私は昭和2(1927)年生まれで、大正15(1926)の人と学年は同じだ。その年に大正っていう年号が無くなったべっちゃ。そん時ね、昭和元年と2年と、1週間で年号が2年になったんだ(大正15(1926)年12月25日大正天皇が崩御、昭和に改元され、さらにその1週間後に年が明けました)。
だから、私たち同級生が3組いるの。どういうことかというと、戦争には、同級生なのに、大正15(1926)年生まれの人、その次は昭和元(1926)年生まれの人の順に早く行ったの。昭和2(1927)年生まれの私が兵隊に行かないで、戦争は終わったの。
私は予備士官学校を志していました。高射砲(こうしゃほう)を志望してたの。「飛行機を撃ち落とすべぇ」って、それを勉強したの。歩兵でなく、高射砲(写真)だ。
陸軍歩兵みたいな方法(かっこう)でなく、高射砲だがら、撃(ぶ)つことだけ練習。だけっども、歩(ある)くんでなく、1箇所(ひととごろ)でやるから一番狙われやすいし、すぐ見(め)っけられるんだ。終戦前、昭和19(1944)年あだりから、20(1945)年8月の終戦まで、高射砲の勉強ができたのも一時(いっとき)のことだったね。
終戦になってしまったから、戦艦に乗る志願はしてたけど、軍服もらっただけで帰(けえ)って来たよ。そのとき私は18歳でした。
あの時、教員採用の募集があって、自分は先生になったからやめたの。陸軍少尉だったか中尉だったか、女川の部隊長でいた人のことを思い出すんだが何て言ったべなぁ、あの部隊の名前は忘(わせー)ですまったなぁ。戦争が終わって、60年にもなるものねぇ。
「謡い舞う、神々の見守る浜で」佐藤良美さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和2(1927)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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予備士官学校, 女川防備隊, 徴兵検査, 戦争, 日本陸軍, 終戦, 高射砲
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