『埴生の宿(はにゅうのやど)』という歌は、元は「ホーム・スウィート・ホーム」というイギリスの民謡です。赤土で塗られた貧しい家でも、立派な石の床や宝石を散りばめた御殿よりも素敵だ! なにより楽しい我が家が一番だ!!という歌です。理子さんのお話には、家にまつわるエピソードが多く出てきます。ご夫婦で手作りした16坪の家は、歌の世界と重なり、ご家族が支えあっての暮らしは、まさに「ホーム・スウィート・ホーム」そのものです。
お話の最後のほうで畑仕事から帰られたご主人が「大丈夫だ」「なんとかなるよ〜」と絶妙のタイミングで合いの手を入れて下さっています。音声を聞くだけで、仲睦まじい幸田さんご夫婦の姿を、まるで映画でも観るように思い浮かべることができます。
これまでの生活は決して平坦な道のりではなかったと思います。それでも、理子さんが語る言葉には、ご自身の辛さ・苦しさよりも、ご主人への感謝とご家族への愛情があふれています。理子さんの忍耐強く温かいお人柄を伝える1冊になれば、嬉しく思います。
長い時間にわたりお話しいただき、本当にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。
平成24年7月吉日
RQ聞き書きプロジェクトメンバー一同
幸田理子、です。昭和12(1937)年6月3日生まれで、もう74歳になりました。
生まれた場所は、宮城県気仙沼市本吉町大谷日門(ひかど)です。震災前に住んでいたところからは車で15分位のところです。
私はね、びっくりしないでね、10人兄弟です。私の母が後妻で先妻の子が4人で、母の子が6人です。私は6人兄弟の3番目です。先妻は、病気で、お産して間もなく亡くなったそうです。母は先妻の子どもも育てて、自分の子も育てたから、やっぱり先妻の子どもに気を使って、いつも叱られるのは私たちでした。先妻の子が悪いことをしても叱れないのね。
私の父、お父ちゃんは魚屋さんでした。大谷には「大網(マグロ・イワシ・サバなどの回遊魚を捕らえる目的で、あらかじめ海中に建て込んでおく定置網に近い仕掛け網。入りくんだ岩礁地帯が続き、海藻類が多い本吉地方沿岸では盛んに行われていたという)」というのが3丁目と日門にあって、朝2時頃沖へ行って4時半頃にはお魚をいっぱい獲って帰りました。その網からお魚を買って自転車に積んで売りに行くのが父の仕事でした。
お父ちゃんは、米川(宮城県登米市東和町、内陸部にあたる)くらいまで売りに行っていました。魚箱を2つ積んで自転車で1時間くらい。行きは上り坂だから、家の人が付いて行って自転車を押してね。子どもたちを2人くらい連れて行きました。一生懸命働いたお父ちゃんでした。行商です。商売相手は個人のお客さんでした。
その頃はお米が無いでしょ? こっちではお米が無い。あっちは米処だからお米はある。だから、お魚とお米を物々交換です。
ところが当時はお米を持っているのがお巡りさんに見つかると捕まったんです。帰り道でお巡りさんに会うと困るから、あそこにお巡りさんがいたというのがわかると、魚箱と自転車を隠して自分たちも隠れて、お巡りさんがいなくなってから帰って来るんです。遅い時は、帰りが夜中の1時だ2時だということもありました。それでも、お米を欲しい人たちがお父ちゃんの帰りを待っていましたね。そんなわけで、私たちは、お米は食べさせてもらえました。
私たちは、入学の時は国民学校です。昭和20(1945)年、小学校2年生の時に終戦になりました。
終戦になる1カ月前かな? 大谷の海があって堤防がずっとあって、そこにパルプ船、山の木を伐ったのを積む大きな船があったんです。その船にアメリカの飛行機が飛んで来て空襲警報が鳴って爆弾を落とした。7月21日です。
私が囲炉裏で膝をついて、おばあちゃんに湯のみを出して「お湯ちょうだい」ってした、ちょうどその時に爆弾が落ちたの。直ぐ近くのことだからビックリしてしまって、ビックリした勢いで耳に熱湯を注いでしまって鼓膜が焼けてしまいました。だから、今は補聴器を使っています。
小学校2年生で終戦を迎えたので、それからは大谷小学校です。同じ学校なのに名前が変わったの。教科書も立派な紙じゃなくて、バラ版、茶色の紙でガリ版印刷みたいなもので、直ぐに壊れてしまって。カバンもランドセルなんだけど、紙でできたランドセルでした。半年も持たないうちに蓋がもげちゃう! 色だけは赤かったです。女の子が赤、男の子が黒でした。
今のランドセルは6年間持っても新品みたいだけど、紙のランドセルは毎日使っているとボロボロになってくるの。画用紙を張り合わせたような感じでしたね。
紙のランドセル
紙のランドセルはこちらのサイトなどで見ることができます
私たちの学年は、最初は110人でした。それが、近くに「大谷金山」があるから家族みんなで働きに来る人がいたり、都会は空襲が激しくなってあちこちの家へ疎開してくる人がいたりで、学年159人まで急に増えました。
大谷金山跡(1971年閉山)
写真:「みちのく悠々万歩計」
