東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

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自分史

細浦の海と山と
田辺喜一郎さん(仮名)[宮城県本吉郡南三陸町志津川細浦]

細浦の夜明け
写真提供:スポット・観光ギャラリー 仙台散歩みんなのブログ「南三陸志津川の日の出」

はじめに

田辺喜一郎さん(仮名)は、大正時代に生まれ、昭和の戦前戦後を成年で過ごされ、当時の貴重なお話をうかがうことのできる方です。私たちの聞き書きプロジェクトの中でも最高齢です。喜一郎さんのお声は、とてもはっきりとして年齢を感じさせません。穏やかな語り口で、色々なことを教えていただきました。

実は喜一郎さんには既に1冊の自分史完成版をお届けしています。ところが、その後私たち聞き書きプロジェクトの体制が変わり、完成版の書式が大幅に変更になりました。そのため、奥様の完成版を作成するにあたり、喜一郎さんのお話も全て書き起こし、再度完成版として編纂させていただくことになりました。
お話いただいたことを、できるだけ忠実に文章にするよう努めました。
奥様の完成版と合わせてお読みいただいて、皆さんで思い出話に花を咲かせていただけたら・・・。とてもうれしく思います。

暑い夏の日、長い時間お話くださいました喜一郎さんに、この場を借りて御礼申し上げます。

2012年5月吉日

RQ聞き書きプロジェクト チーム一同

生まれは大正11年

私は、1922年10月16日生まれ、大正11年の生まれです。だから、この10月で90歳になるんです。その頃は南三陸町ではなくて、志津川町です。
私は、7人兄弟の三番目です。一番上が兄。で、私の兄弟は、男・女・男・女・男・・・と交互だったんです。男4人、女3人です。昔は、家の中に1年生から6年生まで全部揃ってるなんてことも珍しくなかったんです。年子というのではなくて、何世帯もが同居していたからね。子どもが大勢だということは、年はあまり離れていないという意味です。だって、七人兄弟が四歳ずつ離れていたら、30年もかかるでしょ? そんなことは無理だよね(笑)。私の家は、兄弟と両親と、私が生まれた当時は祖父も生きていました。祖父は、大正15年に亡くなりました。
小さい頃は、兄弟で遊びました。どこだって行くところがねぇんだもの。野山を駆けまわって遊ぶのが子どもの遊びでしたね。虫を獲ったり、あ~野山でできそうなことはなんでもやったね。ありとあらゆることだ! 
でもね、昔は子どもの数が多くても今のような「いじめ」なんてことはなかったよ。部落でね。喧嘩しても、それは「いじめ」じゃない。皆が家族のようです。地域(部落)というのが一族のようなものだから、昔から田舎というのは兄弟が多くて、「本家」というのがあって、そこから弟たちが「分家」というように増えていって、それが皆親類なんです。だから、同じ地域に同姓が多いというわけです。皆親類として、それぞれの部落に系列があるわけです。本家筋とか、そこから別れた人たちとか、皆あるわけです。

私の生家は、半農半漁です。兼業です。そして、自営業だね。田んぼも畑も魚もやるってことです。ワカメはここ何十年です。昔、ワカメは養殖ではなかったです。天然のものだから。皆さんは、おそらく養殖のワカメしか食べたことがないと思います。昔のワカメは、天然のものは硬かったんです。そいつが、技術が進歩してね、昔はワカメといえば、生で塩蔵したのが始まりです。
最初は、生のワカメを塩蔵にしたんです。そいつが色々進化して、ボイルして、茹でてからね、テレビで見たことあるでしょ?そのようになってきたんです。乾燥ワカメといえば、昔も乾燥もやりました。その時は、灰をまぶして乾燥しました。灰で乾燥させると色が良かったんです。今は、天然物は全然ないです。養殖物を食べたら、天然物は硬くてね、今は誰も食わねぇの。

灰干しワカメは、養殖もしくは天然の新鮮なワカメに、シダやススキ、わらなどの草木灰をまぶしたのち天日干しし、灰がついたまま製品とする海藻干製品です。
素干しワカメに比べ、鮮やかな緑色、歯ごたえの良さ、ワカメ特有の香りを、常温で1年以上保つことができるのが特徴です。

農業は、田んぼといっても、この辺はご覧のように傾斜地の山間地だから、「棚田」なんてあるけれど、ああいう大規模な棚田なんていうのは、ここでは無理です。田んぼをやるには、水がいるでしょう? だから、沢ざわ、水のあるところに田んぼを作った。水田を作れそうなところを耕したというわけです。この辺は、小規模なんです。自分で食べるくらいしかできないんです。耕地が少ないです。これは一般論ではなく、私の家の話ですよ。
この辺は本当に零細農家だから、100アールなんて耕地は稀です。今考えたら、よく生きていたというようなもんです。収穫量が少ないんだもの。田んぼは、水を引くでしょう? 沢にしか水がないんだから。灌漑用水なんて、昔は機械で水を汲み上げることができなかったから、水のある周りだけで田んぼをやっていたんです。米を売るぐらい採れる人は何人もいなかったんです。食って終わりです。畑には麦を作りました。米が少ないから麦も食べるんだ。麦ごはんにして食べたから、糖尿病の人が少なかったんです。今は糖尿病の人が多いよね(笑)。

ところが、今は米も安くなり、そうして肥料なんか、色々なものが高くなったから採算が合わなくなって、みな放棄してしまいましたね。今はね、田んぼも畑もほとんどね、耕作しない人が多いです。ウチももうやっていません。沢だから、山が伸びてくると日陰になってしまうから、木が伸びると何もできない。そういう条件の土地ですから。農業は10年くらい前まではやっていました。

漁業でもね、機械でなかったから、「櫓で漕ぐ」って言うでしょ? それだったんだから。沿岸漁業ではこの辺では戦後まで手漕ぎでした。それでもなんとか生計を立てていました。生活のために売るのは魚やワカメでしたね。開口の日には、私もウニやアワビも獲りました。ただ、何を主に獲るかというのは家によって違います。規模も条件も違うから一概には言えません。私は戦争に行っていますから、終戦後帰ってきてからは、ワカメとかホヤとかの養殖を主にやってきました。
私の親は、遠洋漁業に雇われて行ったこともあります。遠洋漁業に出る人というのは、船主があって、雇われて行くんです。部落の人が皆行くというわけではありませんし、年中ではなくて漁の時だけ行きます。昔は、そんなに長い航海というのはなくて、戦後船が大きくなってから外国へ行くようになって、インド洋だの何だのってなったんです。

かっこぶね
写真提供・南三陸町役場「バーチャルミュージアム」


徴兵されて中国へ

私が兵隊へ行ったのが、1942年の12月1日です。最初は仙台です。20歳になると兵隊に行くんです。
まず、徴兵検査があります。20歳になると、検査を受けて、甲種合格→第一乙種→第二乙種・・・って言ってね、それで召集されます。私はその頃から、耳がちょっと悪かったから、第一乙種でした。

私たちは、徴兵検査が終わるとすぐに連れて行かれました。陸軍です。仙台の歩兵第四連隊。その時は、第何連隊なんて言わなくて、「橘」(たちばな)と呼ばれていました。何人くらいの連隊か?とか、どこから船に乗ったとか?覚えていませんね。わかりっこないです。赤紙で連れて行かれる二等兵に、わかるわけがないです。
昔は、田舎でも「歓呼の声に送られて」って歌があるでしょう?神社で祈願祭をして、そうして送られました。仙台から出て、船に乗って中国へ渡りました。上陸してからは汽車で移動しました。終戦まで中国にいました。
終戦は、昭和20年の8月15日だね。その時私は、関東軍咸陽(かんとんぐんかんよう)部署にいました。
そこから今度は日本へ還されるために、ぶよう(武陽)ってところに渡りました。そこから、がくよう(岳陽)まで揚子江を下りました。

渡るのは夜でした。ちょうど私たちがね、一緒に渡っていた人がね、川へ落ちたんです。他所の部隊の人です。それで、私はその時ね、一緒に船で渡る人が揚子江に落ちた。私は、背嚢(はいのう)ってリュックを背負っていたんだけど、そいつだけを脱いでね、川へ飛び込んで、その人を助けたんです。助けた人の名前は別の部隊だからわからないです。一人を助け上げたら、もう一人流れてきたから、その時二人助けたんです。後の一人は同じ部隊の人でした。その人は「いながきまさみ」という陸軍将兵でした。陸軍少尉だから、私より年齢が上の人だと思います。泳ぐのが得意だったとかそういうんではなくて、偶然と奇跡が一致したわけだ!ま、偶然助けたってわけです。

それで、そうしたら、後から表彰されたんです。派遣軍総司令官陸軍大将中三尉勲一等功二級岡部直三郎(おかべなおざぶろう、陸軍大将。1887–1946)という方から表彰状をいただきました。部隊長から頂いた表彰状もあったんです。全部津波で流されてしまいました。

私たちは、中国へ行っていたために、3年半でも、軍人恩給なんてつかないんです。なぜか?というとね、中国は加算の対象にならないの。ソ連や南方へ行った人は加算がついたんだけどね。私たちはつかないんです。
戦争中、中国で貯金をしたんですが、その通帳の番号だけは覚えていてね、通帳はないんですよ、でも番号だけ「熊本貯金千丸六七六」っていう番号だけね、それで、全部ではないけれど、帰ってきてからお金を下ろしたこともあります。70年経っても覚えているんですね。

戦地から戻って

私は、戦地から1946年に帰って来ました。それで、揚子江の水を飲んだからかどうか、今度は病気になりまして、この辺の先生を全部歩いて診てもらいました。ところが原因がわからないんです。ようやく気仙沼の外科の先生に「脾臓が腫れている」と診断されて、手術しなければならないから、東北大学へ入院することになりました。脾臓というのは五臓六腑の脾臓のことです。

8月7日でした。昭和24年のことなので、仙台までの交通の便がないの。そして、ハイヤーっていうのは、当時は後ろにガス発生装置を積んでいるような時代です。木炭でね。それで、ハイヤーを頼んで仙台まで行くことにしたら、南三陸町のベイサイドアリーナっていうのがあるでしょう?あそこまで行ったら、ハイヤーがエンコして、終わり・・・。

今度は別な方に、外科でなくて、内科に紹介状を書いていただきました。それで、東北大学の黒川利雄(医学博士。1897-1988)先生という方を紹介していただきました。当時、山川内科長だった方です。後、東北大学の医学部の学部長を務めた方です。その先生へ紹介状を書いていただいて、診ていただきました。紹介状を出したら、その時は講義中だったので「ちょっと待ってください」と言われて、講義を終えたら直ぐに来て診て下さって、即入院となりました。でもね、そこで、注射だけで治ったんです。私も奇跡的だったんでしょうね。珍しい病気だったのかどうかわからないんですが、講堂に連れて行かれて、学生さんや先生たちに触ったりされて・・・。まず、一命は取り留めていただけました。

その後にも、先生にお会いする機会があって、御礼を申し上げました。そうしたら、「ああ、こんなに元気になったか」って、喜んでいただけました。その後その病気は再発していません。
それからも、内臓の検査をする時には、「異常ありません」と言われても、「先生、私はこういうわけで脾臓の病気をしたんですが、異常はないようですか?」と、念を押して確認するんです。そうすると、「異常はない」と言われます。それからはあんまり大きい病気はしないで今日まできました。耳が悪いと言っても難聴ではないですし、今まで骨折したこともないんですよ。
今までで一番長く入院したのは、平成4年1月4日に、血糖値が高い、つまり糖尿病だということで入院させられました。検査してね、15日間入院しました。その退院後は、糖尿病の薬は飲んでいません。今でもです。食事の注意はしていますよ。今はヘモグロビンが6.3くらいだから、まあ、ギリギリの線でしょうね。

結婚と漁名人の舅

結婚したのは脾臓の病気の後です。昭和25年頃です。子どもは1人、男の子です。孫は2人です。1人が良かったもなにも、子どもは授かりものですからね、宝くじと同じです。

昔は、今のように結婚することが難しくはなかったですね。今から60年も前ですから、田舎で都会へ出て行くっていう女の子は、あんまりいなかったんです。そして、女性の職業もなかったでしょう? 息子が生まれたのは、昭和26か27年くらいです。息子は大学へは行かなかったけれども、遠洋漁業に歩いていて、無線通信士をしていました。今は一緒に暮らしています。息子の頃はちょうど遠洋漁業が発達して、宮城県は遠洋漁業が盛んだったんです。気仙沼というところは、遠洋漁業の基地、日本の遠洋漁業の基地でした。ハワイ沖にマグロ類を獲りに行くのが主でした。

遠洋漁業といえば、私の舅は遠洋漁業で船頭をしていました。舅は、家内の父ですが、私の伯父なんです。私の父が家内の父の弟です。私たちは、いとこ結婚ですね。それで、この舅が、漁業者として佐藤栄作が総理大臣の時代に勲七等を頂いています。舅は、この辺で名前を知らない人がいないんだ。神奈川県の三崎に行っても名前が知れているくらいの漁の名人でした。
漁にかけては本当に名人で、漁業者としての叙勲では早いほうだと思います。その舅は、戦時中はカツオ船に油を載せて南方へ船団を組んで運んだと聞いています。昔はタンカーなんていうのがないから、そうやって、油を運んだそうです。漁船っていうのは、船長よりも船頭のほうが偉いんだよ。船を持っている船長が偉いと思うでしょう?漁船の場合は違うの。船頭というのが一番の権限者で、そういう親父でした。
私は遠洋漁業には行きませんでした。息子は、無線通信士ですから、船頭は舅だけですね。

マグロ漁船の出港(昭和48年頃)
写真提供:yoshiaki-ichiyama「海と魚に懸けた人生の航跡」


銀鮭養殖発祥の地志津川

養殖といえば、牡蠣の養殖で志津川は有名ですが、あれは大きな処理場が必要なので、私たち細浦ではできません。その地域、地域で、向き不向きがあるので、南三陸町だからとか、志津川だからと言って、皆が同じことをしているのではありません。

志津川というところは、日本で最初に銀鮭の養殖をやったところなんです。銀鮭養殖発祥の地です。その時に、一番最初に養殖に成功したのが、もう亡くなりましたが遠藤昭吾という方です。私たちも銀鮭の養殖はやりました。それに、私は62歳から18年間6期、漁業組合の理事を務めたので一切合切がわかります。80歳まで理事をやりました。銀鮭の養殖が始まったのは、昭和52年だと思います。

銀鮭が良い時は、漁協も黒字だったんです。最初は、1キログラムあたり千円台で取り引きされたんです。値段が良かったの。養殖をする人が少なかったから珍しかったんだね。北洋で獲れる銀鮭が志津川で獲れるんだもの。最初は稚魚も一定の価格でした。
銀鮭というのは、最初は山で、海で育てるんじゃないんです。100グラム前後になった時、10月頃持ってきて淡水で育ったものを海水に慣らします。大体3日くらいかかります。そうして、今度は海の生簀に入れて、餌を与えます。その頃は、餌も安かったんです。
皆が養殖をやるようになって、稚魚も高くなり、餌もバカにならない・・・、そのうち鮭の値段が下がってきて、割が合わなくなってきて、結局は事業として成り立たなくなってきた。成り立たないだけなら良いんだけど、大きな負債を抱える人が出てきたの。経営は個人だから、あくまでもね。結局は何千万円も負債を抱える人が出てきたの。施設にも、稚魚にも、餌にも、経費がかかるでしょう? それで、保険制度というのができたわけです。漁協ではなくて、もっと大きな保険会社が募集する水産関係の保険に入るようになったんです。

ところがね、この保険というのは、時化(しけ)にあったとか、被害にあったとか、魚が病気で死んだという時には下りるんだけれど、価格が下がったという条件には支払われない。漁民にとってはこれが落とし穴だったんです。だから、一時期はだいぶ大げさにやったんだけれども、採算が合わなくなって、自然淘汰されてきたわけ。一番安い時は、1キログラム200円台になったんだよ。それでも、稚魚も餌も高騰していって・・・。ほとんどの人が止めたんです。だから、負債を抱えないで止めた人は良いの。負債を抱えた人は大変だったの。
それでも、漁協は融資をするわけだ。融資をしなければ、事業を経営できないからね。で、今度は、漁業信用金庫のような互助協会に入るわけです。入ったからって言っても、借りたら返さないわけにはいかないから、だからまあ、漁協もひどいわけです。漁協にもダメージがあって、負債を抱えたまま破綻したら大変だものね。私も銀鮭もやりました。私は、負債は負わなかった。1年間に1000万円以上の負債を負ったら大変だよ。働いて、それで、負債を負うんだからね。

だから、やっぱり、漁協が融資するのも、私たち理事者の立場とするとね、「お金を貸して、事業を継続させるばかりが組合の立場ではないよね?」とね。見通しが暗いのに、投資をしようとする人には、「この辺で、少し様子を見たらどうだ?」と、肩を叩いて諭すのも、漁協の立場ではないかと思います。理事者の立場で融資をするばかりが漁業を助ける道ではない。そしたら、職員から「やっ、では、◯◯さんを見殺しにするのか!?」って。
私たちは心配するから言うんだと、これよりも深手になったらどうするんだ?ってね。あんたたちは職員の立場だから、それは責任がないかもしれないが、我々は理事者として、組合員の立場も考えなければならないし、理事者として責任もあるんだよ、って言ったんです。「なんで、この事業を継続させたんだ?」って組合員に指摘されるんだよ、ってね。私は、こういう主張だったんです。
だから、職員からは色々言われました。だけれども、同じ赤字で止めるにしても、浅いうちなら良いけれど、深くなったら苦労するでしょう?長い目で見たら、お金を貸すことだけが人を助ける道ではないと、私は思います。

私は銀鮭もやりましたが、主にはワカメです。最初の頃は乾燥のワカメが主でした。今は機械化が進んで作業が楽になりました。
私が始めた頃は、どうしても人手が必要な時は「結する(ゆいする)」と言って、近所の人同士で力を合わせて作業をしました。いつもというわけではありません。作業の内容によって必要な人数も違うし、部落で、お互いに農作業でも海の作業でも労力の交換をしながら、必要な時はお互いにそういうふうに「結」しながらやってきました。機械化されると、時間が早い。仕事は速いのが一番です。経費はかかるけれども、機械化した方がいいと思います。

志津川での養殖試験期間の様子(ギンザケ)
写真提供:株式会社マルハニチロホールディングス「サーモンミュージアム」


震災、そして、今

地震の時は、私は家にいました。ワカメの季節だったので作業をしていたんですが、年寄りだからということで若い人たちが「休みな!」と言ってくれたので、家でテレビを観ていたんです。海は私たちの家から100メートル位のところです。地震が起きて、女房が・・・と思っても、立っていられないんだから。そのうちに、放送なんかでも6メートルの津波が来るという予報だったから、それじゃあとにかく避難するのが第一と、うちは4人家族だからね、まず貴重品を持って、車で避難所へ行きました。ウチのほうでは避難所というのがあるんです(細浦生活センター志津川字細浦23-11該当地域:細浦、西田)。部落の集会所に使っていたところです。

で、避難してみたら、第一波が来たら、この避難所も危ないよというので、また高台へ避難したわけです。だから、助かった。避難所は流されました。避難所は海が見えないところだったから、波が正面から来るところは見ていません。2回目あたりが一番大きかったのかな。水かさが上がるのはわかりました。私の家は、後から避難した高台からは見えるところだったので、流されたことはわかりました。片付けるもなにも、何もないんです。すっかり流されてしまいました。うちの方の部落は、ちょうど半分流れました。スパっと切ったように80戸ばかりある部落で37戸が流れました。

私たちね、甥っ子が遠いところにいて、弁護士をしてるんです。で、甥っ子のお嫁さんが裁判官なんです。東京にいます。津波の時は、実家だから、直ぐに来たそうです。電気もなにもないからバリカンを買ってきたって、私たちも刈ってもらいました。

流れたところに家を建てるなって、もう元の場所には家を建てられないんです。60センチメートル沈下したそうです。さて、だからと言って、個人でどうにかできる話ではないと思います。何百年もかかって住宅を建てられるような条件のところに家が建っていたんだからね。

それが今度全部無くなって、だから行政にまとめて調整してもらうしかないと思います。私たちは年寄りだから、聞かれれば答えます。私個人の考えでは、条件が非常に良い所もあると思っています。部落内の土地で、畑地で今は耕作していない土地があるんです。何故、今誰も耕作しないか?と言うと、今は機械と車ですよね。
ところがその土地へ行く道がないんです。昔は馬ですから人がやっと歩けるくらいの幅で6尺もあれば充分だったんです。で、その土地に道さえ作れば、高いところにあるし、国が買い上げて造成して、造成の時に余った土で沈下した農地や宅地を埋めると、ちょうど良いと思うんです。その高台の畑地を造成すれば、流された家が全部収容できると思います。それで、余った土で流れたところを埋める。ほとんど埋められると思います。個人の力では道路を作ることはできません。この際行政の力で、広い道を作り、造成して、沈下した土地は埋めてもらえれば最高だべ?ただ、私たちは年をとっているから、あまり行政に物を言ってもなぁと思っています。アイディアがあるか?と聞かれたら答える程度です。
今は、仮設住宅にいるから、部落の様子はわかりません。若い人たちがどういう考えなんだか?それも、わかんないからね。

角を立てずに・・・

私には、横浜にも甥っ子がいます。それで、仲人でお嫁さんをいただくのにご挨拶に行きました。山下公園の近くのホテルで結婚式をあげました。横浜へ行ったのは10何年前かなぁ。ホテルの名前は忘れましたね。人生長いうちには色々ありますね。
私はね、40組も仲人しているんです。昔は見合い結婚です。私が仲人したお見合い結婚の離婚率は低いです。頼まれて恋愛結婚の仲人したほうが離婚があります。それだからというわけではないけれど、顔を見れば大体わかります。人を見ればね。いくら頼まれても、これは難しいぞ・・・とね。
だから、お嫁さんに頂きに行く時にも言うんです。「違った環境で20数年間育っているんだから、お互いに意見の合わない、家風の馴染みのないのも当たり前なんだ」ってね。「だから、お嫁さんに頂いたら、頂いたほうが、お嫁さんに来てもらったら、早くこちらの家風に慣れるように仕向けていってください。お嫁さんも、自分の生家で育ったしきたりを、そのままこちらに持ち込もうとすると都合が悪いから、お互いにそこは、お話し合いをして、頂いたほうは教えるし、片方は慣れるように努力しなさい」って語るんです。離婚するとやっぱり傷を負うからね。

この辺では、「ガミガミ言う」というのをね、「角を立てて(お話する)」と言います。角を立てると話が先に進まないからね。家族にもね、家族と言えども、一度、角が立ったら修復はなかなか困難だ。だから、そこを心がけなければならないと思います。ことにね、今の2世帯同居するなんていう時は、お嫁さんだって、やっぱり丁寧なお話をしないとね。なんぼ嫁さんだからって言っても、仕事を言いつけるんでなくて、自分がお頼みするんです。「あれそれ、してください」って。頼めばいいの。頼まれれば嫌とは言えないものね。言いつけられると嫌っていうよね。
行政との話し合いも、和やかにしなければと思います。行政も、なかなか親身になってくれる人ばかりではなくて不親切なところもあるけれど、できるだけ和やかに話し合って欲しいと思います。角を立てずにね。言い方とか言葉とか、大事です。
人生は長いうちだから、色々です。話せば、本当に1時間半どころじゃないよ。まず、それでも健康に恵まれて、89歳まで生きてきたからね。(談)

田辺喜一郎さん

このお話は、平成23年8月17日、平成の森仮設住宅で、
田辺喜一郎さんにお話いただいた内容を音声からまとめたものです。

[取材]
中平朗美
渡邊裕美子
村田良介
河本真吾

[年表]
河相ともみ
織笠英二

[文・編集]
河相ともみ

[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net

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投稿日:2012.07.01
カテゴリー:自分史.

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