橋田さんは、いつも海と共にあって、時代を先取りするアイディアも素晴らしいのですが、一方で周囲の方たちとのつながりを大切にして色々な情報をキャッチし取り入れ、「一匹狼ではダメだぞ」という生きる姿勢を貫かれていらっしゃいます。中でも、私が一番印象的だったのは、「俺の曾爺さん、『海は俺の金庫だ』っていうんだ。海に潜ればなんとでもなるんだ」と誇らしい笑顔でお話しくださった一説です。その言葉を副題とさせていただきました。
インタビュー時には奥さまもご一緒に、ご主人のお話に色を添えてくださいました。
「人生は面白いよ。少しくらい肉付けしてもいいから、面白おかしく書いてけろ!」とのお言葉を励みに、楽しく作らせていただきました。
長時間にわたって貴重なお話をお聞かせくださった橋田さんご夫妻に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
RQ聞き書きプロジェクト メンバー一同
私は昭和22(1947)年12月15日、南三陸町歌津泊浜に、3人兄弟の長男として生まれました。海のそばで育ち、海と一緒に暮らしてきました。
私の生まれた年は、みんな戦争から帰ってきて、一斉に結婚して、子どもがたくさん生まれた時なので(ベビーブーム)一番人数が多いです。1学年上はクラス30人なのに、私たちはクラス50人でした。一気に増えたんですね。まぁ、時代がそういう時代です。
この地区は、当時は半農半漁です。うちも田んぼも畑もやって、海では天然のウニやアワビやワカメを獲って暮らしていました。当時はまだ養殖はない時代です。
「かっこ船」っていう木を合わせた船に乗って、箱メガネで水中を覗いて竹竿(鉤)で獲る時代です。
アワビカギ漁
出典:岩手県立博物館「これなあに?」
昔から、ここは漁業です。世界で1番2番のクジラを獲ったこともあるそうです。その時のクジラのあごの骨で神社の鳥居を作ったそうです。私が小学校の頃です。
当時は、小学校4年生になると海に行かなければならなかったんです。なんとなくそういうことに決まっていました。だから、子どもたちは今みたいに遊び場もないし、夏は子どもたちで船を漕いで磯場に行って、子どもは何を獲っても食べても良かったから、1日中自由奔放に漁をして船で帰ってくる、それが遊びでした。冬、11月~12月は、家族全員で船に乗って手釣りでイカ釣りです。私が子どもの頃は、農繁期は学校が休みになりました。それで、学校が休みだと、海へ行ってね。
船酔いしないというのには、生まれつきの体質はありません。気合いだな。船酔いしていた奴が、家に帰ってくると治るんです。不思議とね。船酔いするのは、開口で海に行く時も、「さあ行くぞ」っていうと、もうその時点で船酔いしてる。それが、雨で「明日は開口は中止」となると、夜にサイレンが鳴るんだけれども、それを聞くと、スッと治ってしまうんです。中止のサイレンが一番直る(笑)。朝方、開口中止のサイレンが鳴ったら、もう爆睡です。安心してね(笑)。
開口は、4時から6時まで。波の状態を見て、明日は波がないとなったら、ゴーサイン。朝から、風が吹いたりすると危険だから中止。で、サイレン。
開口日は、行事っていうより、生活がかかってるからね。それがもう、その家の収入の半分以上を占めてるから、一大事なわけです。今は養殖やなんかで、他にも稼げるけれど、当時は開口日にワカメとウニとアワビを獲って、1年の半分生活してるようなものです。後は、米は買わなくていいように無理して田んぼで米を作って、半農半漁。歌津の山は、こっちの半分は浜の人たちの物です。うちの山もあります。昔は油やなんかがあんまりなかったから、木を切って焚き物にしたのよ。木を切って、そこの魚竜館の前で船に積んで、泊浜まで持って行きました。だから山も、田んぼや畑も必要だったわけです。
開口には家族全員で行きます。なんでかっていうと、船で狭い所、岩場の狭い所、あんまり船が寄らない所にアワビでもウニでもたくさんいるから、わざわざそういう所に船を進めるためには、船の先っちょに乗って竹竿で岩にぶつからないようにする人が1人。同じく後ろにも1人。つまり前と後ろに岩にぶつからないようにお母さんとお嫁さんが竹竿持って乗って、男の人たちが獲り方。だから全員で行かなきゃならないんです。
そんな一大事に、家族で船酔いしてたら始まらない。獲る時は一瞬。日も時間も限られていてるし、船は停めておけないし・・。といって移動しながら獲るわけにもいかないから、本当に一瞬の勝負です。「気持ち悪い~」なんて言ってられないんです。
船は小さいうちに慣れれば、どうっていうことないんだけど、大きくなってからだと時間がかかるし、どうしても慣れないってこともあります。
アワビの開口日、海の様子
子どもの頃、私が一番嫌いだったのは、畑、山です。特に麦。今は機械で刈るからいいけれども、当時は麦を鎌で刈るのに麦の穂先が刺さってかぶれるんです。もうイヤでイヤで途中で逃げて海へ飛び込んで、「農業はダメだな。農業は絶対やらねぇぞ!」って思いましたね。田んぼも、今みたいに浅くなくて深いから、はまると抜けなくてどうしようもなくて、このまま農業引き継いだらえらいことになるって思ってました。
