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私は昭和7(1932)年11月23日、志津川町(現宮城県本吉郡南三陸町)戸倉(とぐら)に生まれました。実家は祖父母、両親と姉の6人家族でした。生まれてから今回の津波に遭うまで、ずっとその家で暮らしてきたのです。
戸倉は半農半漁の家が多く、漁業だけで生計を立てている家はだいたい3分の1、4割にもならなかったですね。
うちは農家で、お蚕(養蚕業)をやってたんですが、漁業権もありました。祖父は1メートルほどの長さのナラの木を砂浜に立てて、そこに付いた海苔を採っていたんです。私も志津川でタコが大釣りしていた頃は、アワビの開口にも行ったりしたんですが、昭和20年から30年代にかけて、漁業の進歩で定置網や船を使うようになってからは道具も揃えなくてはワガンねえ(できない)からってことで辞めましたね。
そんなふうで、戸倉地区は海に面した方(かた)でなければ、木炭や養蚕が仕事の主体でしたね。うちは蚕より他になかったですが、私は中学校に入った頃に木炭の仕事をやったこともありました。
父の名前は知(さとる)、母はかほるといいます。2人とも戸倉の出身で、母は、父よりひとつ年下で、横津(よこつ)商店という酒屋から嫁ぎましたが、昭和48(1973)年、412の年で子宮がんでこの世を去りました。祖父は名前を吉治(きちじ)といい、自慢のようなんですが、戸倉村で村会議員を3期12年務め、71歳で亡くなりました。祖母はなおといい、その頃では長命な方だと思いますが76歳まで生き長らえました。姉は知子と言いました。
父は、祖父の「これからは頭が良くなければだめだ」との方針で小牛田(こごた)農林を卒業しましたが、20歳になってすぐ、海南島に出征しました。すでに母と結婚しており、私が生れる昭和7(1932)年に戻ってきたんです。
私は昭和13(1938)年、戸倉村尋常小学校に入学しました。そして、小学校4年生になった昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争勃発の日にスマトラ島に向け、再び戦場へと旅立ちました。
親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。
海苔を始めるのに、最初は天然の海苔のタネつけといえば、垂下式だったのね。元の歌津町でも浜の漁協とこっちの漁協と2つに分かれてんだ、漁協が。で、こっちの漁協だけで、研究会っつうのをつくって、指導員さんには県の漁協の方が来て、あとはこの辺の水平の高さと干潮時の高さ、いろんなの測って、このへんさ網をはれば、この水位さえあれば、ここの部落では海苔が付着しますつう格好で。
一番最初は海苔の胞子をとって、貝殻につけて、それを生育させて、温度と日光の具合をみながら熟成させてる。それから張った網さつけるんだけども、その時期になったらば、海苔のタネ付いてる貝殻は、最初真っ黒くなってるんだけど、紫色になるんですよ。それが、胞子を出せるようになってる海苔の色。3日目ぐらいなると、波で揺られるうちに、その胞子が消えてもとの貝殻のように白くなるんです。顕微鏡で見ると、胞子がみんな、その海苔網さ付着してる。
海苔もしばらく良かったんだけども、だんだんね、松島の方におされて、ダメになってきて、それに代わってワカメに切り替わりました。
昔は、海苔のことを「ウンクサ」って言ったの。「運の草」であると。「バンジョ」っていう市場にあるようなカゴでいっぱい海苔を採ってね。入れても入れても、いっぱい溜まるんだな。それでうちの父さんが身上を上げたのさ。
だからね、今でも海苔やる人たちを手伝いながらそういう話をしたいと思うときがあるよ。そのくらい、海苔というものはありがたかったんだよ。
でも、大東亜戦争が始まる前は、食べるものに困ったね。それで山の開墾もしたの。どこでも終戦になってみな開墾したけども、父さんは30歳過ぎてから初めて百姓仕事をするようになったんだ。だけど、父さんは何でもできる人だった。今のように機械の力でやれば短時間でささっとできるけど、今から60年も70年も前の話だから、そのときはそんなものはなかったからね。漁業も、農業も、鍬頭(くわがしら)(農作業のリーダー)になって、一生懸命やってた。
私たち小さい子どもも一緒になって、木の根っこを運ぶのを手伝ったり、一生懸命手伝ったんだよ。
また、父親が、ものすごい量の海苔を収穫して来てね。今は全部津波で流されたけれども、松島あたりの島で採って来たの。
うちの妹も「働き者(はだらぎもの)」でね。その妹と2人で、朝3時に起きて、大きなカゴに水を入れて、海苔を入れて、きれいにして、パンパンッと干して、3,000枚くらい仕上げたんだ。水場のないところだったから、夫は井戸から水を汲んでくる専門。汲んできた水に片っ端から冷たい氷が張ってくるほど空気が冷たくて、ふうって息で暖めてたよ。
それから、志津川の松原っていう所に田んぼがあって、そこにヨシが多いから刈りに行ったの。そいつを一本一本干して、編んで、切って、海苔を漉く「海苔簀(のりず)」っていうものを作ったの。あと、今のように機械でないからね、「トウバ」っていうものを作ってさ、そっちもこっちも日の当たるところを作って干すの。
女の人たちがみんな来て、ワーワー言いながら干した海苔を剥がして、おもしろいもんだった。そうしているうちに、父さんと主人はイワシ漁に行くんだ。夕方に行って、差してきたものをまた上げに行くんだから、相当辛かったと思うよ(イワシは光に集まる性質があるので、夜間に操業する)。あかぎれに薬を塗りこむ日々が続いたね。