小学校では、色別リレー選手や徒競走の選手でした。わんぱくだったのね。中学校の先生から「足の裏を見せろ」と言われて、足の裏を見せたら「他のスポーツじゃなくて陸上をしろ」と言われて、陸上を始めました。走り幅跳び、走り高跳び、砲丸投げ・・・、いろいろな種目をやりました。
結婚した後も、部落で毎年開催される年代別の徒競走大会ではいつも一番だったの。それで、一番の人は写真が小泉公民館に貼りだされるの。毎年優勝するから、私の写真が貼り替えられていましたね(笑)。小泉公民館も、今度の津波で流されてしまいました。
小泉小学校の高台から見える町
写真:東日本大震災 写真保存プロジェクト
昭和22(1947)年、私たちが小学校5年生の頃に学校制度が変わり、尋常高等小学校は中学校になりました。終戦後、中学校までが義務教育になったんです。
夫は昭和7(1932)年生まれだから、入っても入らなくても第1回中学校卒業生になっています。彼の家は貧しかったから、中学校へは行かなかったみたい。私の亡くなった1地番上の兄は中学へ行きました。
私は第6回卒業生です。「大谷中学校第6回卒業生」なんて面倒くさいから、「6中会」って言って同窓会もやっていました。72歳の時、2年前に蔵王へ行ったのが最後の同窓会です。今回の津波で同窓生もだいぶ亡くなりました。本当は今年、秋田の玉川温泉へ行こうって話していたんだけどねぇ。
お米は食べられたと言っても、いろいろなものを混ぜて食べました。麦ばかりじゃなくて大根の葉の干したものや、ひじきご飯とか、サツマイモのご飯だとか、いろいろです(かて飯)。食べ物が本当に無い時代でしたから、学校のお弁当にはサツマイモを蒸かしたものや、きんとんを持って行きました。
きんとんってわかる? じゃがいもを煮て、皮を取ってすりこぎで潰してね、家族が多いから、お餅をつく臼に皮をむいたじゃがいもを入れてペッタンペッタン潰して少し粘りを出してから丸めて、花みたいにひねって格好をつけて。砂糖が無かったから先っちょに味噌をつけて、それを弁当缶に入れて持って行ったりしました。
家で畑もしていたから、小麦を蒔いて、小麦の粉で今ならホットケーキみたいなのを焼いて食べたりもしました。
砂糖といえば、戦後、小学校5年生くらいになると砂糖の配給がありました。その砂糖も、ザラメみたいな、目の細かいザラメって感じで、そこに毛布や南京袋のクズみたいなのが混じっているようなやつ。今なら大騒ぎでしょうね。その頃一緒にとうもろこしの粉も配給になったので、やっぱりお菓子を作ったね。作ったお菓子に砂糖をつけて食べて・・・。いろいろな代用食も作りました。
ウチの母、おふくろは主に畑で働いていました。先妻の子の姉さんたちが大きくなると、食事の支度は姉さんたちがしてくれました。
その頃はとにかくお腹が空いて、子どものすることだから叱れないと思うんだけど、砂糖を少しずつ舐めるのね。一休さんのお話(和尚さんが出掛ける際、一休に「この壷には毒が入っている。決して開けてはならぬ」と言い残します。しかし、一休は、その壷の中身が気になり開けてしまい、中から漂う甘い香りで秘蔵の飴だと知り、全部食べてしまう。帰って来た和尚さんは一休さんを激しく叱責するが、一休はわびて、「つい開けてしまったので、中の毒を舐めて死のうと思いましたが、全部舐めても死に切れませんでした」と言ったという)と同じ。少しずつ舐めているうちに無くなっちゃうの。おふくろが隠しているのを探し出して食べるの。私たちが探して食べるから、またおふくろが隠すの。それでも、探し出して食べて・・・。叱られましたよ。今なら「申し訳なかったなぁ」と思うけど、あの頃は子どもだからわかんないよね。
おふくろには、お父ちゃんのところへ来る前に一度他所へ行って連子してきた男の子があったんです。その息子が満州へ行って亡くなっていて、登米の方に仏さんをお祀りしているところがあるからって、おふくろが拝んでもらいに行ったことがあるの。
登米の方はスイカが名物だから、帰りにいっぱい買ってきて、そのスイカを仏様に上げてあったのね。それを見て兄さんが「理子、このスイカを落としてみたらどうなるかな? 割けるか? 割けないか?」って。それでスイカを仏壇から下げて落としてみたらヒビが入ったの。兄がそのスイカの裂け目のところに刺身包丁を差し込んで、刺身包丁って細いでしょう? あれを中に入れて実を出して食べてね。自分だけ食べると怒られるから、私に「オメェも食え」って。大人がみんな働きに行っているうちに食べて、知らないふりをしてまた仏様に上げておいたの。「さあ、みんなで食べよう!」って下ろしたら中身が無いのがバレて、おふくろに怒られた。そんなこともありました。
ウチには、もともと畑も田んぼもありました。母は気仙沼の階上(はしかみ)の出です。いい家の育ちで、実家は田んぼもたくさんあったし、海苔とか牡蠣だとかやっていたの。だから、おふくろは物がないと実家からみんなもらってきて私たちに着せたりしていました。今度の津波で岩井崎や階上のあたりも全部ダメになってしまいました。
より大きな地図で 階上-岩井崎-大谷 を表示