その頃ね、気仙沼で叔父さんが料亭をやっていたんだけど、夏にそこに遊びに行った時、近くのデパートで水中メガネが色々売ってる中に、今のシュノーケルみたいなのがついているのが1つあって、欲しくて欲しくて、小遣いを全部はたいて買ったんです。
なんで買ったか?っていうと、そのシュノーケルの先にビニールホースをつけて、空気入れで空気を送ったら長く潜れるんじゃないかと思ってね。やってみたら、本当に長く潜れる! 3分ぐらい自由に潜れるんです。子どもは小さいから3分も潜ったらエライもんが獲れるの。空気入れは、弟と親戚の子に押させてね。島に持って行って、弟たちにも被らせてやってみたら、あんまり長く潜ってるから心配になって引っ張ってみたりね。
ウニやアワビはもちろんだけど、魚はアイナメとかカレイね、いっぱい獲れました。まぁ、小中学校時代は遊びました。この潜りの遊びが、その後の自分の方向につながったと思います。
その頃はみんな中学を卒業すると海へ行きました。収入がいいから、海へ出る。高校へは行かないんです。進学するのは、1人か2人でした。小学校4年生から海へ行って、ワカメを採ったりしているから、中学校終わって半年くらいしたら、もう海に行きます。4年生から海に行くってことは、もう中学校を終わるころには船酔いしない。だから、今とは全然違うんですね。
中学を卒業して私も海へ行きましたが、すぐには潜りませんでした。志津川に潜水で漁をしている人がいると聞いて興味を持って、そこで手伝いをしたこともあります。私が潜るのではなく、機械があってね、私は船でその機械から潜水して漁をする人に空気を送る役です(潜水器操業)。
17〜18歳頃に、漁協の参事さんと知り合いになりました。その彼が、「今度宮城県で、潜水の資格試験やるそうだ」って情報をくれたんです(注・職業として潜水器具を使用するには厚生労働省の国家資格「潜水士免許」が必要)。それで、行って、受けて、合格はしたんだけれど、免許の交付は20歳以上だって言われて、1年待って再受験して免許証をもらいました。
潜水士の免許を持っていないと、会社へ入っても保険が適用されなかったので、取っておいて良かったと思います。
彼は友だちで、いつも一緒にいたから、制度が変わると言うときは彼から情報をもらいました。事務的には優秀な彼も、実際海がどうなっているのかはわからないんです。開口の時くらいは自分も漁に行くんだけれども、あくまでも漁協の事務の職員さんなの。だから、「今、海がどうなってるか? どんな風に漁をしているのか?」ということに関しては、彼も私から情報を集めていたわけなんです。
昭和40年代は漁業の色々が変わった時で、大きく変わったのは、その船舶免許と漁業権の2つですね。色々変わるとかっていうのも、漁師ばかりの付き合いじゃ、わからないんです。参事さんや、知り合いから、様々な情報が入ってくるんです。情報を教えてくれるからね。一番大事なことだと思います。制度が変わる、何が変わるっていうのはね。
早く情報をキャッチしたから、うまくすり抜けたというのではないと思っています。「時代に乗っていった」っていう感覚です。漁師っていうのは、基本的に、みんながどうやって魚を獲っているのかな?っていうのを見て体で覚えます。だから、どうしても漁師は漁師の中しか見てない。私はもう、いつも外を見てたから、だから、その違いかもしれないと思います。
彼は兄弟が早く亡くなっていて、自分も心配だからと年に2回東京の大きい病院へ行って健康診断をうけていたんです。彼は、言い方がぶっきらぼうで、でも、本人はお酒を飲むと 私の所へ来て、「俺、みんなに好かれないからなぁ」って言ってました。「体に気をつけねぇと。体、やべぇ」
それが、50歳くらいの時、ウニの開口日に漁へ行って、パンと脳の血管切れて、亡くなってしまった。いつも急いでいるような人でした。亡くなるまで、彼との付き合いはずうっと続きましたね。
お次は船です。漁協に監視船のような小さい船があって、せっかく作ったのに引き上げていて使わないので、「おれに、貸せや」って借りてみたら、使っていない船だったので、エンジンが壊れていて使い物にならなかった。「しょうがねぇなぁ」って時に、今度は船に乗るのに免許が必要になるって情報が入ったんです。それまで、ただ船に乗ってる分には免許なんていらなかったのが、「これからは免許が必要になるぞ」って、参事さんが、一緒に飲んだ時に言うんです。
それで、自分でも調べたら、5t以上の船に、ある期間乗った経験があれば1級の資格が発生するってことがわかったんです。しかし、歌津で漁師の半分以上は5t以上の船に乗ったことがない。歌津には5t以上の船がない。自分で浜に引き上げるから、大きくても3~4t。大きな船は造らなかったんです。「だったら自分が造ればいいか!? じゃあ、作ろう」って。事務の手続きは参事さんに頼んだんですが、できてきた書類を見たら7tってなってる!! 「なんでこんな、大きいの、面倒くさい」って思ったけど、「まあ、いいや」ってなって、自分で借金して造りました。
昔は、船を作るなんていったら、大変なものでした。3日3晩お酒をふるまってね。船は、船を作る船大工にお願いするんです。夜中に神様っていうか船への「御神入れ(ごしんいれ)」をするんです。三島神社ではなくて、大工さんがします。「御神入れ」は、昔から夜です。夜誰もいないときにやるんです。船で。船を作ってる大工さんがね、1番船の先っちょの、ロープ結わえる柱みたいなところに穴を掘って、そこに入れて、また、ピタンと蓋をするんです。何を入れたのかは、誰も見たことがない。そこにあるのはわかってるけど、何が入っているのかはわからないんです。うちの船を作る時も、やっぱり見なかったですね。船大工は、ふつうの大工とは違います。今もいるだろうけれど、船の材料が違ってきてるから、今は「御神入れ」なんてことはしないと思います。
船が完成したら、みんなでお餅を撒いてね。みんな酒を飲んでもらって、その代りに、旗を作ってもらうんです。船名旗と日の丸は自分で用意して、大漁旗は作ってもらいます。船に旗を揚げる時は、一番上が日の丸ね、その下が船名旗ね。歌津には田束山(たつがねやま)って山があるので、その名前をもらって「田束丸」というのが船名です。船名旗の下は、いただいた大漁旗です。大漁旗にはそれぞれ旗を作ってくれた方の名前が入っています。
そうして、小型船舶の免許、小型船舶1級の資格を取りました。
潜水の資格を取り、船を持ってからは、漁が半分、潜水半分でした。歌津では当時潜水をする人はいなくて私が初めてでしたから、獲り放題です。海に潜れば、もう大量に獲れるからね・・。漁協の付き合いの関係で、夏場はウニを獲りました。
潜水じゃないと竹竿で1個ずつ獲る、それも深さは10メートルくらいまで。自分は、農業は嫌いだったから、なんとかして量を獲りたいと思ってね。
海岸線が36キロメートルあるんですが、そこをどう獲っても良いってことになって、当時は禁漁区とかなかったんです。ウニっていうのは、鉤で獲るには、6月・7月の2か月間で漁をします。県条例でね。だけど、ほら、その時期を終わった後に潜水で獲るんだったら、8月・9月になっても獲れるんです。深いところのウニは、その時期もまだ卵を持たないから獲れる。獲れる、獲れないというのは、ウニの状態で決まります。
ただ、時期を外して獲っていたら、そこを指摘されて、「密漁ですよ」なんて言われて、「じゃあ、どうすればいいんですか?」って聞いたら、「届け出さえすればいい」って、「何とかなりますよ」って・・(笑)。それで、9月いっぱいまで、期間を延ばしてもらいました。県条例が変わったわけです。潜水をやる人は他にはいないのよ。私1人だけです。
ここはね、ウニもたくさん獲れます。いっぱいとれるから、むき身で出荷するくらい。歌津は全部剥いて塩ウニですね。水揚げの少ない所は、とげ付のまま出荷します。
実は、歌津で一番獲れたのは、アワビなんです。目方に換算して、年100tくらいアワビが獲れました。そいつを剥いて、中国へ輸出していました。殻を剥いた後、アワビの殻が屋根より高くなった、それくらい獲れたものです。
自慢ではないけれども、相当深いところまで潜っても潜水病にかかったことはありません。一番深いところで、40メートルくらい潜ります。ふつうは2~30メートルくらいです。
で、ふつう奥さんが船の上で空気を送るんだけど、うちは家内が船酔いするから弟がその役目でした。
それで、ウニを潜水でも獲っても良いことになったら、獲れる量が半端でないの。島の周りも、ウニがうようよ・・。値段もだんだん上がってきた時で、潜れば海が時化ても安定して獲れるし、一度、9月に台風が来て水が濁ってどうしようもない時も、月に15日くらいしか漁ができなかったことがあるんだけど、それでも他の船は全く獲れないんだから、ずいぶん稼ぎました(笑)。
一番多い時は1日で1200キログラム獲ったこともあります。数字は自慢話に聞こえるから細かくはいらないよ。とにかく獲れました。それでも、今みたいに滅茶苦茶な獲り方はしていませんでしたよ。ここは獲ったから、次はあそこって具合に、1年で順番に回って獲りました。
漁協と契約していたので、船には、雇った人2人、自分、当時2つあった漁協の職員がそれぞれ1人ずつ2人で、合わせて5人乗り込んで、売り上げは、船の上で自分と2つの漁協で3つに分けます。振り込みなんてない時代の話です。漁師の「いたこ分け」って言って、船の上に積む板の上にその日獲れたものを並べてその場で分けるんです。現金ですね。雇った人の人件費も、2つの漁協と私とで分担して払いました。
結婚する前に(昭和45年頃帰ってきたから)2~3年会社に勤めたこともあります。もちろん海の関係の仕事です。それでも、給料袋をもらうと、後何回もらったら1年が終わるのかなぁって、むなしかったですね。やっぱり学校を終わって、会社に勤めて、勤めたら会社の言う通りにしなくちゃいけない。自分でやって良いのは、そいつが良いか悪いかを自分で判断して、自分でやってみるしかないのね。「自分で決める」そこの違いだと思います。自由でいいぞ!
学校を出たら、「自分で海で稼ぐんだ」という決意は固まっていました。海の底にはお金があるっていうのは、子どもの頃から知っていますからね。うちの曾爺さんは、「海は俺の金庫だ!」なんて言っていましたよ。「海さ行けば、何とかなる」ってね(笑)。
漁はだいたい2〜3日です。サンマとか、サケとか色々。時化(しけ)の時は道具の修理です。機械の得意な人は機械のメンテナンス。あとは、網、道具は道具で、みんな担当が決まっているんです。私は全般です。漁では、どこに行くとか、何を獲るとか、それを決めるのは船頭ですね。「船頭が3人いたら、山に登るってさ~♪」と言われるくらい、船頭によって意見は全然違います。全ては船頭次第だから、自然と船に乗り込む人も変わっていきます。その船頭について行くかどうかでね。
漁師が船頭さんを選ぶのかって? そうそうそう。船頭は船主と兼用が多いけど、別な場合もありますよ。そして必ず船頭の言うことは聞かなければならないんです。
船頭としての判断は、昔は、勘ですね。風の向きとか、この時期はどうとか、どこに何がいるとか・・。今はもう衛星で探知機でしょう? レーダーって魚群を探す機械があるんだけど、私はなかったのね。ここからイカ釣りに行って、4時間5時間ずーっと、夏場はこう、霧がかかってあたりが見えない。一晩稼いで、戻ってくるのに、そこからどうして戻って来ると思います? 最初から走ったところを覚えておかないと霧の中を帰って来られないんです。羅針盤ってコンパスが、この方向、東に何時間走って、だいたい、ここで流されるなぁって、潮を計算して、今度は潮の流れと組み合わせて記憶を逆にたどって戻ってくるんです。
その点は、北海道から戻る時でも、間違えたっていうことはなかったですね。
帰る時は、一番先に、一番たくさん獲った船が、大漁旗が3枚あるんだけど、それを3枚全部揚げて入ってきます。帰ってくる船を見れば、どの船が一番獲ってきたか、一目瞭然でわかります。船を見れば特に比べっこしなくてもわかるんです。たくさん獲れて積めば船が沈むでしょう? 同じくらい獲って、で、どっちも3枚旗を揚げてたら、先に入った方がね・・(笑)。一番に帰るのッさ!! そうすると、みんながお酒を持って来てくれるんです。基本的には、漁師っていうのは、多く獲れた時は近所に配るんです。それは今でもそうですね。獲って帰って来たら、みんなで獲れた魚を切って、みんな配るんです。
そうこうやっているうちに、親戚のおばさんに紹介されてお見合いで結婚しました。私が27歳、家内が20歳です。彼女は静岡に4年ほどいて、こちらに帰ってきた時に、兄弟が多いから家にいると「すぐに嫁に行け」って・・。それで昭和50(1975)年に結婚しました。結婚式は、船の名前をもらった田束山でしました。その後、2人の女の子が生まれました。
30歳位から、方向転換して、ワカメの養殖を始めました。私は中学の時に母親を亡くしているので、家には女手がなくて、おじいさんは2人いたんだけど、おばあさんがいないから、籠に子どもを入れて子守をしながら家内は仕事をしていました。
船は一段落していたんで、「人生を方向転換する! 次は、ワカメをやる!」となったら、今度は冷蔵庫が必要になりました。というのは、いくら大量に採れても漁協には売れない。だから、1回茹でて、塩蔵ワカメにして、冷蔵庫に入れて、1年間かけて売っていく。そのためには、大きい冷蔵庫が必要っていうわけなんです。
ワカメが2000箱入る冷蔵庫を2つ作りました。昔だから、大きくて、部屋2つ分くらいありました。それから、ワカメを茹でるための釜。大きなボイル釜も用意しました。ワカメの採れる時期には、自分で採ったり、買い付けたりして、人を頼んで、大きい釜で茹でて塩をまぶして箱詰めして冷蔵庫に保管して、それを1年かけて栃木県とか業者さんに直接売るようにしました。
ちょうどその頃、ワカメの養殖の権利についても制度が変わる時で、今までは勝手に漁場を使って良かったのが、その時点で既にやってる人じゃないと、養殖の資格が得られないということに制度が変わったんです。昭和55(1980)年頃ですね。県条例だから、宮城県の制度だと思います。歌津地区は、漁業権っていうのは漁協から権利を借りてるっていう感じなので、その情報は、例の参事さんが事務をやっていて、彼が教えてくれたんです。
ワカメを、少し前から始めていて、後2・3年すると漁業権の新規参入がなくなって漁場が変わらなくなるからって聞いて、私が一番後に来て、船が大きいから、遠くの、一番遠くの沖のところをずっともらったんです。船のない人が湾の中の方をもらうんです。実は、ワカメは遠い方が良いワカメが採れるんです。だから、何十箱もワカメが採れたんですよ。それを見て、大きな船を造って真似をした人もいましたよ。それに、ワカメは、うまくやると1年に2回採れるんです。12月に1回採って、4月にもう1回。これなら、50tが100tになる。同じ面積で、2倍です。
仕事といえば、昭和の最後のころ、活魚を福島に運んで売る仕事もやりました。生きたままの魚を、トラックに水を入れて、酸素入れて、毎日、福島の新地(福島県相馬郡新地)まで、自分で獲って自分で運転して運びました。300万円のトラックを現金で買ってね。それでもちゃんと返済できるからさ。当時、高速は、まだなかったです。浜通りをずっと行って45号線を行ってバイパスで行って。4時間くらいかな、5時間くらいかな。荷物を積んでいたからね。車を飛ばして、「ほれ~、どけどけ~」ってね(笑)。
ワカメの養殖をやっているうちに、今度はここをずっと埋め立てをして、加工屋さんを集めて加工団地にしようっていう話が出ました。それだったらいいなって、「いいよ、いいよ」って申し込んだんですが、途中で計画がストップしてしまったんです。魚竜の化石が見つかったからです。それは天然記念物になりました。先に舘崎の浜で見つかって、色々調べたら、ここにもあるって話になって。
歌津舘崎の魚竜化石(天然記念物)
出典:宮城県HP
館崎の化石産地
出典:宮城県HP
この地域には、魚竜化石以外にも、アンモナイトやナウマンゾウを発見した先生が発見したと言う、皿貝化石というのもあります。歌津には古い化石があるんだ!って、みんなにPRする、現地保存と普及の役割が「魚竜館」にありました。
加工団地の話が中止になって、化石も出て、「あれあれ?」って思っているうちに、「魚竜館」に直売所を作るっていう話になって、10人くらいで、漁師というよりも加工屋さんが集まって、直売所を始めました。
魚竜館直売所
出典:歌津町観光協会HP
この辺りはシイタケも有名で、そういう山の物や、お菓子屋さん、もちろん海産物屋さんも入りました。民宿も多かったので、結構バスも来て、長須賀海水浴場っていうのが近くにあるので、夏だけで10万人以上お客さんが来ました。
それが、やっぱり民宿もお客さんが減って、今から7・8年前に一番減って、どうしようもなくなって、ここだけではどうしようもないっていう時に、隣町の本吉町に大きいショッピングセンターができて、青果店も入って商店街が全部入るって計画で始まったんです。それが、いざ蓋を開けたら誰も入る人がいないっていう話になって、「おーい、何とかしてくれ~」って。私も声をかけられると、「よっしゃあ、いいや!」って引き受けてしまって、10年契約でやりました。10年間赤字を出さなかったのは、自分でもえらかったと思います。「魚竜館」の直売所とそのスーパーと並行してやりました。
直売所は、共同で出資して組合を作って店員さんを雇っていたんですが、お客さんがどんどん減っていくから、そのままやっていくのが無理になってきました。「じゃあ、私1人に任せてくれ」って話になったんです。当時自分が一番若かったから、年上の人は年下から意見をされたら面白くないでしょう? 私もそれがわかっていたし、店は店員さん次第だということもわかっていましたから、それなら任せてほしいと。
個人には貸せないと言われて、漁協さんと一緒にやることにして、会社を作りました。結局は、団体ということですんなり手続きはできて、「何か欲しいものはあるか?」と聞かれて、水槽、生簀を用意してもらいました。あれ、1人で買おうと思うと500万円くらいするんです。漁協の、前にやっていた組合長が遠い親戚だったので、相談して水槽をもらいました。それで、水槽から直接、すぐに食べさせる食堂に切り替えたんです。
食堂は、前からやってみたかったんです。今までそういうのは、歌津ではどこもやっていなかったから、喜ばれました。食堂になってからはスーパーと2年くらい重なってますが、スーパーは家内と2人でやって、それが終わってからは、食堂一本です。スーパーはど素人でしたから、難しかったですね。
色々やってきて、一番大切なのは友だちだなぁと思います。人付き合い。人間1人でなんか生きていけないから、相手が困っている時には積極的に助けて、テナントが入らなくて困ったって聞けばね・・。
家族にも相談なんて、なしです。人の言うことは聞かないね。
だから、食堂をやるにしても、刺身をやるにしても、全然。そんなの免許なんてないです。船で作る、漁師は自分で釣って作るから、だから、教えさえすれば、誰でもできると思いました。一つひとつ教えればね。だから、私が魚をおろして、切るのは家内、盛り付けとね。免許を持ってる人なんて雇いません。保健所の衛生責任者の許可があればできるから、最初から自分でやりました。
料理は、親戚が店をやっていたから、好きなんだと思います。料亭をやっていたんです。曾爺さんは、昔、結婚式があると、行って料理してましたね。だから料理はうまいんです。
ここの料理は、あんまり味付けしない。その素材、ほら、ウニだったら生ウニの味を楽しんでもらうんです。醤油だけだな。普通の家にあるのと同じ醤油ですよ。大事なのは、塩加減かな。味噌汁作る時は、出汁(だし)をとるでしょう? 店では、骨(あら)で出汁をとります。ヒラメとかスズキとかって、骨が残るから、それで出汁を取って、味噌汁を作るんです。それは、従業員とみんなでね。量なんかはいい加減ですね。
船の上では、忙しいから、刺身だって言っても、5分で10人~15人分作らなきゃなんないから、とにかく、モタモタやってられないんです。それで、出来上がった料理がまずいと、怒るも何も、黙ってぷーって投げられるんです。食べてうまくなかったら、投げられるんですよ。一番肝心なのは、ご飯を炊く時に、船が揺れてると目盛なんて読めないでしょう? 3だの5だのって目盛なんて見れないから、平手をペッとやって寄せて、水面と手首のしわが同じになれば、それでOKなんです。米をバラバラバケツに研いで、平手でペッとこうしてね。ま、そうやって覚えているから、失敗はしないんですよ。
私が一番得意だったウニを使って「うに丼」を、5月1日からやりました。これをやると、大勢人が来るんです。広場が車でいっぱいになって、調理や食材の調達が追いつかないほど人気が出ました。お客さんからの強い要望により、パートを20人程雇い、提供する食数を大幅に増やしました。そうして、当初は1日200から300人前しか用意していませんでしたが、段々増やして、去年は1日に800食。5月と7月の「うに丼フェア」には、仙台や遠くからもお客さんがわざわざ来て、「品切れ」っていうと、もうお客さんイライラするから、1週間くらい前から準備しました。
魚竜館名物・ウニ丼1000円
出典:みやぎグリーンツーリズム推進協議会HP
魚竜館の来場者数は、一番少ない時で2万人。その前が5万人くらい。去年が6万人です。歌津と志津川が合併して、ここでずっと直売所時代からやってるから話しやすいっていうのもあって、上の管理もしてほしいと言われて、私が館長になっています。この魚竜館の建物は「ふるさと納税」で建てられたんです。ここを埋め立てようって話の時に化石が出てきて、化石そのものが外に出ていたんです。で、展示しやすいってことで、そのままアクリル板で囲って、かなり近くで見ることができるんです。
ここが良いなぁと思うのは、夏休みに先生と学生たちが化石の調査に来るんです。好きな人は遠いとか気にならない。一度、仙台からタクシーで来たっていう佐世保の人がいました。化石の好きな人で、行き方がわからないからタクシーを拾ってきましたって。そういう時に、食べるものっていうのは凄いと思います。美味しいものを食べると忘れられないんですよ。「あの時食べた、○○はおいしかったなぁ~」って。
刺身定食は500円です。地元の漁師さんから魚を買って、獲れたてで造ります。ご飯とお味噌汁とつけて、ご飯はお代わり自由、コーヒーも飲み放題! お昼はいつも大勢のお客さんでした。もう、儲けはなしですよ(笑)。同じお客さんが何回も、次に来るときは友だちを連れてきて、1人ではあまり来ませんからね。海鮮丼は800円です。アワビの開口の日はね、その日だけ、アワビのお刺身が2切れサービスです。
2月からは、ワカメ、メカブ、磯もので、フノリとか、ヒジキ。そうするとヒジキ煮を出したりします。フノリは生フノリです。ここのヒジキは、糸ヒジキって長いの。ヒジキ煮は、他所と同じですね。ホタテのひもを入れたりします。ヒジキは、石に根っこでくっついてて、それを手で採ります。それにも解禁日があります。明日は「磯の開口だよ~」って。場所はどこで採ってもいいけど、時期は決まってるんです。普通の時だと、5月からホタテが上がってきます。夏に入ると、イカとかだな。あとはタコを干したり。寒い時でないと干せないんですよ。寒い風のあるときね。イカとか干したものも、売っていました。
歌津魚竜館の刺身定食(2008年)
出典:恐竜パンテオン 次へのテスト
魚竜館直売所
出典:歌津町観光協会HP
広告は一切しませんでした。催事でデパートなんか行くと、試食だとか宣伝だとか、そんな思いするなら、500円で定食を出して、口コミで広がっていった方がね。
仕入れて、すぐ出す。県や町でも観光案内で紹介してくれるし、お客さんにお膳を持っていくと携帯で写真を撮って、ネットやそういうので知ってもらっていたようです。ここは海だから、船で作ったような漁師の料理です。きれいなのは寿司屋さんや料亭でピッピッと計ったように作ればいい。うちは鮮度が一番。味はどこにも負けないと思います。
一番びっくりしたのは、栃木から来た人たちが、橋を降りた途端に、「気持ち悪い~」って磯の匂いがくさいって。それが、ウニとかホヤとかホタテの体験ツアーをやって、まだ動いてるウニなんか食べたら「うまい!」「うまい!!」って。
集団心理っていうんでしょうが、誰も気持ち悪いって言わなくなって、学校の先生も、子どもたちがキャッキャやってるのを見て「お前らの気持ちを初めて見た」って、先生も喜んでるんです。海っていうのは、一番の遊び場なんだと思いますね。
震災がなかったら、後5年くらい食堂をやって、それから年金もらってハワイにでも行って2人でゆっくり・・って考えてました。
次はこれをやるぞって言われたら、「はい」って言うしかないんだな。できないって言っても、できるんだから。まあ、そうこうして、現在に至っているわけです。いや~、人生変わらねばな。ダメだよ。
震災の時は、ここで営業中でした。地震が来たら津波が来るっていうことは頭に入ってるから、日ごろから避難訓練もしていて、まずは、そこの庭の先の広い所に集まる、それから平成の森へ逃げる。あの時はお客さんもいたし、揺れが収まるのを待って皆を逃がすまでは、冷静にできました。
その時は娘も孫もいたので、私は揺れてる間は孫を抱いていました。娘も孫も従業員も平成の森の高台へ逃がしました。ここは、1メートルくらいの水門があって、そこを閉めると車が出られなくなるんです。だから、漁協の車も自分の車も全部出して空き地に移動させて、最後に誰も残っていないのを確認して、後はもう流してもしょうがないやって、AED(自動体外式除細動器)だけ取って、一番最後に私と家内がここを出ました。
私は、どうしてもどうなるのか、どの程度のが来るのか、津波をこの目で確かめたかったので、すぐそこの道路の上に登りました。そこなら道路からすぐ山に登れるから大丈夫だろうって、消防団や漁協の人たちと一緒でした。
津波は、本当にすごい力でした。バリバリドドドーンって。魚竜館の隣の新しい漁協の建物が影も形もなくなるんだから、こりゃあどうしようもねぇって・・。第二波、第三波って続いて、第三波なんて第一波の時に私たちが見ていた場所より2メートル以上も上に水が来て、車なんて、みんな流されました。家内は、第一波を見て怖くなって、先に裏の山へ登ったので別々でした。
今、ここの前の広場は瓦礫の第一次の仮置き場ですが、次にどこへ持っていくのか? 場所も決まっていません。ここの2階は奇跡的に化石や展示物が残って東北大学に運ばれて仙台の博物館に飾られるそうです。魚竜館の建物は、ボランティアさんに掃除してもらいました。もう、中はきれいになってます。ここは、一番眺めの良い所だったんです。水が澄んだら海の全部が見えます。今は滅茶苦茶濁ってます。 普通は12月になると、歩いていると海の奥の方まで透き通って見えるんですよ。
見方を変えると、津波が流していってゼロになった今は一大チャンスだと思います。今までのやり方を変えて、「特区」にして、若い人を呼び戻す、漁業も、荒れている山も土地も、もう一度やり直す滅多にないチャンスだと思います。そういう意味で、宮城県知事の村井さんが言っていた「特区」は良いと思います。
国会議員でも、今給料をもらっている人たちは、今の立場を崩したくないっていうのが本音だから、給料も下げたくない、何も下げたくないって・・。だから、誰が総理大臣になっても、何も動かない。それで、借金だけが増えていくんです。そういう体質が、実は海も同じなんです。昔のやり方をそのまま引きずってしまう、それじゃあ歳をとった人ばかりが残ってしまう。
それじゃあ、農業と同じになってしまいます。定置網も個人でやるんじゃなくて会社にして貯金して「特区」ですればいい。アイディアのある人がどんどん教えて、お金が倍取れたら、全国から若者が集まってきますよ。私の昔のやり方でさえ、ワカメは2倍採れる。
そういう風に、アイディアを出してノウハウを持っている人が新しい人・若い人に教えればいい。何でも、やり方一つだと思います。60代70代ばかりではダメです。ボランティアの若い人たちにも声をかけて、教えてやるからって、会社制にして、勤めてもらって、金っていうのは自分で稼ぐものです。稼げるなら、人は必ず集まってきます。
海には、ホヤにはホヤの場所、ワカメにはワカメの適した場所があります。時化でやられるところも、みんな知っています。でも、新しい若い人は知らない。それを教えれば良いんです。私は、農業はわからない。山なんか全然やらなくなったからなぁ。畑なんて放ってあるからな。だから、海岸線が全部荒れ放題。若い人たちに貸せばいいんだな。私は、山へ行ったら降りるだけ(笑)。
それでも、そういう山や土地に東京から若い人が来て畑をやっているって今朝のテレビでもやってました。この近くに、外人さんが一生懸命畑をやってるのよ。借りて。
だから、そういう人たちがいっぱい増えてきて、みんなで組んで、共同で大根やるとかさ、1人2人でやるのは難しいし、畑だけで難しいというなら、時期的にホタテの作業とかを手伝ってお金をもらうとか、みんな併用して元々半農半漁なんだから、それで良いと思います。このままだと浜は高齢化の一途です。そこを変えていかないとね。私も跡継ぎはいないしね、チャレンジする人をね、育てていかないといけないと思います。若い人5・6人連れてきてよ。会社作るから(笑)。
その、年寄は年寄なりに教えて、「こうやるんだ」って、できないことはやってもらって、行政は応援してね。「特区」にして会社にして、そうしたら水産のやり方が確実に変わります。これはチャンスなんです。言葉で説明してもダメです。漁師は見て覚える。やって見せないと。養殖をやってる人も辞めていく人が多い。そうすると減っていく一方で、どんな店もお客さんが減ってしまいます。それじゃあ町に元気が無くなってしまって尻すぼみです。
だから、「おー、えれぇ儲かった!」って、刺激を送って、若い人を引っ張ってきて、みんなで真似すれば良いと思います。加工屋でも漁師でも、持続性のあるやつでないと、人は引っ張れないと思います。
「特区」にして、会社にして、方法を変えていくには、船も設備も変えていかなければならない。富山の定置網、ホタルイカの定置網で、船に海の水を凍らせて魚を冷やしながら漁をするっていうのを聞いたことがあります。そこでは、26歳の1年の給料が1000万円だって。それならみんな喜んでくるよ。酒も飲まない、たばこも吸わない、文句も言わないなんて最低。これ以上はもう言わない(笑)。
でも、外で稼ぐのは男だ。均等法はダメ。女の人は財布を預かって、男はもう手に金をつかんでないと馬力が出ない。それも1人でやるんじゃない。ここで食堂やるんだって、魚を獲る人、作って売る人、買う人、三拍子そろわなければうまくいかない。1匹狼ではダメなんです。大事なのは「つながり」だと思います。
3年待っててね。また美味しいうに丼を作るから。この建物も、全部壊してもいいんだけれど、ある程度目印として残して、全部なくしてしまうと、どこがどこだかわからなくなってしまうと思うんです。畑だったのか、家だったのか・・。大工さんと話したら、5千万円くらいで復活できるって言われました。6千万円でできたら安いもんです。そうしたら、化石だけでなく、大きなスクリーンで津波や被災の様子を映したり、写真とかも展示したら良いんじゃないかと考えています。特に2階のテラスは素晴らしい景観が広がっているので夏はビアガーデンを開きたいと思っています。
これからは、泊浜の自宅も流されたし、高台に工場も兼ねた自宅を建てたいとも考えていますが、工場を入れるには敷地が狭いので迷っています。今度家を建てるとしても、絶対に海の見えるところです。娘には怒られるんだけどね。
山になんて引っ込まねぇよ。海が見えるところがいいよ。あったりめぇだ。
一つ心配なのが、今度の津波で何百tっていうホタテが流されたでしょう? どこへ行ったのかな? と思うんです。あれが、2・3年したら、こんなになってるんでねぇか! そうしたら、どうして食べるか? とかさ・・。大きくなってもホタテは食べられます。あれは、どこへ行ったんだろうなぁ。心配だよなぁ。
なんで、ホタテっていうか知っていますか? ホタテは、帆を立てるようにたてて進むって言われてるんです。だから、どういう風にして、どこへ行ったかなあと思うんです。今もまだいないところを見ると、どこへ行ったんでしょうねぇ。
前にね、何十万個って撒いたことがあるんです。そうしたら、もう、普通3〜4年したら、こんな大きくなるんです。ところが、全部海の底も潜ったんだけども、あんまりいないのよ。獲られることはないから、その時もどこへ行ったかなぁって・・。
今度のホタテは大きいから、大きいまま流されたんだから、すごいですよ。どこへ行ってるのかなぁ?
今から研究しても間にあわねぇな。よその土地で捕られるんじゃないかと心配だな(笑)。(談)
このお話は、2011年9月10日(魚竜館2階)、
11月24日、12月17日(平成の森仮設)にて
橋田さんご夫妻からお聞きした音声をもとに作成しました。
[取材・写真]
2011年9月10日
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深大基
宮下凌瑚
福原立也
河本裕香里
刈田唯可
2011年11月24日
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久村美穂
大槻フローランス
山浦秀紀
2011年12月17日
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織笠英二
久村美穂
横山佳代子
河相ともみ
[年表]
河相ともみ
織笠英二
[文・編集]
河相ともみ
[発行日]
2012年3月31日
[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net