夜に海苔を10枚ずつ勘定して100枚ずつ束ねて、箱に入れるんだ。だから主人もみんなも、(お金が沢山貯まって)ホクホクさ! ホクホク(笑)。
だから私はね、お金というもののありがたみは、さっぱり感じなかったのさ。「けせぇ(ちょうだい)」と言うと「けら(あげる)」って言われるから。子どもたちのものを買うときも、切りつめたことしないで、「なんぼ使う?」って訊かれて、父さんにもらえたの。
海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。
海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうすると海の中で育つんです。そのころ結構このへんに海苔を作ってる人がいました。漁協組合ができたときに作った、何千トンっていう大きな共同の冷凍庫がありましたから、みんなその冷凍庫に置くようになりました。冷凍網が3000箱~4000箱入るような冷凍庫でした。
海苔の方は、塩釜で種をつけて直接もってきて、あと冷凍庫に入れるんです。冷凍海苔ってその頃は主流なんです。いま、宮城県の海苔も半分は冷凍の海苔です。 秋、芽をだして、そのままほかしてやるのと、 その収穫が終わると、今度は冷凍したものを出して網の張替えするんです。1年中、ヒマないんです。松島のへんでやってますね。松島の海苔や明石、千葉だって今はどこでも冷凍網じゃないですか。
私も自動乾燥機を買ってみたり様々なことやってみたけど、今は海苔を一切やっていません。
銀鮭をやったこともあります。みんなこの辺の人は銀鮭でおっきな穴(赤字)をあけたんです。財産売った方もおるし。私は、なんとか努力して、財産に手をつけないでやめて良かったです(笑)。
私が育った家は農家なんですが、米や麦、豆、ソバなどを栽培していました。その当時は、広さとしては中の上くらい、田んぼと畑で一町二、三反ぐらいやってたと思いますね。海岸が近いもので、漁業権も持っていたので、農業のかたわら、海の方もちょっとやりましたね。このへんはウニやアワビの産地だし、夏の始めのワカメや、春になればヒジキ、海苔などの海藻も採れるんです。
戦争当時はまだ良くて、精米でも食べていけたんだけど、だんだんほら、(業績が)落ちて。私が小学校に入る頃から、だんだんダメになって、精米の仕事がなくなってきました。
それでも、海が近いから、精米やりながら、昆布は採ってたの。昆布でけっこう、稼いでいました。気仙沼の天然昆布って有名ですよ。天然だから、夏になって、流れてきたのを仲間と拾って、あと干して、丸めて、お盆に売るんです。くるくるっと丸めて、このぐらいの丸さにして、それをお盆のお供えに飾ります。それは気仙沼では有名なんです。その後は漁協に出して売る。昆布は乾燥させて、後で食べる。そのうち精米やめて、父親が海仕事に切り替えたんだね。
昆布の時期は、昔は、だいたい6月末頃から、8月のお盆までに採って、その後は、10キロだの10何キロだのと、くるくる丸めて、丸く大きくしていくんですが、実際は、9月頃まで拾ってたんだよ。うちの収入はほとんどそれでした。気仙沼で海苔や牡蠣をやってる人は、それでの収入もありました。海苔と牡蠣の養殖が有名なんですよ。
私が中学校終わってすぐくらいに、昆布から切り替えて、ワカメの養殖になりました。家で養殖ワカメを干していたのは、じっちゃん(育子さんの父)が病気で倒れるまでだから、6~7年になるかな。年寄り2人でしてました。
弟たちは、都会で仕事持ったから出ていって、家に残ったのはじっちゃんとばっちゃん(育子さんの母)と、あと面倒はじいちゃん(育子さんの夫)つまりうちのだんなが見ててくれてました。それでも、2人とも丈夫だったから、あまり手かけなくても、何とか元気で養殖してたんです。ワカメの「挟み方」(ワカメの種を切って、ロープに挟み込んでいく作業)の時なんかは行って手伝うけど、収穫は2人してしてました。ある年、この辺で最初にワカメを刈りに行ったんですよ。そうしたら気仙沼で初ものだって、テレビに映りました(笑)。
だからうちの父親は昆布とワカメで生涯終ったの。それで亡くなってしまったの。どんな父親? んー、子どもには厳しいかな。子供たちはみんな怒られるんです。女の子に甘いとか無かったね。
若いときは、今のように炬燵もないし、ストーブもないんだ、どこのうちにも。お天道様が当たらなくても着るものいっぱい重ねて着て冬は過ごしたし、あとは暖かくなれば働きに出たわけね。ずいぶん働きましたね。
魚の加工場は働く場所同じだったけど、季節で魚が変わっていくから、先輩について教わってね。働いたわけね。夏はカツオ。秋はサンマね。あとはその間にはいろいろあったのね。ワカメとかね。あとは海岸伝いにずうっとアサリが獲れたし、カキや、どっか海苔を採ってきて食べたり。
車のある人たちはみんな舞根の方までカキを獲りに行ったんだが、私はこの辺でアサリを獲ったんです。塩水までペットボトルさ入れて、この塩水で一晩砂ふかせて食べるんだぞ、なんて言って、アサリと一緒に塩水まで持たせたりしたもんだ。その塩水で、アサリが見事につの出すの。
真冬はね、縫い物とかね。お正月の準備はそれぞれその家その家によって家風があるからね。教わって男の人はおかずにするとか、女の人はおせちね。いまだら何万出せば高価なのを買えますよね。それをなに、ここはアワビもあれば、ね、タコもあればね、なんでも魚はあるし。そして食べたもんです。
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