登米と比較すると、登米にいる時は瓦葺きの家は少なかったんです。トタン葺きとかセメント葺き、コロニアルなどのスレート葺などの屋根でした。でも、ここはやはり海が近いから瓦ですね。昔そんなに良いトタンが無かったのか、すぐ錆びるってことで、基本的にすべて瓦だったから、重厚になってしまうのかな。瓦は地元メーカーのを使っています。昔は瓦屋も3~4軒ありましたが、今では1軒しかないですね。
木材、自分で山を持っている人がそこの木を切り出して家を建てるということもかつてはありましたが、今は却ってそのほうがお金がかかってしまうので、それもできません。一方、昭和50年代にはすでに安い外材が入ってきていましたが、今はそれも値段が上がってきて「安かろう」でもなくなってきましたね。今、「地元産の木を使いましょう」ってここでも一所懸命がんばっているんです。山をつくるというのも私たちの仕事ですね。
志津川には漁業で儲けて建てたいわゆる「御殿」というのは無いですよ。アワビの事業で成功されて建てたアワビ御殿というのはありますけれども、気仙沼・唐桑で聞くような「サンマ御殿」のようなものは聞かないですね。志津川のお客さんは、漁業や農家の人ではなく、勤め人、サラリーマンが多いです。
家の注文を受けるのに、大工同士の縄張りのようなものはあります。縁故関係であれば、どこの大工に注文するのもありですが、やはり基本は地元なんです。それぞれの地元には強い大工さんがいますから、ツテで広がっていき、それがエリアを形作ります。だから知らない人の仕事は来ません。もちろんおかしな仕事はできませんし、後のメンテナンスももちろん行かなきゃならない。ここでは、手抜きの仕事だけは絶対しない、出来ないんです。それは良いと思いますよ。
「『大工』として生きる」芳賀義人さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和35(1960)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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