中学を卒業して、春から秋までは家の百姓仕事を手伝ったり、鉄道の建設現場へ働きに行ったりしました。ちょうど麦を撒き終わった頃で、三陸鉄道の現場へ40日くらい通いました。鉄道の始まりの頃なので、トロッコに乗ったり、トロッコに荷物を積んで運んだりしました。コンクリを使う時は、今はコンクリの袋も20キログラムくらいの小さいのがあるけれど、その頃は1袋が40キロでした。私は背が大きくて力があるから、ドーンと40キロを載せられて、それを持って運びました。「あねっ娘は、力がある時は160円払うんだけど、オメェは力があって一生懸命やるから180円やるかな」って言われて、その20円が嬉しくて一生懸命働きました。
そうこうするうちに、兄が床屋さんのお嫁さんをもらったの。私が中学を卒業した年です。それで「お前、ご飯炊きに来い」って言われて、ご飯を炊きに行くようになりました。行けばご飯を炊くだけでなくて、タオルを洗ったり、そういう床屋の手伝いもして、家のことも床屋のことも両方手伝いました。
私が兄の家に手伝いに行くようになってから、鉄道の現場でコンクリートミキサーに女の人が挟まれる事故があって、兄が「だから、オメェ、辞めて良かったべ?」って、それで「床屋になれ」って勧められて、昭和28年の10月から通信教育を始めました。どうせ床屋になるなら、さっさとなれば良かったんです。
ちょうど私が中学を卒業した年、昭和27(1952)年の6月に理容師法が改正になって、それまでは弟子を少しやって試験を受ければ良かったのが、学校を卒業しないと試験が受けられなくなって、私の年はどこの学校もいっぱいになってしまったの。その6月より前に床屋へ弟子入りした人は、「お情け免許」がもらえたんです。
通信許育は2年間でした。1年に何日かは実習で学校へ行くの。私は岩手県の学校へ行きました。夜遅くまで働いて、通信教育だから布団に入ってから勉強しようと思って書くんだけど、3行くらいで眠くなって・・・。翌日復習しようと思ったら、「何書いたんだ?」そんな風でした。
当時はお店が忙しかったんです。その頃はお店も少なくて、サンマ船が漁港に帰ってきて水揚げを済ますとみんな床屋に来るの。だから、休みなしで朝の3時頃まで床屋をしていました。それでも朝の6時には起きないといけないからね。
通信で免許をとった後も、ずーっと兄のところで働きました。8年間です。私が免許をとった頃には別の新しいお弟子さんを入れて、3人でやっていました。お嫁入りの道具も買ってもらったんです。
兄のところは子どもが男の子ばかりで、お姉さん(兄嫁)が亡くなる時は、「理子、看護頼むな」って言われて看護に通って、亡くなる時も泊まりました。一生懸命親身になって亡くなる人の看護をすると、不思議とどこにいても夜が怖くないんだよね。
ウチの隣に小泉からお嫁に来ていたお婆さんが住んでいたの。そのおばあさんが、今の旦那の家に「床屋さんをやってる娘さんがいる」って紹介してくれたの。お見合いだね。
耳が悪いってことは、お見合いの時に正直に話したの。隠さなかったの。そうしたら、「いいよ」って。それで、「俺もさ、頭悪いしさ、物を書いたり何だりしたり苦手だから、そういうことはオメェがみんなやってけろ。小さい姉っこがいろいろ言うのは俺がカバーしてやるから、他の人たちが言うことも俺がカバーするから、俺のこともカバーしてけろ」って言われたの。そして、昭和34(1959)年の11月26日、23歳で結婚しました。今の天皇陛下のご成婚が4月10日で、同じ年なんです。
本当にこの人には助けられた。結婚して52年になるけど、ずっとカバーしてもらいました。
旦那は、建設省関連の仕事を請け負う会社に勤め、主に道路工事をしていました。重い物を持つ肉体労働というよりも、歩道のブロックなどの細かい仕事が多かったの。グラインダーでブロックを切る仕事は、家に持ち帰って切って仕上げて、翌日持っていくこともありました。
お嫁に来て、旦那のお義姉さんと一緒の暮らしが始まりました。家は、旦那が父親と建てた家でした。お嫁に来た後はお金がなくて、自分で農協から借金をして床屋を始めました。私がお嫁に来る前から雑貨屋さんをやっていたので、茶の間一つに雑貨屋と床屋とが板間続きでした。雑貨屋では、アメっことかチョコレートだとか、お菓子を売っていました。
私が妊娠すると、保健婦さんが検診に来てくれてお話をするんだけれど、それをお姉さんは「人目(ひとめ)しょす(恥ずかしい)」って言うの。恥ずかしくないよね? そのお義姉さんというのは、腹膜炎をやって子どもがいないからって離婚していたんです。だから、チョット違ったところがあったんだと思います。
妊娠すると、どうしても病院へ行くでしょう? それを「金かかるー、金かかるー」って言われました。
それでもお義姉さんにとっても、生まれた子どもは可愛いんだよね。子どもが生まれると、自分がみんな抱っこして寝てました。布団を敷いて、2人、両方共抱っこして、実の母親の私には寄こしませんでしたね。私が忙しかったから、かまってやれなかったっていうのもあるんです。年越しの日なんて、朝の6時から次の日の朝6時まで一睡もしないでやりましたよ。ありがたいことに大谷から小泉に来て店を出しても、大谷のお客さんがわざわざ小泉まで来てくれたんだよね。
