するの好きな方でない人だった。こっそり手仕事して。例えばね、この辺にある手すり、風呂場からトイレから、これ全部、1人でコツコツやってね。私はまあ助かるわけ。玄関の網戸もやったりね。まず手仕事好きだったんだね。
だから私はこの年して、パッチワークとかリフォームとかに出て歩いても、ただの1回も反対されたことない。「今日なんだか具合悪そうだね、今日休むから」っていうと「なんでもねえ。なんでもねえから行って来い」って1回も止められたことはなかったね。よく黙ってこうして出すもんだなあって。そして私がいると「屋根から降りたら(落ちたら)誰も助けてくれねんだ」って怒られっから、私が行ったあとに、屋根のゴミさらったりね。「今日は時計進んでたの直した」とか、「時計止まってたの直した」とかほんとに、なにか、かにか家のことをやってんだね(笑)。
何にもうるさいこと言わない旦那だったけど、私の方は笑われんのがひとつあったの。寝相、悪いの~。すんごいの。昨日の晩も、寒いなと思ったら、布団横になってるの。だからね、お爺さんによく言われたの。「あんまりせっぱくから、叩くかと思ったけどな、可哀想だから布団掛けて寝た。寒くねえのか?」って。そのくれえ、寝相悪いの。
だから旅行に行くと、「あんた寝相悪いから、はじっこだよ。はじっこで寝てもらうから」そしてあるときね、友だちが夜中に目え覚めたんだって。そしたらね、一晩でどんな働きしたんだか、このシーツをね、クルクルクルっとね、こうして(写真)寝てたって。
ひとりでそれを、見るのがもったいないから、「ほら起きて見な」って(ほかの友だちに)見せたって。旅行に行くとね、ほんとに騒ぎなの(笑)。なんだってそうなんだかね。まるで布団が裏がえしになってんだからね。そっちがこっちで。ねえ。老人がこんな寝相するってね。良く言ってくれる人は、「健康な人はそうなんだから」って言ってくれる人もあるしさ。「魂飛ばして寝てんだね」って言う人もある(笑)。
仕事は船のしばらく機関長をやったんです。何十年とね。小さい時からすごく機械が好きだったんだって。それに、きれい好きってないの。すんごい、きれい好き。船主さんにね、ほめられたのさ、うちの船は、船の機関場は、袴羽織着ても汚れないって。
船では機関士の下にさ、6人も7人もついてね、交替でやるんでないの。くたびれて帰ってきますね。あんまり沖にいって帰ってくるんで、ハワイあたりはせっかくね、行ったり来たりしたらしいし、後は三重県。焼津のほうとか、そこから出入りして。
時化るとやっぱり心配しましたよ。あるときね、お姑さんが旅行に行って、風鈴買って来て、つるしたの。そしたら息子がね、「風鈴つけられんのやんだ」と言うの。「なんだ?」「この風鈴が揺れれば、父ちゃんが時化で海が荒れたんでないかって思う。風鈴外せ」って。だから風鈴つけなかった。
じいちゃんの船が出港すると、参詣(さんけい)っていうのをやったの。テープを引きながら、サイレン鳴らして出航したら、奥さん方がその足ですぐに御崎さん(御崎神社)のほうに行くんです。船頭さんの家から、なにかおいしいものを持ってって、神様のなかでごちそうになって、それから、唐桑の神様っていう神様を全部、足で、ぐるーっとお参りに回ったの。私は小さい子どもをおぶって出船の見送りに行くから、少し早めに走って家に帰って、子どもを置いて参詣に行ったもんです。
まず、鮪立(しびたち)っていうところの八幡様を拝んで、そして今度は松圃(まつばたけ)の大日如来さま、それから白山さまへ寄って、御崎さんにいって、今度は中沢っていう、お店に寄って、そこのお店のおばあさんが、うどん作っておくわけ。10人でも15人分でも。そして漬物つけてあって、そこでお茶をごちそうになって、それからあと帰りは早馬さんと、そこの上の方の神様拝んで来るんです。1日で全部回るんです。今のように、タクシー使ったり、自家用で走るんでなく、いろんな話しながら歩いて。それがまた楽しくてね。覚えているのは、まずね、まだ御崎さんを回んないうちに、「早く父ちゃん帰ってこないかな」って(笑)。そんな話したわけよ。奥さん方も若いものね、みんな。テープ引いて、船が港を離れるときには、「必ずこの港に帰って来いよ」と願うわけさ。そして、帰ってきてもらいました。お魚をいっぱいごちそうになって(笑)。牡蠣でなくても美味しかった(笑)。
帰ってくるときは、やっぱり大漁旗を掲げて。そのころ、鮪立が船主さんだったから、「迎えに来いや、カツオがあるんだ、魚があるんだ」って呼ばれれば、丸い竹の、両端にカツオを吊るして、担いできたの。誰も誰も、金持ちとか関係なく、車では来ないで、みんな歩いてね。
津波前の鮪立の港の様子
写真:東日本大震災写真保存プロジェクト
鮪立の船が解散してから、うちのお爺さんは、今度は静岡の焼津の船に乗ったったのさ。その船主さんが、「船が何日に入港する」って、奥さんたちの汽車の切符、それから宿をとってくれて、呼んでくれて、こっちから焼津まで迎えに行ったの。それが何年も続きました。迎えに行くと、日本平のイチゴ狩りとか、三崎のマリンパークに招待されたり、いろんなところを見物させてもらいました。宿料からなにから、船主さん持ちでね。宿なんかお土産物なんかもう付いてたったね。旦那さんと一緒に行くこともあるけど、船に仕事があれば出られないから、その時は奥さん同士でね。帳場の方がついて、見物させられたのさ。イチゴ狩りは5~6回あったね。みかん狩りもあったね。
機関士の仕事は58〜9まででしたかね。それも近所の同級生が結構早く亡くなったんです、同じ船乗りで、50超えた頃に病気になって亡くなったのね。あんまり長く船に乗っても、台風なんか来れば1回に何十人も亡くなったりするし、早く辞めろ辞めろって私が騒いだのね。「子どもはいないし、2人だけの生活になるんだが、あんたまで災難にあったりしたら、私1人いるようになるから辞めろ辞めろ」って。でも「まだ辞めたくない」って頑張ったんだけどね。
私の方も頑張ったの。そして焼津の船だったから、焼津まで行って船主さんに挨拶してそして帰ってきたんです。船主さんの建てたばっかりの2億の家を見に行ってね。水洗トイレが初めて出たんだって。それで船主さんが奥さんさ「お前先にやれよ」「お父さんあんたが先ですよ」ってそんなやりとりをしたってね(笑)。そこさ「そんなことあるんだ~、どんなんだべ」って2人で見に行ったの。あの船主さんには大事にしてもらいました。今どうしているのかねえ。
それで帰ってきて、小さい船から乗らないかって頼まれたのを、私が「小さい船はダメ」って断った。私は乗せたくなかったのね。やっぱり小さい船だと、この辺だと、何十人も亡くなったんだよね。だからあと、すっかり辞めてもらって、自分が好きなことをやった。道路作って土を運んでその辺さ、石を持ってきたり。
昭和21(1946)年1月27日に結婚式だったのね、翌22年の12月10日に1番目が生まれたの。長男。それが今、一生懸命草刈りに来ます(笑)。その次は25年生まれ。2番目が男。長女は28年生まれです。
昔の風習は、唐桑では、一番最初の出産は、実家さ行くことになってたから。やっぱり初めてだから、実家のまず母に行って、遠慮なく扱ってもらうって意味じゃないかね。いまだら、「あ、タクシー呼べ」っていう距離を、歩いて行ったのね。
臨月になっても、こっちにいて、ご飯作ったりとか、いろんな家事をいつも通りやってました。「ああ、なんだか腹痛くなった」ってところに、ちょうど旦那の船が帰って来た時だったから、実家まで送って貰ったの。次の日のね、10時ごろ生まれたんです。その頃はどこでもお産婆さんで持ったんです。わずか1年前はお嫁いくこともぜんぜん思いもよらなかったのが、ご結婚されて、赤ちゃんも生まれて、子どもが子ども産んだんだものね。22歳で産んだんだものね。
どうしたらいいか、ほんとにね。そして私もともとおっぱいが大きかったのね。そしてとにかく大きいから、ここにタオルを4つくらいにして、ここさこういう風に入れてね(4つ折りにして、胸の下に入れて胸が目立たないように体型を補正していた)。そして、歩いたものさ。あんまりおっきいから。
子どもが生まれたら、また大きくなるんですよ。そして子どもが一生懸命吸う訳だね。だけど、あんまりおっぱいが勢いよく出っから、飲みかねるわけよ。「エヘ、エヘ」とむせるわけ。ある時は、(おっぱいが勢いよく飛んで)あっちのほうまでシャーっと、飛んでったの(笑)。
世の中にはね、夜泣きする子どももあるんだっていうけど、夜中に子どもが、口が言われない(言葉が話せない)から、「お腹空いた、飲みたい」っていう「フフフンフン」って言う声で、目が覚めるわけ。それで「ああ」って、寝たままおっぱいを子どものほうにむけると、子どもは勝手に飲んでお腹一杯になればあと離して、すぐ寝たね(笑)。だからね3人育てても、一回も夜中に泣いて寝ないなんてことなかったね。母乳の宝があったからだね(笑)。
お蔭で子どもたちもあんまり病気しないで育ちました。今の人たちは、体型が崩れるって飲ませたがんないんだってね。あんたお子さん持ったらそんなことしたら駄目だよ。丘のおばあちゃんのようにこうして飲ませて育てて。なんも、崩れないから。健康な子どもに育つんだから。ずっと。
おっぱいを子どもに飲まれると、すうっとお腹が空いてね、ご飯がおいしいの。今考えれば2杯も3杯も食べてたんでねえの。ちっちゃい入れ物に梅干し出すのね。その梅干しを食べると、ご飯いくらでも進むの。だから食べるわけ。「あっ、今朝干した梅干しもうなくなった」ってお姑さんに言われてね(笑)。そう言われっから、「もっと食べたいんだがな、また言われるんでないかな」とご飯の下さスポっと梅干し入れて、そうして隠して食べたんだ。「あら~、私のお腹に底がないんでねえか」って。アッハッハ。うん、そういう思い出あります。
昔は子どもが生まれても、「大事にしなさい」なんて、そんなお姑さんはいなかったですよ。どこのお姑さんだって。
今どきのお爺さんは、小さな孫が出そう(生まれそう)だっていうんで、みかんをひと箱買ったの、リンゴを買ったの、卵を買ったのって・・私は嫁さんと一緒にいないから、何もしてあげられなかったけんど。いやあ~そんなこと、どこにもなかったから。ウチばりでなく。だからね、自分でいうのも何だけどね、もともと、上も下も綺麗な歯だったのね。それも子ども1人持つことによって2本も3本もずつ、弱ったの。カルシウムを取られっからね。なに、卵見たこともないし、リンゴだって、風邪ひきで具合悪いときだってご飯食べられない時に1個ぐらい食べさせられるかな(笑)。どこでもそうだった。昔はそれこそそういう生活でしたよ。子どもがいても変わらずお家の仕事をして、普段と同じように生活して。
坂の下にあった家は、お天道様は6カ月当たんなかったの、山に木は生えているし。それでおっぱいがそんなにしゅっとでるくらいだから、布団がおっぱいで、かびたりしたったの。坂の中間の平らなところに、海苔干し場ってあったのね。そこまで布団背負ってきて干したもんです。
じいちゃんがいない間も、お姑さんがつきっきりで、(赤ん坊がお乳を)飲み終われば、「飲んだのか? 寄こせ寄こせ」って取り返されるの。嫁さんはひたすら外へ出て黙々と働くんだ(笑)。サンマやカツオの加工にしょっちゅう、働きに出たの。おっぱい飲む時間に、お姑さんが工場まで子どもを連れて行ってね。
私たちの若い頃はね、避妊だって大流行りでね、保健婦さんだってしょっちゅう、講習したんですよ。避妊法。あんまり子ども産まないように。計算の仕方とかね、器具を持ってきて講習したの。お子さん連れてくる方もあるんですよね、そしたらその子どもさんがなんだかわかんないから「お母さん、あれ欲しい」って言ったの、今でも思い出す(笑)。戦争当時は産めよ、増やせよってね。10人くらい普通に産んだんだがね、それからはもう、あんまりね、産まないようにね、保健婦さんが回って歩ったりね。
そしたらね、今小学校に入るお子さんがいなくなってね。どうなるんだろう。今子どもがない、子どもがないってね。ちょこちょこ~っとしてるのをぎゅうって、こうしてギッチリ抱きたい(笑)。娘にね「よそのお子さん、なんぼ可愛くても、声かけたり、間違っても抱っこしてはだめだよ。今のお母さんはピリピリしてんだから」「ああ、そうだなあ」って言ったけど、小さい子は可愛くてしょうがない。抱っこしたいの、こうやってきゅうって抱っこしたいの(笑)。
子どもが小さい頃は、私は昼間は、工場に行って働いて、とにかくお姑さんは孫の面倒を専門に、朝から晩まで見るんです。何にも仕事しないで子どもの面倒だけ。作業の期間終われば、ちゃんとお金(賃金)を貰って来んの。だけどそのお金はみんな、お姑さんに出すわけだ。お小遣いはないわけね。だから時々、実家さ行ってもらってくるのさ。月に何度か実家に手伝いに行ったりしてたからね。実家の親も、金持ちである訳でねえから、「お金がない」って言うのも可哀想だもんね。だから、たいてい我慢したのさね。だから旦那がね、手紙の中さお小遣いを入れて寄こすわけだ。「封筒にお金と手紙がはいってきたなあ、もっとなにか入ってんでねえかなぁ」って封筒の中見たもんです。みんなそうしたんでねえの。
何が欲しいって、女だもの、子どもがあれば、おしめ洗うのに石鹸がなくちゃだめだしね。うん。生活費、それがやっぱり必要だったんでないかな。それと、やっぱり生理用品だね。それくらいのもんだ。昔のお姑さんとお嫁さんとの間柄が、ぜんぜん今とは違うものねえ。今はお嫁さんも、はっきり言うんだべね。「お金ないんです、お金ください」って。うちのお姑さんが特別厳しいとかはないね。それが普通だったんでないかね。お姑さんとは、ゆっくり話すなんてことは、あんまり無かったかなあ。
お姑さんが昼間面倒見て、おっぱい上げる時だけ子どもと触れ合って、という生活は最初だけでしたね。あとはもう、私が働いてる間は、子どもは自由に遊んでね。「お庭に、何の花咲いてるんだべな」「子どもはどうやって遊んでるのかな」なんても思わなかった、夢中で働いたね。あの頃は周りにいっぱい、子どもたちがいたもん、子ども同士で勝手に遊んだんだね。学校に行く歳になれば、唐桑ではね、丘の方では「田植え休み」、田んぼのいっぱいある方では「田植え休み」ってあったんだって。学校の方で子どもたちを休ませるのね。
何日から何日までって。1週間ぐらいだっけかなあ? 子どもは農作業はしないから、子守したり、よその家を手伝いに行くのね。私もよその家を手伝いに行きました。
昔は、みんな、近所になにかあるっていうと手伝いに行くのが普通だったのね。今でこそ、家を解体するにも、上棟式にも、素人は入んないが、昔は近所の人がみんなで、ワーッと手伝いに行ってやったもんです。瓦しょったりね、材木担いだり、みんな手伝いにいったの。もちろん、大工さんが来て壊して、素人は壊したものを片付ける。それを手伝ったわけ。作業するときの手伝いを、お互いにやりとりして、それが地域のつながりになってたんです。
小鯖の家には、東京から疎開したお義姉(ねえ)さんあったのね、子ども2人連れてさ。その姉様には大事にされたね。いろんな話をしたり、いろんなことを教えてもらったりね。なんにも、お料理もなんにもわかんないで来たから。そうしてこうすんだよって教えられた、そのお義姉(ねえ)さんから。うん。なんでも優しく教えてくれた人だった。終戦後、その旦那さんは東京で左官、壁塗りをやってたんだって。そのために、みんな田舎に帰されても、4カ月ほど東京に置かれたんだって。その間、お義姉さんは唐桑にいたね。
味噌は、小鯖に嫁に来た頃はずっと家で作ったの。豆を煮てね。親類でカツオ製造する家があって、カツオ煮る窯で豆を煮てもらって、そして手で回して潰して、塩入れて、麹は入れたったかなあ? そうして作ったんです。ここ結んで、藁でこうくるんで、こうぐってそして炉さつるしてね、カビが生える。そのカビがいいんだ。私は笹浜の実家にいる時から見てきたから、わかってんだぁ。味噌は秋に豆がでるから、仕込みは秋でしたっけかね。
家で作らなくなってからは、最近までは気仙沼で作って貰ってたんですね。子どもたちが、「仙台の住民は仙台味噌ってやるのに、なんで唐桑から味噌もって行く。いらない」って誰も食べないから、いまは家でも近所で買って食べるの。生協さんが持ってきてくれるし、お店でどこでも売ってるからね。
仕込んだ味噌をつるす
お茶も作ってましたしね。囲炉裏に炭をおこしてね。四角な入れものに、何枚も何枚も厚く紙を貼ってね。そこに蒸したお茶の葉を入れて、炉の上で蒸気を飛ばしながら揉んで、カラカラになるまで水分を飛ばして、作ってましたよ。新芽がでたころね。5月かなあ。今はそんなこと、する所どこもないけど。
とにかく、自給自足でしたからね。どこの家でもね、田はあるし畑はあるし、小漁にいって父親とか兄たちは魚獲ってくるしね。ホヤ、アワビ、ウニ、そういうのを食べて育ってね。骨のうるさい魚でも、アワビでも何でも好きだから、「なんぼでも食べろ」って、アワビなどは、周りの固い所を包丁で取って真ん中ばり(だけ)食べました。なんぼ好きでも、2個も3個も食べれば飽きてしまうから、もらって行くからって、むき身をポケットさ、いっぱい入れて持って帰って来たもんだ(笑)。今なら、買えば1個1000円以上するもんね。
梅干をつけるのにね、家のお姑さんが、「梅は、毎年なるもんでないから、今年なったらいっぱい漬けなさい」と。「来年はなんないかもわかんないよ」って。
若いときは、今のように炬燵もないし、ストーブもないんだ、どこのうちにも。お天道様が当たらなくても着るものいっぱい重ねて着て冬は過ごしたし、あとは暖かくなれば働きに出たわけね。ずいぶん働きましたね。
魚の加工場は働く場所同じだったけど、季節で魚が変わっていくから、先輩について教わってね。働いたわけね。夏はカツオ。秋はサンマね。あとはその間にはいろいろあったのね。ワカメとかね。あとは海岸伝いにずうっとアサリが獲れたし、カキや、どっか海苔を採ってきて食べたり。
車のある人たちはみんな舞根の方までカキを獲りに行ったんだが、私はこの辺でアサリを獲ったんです。塩水までペットボトルさ入れて、この塩水で一晩砂ふかせて食べるんだぞ、なんて言って、アサリと一緒に塩水まで持たせたりしたもんだ。その塩水で、アサリが見事につの出すの。
真冬はね、縫い物とかね。お正月の準備はそれぞれその家その家によって家風があるからね。教わって男の人はおかずにするとか、女の人はおせちね。いまだら何万出せば高価なのを買えますよね。それをなに、ここはアワビもあれば、ね、タコもあればね、なんでも魚はあるし。そして食べたもんです。
おせち料理ですか? お姑さんがやったの。この辺では実家の方ではどうやったんだかねえ。義姉(あね)があったから、専門に料理上手でねえ。よそで婚礼があると頼まれて歩ったの。義姉(あね)さんがね。そして料理がうまいから何でもつくってもらって、そして私は何も、姉様がなにもするし、20歳くらいでお嫁にね、なんにもわかんないで来たの。
だからあとだんだんだんだん、見よう見まねで、そうするのかな、こうするのかな、と覚えたのね。覚えたり覚えなかったり、ま、その辺、ごまかしたりやって(笑)暮らしたんでないの。エヘヘ。
おせちね、お重になんてしないの。ここでは。うん。ただ、お膳に、赤いお膳に、ひと品ずつおさかなとか煮つけとか、ゴボウ入れて、黒豆とか、そういうのを出すわけ。私はね、黒豆つくり教えられてね、毎年作るの。お砂糖だの、しょうゆだの、ちゃんと分量があるから、それと豆と、さびた古くぎを探してきて、きれいに洗って、白い布に入れて糸で結わえて一緒に煮るわけさ。そうすると豆がつやつやになるの。アンコは小豆を煮て、袋を通して、煮詰めんの。そうしてやったもの、昔は。
神棚に飾るお正月飾りは、お正月近くになれば、気仙沼でも唐桑でも、どこでも売ってるの。どこで買ってもいいの。宗教によって天理教の絵の家もあるし、うちは仏教だから仏教のもあるし、神様のものでも仏さんのものでもその家、その家によって違いますからね。
丘家の神棚
うちは、買いに行って来て息子がやんの。暮れの28~9日あたりからもう飾りますね。一夜飾りは縁起が悪いし、「餅も一夜で搗(つ)くもんでない」とか言いますね。
元朝(がんちょう)参りは御崎さんまで行ったったのね、昔はね。今は車もないし、誰も一緒に行く人いないもの。だから、うちの氏神さまで元朝参りするんです(丘さん宅には、敷地内に小さな氏神様が祀られている)。昔は御崎さんまで、みんなで連れだって元朝参りだの行ってね。子どもたちも祝いに来るからね。いろいろ縁起物を買ったりしたんだけどね。
毎年正月の14、15日御崎神社例祭に売り出される縁起物。
民芸品として親しまれている。
子どもが小さい頃から、お漬物やおひたしもおやつに出してましたけど、この辺では「鍋焼き」っていうのを作ってました。やっぱりお姑さんに教わってね。小麦粉を水で練って、鍋で焼いたのね。味はお塩とお砂糖と。昔は弦(つる)のついたおっきな鍋があったんです。
そこにトロンと落して、少しはがして、ひっくり返して。薄くて、モチモチした感じなんだね。そのまま切って食べたり、みょうがの葉っぱの載せて焼いて食べたり、あとは昔は青ジソがないから、赤しその葉っぱの上に、その練ったものを載せて、両方返して。そうすると葉っぱの形だけじゃなく、香りも移るからね。ゴマとかクリとか入れたら最高おいしいんだけど、せいぜいゴマふったりする位だね。
この辺では労働しますから、10時のおやつのことを「タバコ」っていうけれど、その時にまあ、そういうのおやつを食べたり、漬物、たくあんなんか出して食べたりしたんです。今のように、買って食べないからね。仕事がやっぱりきついから、おやつを食べるのね。今みたいに12時に昼じゃないんですよ。10時になると、「タバコだよ~」って声かけますね。
いつだかの新聞で、東京のほうから気仙沼の方さ来たお嫁さんが、お姑さんが「大工さんにタバコ出さい」って言われて煙草持ってったって。そんな話もあったですよね。なにもそんなおやつのこと、タバコなんて言うはずないと思うよね。
お姑さんと、喧嘩したこと無いもの。何のかんのって言われても「ハハン」と思ってさ、陰で舌出してればいいんだ。喧嘩したってしょうがないもの。ご飯おいしく食べられないもんね。
お姑さんの方でだって「こ~んなバカさ、語ったって(こんなバカに言い聞かせたって)しょうがねえ」と思ってるんだ(笑)。知らん顔してすぐ仲良くなんのさ(笑)。私はここで私が我慢すればいいんだな、と思えば解決するもんね。
それをわあわあ、わあわあって騒いだって笑われ者にはなるけどね、利口でない証拠だものね。ここでな、ちょっと我慢すべって思うわけ(笑)。そう思って暮らしました。2日も3日も話もしないなんてこと無かったね。
お姑さんが寝付いたとき、お姑さんのホントの娘さんが気仙沼に1人いたったのね。私が「お婆さん、娘、呼ぶからね」っていうと、「あれ来たって何も。いらね、いらね。おら、お前の方がええ。ここにいろよ」ってこう言ったね(笑)。ほんとの娘は要らないって。「おめえ、ここにいろよう。おら、おめえでなくてはわかんね」って。みんな、お嫁さんの方がいい、ってどこのお姑さんも、そういうんだって聞いてたから、ああ、やっぱりな、と思ったね。最後は仲良くなったね。それを、なんだ、「おめえ、だめだ。ほんとの娘を呼んでけろ」なんて言われたらね、こっちもがっかりする。お姑さんが亡くなったのは89歳かな。お姑さんとは、40年一緒にいた。40年。
お姑さんは、孫を大事にして育ててくれるんだ。嫁ゴは若いから働くべさ。そんなこと普通だよ。なんで、お姑さんだって鬼でも蛇でもないもん。
小鯖の丘家は、明治と昭和と2回津波に流されたんだって。そのため、少し高いところに来たんだって。その家も古くなったから解体して建てましょうって、壊したわけだ。そして何日か経って、基礎工事始めたら、一晩のうちに工事してる所に、ダダダダって山が崩れてしまったのね。
もうそこには家なんか建てられないから、お姑さんが「また、下の畑さ(過去に津波で流された場所)建てべな」っていうから「お婆さん、下の畑は絶対反対。2回も流されて、何、下行くって。私は行きません」って。「どこ行くんや」「大工さんと相談します」って頑張ったの。
その頃、山の上はこんな杉とか松の山で、うっそうとしていたの。それを切って、突貫工事みたいにして、そして家建てたのが今の家です。私が46歳の時。昭和46年だから、46歳の時、ここへ来たの。なんでそれを鮮明に覚えてるかって言えば、そこのお姑さんに、「50歳前に家建てれば大丈夫、疲れない、頑張らい、頑張らい(頑張りなさい)」って言われた。
ここさ来るつもりも、何も無かったんだがね。下の畑か、この山しか土地がないから、仕方ないからここへきて。お姑さんが、下の畑さ家建てるって言ったら、背中がゾクゾク~っていったの。なんにも影も形もない、全部後ろから脇から、みんなに見られているようで、嫌だなって思ったね。「お義母さん、絶対反対。あのね、あそこさ、2回も津波に流されて、おら寝坊助で、地震があっても寝てっかもわかんないから、絶対行かねえから」って頑張った。お姑さんも、「ああ、そうか」って。そして、「もう、上さ建てるべえ」と行ったのさ。そしたら今度は津波でそこも崩れたもんだ。
あと砂利とか石は馬が運んでくれた。馬、転んでなあ(笑)・・1回坂のすぐそこで転んで、馬転ぶと1人では起きられないんだってね。綱かけてみんなで「ヨイショ、ヨイショ」って起こして。それを見て、私も昔人(むかしびと)だからね、「馬が転ぶなんて、何か悪いことあるんでねえか」と思って、神様さ行って拝んでもらったんです。そのこと、馬引っ張ってくるおじさんさ話してみたら、「アッハッハハア~」って笑い飛ばされた。「誰、そんなことある(誰にそんな縁起でもないことが起こるもんか)? 拝んでもらったって? 誰、そんなことある? アッハッハッハァ~」ってさんざん笑われた(笑)。
ここ、大工さんが8人も働いたのね。坂の下さ、米屋さんで牛乳売ってたのね。大工さんさ牛乳8本と、おやつも作って持って、上まで上がるのね。ビンの牛乳だから、結構重いですよね。それでも「疲れた」とも「大変だ」とも思わないで、「我が家が出る(出来上がる)んだ~」と思って、喜んで上がったもんだ。
お姑さん、新しい家に喜んでね。その頃、歳は70なんぼくらいになるかな。私が働きに出るわけだ、そしたら、私の留守の間に、自分の着物だのね、持ち物は、自分のものは、ひとりで背負って山の上の家に上げたよ。「これ、背負ってけろや~」なんて言わなかったね。全部自分で上げた。お爺さんが船で出ている間に引っ越したのね、女手だけで。金融機関から借金するのも、自分でやったのさ。学校も出ない、読みも数えも何もわかんないんだけど、わかんないば、聞けば教えるもんね。お爺さんさ、ちゃんと報告はするしね。んで、こうして、そうしてってお爺さんから言われれば「その通りにします」って、用足した。
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
唐桑でボランティアを続ける「からくわ丸」のしょうこさんと
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
丘さんと息子さんが3月11日震災時に辿った経路
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。
その後は、電気も無いわ、電話もないわ、水道も無いわ、ろうそく1本で何カ月暮らしたか。水は下の井戸から息子が両方提げて、運んでくれました。流された家の井戸なのね。つるべって言うか、綱つけて、そして汲んだの。何でも無いば不自由だが、やっぱり、水ですよねえ。洗濯もできない。何日か経って、洗濯もの背負って、娘のところにやっとの思いで行って、大変でしたよ。だから、水道来た時、嬉しかったねえ。2カ月以上じゃないかな。
寒かったけど、ここストーブが1台あったの、ちょうどそれでご飯も炊けたの。石油はちょうど運よくポリ缶で6つ運んでもらったばかりだったから。ここで湯を沸かして湯たんぽを入れてもらって。そしてねえ。そんなあれを思い出すとホントに・・。
電気が無いから、凍結庫のものはさんざん溶けてしまって、もったいないけど捨てました。食べ物が無くてね、「あれ~?」と思ったら、避難所から若い人たちに、お米やら缶詰やらいろんなものを運んでもらいました。助かりましたね。
孫たちが心配だからタクシーに乗ってでも来るって言ったそうです。「来られたらおばあちゃん大変だ、水もないし、電気も無い。なんとかして後に来てくれ」って、そう言ったがね。アハハハ。
電話もここは4カ月ぐらいかかったかな、ずうっとむこうの道路沿いの方は何でも早く来たんだって。ここは全滅だからしばし来なかった。
息子が地震のあと、しばらく一緒に暮らして、ずっと付いててくれたったから良かったんです。息子は会社の仕事もいっぱい溜まってたみたいで、「一回行って来る」って。「とても私ひとりで暮らされないなあ、1人でいられねんだったら、息子と一緒に行ってなんぼでも暮らしてみよう」って、ついて行ったんです。そしたら何にもすることないんだもの。座ったらそのまま。「どうやんべ」って。
玄関から出たって誰も知ってる人もないし、声かける人もないし、あと嫁さんと息子は会社に行ってるし、それも耐えられないの。4晩泊まって5日目には、「なんだ、あんた、今朝全然元気ないんだが」って息子に言われて、「家さ帰りたくなったんだ」「来(く)っと、今度は家さ帰りたくなったって。どっちなの」「うーん、やっぱりなんとしても家さ帰りたいな」そして5日目にはここさ来てしまった。やっぱり何十年住み慣れた我が家の暮らしはね・・。
やっぱりいつ何が起きるかわかんないから、少しは水とか、食べ物なんかも買いおきしといた方がいいですよね、そう思いますよ。やっぱりお米でもなんでも、「今日食べ終わった、明日買いに行って来る」ではだめですよね。食べ物なんかでも余裕持ってと思いましたよ。
うちのお姑さんは、「ご飯てのはな、キツキツ炊くんじゃないんだぞ、少し余計炊くもんだ」ばり言いました。それは2回も津波にあったからでねえかなって今思うんだけど。ご飯はきちっとたいて食べ終わって炊くもんでねえ、少しずつ多めに炊くもんだって、こう教わりました。今みたいに冷やご飯もチーンってやればすぐ温っかくなるもんでもねえしね。朝冷たいご飯、食べられないよね。だから一杯炊きたくなかったんだけど(笑)。
味噌でも醤油でも少しは余裕持ってないと寂しいんですよ。仮設に行ったって避難したって、そういう目に合えば、誰がそういうのを料理して持ってくるだっていうんですよね。だからみんな駆け足で買いにいったんじゃないですかね。1日も2日も何も食べない人、あったんでないかね。たぶん。命を繋ぐには自分が確保しないといけない。食べねば結局は人のためには働けない。なにかに自分の身を守ることを優先にしないと、助ける人がいなくなってしまうものね。ほんとに。
(談)
丘 美津江さんのことば
子どもたちのこと
2番目も先輩後輩に恵まれて定年まで勤め、親としてほんとうに嬉しく思いました。父親にすっかり気持ちが似て、小さい時からおもちゃや機械の入った物をこわしては直し、機械いじりが大好きでした。宮城丸で実習に行き、有難いことに自分の大好きな大きな会社に就職して長く元気で働き、2人とも土地つきの我が家を持ちました。定年後は好きな趣味を持ち、楽しめればいいなあと思います。
趣味からつながる人々のこと
私が老人になり、この様な自分なりのたのしみがあるのも、リホームの畠山泰子先生、パッチワークの吉原たつ子先生のおかげ様です。
同じことを何回もお聞きしてもいやな顔一つせず、親切に教えてくださいます。ほんとうに御二方の先生、有難う御座居ます。健康のゆるす限りお世話になりたいです。
それから近所のお母さん。自分の車で教室はもちろん、どこにでも心よく連れて行って下さいましたね。
楽しい、たのしい年月でした。私はしあわせ者でした。感謝です。
丘さんの美しいリフォームやパッチワークの作品たち
ボランティアのみなさんと思い出のアルバム
このお話は2012年8月から11月にかけ、
「からくわ丸」さんのご協力のもと、
気仙沼市唐桑町にて丘 美津江さんに伺ったお話を
内容に忠実にまとめたものです。
[取材]
RQ聞き書きプロジェクト
みちのく震列伝(南 利幸)
からくわ丸(中内祥子、加藤拓馬)
[写真]
織笠英二
[年表]
織笠英二
[文・編集]
久村美穂
[発行日]
2013年1月31日
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト