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震災の時は、私はスーパーで買い物をしていたんです。車で買い物をしに来て、最初1軒のスーパーに行って欲しいものが売ってなかったから、違うスーパー、サンポートっていうとこに行って、そこで地震にあったんです。カゴを持ってレジに並んでいたとき、地震になったんですね。それでもすごい地震でしたので、怖くて動けなかったです。レジ台のところにいって、こうやってずっと掴まってたの(笑)。掴まってたのは私だけじゃなく、何人も一緒でした。上から何か落ちてくるんじゃないかという心配もあったけど、とにかくその場から動けなかったんです。いくらか揺れが収まって、外に出てすぐに大津波警報がでたっていう状態で、すぐ車で家まで戻りました。信号は止まってしまったしね、車の渋滞があったし、大変でした。
今回の津波では、ボランティアで知り合った方やそのご家族がたくさん亡くなりました。地震が起きた時は私は「高野会館」というところにいました。
午前中からお昼までいて、「保健センター」というところに移動したんですね。ボランティアの楽しみをしてたもんだから、仲間と一緒に認知症の研修会を受けに行ったのです。そこで地震にあいました。
高野会館にいる方には、「保健センターに行くよ」と言い置いて行ったのですが、聞いていない方もいて、あとで私がいないと騒ぎになってしまいました。
震災当日は作業小屋にいました。朝から、よそのお母さんたちと4人でワカメの作業をしていました。
あの時は、お昼食べて2時だから、ちょうど練炭とストーブの一番燃えいいときですから(笑)。2時46分だったかにありました。地震がきたときは、一番先に自分が外に飛び出たんです。ドア2枚ありますから。足でけったら壊れるんだけど、まさかそういうこともできないんで、一番に開けて。それでお母さん方に一番先に言ったのは、「火を消して帰ってください」と。すぐ帰りましたよ、みんな、無事です。あの、気仙沼市の大谷に帰ったのも、間に合いました。あと、子供を学校に迎えに行って車で避難した人もいたんです。
津波のときは、自宅から車で5分くらいの場所で仕事をしていました。大工道具のほとんどは家にありましたが、持って逃げることができませんでした。
地震があってすぐに自宅に戻り、津波まで1時間くらいありましたから、部落の役をしていたこともあって、工場の倒れた材料の様子などを一回りして見に行って自宅に戻りました。「親父、そろそろ逃げっぺ。津波がくるかもしらん」と行って、軽トラックに親父を乗せて、丸ノコを積んで高台に逃げました。その時には、隣のおばちゃんとは「来ないべっちゃない。大丈夫だよねー」なんて話をしていたのです。
助かったからいいようなものですが、おばちゃんは波に追いかけられながら逃げることになりました。お袋は高野会館で踊りの発表会をやっていて、400人くらいの人と一緒に逃げて避難所で一晩過ごしました。私たちは大雄寺さんに避難していて、そこでは中瀬町の区長さんも一緒でした。歩くのが困難なお年寄りが30人ほどいて、その人たちを老人ホームにお世話するよう頼まれて一緒に連れて行きました。
気仙沼に姉夫婦がいますが、電話ももちろん通じませんので、「どうしようかなあ、歩いていこうかなあ」と思っていたらメールが一瞬入って、「あっ大丈夫だ」と思って安心しました。自分はいろいろ家族の状況を把握して安心しても、自分から連絡しないもんですから、後でみんなから「何で連絡しない」って怒られました。そういえば、こっちは大丈夫って言ってないなって後で気がつきました。
次の日の昼ごろ、避難する動きも少し落ちついてきて、自宅の近くまで行った時ですよ。初めてああっ、うちもないかなあって思ってね。それまで自分の家がどうなっているかなんて考えもしなかった。大きな建物があれだけ流されているんだから、ウチもあるわけ無いな、とそのとき気づいたんです。
自宅は親父が建てたものでしたが、建替えかリフォームを考えていたところでした。仕事関係の道具が流されたことについては、モノへの執着はありませんが、長年蓄積してきた自分なりの資料がなくなってしまったことがほんとうに残念です。
小学校から20歳位の時のアルバムだけは拾うことができました。皆に「髪の毛がある時代の写真見つかってよかったな」って言われました(笑)。仕事関係の写真はなかったけれど、幼稚園入園、小学校入学から20歳頃迄の写真が残っているのは、思い出があるだけに、嬉しいもんです。
震災の日は、地震が2時46分にあったんだよね。そして、すぐ下の家に4軒みんな集まって「大丈夫か」と話をしていたら、「津波が来るらしいよ」と聞いて、また自分の家に帰ってから、1軒上の家に行ったんです。
そうしたら、ものすごい、「ゴォー」という音がしてね、すぐ下の家が波に押されて、みんなウチのところまで迫って来たの。そして、ウチのちょっと手前のところで止まったんです。そして、それがまた引いていったのね。それは、すごかったね。
ウチの奴は見なかったんだけど、まあ、なんていうか地獄っていうか、あんな大きな家や鉄塔や、コンクリの塊なんかが、上に向かって流れて来るんだからね。それが終わると引くんだよね。その速さが速い。上がってくるよりも下がって行くほうが怖いんですね。
ウチに年中、車で遊びに来てお茶飲みしてた、84歳になるおじいちゃんがいたんですよ。「私はモテるんだ、ここにこういう女がいるんだ」ってよく自慢してたんです。その人が「いい女ができた」って言っては、鳴子温泉に行くような人だったの。
その人が自宅に帰ってきて、津波が来るってわかっていたのに、「私は大丈夫だ、津波はこんなところまでこないんだ」って家の中へ戻っちゃったの。そうしたら、結局流されちゃった。おじいちゃんには、チビという名前のメスの犬がいて、どこに行くにも連れて可愛がっていたんだけれど、その犬がね、震災後にね、おじいちゃんを捜して、ずーっと歩いているの、何もないガレキのいっぱいあるところを。
で、クンクン鼻を鳴らして、沢の上のところで動かないでいる。だから、もしかしたらおじいちゃん、そこで埋まったのかなと思って、消防署の人に話したら、50人ぐらいの人がすぐ来てくれたの。半分の人が海のほうへ行って、25人くらいの人がそこをきれいに遺体を傷つけないようにとってくれたんだけど、結局見つからなかったのね。その後、おじいちゃんはずうっと下のほうで見つかったんですよ・・。
震災当日の2時46分、家内は家に居ました。私は裏にいて、そこの空き地、公民館のところにいました。最初はゆるゆると、長く続いて、横揺れでした。家を見てて、倒れないかなと・・。自分は立っていられませんでした。車に寄りかかっていたけれど、ズルズルとしゃがみこんでしまって、家からは50メートルくらい離れているので、少し弱くなってから歩いて家に戻りました。とにかく長く、長く続きました。
家はつぶれずにすみましたが、家の中が、棚から物が落ちたりしていたので、それを片付け始めると、津波警報が出ました。それから直ぐに大津波警報に変わって、とにかく避難しようとなり、家内が体調を崩しているので「車で送るか?」と聞いたら、歩いていくというので、家内を先に家から出して、私はもう一度家の中を見てから、トラックでここまで(小学校)避難しました。トラックに長靴とか防寒着とか積んで、もう少しいろいろ積んでも良かったんだけど、やっぱり人気がなくなってくると気持ちの悪いもので、とりあえず気のついたものを積んで逃げました。揺れが強いから、上へ上がって、ここの上で海を見ていました。
見ていると、沖のほうから波が、白波が高くなってきて、見ているうちにここも危ないから、「もっと上へ上がれ」って、お互いに声を掛け合って、みんなで中学へ上がりました。その時は車を置いて。ここに20〜30台あったと思います。私は近くに停めてあったので車で上がりました。
最初に、防波堤と防波堤の間から波が入ってきました。一番先に流された家は、その波に流されたんだと思います。その最初に流された立派な家が、この直ぐ下で壊れました。その後は、家のほうが心配で、そちらを見ていました。まるで将棋倒しみたいに、海から波がどおってきて、どす黒い色でした。段々段々家が流されて、自分の家が流れるのを見て、後は見ていません。津波は何回も来たんだけれど、私は1回を見ただけです。自分の家が「わ、流れたな」って。家が、1軒の家の屋根がこの小学校の校庭まで流されて上がったと聞きました。
普通引き潮があるんだけれども、引き潮がなかった。沖のほうから壁みたいに水が来ました。2回目は大きかったと聞いていますが、段々暗くなって寒くなってきたので、みんな中に入りました。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
その日、私は志津川で議員の仕事をしていました。地震の大きな揺れがおさまって、時間を計算しながら、あそことあそこが越えられれば大丈夫と・・。車で家に戻りました。
震災後は、電気が止まってしまいましたが、薪ストーブと炭炬燵が役に立ちました。元はかんちゃんのお父さんが炭窯をやっていたんですが、震災でできなくなってしまったので、今は志津川の入谷地区で焼いたものを買っています。1袋2000円くらいかな。温かいんです、炭は。遠赤外線ですからね。暖をとることができて、助かりました。友だちが冷凍庫を持っていて、停電で溶けてしまうから、魚とか加工したものを「食べてくれ」と持ってきてくれたりもしましたね。
あと水は、全く汚れの無い川の水、それをポリ容器に入れて、従兄弟と交代で汲みました。まず、「水を汲ませてください」っていう多くの方が来たので、水槽をきれいにして、そこからバケツで汲めるようにしました。燃料が手に入ってからはポンプアップで汲み上げ出来るようになりました。
地震のときは、家にいました。(揺れが収まって)立つことができた瞬間にすぐ逃げたんです。長い時間揺れてたから、逃げてるのがやっと。速くて速くて。
ここからだと海が見えるんですが、空と津波の高さが同じくらいなんですよ。津波の高さが全然下らずに、その高さで来たの。だからここの人も結構流されてしまいました。上から見てる人が「逃げろ、逃げろ」って言ったけど、チリ地震(の経験)があったから、ここまで来ないって安心して(逃げないでいて)、それで私たちの見てる前で流されたんです。そしてあと、そっちの人も、背中が山なんです(だから、逃げようと思えば安全な場所に行けた)、でも逃げなかったから流されました。
昨日偶然助けた人に会ったんだけど、そこの人ね、心配して志津川からここに来て、鍵を開けた瞬間、流されたんだけど、覚えてないんだって。そしてうちの、竹藪のとこまで流されて来て、津波がグルグルグルグル渦巻きになったのね、「助けて」って叫んだ。何かに取りすがって流されなかったって言ってました。「何さすがった(何につかまったの)?」て言ったけど「分かんね(覚えてない)」って。みんなして、その人を助けたら、その時は分からなかったけど、後で聞いたら大怪我をしていました。
肉がベローっとそげて、血管がピクピクピクピクひきつるのが見えて、(後で聞いたら)完治するまで3カ月半かかったって言ってました。
高いところに行こうとしても、そのまま、震えて立てないので、て、男の人が3~4人で抱えてもらって山に逃げて、どこかの住宅に入って、着替えは全部、長袖の物が補助で来たそうです。家は孫がいるので、ここに逃げてきて泊ったんですが、そっちに泊まったその人は、ひと晩、震えが止まらなかったって言ってました。
私の身内でも、本家の人で、65歳くらいのお姉さんとか、この親類でも、6~7人亡くなったんです。逃げなかったんですよね。
今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かったのね。あれだけの地震があれば津波がくるという予感がしました。
車で避難し始めましたが、米谷(まいや)大橋まで来たときに通行止めに会い、三陸道も通行止め、そこから4~5km下流にある登米(とよま)大橋は幸い通れたので、戻るようにして米谷大橋まで来て、国道398号線を志津川に向かっていきましたが、今度は合同庁舎から300mから500mも行かないうちに交通規制がかかっていました。
ふと川のほうを見たら、そこは右カーブで、私の車がハイエースだったのでよく見えたのですが、瓦礫が流れていたのです。私の後ろに30台ぐらいの車がつながっていたから窓を開けながら「津波だから逃げろ」と叫びました。
本当はそこから200mぐらいを左折して、旭ヶ丘団地に上りたかったのですが、そっちから1台向かってくる車があって、私がその車をやり過ごして高台に上がろうとすれば、後ろの人たちが波に追いつかれる。だから、そこに入らないで、そこから1キロメートルぐらい上流に来て、山道を迂回して八幡川の上流に入って地元に帰ろうと考えたわけです。
けれども、頂上近くで1台の乗用車とすれ違ったの。30代ぐらいの女性がそこから、「波来てるから行っちゃダメ」って言う。自分としては、この辺りの地形はすべて承知していて、無茶はしないからそのまま行けると思ったけれども、次の津波が押し寄せてきていたので、そこでUターンして頂上あたりの土建屋さんの資材置き場に車を停め、山道を歩いて自分の地域に帰ってきたんです。その光景はきっちりと覚えていますね。認識はしているのですが、現実味が乏しい心持(こころもち)がしました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
3月11日2時46分、あのときから、津波のことは、ずっと脳裏に刻まれてるんですよ。
私の家はちょっと高いところにあったんで、「津波が来たって家までは来ないから大丈夫だ」ってことで、安心してたんですよ。
地震が起きて、妻は車で外出して家に戻ってきましたが、その途中、ゴオーっと言う音や、ビシビシビシっていう雑音が聞こえてきたんだそうです。それで「これはただごとじゃねえ」ってことで、私たちがサンダル履いて外へ出てみたらですね、すぐとなり50mくらいの距離にある公民館や民家の屋根の方が盛り上がって来たんですよ。津波が来ていたんだね。
「あれ、津波だ、こりゃ大変だ」すぐそこまで来てるってことで、座布団1枚頭に被って、着のみ着のまま、そこの崖を上がっていったんですよ。ちょうど雪が降ってまして、足元が滑るんですよ。ベロベロ、ベロベロ。妻が先に上の方まで逃げて行ったんですが、私はサンダルがずるずるずるずる滑って、しまいに無くなってしまって、探そうとしているところに水が来たんです。
「ややや、こりゃ大変だ」ってことで妻が、上の方から「掴まれ」と手を伸ばしてくれて、私掴まったんですよ。瀬戸際で力が出たんですね。上に上がったところに水がわんわん、わんわん来た。命拾いしたんです。もしあの時一緒にふたりでズルズル滑っていたら、2人とも津波にのまれてさよならだったなって、笑い話にしてるんです。
その後、最初はここの「はまなす」っていうところに1カ月ぐらい避難しました。それからここは事業所で公的な建物ではないということで、あと、ここから車で15分くらいの距離の岩手県津谷川の、閉校した学校の建物に集団で移りました。避難した時には、電話もなにも、通信手段がなく、自分の携帯も津波で流してしまっていました。
また、小泉八幡神社や、私自身の歴史についての記録が自宅にあったのですが、着のみ着のままで逃げたものですから、流されてしまって無いんです。そのことがいつも頭にあるんです。多賀城の資料館にいくらか神社の資料があるんではないかと思っているんですが・・。流された資料は誰が書いたかわかりませんが、漢文で、小泉八幡神社の神職を務める山内家と言うのは、明治5~6年より前は藤原姓を名乗っていた、それで明治何年かに山内姓を名乗ったって、と書かれていたんです。私もそれを見つけて何枚もコピーはしてたんです。それをそっくり一緒にしてたもんですから、全部流してしまいました。
震災の日は、長女は仙台におりましたけども、次女の方が気仙沼の、南郷って、一番水が来る場所に家があって、そこにいる孫は当時小学校の6年生だったんです。小学校の校長が偉かったんですね。子どもは全部校舎に入れろと指示を出して、校庭を出てった小さい学年の子どもも全部校舎の中に入れて、3階に上がらせたんですね。学校は3階建てて、その上は屋上でした。
その近くが、すぐ気仙沼湾。火出た、その近くなんですよ。子どもたちは暗くはなるし、火は出てくるし、真っ暗になるし、泣き喚いたんでしょうね。次女は、娘が小学校にいるってわかってるわけです。自分は高台の高校にいて、娘は狭くて、低い危険な場所にいるので、連れていきたい、呼びに行きたいと思っても、津波が来てるから行けないんです。夕方から朝まで泣きどおしだったそうです。
娘の方も、母親のいる場所はわかっているけれど、行きたくっても行けないんだね。次の日の朝は水が引けていたので、自衛隊が来て、孫は自衛隊におんぶしてもらって母親のいる高校に連れて行ってもらい、再会できたんです。
ところが今度の津波は正直言って、まったくの想定外。このへんはいわゆる断層がないもんで、「直下型の地震はない、仮に直下型の地震が起きても、はるか100キロか200キロの沖あいに起きるのだ、だから、この辺がつぶれる心配はないんだ」と信じていました。地震保険にも入ってなかったんですよ。いやいや・・。
それから、いつか必ず津波が来るから、その映像を記録に残そうと思って、カメラとビデオはいつも充電してあったのです。なのに震災当日、地震があんまりでかかったから、カメラも、ビデオも、もって逃げるのを、すっかり忘却してしまったんですよ。
姪の方が商売やってたんだけど、それが今度の津波で行方不明になってしまっている。見つからないまま、こないだお葬式やって、迎えた新盆です。このお団子はね、昨日お墓に供えるのに作ったときに、家で食べるようにも多めに作ったものですよ。
姪の車から髪の毛がみつかったんだけど、髪の毛というのは、毛根がないとDNA鑑定ができないんだと聞きました。先っぽだけじゃ駄目らしいんですだよ。利府に200体だったか、身元がわかんない人がある、って言うんだけど、探しに行ってもDNA鑑定も何もできない。だけど姪は携帯電話を持ってるはずなんです。
さっきまで、お巡りさんが探しに来て、その辺りをかき回していたところへ、「骨ばっかりになっても、携帯電話持ってるかもしれないから、よく探してください」とお願いしておきました。
車に積んでたグランドゴルフの道具がね、唯一の持ち出した家財道具になってしまいましたね。それでも、カメラとビデオは忘れてきたんだけど、うちの家内は「非常用持ち出し」っていうのをまとめてあって、そのなかに通帳とキャッシュカード、いろいろな土地の権利書やなんかをリュックにいれてあったのを、土足で2階にあがって、持ち出しておいてくれたんです。なくても預金は下ろせたでしょうけど、面倒なことになっていたと思いますねえ。