子どもたちが少し大きくなると、雑貨屋のお菓子を食べ放題。下の娘はチョコレートの食べ過ぎで円形脱毛症になった程です。その分の支払いも私が全部払いました。
ところが、お嫁に来た頃は、お義姉さんがお風呂に入ると背中を流したり、なんでもやりました。それが、子どもが生まれると、子どもをお風呂に入れてもらっても、上げるのは私。風呂上りの子どもの世話をやらなくてはならないから、お義姉さんの背中なんて流せないよね。なんでも全部やっている時は良かったんだけど、いろいろできなくなったら段々気に入らなくなったのね。結婚して6年8カ月で、突然「(この家には)いらない」と言われました。
お義姉さんと妹(小さい姉っこ)と、兄貴、それから母親の4人で相談したんです。それで、旦那まで連れて行って私を1人残してから「後10日間、床屋で稼いだお金を持って出はれ(出ていけ)」って。今まで働いたお金は、全部その日の夜にお義姉さんに膝をついて出していました。私も途方にくれてしまって「どこがいけなかったんだか全部直すから、なんとか置いてください」って手をついて謝りました。今のお嫁さんならそんなこと言わないでしょうね。昔だからね。
だけど、「いいから、いいから」って取り合ってくれない。「今までのように全部やらなくていいから、白いご飯を炊いたから食べて」って言われました。おまけに「明るいうちに荷物を運んではダメ。夜10時になってから運べ。車もダメ」って。
私の実家の兄は車を持っていたから、車を頼んだら、私が全部荷物を積んで大谷へ帰ると思ったんでしょうね。「昼間はダメ。リヤカーで運べ」って言われました。旦那のお兄さんに「なんとか元に戻してくれ」ってお願いしても「いいから、いいから、決まったことだから」って。「それより白いご飯を食べろ」って。
それが6月30日でした。
それから、言われた通りそのお兄さんの家の牛小舎の上にリヤカーで荷物を運んで、7月から9月の中頃まで暮らしました。牛小舎の上に藁を置いている、その藁をよけて、私のタンスを境にして畳を3〜4枚敷いて、そこに寝ました。キリスト様と一緒だね(笑)。
牛がアブに刺されると柱に体をこすりつけるの。夜になるとそれをするの。牛が柱に体をこすりつけると牛小舎が揺れるんだよ。そんな生活が3カ月です。床屋は続けてもいいということだったので、通って床屋の仕事はしました。
昔の人が言ったことは本当で、親は自分の子どものためなら我慢するよね。自分の息子がもらった嫁なら、息子のために姑は我慢するよ。ウチの場合は、自分の腹を痛めて産んだ子じゃない舎弟っこだから、弟の嫁だから我慢できなかったんだろうと思います。
私は耳が悪いから、その頃は補聴器も使っていなかったし、お義姉さんが呼んでも聞こえなくて返事をしない時もあったかもしれない。お義姉さんを責めるんじゃなくて、自分が悪かったんだなぁって自分を責めています。
今度津波で流された所、そこの土地を、タクシーをやっているお客さんに「あそこ良い所だぞ」って紹介されて買いました。お客さんは、タクシー会社の社長さんだったから、初めは自分でその土地を買おうとして、土地の持ち主と話を進めていたんだけど、お酒を飲んだ時にもめて、買えなくなったの。それで、私に声をかけてくれたんです。
その頃、旦那は山へ行ってダムを作る仕事をしていて、山から捨てる土をもらってきて田んぼを埋めました。昼間は、私1人で石を拾って土を入れたんです。それから、家の前が農協だったのでセメントを100袋注文して2人でセメントを練って下からコンクリをやりました。自分たちでやったの。旦那が家から出る時に30万円もらったのを半分使って、自分も30万円借りて、小さい家を建てました。小さく建てたの。16坪です。そのうち5坪が床屋です。
家を建ててからは、順調に忙しい生活が始まりました。本当に苦しくても、旦那は朝早く起きて海へ行ってワカメを拾って、ワカメを拾ってくると、3万、5万、7万円って日銭になったの。この人は川も好きだから、夜、川に網を張って川魚も獲りました。ウグイとかいろいろ。そういうのを売ったり、売らなくても床屋さんのお客さんにあげると喜ばれて、そのお客さんが次に来る時にいろいろな物を持ってきてくれたりしました。
そうやって一生懸命頑張って、その家を建てて何年目だろう? 手狭になったので、廊下を足して広間を建て増ししました。下を物置にして、上に部屋をとって子どもたちの部屋にしました。
そうこうするうちに、ウチの土地が国道にかかったの。昭和54(1979)年です。
それで、旦那が居ない時に建設省の所長さんが来て事情を説明してくれたの。私たちも、家に車がぶつかって怖い思いをしたことがあったから、歩道を作ってもらうことには賛成でした。だけど、ウチには余分なお金はないから、「1回で協力するから、私の方にも協力してけろ」って交渉したの。そうしたら、所長さんが、「何回も歩くより、もし本当に1回で協力してくれるなら、今から預けてもいい」って言って、本当に間に合うくらいちゃんとお金を払ってくれるって言うの。
で、みんなは、結局お金が下がらなかったら困るから、ちゃんと録音しといたほうが良いんじゃないか・・・とか、いろいろ言うの。でも、私は信用したの。それでちゃんとしたら、前の家の分は小さいなりに補償してもらえたので、そこにウチのお金を足して、家を新築しました。
家を新築する時に、もしこの先、娘がお婿さんをもらって部屋が狭いなんてことになると困るからって、ちゃんと建てたら75坪の家になりました。柱も青森檜の5寸柱にして、押し入れまで白壁で塗りました。床屋のお弟子さんをとって、娘たちも大きくなったので、25坪の物置も建てました。
その家で19年間暮らしたら、今度は2級河川の整備にウチの土地がかかって、また、旦那の居ない時に県の役場の人が来たの。で、やっぱり旦那の居る時に来て欲しいから「ご主人は何時頃帰りますか?」って「5時半頃帰ります」って話したら、ちゃんと5分前に、家の前に車が2台も来て待ってるの。
で、旦那が帰ってくると直ぐに役場の人も入ってきて、旦那は、まだ家を建てて19年しか経ってないから「家を引っ張るか?」って言うの。敷地内の小さい物置がある所へ引っ張ろうって話になって、でも私は、引っ張るとどんな風にやっても、やっぱりグズグズになるだろうと思って、だから、県の役人さんが来た時、私はまだ床屋をしていたから、仕事が終わるまで待っててもらって、家をそのまま引っ張る値段と一度解体して組み直す値段と、それぞれ計算してもらったの。そうしたら、引っ張るほうが半分位なの。
でも、引っ張れば土を入れなきゃなんないし、土を入れても固めることができないでしょ? だから、やっぱり新しくやり直したほうが良いってことになって、全部ほぐしてやることになりました。それが13年前です。
大工さんがコンクリを家の土台の下に、ベタコンっていうやつね、旦那は建設の仕事で詳しいから、鉄筋を入れて念入りにカチッと建てたつもりだったの。床屋の設備も最新式にして、前流し、椅子が2つ、消毒流し、太鼓型の大きな鏡が2つ、スタンド式の紫外線消毒器・・・。いろんな物を全部揃えたのに、今度の津波で家ごと流されてしまいました。今頃、どこに転がってるんだろうねぇ。
45号線から見える幸田さんご自宅付近
写真:「STAGEAと走れ!」
陸前小泉郵便局と理容店
子どもは娘が2人です。今一緒に暮らしているのが上の娘。私と同じ理容師です。下の娘もパーマ屋さんをやっていたんだけど、結婚して、今は仙台で暮らしています。
爺ちゃんは、自分の子どもの時は、学校の参観日なんて行ったことが無かったよ。唯一行ったのが一番最後。9年間で1回だけ行ったことがあるの。「嫌だ、嫌だ」って言うのがね、行ったらなかなか帰ってこなくて、夜の7時頃に帰って来て、「どうしたの?」って聞いたら「あんまり先生だの、校長先生だの教頭先生だのの話が面白くて、居てしまった」って(笑)。2人の娘を通わせて、後にも先にもその1回だけ。
それが、孫になったら、毎回行くの。どんな時も。遊ぶような、ゲームをするような時も全部行って、ままごと遊びみたいな、買い物遊びみたいなのも、ちゃんとやったの。紙のお金をもらって、いろいろ買って歩いてね、風船だのなんだの、そんなのを袋いっぱい買わせられてねぇ。運動会でも、フラフープみたいな輪をくぐるのがあって、その輪がフラフープよりうんと大きければ良いんだけど、あんまり大きくないから爺ちゃんがくぐれなくてね・・・。そんなのも、ちゃんと挑戦したの。
床屋の仕事は、昔も今も一緒です。今は私らの時から見るとパーマが入ったね。テンションパーマだなんて、アイロンでやるのもやりました。
娘はわけあって離婚したんですが、その時からあんまり神経をつかったものだから神経性リュウマチになってしまったの。リュウマチを調べる血液検査があるんだけど、3段階あって、上の2段は大丈夫なんだけど、3番目がチョコッと。これ以上高いと、本当にそうなるよっていう危険性のほんのチョコッと引っかかってね、薬を飲んだらなんでもないんだけど無理はさせられないから、アイロンを使うのはチョットね・・・。
流れた家を建てた時だから何年だろう? 階段を歩くのに、「足が痛ぇ、痛ぇ」って言うから、風邪でもないから変だなぁと思ったの。やっぱり、あんまり神経を使うのはダメなんだよね。3カ月に1回は血液検査をしていて、薬ももらって、今は落ち着いています。「進行しないように、一生薬は飲みなさい」って言っています。
私が70歳の時に、古希のお祝いで花巻温泉へ行こうって計画していたの。ちょうどその頃、夜寝てる時に、胸の辺りにトコトコって鳴るところがあって、なんだろう?って思って、お風呂上がってから乳房を触ってみたらコロって、つまめる位大きくて「乳ガンかな?」って。こんなにでっかくなってたら、もう末期だよ。
それから1カ月位、誰にも言わないで自分1人で悩みました。日にちが経てば経つほど、こたえるんだよね。ウチの親戚にガンで亡くなった人がいて、その人の家が見えるんです。その家を眺めながら「あ〜、私も・・・。なんでだなぁ〜」って。いろいろなことを考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になって、死ぬことばっかり考えるようになってしまって、「いや、これでは皆に迷惑をかける」と、ハッと思ってね。
それから、夜ご飯を食べた後に、娘がお茶碗を洗っている横へ行って「えみ、おれさ、明日、気仙沼の公立病院さ行ってくるよ。なんだか乳ガンみたいだからさ」って話したら、「まだ、何もわかんないうちに語るな〜!!」って娘が怒るのよ。「いや、本当なんだ」って訳を話して、娘はビックリしてしまったんだね。
で、その足で、今度は爺ちゃんのところへ行って「爺ちゃん、おれ、こういう訳だからさ、明日病院へ行ってくるから」って言いました。爺ちゃんもビックリしてね、「明日病院へ行くのか?」って、血の抜けたような声で2回言ったきり、後、口きかなくなってしまって・・・。「明日、朝一番ので行って来るっちゃ」って寝たの。
朝6時になってね、始発の電車が6時53分で、家の前が駅だから「行って来るかなぁ」って思ってゴソゴソしてるうちに、爺ちゃんが「支度を早くしろ」って。送って行くと思ってくれたんだね。あの時は、やっぱり、おっかなかったよね。
コロって大きくあったところに麻酔をかけて、ワイヤーみたいな針の先にメスが開く器具を3回その細胞に差して、画像を見ながら取りました。1回目で大きいコロッていうのは取れたんです。
そうしたらそこに水が溜まって、水が溜まるとトコトコ鳴るの。で、やっぱりその下にガンがありました。それを手術でとったのが70歳の誕生日です。70歳でおみやげにそんな物をもらってもねぇ・・・。
その手術の前の晩ね、明日が手術だという夜に、いろいろな書類を金庫から出して、10畳間に書類を拡げて、一人ひとり6人分をわかりやすいようにみんな揃えて、それぞれ輪ゴムで止めてたの。そうしたら、一番上の孫がスーッと来て、「婆ちゃん、何やってるの?」って。「婆ちゃん、手術するから、手術するといつ帰って来られるか? わからないから、お母さんからやってもらえるように、わかるように、みんな整理して揃えてたんだ」って言ったら、「嘘でしょ? 婆ちゃん、お小遣いでも無いから、こんなことしてるんでしょ?」って言うんです。
前に、手提げ金庫を子どもたちが欲しいって言うからあげて、その金庫に3人でお小遣いを入れてたのよ。そうしたら、大きな孫が、手提げ金庫の自分の財布から「婆ちゃん、ここに6万なんぼ入ってるから、みんなあげる」って。女の孫も来て「婆ちゃん、おれのもやる」って財布を置くの。一番小さい孫まで持ってくるんです。
「本当に婆ちゃん、お金はあるから、おめぇたちちゃんと持ってな。しまっておけ」って言いながら返したんだけれど、皆で私を心配してくれて・・・と思ったら、孫たちのその気持ちがうれしくて涙が出ました。
本当に、おらの子どもたちは素直に育ってくれたから、お父さんが居なくてもね、それがうれしいの。
今一番小さいのが中学3年生で男の子です。2番目が高校2年生で女の子。一番上が今年成人の男の子です。
ウチの孫は、お客さんが来れば、自然とサッとお茶を出すよ。みんな3〜4年生からそうやって、いつもやってるから自然にできるんです。お客さんが来ると、スーッと知らない間に来て「お客さん、コーヒー? お茶? どっちがいい?」って聞いて、「美味しいコーヒーがいい」って頼むと、「1点セット? 3点セット?」ってね。わかる? ブラックか? 砂糖とミルクも入れるかどうか?ってことね。それで、ちゃんと準備して、お皿にのせて、お盆っこのせて、「どうぞ」って持ってきます。
3人とも、気働きができて、優しくてね、素直にまっすぐ育ってくれていることが、本当にうれしいです。
おふくろが産んだ6人兄弟の一番上の兄が、床屋のお嫁さんをもらった兄なんだけど、お正月の3日の昼にホテル観洋で一緒に新年会をやったの。お酒が好きだったからね。で、お姉さん(床屋の兄嫁)が1年前に亡くなっていたから、お酒が入ったら「おれも、おけぇのとこさ行きてぇ〜」って言うの。なんか予感があったのかなぁって、今なら思います。
それで、酔っ払った兄を私たちで連れて帰ってきて、こたつに寝かせたの。寒くなるといけないから、こたつの電気を「中」で入れたのを覚えています。それで、もらってきた残り物を置いて玄関を出たら、兄のところの家督息子が帰ってきたの。それが2時半くらいです。
その息子は、奥さんの実家が気仙沼にあるから、また出かけたんだそうです。それで夜の8時半に帰って来たら、「あれ? 親父居ねぇなぁ」、布団を見ても居ないから、「あれ?」って。そうしたら、こたつから顔だけ出てて顔色がおかしくて、声をかけても応答なし。冷たくないから一応救急車を呼んで市立病院へ搬送したの。こたつに入ってたから温かかったのね。心筋梗塞だったそうです。
兄弟とは今も全員と付き合っています。先妻の兄弟も全部です。
私の舎弟っこは、墓石屋をやっています。
弟の墓石屋と言えば、ウチの爺ちゃんは、土日の仕事が休みの時に、その墓石屋でアルバイトもしていました。爺ちゃんは、ただの偉い人では無いの。建設省関係の国道の仕事では全部働いて、いつもお給料の封筒は開けずにそのまま渡してくれるんです。
ある年にボーナスが出たから神棚に上げて、それきり忘れて、次の年に神棚のすす払いをしたら封筒があって、中にボーナスがそっくり入っていたなんてこともありました。
71歳の誕生日の10日前まで現場で働いていました。
開口の日は、大きい孫と私と爺ちゃんの3人で船に乗って、ワカメ・ウニ・アワビ・・・漁もしました。売るばかりではなくて、アワビを孫が会社へ持って行って皆さんに食べてもらったりしました。喜ばれましたね。
今度の地震と津波で、お墓が動いてしまったでしょう? 爺ちゃんは、墓石屋の手伝いでわかっているから、今はお墓を回って少々ずれたり傾いているのを、直して歩いています。
私は、本当にこの人に助けられた〜と思います。
津波に流された日は、ちょうどマツモの開口日だったの。午前中はマツモを採りに海へ行っていました。それと、銀行から100万円を下ろしてあって、孫の車の保険をかけようと思っていました。
海から帰って来て、寒い日だったから、コーヒーを入れようとしていた時に地震が来ました。ワゴンで逃げたから、トラックも、せっかく採ったマツモも、100万円も、全部流されてしまいました。
鉄道の鉄橋があるところからちょっと手前に田んぼがあって、国道45号線の橋があるでしょ? その橋の下から津波が来たの。津波っていうのは、下がモジャモジャになってくるのね。1回目の津波が一直線になって来た時、私たちは幼稚園の上まで避難していました。そこから見ると、ナイアガラの滝みたいになって真っ白になってダーッて寄せてきたの。
でも、堤防もあるし水門もあるから大丈夫、ウチの手前は線路もあるんだから・・・って。そうしたら、そんな物は一つも役に立たない。水門もなにも、その上を越えて、線路も越えて、大きな波だったんだね。1回目で郵便局が流されました。
そうしたら次にウチのトラックが流れて、「あれ、なんだ?」って思ったら、ウチの船が流れて、その次の波が来たら、1度目の波で下が洗われてるから浮いたんだろうね。歩道を作って1年、立派な歩道だったんです。歩道は壊れないで、波がその歩道にバーンって当たってウチの2階の屋根を越えていったの。その勢いで、浮かされた格好になってウチも終わり。その波で小泉も全部終わり。
幼稚園に避難していたんだけど、ここも危ないから小学校へ行けってなって、小学校へ行けば中学へ行けって。もっと上へ上へって逃げました。今、上の方に家の残っている辺りまで逃げました。
中学へ戻ると、中学生の孫たちが地域ごとにプラカードを持って一生懸命やっていました。
一番大きい孫は、気仙沼の船のエンジンを直す会社で働いていました。気仙沼の鹿折(ししおり)という所です。津波が来て夜に火事になった所です。いや〜私、死んだと思ったんだー。だって、海と道路一本隔てただけの会社です。後は堤防があるだけ。
「津波が来るから早く逃げろ〜」って会社の上の人に言われたんだけど、パソコンで、ここに何千万円っていう会計があって、自分には責任があるから「これ、どうするんですか?」って。「そんな物いいから、逃げろ!」って言われて車で逃げて、まだ2年目で気仙沼の市内はそんなに詳しくないから渋滞に巻き込まれて、空いてる方へ行ったらお魚市場に出て、そこの屋上も津波の避難場所に指定されていたから、車を降りて駆け込んで・・・。危機一髪で助かったそうです。
2番目の高校生の孫は、志津川で、いつもは地震になると学校は子どもを直ぐに帰すんだけど、あの時は学校が子どもを出さなかったから助かりました。
帰るつもりで駅へ行っていたら・・・。志津川駅も津波で流されたからね。
あの日は寒いからカーテンを体に巻いて寝たそうです。志津川からここまで歩いて帰ってきたの。地震の後3日目の朝から歩き始めて、山伝いに来て、後ろから来たトラックに途中まで乗せてもらって、前を見たら剣道の先生の車がいたから、今度は先生に声をかけて歌津まで送ってもらって、ようやく帰って来ました。大きな男の孫もその女の孫も、2晩帰って来なかったから、もうこれはダメだから、「行方不明」と書けって、避難所で責められたんです。本当にその時は辛かった。
それから避難所で生活して、ここの仮設が当たったんです。6人家族で食料も何も持たずに逃げたからね。
私は戦争中と戦後の物のない時代を知っているから、今、このように不自由になっても、そんなに苦には感じません。当時のやり方も覚えているからだと思います。それでも、仮設に入る前の晩だけは眠れなかった。だって、避難所で、夜の8時過ぎに「話があります」って呼ばれて、「仮設が当たった人は、明日の10時から、ここの集会所で説明会があります。説明会が終わったら鍵を渡されるので、荷物を運び出してください。夜からの食事はストップです」って言われたの。
米も無い、味噌も醤油もない。あるのは自分たちが食べないで残しておいたパンが10個くらいです。カップラーメンが配布になっても、家族1人の人も1箱、ウチのように6人家族でも1箱。パンだって、ラーメンだって、6人で食べたら2日持たないでしょ。1人の人は12日も食べられるんだよ。本当にあの時は「どうしよう〜」って眠れなかったね。
次の日「避難所に来てください」って呼ばれて行ったら、米2キロ入った袋を2つずつ渡されて、それでおしまい。この時も、世帯の人数が1人でも6人でも2つずつでした。
避難所にいろいろな団体さんが来て、給食支援があるよね? そういう時、私たちもいただきに行くっちゃ。そうすると、何も悪いことしてないのに「仮設来るなー」って言われました。悲しいよね。
欲しい時に欲しい物がもらえなかったからね。暖かくなってから冬物をもらったり。
春休み前で、学校の荷物を家に持って帰って来ていたから、高校生の孫娘は電卓を2台とも流されてしまって、ビジネス科に通っていて電卓試験を取りたいんだけど、電卓がないからそのまま受験できずにいます。試験用の電卓って普通のと違うんだってね。
小泉に「ひまわり温泉」って言って、お風呂や、シャワー、お茶っこ、夜は少しお酒も出して人の話を聞いたり励ましたり、一生懸命やってくれていたおじさんがいたの。で、ウチの3人の孫達は、皆そのひまわりおじさんの所へ行って、お手伝いをしていたの。
朝早く5時頃起きて、下の瓦礫へ行って、瓦礫を持ってきてストーブを点けて、お湯を沸かして。まだ寒かったから女の人たちが炊事をする時に冷たいでしょう? 湧き水を汲んで、ストーブ3つでお湯が沸くように準備してました。自分たちも服がないのに、汚くなって擦り切れるまで瓦礫を運んでね。
成人した男の孫は、会社から理事長さんが来てくれて、「会社が無くなったから」と話されて一度は会社をクビになりました。それで他にすることもないから、一生懸命ひまわりおじさんの手伝いをしてね、夜お酒を出す時も、自分は飲まないけど、お手伝いはしていたの。
そうしたら、1週間後にもう一度理事長さんが訪ねてきて、「どうしても、おめぇのことクビにしたくないから、福島に出張してくれ」って言われたの。福島って、原発だよね?
「出張してくれ、悪いけど・・・」って頼まれて、孫も少し怖いとは思ったんだけど「使ってもらえるなら行きます」ってお返事したの。でも、行くと決まっても着る物も履く物も無い。中学生の孫が「ウチのあんちゃん、仕事で福島へ行くんだ」って、ひまわりおじさんに話したら、明日福島へ行くっていう晩に、大きな袋に、靴とTシャツと作業着上下と靴下、手袋、帽子と全部入って、それに団扇(うちわ)のでっかいのも入ってて、その団扇に「さとし、がんばれ! ひまわり爺より」って書いてあったの。本当に嬉しかったです。
福島には20日間ほど行っていました。自分は機械課では無いんだけど、「事務だけではやっていけないから、事務をやれるようになったらまた事務を頼むから、今は機械の方を手伝ってくれ」って言われて、毎日サビ剥ぎと油を拭く仕事をしたそうです。民宿に泊まって、油の溶ける洗剤を分けてもらって自分で洗濯していたそうです。
「ただいま〜」って帰って来たら、筋肉がついて、地震の前は力仕事なんてしないから座ってばかりで、なんぼか太ってたのが、がっしりしたの。あの子のことだから、重いのなんかも、毎日一生懸命やったんでしょう、力がついたんだね。
直ぐにひまわりおじさんにもおみやげを届けに行ったんだけど、会えなかったそうです。
それからは、倒産した所を借りて仮事務所みたいにして毎日行ったり来たりして仕事をして、名足(なたり=福島と宮城の境)へも、機械の手伝いに行きました。
ひまわりおじさんに、さっぱり会えなくて・・・。でも、最後に一晩会えて、話ができました。
ひまわりおじさんこと荒井勣さんは被災各地で尽力
写真:日本エコツーリズムセンターHP
この津波までは、私も娘と一緒に床屋をやっていました。膝の軟骨が減ってしまって痛いからうまく座れないの。震災までは、床屋をやって、海へ行って漁もしていました。
今、娘が床屋をやっているプレハブは、仙台まで行って買ってきたの。ようやく電気工事をして床屋ができるようになりました。水道がまだ引けないから、ひまわりおじさんが温泉やシャワーをやってた方法を教えてもらって、見よう見まねでシャワーを使っています。
床屋の仕事をこの先も続けるなら、お客さん相手にやっていないと腕が落ちるからね。「お母さん、また床屋をやりたい」って娘は言っています。床屋は床面積に決まりがあって、理容師1人なら4坪で保健所の許可が下りるの。5坪で2人。あのプレハブは4坪。だから、今私は何もしてないの。2人でやってる頃は忙しかったよ。流された家には道具も何も全部入っていたからね。後もう少し稼げば・・・って思ってた矢先に流されてしまったから。振り出しに戻ってしまった〜。
今はボランティアの床屋さんが来て回って、みんなタダでやってもらうでしょう? だからお客さんは少ないですね。
この辺の土地は全部ダメだし、0メートル地帯になってしまいました。畑の空いている土地が有るといっても、水道もないでしょう? だから、私は高台への集団移転を希望しています。お年寄りは今から家を建ててもしょうがないから、町営住宅を用意して、きちんと計画的に街造りをしてもらうと、きっと良くなると思っています。(談)
このお話は、平成23年8月1日、
小泉中学校仮設住宅で幸田理子さんからお聞きしたお話を忠実にまとめたものです。
[取材・写真]
加地浩時
川 拓也
畑中敏伸
田中俊祐
錦織法子
谷戸信子
[年表]
織笠英二
河相ともみ
[編集]
河相ともみ
[発行日]
2012年7月
[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト